いつかそうなるんじゃないか、って予感はしていた。
メリーは私には見えないものが見える。触れることができる。特別な存在だ。
対して私には何もない。ただ、特別な彼女を連れ回して不思議に触れようとしただけの、凡庸な人間。
自己中心的だなってずっと思っていたし、利用しているみたいな罪悪感も……たまに覚えてた。
けれど、それでも私はメリーの手を取った。何処か知らない場所へ行ってしまわぬようにと、縋るように、祈るように繋ぎ止めていた。いつか来る終わりに、メリーを、奪われないように。
けれど、結局のところ、ただの独りよがりだったみたい。
だって、メリー自身が私の手を振りほどいたのだから、私に何もできるわけがなかった。
……規則正しい心拍音な揺れと、くぐもった金属音。目を開けてみると、切れかけた旧式の電灯が薄暗く空席の座席を照らしていた。
どうやら私は、一番端の席で窓に頭を預けて眠っていたみたいだ。私はまだぼんやりする頭を抱えながら立ち上がり、辺りを見回す。
一瞬、以前乗った卯酉新幹線ヒロシゲの中かと思ったけれど、内装は一昔古い型の電車——ここに来た時に乗ったローカル線の車両に近かった。まあ、車内の寂れ具合は最終便のローカル線以上だけれど。
「一体ここは……」
つい口から溢れた疑問に、答えは帰ってこない。そもそも私以外誰も居なかった。
寂しさを通り越して、不気味な光景だ。まるで滅びた世界に、私が一人取り残されたような喪失感を覚えてしまう。
私は現実から逃げるように窓の外へ目を向け、そしてまた驚く。
そこには車内の明かりでも照らせない、深い闇があるだけだった。雲で隠れているのか月と星も一切見えない。たまに車内の明かりに照らされた小さな泡が写り込む程度で……
えっ、泡? 空中に、泡? まさか、この列車は……
「海の中を、走ってる……!?」
いや、あり得ない。ガラス張りの水中トンネル内を走っているって訳でもないのに、水の中を走るなんて……少なくともこんな旧式の、レトロ列車じゃ出来るわけない。そもそも線路は、レールはどうなってるの? 動力は? 安全性の問題は……
次々に解決できないはずの疑問が浮かんでいく。けれど、すぐに無意味だと気付く。あぁ、そうだ、そうだった。ここは夢の中だ。私は、メリーを助けようとして夢の中に入ったんだった。サナトリウムに、茨の森、そして海中を走る電車内……
「これで三回目……」
そういえば、あのパーカーの子が警告していたわね、次はないって。彼女を信用するわけじゃないけれど、どうもその言葉が気になってしまう。ううん、もしかしたらここに来た時点でもう手遅れなのかもしれない。なんて、暗い考えが過ぎる。
けれどすぐ首を振って頭から追い出す。まだそう決まったわけじゃないし、私が立ち止まれば、メリーは……
「早くメリーを探さないと」
私は揺れに気をつけながら一つ前の車両へ向けて歩き出す。
どうやらここは最後尾の車両のようだ。なら分かりやすい。後はどんどん前の車両に移っていくだけで、車内をシラミ潰しに探せる。まあ、海の中にいたら、どうしようもないけれど。メリーが人魚になっていないことを祈るばかりだ。
なんて冗談を考えながら、私は連絡通路の扉に手を掛け横に引っ張ろうとする。
「あっ……」
けれど、私は不意に振り払われた手の感触を思い出して、その場に立ち尽くす。もしこの先にメリーが居たとしても、私はもう彼女の手を取れない。取ってくれない。また拒絶されて、傷付くだけ。
……じゃあこのまま私だけおめおめと逃げ帰る? それは余りにも酷いし、情けない。たとえ私の手を取ってくれなくとも、メリーを見捨てる訳にはいかないわ。
ただ、歩き出すことは出来ない。私ではメリーを救えない。滑稽だ。はなから救う力も資格も持っていなかったくせに、こんなところまで来て……
ここにいるのが、私である意味はあったのだろうか?
「ウデ……ミギウデ……」
「ッ……!?」
唐突に低いしゃがれ声が、私を思考の暗い沼から引きずり出す。
反射的に振り向くと、車両の真ん中に小鬼が立っていた。血管が浮き出るほどに青黒い肌、穿たれた眼窩から覗く石のような眼球、最初の夢の中に出てきた奴だ。手には錆びついた草刈り鎌が握られていて、先から血が滴り落ちていた。一体あれで、何を切ったのだろうか……?
北斗と紫が救けてくれた時の血生臭さを鮮明に思い出してしまった。喉から吐き気が込み上げてくる。
またどこかへ引きずられてしまうのだろうか? そう考えると足が震えてくる。マズイ、まともに動けそうに、ない……! 恐怖で張り裂けそうな心臓を抑えて、荒い息を繰り返す。
……どれくらい経っただろうか? 前触れもなく小鬼がコキッと首を鳴らす。
「ウデ、ミギウデ……ウデ……」
「……腕?」
嗄れた声で、小鬼が呟く。その物騒な見た目に反して、うわ言のような……念仏を問えているような静かな声音だった。
腕というワードで連想されるのはあの黒ローブだ。無数の腕に引っ張られる感触と、闇の中へ引きずりこまれていく北斗の姿が頭に過ぎる。
ヤバい、逃げないと……殺される。いや、殺されるだけじゃ済まないかもしれない……!
けれど、目の前の小鬼から目を逸らしたらすぐさま襲われそうな気がして、走り出すことができない。
必死で震える足を引きずり、何とか背後の扉まで辿り着くけれど……振り向いて扉を開ける、最後の勇気がない。焦燥感が身体に纏わり付いてきて、また四肢が強張っていく。悪循環だ。
「ウデ、ヨコセ」
そんな時、カツンと甲高い音が走行音に混じりながら響く。薄い鉄を落としたような音。草刈り鎌の先で床を叩く音だった。
「ウバウ、ウデキリオトス、ウデ」
うわ言のような言葉の羅列を聞くたびに心拍数が急上昇していく。呼吸が上手く出来ない。酸欠で気を失ってしまいそうだ!
「ウデ、ウデオトスキルウバウヨコセウデヨコセウデウデウデウデミギウデウデウデヨコセウデッ!」
そして心拍が最高値に達した瞬間、小鬼が猛然とこちらに向かってくる。
それを目の当たりにして生存本能が反応した。背後の扉をあらん限りの力で開け放ち、連絡通路に逃げ込む。そして腕が千切れても構わないという勢いで扉を閉める。
間髪入れず扉に衝撃、身体が背後の扉に叩きつけられそうになる。小鬼が扉にぶつかってきたんだと小窓を見なくてもわかった。
「ッ! やめて……やめてよッ!」
必死に扉を抑えながら懇願する。けれど化け物が人の話を聞くはずもなく、扉を叩く音は鳴り止まない。
なんでこんな思いをしないといけないの……! 理不尽な状況に叫びたくなるけれど、そんなことしても状況は変わらない。
生き残るには、とにかく前の車両に逃げないと。辛うじて残っていた理性に尻を叩かれて、私は扉を抑えながら背後にあるドアを確認する。
「ウデ、ヨコセ」
絶句する。ドアの覗き窓に無数の鬼の顔が張り付いていた。私は挟み撃ちされて、小さな連絡通路のスペースに閉じ込められてしまっていた。
なんて酷いB級ホラーだ。次の展開なんてわかりきっているじゃない。
「もう、嫌だ……! 誰か助けてよ!」
誰も来ないってわかっているのに、それでも私は叫ばずにいられなかった。子供の様に叫んで、喚いて、呻いて……そして、疲れる。
気付けば私は連絡通路の足場に座り込んでいた。扉を抑えていた両腕も、力なく横たわっている。
「は……は……」
自分を嘲笑う気力もない。北斗や紫におだてられるがままこんなとこまで来た挙句、最初に逆戻り。結局、私一人じゃ行き着く先すら変えられない。
「もう、いっか」
私はそのまま目を瞑る。程なくして、私の右肩を抱く様に小鬼が引っ張る。あの土気色した腕に反して、意外と柔らかく暖かい感触だ。
連絡通路から引っ張り出され、私は車両の床を無造作に転がる。生温い泥の様に感触に私は薄っすら目を開けると、赤と黒に塗れた車両内の景色が見えた。
こんなに血が出てる。もう腕を切られたのかな。まだ全然痛くないけれど……
そう言えばさっきから騒々しい断末魔が続いている。そんなに煽らなくたって私は何も出来ないのに、私は再び目を閉じようとする。
「……目を開けろ蓮子ッ!!」
けれど、私を呼ぶ声がはっきりと聞こえて反射的に目を開ける。すると赤黒い血の海の中に真っ黒の衣装が見える。
左腕にはこれまたべっとりと血に染まった日本刀。外人の間違った日本知識で作られたスプラッタ映画の主人公みたいな奴が、残骸の中に立っていた。
彼は私に背を向けながら残った小鬼を牽制していて、顔は見えないけれど……その姿だけで誰だかすぐにわかった。
「北斗ッ!? 無事だった、の……」
喜びと安堵のあまり声を上げてしまいそうになるけれど、次の瞬間には言葉が出なくなってしまう。気付いてしまったのだ。本来右腕が通っているはずの袖の中に、何も入っていないことに。
そして嫌な予感が頭を過って、また血の気が引いていく。
「ほ、北斗、その腕……」
「大丈夫だから! 下がって、てッ!」
北斗はそう叫びながら飛びかかってくる小鬼の胴体を空中で串刺しにする。すぐさま足を使って胴体から刀を引き抜くと、返す刀で別の小鬼の首を切り落とす。電光石火の間だった。二体の身体から噴水の様に血が吹き出る。
鬼気迫る表情で北斗が一刀振るう度に腕が、首が、上半身が飛んでいく。足元の赤い水溜りが際限なく広がっていく。
今まで見た中でもっともグロテスクな光景な筈なのに……私は北斗から目を離すことができなかった。それは映画なんかよりも遥かに刺激的で、どこかの劇場でみたダンスよりも素晴らしく流麗だった。
「下がっててって言ったのに。まあ、怪我がないようでよかったよ」
……気が付けば、小鬼すべてを斬り捨てた北斗が、私の顔を覗き込んでいた。前と違って随分息が切れている。無理もない、むしろ利き手を失ってなおマトに戦えていることの方が異常だわ。
「北斗、わたし……」
どうやら私は、どれくらい時間が経ったかすらもわからない程ボーッとしていたようだ。あまりに刺激的で脳内の処理速度を超えていたのかもしれない。
私は上がり過ぎた心拍数を抑えようと、胸を押さえながら息を吐く。
しばらくそうしていると、ある時から急に目からボロボロと涙が溢れて出した。思わず顔を伏せ、両手で顔を覆う。
あまりにも突然だったので自分でも驚く。泣くことなんて何にも、何にも……ないのに!
「……ッ」
帰りたい、と言いかけた唇を寸のところでつぐむ。北斗の前でそれを言ったら私は二度と秘密と、不思議と、メリーと向き合えなくなるような気がした。言霊、みたいな高尚なものじゃなくて、私の根幹が折れてしまうような、予感。
……これからどうするかを、今考えちゃダメだ。メリーと話し合って二人で決めないと始めることも、終わることも出来ない。
どれだけ辛くても、どれだけ惨めでも、メリーを助けないと。
「立ち上がれる?」
頭の上から、優しい声が掛けられる。顔を拭って見上げると、北斗は私に背を向けてジッと前の車両を見つめていた。
次来る鬼を警戒していたのか、はたまた私のこんな無様な姿を見ないでいてくれたのか。わからないけれど、どちらにしろありがたかった。
「……大丈夫。ごめんなさい」
私は立ち上がり、いつの間にか脱げて床に転がっていた帽子を拾う。全身は血だらけなのに、帽子だけはまっさらで笑ってしまいそうになる。まあ、血の滴った手で触ったから変わらなくなったけれど。
私は帽子を被り直しながら、北斗の右隣に立つ。そして、おもむろに北斗の右袖を握り潰すが、やっぱり中に腕はなかった。
「北斗、その右腕は……」
「あぁ、二回目の夢の世界でちょっと油断してね。まあ、多分現実世界には影響ないだろうし、今のところ痛みも出血もないから、あまり気にしなくていいよ」
まるで擦り傷かの様に平然とそう言うと、北斗は刀を持った左腕を掲げながら笑う。けれど、それが逆に私の胸を締め付けた。誤魔化そうとしてくれてるけど、北斗がこうなったのは間接的に私のせいだ。私を夢の中から帰すために、こんな姿になって……
しかも、北斗は私ならメリーを救えると信じて助けてくれたのに、結局助けられなかった。思わず袖にすがりつくような姿で、私は北斗に頭を下げた。
「……ごめんなさい」
「蓮子が腕を取ったわけじゃないだろう? 悪いのは、この悪夢を仕組んだやつだ」
「そうじゃなくて。ううん、そのことも悪いと思っているんだけど。せっかく北斗が助けてくれたのに、私じゃメリーを助けられなかったから……」
「諦めるのはまだ早いよ。この奥にきっとメリーがいる。左手一本の俺じゃ刀を持つので精一杯だからさ、蓮子が手を取るんだ」
北斗はそう言うと、やんわりと私の手を解いて先の車両へ移ってしまう。私を気遣ってかその足取りはかなり遅い。けれど私は、すぐにその背中を追うことはできなかった。
気を利かせて上手いことを言ったつもりなのだろう。けれど、北斗は何もわかってない。たとえ両手が付いていても、私の手じゃメリーの手を取れないのに……いや、取る資格もなくなったというのに。
「蓮子、大丈夫か?」
気付けば北斗が扉の向こうから心配そうにこちらを見ていた。その顔にせっつかれて、慌てて車両を渡ろうとする。
「ッ……」
が、その一歩目を踏み出した瞬間、電車の揺れに足を取られてしまう。咄嗟に手すりを掴めたので転けはしなかったけれど……体勢が崩れて自然と窓の外に目が向く。
塗り潰された様な景色に依然変わりはない。けれど、その闇の奥で何かがこちら気がして、私は意図せず早足で北斗の背中に追いついた。
北斗と二人で何両か車両を渡り歩いてみたけれど、結局メリーの姿どころか人っ子ひとり、もとい小鬼一匹すら見つけられなかった。
簡単に見つかるとは思っていなかったけれど、つい焦ってしまう。車両内の、嵐の前の静けさの様な落ち着かない不気味さに耐えかねていると……急に前を歩いていた北斗が扉の前で立ち止まる。
「次は一番前の車両だ。何が起こるかわからないから、離れない様にね」
「何かって……」
北斗の背中越しに窓の向こうを見るけれど、まったく変わりばえのない無人の車内しかない。強いて違いを挙げるとしたら、奥に運転席が見えるくらいだけど……
「……北斗には、何か見えてるの?」
「いや、何も。ただ、俺達がメリーを探しているように、向こうも蓮子を探してる。だから、きっと何か仕掛けてくるはずだ。いや、そうじゃないと困る」
「向こう、って私の夢の中に居た、あの黒ローブのこと? なんで北斗じゃなく私を探して……」
「そりゃあ……俺はもう用済みだろうから、なっ!」
と、急に北斗が言葉尻に合わせて一枚、二枚と連絡通路のドアを開け放つ。すると、間髪入れずその向こうから小さな影が飛び込んでくる。
小鬼ッ!? ドアの死角に隠れていたの!? 思わず身体を強張らせてしまう。けれど、その次の瞬間には北斗が蹴りで小鬼を吹き飛ばしてしまっていた。
「こいつらは夢の中で、人間の右腕を集めている。俺の腕は奪われた。あとは蓮子のだけだ」
北斗は片足を上げたままそう言うと、何事も無かったかの様に最前の車両の中に入っていってしまう。そして、もののついでかのようなぞんざいさで床に転がり悶える小鬼の肩を踏みつけ、刀の切っ先を喉元に突き刺す。
……あまりに平然とトドメを刺すものだから、反応する暇もなかったわ。あと、サラリと物騒なことも言われた。
まあ、さほど驚きはしない。最初に襲ってきた小鬼も私の四肢を切り取ろうとしたし、何より被害者がそういうなら間違いないだろう。ただ気になることがあった。
「ちょっと待ってよ北斗。腕を集めるなんて、そんなことをする必要があるの? ここは夢の中なんでしょう? 現実には影響ないのに、何が目的で……」
「さあね。そこら辺は本人に直接聞いてみないと」
「直接って……あの黒ローブに? 流石に冗談が過ぎるわ。あの妖怪腕よこせとマトモに話が出来るとは思えないけれど」
「……ま、とりあえずやってみないとね」
私が苦い顔をしているのを他所に、北斗はピクリとも動かなくなった小鬼を前方に蹴り出す。小鬼が転がった後の床に、ミミズが這ったような赤い線が引かれていく。
前触れもなく死人に鞭打つような所業をし始めたものだから、困惑していると……転がり続けていた小鬼の身体が急に止まる。いや、黒ローブから伸びた白く艶かしい足が、小鬼を受け止めていた。
私は思わず息を飲む。ずっと頑なにローブで隠され続けていた素顔が、今になって露わになっていた。二つのシニョンで纏められた桃色の髪、桜の花弁のような唇、鋭く細められた丸っこい目……そして、北斗と同じく、失われた右腕。
「で、そこのところどうなんですか華仙さん?」
……まさか、ずっと男だと思っていた黒ローブの中身が、綺麗な女性だとは思ってもみなかった。