紫の作った空間の中、私は祈るように両手で蓮子の手を握っていた。ううん、実際祈っていた。蓮子が目覚めることを。
「本当に蓮子は大丈夫なの? 起きるわよね、死なないわよね!?」
「大丈夫だって言っているでしょう? ただの貧血で狼狽え過ぎよ」
紫は呆れた様に言う。頭ではわかっていた。北斗がしっかり手当してくれたのもこの目で見守った。それでも私は蓮子の手を離せなかった。
まるで操り人形の糸が切れたような倒れ方だった。もう二度目を開けないんじゃないか。そんな想像が私の思考を埋めて、頭が働かない。
「蓮子……ねぇ蓮子!」
ただすがるように蓮子の手から伝わる体温を感じていると、背後からため息が聞こえた。同時に私のすぐ目の前にスキマが現れ、蓮子を飲み込む。
声を上げる暇もない。私の手から蓮子は離れ、いなくなってしまう。残ったのは空を切る手の感触だけだ。振り返ると、紫が冷ややかな目で私を見下ろしていた。
「彼女は別の空間で安静にさせるわ。私の式に世話をさせるから、死にはしないでしょう」
「……紫!」
「何を動揺しているか私にはわからないけれど、貴女がずっとああしていてもあの子の傷は治らないわよ。それに今はこんなことをしている場合じゃないことくらい分かっているでしょう?」
私が怒りの視線を向けても紫はあくまで理性的に話を進めていく。まるで人工知能と話しているかのような空虚感に、私は唇を噛んだ。
スキマの空間に気まずい空気が漂う。それをかき消すように、北斗が落ち着き払った声で呟く。
「……二人とも落ち着いて」
「けど蓮子が……」
「メリー、スキマの中は絶対安全だ。少なくともこい……メリーさんに狙われることはない。それに紫さんの式は優秀だ、悪いようにはならないよ。今は紫さんを信じてくれないか?」
私は北斗の根拠のない懇願に迷うけれど……渋々と頷く。
直接見たわけじゃないけれど、北斗はずっと蓮子を守ってくれていたみたいだ。ボロボロの衣服と頭と掌に巻かれた包帯が物語っている。そんな彼に諭されては私も引き下がらずにはいられなかった。
彼はそんな私の様子に一瞬表情を緩めるけれど、すぐに顔を引き締めて紫に向き直る。
「……紫さんもらしくないですよ。ムキになり過ぎです」
「そんなことは、ないわ。私は至っていつも通りよ」
「………………」
「………………」
紫と北斗はしばらく鋭い視線を交錯させていたけれど、ほどなくして北斗が折れた。小さく息を吐き、間を取る。
「……とにかく拠点に戻って状況を整理しましょう。その間に冷静になってください。お互いに、ね」
その後、私達は紫のスキマに送られ拠点の居間に戻った。そのまますぐに話し合うのかと思ったのだけれど、北斗はすぐにリビングを出て行ってしまう。
おかげで私と紫はリビングに二人っきりだ。仲裁をしておいて何処かに消えてしまうなんて……無責任だ。
「はぁ……」
私は内心で北斗を非難しつつ低反発のソファに沈み込む。対して紫はリビングの方ではなく障子で仕切られた和室に正座し、扇子を弄んでいる。
当然だけれど私と彼女との間に会話はない。話しかけられても困るからそれ自体はいいのだけれど、今すぐ部屋に戻ってベットに跳び込んでしまいたかった。
気まずい空気に耐えながら窓の外を眺めていると、雲行きが怪しくなっているのに気づく。夕暮れも迫り部屋も暗くなってきた。
「本当に、遅いわね……」
私は独りごちながら部屋の明かりを付けようと立ち上がると……同じタイミングでリビング入口から北斗が現れる。ボロボロになった服は着替えたようで、ポロシャツにジーンズといった服装に変わっていた。
北斗は私達の様子を察したのか、明かりをつけてから早足にソファへ腰掛ける。
「待たせてごめん。ちょっと試したいことがあってね」
「試したいこと……?」
「あぁ……はい、これ」
北斗はジーンズのポケットから何かを取り出すと、私に差し出した。それは万年筆……の形をしたスマホだ。見間違えるわけがない。蓮子のものだ。私はそれを奪い取って北斗を睨みつける。
「なんで貴方が持っているの!?」
「都市伝説のメリーさんにこっちからかけてみようと思ってね。まあ、繋がらなかったけど。メリーから返してやってくれ。もちろんプライベートなところは極力覗かないようにしたけど……まあ、信じられなくても仕方ないな」
「………………」
……あっけからんと言われた言葉に、反応することができなかった。こんな状況なのに平然としている。それが私には空恐ろしく思えた。
私の瞳でも北斗は普通の人にしか見えない。なのに彼は私以上に一線を画した存在に思えてならなかった。しかも、よりはっきりと特別な力を持っている紫よりも強烈に感じてしまうのだから不思議だ。
北斗はさらに弁解を続ける。
「ついでにメリーさんから電話が掛かってくるかも待っていたんだが、結局掛かってこなかった。要は特定のスマホを持ってる人を攻撃しているわけでも、彼女と電話をしたから襲われるってわけではなさそうだ」
「……そのために蓮子のスマホを?」
「悪いと思ってる。今度からはパスワードを掛けとくように言っといてくれ」
「盗人猛々しいわね」
我ながら随分刺々しい口調になったけれど、北斗は気にした様子もなく机の上に地図を広げ始める。
感情的にならない冷静な判断力、迷いのない迅速な行動力、そして出会って一日も経たない人を庇える自己犠牲の精神……彼が味方であることはとても頼りになる。
けれど、なんだか怖い。死にそうになる恐怖とは違う……未知の存在への恐怖を感じてしまう。それに引き摺られたのか、私は自然と口を開いていた。
「……貴方は本当に人間?」
「えっ……」
私のあまりにも突拍子な質問に北斗は目をパチクリさせる。無理もない、私自身驚いていたのだから。慌てて口を押さえるけれどもう手遅れ。心の中でほんの一瞬浮かんだ問いが勝手に口から出ていた。
お互いに呆けてしまっていると、その一連の様子を見ていた紫が堪えきれなくなったように吹き出す。
「ぷ……ふふ……! アハハッ! とっても面白いわメリー! 北斗の顔も傑作よ! まさに豆鉄砲を喰らった鳩の様だわ」
「紫さん……!」
「答えてあげなさいな。私も貴方の答えが気になるわ」
紫は畳の上を笑い転げながら言う。対して北斗は苦々しい表情を浮かべていた。
慌てて質問を取り消そうとするけど、それを制したのは……意外にも北斗自身だった。自分を落ち着かせるように息を一つ吐き出してから、意を決したように呟いた。
「……俺は人間だよ。誰かは違うっていうかもしれないけど、少なくとも俺はそうあろうとしている」
様々な含みが込められた回答だ。力強いのだけれど、言葉の端々に物悲しさが滲み出ている。
人間であろうとしている、その言葉が示す意味。現代から零れ落ち幻想郷に拾われた彼が、現代に帰ってきて何を思っているのか。その一端が、ほんの僅かに見えたような気がする。
「……変な質問をしたわ。ごめんなさい」
「いや……」
私が申し訳なさのあまり謝ると、北斗は静かに首を振った。
……きっとこの答えは今の北斗本人を現しているのだろう。強さと影。この姿が彼の本質なのか、上辺の仮面なのかは分からないけれど……この言葉は彼自身への印象を変えるには十分のものだった。
先程の台詞が恥ずかしくなったのか、北斗はわざとらしい咳払いを繰り返してから喋りはじめた。
「俺の話はこれくらいにして、始めましょうか。まずはメリー……都市伝説のメリーさんの行動と、俺と蓮子が取った行動を洗っていこうと思います……いいですか紫さん?」
「ええ、当事者だもの。進行は貴方に任せますわ」
紫が机の上、地図を真上で見下ろすようなところから境界に肘をかけるように現れる。わざわざ人を驚かすような移動をしなくても、立ち上がって歩いてくればいいのに……
なんて内心で愚痴りながらメモとペンを取り出していると、北斗が地図に一筆書きの線とバツ印を書き終える。
「まずは情報を纏めましょう。少しうる覚えですが、俺達が逃げた逃走経路がこれです。2時過ぎ頃からメリーさんの電話が始まって、とにかく距離を取ろうとして大体30キロメートル以上走りましたが、メリーさんは突然蓮子の後ろに現れました」
「走行中の自動車に乗ってきた訳ね。それも物理的な壁も距離も無視して。私のお株が取られちゃったわ。メリーさんのこの能力に名前を付けるなら『電話を掛けた相手を追いかける程度の能力』ってとこかしら?」
「程度の能力って……瞬間移動が?」
紫の暢気な表現に私は納得しかねた。
確かにどこにでも移動できるらしい紫からしたら下位互換といえなくもないけれど……私の能力も『結界の境目が見える程度の能力』なんて思われているのかしら? それはともかくとして……
「けれど、北斗がスマホを持っていても電話は掛かってこなかったし、こっちから電話も掛けられなかったのよね。それはどういうことなのかしら? 私達を警戒しているとか?」
「『彼女の性格を考えたら』それは無いと思う。可能性としてあるのは……あ」
「彼女の性格……?」
私は北斗の発言に眉をひそめる。どうやら今度は失言をしてしまったようだ。しまったと顔をしかめ……そして諦めの溜め息を吐いた。
紫もイタズラがバレた子供のような苦々しい顔をしながら腕を組み境界にしなだれ掛かる。私はすっかり口を閉じてしまった二人に向かって尋ねる。
「もしかして二人は、都市伝説のメリーさんの正体を知ってるの?」
「……いつもの甘さが出たわね、北斗」
「すみません……」
紫に叱られ、北斗はなすがまま頭を下げた。これが答えみたいね。二人は都市伝説のメリーさんを知っている。しかも、性格がわかるほどの関係……少なくとも話したことがある、程度ではないでしょう。
「この話し合いはお互いに情報を共有するのが目的でしょう? 教えてよ、貴方の知っているメリーさんについて」
北斗はしばらく俯いたまま氷漬けになったように固まっていたけれど、不意に息を吐きながら立ち上がる。
一瞬逃げるのかと思ったけれど、彼はリビング出口ではなくカウンターキッチンに立った。
「わかった、話すよ。ただ話すなら蓮子にも話しておきたい。一旦この話を中断することになりますけど……いいですよね、紫さん?」
「ええ、いいわよ。一人だけ仲間外れは可哀そうだもの。けれど、くれぐれも彼女を安易にスキマから出さないようにね」
「わかってます。俺からの挑発に乗らないってことは、きっとまだ蓮子を狙っているでしょうからね。しばらく……場合によってはこの件が終わるまでスキマで過ごしでもらうことになるかもしれません」
この件が終わるまで!? 私は思わず絶句してしまう。二人とも蓮子のことを守るために言ってくれているのはわかるけれど、それにしても極端だわ……
まるで蓮子を独り占めされているように思えるのは……我ながら気持ち悪いわね。
……とりあえず蓮子をどうするかは北斗の話を聞いた後で考えましょうか。私はあまり書き込むことのなかったメモを閉じて、ソファに横になる。今日はいろんなことがあり過ぎて疲れてしまった。私は睡魔の誘惑に身を委ね、意識を埋没させた。
仮眠から目覚め北斗特製の夕食を頂いてから、しばらくして私達は再びリビングに集まっていた。
相変わらず私と紫との間には微妙な空気が流れている。板挟みの北斗も半ば諦めたようで、ただ静かに冷たいお茶を淹れてくれるだけで私達には一切話しかけようとしなかった。
それにしてもわざわざ沸かしたお茶を冷やしてから出したけれど……粗茶にそこまでする必要あるのかしら?と、ふと隣の空間から湯飲みに向けて手が伸びる。私は呆れながら湯飲み取りその手に手渡した。
「命が狙われているのに呑気ね。……もう大丈夫なの、蓮子?」
「ええ、ちょっと貧血になっただけだもの。傷も大したことないし全然平気よ」
心配する私に蓮子は『境界の中』から作り笑いを浮かべ応じる。大丈夫だと言っているけれど、どうも普段より顔色が悪い気がする。
主観的な見え方の違いか、はたまた本当に体調が優れていないのか……気になって仕方なかったけれど、その前に北斗が話を始めてしまう。
「さて、どこから話そうか」
「じゃあ、単刀直入に。都市伝説のメリーさんを貴方は『こいし』と読んでいたわよね。彼女は何者? どういう関係?」
蓮子がはっきりとした口調で聞く。ド直球な質問だ。北斗も苦笑いを浮かべている。
けれど、これでいい。小賢しい腹の探り合いをする必要なんてない、私達から踏み込んでいかないと意味がないわ。この話は決して情報のやり取りだけが目的じゃない。私達の今後の距離感を決める重要な会話だ。
「北斗……貴方はどこまで『こいし』を知っているの?」
誰だって隠し事がある。私だって蓮子に隠していることがあるし、きっと蓮子も私に言えないことがある。
大事なのはどれだけ容認できるかだ。これからの活動で紫と北斗をどれだけ信用していいか……境界を決めないといけない。私と蓮子の二人で。
そういった趣旨を理解しているのかどうかはわからないけれど、蓮子はいい質問をしてくれたわ。北斗は前のめりになるようにソファに座り直して……おもむろに語り始める。
「彼女は、古明地こいしは元々幻想郷にいた妖怪……心を閉じた覚妖怪なんだ」
「サトリ……妖怪?」
蓮子は口をへの字にしながら首を傾げる。
蓮子は日本生まれの癖に意外と妖怪を知らない。その割にウィングキャットは知ってるみたいだけれど。斯く言う私もマイナーな妖怪に一瞬戸惑ってしまう。けれど、確か覚妖怪は……
「心を読むことができる妖怪のことよね。猿や河童、天狗の姿で語れるけれど……普通の女の子にしか見えなかったわよ?」
「あー、うん。幻想郷の河童も天狗も女の子だから……そういうものだと思ってくれ」
「それはそれで釈然としないけれど。それより、心を閉じた覚妖怪ってどういう」
「待って、メリー」
私の質問を蓮子が押し留める。何事かと思い振り向くと、蓮子が境界の向こうで考え込んでいた。眉間に皺を寄せながら右手の甲を口に添えている。そして数秒目を瞑ってから……
「北斗、お昼に妖怪には妖怪を信じる人間が必要って言ってたわよね」
「あぁ、そうだ」
「その時は気付かなかったけれど、現代に妖怪を信じる人間なんていない。居てもごく少ないわ。なのに……『どうして妖怪が現代に存在していられるの?』」
……確かにそうだ。どうして気付かなかったのかしら!
矛盾している。幻想郷は忘れ去られた妖怪が生き残るために、妖怪を信じる人間を現代から隔離して作られていると北斗は言った。現代の科学から遠ざけるために。
けれど、確かにこの時代で絡新婦と覚妖怪、そして八雲紫が存在している。これはおかしい。
私は咄嗟に北斗と紫を交互に見遣る。二人に動揺の色は見られない、不気味なほど落ち着き払っている。蓮子はゆっくりと目蓋を開くと、すべての色を飲み込んだような黒色の瞳を北斗に向けた。