五線譜にラブソングを ~ Story of Maki 作:Kohya S.
誰かと誰かの人生が交わるとき、そこには出会いと別れがある。すべての曲に始まりと終わりがあるように――。
夏休みに入ったばかりのある日の夕方。
教室は視線をさえぎる高さの
私服の生徒も目立ったが、部活――スクールアイドルグループの練習だ――を終えて直接、塾に来た真姫は、半袖ブラウスに青系統のチェックのスカートという学院の制服姿のままだった。
真姫は指定された区画へ向かった。
片方の机にはやはり私服の男子生徒が座り、参考書らしき本を広げていた。真姫が来たのを見て、ちらっと顔を上げる。
「こんにちは……」
真姫は小声であいさつした。
「……こんちは」
彼もぼそっとこたえた。
真姫は席に座った。今日が塾に通い始めて二日目だが、まだ慣れない。鞄からテキストや筆記用具を取り出して準備する。
まったく、私が塾に通うなんてね……、と真姫は思う。
一学期の期末テスト、英語で68点を取ってしまったことは、真姫にとってもすくなからずショックだった。
春から始めたスクールアイドルがその理由であることは明らかだった。
スクールアイドルグループ・
仲間との歌や踊りの練習は楽しかったし、なんの役にも立たないと思っていた趣味の作曲もグループの曲という形で生かすことができて――真姫の曲はメンバーにも受けがよかった――真姫はここ数か月の日々に充実感を覚えていた。
ただ、放課後も練習して、帰宅すれば疲れから早く寝てしまう――そんな日々で、成績が下がりがちになるのは仕方がなかった。
とはいえ、いままではどの教科もクラスでも一、二を争う成績だっただけに、真姫に油断があったのも否定できなかった。
点数は両親にも知られてしまい、ひどく叱られた。父親からはスクールアイドルをやめろとまでいわれ、真姫は一時はμ'sからの脱退も覚悟した。結局、
もちろん、真姫としても、勉強をおろそかにできないことはわかっていたし、そのつもりだった。
そこで、自分から両親に希望して、夏休みからとりあえず英語だけ、塾に通い始めたのだった。
――しかし、真姫は驚いていた。父親のつてで、大手ではなく、地元密着型の小規模な個別進学塾を選んだのだが、教室がこんなにも雑然としているのは意外だった。
個別指導っていうから……もっと、こう、個室とかで静かにやるのかと思ってたわ。先生と一対一のコースじゃなくて、生徒ふたりのコース、選んじゃったし。これなら家庭教師のほうが、いいんじゃないかしら……。
一対一のコースは授業料がかなり違っていた。自分の家庭はどちらかといえば裕福なほうだとは思っていたが、真姫は自分からいい出しただけに、そこは我慢するつもりだった。
真姫はため息をついた。隣の席の生徒がちらっと彼女のほうを見る。なによ、別に邪魔になるほどじゃないでしょ、と思う。
真姫は目をそらして右手で髪の毛を払った。すこし赤みがかったボブのストレートヘアがふわりと舞った。
授業開始を告げるチャイムが鳴った。席を離れていた生徒たちも戻る。
講師たちが教室に入ってきた。
「こんにちは、
真姫のパーティションにも講師の男性が来て頭を下げた。
「よろしくお願いします」
真姫はこたえる。
一対二とはいえ講師は毎回の授業を通して同じで、そこが個別指導ということらしい。初めての塾とあって真姫はどんな授業になるのか不安だったが、それを知ったときには多少は気が楽になった。
最初の授業では講師がどんな人なのか緊張したが、あらわれた若い男性――
学院にも男性教諭はいるがほとんどは年かさで、真姫は彼と同年代の男性に教わる機会がなかった。もし高圧的だったらどうしよう、と身構えたのだがそれは
大久保先生は、学校の先生より、むしろ気さくな感じかしら。前回の授業も、わりとわかりやすかったし、ね。
講師は変更もできるそうだが、しばらくはこのまま授業を受けてみようと思っていた。
「西木野さんは先にテキストを進めてください。田波君は、宿題を見てみましょう」
大久保はそういってキャスター付きの丸椅子に座り、隣の生徒――田波の横へ移動した。
「えーと、宿題は分詞構文についてでしたね……」
大久保はそういいながら、持ってきたバッグからテキストや辞書を取り出していた。
真姫は机に向き直りテキストを開いた。事前にすこし目を通してあったので特に迷うことなく進めていく。
真姫は隣の席に目をやった。大久保は広い背中を見せながら、机にかがみこむようにして田波と話していた。
彼は白いシャツにグレーのスーツで、前回の授業も同様だった。
彼はわりと小柄で、高校一年生としては背が高いほうの真姫と、同じくらいの身長だろうか。どちらかというと小太りだ。年齢は、あまり大人の男性と話す機会のない真姫にはよくわからないものの、二十代なかばくらいではないかと思われた。
一区切りついたのか大久保が体を起こした。真姫はあわててテキストに向き直る。
彼は丸椅子に座ったまま、床を蹴って真姫の隣へやってきた。
「お待たせしました、西木野さん」
彼が白い歯を見せた。丸顔にやはり丸い鼻が特徴的だった。真姫はその優しそうな顔立ちにどことなく見覚えがあるような気がして、好感を抱いていた。
彼は髪をショートカットに整え、ドット柄のネイビーのネクタイをしめていた。
「よろしくお願いします」
真姫はあらためて頭を下げた。
「それでは、まず宿題から見ていきましょうか」
「はい」
真姫はテキストとノートを開いた。
「失礼しますね」
彼はそういって真姫のノートを確認していく。
「……うーん、よさそうですね」
彼はうなずいた。真姫はほっとする。彼は顔を上げた。
「なにか難しかったところとか、ありましたか」
「いえ、大丈夫です」
真姫はそう答える。向こうの席の田波がちらっとこちらを見た気がした。
「そうですか。なんでも聞いてくださいね」
そういって大久保は真姫に微笑んだ。そうするともともと愛嬌のある顔立ちが、さらに人懐っこく見えた。
真姫はそれにうながされるように思わずいう。
「あ、その……」いったん頭を整理して続ける。「この文章、日本語だと『彼は知っていたので』なのに、英語だとHavingを使わないのはどうしてですか?」
真姫にはなんとなく答えはわかっていたが、つい聞いてしまった。
なぜか話しやすいのよね。聞き上手、っていうのかしら……。
真姫の質問に彼は腕組みをした。
「あー、そうですね。ここで、彼がそれを知ったのは、当然、このときより前のことですよね。知ってるわけですから」
「はい」
「わざわざ過去完了を使わなくても、過去のことだ、というのが明確ですね。ですから、現在進行形でいいわけです」
だいたい真姫の考えていた通りだった。
「ありがとうございます」
「でも、時制をよく理解していて、いい質問ですね」
彼はもう一度、真姫に笑いかけた。真姫もそれにつられおずおずと笑みを浮かべた。
「では、テキストを進めていきましょうか……」
そのあと真姫はテキストに集中した。ときどき疑問があると大久保に質問したり、また大問が終わると彼が概要を説明してくれたりした。
大久保は丸椅子をふたりの生徒のあいだで行ったり来たりさせながら、授業を進めた。
田波の席にいた大久保がちらっと壁の時計に目をやった。
「……そろそろ時間なので、次の宿題を見ておきましょう」
そう話しているのが聞こえてきた。
真姫は切りのいいところまで終わらせた。田波と話し終えた大久保が真姫のところへ移ってきた。
「西木野さん、テキストのほう、なにかわからないところとか、ありますか」
「えっと……大丈夫そうです」
「そうですか」彼はにこりと笑った。「さっき説明した個所、復習しておいてくださいね。では次回の宿題、簡単に説明しておきましょう」
「はい」
「次は不定詞について、ですね……」
彼の声は低めで落ち着いた雰囲気だった。真姫はともすると音楽的な響きを感じた。
ちょうど話し終えるころチャイムが鳴った。
「……では、次もよろしくお願いします」と彼。
「ありがとうございました」
大久保は田波にも声をかけてから立ち上がった。衝立に立てかけてあったバッグを取って授業道具をしまう。
あれ、音符……と真姫は思う。
大久保が手にしたグレーのトートバッグには大きく音符のマークがプリントされていた。
ひょっとして先生、なにか楽器でもやってるのかしら……。
教室のなかは騒がしくなっていた。真姫は一瞬、彼に話しかけようかと
「それでは、失礼します」
真姫はつられてお辞儀をする。
彼はそのまま振り返ると出口のほうへと歩いていった。
真姫はまた、ため息をついた。田波がちらっと彼女のほうに視線を送った。
・
μ'sの練習に塾通いと真姫の夏休みは忙しくなりそうだった。
数日後にはμ'sのメンバーで合宿をおこなった。行き先は海辺にある真姫の別荘で――真姫にとってはなんということもないのだが――メンバーは別荘の存在それ自体に加えて、豪華さにも感銘を受けていた。
合宿では練習だけでなく、昼は海水浴、夜は枕投げと定番のイベントで盛り上がった。絵里の提案で先輩後輩の区別なく名前で呼びあうことにもなり、メンバーの連帯はより深くなった。
・
合宿から帰ってきた翌日。μ'sの練習は休みで、真姫は午後から塾の予定を入れていた。
真姫は準備をして家を出た。今日は私服で、ネイビー系のチェックの半袖シャツに白いスカートをあわせていた。シャツは前で結んでいる。
よく晴れていた。うだるような暑さのなか真姫は日陰をひろいながら歩いた。塾は御茶ノ水駅のすこし先にあり自宅からは十分ほどだ。短い距離だが真姫は汗が噴き出してくるのを感じた。
大通りで信号待ちをする。道路には陽炎が浮かんでいる。いきかう人もみな、けだるげに歩いていた。
交差点を渡ってひとつ奥のブロックの角、オフィスビルの二階に塾が入っていた。
ビルのなかは冷房が心地よかった。階段で教室へ上がる。
真姫は指定されたパーティションへ行き席に座った。テキストなどを鞄から取り出す。三日目ともなると、だいぶ慣れてきたわね、と思う。
すこしして隣の席には見覚えのない女子生徒が座った。
しかし、暑かったわ……。そう思いながら、真姫は上着のボタンをひとつ外して、汗が引くように胸元をパタパタと前後させた。
チャイムが鳴った。真姫はすこしぼーっとしながら、そのままパタパタを続けていた。
「こんにちは、西木野さん、
真姫は突然の声に我に返った。あわてて胸元を整える。
「よ、よろしくお願いします」
真姫は机に向かったままそう答えた。あとにして欲しい、という真姫の願いが通じたのか大久保は隣の女子生徒の席に向かった。
真姫はほっとしてテキストとノートを開いた。
見られちゃったかしら。でも、どうってことないわよね……。下着までは見られてないと思うし……。
真姫の顔が赤いのは暑さのせいだけではなかった。
しばらくして大久保が真姫の席へ椅子に座ったまま移ってきた。
「よろしくお願いします。それにしても、暑いですね」
彼は愛想よく笑った。ただ、そういう彼はあいかわらずスーツ姿で――今日は紺のスーツに白ワイシャツ、ダークベージュのネクタイだ――その格好でそれをいうの、と真姫は思った。
「西木野さんは、一週間ぶりですね」彼は続けた。
「……お友達と、海に行ってきたので」
意識する前に言葉が口を出ていた。
「それはいいですね」
彼は口元をゆるめた。真姫はあわてて目をそらした。私、なに親しげに話してるのかしら、と思う。
「それで、宿題のほうは……」
「それはもう、ばっちりです」
真姫はすこし語気を強くして、テキストを彼に押しやった。
「拝見しますね……」
そのあとの授業はなにごともなく進んだ。終了の時刻が近付く。
次週の予定を確認したあと、大久保は真姫にいった。
「西木野さんは、ずいぶん進むのが速いですね」
「ありがとうございます」
まあ念のため塾に通うことにしたようなものだし……当たり前かしらね。
そう思いながらも真姫は嬉しかった。
「すこし学習計画を見直したほうが、いいかもしれませんね」
彼の言葉に真姫はうなずく。
「次回あたり、考えてみましょうか」と彼は微笑んだ。
「お願いします」
真姫は頭を下げた。
ちょうどチャイムが鳴った。
「それじゃ、西木野さん、近江さん。今日はここまでにしましょう」
大久保は席を立った。
「ありがとうございました」
真姫がいうと隣の席の女子生徒も声をあわせた。
彼は先日と同じ、音符のプリントされたバッグを手に取った。
あ、あのバッグだわ、と気付く。真姫はまた悩んだが――結局なにもできないまま、彼は背を向けて教室から出ていった。
真姫は首を振って授業道具をしまい始めた。
μ'sに入って、人見知りもすこしずつ減ってきたと思うんだけど……まだまだかしら、ね。もうちょっと、積極的になったほうが、いいのかな……。
・
数日後のある日、メンバーの都合でμ'sの練習は午前中だけだった。
「真姫ちゃん、
部室で練習着から制服に着替えながら
「別に、予定はないけど」
真姫はこたえる。塾の予定も今日は入っていない。
「よかったらお食事でも、どうかなって」と花陽。
「凛は、もちろんオッケーだよ」
先に着替え終えていた
花陽と凛は真姫と同じ一年生だ。三人とも同学年で、μ'sに加わったタイミングも一緒ということもあり、部活以外でも行動を共にすることは多かった。
「いいわよ」
真姫はうなずいた。
着替えを終えた三人は他のメンバーにあいさつしてから部室をあとにした。
音ノ木坂学院を出て学院前の長い階段を下りていく。
晴れた空にはいくつか雲が浮かんでいた。先日までの熱波はおさまったものの、夏らしい暑さは続いていた。
「凛は、ラーメンが食べたいニャ」
跳ねるように階段を下りる凛。
「またラーメンなの……」
真姫はすこしあきれたようにいう。
高校入学前はほとんど食べたことのなかったラーメンたが、凛のせいでここのところずいぶん食べる機会が増えた。真姫は嫌いではなく、むしろ気に入ったのだが、この暑さではちょっと遠慮したいのが本音だった。
「あの、すこし歩いてみて決めようよ」と花陽。「なにかいいお店が、あるかもしれないよ」
「そうね」
真姫は同意した。
三人はなんとなく秋葉原のほうへ向かった。
途中、大きな複合施設の隣を歩いていく。今年オープンしたばかりで高層ビルと中層ビルからなり、オフィスや商店などが入っている。たしか小規模なホールもあったはずだ。真姫も何度か来たことがあった。
最近の施設らしくビルの周りには大きく緑地が広がっていた。
「あれ、真姫ちゃん、なにか聞こえない?」
花陽が首をかしげて耳を澄ますそぶりをした。
真姫と凛も立ち止まる。そういえば生演奏らしいメロディーが聞こえてくる。
「あっちから、みたいだよ」
凛は複合施設のほうへ、たたっと駆け出した。
「待って、凛ちゃん」
あわてて花陽が追いかける。真姫もあとを追った。
音楽は二棟のビルのあいだ、ガラス張りのスペースから聞こえてきているらしい。凛はそこへ通じる階段を上っていく。
階段を上り終えるとそこはちょっとした広場だった。壁に加えて天井もガラスで明るい空間になっていたが、隣の高層ビルのおかげか日光はさえぎられているようだ。
その広場の一角に人垣ができていた。スーツやシャツ、ブラウス姿も多く、オフィスの昼休みにちょっと立ち寄った、という雰囲気だった。
人垣の端にいた凛の横に、花陽と真姫も並ぶ。
そこでは数人からなるバンドが演奏をおこなっていた。エレキギターとキーボード、ドラムにベースという構成だった。
「かっこいいニャ」
凛は片足でリズムを取っている。曲は真姫もよく知っている洋楽の定番曲だった。
真姫はバンドのわきの掲示に気付いた。どうやら地元の有志がおこなっているランチタイムコンサートらしい。
三人はしばらく聞き入った。
曲が終わり、三人はほかの観客と一緒に拍手をおくった。
演奏していたメンバーが下がっていった。次のバンドにかわるらしい。
「ありがとうございました。続きまして……」
ステージわきでスタッフらしき女性がアナウンスする。
続いて数人のグループが仮設の演奏スペースにあらわれた。楽器はさきほどとほぼ同じ構成だが、管楽器を手にしたひとりが加わった五人組だった。管楽器の男性は楽器から伸びるコードをなにかにつないだ。キーボードは女性らしい。
「では、よろしくおねがいします」とアナウンス。
バンドメンバーは人垣に向かってお辞儀した。
管楽器の男性は白いシャツにグレーのスラックスだった。ネクタイはしめていないが、やや小柄で――。
「あれ、もしかして……」と真姫はつぶやく。
大久保先生? あの体形だし……間違いないわよね……。
ドラムが拍子をとり、キーボードとギターが続く。イントロが終わると大久保がメロディーを吹き始めた。サックスに似た透明感のある音色だった。
真姫は偶然の出会いに驚きながら聞き入った。
「真姫ちゃん、知り合いなの?」
花陽が顔をのぞき込むようにして聞いた。
「知り合い、というか、塾の先生よ……」
真姫は上の空でこたえた。曲名はわからないが、どこかで聞き覚えがあった。真姫はあまり聞かないジャンルの曲だが――ジャズとも微妙に違うようだ――軽快でまさに夏の一日にふさわしかった。
やっぱり音楽、やってたんだわ……。真姫は思わず微笑んだ。
「この曲もかっこいいね」と凛。
「うん、楽しくなるね」
花陽も目を輝かせていた。
大久保はスペースを歩いてバンドメンバーと目を交わしたりしながら、楽しそうに
次の曲が始まる。今度は一転してゆったりとしたバラードだった。キーボードと管楽器の掛け合いが美しかった。
こっちも素敵な曲ね……。先生にあってないような、あってるような……。そんなこと考えたら、失礼かしら。
真姫は笑みを深くした。大久保はときおり目を閉じて演奏していく。
やがて曲が終わり、三人はまた拍手をした。
バンドのメンバーはあいさつをしてからスペースを去った。
「本日はランチタイムコンサートにお越しいただき、ありがとうございました……」
アナウンスのなか、人垣がゆっくりとばらけていく。
「こんなことやってたんですね」
花陽がコンサートの案内のパネルの前でいう。
「そうね、意外だわ」
真姫はうなずいた。先生が、まさか演奏までしてるなんて、と思う。
「夏休みじゃないと、こんな時間に来れないもんね」と凛。
真姫は花陽の言葉を誤解していたことに気付いた。急いでいう。
「え、ええ。昼休みに、ここまで来るのは無理よね」
「楽しかったです」
そういう花陽に真姫も同感だった。
「せっかくだから、このなかで食べていこっか」と花陽。
「うん、そうするニャ!」
凛が笑った。
三人は吹き抜けの広間から、ビル内の店舗に向けて歩き始めた。
・
翌日の夕方。μ'sの練習のあと、真姫は塾に向かっていた。日が落ちるとさすがに暑さもやわらいでいた。
教室へ入り自分の席へ向かう。
いつかの男子生徒が――たしか田波だ――先に来ていた。今日は制服姿だった。真姫も見たことがある制服で、近くの私立高校の
「こんにちは」
真姫は一応、あいさつする。
「こんちは」と彼は顔を上げてこたえた。
真姫は授業道具を準備する。
「西木野さん、だっけ」
突然、田波が話しかけてきた。真姫はびっくりして彼に目を向けた。
「ええ、そうだけど」
どうしてもぶっきらぼうになる。田波はやせぎすで、真姫は神経質そうな印象を受けた。
「部活の帰り?」
「そうよ」
「ふーん、俺もなんだ」
「あらそう」
真姫は短く返した。きっと田波は会話の糸口を探しているのだろうとは思ったが、それにこたえる意義は感じなかった。
田波は眉を上げてなにかいいかけたようだが――結局なにもいわなかった。
真姫は机に向き直った。
チャイムが鳴った。
「お待たせしました、田波君、西木野さん」
すこしして大久保があらわれた。今日もスーツ姿だった。彼は先に田波の席に行き指導を始めた。
真姫は彼のバッグに目をやる。前回までと同じく音符柄だった。
今日は話しかけてみようかしら……。この前のコンサートのことも、聞きたいし。
しばらくして彼が椅子ごと真姫のところへ来た。
「西木野さん、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「それで、今日ですが……終わってからすこし、時間、取れますか」
「はい、大丈夫ですけど……」
なにかしら、と真姫は思う。まさかコンサートの件じゃないでしょうけど……。
「今後の学習計画について、話しましょう」
「わかりました」
あ、そういえば、と思い、真姫はうなずいた。誤解したことが恥ずかしくなる。
「では、宿題を確認しましょう」
彼の言葉に応じて真姫はテキストを見せた。彼がページを眺めていく。
ふと、彼のほうからふわりと柑橘系の香りがした。制汗剤かコロンだろうか。真姫はなぜか胸がどきりとした。
「はい、よさそうですね」
彼の声で真姫は我に返った。
「……なにか疑問に思ったこと、ありましたか」
「えっと」真姫は口ごもって目を落とした。「……特に、ありません」
「なんでも聞いてくださいね」
彼は微笑んだようだった。
「それでは、テキストを進めましょうか」
「はい」
真姫は気を取り直してシャープペンシルを手にした。
・
授業が終わり真姫は大久保の案内で相談室へ向かった。相談室はフロアの一角に何室かあって、天井までの仕切りでわけられていた。仕切りは一部ガラス張りで、中のようすは見えるものの声は漏れないようになっていた。
大久保が扉を開け、片手で押さえて真姫を通した。
「どうぞ」と椅子を示す。
「失礼します」
真姫は足をそろえて座った。彼も向かいに腰を下ろした。バッグからなにかの資料を取り出す。
「西木野さん、夏休みからの開始ですが、順調ですね」
彼は資料を見ながらいった。
「ありがとうございます」
「目立って苦手なところもないようですし……。全体的にペースを上げていきましょうか……」
真姫と大久保はしばらく話して計画を立てた。受験英語も先取りすることにして、すこし学習量と宿題が増えることになりそうだが、いまの感じだと問題ないだろう。
「それでは、次回もよろしくお願いします」
彼は頭を下げた。真姫も応じる。
彼が資料をバッグに片付けていく。真姫は思い切って口を開いた。
「あ、あの!」
思いのほか大きな声になってしまい真姫は顔を赤らめた。
「はい、なんでしょう」
彼は真姫に笑みを見せる。
「……えっと、授業と関係ないんですけど……」
一転して小さな声の真姫。
「ええ、どうぞ」
「……先生、音楽に、興味あるんですか?」
真姫は上目遣いで聞いた。彼は驚いたように目を丸くした。
「はい、そうですね。趣味で、楽器とかすこしやりますけど。……どうしてそれを?」
「……昨日、御茶ノ水のお店で、コンサートでお見かけしたんです」
「ああ……」
彼は下を向いて頭をかいた。
「お恥ずかしいですね。仲間と、たまにやってるんですよ」
「あの……すごく素敵でした」
「ありがとうございます」
彼は顔を上げて微笑んだ。
μ'sのみんなは音楽好きだと思うが、楽器を演奏しているようなメンバーはいない。思わぬところで同行の士を見つけた真姫の心は我知らず、はずんでいた。
「私も、音楽、趣味なんです。ピアノを弾いたりとか」
真姫は勢い込んで話した。
「西木野さんも、演奏されるんですね」
「はい」
彼は面白そうに真姫を見つめる。ちょっといいすぎたかしら、と真姫は思う。
「あの、あまり自信、ないですけど……」
今度は真姫が下を向いた。
作曲もしてます、とまではいわなかったから、マシよね……。
「音楽、いいですよね。……今度、おすすめの曲とか、教えてくださいね」
彼はそういって腰を上げた。真姫もあわてて席を立った。
部屋を出る前に真姫は気になっていたことを聞いてみる。
「そのバッグも、やっぱり……ご自分で選ばれたんですか?」
「ああ、これは……」彼は苦笑した。「スーパーのエコバッグ、なんですけどね。まあでも、柄が気に入って使ってるので……そうなのかもしれません」
エコバッグと聞いて真姫は拍子抜けしたが――それでもそれは、彼によく似合っているような気がするのだった。