五線譜にラブソングを ~ Story of Maki   作:Kohya S.

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2. 興味

 次の日の昼。真姫たちμ'sのメンバーは午前中の練習を終えて、学院の中庭で弁当を広げていた。

 練習は屋上でおこなっているのだが、さすがに夏の日は暑い。中庭の木陰は風が通りいくぶん涼しかった。

 

「そういえば、この前のお昼、御茶ノ水の新しくできたビルに行ったんですけど……」

 おにぎりをひとつ食べ終えた花陽がいった。

「ランチタイムコンサート、っていうの、やってました」

「かっこよかったニャ」と凛。

 真姫もうなずく。

 

「おおっ、面白そうだね!」

 二年生の高坂(こうさか)穂乃果(ほのか)がパンを食べながらいった。

「穂乃果、食べるか話すか、どちらかにしなさい」

 箸を置いて、同じく二年の園田(そのだ)海未(うみ)がたしなめる。

「えへへ、ごめん」

 

「それって、無料なの?」

 三年生の矢澤(やざわ)にこが聞いた。

「ええ、広場でやってました」花陽がこたえる。

「たぶん、CSR活動の一環だと思うわ。だからオフィスの人たちが来られるように、あの時間なのよ」

 真姫は補足した。

「CSR……ってなによ」とにこ。

「企業の社会的責任、やね。さすが真姫ちゃん、難しい言葉、知っとるね」

 三年生の東條(とうじょう)(のぞみ)が真姫に笑いかけた。

「べ、別に、たまたま知ってただけよ」

 真姫は照れくさくてつんと顔をそむけた。

 

 真姫は中学時代からあまり友人と親しくしてこなかったし、また両親も彼女ならできて当然だという態度だったので、称賛の言葉を受け取るのに慣れていなかった。こんなときも、どうしても素直になれずつい一歩引いてしまう。

 ただ仲間はそんな真姫をわかってくれているようで、真姫はそれが心地よかった。

 

「それで、私たちも、似たようなことできるんじゃないかな、って思うんです」と花陽。

「でも……わたしたちでいいのかな。えっと、満足してもらえるかな」

 二年生の(みなみ)ことりが心配そうにいう。

 たしかにμ'sは九人揃ってからまだ二か月足らずだ。校外でのライブも秋葉原での一回しかない。

 

「出ていたかたは、アマチュアバンドみたいでした」

「うん、だから、凛たちでも平気だよ」

 花陽と凛の言葉に真姫はコンサートを思い出した。大久保の演奏はなかなか堂に入ったものだった。

「結構、うまかったと思うけど」

 つい口に出していた。

「そうだね、真姫ちゃん」

 花陽が笑いかけた。

「あ……でも、私たちも、もうすこし練習すれば、大丈夫だと思うわ」

 真姫はあわててそう付け加える。

 

「オフィスなら、中学生の親御さんも、いるかもしれないわね」と三年の絢瀬(あやせ)絵里(えり)。「学院のアピールになるかもしれないし……すこし考えてみましょうか」

「いいねいいね!」

 穂乃果が大きくうなずいた。

 

 そのあとは食事を続けながら、もしやるとしたらいつならできるか、どの曲がいいかなどと盛り上がった。

 

        ・

 

 数日後の夕方、真姫は練習後に塾に向かった。

 塾の建物につきそのまま教室に入ろうとして、思いついてトイレに立ち寄った。個室に入って制汗剤をスプレーする。

 個室を出て鏡をのぞく。すこし吊り目気味で紫がかった瞳の少女が見つめ返していた。髪も乱れていないしリップも上品に輝いている。

 これでいいわ、と微笑んだ。

 

 やっぱり、多少は気にしなきゃね……。

 

 自分のパーティションにつくと先に田波が来ていた。無視するのもさすがにまずいかと思い、「こんにちは」という。田波も応じた。

 

 チャイムが鳴ると大久保があらわれた。今日もスーツ姿で例のバッグを手にしていた。

「よろしくお願いしますね、田波君、西木野さん」

 いつも通り授業が始まった。

 

 今日から若干、一日に進む量が多くなっていたが真姫はとくに問題なくこなした。

 翌週の宿題を確認して授業は終わった。真姫にとってはすこし残念なことに大久保と私語を交わす機会はなかった。

 真姫はそのまま帰ろうとしたが、田波が席に残っているのが気になった。

 

 自意識過剰だと思うけど……帰りがけに話しかけられたりしたら、嫌よね。ちょっと自習室でも行ってみようかしら……。来週の宿題も、見ておきたいし。

 

 塾の紹介のときに自習室も案内されたがいままで行ったことはなかった。塾が開いているときには自由に使えるらしい。

 

 教室から自習室へ。そこには机と椅子が並んでいた。ひとつずつの机は教室よりも低い衝立で仕切られ、隣の席が気にならないようになっていた。三分の一ほどの席が埋まっている。

 ふーん、こんな感じなのね。そう思いながら真姫は適当な席に座った。

 

 テキストを取り出して宿題に目を通していった。いったん席についてしまうと意外に集中できたが、ときおり物音や人の気配が気になるのは否めなかった。

 

 やっぱり、自分の部屋のほうが落ち着くかしら。

 

 真姫は適当なところで切り上げた。

 帰りしなにちらっと教室をのぞくと次の授業が始まっていた。田波の姿はなかった。

 

 塾を出ると外はすっかり暗くなっていた。暑さが引いたことにほっとして真姫は歩き始めた。

 途中、大通りで信号待ちをする。

 なんとなく振り返ると白いシャツの男性が歩いてくるのが見えた。やや横幅が広めのその姿は、大久保だった。

「先生……」

 真姫はつぶやいた。彼も気付いたのか真姫に近付いてくる。

「こんばんは、西木野さん」そういって笑った。

「こんばんは」

 真姫は頭を下げた。

「いま帰りですか。気を付けてくださいね」

 彼は一礼をして右へ――駿河台下のほうへ歩いて行こうとした。

 

「あ……」

 真姫は彼のあとを追っていた。左隣を歩く形になる。

 彼が真姫のほうを見て眉を上げた。

「えっと、こっちからでも帰れるので……」

「そうですか」

 彼はまた微笑んだ。

 真姫は地面を見ながら歩いた。彼も無言だった。

 

 私、なんとなく、ついてきちゃったけど……。変に思われないかしら。なにかいわなくちゃ……よね。

 

 真姫はちらっと彼に視線をやった。左手にはブラウンの鞄を持っている。例のエコバッグは塾のなかでだけ使っているのだろう。

 そして右肩には黒くて細長い鞄をかけていた。

 真姫はピンときた。たぶん管楽器のケースだろう。長さはだいたい1メートル弱というところだろうか

「あの、それって、もしかして楽器ですか」

「ええ、そうです。……よくお気付きですね」

「コンサートのときのと、サイズが似てたので……」

 真姫はいったん言葉を切った。

 楽器を持っていることはもしかして……と思う。

「……これから演奏ですか?」と聞いてみる。

「はい、ちょっと頼まれて、友人の店で」

「素敵ですね」

「いや、BGMがわりですよ」

 彼は白い歯を見せた。

「……なんてお店なんですか?」

「ラミリーズっていうんですけど……夜は、あまり高校生には、向かないかな」

 

 また沈黙がおとずれた。ふたりはゆるい坂を歩いていく。

 

 そういえばコンサートのときの楽器、ちょっと不思議だったわね。金管じゃないみたいだし……。

 

 真姫もジャズやクラシックで使われる楽器は一通り知っているつもりだが、当てはまりそうなものは思いつかなかった。

 

「どんな楽器、なんですか? サックス、とも違いますよね」

 思い切って聞いてみた。

「ああ……」彼はなんとなく照れくさそうだった。「イーウィ……ウインドシンセサイザーってやつです」

 真姫は聞き覚えがなかった。首をかしげていると彼が続けた。

「うーん、なんていったらいいのか……。電子楽器なんですけど、音程は指で、息の強さが音の大きさになるんですよね」

「へえ……そんな楽器、あるんですね」

「マイナーですけどね」

 彼は頭をかいた。彼のほうがずいぶん年上なのにもかかわらず、真姫はそのようすが可愛く思えた。真姫はくすりと笑った。

「今度、見せてください」

「そうですね」

 彼は白い歯を見せた。

 

 また会話が途切れたが、今度はあまり気にならなかった。

 

 駿河台下の交差点のすこし手前で彼はいった。

「それじゃ、ここで。西木野さん、お気をつけて」

「はい、先生も」

 真姫はぺこりと頭を下げた。

 彼は目礼すると細いわき道へ入っていった。真姫も自宅へと足を向けた。

 

 共通の趣味について――演奏のこと、楽器のことを話すことができて、真姫はすこしだけ彼との距離を近く感じた。

 

 ウインドシンセサイザー、ね。ちょっと調べてみようかしら……。

 

        ・

 

「そろそろラブライブの予選が近付いてきたわけだけど……」

 練習前の屋上。全員がそろったところで絵里がいった。

「そっか、もう八月だもんね」

 穂乃果がうなずく。

 

 ラブライブは全国のスクールアイドルが競い合うコンテストで、いわばスクールアイドルの甲子園ともいうべきイベントだった。μ'sも開催の話を聞いてからというもの、出場、そして上位入賞を目指して努力していた。

 九月にはまず地方予選が開催されることになっていた。

 

「そろそろ準備、はじめないとやね」と希。

「曲はどうするのよ」

 にこが腕組みをする。

 花陽がスマートフォンを確認した。

「えっと、特に制限はないみたいです。カバーでも、オリジナル曲でもいいみたい」

 

「……どうせなら、新しい曲がいいな」穂乃果がみなを見渡す。「せっかくのラブライブだし、ね」

 そういって目を輝かせる。

「凛も、賛成だニャ」飛び跳ねる凛。

「その前に学園祭もありますね。そこでも披露できるかも」

 ことりがいう。学園祭は夏休み明けで、μ'sもステージを予定していた。

 

「でも、そうなると……」

 絵里が真姫と海未を見やった。

 μ'sのいままでの曲は海未が作詞、真姫が作曲を担当することがほとんどだった。メンバー全員の視線がふたりに集まる。

 

 真姫は海未に目をやった。海未は真姫の視線をとらえ、かすかにうなずいた。真姫もうなずき返す。

「そうですね。ちょっと、考えてみます」

 海未は微笑んだ。

「し、仕方ないわね。考えてみなくもないわ」

 真姫はそっぽを向いた。仲間に頼りにされるのは嬉しかったが、まだそれを率直におもてに出すのは恥ずかしかった。

 

 メンバーにほっとした空気が広がった。

「やったニャー!」

 凛が真姫に抱きついてきた。

「ち、ちょっと、凛、暑いわよ」

 真姫は凛を振りほどこうとするが、決して本気ではなかった。

 

「まあ、ふたりだけに任せておくのは悪いわね」とにこ。

「私たちも曲について考えてみましょう」

 絵里の言葉にみな、うなずいた。

 

        ・

 

 数日後、練習を終えた真姫と海未のふたりは、学院近くのファーストフード店で向きあっていた。話題は新曲についてだ。

 メンバーの話し合いでは穂乃果の提案もあり、目標に向かって努力しているμ'sらしさを出したい、とまとまった。

 

「μ'sらしい曲、っていっても、難しいわよね」

 真姫は髪の毛を右手の指先でくるくるともてあそぶ。

「はい。いままでの曲も、μ'sらしいといえばそうですし……」

 海未も考え込む。

 海未はストレートの長い黒髪に白い肌の美少女で、まさに大和撫子という形容がふさわしかった。(うれ)いを帯びたようにうつむくその姿は、真姫がどきりとするほどだった。

 

「ただ……」海未が顔を上げる。「穂乃果の姿を見ていると、なにか思いつきそうな気がします」

「たしかに穂乃果、元気いいわよね」

 真姫はそういって笑みを浮かべた。

「ええ」

「今度の曲……スタートダッシュのあとの、大ジャンプ、って感じかしら」

「そうですね」

 海未はくすりと笑った。

 

 ふたりともμ'sの最初の曲、「START:DASH!!」を思い出していた。あのときは海未の詞に真姫が曲を付けたのだった。

 

「……今度は私が先に、曲を作ってみていいかしら」

 真姫は思い切っていってみた。

「はい、もちろんです」

 海未はにこやかに微笑んだ。

 

 ふたりは一緒に店を出て家路についた。

 

「よろしくお願いします」

「なるべく早めに、上げるわ」

 別れぎわの交差点でそう会話を交わした。

 

 自宅までの短い道のりを歩きながら真姫は思い起こす。真姫が海未と一緒に曲を作るのはもう四曲目だった。

 海未は中学生のころから詩を書いていたそうだが、彼女の外見や雰囲気に反して歌詞はポップで明るかった。ギャップを考えると真姫はいつも顔がほころんでしまう。

 それはいつも前向きで――まさにμ'sにふさわしいと真姫は思うのだった。

 

 きっと今回もそんな歌詞になるんでしょうね。……作曲、頑張らないと、ね。

 

        ・

 

 翌日は塾のある日で、真姫は練習後に塾に行った。教室に入る前に制汗剤をスプレーするのは忘れなかった。

 隣の生徒は今日は見覚えのない女子生徒だった。真姫はほっとした。

 

 真姫はあのあと、ウインドシンセサイザーについてネットですこし調べてみていた。

 何種類かあるらしいが、彼がいっていたように決してメジャーな楽器ではなさそうだった。ただ、動画サイトには演奏もアップロードされており、キーボードなどと違って思いのほか表情豊かなことには興味がわいた。

 

 時間通りにあらわれた大久保はいつものようにスーツ姿だった。授業はなにごともなく進み――とくに私語を交わす機会もなく、終わりの時間を迎えつつあった。

 

 この前のこと、話題にも出さないのね、と真姫は寂しさを感じた。そしてすぐにそれを打ち消した。

 

 私、なに馬鹿なこと考えてるのかしら。ちょっとお話ししただけじゃない。

 

 真姫は隣の生徒のところにいる彼に聞こえないように、ちいさくため息をついた。

 

 終鈴が鳴った。

「お疲れさまでした、西木野さん、逢沢さん」

「ありがとうございました」

 真姫は大久保に一礼した。

 

 真姫がいつものように授業道具を片付け始めると、残っていた大久保が彼女に声をかけた。

「西木野さん、このあと、あいてますか」

「はい、大丈夫ですけど……」

 また学習計画のことかしら、と思いながら応じる。

「えっと……」

 彼は隣の生徒に聞こえないようにか、声を落とした。照れたように続ける。

「楽器、持ってきてるんですけど、ご覧になりますか?」

 真姫は言葉を失った。

 

 たしかにこの前、立ち話をしたときに、見せてくださいといったことは記憶していたが――大久保がそれを覚えていて、かつ実行に移してくれるとは思ってもいなかった。

 驚きのあとには、心に温かいものがこみ上げてきた。

 

「は、はい! よろしくお願いします」

 真姫は勢いよく立ち上がり頭を下げた。隣の席の生徒が驚いたように彼女のほうを向いた。

「それじゃあ……うーん、相談室でいいかな。先に行っていてもらえますか」

 彼の笑顔に真姫はうなずいた。

 

        ・

 

 真姫は複数あるうちの一番端の相談室を選んだ。

 椅子に座って待つ。窓からはすっかり暗くなった外のようすが見えた。

 

 かちゃりと扉が開く音がした。真姫が視線を戻すと大久保が入ってきた。いつもの音符柄のバッグを持ち、肩からは真姫が先日も見た、しっかりとした布でできた黒いケースを下げている。

 真姫は腰を浮かせかけたが彼は手で制した。真姫の向かいの椅子に座る。

 

「本当は、相談室を私用で使っちゃまずいのかもしれませんけど……」

 ケースのファスナーを開きながら彼が苦笑した。

「……でも」

 真姫は思いついていう。

「もし、私が将来、音楽関係の仕事を選ぶとしたら、進路に関係しますよね」

 真姫は笑みを浮かべる。

「そうですね」

 彼も笑った。

 

「こんな感じなんですけど」

 彼は机の上に楽器を置いた。真姫はまじまじと眺めた。

 

 それは全体的には棒状で、側面がシャンパンゴールド、上面と下面が黒と、二色で塗りわけられていた。銀色のキイが上面に並んでいる。

 長さは真姫が知っているストレートのソプラノサックスと同じくらいで、六、七十センチほどだろうか。ただ、サックスと異なりレバーはなく、キイがあるだけで、すっきりとしていた。一端に白いマウスピースがついている。

 真姫は楽器というよりも、なにか機械的なものを感じた。

 

「とりあえず……吹いてみましょうか」

 彼はバッグのなかを探した。真姫が疑問に思いながら見ていると、彼はヘッドホンを取り出した。イヤホンではなくて頭からかけるタイプだ。

「これだけだと、音が鳴らないんですよね」と楽器の本体を示しながらいう。「かけてみてもらえますか」と真姫にヘッドホンを差し出した。

 真姫はうなずいて受け取り、装着した。位置を調整する。

 

「まあ、どこでも練習できて、便利なんですけど」

 彼は背後を気にしてから楽器を手に取った。彼の広い背中なら外から見えることはないでしょうね、と真姫は思った。

 彼はヘッドホンからのケーブルを楽器につないだ。そして裏側についていたネックストラップで楽器を首からつるすと、両手を構えた。

 そしておもむろにマウスピースを口にくわえた。

 

 彼が息を吹き込むとともにヘッドホンから音が聞こえ始めた。

 まずはロングトーン。音色はサックスに似ているがやはり電子音のような雰囲気が感じられた。そしてアルペジオ。

 いったん彼が口を離す。真姫に微笑むと、もう一度吹き始めた。

 今度は真姫も知っているジャズの名曲だった。

 

 電子楽器といえば真姫もキーボードなら日常的に弾いている。しかし彼の吹く音は、それとは異なりしっかりと表情がついていた。

 

 音は機械っぽいのに、なにかしら……すごく、温かみのある感じ……。

 

 真姫はしばらく聞き入った。

 

 彼が演奏を終えた。真姫は顔を上げて微笑んだ。

「あの……すごく素敵でした」

「ありがとうございます」

 彼の声はヘッドホン越しにくぐもって聞こえた。

「こんなことも、できますよ」

 彼はそういうと、楽器をなにか操作した。彼が息を吹き込むと金管系の音が響いた。そしてまたさわると、今度はギターのような音色。

「いろいろできるんで、重宝されるんですよね」

 

 彼が首から楽器を外した。真姫もヘッドホンを外して机に置いた。

「あの、ありがとうございました」

 そういってお辞儀をする。

「いえいえ」彼は首を振る。「すみません、でしゃばっちゃって」

「私こそ、無理にお願いして……」

「……吹いてみますか?」

 彼はいたずらっぽく笑った。

「えっ……」

 真姫は興味はわいていたものの――いきなりのその言葉に戸惑いを隠せなかった。

「……でも」

 

 それに……間接キス、じゃない。

 

 真姫はほのかに頬を染めて下を向いた。

 彼はあわてたようにいった。

「ああ、すみません。やっぱり、気にされますよね」

 彼はバッグからウェットティッシュを取り出した。マウスピースを丁寧に()く。

 そして真姫の顔色をうかがうように首をかしげた。

 

「あの……試してみて、いいですか」

 真姫は思い切って口を開いた。

 

 せっかく、先生がいってくれたんだし……。断ったら悪いわよ、ね。

 

 真姫は自分にそういい聞かせた。

「はい、ぜひどうぞ」

 大久保は嬉しそうだった。

 

 真姫は机越しに彼から楽器を受け取った。思ったよりもずっしりとしている。

「結構、重いので、ストラップは下げたほうがいいですね」

 その言葉にしたがってストラップに頭を通す。

「首と、右手の親指、口で、支える感じですね」

 彼が机をまわって真姫の隣に来た。

「右手の親指を、ここにあててください。左手の親指はここで……」

 真姫はいわれた通りに構えた。いつかと同じ柑橘系の香りが鼻をくすぐった。彼の指が真姫の指に触れて、真姫はどきりとした。

 

 楽器は真姫の胸の前で落ち着いた。

 

「リコーダーは、やったことありますよね」

「はい」

「運指はほとんど同じなので……。あとは息を吹き込むだけです」

 

 真姫はどきどきしながらマウスピースをくわえようとして――。

「あっ……」

 ヘッドホンをしていないことに気付いた。

「ああ、そうですね」

 彼がヘッドホンを真姫にかぶせた。

 

 真姫はあらためてマウスピースを口に含んだ。すべての指をキイにあててゆっくりと息を入れてみた。

 耳からドの音が聞こえてきた。息を強くすると音も大きく、弱くすると小さくなった。

 

 とりあえず音が出たことが楽しくて真姫は彼に微笑んだ。彼も笑い返す。

 

 ドレミ――と指を運んでみた。音がついてくる。意外に簡単じゃない、と真姫は思った。

 次に弾き慣れている曲を思い出して――「愛してるばんざーい!」の冒頭を吹いてみた。感じは悪くなかったが――途中で息が苦しくなってしまった。

 マウスピースをはなして、はあっ、と息をつく。

 

 彼がヘッドホンを外してくれた。

「息が抜けないんですよね。そのへんだけ、コツがいるんです」

「……難しいですね」

「でも、なにか演奏してましたね。さすがです」

 彼が目に称賛の色を浮かべた。

「いえ、そんな……このくらいなら、誰でもできると思います」

 真姫は首から楽器を外してゆっくりと机に置いた。

 

「ピアノのほかに、なにかやってるんですか?」と彼。

「いえ、ほかには……」

 なにもやってません、といおうとして思い出す。いま、私が夢中になっていることは……。

「あの……」真姫は恥ずかしくて目を落とした。「楽器じゃないんですけど……スクールアイドル、やってます」

「へえ、スクールアイドル……聞いたことあります。部活でアイドル活動、やるやつですよね」

「はじめたばっかり、ですけど……」

「西木野さんなら、似合いそうですね」

 彼は目を細めた。

 

「あの、今日はありがとうございました」

「こちらこそ、マイナーな楽器なんで、興味持ってもらえると、嬉しくて……すみません」

 そういう彼の丸顔は子供っぽく見えた。

 彼はウェットティッシュを取り出すともう一度マウスピースを拭いた。そして楽器をケースに戻した。

 

 その楽器は今日、最初に見たときよりも無機質な印象がやわらいで、なにか生気を吹き込まれたかのように思えた。

 

        ・

 

 真姫は塾を出て帰路についた。通りを歩きながら塾でのことを思い出す。

 

 大久保先生、まさか持ってきてくれるなんて、思わなかったわ。ずいぶん恐縮してたけど……。

 

 真姫はくすりと笑った。また、スクールアイドルのことをつい話してしまったことも考える。

 

 私、先生に自分のことをもっと知ってほしかった、のかな。先生、似合いそうって言ってくれたけど……どこまで本気なのかしら。……お世辞よね、きっと

 

 自分にそういい聞かせながらも、彼の言葉は真姫の心に響いた。

 そして、彼が最後にいっていたこと。

 

『高校生にはすこし値が張ると思いますけど……もしよかったら、そのうち、試してみてくださいね』

 

 いまはアイドルだけで精一杯だけど……いつか落ち着いたら試してみてもいいかしら。真姫はそう思った。

 

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