五線譜にラブソングを ~ Story of Maki 作:Kohya S.
メンバーはそれから学園祭を目指して練習を続けた。
そしていよいよ迎えた学園祭当日。天気はあいにくの雨だった。
ライブ会場として屋上しか押さえられなかったメンバーは悩んだが、穂乃果の決断でライブを実行した。
一曲目として新曲「No brand girls」を披露したμ's。会場は盛り上がった。
しかし曲が終わったとき、悲劇が起きた。体調を崩していた穂乃果が倒れたのだ。
ライブはそのまま中止になってしまった。
穂乃果が倒れたのは、学園祭とラブライブに向けたプレッシャーで、彼女がひそかに猛練習をしていたためだった。
メンバーたちは穂乃果の不調に、そして穂乃果のプレッシャーに気付けなかったことを反省し、ラブライブへの出場辞退を決めた。
また、真姫は知らなかったのだが、ときを同じくして、ことりが海外に留学することも明らかになった。
穂乃果は幸い数日で回復したのだが、これらの事実は彼女に大きな衝撃を与えた。
彼女はμ'sを、スクールアイドルをやめると宣言して――μ'sは活動休止状態におちいった。
・
真姫は、穂乃果の宣言にはショックを受けたものの、不思議と彼女を責める気持ちは起きなかった。むしろいままで、彼女はがんばりすぎていたのだと思う。
みんな、表立っていわないけど、やっぱり穂乃果が引っ張ってたのよね。私たち、それに甘えてたんだわ……。
とはいえ、真姫は悩んでいた。スクールアイドルを続けるかどうかについて、だった。
にこと花陽、凛は、活動を続けるといった。真姫も直接、誘われこそしなかったが――心は揺れていた。
私、いままで、音楽なんて役に立たないと思ってた。でも、私……自分の曲で、メンバーみんなが喜んでくれるのが……そのだけじゃない、見に来てくれた人が喜んでくれるのが、好きよ。
それに、あれだけパパにいったのに……負けを認めるみたいじゃない。
さまざまな想いを抱えながら、真姫は急に時間に余裕のできた学院生活を送っていた。
そんなある日の放課後、真姫は塾へ向かった。
教室に入り、いつものように自分の席を探す。
隣には田波が来ていた。「こんにちは」とだけ機械的にあいさつする。田波は「こんちは」と返した。
真姫は椅子に座って準備を始めた。
勉強はスクールアイドルとは関係ないはずなのに、なぜか身が入らなかった。
すこしぼーっとしながら待っていると、大久保があらわれた。
「今日もよろしくお願いします。田波君、西木野さん」
彼は相変わらずの笑顔を見せた。ダークブラウンのスーツだった。
彼は先に田波の宿題を確認してから、真姫のところへ椅子を動かしてくる。
「西木野さん、お久しぶりです」
学園祭とそのあとのごたごたで真姫は塾を二回ほど休んでいた。
「すみませんでした」
真姫は頭を下げる。
「いえ、学校行事もあるでしょうからね。自分のペースで大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
真姫は目をそらしてから、思い切って小声で付け加えた。
「あの……作曲、うまくいきました。先生のおかげです」
「ああ……」
彼はいいよどむ。
「えーと、なにもしてないですけど。それはよかったです」
ちょっと困ったように微笑んだ。
真姫はお礼がいえたことに安堵を覚えた。先生はなにもしてないっていうけど、私が助かったのは、たしかだから……と思う。
授業が始まった。真姫は気持ちを切りかえて、目の前のテキストに集中した。
チャイムが鳴った。
「それでは、今日はここまでにしましょう」
久しぶりの授業は意外なほど短く感じた。
まわりの生徒たちが片付けをはじめたり、立ち上がって休憩に行ったりしている。
「西木野さん」
テキストを閉じた真姫に、椅子に座ったままの大久保が話しかけた。
「はい」
「……あの、ライブの動画、見ましたよ。μ's、ですよね」
「えっ」
思わぬ言葉に真姫は頭のなかが真っ白になった。どうして先生が……という思いが駆け巡る。
「すみません。あまりこういう話、しないほうがいいですか?」
黙ってしまった真姫に、彼はすこしあわてているようだ。
「だ、大丈夫です」
そういいながら真姫は自分の顔が赤くなるのを感じた。
ライブの動画――学園祭のライブも動画は公開されていたはずだ。それかしら、と思う。
「……でも、どうして知ってるんですか……」
真姫は目をあわせることができずに机を見ながらいった。
「この前、西木野さんが作曲してるって聞いて……。ちょっと音ノ木坂学院とスクールアイドルで、検索してみたんです。……余計なお世話でしたね」
彼は頭をかいた。
「いいえ、その……嬉しい、です」
「『No brand girls』、西木野さんが作ったんですよね」
真姫は無言のままうなずいた。
やっぱりあの動画、なのね。曲は、悪くないと思うのよ。でも、あんな格好で踊ったりしてるのに……。覚悟してたけど、面と向かっていわれると……その、すごく、恥ずかしいわね。
それに、よりによって、先生に見られちゃった、なんて……。
頬の赤みが増していくのがわかった。彼はそんな真姫に気付かないのかそのまま続けた。
「すごくよかったですよ。なんというか……元気いっぱいで……」
思い出すようにいう彼。真姫は彼のほうを向く。
「ダンスもよかったし……。西木野さんも、みんなも、すごいですよね」
「ありがとうございます」
彼の言葉は真姫の心に暖かく広がった。……私、この気持ち、大事にしたいわ……。そう思う。
「これからも、がんばってください」彼は微笑んだ。
「……はい」
真姫もおずおずと笑顔を浮かべた。
「それでは」
彼は頭を下げると椅子から立ち上がった。
真姫はμ'sが活動を止めていること――もしかしたらそのまま解散してしまうかもしれないことは、どうしても口に出せなかった。
それでも自分の曲を受け入れてくれる人がまたひとり、ここにもいてくれた。そう感じると、アイドルへ想いは一段と強くなるのだった。
・
数日後、ことりが海外へ旅立つ日。
穂乃果は、にこや絵里たちメンバーの姿を、行動を見つめることで自分のやりたいことに気が付き、ふたたびアイドルを始めることを決めたのだった。
穂乃果はことりを強引に引き留めて――ことりも本当はそれを願っていたようだった――μ'sは元通り九人でよみがえった。
なによ、私、いろいろ悩んでバカみたいじゃない。真姫はそう思ったが、穂乃果の決断は素直に嬉しかった。
その日、音ノ木坂学院の講堂での復活ライブは大成功だった。
・
真姫の生活は元通り忙しくなった。しかし二学期の中間試験も近付き、勉強もおろそかにはできなかった。
その日も真姫は放課後、塾へ通った。
「西木野さん」
指定された席につき授業の準備をしていると、話しかけてくる男子生徒がいた。田波だった。
「なに?」
真姫はぶっきらぼうに返事をした。田波は自席を離れて真姫のすぐ隣に立っていた。
「ていうか、真姫ちゃん、っていったほうがいいのかな」
田波は薄い唇のはしを上げて笑った。
「……」
あんたに名前で呼ばれる筋合いはないけど、と真姫は無言で彼を見返した。
「スクールアイドル、やってるんだって。μ'sだっけ」
「だからなによ」
「結構、人気あるみたいだね。すごいじゃん」
称賛の言葉ではあったが、彼の口から出たそれは、真姫にはまったく
「ありがと」とそっけなくこたえる。
彼は鼻白んだようだったが顔を近付けて続けた。
「今度さ、食事でも行かない? なんなら今日でもいいよ」
「……遠慮するわ。いろいろ忙しいし」
真姫は顔をそむけた。
「そんなこといわないでよ……アイドルで忙しいの? 夜なら平気でしょ?」
「あの、授業、始めますよ」
大久保の困ったような声がふたりの背中から聞こえた。田波はあわてたようすで自席に戻った。
真姫は胸をなでおろした。田波の傍若無人な態度には、いら立ちと
授業はそのままいつも通りに進んだ。
終了の直前、大久保が真姫に伝えた。
「西木野さん、お話があるので、相談室にお願いできますか」
「はい」
真姫は呼び出しの理由を疑問に思いながらも素直にこたえた。
・
ふたりは相談室へ入った。大久保は椅子をすすめた。
「すみません、西木野さん」
真姫が席につくなり大久保は頭を下げた。
「えっ」いきなりのことに戸惑う真姫。「あの、なんでしょう」
彼は顔を上げて続ける。
「すみません、私がこの前、μ'sのことを話に出したから……」
真姫はいまだに話のゆくえが見えなかった。
「西木野さん、さっき田波君になにか、アイドルのことを聞かれて、困っていたみたいですね」
「え……はい」
「やっぱり、彼に聞かれてしまったんですね」
大久保は首を振った。
あ、そういうことね、と真姫は得心がいった。
「ちょっと無神経でした。申し訳ありません」
彼はまたお辞儀をした。
「あ、あの、大丈夫ですから」
真姫はあわてて手を振る。
「ばれたりすると、たいへんじゃないんですか?」と彼。
「べ、別に秘密にしてるわけじゃありません」
「そうですか。ならいいんですが……」
彼はようやく表情をやわらげた。
彼のそんなようすを見て、真姫はうろたえぶりがおかしくなり顔をほころばせた。
「あの、授業の時間割とか、変えることもできますから……。いってくださいね」
彼はすまなそうにいった。
「それに、一対一のコースもありますので……。ちょっと授業料は変わりますけど」
「はい、わかりました」
真姫はうなずいた。
大久保が席を立った。真姫も立ち上がる。
「今回は、すみませんでした」
扉を開いて支えながら彼はもう一度、謝った。
「それじゃ、気を付けてください」と続ける。
真姫は相談室を出ようとして振り返った。
「あの……よかったら、今度のライブの動画も、見てください」
「はい、楽しみにしてますね」
彼は目を細めた。
真姫が塾を出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。日中の残暑がうそのように空気はひんやりとしていて、秋の気配を色濃く感じさせた。
真姫は自宅へとゆっくり歩きはじめた。
先生、あんなに気にすることないのに……。田波君には、ちょっと困っちゃたけど。いろいろ考えてくれて、かえって申し訳ないわ……。
一対一のコース……悪くないと思うけど、かえって緊張しちゃう、かな。
ふたりだけの授業を想像して、真姫はなぜか胸の鼓動が速くなるのだった。
・
その後、 穂乃果が生徒会長に就任したり、ラブライブを目指すのはやめる、といい出したり――
ラブライブ予選を控えたμ'sは真姫の別荘で秋合宿をおこない、真姫と海未は無事に曲を完成させた。
そしてUTX高校を舞台とした地区一次予選。新曲「ユメノトビラ」を披露したμ'sの評判は高く、UTX高校のスクールアイドルグループ・
・
予選を終えてμ'sの練習はすこしだけ軽くなっていた。ラブライブの二次予選は十二月で、いまのところ次のライブの予定もなかった。
そんなある日。
塾の授業を終えた真姫は自習室へ立ち寄った。真姫はここのところ、ときどき自習室に行ってから帰宅していた。
テキストを開くが勉強は進んでいなかった。
そろそろかしら……。
真姫はタイミングを見計らって自習室を出た。
塾の入っているオフィスビルのエントランスの外側、目立たないところに立つ。真姫は両手で鞄を体の前に持ち、背中を壁にあずけた。風は涼しく秋の訪れを感じさせた。
先生、来るかな……。このあとの授業、ないみたいだから、きっと……。
ときどき生徒がひとりで、または二、三人連れで帰っていった。
数分間待つと入口から小柄な男性があらわれた。鞄を持ち、黒いケースを肩に掛けていた。広い背中をすこし揺らしながらゆっくり確実な足取りで歩いていく。
真姫は体を起こすと速足であとを追った。彼に近付き深呼吸してから声をかける。
「先生!」
大久保は振り返った。
「西木野さん。いま、帰りですか」
「は、はい。ちょっと自習してました」
真姫は聞かれてもいないのにそうこたえた。
「そうですか」
彼は真姫に笑みを見せた。真姫は彼の横を歩きはじめた。
大通りに出て右折し、ゆるい坂道を下りていく。
「先生」
真姫はもう一度、そう呼びかけた。彼は真姫を見て眉を上げてみせる。
「あの……これから演奏ですか?」
「ええ、そうです」
彼は照れくさそうに笑った。
しばらく真姫はなにもいわずにいた。
いきなりこんなこといったら、変かしら……。でも、興味があるんだから、仕方ないわよね。ここでいわなかったら、後悔しそう、だし。
「先生。よかったら、演奏、聞かせてもらえませんか?」
真姫は思い切って一気にいった。そして頬を染めた。
「えっ」彼は驚きを隠せないようだった。「……うーん、それは……。お酒も出るしなあ」
困ったように苦笑いする。
「あ、あの、すこしだけで、かまわないです。きっと作曲に、役立つかもしれないって、思うんです……」
真姫はそう説明した。最後のほうは自分でも、わけがわからなくなって言葉を
「うーん、そうですね」
彼は考えこんだ。真姫はじっと彼を見つめた。
そんな真姫の必死さに負けたのだろうか、彼はとうとういった。
「……それじゃ、開店前の練習に、入れてもらえるか、聞いてみましょうか」
「はい! お願いします」
・
彼の案内で、大学のキャンパスのわきで細い通りへ曲がった。
「先生、いつごろから楽器、されてるんですか」
「そうですね、本格的には、大学からですかね。大学は普通の文系なんですけど、サークル活動を始めたんです」
「演奏がお仕事なんですか?」
「まさか」そういって白い歯を見せる。「ほとんどボランティアですよ」
真姫は大久保の授業の予定を思い出した。それほど詰まっている感じではなかった。
「それじゃ、塾が……?」
「……実は、私、アルバイトなんです」
彼は困ったように開いているほうの手で頭をかいた。
「あまり塾生の人には、いわないほうがいいんですが」
「……どうしてですか?」
「やっぱり、アルバイトだと嫌がられる親御さんも多いので」
「……でも、先生の授業、すごくわかりやすいです」
「ありがとうございます」
彼はにこりとした。
先生、アルバイトなのね。とてもそうは、思えなかったけど……。なにか事情が、あるのかしら……。音楽で生活したい、とか……?
しばらく歩いて二、三度、角を曲がると真姫の見覚えのある店についた。
引き戸は閉められていたが、店内から温かい色の光が漏れ出していた。扉には「CLOSED」の札がかかっている。
「ここなんですけど」
大久保は振り返る。
「はい。素敵なお店ですね」
彼はすこし不思議そうな顔をしたがなにもいわなかった。店の横からビルのエントランスへ入る。共有スペースの奥にある扉には「ラミリーズ」と書かれていた。
「すみません。ちょっと、待っていてくださいね」
そういって彼は扉を開けた。
「こんばんは。マスター、ちょっといいかな……」
彼はいったん真姫にぺこりと頭を下げると、扉を閉めた。
真姫は不安を感じながら扉の前で待った。
この前は親御さんと、っていわれちゃったけど……。今日は先生といっしょだから、きっと大丈夫よね……。
真姫は自分の姿を見下ろした。制服だった。せめて私服なら、ひとりでも平気かしら、と思う。でも、もう顔を覚えられてるし、ダメよね。
待つのは真姫には長く感じられた。やがて大久保が扉から顔を出した。
「練習だけなら、いいそうですよ」
彼はウインクしてみせた。真姫の顔は明るくなる。
扉をくぐるとそこは厨房だった。彼に続いて通路を通りカウンターの内側へ出た。
そこには以前、この店で会った初老の男性が立っていた。
「マスター、この子なんだけど」
大久保が真姫を紹介する。
「あ、あの、急にすみません」
真姫は鞄を持った両手を体の前であわせてお辞儀をした。
「……ひょっとして、この前の……?」マスターが眉を上げる。
「あれ、マスター、知ってるの?」と大久保。
「ええ、この前、店にいらっしゃって……一曲、弾いてもらったんですよね」と真姫に笑いかける。
「はい、あのときは、ありがとうございました」
真姫はもう一度、頭を下げた。
「たまたま、買い物に来たら、この店を見かけて……」真姫は大久保に向けて弁解するようにいう。「きれいなピアノだったので、弾かせてもらいました」
「ああ、そうなんですね」
大久保は納得したようにうなずいた。
「
大久保がマスターにたずねる。
「まだ、いらっしゃってませんね」
「じゃ、準備しておこうかな……」
彼はカウンターの端からホールに出て、ピアノの横のスペースへ行った。真姫もあとに続く。
「西木野さん。すみませんけど、ちょっとそのへんで、待っててくださいね」
彼はそういってホールの椅子を示した。
真姫はすこし離れた椅子に横座りで浅く腰を下ろした。
彼は鞄から銀色のノートパソコンを、ケースからウインドシンセサイザーを取り出した。また、スーツの上着を脱ぎネクタイを外す。鞄やケースと一緒にカウンターのなかに置いた。
そしてパソコンと楽器、スピーカーをケーブルで接続していった。
準備、けっこう大変なのね、と真姫は思った。
でも、奈緒美さんって誰かしら……。
しばらくして準備が終わったのか大久保は首から楽器をかけた。彼が両手で構えて息を吹き込むとスピーカーから特徴のある音が聞こえてきた。
彼はパソコンをなにか操作し、もう一度繰り返した。今度はストリングス系の音色が響いた。強弱をつけながら音階を上下する。
彼は満足したようにうなずいた。
区切りがついたようなので真姫は聞いてみる。
「あの、今日は、おふたりで演奏なんですか?」
「そうですね。たまたま、ですけど。私と、もうひとりです」
奈緒美さんってかたですか、と聞こうとして真姫は気配に気付いた。
「こんばんは。遅くなってごめんね、マスター」
厨房のほうからひとりの女性があらわれた。マスターも「こんばんは」と返す。
彼女は長身ですらりとしていた。真姫よりも背が高いかもしれない。長い髪をうしろでひとつにまとめている。白いトップスに黒いスキニーパンツをあわせ、ペールグリーンのロングカーディガンを羽織っていた。おそらく二十代なかばだろうと真姫には見えた。彼女が奈緒美さんね、と思う。
彼女はホールへ出てきた。
「こんばんは、
そういえば、先生、そんな名前だったっけ……。最初のあいさつのとき以外、聞いたことなかったわ……。
「やあ」と彼は簡潔に返した。
「あら、どなたかしら……」
奈緒美は真姫に気付き首をかしげた。
「ああ、彼女は、西木野さんで……。えーと、私の教え子です」
「こんばんは、西木野真姫です。よろしくお願いします」
真姫は立ち上がり頭を下げた。
「音楽が趣味ってことで、今日は見学で……」
彼がごにょごにょと説明する。
「初めまして、
奈緒美は大久保の台詞を聞き流して真姫にうなずきかけた。「可愛い子ね」と彼に向けていう。
「それは、そうだね」
大久保は苦笑しつつうなずいた。
真姫は頬を赤く染めながら座りなおした。
可愛い、なんていわれちゃったわ。先生も、否定しないし……。あ、でも、普通は否定しないわよね……。
奈緒美はピアノへと歩く。
「また、年下の子、つかまえたの?」
「つかまえた、はひどいなあ」
「あら、大学でも、ずいぶん人気だったみたいだけど」
奈緒美はピアノの
「あれは彼女たちに、懐かれてただけだよ」
大久保はすねたようにいった。彼の丸顔に真姫がいままで見たことのない表情が浮かぶ。
「またまた」と奈緒美。
彼は真姫をちらっと見て、真姫があっけにとられたようすなのを見てとったのか、気まずそうにして口をつぐんだ。
「西木野さん、彼、誰にでも優しいから、だまされちゃだめよ」
奈緒美は真姫へいたずらっぽく笑いかけた。大久保はそれを聞いて苦笑いしている。
「あ、はい……」
真姫はそれだけしかこたえられなかった。
年下の女の子……どういうことかしら、と思う。ただ、それを深く考える時間はなかった。
「それじゃ、まずは――だね。流してみようか」と彼。
「ええ」奈緒美が応じた。
ピアノが静かに和音を響かせるとウインドシンセサイザーの透明感のある音色がすぐに続いた。序盤は大久保がメロディーを奏でる。真姫には聴き覚えのない、落ち着いた雰囲気のバラードだった。途中からはピアノとシンセサイザーとが交互に旋律を
シンプルなメロディーだがどこか訴えかけるものがあった。
耳を傾けるうちに静かに曲は終わった。真姫は拍手をした。
「どうも」と彼。
「もしかして……先生の作曲ですか?」
「えーと、まあね」
彼は恥ずかしそうにうなずいた。
「こいつには似合わないでしょ」
奈緒美がすこし茶化すようにいった。
「そりゃないよ」
「あの……すごく、素敵な曲でした」
真姫ははっきりとした声でそういった。彼はにこりと笑った。
「じゃ、もう一曲」と彼。
「そうね」
しばらく静寂が流れる。
曲はピアノのアルペジオから始まった。単音の旋律にやがてシンセサイザーが加わる。弦楽器のような音色だった。今度は真姫もどこかで聞いたことのある曲だった。
イントロが終わると奈緒美が歌い始めた。真姫は聴きはじめから、もしかして、と思っていたが、やはり驚きに打たれた。彼女の声は透き通るようなアルトだった。
間奏へ入ると、それまで静かに寄り添っていたシンセサイザーがソロを奏でた。
そして二番が終わり、ふたつの楽器が美しいハーモニーを見せて――ゆっくりと曲が終わった。
ふたりはうなずきあった。真姫はもう一度、拍手をした。
「おふたりとも、すごく、よかったです」
真姫の顔は上気していた。
「どうも」
大久保は真姫へ微笑んでみせた。
大久保がちらっと壁の時計に目をやった。
「そろそろ、かな。まだすこし時間はあるけど……」
「あ、はい」
真姫はあわてて立ち上がった。
「ありがとうございました」
真姫は彼と奈緒美、そしてマスターに向けていった。
彼は首から楽器を外してわきに置いた。
「またね」
奈緒美は真姫に手を振った。真姫はもう一度、ぺこりと頭を下げた。
真姫は彼に続いてカウンターから厨房を抜けて、ビルの外へ出た。
「先生、今日は無理をいって、すみません」
「いえいえ、お恥ずかしい」彼は軽く首を振る。
「そんな……素敵でした」思っていたより、ずっと、と心のなかで付け加える。
「……なにかの役に立てば、いいんですけど」
「はい、きっと役に立つと思います」
真姫は彼をまっすぐに見つめた。
「それじゃ、気を付けて」
「はい、ありがとうございました」
真姫は数歩、進んでから振り返る。彼が手を振った。真姫は一礼した。
交差点までいって、ちらりとうしろを見ると彼の姿は消えていた。
神保町の雑踏を歩きながら真姫は、素敵な演奏だったわ、と思う。
先生、やっぱりけっこう、上手だと思うな。先生の作った曲も、悪くなかったし……。
真姫は大久保への親しみが強まるのを感じた。自分の演奏を彼に聞いてもらいたい、とちらっと思って――すぐに打ち消した。やっぱり恥ずかしいわよね、と思う。
そして真姫の思いは奈緒美のことにおよんだ。
奈緒美さん、ピアノもよかったし、きれいな声よね。それに、あの雰囲気。大人の女性ってああいう感じなのね、きっと。
でも、先生と……どういう関係なのかしら。気のおけない感じだったし。大学で、っていってたから、同じサークルとかかしら……。
真姫は彼女のことが気になって仕方なかったが――その理由に真姫はまだ気付いていないのだった。