五線譜にラブソングを ~ Story of Maki   作:Kohya S.

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6. ふたりの距離

 真姫の中間試験の結果は、特に英語は塾に行った甲斐があったのか、かなりのものだった。他の教科も問題なく、今回は父親になにかいわれることもないだろうと、真姫は安堵した。

 にこもなんとか赤点は回避したようだった。

 

 放課後、真姫は英語の答案を鞄へ入れて塾へ向かった。いつにもまして足取りは軽かった。

 隣の席には見覚えのある女子生徒が来ていた。真姫は目礼した。

 

 チャイムが鳴り生徒たちが席に戻る。

「よろしくお願いします。西木野さん、近江(このえ)さん」

 大久保があらわれた。

「よろしくお願いします」と真姫。

「それじゃ、まず、西木野さんから、宿題を確認しましょう」

 いつものように大久保は丸椅子に座り、真姫の近くへ寄せた。

 

「先生、これ……」

 真姫はすこし紅潮した顔で、机の上に出しておいた英語の答案用紙を彼のほうに滑らせた。98点だった。

「お、すごいじゃないですか」

「あの、先生のおかげです。百点じゃなくて、すみません……」

「そんな……十分だと思いますよ。それに、西木野さんが、がんばった結果ですね」

 彼は真姫へ微笑んだ。

「はい、その、ありがとうございます」

 真姫は称賛の言葉が面映(おもはゆ)くて目をふせた。

 

 彼は答案用紙をじっくり眺める。

「冠詞の間違いですね……。ちょっとした解釈でも違ってくるので、難しいんですよね……。あとで、復習してみましょう」

「はい」

 真姫は顔を上げてこたえた。彼はにこりと笑った。

 真姫は話を続けるかすこし悩む。

 

 この前のお店のライブの話、したいけど……。授業が終わったあとのほうが、いいわよね。

 

 真姫は宿題を取り出して授業に集中した。

 

 やがて授業が終わった。

「それでは、今日はここまでにしましょう。お疲れさまでした」

 大久保はそういって立ち上がった。真姫が呼び止めようとしたとき。

「あの」

 隣の席の女子生徒が声をあげた。

「はい」と彼は彼女に聞く。

「来週の授業のことで、お話ししたいんですけど」

「なんでしょう……」

 彼はもう一度、椅子に座った。

 

 真姫はしばらくそのようすを見守ったが――長くなりそうだったので席を立った。

 教室を出るときにちらりと振り返ると、ふたりはまだ話し続けていた。思わずため息が漏れた。

 そのまま塾から出ようとして、思いついて自習室へまわった。

 

 すこし待っていれば、先生、帰りに会えるかもしれないわね……。

 

 真姫は自習室でしばらくすごした。ここからビルの入口が見えればいいのに、と思う。

 ころあいを見て真姫は塾の外に出て、ビルのエントランスの外側で待った。

 

 ふたり連れの女子生徒がおしゃべりをしながら帰っていく。真姫は先日、にこと話したことを思い出した。

 

 ニコちゃん、私の好みがどうこうって、いってたけど……。別に、私、先生と普通に話してるだけだし……。年の離れた友達、って感じかしら。ニコちゃんは置いておいて、絵里とか希みたいな、年上の友達よね。

 

 ビルのあいだを風が抜けていった。真姫はかすかに寒さを感じた。この前はまだ寒くなかったけど、と思う。

 

 この前、ここで待ってたときには、初めて演奏、聴かせてもらったのよね。あのときとくらべて……すこしくらい、先生との関係、変わってるのかしら……。

 そうね、私……先生のこと、もうちょっと知りたい、かも。友達としても、変じゃないわよね。

 

 物思いに沈んでいるとエントランスから見覚えのある人影があらわれた。

「先生」

 ビルからすこし離れたところで声をかける。

「西木野さん。お疲れさまです」

 大久保は笑みを浮かべた。

「あの、この前は、ありがとうございました」

 真姫は鞄を持った両手を体の前でそろえて一礼した。

「この前……?」

「えっと、ライブに誘っていただいて……」

「ああ、こちらこそ、わざわざ来てもらって、すみません」

 彼は照れたように頭を下げた。

「すごくよかったです。どの曲も……。特に、最後の曲、奈緒美さんの声とピアノ、先生の楽器がよくあっていて……」

「ありがとうございます。奈緒美も喜びますよ」

 彼は微笑んだ。

 

 真姫は、奈緒美さんとはどういう関係なんですか、と、のど元まで出かかったが、それを飲み込んだ。

 

 ふたりは歩き始めた。真姫は彼がケースを下げていないことに気付いた。

「あの、今日は演奏、ないんですか」

「はい、これで帰りです」

 

 大通りに出た。

「それでは、お気をつけて」

 彼は左に曲がろうとする。

「あ、あの。私もそっちです。駅前のお店に行きたいので……」

「そうですか。じゃ、もうすこし一緒ですね」

 

 私、思わず、そっちです、なんていっちゃったけど……。なにしてるんだろ……。

 

 楽器店などが並んだ通りを歩く。彼の足取りはゆっくりで真姫は自然について行くことができた。

 

 ふと楽器店の店頭のポスターが目にとまり、真姫は足を止めた。彼も立ち止まる。

「あれ、これ……」

 ライブの案内のポスターだった。

 真姫の知っている海外のジャズピアニストが来日するらしい。一般に広く知られているわけではないが一部ではファンも多く、真姫もそのひとりだった。

 

「ああ、彼ですね」

「ご存じなんですか」

「最近独立して、自分のトリオ、組んだんですよね」

「はい。CD、二枚とも買いました」

「私もですよ」

 真姫は新しい共通点が見つかって嬉しくなった。

 

 彼はポスターを眺めている。

「ライブ、行きたいんですけど……時間が……」

 真姫は彼の横からいった。

 ジャズのライブは夜から始まり、会場もライブハウスが多いので、真姫はいままで行ったことはなかった。

「そうですよね、だいたい夜ですね……。あ、でも、一カ所、午後七時開演っていうのがありますよ」

「あ、それなら……」

 場所はすこし遠かったが――塾の時間と同じくらいで、帰って来られるかしら、と思う。

 

 もしかして、これっていい機会かもしれないわ。

 

 真姫はもう一度ポスターを見るふりをして、彼の横顔をちらっと眺めた。そして思い切っていった。

「あの……先生、よかったら……。一緒に行ってくれませんか」

「えっ……」

 彼はさすがに驚いたようだった。

「この前、アドバイスしていただいた、お礼もかねて……」

「いやもう、それは十分ですが……」

「それに、夜だし、やっぱりひとりだと……」

 真姫は困ったように目をふせた。

「うーん、親御さんに連れて行ってもらう、とか」

「うちの両親、あまり……音楽に理解がなくて……。こんな機会、二度とないと思うんです」

「困りましたね」

 彼は当惑をにじませて苦笑した。

 真姫は彼をじっと見つめる。頬はすこし紅潮していた。

 

「……わかりました」

 彼はあきらめたように首を振った。

「お付き合い、しますよ」

「あ、ありがとうございます」

 真姫は深く頭を下げた。

 

「だから奈緒美に、年下に甘いって、いわれるんだよな……」

 彼はそう漏らしたが、真姫には聞こえなかった。

 

「チケット、私が買いますから」と真姫。

「いえ、さすがにそれは……。私が予約しますので、あとで一枚分、お願いします」

「はい、よろしくお願いします」

 

 彼は鞄からスマートフォンを取り出して、ポスターを見ながらなにか入力していた。

 真姫は思いつく。

「先生、連絡先、教えていただけますか」

 あくまでもさりげなく聞こえるように願いながら、そういった。

「ああ、そうですね」

 彼が示してくれた電話番号を真姫は自分のスマートフォンに入力した。メールアドレスも交換する。

「チケットが取れたら、連絡しますね」

 彼はふたたび微笑んだ。

 

 ふたりは通りに戻った。

 駅につくと彼は「それじゃ、西木野さん、気をつけて帰ってください」といって改札に消えていった。

 真姫はそれを見送ってから自宅へと歩き始めた。

 

 ちょっと無理があったかしら。いきなり誘っちゃうなんて……。でも、結果的には、よかったわよね。

 

 思い出すと顔が赤くなるのが止められなかった。

 

 ちょっとは、先生との距離が近くなったのかしら……。

 

        ・

 

 しばらくして大久保からはチケットが取れたという連絡があった。真姫はお礼のメールを送信した。

 

 μ'sは秋葉原でのハロウィーンのイベントで、路上ライブを披露することになった。

 A-RISEも参加するとのことで、対抗するにはインパクトが必要、とメンバーは試行錯誤して迷走した。とはいえ最後には、いまのままが一番、と落ち着いて、いつも通りに(のぞ)むことになった。

 真姫と海未は今回も曲作りを担当したが、テーマがはっきりしていることもあり、なんとか仕上げることができた。

 

 ライブは大成功でメンバーの意気は上がった。

 

        ・

 

 ハロウィンの数日後、大久保と一緒に行くジャズライブの日を迎えた。

 その日は平日だった。真姫はμ'sの練習を早めに切り上げて、学院からいったん帰宅した。

 

 両親にどういえばいいか悩んだが、本当のことをそのまま伝えれば、反対されるのは明らかだった。そこで、友達と遊んだあとで塾に行く、とだけいった。これなら私服であることも説明できるだろう。

 真姫は両親にうそをつくようで気がとがめたが、帰りに塾に寄ればいいのよ、と自分にいい聞かせた。ささやかな真姫の反抗心だったのかもしれない。

 

 帰宅後、真姫は一応、シャワーを浴びた。

 

 着ていく服は昨日のうちに選んであった。それらに着替えて真姫は自室のクローゼットの鏡に全身を映してみた。

 クリーム色のローゲージセーターに、ショート丈のワインレッドのジャケット。ネイビーに細かい花柄が入ったミニスカートをあわせている。それにブルーグレーのタイツ。

 

 ちょっと大人っぽくしたつもりだけど……。おかしくないわよね。

 

 最後に軽く化粧をして、オードトワレをつけた。ジバンシーのプチサンボン。子供用の香水だそうだが、清潔感のある香りが真姫は気に入っていた。

 もう一度、鏡をのぞいてにっこりと笑ってみた。

 薄手のコートを持って家を出た。

 

 待ち合わせは御茶ノ水駅だった。ライブ会場のある駅はあまりよく知らないと真姫が話すと、大久保は最寄り駅を待ち合わせ場所にした。

 先生の優しさなのかしら、と真姫は思う。

 

 改札の外、屋根の下で真姫は待った。改札口がどうしても気になる。

 十一月を迎えて空気はひんやりとしていた。透き通った空に上弦の月が低くかかっていた。

 真姫は男性と待ち合わせるのは初めてだと気付いた。突然、よく来る駅が、非日常の色彩を帯びる。

 

 やがて見覚えのある――小柄でやや横幅のある姿が見えた。大久保はまっすぐ真姫のところに来た。

「お待たせしました」

「あ、よろしくおねがいします」

 真姫はぺこりと頭を下げる。

 彼はスーツ姿だった。ネイビーのフランネル地に、白のチョークストライプが入っている。オフホワイトのシャツと、ダークオレンジのネクタイをあわせていた。片手にコートを持っている。

 

「その服、よくお似合いですね」彼は微笑む。

「えっと……ありがとうございます」

 真姫は頬を染めてうつむいた。

 

 きっと、社交辞令なんだと思うけど……。でも、嬉しいわ。

 

「それじゃ、行きましょうか」

「はい」

 

 最寄り駅までは乗り換えなしで行けるようだった。

 電車はすこし混みあっていてふたりは吊革につかまった。

「だいたい、三十分くらいですね」と彼。ちらりと左腕の腕時計を確認する。

 

 ドアが閉まり電車が動き出した。

 快速なので駅間は長かった。

 

「先生、あの、こんなこと聞いて失礼だと思うんですが……」

 真姫がそういうと、彼は先をうながすように眉をあげてみせた。

「塾がアルバイトなのは……なにか、事情があるんですか。その、夢とか……」

「ああ、それですか」

 彼は苦笑いを浮かべた。

「今年の春まで、大学院で勉強してたんです」

 真姫はうなずいた。

「大学を出て、いったん就職したんですけど……。もう一度、勉強したく、なっちゃいましてね。思い切って院に入り直したんですよ」

 彼は頭をかいてみせる。

「でも、なかなか再就職、厳しくて……」

「そうなんですね」

 そういう生き方もあるのか、と真姫は思った。

 

 だからアルバイトだったのね。なんとなく、先生らしいかも……。

 

 電車はターミナル駅に入る。ちょうど半分くらいのはずだ。

 前の座席の乗客が席を立った。

「どうぞ」

 彼は真姫に席をすすめた。

「すみません」

 遠慮するのもかえって悪いだろうと思い、真姫は座った。

 

 やっぱり、先生、大人なのね。さりげなく、すすめてくれて……。そういえば、塾でも、必ず扉を開けてくれるわ……。

 

 やがて電車は目的の駅についた。ふたりは電車を降りて駅を出た。

 

       ・

 

 ライブ会場は駅からすぐ近くだった。複合施設のビルの二階らしい。

 駅前の通りをすこし歩き、施設の屋外のエスカレーターをのぼった先、右手にある入口からなかに入った。

 

「はい、どうぞ」

 ホールの前のロビーで大久保が鞄からチケットを取り出し、一枚を真姫に渡した。

「ありがとうございます」

 真姫は自分のバッグから、封筒に入れて用意してきておいた代金を彼に渡した。彼は一瞬、なにかいいたそうにしたが、そのまま受け取った。

 

 すでに開場しているようだった。チケットを確認してもらって、ふたりはホールへ入った。

 

 ホールはこじんまりとしていた。音ノ木坂学院の講堂よりも狭いかもしれない。ただそのぶん、客席とステージの距離は近かった。ステージにはピアノとベース――いわゆるコントラバスと、ドラムセットが用意されている。

 ふたりは場所を確認して座った。

 

 入場したときには半分ほどあいていた座席は、すこしずつうまっていった。

「やっぱり……年上の人が、多いですね」

 真姫が見たところでは、客のほとんどが成人に思えた。中年以上の男女も多い。真姫と同年代は数えるほどだろう。

「西野木さんも、黙っていれば高校生には見えませんよ」

 彼は真姫にいたずらっぽく微笑んだ。

「そ、そうでしょうか」

 真姫は顔を赤らめて目をふせた。

 

 やがてアナウンスがあり照明が徐々に落とされていった。ホールはすっかり満席だった。

 いったん真っ暗になり、ステージだけが照らされる。

 

 三人のメンバーがステージに現れた。客席から拍手が上がる。

 ピアノのソロから曲が始まった。優しい旋律が響く。真姫もアルバムで聴いたことがある曲だった。

 ドラム、そしてベースが加わり厚みを増していく。曲は終盤にかけて盛り上がり、最後にはまたピアノだけに戻り穏やかに終わった。

 客席から拍手が上がった。

 

 ピアニストがマイクを握る。

「アリガトウゴザイマス。ミナサン、コンバンハ」

 客席から笑い声と拍手、「こんばんは」の声が上がる。

「Thank you very much.」

 彼は英語に切り替えた。メンバーを紹介していく。メンバーの紹介が終わると客席は静まった。

「I am very very happy to be here...」

 彼の英語は明瞭で、真姫もなんとかついて行くことができた。それでもやはり聞き取れないところはあり――あとで先生にたずねてみよう、と真姫は思った。

「We've started our set with a song from our first album...」

 彼の曲紹介が終わると、ふたたび演奏が始まった。今度は真姫の聴いたことのない新曲だった。

 

 それからも精力的な演奏が続いた。真姫はすっかり魅了されて聴き入った。

 

 二曲のアンコールが終わるとメンバー三人はステージの中央で肩を組み、観客席に向かって深々とお辞儀をした。観客から惜しみない拍手が上がった。

 

 ステージの照明が暗くなり、かわりにホールが明るくなった。

 

「よかったですね」

 隣の大久保がステージを向いたままゆっくりといった。

「はい……。やっぱり生だと、違います」

 真姫が彼を見ると、彼も真姫と視線をあわせる。

「そうですね」と微笑んだ。

 

 帰り始めた客でホールがざわつく。

「あまり時間もないし……出ましょうか」と彼。

「わかりました」

 

        ・

 

 ふたりは会場から外に出た。

 複合施設にはレストランなども入ってるようだった。

 彼と食事していきたいかも、と真姫はちらりと思ったが、時間を考えるとまっすぐに帰るしかなさそうだった。

 真姫はいまほど自分の年齢を残念に思ったことはなかった。

 

 エスカレーターで降りて駅前の通りに出ると、街路樹にイルミネーションが(とも)されていた。

 街路樹は左右に等間隔に続き、白と青の照明が寒空に清冽(せいれつ)な光を投げていた。通りの反対側、なにかの店の温かいオレンジ色の看板と、あざやかな対比を見せている。右手の先、駅前ロータリーの中央には、ひときわ大きな樹が輝いていた。

 

「きれい……」

 真姫は思わず立ちつくした。ライブの余韻が残る真姫の心に、そのきらめきはひときわ美しく見えた。

 大久保は一歩うしろで真姫を見守っていた。

 

「くしゅん!」

 真姫はくしゃみをした。晩秋の風は冷気をまとっていた。

「西木野さん、コート、着ないと……」

 彼が心配そうに声をかけた。

「すみません」

 真姫はあわててコートを羽織った。

 

 ふたりは駅まで歩いて電車に乗った。都心へ戻る電車は空いていた。

 

 ロングシートに隣りあわせに座る。

「西木野さん、お時間、大丈夫ですか」

 彼が左手をひねって腕時計を示してみせる。塾のもっとも遅い授業時間には、まだ間があった。

「大丈夫です」

 真姫がそういうと彼は安心したようにうなずいた。

 

 車窓を夜景が流れていく。

「あの、今日はありがとうございました。無理いっちゃって、すみません」

 真姫はあらためて礼をいった。

「いいえ、こんな機会でもないと行かないので……。楽しかったですよ」

「……私も、です」

 真姫は顔を赤らめて下を向いた。

 

 先生、楽しかったって、いってくれて、よかったわ。……私と一緒だから、なら、いいんだけど、別にそういうことじゃ、ないわよね……。

 

 彼に確認しようかと思ったが、そんな勇気はわいてこなかった。そのかわり、真姫は思い出して英語のMC、わからなかったところを彼に聞いてみた。

「ああ、あれは……前回、日本に来たときはひとりでしたが、今回はトリオで来ることができました、今回は彼らの曲も演奏します……っていう感じですね」

「そうなんですね」

「……ほかは、聞き取れましたか」

 彼は目を輝かせる。

「えっと、たぶん、だいたい……」

「勉強のかい、ありましたね」

「先生のおかげです」

 真姫がしっかりとした口調でいった。

 

 ターミナル駅で乗客は半分ほど入れ替わった。

 もうすぐ御茶ノ水ね。そう思うと真姫は胸がきゅんとした。

 

 もうすこし、一緒にいたいな……。

 

 電車が動き出す。

「そういえば……」

 大久保が口を開いた。

「μ'sの動画、見ましたよ」

「あ、その……どうでしたか」

「『Love wing bell』……聴かせてもらったときより、ずっと良くなってました」

「ありがとうございます」

「センターの子、可愛いですね」

「凛ちゃん、お友達です」

 そうね、すごく可愛かったわ、と思い出す。

「西木野さんもよく、似合ってました」

 彼は真姫に、にこりと笑って見せた。真姫はふたたび、頬を染めてうつむいた。

 

 電車は御茶ノ水駅についた。

 真姫に続いて彼も電車を降りた。改札まで一緒に歩く。

「ここで、大丈夫ですか」

 改札の手前で彼はいった。

「はい、ここからなら、塾の帰りと同じなので……」

「それじゃ、私はここで……」

「西木野さん、気を付けて」

「はい、先生も」

 真姫は改札を出て振り返り、頭を下げた。彼は手を振ると(きびす)を返してホームへ下りていった。

 

 真姫は塾へ向かった。両親にいった手前、いちおう立ち寄ろうという、言い訳めいた気持ちだった。自習室はまだ開いていたので適当な場所に座った。

 

 先生、わざわざ改札まで、来てくれたのかな……。

 

 五分ほど物思いにふけってから自習室を出て、帰路についた。

 

        ・

 

 真姫が帰宅したのは塾が遅くなったときと、ほぼ同じだった。真姫は一安心する。

 両親はいつも帰りが遅いが、さすがにこの時間になると父は帰ってきているようだった。

 

 ダイニングのテーブルの上には、お手伝いの和木(わき)さんが用意してくれたのであろう夕食が、ラップに包まれて置かれていた。

 

 真姫は先に入浴することにした。

 風呂を出てパジャマに着替える。ダイニングで夕食をレンジにかけた。

 

「真姫、帰ったのか」

 ひとりで食べていると真姫の父が廊下から顔を出した。書斎にでもいたのだろうか、部屋着姿だ。

「パパ……ただいま」

 真姫はなにもいわずにライブに行ったことが心苦しくて、目をそらした。

 

「……塾は、どうだ?」

 彼はテーブルに近付いたが椅子には座らずにいった。

「ええ。楽しいわよ」

 真姫は顔を上げた。

「……そういえば、中間試験も、まあまあだったな」

 真姫は父の珍しいほめ言葉に軽い驚きを覚えた。

 彼は真姫の返事を待たずに続ける。

「遅くまで大変だな。μ's、だっけか、練習もがんばってるようだし、体調には、気を付けるんだぞ」

 彼は不器用に微笑んだ。

「ありがとう」

 真姫も笑顔を向けた。

「それじゃ、パパはお風呂に入ってくるから……。おやすみ」

「おやすみなさい」

 彼はうなずくとダイニングから出ていった。

 

 なぜか真姫には、父の背中がいつもより小さく見えるような気がした。

 

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