五線譜にラブソングを ~ Story of Maki   作:Kohya S.

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7. 突然の知らせ

 それからも真姫は定期的に塾に通った。大久保とは授業の話に加えて、ときおり雑談を交わしていた。

 真姫は彼との距離が近くなるのを感じていた。

 

 二学期の期末試験が近付いたある日のこと。

「西木野さん、すこしお時間、ありますか」

 授業が終わったあとで大久保がいった。

 

 真姫は相談室へ案内された。いつものように彼が扉を支えてくれる。

 ふたりは席についた。彼はすこし困ったような顔をしていた。しばらくして彼は切り出した。

「西木野さんには、申し訳ないんですが……」

 いったん彼は言葉を切った。真姫は、なにかしら、と思う。

 

「……実は、塾をやめることになりました」

「えっ……」

 真姫は絶句した。突然のことに頭が追いつかない。

 

「年度の途中で、申し訳ありません」彼は深く頭を下げた。「次の講師への引き継ぎは、しっかりやりますので」

 彼は申し訳なさそうにいった。

「いつ、おやめになるんですか」

「年内いっぱいで……」

「そう、なんですね」

 真姫はぽつりといい、うつむいた。

「来月になったら調整を始めますが……。先に、西木野さんにはお伝えしておこうと思って……」

「……ありがとうございます」

「本当にすみません」

 彼はもう一度、礼をしてから立ち上がった。真姫ものろのろと席を立つ。

 

「あ、それで……」

 思い出したように彼がいった。

「来月の八日に、最後のライブ、やりますので……。昼の部もあるので、よかったら来てください」

 彼はすまなそうな微笑みを浮かべた。

「あ、はい……」

 真姫もなんとか笑みを作り、こたえた。

 

 真姫はビルを出てゆっくりと歩き始めた。頭にようやく事実が染み込んでくる。

 

 先生がやめちゃうなんて……。それって、もう、会えなくなるってことかな。

 

 先に教えてくれたことは彼なりの親切なのだろうと思う。特別扱いされたようで、それは嬉しかった。

 ライブについて招待してくれたのも、彼が真姫のことを単なる生徒のひとりとは考えていない、ということだろう。

 ただそれらも――彼がやめてしまうということの前には、真姫にとってささいなことでしかなかった。

 

 十一月の風が急に寒く感じられた。

 

        ・

 

 その日の夜。真姫は自宅のピアノをあてもなく弾いていた。

 

「はあ……」

 食事と入浴はすでにすませてパジャマ姿だが、眠れる気はしなかった。真姫の心にはさまざまな思いが渦巻いていた。

 

 自宅の音楽室は防音なので他の部屋に音が漏れることはない。落とした灯りのなか、グランドピアノの音が響いた。

 

「まさか、やめちゃうなんて……」

 そうつぶやくと、今日何度目だろうか、真姫は胸が痛んだ。

 

 先生、私のこと、どう思ってるのかしら。今日は……いろいろ気遣ってくれたし、この前も、一緒にライブに行ってくれたけど……。

 でも、きっと、たんなる生徒のひとり、よね。すこしお話しするだけで……。

 

 中学校のころも一部の生徒が、仲のいい先生と休日に遊んでいたりしたことを思い出す。きっと大久保から見ると、自分もそんなのものなのだろうと思う。

 

 でも、もしかしたら……。

 

 真姫は彼の笑顔を思い出す。心にほのかな希望が灯る気がした。

 

 真姫は以前、聴いた曲を――最初にラミリーズへ行ったときに聴いた、彼が作曲した曲を思い出した。旋律ははっきりと記憶に残っている。

 真姫はピアノでメロディを弾いた。それは甘く切なかった。

 

 先生のことが、こんなに気になるなんて……。私、先生のことを年の離れた友達だと思ってたけど……。

 そうね。先生が私のことをどう思ってるかじゃなくて……私が、先生のことを、どう思ってるのかが問題なんだわ……。

 

 演奏をとめて真姫は考える。彼の面影が――頭をかく仕草、困ったような微笑み、広い背中、柑橘系の香りが――思い浮かんだ。胸がふたたびきゅんと痛む。

 

 もしかして……ううん、そうだわ。私、先生のことが好きみたい……。

 

 真姫はひとり頬を赤らめた。しかし、心にかかっていた(もや)はゆっくりと晴れていった。

 

 もう会えなくなるとしたら、私……。

 

 どうすればいいのか、真姫にはまだ、なにもわからなかったが――それでもなにかしなくてはならない、それだけは感じていた。

 

        ・

 

「真姫、どうしたのよ。ぼーっとしちゃって」

 翌日の放課後、練習の休憩中に、にこが真姫に問いかけた。

「あ、ニコちゃん。ごめん」

 真姫は我に返る。

「大丈夫? 体調でも悪いの?」

 にこは心配そうに真姫の顔をのぞき込む。

「ううん、平気よ」

 真姫は無理に笑みを浮かべた。

 

 いつものμ'sの練習、真姫はメニューになんとかついて行ったが、ちょっとしたはずみに昨日ことを考えてしまうのだった。

 

「そう? ならいいけど……」

 にこの顔を見て、真姫は思わず口に出していた。

「……ニコちゃん、今日、一緒に帰れる?」

「ええ、いいわよ」

 真姫の願いに、にこは即答した。

 

 練習後、部室で制服に着替えてから、ふたりは一緒に下校した。学院前の長い階段をくだっていく。

 

「ううっ、ずいぶん寒くなったわね」

 にこは大げさに体をすくめてみせた。今日はよく晴れているものの北風が冷たかった。

「……ニコちゃん、ちょっと相談したいことがあるの。どこかでお話し、できないかしら」

「そうね、それじゃいつものMバーガーでも、行きましょうか」

 そういうにこに真姫は首を振った。

「……あの、もし、ほかのメンバーに聞かれると、ちょっと……」

「そっか……」

 にこは眉を上げたが詮索(せんさく)はしなかった。

「じゃあ、駅前のファミレス、行きましょ」

「ええ」

 

 ふたりは御茶ノ水駅からほど近いファミリーレストランに入った。

「ここのプリン、おすすめよ」

 真姫はすすめにしたがってドリンクバーとプリンを注文した。にこも同じものを頼んだ。

 飲み物を取ってきてから、しばらくふたりは学院でのこと、μ'sのことなど雑談を交わした。

 

 やがて注文が届いた。プリンを一口、食べる。にこのいう通りおいしかった。

 

 会話が途切れる。

「それでね、ニコちゃん……」

 真姫は切り出した。まっすぐに見つめてくるにこと、目をあわせられなくて顔をそむける。

「……この前、カフェにライブ、聴きにいったでしょ」

 にこはうなずいた。

「あのときの先生……塾をやめちゃうんだって」

「あら、それは残念だわね」

 にこは同情するようにいった。真姫はにこに視線を戻す。

「ええ。それで、私……どうしようかなって」

「……なにか、餞別(せんべつ)でも贈るの?」

「そうじゃなくて……」

 

 いざ話そうとすると、なかなか勇気が出てこなかった。紅茶を口に含む。

 

「……彼のこと、どう思ってるの?」

 にこは穏やかにいった。

「どうって……」

 いきなりの言葉に真姫は顔を赤らめた。

「もう、ばればれなのよ、真姫は」

 にこは「はあっ」とわざとらしくため息をついてみせた。

「で、どうなのよ」

 にこは茶化すように続けた。

 真姫は目をふせて、髪の毛の先を指に巻き付ける。

「……私、先生のことが……その、好きみたい……」

 最後は消え入るようだった。

「やっぱりね」にこは優しく微笑んだ。「それで、どうしようか迷ってる、ってわけね」

 真姫はこくりとうなずいた。

 

「どんな感じなの、その、彼とは」

「……この前、いっしょに、夜のライブに行ったの」

「あら、けっこういい雰囲気なのね」

 にこはさすがに驚いたようだ。真姫はもう一度、うなずいた。

 

 にこは自分のカフェオレを飲んだ。

「そうね……。結局、真姫がどうしたいか、じゃないの」

「私が……?」

 真姫は顔を上げる。

「もちろんそのまま、胸にしまって思い出にしてもいいし、ダメ元で告白するのも、いいと思うわ」

「それは、そうなんだけど……」

「私になにかいわれて、その通り行動したとしても……。結局、うまくいかなかったら、どうするのよ」

「……」

「悪いけど、そこまで責任、持てないってこと」

 にこはやれやれ、というように首を振った。

「そんな……」

 真姫は、責任なんて問うつもりはないわ、といいかけて――思い直す。言葉は悪いがにこは、真姫が自分自身でこたえを出すべきだ、そういっているのだろう。

 たしかに、こんなことで頼っちゃ、だめよね。真姫はそう思う。

 

 私……どうすれば……。そうね、このままじゃ、嫌よ。ダメ元なんて、わかってるけど……彼の気持ち、たしかめたい。でも……やっぱり、怖いわ。

 

 真姫は迷いながら続ける。

「……それで、今度、最後のライブがあるっていわれて、誘われてるの」

「もちろん、行くんでしょ」

「そのつもりだけど……。ニコちゃん、一緒に行かない?」

「ええっ、どうしてそうなるのよ」目を見張るにこ。「ちょうどいい機会じゃない。ひとりで行きなさいよ」

「でも……」

 真姫は不安にかられて思わず泣きそうになる。

「あーもう、そんな顔、するんじゃないわよ……」

 にこはあきらめたように笑う。

「仕方ないわね……。最後、どうするか、真姫が決めて、真姫がやるのよ」

「……ありがと、ニコちゃん」

 真姫は目をぬぐって、にこに笑いかけた。

 

 ニコちゃん、すごく大人なのね。私、ニコちゃんのこと、誤解してたみたい。やっぱり年上なんだわ……。

 

        ・

 

 数日後の土曜日。午後遅く、真姫はひとりでラミリーズに行った。昼間の営業がそろそろ終わる時間だ。ライブは来月だったが、たしかめたいことがあった。

 

「あの、カウンター、大丈夫ですか?」

 案内の女性店員にそういってカウンターに座らせてもらった。カウンターのなかにはマスターがいて立ち働いている。

 

 紅茶を注文して、しばらくは大人しく座っていた。

 

 やがてマスターの仕事が落ち着いたのを見計らって真姫は話しかけた。

「あの、マスター、ちょっといいですか……」

「はい、なんでしょう?」

 彼は微笑む。

「……大久保さん、なんですけど」

「ええ、彼がなにか」

「今度、昼間にライブやるんですよね。それで最後になるとか……」

「はい、そうですね。うちとしても、残念なんですが」

「……花束とか、持ってきても大丈夫でしょうか」

「ええ、喜ぶと思いますよ」

 彼はにこりと笑った。

 

 真姫は次の話を切り出すか、しばらく逡巡(しゅんじゅん)した。しかしここで聞かないと先に進めない、そう思った。

 

「あの……せんせ……大久保さんは、奈緒美さんと、どういう関係なんですか?」

「ああ……。やはり、気になりますか」

 真姫はうなずく。

「おふたりは、以前……その、お付き合い、されてたんですよ」

 そう聞いて――なんとなくそんな気がしていたものの――真姫はショックを受けた。

 ただ、マスターの最後の言葉がひっかかった。

「……されてた?」

 

 マスターはカウンターのなかの食器を拭き始めた。

「はい。いまは、違うようですね」

「そうなんですね……」

 真姫は目をそらした。

 いまは違うってことは……望み、あるのかしら。そう思うと、心に灯った希望がわずかに明るさを増す気がした。

 

「ただ……」

 真姫のようすを見たのかマスターがなにかいいかける。

「……いや、止めておきましょう。すみません、すこし話しすぎましたね」

 

 真姫は気になったがそれ以上、聞くわけにもいかなかった。

 

「ありがとうございました」

「いえ、どういたしまして」

 マスターは真姫に優しい笑みを見せた。

 

 気付けば他の客はほとんどいなくなっていた。

 真姫はもう一度礼をいい、店をあとにした。

 

        ・

 

 十一月も終わりに近付き、ラブライブの最終予選の詳細が明らかになった。日付は来月の二十五日、クリスマスに決まった。また歌う曲は新曲でなくてもよいとのことだった。

 秋葉原では予選のプレイベントが開かれ、A-RISEとともにμ'sも取材を受けた。

 

 時間も限られていることもありメンバーは既存の曲で(のぞ)むことを考えたのだが、希の強い希望で新曲を――それもラブソングを作ることになった。

 

 花陽いわく、ラブソングといえばアイドルの定番。なぜいままでμ'sの曲にそれがなかったのか――作詞担当の海未に矛先が向いた。

 

「海未ちゃん、恋愛経験、あるの?」

「あるの?」

 穂乃果、ことりをはじめとするメンバーに迫られて――。

「そ、それは……。うぅっ……ありません」

 海未は涙目でそうこたえた。

 

 真姫は自分がターゲットにならず、ひそかに安堵していた。もし私が問い詰められてたら……なんてこたえてたか、わからないわ、と思う。

 

 それからみんなで取り掛かったものの、曲作りは大いに難航した。

 全員、恋愛経験がすくないというのはひとつの理由だが――真姫は、それだけではないだろうと思う。

 

 だって、恋愛してたからって、それを表現できるとは、限らないと思うわ。本人も、なにがなんだか、わからなんだもの……。

 

 ある日、穂乃果の自宅でおこなわれた作曲の会議で、諦めたほうがいいと真姫は提案した。うすうすそう感じていたのか、希も含めてメンバーは納得した。

 ただ、真姫は、希がなぜそこまで新曲を希望するのかが気になった。

 

 真姫は帰宅する希と絵里を追いかけて質問した。

 

 希は初めは渋っていたものの――最後には自分の希望を打ち明けた。

「九人が集まって、力をあわせて、なにかを生み出せれば、それでよかったんよ」

 

 それぞれの想いを抱えたみんなが集まって、みんなの願いが(かな)う場所になった、ある意味、奇跡の集まりであるμ's――そのμ'sの全員で、なにか形のあるものを作りたかった。希はそう語った。

 

 真姫は、希の願いに心を揺さぶられた。もちろんいままでもμ'sとして活動してきて、さまざまなもの、さまざまな想いが積み重なっているが――曲として残すのも悪くない、そう感じたのだった。

 

 そして希の部屋に全員が集まった。

 

 希の部屋に飾られていたμ'sの集合写真にみなが気付く。

「ん……? これって……」と花陽。

「そういうの飾ってるなんて、意外ね」にこもいう。

 希はあわてて写真を取り戻す。

「別にいいやろ、うちだって、そのくらいするよ。……友達、なんやから」

 

 いままでミステリアスでどこか近付きがたい雰囲気のあった希も、とうとう心の壁を取り払い――本音で向き合うことにしたようだった。

 

 窓の外で雪が降り始めた。みなは外へ駆け出した。

 音もなく落ちてくる雪片とともに、歌詞も舞い降りてくるようだった。

 

        ・

 

 音ノ木坂学院は期末試験の期間に入り、部活も休みになった。

 

 海未は、メンバーが考えた歌詞の欠片(かけら)を持ち帰り、それをひとつにまとめる作業に取り掛かった。

「いい歌詞が、できると思います」

 あの日、別れるときの海未の顔はほがらかだった。

 

 真姫も歌詞ができたらすぐに、試験期間内にも曲を完成させるつもりだった。

 ただ、真姫にとって、期末試験よりも作曲よりも気がかりなのは、すぐ近くに迫った大久保の最後のライブだった。

 ライブには行くと決めたし、にこにもああいったものの――どうすればいいか結論は出ていなかった。

 

 そして数日後。

 放課後、一年生の教室にひとりであらわれた海未から、真姫は一枚の封筒を受け取ったのだった。

「ありがとう、海未」

「どういたしまして。……曲のほう、よろしくお願いしますね」

 その場で確認しようとする真姫を恥ずかしそうに押しとどめて、海未は逃げるように帰っていった。

 

 真姫は帰宅してから自室に直行して封筒を開いた。なかには一枚のレポート用紙。「Snow halation」と題された歌詞は、冬を思わせる情景のなか、想いを募らせる女性の心と、決断する勇気を(つづ)っていた。

 

 なによ、これ……。まるで……まるで、私のことじゃない。

 

 真姫は涙がにじんでくるのを感じた。

 

 そうよね、たしかめないと、私、後悔するわ、絶対に。

 

 真姫は鞄から赤いスマートフォンを取り出した。ロックを解除する。

 彼に電話を掛けるのはためらわれた。直接、話すなんて、できそうにないわ、と思う。真姫はメールを書き始めた。

 ライブに行くこと、終わったあとですこし時間が欲しいことを書いて、送信した。

 

 真姫はその日、落ち着かない気持ちのまま過ごした。期末試験の勉強も手につかなかった。

 

 そして夕食を終えて自室に戻ったとき、スマートフォンが鳴った。

 彼からの返事だった。そこには、お礼の言葉と、終わったら店の裏口で待っていること、その時間が記されていた。真姫は短い返信を送った。

 

 真姫はスマートフォンを胸の前で抱きかかえた。

 

 どう、なるのかな……。わからないけど……。

 

        ・

 

 次の日曜日がライブだった。真姫はにこと御茶ノ水駅前で待ち合わせた。

 幸い風もなくよく晴れていた。日向にいれば寒さは感じなかった。

 

 真姫は薄い菫色のスリムなニットに、紺色のミニスカートをあわせ、パープルのコートを羽織っていた。胸元には赤い石のペンダントが光る。

 真姫は今日も化粧をしトワレを付けてきていた。

 

 ほんのすこしだけ待つと、にこがやってきた。にこは胸元にフリルの飾りのついたシャツに、タイトなネイビーのワンピースを重ねていた。襟と袖口の切り返しの赤がポイントになっていた。手にはペールピンクのコートを持っている。

 

「ニコちゃん、お花屋さんに寄りたいんだけど……」

「もちろんいいわよ」

 すこし遠回りして神保町の花屋へ立ち寄った。何度か使ったことがあり、花束は前日に頼んであった。

 黄色と白系の花を中心とした清楚な花束を受け取った。

「花束、送るのね」とにこ。

「ええ、最後だし……」

 

 それからラミリーズまで歩いた。

 

 ともすれば黙りがちになる真姫に、にこが話しかける。

「そういえば、曲はどうなの?」

「この前、海未に歌詞、もらったわ。……見る?」

 真姫はスマートフォンをバッグから取り出し、歌詞を見せた。いつでも曲を考えられるようにと撮影しておいたものだ。

「……へえ、すごく、いい感じね」

 読み終えて、にこがいった。

「うん。なんか……背中を押されてる、感じがしたわ」

 真姫は遠くを見るような目をしていった。

「そっか」にこは後ろ手で真姫の顔をのぞきこむ。「じゃ、決まったのね」

「うん」

 真姫はうなずいた。にこは微笑む。真姫も笑みを返した。

 

 店につくと、店の前の扉は開け放たれていた。屋外の席にもちらほらと人がいる。

 真姫とにこはホールのなか、ピアノから近い席に案内された。ホールも空席はすくなかった。ピアノのそばには機材が用意されている。

 

「聴きに来てる人、多いのかしらね」とにこ。

「そうなのかも」

 そういえば先生のこと、なにも知らないわ。あらためて真姫はそう思った。

 

 注文した飲み物とデザートが届いてからしばらくして、大久保と奈緒美を含めた五人の男女があらわれた。

 大久保はスーツ姿だった。ブラックスーツにダークグレーのシャツで、今日はシルバーのネクタイをしめている。真姫は精悍な印象を受けた。奈緒美はひざ下丈のツイードワンピースだった。シンプルなシルエットと落ち着いた深い紺色が上品だった。

 

 大久保は真姫に気付いて軽く手を振った。真姫はうなずき返した。それだけで嬉しくなる。

 

 マスターがアナウンスを始めた。そのあいだに彼らは機材を用意している。

「えー、本日はご来店いただき、ありがとうございます。ただいまより、有志によるライブを開催させていただきます」

 マスターはメンバーを紹介して続ける。

「この五人でのライブは、残念ながら今回で最後になります」

 ホールで、ああ、とか、おお、と声をあげたのは、メンバーの知り合いだろうか。

「ごゆっくり、お聴きいただければ幸いです。では、よろしくお願いします」

 上がった拍手に真姫とにこも加わった。

 

 最初の曲はピアノから始まった。透き通るような和音。ギターが続きハーモニーをつま弾く。シンセサイザーが美しい旋律を奏でていった。切ない雰囲気のバラードだった。

 次の曲はピアノが中心だった。短調の抒情的なメロディにときおりギターとシンセサイザーがアクセントを添える。

 控えめな悲しさが迫ってくるような気がして……真姫は心がかき乱されるのを感じた。

 

 曲が終わるといったん演奏が途切れた。メンバーは水を飲んだりしている。

 

「いいわね、やっぱり」

 にこは目を閉じてうなずいた。

「ええ……」

 真姫もテーブルに目を落とした。

 

 次の曲が始まる雰囲気に顔を上げる。ピアノのところにいるのは大久保と奈緒美だけになっていた。

 ふたりは視線を交わした。

 奈緒美がピアノを弾きはじめる。

 

「あ、これ……」

 真姫は漏らした。最初にこの店に来て練習を見せてもらったとき、ふたりが演じた曲だった。ふたつの楽器が重なりあって響く。奈緒美の声は澄みわたり、凛としていた。

 

 曲が終わると客のあいだから拍手が上がった。いつの間にか、外の席やフロアの端にいた客が、カウンターの近くや通路に集まっていた。

 

 真姫とにこは無言で微笑みあった。

 

 他のバンドメンバーがふたたび位置についた。

 一転してアップテンポの明るい曲だった。序盤はシンセサイザーが主導し、途中からはギターにかわる。ピアノとドラム以外のメンバーは狭いスペースを歩きながら演奏していった。

 真姫は曲に、なにかの予感を――勇気付けられるような想いを抱いた。

 ギターとシンセサイザーが競い合うようにして盛り上がる。最後はふたつの楽器が同時に響き、ドラムが締めた。

 

 ホールから大きな拍手が上がった。

 大久保がマスターからマイクを受け取った。

「えーと、どうも、ありがとうございました」

 上気した顔でそういい、一礼する。

「一身上の都合で、私がここで演奏するのは、今日が最後になります。いままで、ありがとうございました」

 ふたたび上がる拍手。

「えっと、これからもお店のほう、よろしくおねがいします」

 拍手に笑い声が加わった。

 

「真姫、いまよ」

 にこの声に真姫は我に返った。あわてて花束を準備する。

 真姫より先に女性の店員が彼に花束を渡していた。そのあとに続いて真姫も彼へ手渡す。

 彼は一瞬、驚いた顔をする。ホールからも、おおっというような、どよめきがわいた。

「ありがとうございます」

 彼は嬉しそうに笑った。

「あの、素敵でした」

 真姫はそういって顔を赤らめた。

 

 彼はふたつの花束を片手で持って、右手を真姫に差しだした。真姫はその手を握った。

 初めて握る彼の手は大きくて温かかった。彼は一瞬、軽く力を込めるとすぐに手を離した。もう一度、真姫に笑いかける。

 真姫は笑みを返すのがやっとだった。恥ずかしくなり、そそくさと、にこのところに戻った。

 

「お疲れさま」

 にこが迎えてくれた。

 真姫の右手には、まだぬくもりが残っていた。

 

 立ち見をしていた客が席に戻っていった。ホールにはざわめきが戻ってきた。

 大久保たちはカウンターのあたりで談笑している。真姫はそちらが気になってちらちらと視線を送った。

 

「このあと、なんでしょ」とにこ。

「うん、先生と約束してる……」

「そっか。いい結果が出るよう、祈ってるわ」

 にこは、はげますようにいった。

「ありがと、ニコちゃん」

 

 いつのまにか大久保たちはいなくなっていた。約束の時間が近付いていた。

 会計をして――にこが主張して割り勘になった――店を出た。

 

 すでに日は落ちて夕焼けの空は色彩を失いつつあった。

 

「じゃあね、真姫」

「うん、ニコちゃん……」

 真姫は急に心細さを感じた。でも、もう頼れないわ、と思う。

「あの……気を付けて」それだけいう。

「ええ、真姫もね。……連絡、ちょうだいね」

 にこは最後に、真姫の肩をぽんと叩いた。

 

 にこの姿が見えなくなる。真姫はため息をひとつついてから、きっと顔を上げた。

 

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