五線譜にラブソングを ~ Story of Maki 作:Kohya S.
それからも真姫は定期的に塾に通った。大久保とは授業の話に加えて、ときおり雑談を交わしていた。
真姫は彼との距離が近くなるのを感じていた。
二学期の期末試験が近付いたある日のこと。
「西木野さん、すこしお時間、ありますか」
授業が終わったあとで大久保がいった。
真姫は相談室へ案内された。いつものように彼が扉を支えてくれる。
ふたりは席についた。彼はすこし困ったような顔をしていた。しばらくして彼は切り出した。
「西木野さんには、申し訳ないんですが……」
いったん彼は言葉を切った。真姫は、なにかしら、と思う。
「……実は、塾をやめることになりました」
「えっ……」
真姫は絶句した。突然のことに頭が追いつかない。
「年度の途中で、申し訳ありません」彼は深く頭を下げた。「次の講師への引き継ぎは、しっかりやりますので」
彼は申し訳なさそうにいった。
「いつ、おやめになるんですか」
「年内いっぱいで……」
「そう、なんですね」
真姫はぽつりといい、うつむいた。
「来月になったら調整を始めますが……。先に、西木野さんにはお伝えしておこうと思って……」
「……ありがとうございます」
「本当にすみません」
彼はもう一度、礼をしてから立ち上がった。真姫ものろのろと席を立つ。
「あ、それで……」
思い出したように彼がいった。
「来月の八日に、最後のライブ、やりますので……。昼の部もあるので、よかったら来てください」
彼はすまなそうな微笑みを浮かべた。
「あ、はい……」
真姫もなんとか笑みを作り、こたえた。
真姫はビルを出てゆっくりと歩き始めた。頭にようやく事実が染み込んでくる。
先生がやめちゃうなんて……。それって、もう、会えなくなるってことかな。
先に教えてくれたことは彼なりの親切なのだろうと思う。特別扱いされたようで、それは嬉しかった。
ライブについて招待してくれたのも、彼が真姫のことを単なる生徒のひとりとは考えていない、ということだろう。
ただそれらも――彼がやめてしまうということの前には、真姫にとってささいなことでしかなかった。
十一月の風が急に寒く感じられた。
・
その日の夜。真姫は自宅のピアノをあてもなく弾いていた。
「はあ……」
食事と入浴はすでにすませてパジャマ姿だが、眠れる気はしなかった。真姫の心にはさまざまな思いが渦巻いていた。
自宅の音楽室は防音なので他の部屋に音が漏れることはない。落とした灯りのなか、グランドピアノの音が響いた。
「まさか、やめちゃうなんて……」
そうつぶやくと、今日何度目だろうか、真姫は胸が痛んだ。
先生、私のこと、どう思ってるのかしら。今日は……いろいろ気遣ってくれたし、この前も、一緒にライブに行ってくれたけど……。
でも、きっと、たんなる生徒のひとり、よね。すこしお話しするだけで……。
中学校のころも一部の生徒が、仲のいい先生と休日に遊んでいたりしたことを思い出す。きっと大久保から見ると、自分もそんなのものなのだろうと思う。
でも、もしかしたら……。
真姫は彼の笑顔を思い出す。心にほのかな希望が灯る気がした。
真姫は以前、聴いた曲を――最初にラミリーズへ行ったときに聴いた、彼が作曲した曲を思い出した。旋律ははっきりと記憶に残っている。
真姫はピアノでメロディを弾いた。それは甘く切なかった。
先生のことが、こんなに気になるなんて……。私、先生のことを年の離れた友達だと思ってたけど……。
そうね。先生が私のことをどう思ってるかじゃなくて……私が、先生のことを、どう思ってるのかが問題なんだわ……。
演奏をとめて真姫は考える。彼の面影が――頭をかく仕草、困ったような微笑み、広い背中、柑橘系の香りが――思い浮かんだ。胸がふたたびきゅんと痛む。
もしかして……ううん、そうだわ。私、先生のことが好きみたい……。
真姫はひとり頬を赤らめた。しかし、心にかかっていた
もう会えなくなるとしたら、私……。
どうすればいいのか、真姫にはまだ、なにもわからなかったが――それでもなにかしなくてはならない、それだけは感じていた。
・
「真姫、どうしたのよ。ぼーっとしちゃって」
翌日の放課後、練習の休憩中に、にこが真姫に問いかけた。
「あ、ニコちゃん。ごめん」
真姫は我に返る。
「大丈夫? 体調でも悪いの?」
にこは心配そうに真姫の顔をのぞき込む。
「ううん、平気よ」
真姫は無理に笑みを浮かべた。
いつものμ'sの練習、真姫はメニューになんとかついて行ったが、ちょっとしたはずみに昨日ことを考えてしまうのだった。
「そう? ならいいけど……」
にこの顔を見て、真姫は思わず口に出していた。
「……ニコちゃん、今日、一緒に帰れる?」
「ええ、いいわよ」
真姫の願いに、にこは即答した。
練習後、部室で制服に着替えてから、ふたりは一緒に下校した。学院前の長い階段をくだっていく。
「ううっ、ずいぶん寒くなったわね」
にこは大げさに体をすくめてみせた。今日はよく晴れているものの北風が冷たかった。
「……ニコちゃん、ちょっと相談したいことがあるの。どこかでお話し、できないかしら」
「そうね、それじゃいつものMバーガーでも、行きましょうか」
そういうにこに真姫は首を振った。
「……あの、もし、ほかのメンバーに聞かれると、ちょっと……」
「そっか……」
にこは眉を上げたが
「じゃあ、駅前のファミレス、行きましょ」
「ええ」
ふたりは御茶ノ水駅からほど近いファミリーレストランに入った。
「ここのプリン、おすすめよ」
真姫はすすめにしたがってドリンクバーとプリンを注文した。にこも同じものを頼んだ。
飲み物を取ってきてから、しばらくふたりは学院でのこと、μ'sのことなど雑談を交わした。
やがて注文が届いた。プリンを一口、食べる。にこのいう通りおいしかった。
会話が途切れる。
「それでね、ニコちゃん……」
真姫は切り出した。まっすぐに見つめてくるにこと、目をあわせられなくて顔をそむける。
「……この前、カフェにライブ、聴きにいったでしょ」
にこはうなずいた。
「あのときの先生……塾をやめちゃうんだって」
「あら、それは残念だわね」
にこは同情するようにいった。真姫はにこに視線を戻す。
「ええ。それで、私……どうしようかなって」
「……なにか、
「そうじゃなくて……」
いざ話そうとすると、なかなか勇気が出てこなかった。紅茶を口に含む。
「……彼のこと、どう思ってるの?」
にこは穏やかにいった。
「どうって……」
いきなりの言葉に真姫は顔を赤らめた。
「もう、ばればれなのよ、真姫は」
にこは「はあっ」とわざとらしくため息をついてみせた。
「で、どうなのよ」
にこは茶化すように続けた。
真姫は目をふせて、髪の毛の先を指に巻き付ける。
「……私、先生のことが……その、好きみたい……」
最後は消え入るようだった。
「やっぱりね」にこは優しく微笑んだ。「それで、どうしようか迷ってる、ってわけね」
真姫はこくりとうなずいた。
「どんな感じなの、その、彼とは」
「……この前、いっしょに、夜のライブに行ったの」
「あら、けっこういい雰囲気なのね」
にこはさすがに驚いたようだ。真姫はもう一度、うなずいた。
にこは自分のカフェオレを飲んだ。
「そうね……。結局、真姫がどうしたいか、じゃないの」
「私が……?」
真姫は顔を上げる。
「もちろんそのまま、胸にしまって思い出にしてもいいし、ダメ元で告白するのも、いいと思うわ」
「それは、そうなんだけど……」
「私になにかいわれて、その通り行動したとしても……。結局、うまくいかなかったら、どうするのよ」
「……」
「悪いけど、そこまで責任、持てないってこと」
にこはやれやれ、というように首を振った。
「そんな……」
真姫は、責任なんて問うつもりはないわ、といいかけて――思い直す。言葉は悪いがにこは、真姫が自分自身でこたえを出すべきだ、そういっているのだろう。
たしかに、こんなことで頼っちゃ、だめよね。真姫はそう思う。
私……どうすれば……。そうね、このままじゃ、嫌よ。ダメ元なんて、わかってるけど……彼の気持ち、たしかめたい。でも……やっぱり、怖いわ。
真姫は迷いながら続ける。
「……それで、今度、最後のライブがあるっていわれて、誘われてるの」
「もちろん、行くんでしょ」
「そのつもりだけど……。ニコちゃん、一緒に行かない?」
「ええっ、どうしてそうなるのよ」目を見張るにこ。「ちょうどいい機会じゃない。ひとりで行きなさいよ」
「でも……」
真姫は不安にかられて思わず泣きそうになる。
「あーもう、そんな顔、するんじゃないわよ……」
にこはあきらめたように笑う。
「仕方ないわね……。最後、どうするか、真姫が決めて、真姫がやるのよ」
「……ありがと、ニコちゃん」
真姫は目をぬぐって、にこに笑いかけた。
ニコちゃん、すごく大人なのね。私、ニコちゃんのこと、誤解してたみたい。やっぱり年上なんだわ……。
・
数日後の土曜日。午後遅く、真姫はひとりでラミリーズに行った。昼間の営業がそろそろ終わる時間だ。ライブは来月だったが、たしかめたいことがあった。
「あの、カウンター、大丈夫ですか?」
案内の女性店員にそういってカウンターに座らせてもらった。カウンターのなかにはマスターがいて立ち働いている。
紅茶を注文して、しばらくは大人しく座っていた。
やがてマスターの仕事が落ち着いたのを見計らって真姫は話しかけた。
「あの、マスター、ちょっといいですか……」
「はい、なんでしょう?」
彼は微笑む。
「……大久保さん、なんですけど」
「ええ、彼がなにか」
「今度、昼間にライブやるんですよね。それで最後になるとか……」
「はい、そうですね。うちとしても、残念なんですが」
「……花束とか、持ってきても大丈夫でしょうか」
「ええ、喜ぶと思いますよ」
彼はにこりと笑った。
真姫は次の話を切り出すか、しばらく
「あの……せんせ……大久保さんは、奈緒美さんと、どういう関係なんですか?」
「ああ……。やはり、気になりますか」
真姫はうなずく。
「おふたりは、以前……その、お付き合い、されてたんですよ」
そう聞いて――なんとなくそんな気がしていたものの――真姫はショックを受けた。
ただ、マスターの最後の言葉がひっかかった。
「……されてた?」
マスターはカウンターのなかの食器を拭き始めた。
「はい。いまは、違うようですね」
「そうなんですね……」
真姫は目をそらした。
いまは違うってことは……望み、あるのかしら。そう思うと、心に灯った希望がわずかに明るさを増す気がした。
「ただ……」
真姫のようすを見たのかマスターがなにかいいかける。
「……いや、止めておきましょう。すみません、すこし話しすぎましたね」
真姫は気になったがそれ以上、聞くわけにもいかなかった。
「ありがとうございました」
「いえ、どういたしまして」
マスターは真姫に優しい笑みを見せた。
気付けば他の客はほとんどいなくなっていた。
真姫はもう一度礼をいい、店をあとにした。
・
十一月も終わりに近付き、ラブライブの最終予選の詳細が明らかになった。日付は来月の二十五日、クリスマスに決まった。また歌う曲は新曲でなくてもよいとのことだった。
秋葉原では予選のプレイベントが開かれ、A-RISEとともにμ'sも取材を受けた。
時間も限られていることもありメンバーは既存の曲で
花陽いわく、ラブソングといえばアイドルの定番。なぜいままでμ'sの曲にそれがなかったのか――作詞担当の海未に矛先が向いた。
「海未ちゃん、恋愛経験、あるの?」
「あるの?」
穂乃果、ことりをはじめとするメンバーに迫られて――。
「そ、それは……。うぅっ……ありません」
海未は涙目でそうこたえた。
真姫は自分がターゲットにならず、ひそかに安堵していた。もし私が問い詰められてたら……なんてこたえてたか、わからないわ、と思う。
それからみんなで取り掛かったものの、曲作りは大いに難航した。
全員、恋愛経験がすくないというのはひとつの理由だが――真姫は、それだけではないだろうと思う。
だって、恋愛してたからって、それを表現できるとは、限らないと思うわ。本人も、なにがなんだか、わからなんだもの……。
ある日、穂乃果の自宅でおこなわれた作曲の会議で、諦めたほうがいいと真姫は提案した。うすうすそう感じていたのか、希も含めてメンバーは納得した。
ただ、真姫は、希がなぜそこまで新曲を希望するのかが気になった。
真姫は帰宅する希と絵里を追いかけて質問した。
希は初めは渋っていたものの――最後には自分の希望を打ち明けた。
「九人が集まって、力をあわせて、なにかを生み出せれば、それでよかったんよ」
それぞれの想いを抱えたみんなが集まって、みんなの願いが
真姫は、希の願いに心を揺さぶられた。もちろんいままでもμ'sとして活動してきて、さまざまなもの、さまざまな想いが積み重なっているが――曲として残すのも悪くない、そう感じたのだった。
そして希の部屋に全員が集まった。
希の部屋に飾られていたμ'sの集合写真にみなが気付く。
「ん……? これって……」と花陽。
「そういうの飾ってるなんて、意外ね」にこもいう。
希はあわてて写真を取り戻す。
「別にいいやろ、うちだって、そのくらいするよ。……友達、なんやから」
いままでミステリアスでどこか近付きがたい雰囲気のあった希も、とうとう心の壁を取り払い――本音で向き合うことにしたようだった。
窓の外で雪が降り始めた。みなは外へ駆け出した。
音もなく落ちてくる雪片とともに、歌詞も舞い降りてくるようだった。
・
音ノ木坂学院は期末試験の期間に入り、部活も休みになった。
海未は、メンバーが考えた歌詞の
「いい歌詞が、できると思います」
あの日、別れるときの海未の顔はほがらかだった。
真姫も歌詞ができたらすぐに、試験期間内にも曲を完成させるつもりだった。
ただ、真姫にとって、期末試験よりも作曲よりも気がかりなのは、すぐ近くに迫った大久保の最後のライブだった。
ライブには行くと決めたし、にこにもああいったものの――どうすればいいか結論は出ていなかった。
そして数日後。
放課後、一年生の教室にひとりであらわれた海未から、真姫は一枚の封筒を受け取ったのだった。
「ありがとう、海未」
「どういたしまして。……曲のほう、よろしくお願いしますね」
その場で確認しようとする真姫を恥ずかしそうに押しとどめて、海未は逃げるように帰っていった。
真姫は帰宅してから自室に直行して封筒を開いた。なかには一枚のレポート用紙。「Snow halation」と題された歌詞は、冬を思わせる情景のなか、想いを募らせる女性の心と、決断する勇気を
なによ、これ……。まるで……まるで、私のことじゃない。
真姫は涙がにじんでくるのを感じた。
そうよね、たしかめないと、私、後悔するわ、絶対に。
真姫は鞄から赤いスマートフォンを取り出した。ロックを解除する。
彼に電話を掛けるのはためらわれた。直接、話すなんて、できそうにないわ、と思う。真姫はメールを書き始めた。
ライブに行くこと、終わったあとですこし時間が欲しいことを書いて、送信した。
真姫はその日、落ち着かない気持ちのまま過ごした。期末試験の勉強も手につかなかった。
そして夕食を終えて自室に戻ったとき、スマートフォンが鳴った。
彼からの返事だった。そこには、お礼の言葉と、終わったら店の裏口で待っていること、その時間が記されていた。真姫は短い返信を送った。
真姫はスマートフォンを胸の前で抱きかかえた。
どう、なるのかな……。わからないけど……。
・
次の日曜日がライブだった。真姫はにこと御茶ノ水駅前で待ち合わせた。
幸い風もなくよく晴れていた。日向にいれば寒さは感じなかった。
真姫は薄い菫色のスリムなニットに、紺色のミニスカートをあわせ、パープルのコートを羽織っていた。胸元には赤い石のペンダントが光る。
真姫は今日も化粧をしトワレを付けてきていた。
ほんのすこしだけ待つと、にこがやってきた。にこは胸元にフリルの飾りのついたシャツに、タイトなネイビーのワンピースを重ねていた。襟と袖口の切り返しの赤がポイントになっていた。手にはペールピンクのコートを持っている。
「ニコちゃん、お花屋さんに寄りたいんだけど……」
「もちろんいいわよ」
すこし遠回りして神保町の花屋へ立ち寄った。何度か使ったことがあり、花束は前日に頼んであった。
黄色と白系の花を中心とした清楚な花束を受け取った。
「花束、送るのね」とにこ。
「ええ、最後だし……」
それからラミリーズまで歩いた。
ともすれば黙りがちになる真姫に、にこが話しかける。
「そういえば、曲はどうなの?」
「この前、海未に歌詞、もらったわ。……見る?」
真姫はスマートフォンをバッグから取り出し、歌詞を見せた。いつでも曲を考えられるようにと撮影しておいたものだ。
「……へえ、すごく、いい感じね」
読み終えて、にこがいった。
「うん。なんか……背中を押されてる、感じがしたわ」
真姫は遠くを見るような目をしていった。
「そっか」にこは後ろ手で真姫の顔をのぞきこむ。「じゃ、決まったのね」
「うん」
真姫はうなずいた。にこは微笑む。真姫も笑みを返した。
店につくと、店の前の扉は開け放たれていた。屋外の席にもちらほらと人がいる。
真姫とにこはホールのなか、ピアノから近い席に案内された。ホールも空席はすくなかった。ピアノのそばには機材が用意されている。
「聴きに来てる人、多いのかしらね」とにこ。
「そうなのかも」
そういえば先生のこと、なにも知らないわ。あらためて真姫はそう思った。
注文した飲み物とデザートが届いてからしばらくして、大久保と奈緒美を含めた五人の男女があらわれた。
大久保はスーツ姿だった。ブラックスーツにダークグレーのシャツで、今日はシルバーのネクタイをしめている。真姫は精悍な印象を受けた。奈緒美はひざ下丈のツイードワンピースだった。シンプルなシルエットと落ち着いた深い紺色が上品だった。
大久保は真姫に気付いて軽く手を振った。真姫はうなずき返した。それだけで嬉しくなる。
マスターがアナウンスを始めた。そのあいだに彼らは機材を用意している。
「えー、本日はご来店いただき、ありがとうございます。ただいまより、有志によるライブを開催させていただきます」
マスターはメンバーを紹介して続ける。
「この五人でのライブは、残念ながら今回で最後になります」
ホールで、ああ、とか、おお、と声をあげたのは、メンバーの知り合いだろうか。
「ごゆっくり、お聴きいただければ幸いです。では、よろしくお願いします」
上がった拍手に真姫とにこも加わった。
最初の曲はピアノから始まった。透き通るような和音。ギターが続きハーモニーをつま弾く。シンセサイザーが美しい旋律を奏でていった。切ない雰囲気のバラードだった。
次の曲はピアノが中心だった。短調の抒情的なメロディにときおりギターとシンセサイザーがアクセントを添える。
控えめな悲しさが迫ってくるような気がして……真姫は心がかき乱されるのを感じた。
曲が終わるといったん演奏が途切れた。メンバーは水を飲んだりしている。
「いいわね、やっぱり」
にこは目を閉じてうなずいた。
「ええ……」
真姫もテーブルに目を落とした。
次の曲が始まる雰囲気に顔を上げる。ピアノのところにいるのは大久保と奈緒美だけになっていた。
ふたりは視線を交わした。
奈緒美がピアノを弾きはじめる。
「あ、これ……」
真姫は漏らした。最初にこの店に来て練習を見せてもらったとき、ふたりが演じた曲だった。ふたつの楽器が重なりあって響く。奈緒美の声は澄みわたり、凛としていた。
曲が終わると客のあいだから拍手が上がった。いつの間にか、外の席やフロアの端にいた客が、カウンターの近くや通路に集まっていた。
真姫とにこは無言で微笑みあった。
他のバンドメンバーがふたたび位置についた。
一転してアップテンポの明るい曲だった。序盤はシンセサイザーが主導し、途中からはギターにかわる。ピアノとドラム以外のメンバーは狭いスペースを歩きながら演奏していった。
真姫は曲に、なにかの予感を――勇気付けられるような想いを抱いた。
ギターとシンセサイザーが競い合うようにして盛り上がる。最後はふたつの楽器が同時に響き、ドラムが締めた。
ホールから大きな拍手が上がった。
大久保がマスターからマイクを受け取った。
「えーと、どうも、ありがとうございました」
上気した顔でそういい、一礼する。
「一身上の都合で、私がここで演奏するのは、今日が最後になります。いままで、ありがとうございました」
ふたたび上がる拍手。
「えっと、これからもお店のほう、よろしくおねがいします」
拍手に笑い声が加わった。
「真姫、いまよ」
にこの声に真姫は我に返った。あわてて花束を準備する。
真姫より先に女性の店員が彼に花束を渡していた。そのあとに続いて真姫も彼へ手渡す。
彼は一瞬、驚いた顔をする。ホールからも、おおっというような、どよめきがわいた。
「ありがとうございます」
彼は嬉しそうに笑った。
「あの、素敵でした」
真姫はそういって顔を赤らめた。
彼はふたつの花束を片手で持って、右手を真姫に差しだした。真姫はその手を握った。
初めて握る彼の手は大きくて温かかった。彼は一瞬、軽く力を込めるとすぐに手を離した。もう一度、真姫に笑いかける。
真姫は笑みを返すのがやっとだった。恥ずかしくなり、そそくさと、にこのところに戻った。
「お疲れさま」
にこが迎えてくれた。
真姫の右手には、まだぬくもりが残っていた。
立ち見をしていた客が席に戻っていった。ホールにはざわめきが戻ってきた。
大久保たちはカウンターのあたりで談笑している。真姫はそちらが気になってちらちらと視線を送った。
「このあと、なんでしょ」とにこ。
「うん、先生と約束してる……」
「そっか。いい結果が出るよう、祈ってるわ」
にこは、はげますようにいった。
「ありがと、ニコちゃん」
いつのまにか大久保たちはいなくなっていた。約束の時間が近付いていた。
会計をして――にこが主張して割り勘になった――店を出た。
すでに日は落ちて夕焼けの空は色彩を失いつつあった。
「じゃあね、真姫」
「うん、ニコちゃん……」
真姫は急に心細さを感じた。でも、もう頼れないわ、と思う。
「あの……気を付けて」それだけいう。
「ええ、真姫もね。……連絡、ちょうだいね」
にこは最後に、真姫の肩をぽんと叩いた。
にこの姿が見えなくなる。真姫はため息をひとつついてから、きっと顔を上げた。