真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第九十七話 空と君の間に

 ――六十年後、陳寿は南陽の北にいた。

 

 陳寿は司馬懿の死後、喪に服すとして職を辞した。

 官位を安易にかなぐり捨てることは、陳寿の人生において良いことではなかったが、服喪の後には再び復職が確かであることがわかっていたので出来たことでもある。つまりからくりがある。事実は、司馬懿が残した機密費とも言える予算を使い、陳寿は洛外の歴史調査に出るため放浪の旅に赴いたのであった。

 放浪とはいえその目的地はある程度明確であった。陳寿の目的はこの国の歴史をまとめ上げること、そして六十年前実在したとされる人物『李岳』の追跡であった。彼が訪れた土地をくまなく訪ね歩くことが彼女の旅の骨子だった。

 李岳の足跡は宮廷の正式な書物にはほとんど書かれていない。わずかな証言と推理を頼りに博打を打つような気持ちで歩きまわるのみであったが、主な史跡と戦場を全て辿ることによって大枠は埋められると陳寿は考えた。

 六十年。それは侮れない年月である。この間に幾度も戦乱はあり、また戦場に送られずとも病に倒れる人も多い。人の寿命の平均はいくつくらいか? 五十か六十か、あるいは四十ということさえありえるのだ。享年七十二で没した司馬懿は稀に見る長寿なのである。

 李岳という人物が生きていた六十年前、その当時を生きていた人物はもうほとんどいない。彼の功績が仮に闇に葬られてしまっているとして、では実際に李岳を目にした人が自らの息子や娘、さらには孫にまで口伝する者がどれほどいるだろう? 国史に記されないということは、国家の事業に関わってなどいなかったこととされることと同義なのだ。

「……なぜ、ここまで徹底的に歴史から消えたのだろう」

 陳寿は日よけの編笠の中でつぶやいた。今は馬上である。職を辞してまず祀水関を訪れた陳寿は、その後に荊州へと下り、今また北上している道中である。

 祀水関での調査は(かんば)しいものではなかった。数ヶ月に限られた滞在では陳寿の疑問を解消することは出来なかったのだ。後ろ髪を引かれながら、未だ訪ね歩かなくてはならない場所の多さを秤にかけ、次の場所である荊州へ向かったのが半年前。

 記録によれば六十年前、反董卓連合軍と称して徒党を組んだ群雄が洛陽を目指して進撃した。洛陽から派遣された防衛軍の総指揮を任されたのは張遼、そして参謀に賈駆の名がある。連合軍の攻撃を祀水関を盾に赫昭が防ぎ、奇襲で以って連合軍を討ち滅ぼしたとされる。

 人選に関しても疑問があるが、陳寿にとって最大の謎は最終決戦での奇襲であった。

 

 ――この時、匈奴の軍勢が援軍として現れたのだ。

 

 武と知で名を馳せた後の右賢王香留靼。彼を擁した匈奴の騎馬隊およそ十万が突如現れ連合軍を襲ったのである。時の帝の詔書が残っているのでそれは歴史的に動かしようのない事実である。

 陳寿が訝しんでいるのは、誰が匈奴との仲介を成したかであった。匈奴はその前年、洛陽をおびやかさんとして於夫羅を首魁として南進している。たった一年で旗を翻すのは簡単には納得しかねる。

 きっと誰かが動いたのだ。その誰かがわからない。陳寿の脳裏には、やはり『李岳』という名が真っ先に浮かび挙がるが、理由がわからない事の原因を、消息不明な人物に押し付けるのはとても知的な態度とはいえないし、歴史家にあるまじき不誠実さともいえるだろう。

 

 ――だがそれでも、陳寿の脳裏には彼の者の名がこびりついて離れない。

 

 その後に訪れた荊州もそうである。

 反董卓連合軍戦の後、台頭を目論んだ劉表に対して皇帝劉弁はそれを許さず、軍を派遣して鎮圧を実行したとされている。派遣された将は張遼、呂布、高順、徐庶。呂布と黄忠が一騎討ちを行ったとして名高い『朝陽の戦い』であった。

 張遼を大将とした官軍は破竹の勢いで荊州各都市を攻略し、州都・襄陽に迫ったとされる。劉表が迎撃に派遣したのは蔡瑁を筆頭とした精鋭軍であったらしいが、しかし、大戦をくぐり抜けてきた歴戦の騎馬隊相手に劉表軍は為す術もなく切り崩され、敗走に追い込まれた。

 その時、追走する張遼軍の前に現れたのが黄忠である。

 千の矢を一人で放つとまで謳われた猛将は、寸時であれ北の強兵を押しとどめたとされる。その奮戦ぶりにあわや蔡瑁は逃げ延びるかと思われたが、許さぬと現れたのが呂布である。

 反董卓連合を裏切り、官軍に降った呂布は、今こそ忠誠を見せる時だとして愛馬である赤兎馬を駆り、黄忠へと肉薄した。人馬一体の動きで黄忠の矢をかいくぐった呂布は、苛烈な一撃を加えて黄忠を生け捕りにする――陳寿もさすがに、呂布が黄忠の矢を口でくわえ込んだという逸話は誇張であると考えている――この一騎討ちは歴史絵巻でも人気の高い話で民の語り草である。これから後、黄忠は官軍に下り尽力し、呂布は『飛将軍』とあだ名されるようになる。

 

 ――荊州では記録を司る官吏と、いくつかの村の語り部に話を聞いて半年を過ごした。その結果、この荊州戦に李岳は訪れていたはずだ、と陳寿は読む。

 

 根拠は人選にあった。張遼、高順、呂布、徐庶……記録において荊州攻略戦に参加した将たち。確かに皆名将であるが、だが官軍として戦うようになった時期に違和感がある。

 張遼は対匈奴の精兵を率いていたとして古参と言えたが、高順、徐庶はこれがほとんど初陣である。呂布に至っては元々敵方の人物であった。

 当時洛陽は北に袁紹、東に曹操、西は劉焉、南は劉表に囲まれ、反董卓連合を退けたとは言え群雄の台頭を抑止することが出来ないまま存亡の危機に立たされていた。その状況下で南を急襲するのである。敗北はもちろん、手間取ることさえ許されない背水の出陣であったはずだ。

 高順も徐庶も呂布も、後年を知る者からすれば納得の人選ではあるが、当時はそうではない。どこの馬の骨とも知れない人物と、こちらに付いたとはいえ裏切り者である。重要な局面を任せる程の信頼に値しないのだ。記録では総大将とされている張遼だが、政略家としての嗅覚も求められるこの局面で最適な人選とは言い難い。

 つまり、不自然。そこにいるべき誰かが欠けている。やはり他に誰か、責任者が別にいたのだ。つまり、李岳。

 

 ――李岳が荊州攻略の責任者であった。最速の道筋で南下を果たし、劉表を捕える。それが李岳の描いた筋道であった。高順も徐庶も呂布も李岳が見出したのだ。東西南の三方向から包囲されている苦境を、まず南から解決しようとしたのは妥当な判断である。

 

 ――ひょっとすれば反董卓連合戦の前後から、洛陽の軍勢を統括していたのは李岳かも知れない、とさえ思う。

 

「どこかで必ず、まず間違いなく李岳さんが関与している、はず……なんだけどなあ。ちくしょー」

 いかに思えど証拠がない。証人がいない。陳寿が書くのは創作が許される民話の類ではない。歴史書なのだ。確固たる根拠のない話など町辻で歌われる日銭目当ての民話と大差ない。

 陳寿はガブガブと竹筒から水を飲むと、ええい、と乱暴に口元を拭った。反董卓連合戦に勝った。荊州を攻略した。証拠はないが、そこまでは良い。納得いかないのはその後であった。

 陳寿は荊州攻略戦以後の洛陽の動きに一つの違和感があった……より正確に言えば『違和感がない』という違和感である。

 北方の覇者である巨人・袁紹と劉虞を相手取った大戦。その大戦に至るまでの布陣や人材配置においては、確かに通説通り賈駆の辣腕と司馬懿の台頭によって成されたと考えている。その動きは非の打ち所のないものだと考えられるが、しかしそのまま事態は完結してしまうのである。全てが妥当極まるのだ。

 陳寿は反董卓連合戦から袁紹劉虞連合との激突までを一つの流れの中にある戦いだと捉えている。そう考えた場合、どうしても違和感を拭うことが出来ない。どうしても奇妙な断絶があるように思えて仕方ない。

 記録からの削除。存在感がある時と無い時。しかし連続した戦略の一貫性。その全てに解を与える明察とは――

「あ?」

 陳寿は瞬間、脳内が驚きで色めき立つという人生初の経験に背筋を凍らせた。誰かが足りないという違和感がある時期と、違和感のない時期がある――それはつまり、本当にいなかった、ということではないのか?

 陳寿は鳥肌を抑えきれず、竹簡を取り出すと急いで墨を用意して自分の仮説を殴りつけるように書き付けた。馬車の御者が奇異な視線を向けてくるが気にも留めない。

 最初の一文はこうであった。

『李岳は、ある時から現れ、そしてある時をもって消えたのではないだろうか』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――李岳は筆を置くと窓の外を見た。

 

 黎明である。今や夜は終わろうとしている。朝が始まる。雲の少なく小鳥の鳴き声がよく聞こえる朝だ。

 きっと良い一日になるだろう。

 

 

 

 

 

 河北の夏。黄河の風が吹き込むためか、空の鮮やかな青に比してかなりの湿り気がある。日差しは射抜くよう、ふちの広い帽子を被っているがそれでもジリジリと焼かれるようだった。

 首を叩くと、赤兎馬はゆっくりと速度を上げ始めた。風は強さを増して、呂布を抱きしめるように包んだ。赤兎馬が足に力を込めるにつれ、風は水のように実体を持ち、呂布の体を押しとどめようとした。草の匂いが染みついた空の水に溺れるように、呂布はのけぞりながらそれを楽しんだ。

 やがてかなりの速度になると汗でふとももが濡れ始めた。呂布は一度も手綱を引かなかった。負けたくない、とでも言うように赤兎馬は疾駆した。初めて自分に追随する相手に出会った緊張と喜びが伝わるようだった。隣に並ぶ黒狐――李岳を乗せた黒馬は赤兎相手に一歩も引かない。荒い呼吸を繰り返しながら、二頭は飛ぶように草原を抜いた。

 

 ――こうして二人で野駆けに出ることは久しぶりであった。李岳ももちろん多忙だが、呂布もまた意外なことに忙しいからだ。

 

 本来呑気な性格の持ち主である彼女は、雑務に忙殺されることなど滅多なことでは受け入れないが、その「滅多」というのがいま彼女の日常になりつつあった。

 董卓が丞相に就任し、その権限でもって自らの府を開いた。丞相府の下には四つの軍団が抱え込まれているおり、洛陽の防備を担う第一軍団、長安方面の攻防を担う第二軍団、袁紹と劉虞を睨んだ東方戦線の解決を任務とする第三軍団、そして荊州方面軍である第四軍団である。

 第一軍団長は張温。第二軍団長は皇甫嵩が軍団長として指揮統率を担っている。第二軍団は実質赫昭の支配下にあるが、あくまで前線部隊の隊長という位置づけでしかない。第三軍団長、第四軍団長は李岳が兼務していたが、劉表の更迭を見守った後から第四軍団はその規模を漸次縮小させている。

 董卓丞相府第三軍団李岳軍直属第一攻撃部隊三番隊隊長。それが呂布の肩書きである。安穏と動物たちと惰眠を貪るだけの人物がぶら下げていい役職ではなかった。

 荊州方面作戦が一段落した現在、第三軍団が最も攻撃的な軍団として編成されようとしていた。その中でも第一攻撃部隊は戦闘においては最大の破壊力と機動力を期待される戦闘集団となる。

 騎兵を主軸に据えた野戦に特化した攻撃部隊であり、部隊長は張遼。一番隊の隊長は張遼が兼務し、二番隊の隊長は高順である。そして三番隊の隊長が呂布であった。参謀陣も選りすぐりである。

 呂布率いる三番隊の兵員は千。一番隊、二番隊はそれぞれ三千であるが、駿馬を揃えた騎馬隊は張遼隊、高順隊を向こうに回しても決して引けを取らない。

 これからの戦いは数万と数万、あるいは数十万同士が激突する大兵力同士のものになるだろう。その中で自分に出来ることは何かと呂布が考えた時、混戦の中で敵の急所に最短距離で押し迫る剣となることであった。

 最強の少数精鋭。隊長として呂布が何を目指すかと考えた時、辿り着いた結論がそれであった。反董卓連合戦における最後の局面、曹操への追撃戦で決定的な仕事を出来なかったという反省が導いた結論でもあった。

 理想は、どのような相手であれ決して逃さず追い討つ最速最強の部隊である。同数では滅ぼす、敵が多勢であっても存分に翻弄する千人の遊撃部隊。張遼からも李岳からも好きにやれと言われている。呂布が初めて自分の武力以外に熱中しているものであった。

 

 ――だがそれでも、こうして李岳と過ごしている時が、呂布は一番好きだった。

 

 今日は李岳があらかじめ休みを合わせてくれたので、こうしてのんびりと野駆けができている。いつ以来だろうかと思うほど久しぶりであった。

 洛陽周辺をグルリと駆けまわり、城内に戻ったのは正午をわずかに過ぎた頃であった。半日程度の野駆けなどあっという間である。本当は何日も何日も、露営をしながら旅をしたい。が、それは今の二人には許されない。いつか北の大地に再び旅をできたらと思う。

 呂布と李岳は城内に入ると馬から下り、洛陽の街をゆっくりと進んで屋敷に戻った。

 李岳は駆けてる間、終始無言であった。帰宅した今も、無言のまま黒狐に(まぐさ)と水を与えている。機嫌が悪いのかと思ったが、馬上では気持ちよさそうであったし今も穏やかな顔をしている、と呂布が思った時だった。

「腹減ったな」

 ようやく口を開けばそれだった。

 それを聞いて呂布もまた自分の空腹を自覚し、そしてちょうど腹も鳴った。

 しょうがないな、となぜか李岳が偉そうに笑ったので呂布は一つ蹴りを入れた。それほど力も入れていないというのに、李岳は大げさに痛がっては厩舎から飛び出していった。

 その背中を見送って、呂布は赤兎馬と黒狐を交互に撫でた。なぜだか少しさびしくて、まだ走り足りないという二頭の元気さがありがたかたった。

 

 ――しばらく赤兎馬と黒狐と戯れた後、呂布は庭に戻った。

 

 自宅の庭には石組みの(かまど)をあつらえており、煮炊き出来るようにしている。李岳はもう準備を整え鍋をかき混ぜていた。呂布は黙ってそれを見ている。手伝うつもりはない。料理は李岳の数少ない趣味だった。

 鉄鍋の中にはぐつぐつと音を立てて黄色い汁が煮立っている。侍女たちが気を使い手伝おうかと言ってきたが、ひとりきりで苦労する幸せというものもあるのだ、と妙に達観めいたことを言って李岳は全てを突っぱねた。

「出来た? 味見」

 スンスン、と鼻をひくつかせて、呂布は匙を突っ込もうとした。李岳得意の『天竺鍋』である。

「こらこら。もうちょい待て」

「ダメ?」

「まだ足すものがあるからな」

「ん、待つ」

 そう言われると素直に手を引っ込めるしかない。呂布は李岳の隣にちょこんと腰を下ろした。間もなく彼女の周りには、庭中の動物たちが寄ってきた。犬、猫、鳥たちが集まり思い思いにくつろぎ始めた。動物たちは呂布だけでなく、一応の家主でもある李岳にも挨拶しようと寄っていったが、もはや作業に没頭している李岳は正直わずらわしそうである。申し訳程度に李岳の手を舐めに来たセキトをくすぐり、李岳は再び鍋に向かった。

「ねねや母さん、珠悠も暇が合えばよかっただけどな」

 器に盛られた料理を受け取りながら、呂布はどうでも良さそうに頷いた。皆、忙しい。忙しいからここに居れない。ここに居れない人は食べられない。だったら食べられない人の分まで食べてあげよう――その理屈は呂布の中では至極自明であった。

 夢中で食べておかわりもした。見越していたのだろう、李岳はかなりの量を作っていた。さしもの呂布もムキになるほどの量だったが、にわかに空がかき曇り、小雨がぱらついてきた。仕方ない、と呂布は肩をすくめる。ねねや桂もきっと食べたいはずだから。

 急いで片付けると屋敷に入った。李岳が隣で残念がっていた。

「せっかく外で食べてたのにな」

「またやればいい」

 呂布の言葉に、李岳は残念そうに答えた。

「少し忙しくなるからまたしばらく無理かな」

「いつも忙しい」

「まぁね。でもこれからもっと忙しくなる」

「そう」

「今から、また出かけなきゃならないしな」

 呂布は少し驚いた。李岳は今日こそ休みだと思った。

「どこ? 仕事?」

「そう、仕事」

 呂布は窓の外を見て言った。

「雨」

 李岳は困ったように苦笑して、小さく首を振る。

「降ってる。止んでから行けばいい」

「そうだな。でも、待ってたら約束を果たせなくなる」

「約束?」

「うん」

「じゃあ、仕方ない」

「そうだね」

「冬至はもう、約束を破れないから」

 苦笑いのまま李岳が呂布の頭をかき混ぜたので、呂布はそれなりの力で李岳の二の腕を殴った。痛い痛い、と李岳は目の端に涙を浮かべて笑う。

 李岳は行くのだろう、と呂布は思った。こんな雨では李岳を止めることは出来ないのだ。

「行ってらっしゃい」

 だから呂布はそう言い、李岳は行ってきますと答えた。

 それから身支度を整えると李岳は門をくぐって行った。呂布はしばらく誰もいなくなったその空間を、雨に濡れるだけの空間を、李岳の面影を手探るように見守った後、背を向けてセキトを探した。お腹が一杯だった。昼寝をたっぷり取ろうと思った。雨の日の微睡みはきっとよい夢を届けてくれるに違いないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 門をくぐり、雨に濡れ続けるのも構わず、李岳は立ち止まりしばしうめいた。李岳のうめきは雨に包まれ空虚に響くことさえなかった。

 誰一人聞き届けるはずもない繰り言を、李岳は湧き上がる想いのままに語った。

「俺は最善を尽くそうとした。知識を使って、仲間を集めたけど、使える手はなんでも使ったつもりだった。そうすれば何とかなると思った」

 雨は強さを増すことも弱めることもなく、李岳を濡らした。前髪からしたたった雨滴は、再び李岳の頬にこぼれ落ちて首筋へと流れていく。

「でも、ダメなんだな。俺の方法は間違ってた。俺は今まで築いてきたもの、作ってきたもの全てを捨てなきゃならないんだな」

 李岳はハッ、と自嘲気味に笑う。しがらみが苦手なつもりだった。人間関係には淡白だと思っていた。けれどそれは、甘ったれの意地でしかなかったのだ。

 自分は鉄人などではない。寂しがり屋のただの人だ。強がっていたのも昔の話、今や一人一人の仲間たちすべてに思い入れがあり、今の自分の居場所に愛着がある。

 それは李岳が獲得してきたものであり、守ってきたものだった。家であり、友であり、家族であった。

 戦以外にやりたい仕事もできた。街を作り、国を整え、暮らしを新たにし、多くの人を助けること。戦など好きではない。李岳は国の仕事に関わるようになり、まさにこの分野においてこそ自分の知識が活かされることを強く実感していた。改革、工事、教育、発明……

 戦さえ終わらせることが出来れば、存分に皆を助けることが出来る。自分がいれば匈奴とのいさかいも収めることが出来るだろう。本当の意味での天下泰平を――永遠とは言わないまでも、自分が死ぬまではかなう限りの――平和を実現できるはずだった。

 しかし運命は、それを簡単に否定した。

 それはお前の仕事ではない、と。

 

 ――自分の中にある日あらわれた一つの仮説は、初めは小さな小石程度のものであったはずなのに、今や鉄よりも強固で城壁よりも巨大なものになっていた。どうにか否定したくて仕方がないのに、与えられた破片の全てを合わせると、その絵しか浮かんでこない。李岳を掴んで放さない運命の呪縛。ここから先は進んではならないのだという、決して開かない運命の扉。

 

「……笑えるよな。他の誰にも知られずに、ただ一人、助けを求めることも出来ない仕事が、本来の俺の役目だなんて……なぁ、そうなんだろ?」

 誰ともなく呼びかけると、まさかというような細い柱の裏から、巨躯の魁偉が現れた。

 名は貂蝉。李岳がこの世に紛れ込んできた者であると、唯一知る者。

 貂蝉は李岳の顔を見ることなく、剃髪した頭を李岳と同じように濡らしながら頷くのみだった。

「俺の運命は、使命は、田疇が持つ『太平要術の書』を潰すこと。それ以上でもそれ以下でもない」

「ええ」

「それは俺だけが出来る」

「そうよん」

「それは、俺一人でないとやれない」

「その通り」

「俺だけがこの世界でたった一人、この世界の人間ではないから」

 貂蝉は空に向けていた瞳を李岳に眼差した。その瞳には興味と悲哀と悦楽が渾然一体と混ざり合っていた。

 ハッ、と李岳は鼻で笑った。

「普通なら誰も信じないだろうな。『願いを叶える方法を教えてくれる本がある』なんて言われてもな。幽霊を信じるようなものだから」

「そうねん」

「しかし、幽霊を信じることが出来る存在がこの世にはただ一つだけいる。それは――自身もまた幽霊である者だ」

 幽霊を消滅させるのもまた、幽霊の仕事なのだろう。

 貂蝉が笑みを押し殺したような表情で聞いた。

「参考までに、どうして誰にも助けを求めないのか聞いてもよろしいかしらん? たくさんのお仲間がいらっしゃるでしょう?」

「お前がどこの誰でどんな人間なのか、俺は一切興味がない。だがお前は俺の素性を知っている。そして言った。俺にしか出来ないと。逆に言えば俺には出来るということだ。つまり書には限界がある」

 貂蝉の瞳が好奇心で爛々と輝く。

「書が記述するのはこの世界の内側だけなんじゃないのか? 世界の外側から来た者は書の能力の範囲外となる。つまり、この世で俺だけ、書の力から除外されているんだ、きっと」

 自分に言い聞かせるように李岳は言った。

「俺一人でならその本の裏をかける」

 貂蝉はもう相槌さえ打たず、静かに頷くだけであった。

「だから俺は張純を潰せた。於夫羅を殺せた。反董卓連合を打ち破ることが出来た。それは全て、よそ者の俺が起点になって反撃を企てたからだ。この世界の歴史は俺が知るものとは違い、大きく狂っている。初めはそれが俺のせいだと思っていたが……」

 しかし、と李岳は首を振る。

「けど、違う。歴史を狂わせたのは『太平要術の書』とそれを持つ田疇。俺もまたそれに翻弄されている一人でしかなかったんだ」

 雨は強まりも弱まりもしない。李岳の全身はすっかり濡れそぼってしまった。

「お前がわざわざしゃしゃり出て来たのはこのままでは不味いと思ったからだ。このままでは俺は負けるからだ」

「ご明察」

「俺はもう今や組織の中の人間で、作戦や戦略を知る人間は無数にいる。巨大な枠組みの中の一人になった俺には、もう書の裏をかくことは出来なくなった……」

 帝から信頼され、司馬懿の知略を駆使し、官僚や将軍も皆が手を取り合い動いている。それは李岳が手に入れた財産であった。生死をともに分かち合えるかけがえのない仲間たち。何よりも李岳が愛する、戦友たちだった。

 しかしその仲間たちが、李岳に敗北をもたらすことになる。李岳は負ける。李岳は頼り、甘えたから。隣に仲間がいるから。書は、李岳の心は読まずとも、その信じる仲間の心は手に取るように把握するだろうから。

 

 ――世界はまた、李岳に孤独を強いる。

 

「俺には許されないんだな? もう誰かに相談することも、助けを求めることも出来ないんだな。そうすれば書は知る。内側の人間が知ることは全て察知するというわけだ……俺のことは知ることは出来ないけども、俺が誰かに話せばその誰かを通じて田疇は裏をかけるようになるから」

 雨は強くも弱くもならない。雨は、李岳の激情に共鳴することもなく、ただ淡々と世界を濡らし続ける。

「俺は一人でいるべきだったんだ」

 

 ――それが李岳の出した結論であった。

 

 もう皆に合わす顔もなくなるだろう。袁紹と劉虞との対決は避けられない。そのための準備を整えてきたが、まるで放り出すようにして自分は消えることになる。

 いま考えられる限りの策は仕込み、置いてきた。しかし大事な仕事の大半を放り出して消える男を誰がどう許すというのだろう。国家の運命を賭けた大戦を前にして、伝言もなしに消えた官軍の大将。自分なら、どんな理由があっても許さない。軍規にも友情にも反する。

「如月は呆れるかな。珠悠とねねは激怒するだろう。月なんて誘拐されたって誤解しそうだ。真に受けた詠は人相書きを手配するかもな。霞と沙羅は、さて、俺を裏切り者と(そし)るだろうか。そして兵たち……もう仲間とは思ってくれないかもな。母上はどう思うかなあ。まさか親子で同じようなことをする羽目になるとは。黒狐はもう俺のことなんか忘れてしまうかも」

 それにまた、自分は彼女を置き去りにしていく。

「また、恋を捨てて行くんだな、俺は」

 行ってらっしゃいと言われ、行ってきますと答えた。今は高順と名乗る、母である丁原もまた同じようなやり取りをして生死を賭けた戦いに出て行った。だがそれに比しても絶望的な旅路と言えるだろう。

 この世の理、全てを語り囁く魔の書を携えた男。袁紹の懐刀であり、黄巾賊を手懐け、劉備を籠絡せんとするこの国で最強の悪夢――田疇。

 それにただ一人、徒手空拳で対峙する他ない自分である。生前の知識ももはや飾り。十人並みの体力しかないただの男。策もなし。軍もなし。仲間もなし。だというのになぜ自分は旅立とうとするのか。

 李岳は貂蝉の瞳を見つめながら呟き続けていたが、貂蝉の瞳に、不意に慈愛が宿ったように感じた。

「勝つ気ですのねん」

 言われて、李岳は自然と頷いた。絶望の濃さだけ怒りが湧く。その怒りが、今また自分を奮いたたせる。

 

 ――眼の奥に灯った火。チカチカと小さな火花を上げ、ずっと李岳を焼き続ける火。

 

 いつの間にか貂蝉は姿を消していた。李岳は一歩を踏み出し、そして立ち止まることなく洛陽の城門を出た。雨具に身を包んだ行商の列に紛れ込み、李岳は東を目指した。

 雨はまだ降り続けている。しかし心の火を消すには弱すぎる。

 




夏がなかった。

あ、幕間込みでトータル百話あざっす。

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