真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百話 江南の蓮

 李岳はなるべく追跡を困難にするように、入り組んだ細い路地を何度もくぐり抜けて行った。その度に背中におぶった少女が「あわわ、あわわ!」と不安げに声を漏らすのが面白かった。しばらく走り回り、ようやく落ち着いた頃には李岳もすっかり汗をかいていた。

「あ、あの」

「……ああ、これは失礼」

 李岳は少女の意図を察すると背中から下ろした。辺りの様子を伺うがこれといった異常はない。追っ手が来ていたとしても撒いただろうと思うが、いかんせん慣れない街である。見れば身なりも上等な少女だ、どこかの名家の令嬢かもしれない。先ほどのゴロツキがそれを見越してのことならば、容易くは諦めないだろう。

「ここまで来れば大丈夫と思いますが、どうでしょう。念のためお家までお送りした方がいいかと思うのですが」

 少女は走ってもいないのに顔を真っ赤にしたまま、困ったように視線を泳がせている。無理もない。悪漢に囲まれ、命からがら逃げ出したはいいものの、助けだした相手もまた素性定かならぬ男なのだ。

 しかし少女は、まるで鎧のように自分の表情を隠していた帽子を取ると、ペコリと頭を下げた。

「あ、あの、あり、あり、あり……」

「ん?」

「ありがとう……ご、ございま……す……」

 李岳もまたひざまずき、目線を合わせた。

「いえ、当然のことをしたまでです。お怪我がなくて何よりでした。さ、今日はもうお戻りになられませ」

 そこまでが限界だったのだろう、少女は再び帽子を目深にかぶると、コクコクと頷いた。

 活気漲る街路を、少女が指し示すままに進んだ。恥ずかしがりやで引っ込み思案な様子が、どこか董卓に似ていて面白かった。少女が進む先は屋敷の多い北である。やはり裕福な家系の者なのだろうと思えた。

「あの……この街の人じゃないんですか?」

 おどおどしながら、少女がようやくそれだけ言った。

「えっ、ああ……今朝ついたばかりです。兗州の田舎から食い詰めてやってきたんです。お恥ずかしい話ですが」

「い、いえ……」

「しかし立派な街だなあ。目が回りますね」

 大きな巻物を背負った少女は、フフフと笑って李岳の隣を進む。

 少女は街路を北へと歩いた。市場を抜け、大店(おおだな)の商家を抜けてもまだ北である。いよいよ豪族名家の家々の区にさしかかっても、まだ先を進んだ。その先にあるものは一つしかなかった。

 少女は宮殿を目指しているのであった。

「あの、どちらまで」

「あわわ、驚かせてしまってすみません……でもあの……お、お礼をさせてください……」

「それは構わないのですが……お名前をお伺いしても? 申し遅れました。わたくしは徐原と申します」

 兗州を旅していた頃より使っている偽名であった。少女はうんと頷き、か細い声で名乗った。

「鳳統……字は士元です」

 李岳は緊張で身を固くした。表情や仕草に表れないよう、相当な神経を使わなくてはならなかった。

 

 ――鳳統。史実において諸葛亮と並び称された名軍師の名である。荊州から益州攻略へと乗り出した劉備遠征軍の参謀を務めた。合理的であり無情、そして苛烈。最短経路を突っ切るような単刀直入の軍略は全土を震撼させたが、(ラク)城攻略の際に流れ矢に射られ落命している。鬼才の夭折を劉備は心の底から惜しんだという。

 

 その鳳統が目の前に……この少女が劉備の陣営に参じており、先の反董卓連合軍に加わっていたことも李岳は把握している。このような偶然もあるのか、と息を呑む。危険だった。連合戦の際に、李岳は劉備、関羽、張飛と顔を合わせている。鉢合わせした時に何が起こるかわからない。

「あの有名な鳳雛先生でしたか」

「あ、あわわ……そんなすごい人じゃないです……か、かしこまらないでください……」

「そんな、ご無理を言わないでください」

 危険である。だが同時に、千載一遇の好機でもあった。この鳳統との繋がりを伝手とし、端役にでも収まれば目標遂行にグッと近づくことになる。ほぼ無策で冀州にやってきた李岳にとって、まさに天与の奇貨である。この宮殿にいることはまさに虎穴。しかし田疇という虎児はこの先にしかいないのである。

 田疇さえ倒せば、生きて洛陽に帰れる。みんなにまた会うことができる――興奮を帯び、希望に満ちた活路が見えたはずの李岳の目に、しかし別に一棹の旗が見えた。軍が教練する広場である。整然と居並び、または物資を運ぶ一軍。濃緑を地とした劉の旗が見える。

「劉備軍……」

「はい。明日、幽州にむけて出陣なのです。私も、行きますです……」

 李岳は顔をひきつらせ、鳳統を見た。少女は慌てて首を振った。

「あ、心配はしないでください……桃香さまは……劉備さまは、争いごとが嫌いです。いま、冀州と幽州の間では緊張が高まっています。桃香さまは、幽州の公孫賛将軍と御懇意です。誤解を解き、戦乱を回避するための使者となるのです」

 鳳統は李岳の意図を誤解している。李岳の戦慄は異なる視座からのものだった。

 劉備の派兵は決して平和の礎となるものではない。逆だ。これをきっかけとして戦乱を巻き起こすつもりなのだ。

 冀州を治める袁紹自身に、全国に覇を唱える野心がないことを李岳は既に把握していた。そのような大器の持ち主ではない、平凡なまでの自尊心に基づき動く性格の人だという。その袁紹と劉備は懇意だという。

 劉備の争いを好まぬ性格もまた真実だろう。そして公孫賛の性格を李岳もまたよく知っていた。二人を会わせれば、冀州と幽州の間に垂れ込める風雲はまさに無垢な初夏の蒼天のように取り払われてしまう。

 だが、果たして田疇がそれを許すような人間だろうか。田疇は、このまま無手で劉備を送り出すだろうか?

 洛陽と曹操が動けぬ間に北方を平定し、南下の用意をする。史実で袁紹が取った戦略を、今この時代の袁紹にも強いようとしている。田疇の戦略は一貫して、武力闘争による覇権の奪取である。

 その戦略に基づき、取りうる中で最も効果的な手段は何か? 田疇にとって劉備は駒でしかない。幽州と冀州との間に戦役を勃発させるための、何かしらのきっかけに使うに違いない。

 劉備と公孫賛、あるいは劉備と袁紹。相互の信頼が厚いからこそ、裏切られた時の恨みは深くなるだろう。

 

 ――張純、於夫羅、霊帝劉宏、段珪、太史慈、数多の人々……太平要術の書を携えた田疇の策略を、もっともつぶさに見てきた李岳だからこそ、察知できた蠢動であった。

 

「ど、どうされましたか?」

 鳳統が困惑したように李岳の瞳を見つめてきた。 

 李岳の手元には二枚の札があった。一方には田疇の暗殺を優先し、幽州の戦乱を見過ごすという札。もう一方には幽州の戦乱を食い止め、田疇の元から離れるという札。李岳にはそのどちらかしか選べない。

 迷いがなかったと言えば嘘になる。だが選んだ道を誇りに思うことに決めていた。

「ぶしつけなお願いがあるのです」

 再び李岳を見た鳳統の目にはいささかの動揺もなく、ただ怜悧だけがあった。

 

 ――翌日、袁紹の居城にいつもの高笑いが響いていた。

 

 おーっほっほっほ! という声は広大で豪奢な居宅をこだまして、とうとう街路にまで届いた。今や日常ともいえるこの哄笑、町の者たちにとって日の傾きを示す合図になって久しい。ああそろそろそんな時間か、と休憩と昼食に及ぼうとする者もちらほら。

 いま、袁紹が上機嫌に話している相手は劉備であった。出立前の挨拶に来たところを、昼食に誘い歓談している。劉備は今や、袁紹が最も信頼を篤くよせる一人であった。

「おーっほっほっほ! 桃香さんの無事の帰還が待ち遠しいですわね!」

「その時はきっと、白蓮ちゃんも連れてきますね」

「ふん! 公孫賛さんはとっとと過ちをお認めになられたらよろしいのに。本当なら桃香さんが出かけることもないのですわよ?」

「でも、友達だから……それに、白蓮ちゃんと仲良くできればこの地から争いはなくなるんですよね? だったら全然大変なことなんかじゃないです」

「あら? 当然ですわ、この袁家の頭領、袁・本・初! 本気を出せばこの中華の大地に平和をもたらすなどチョチョイのチョイですわ! おーっほっほっほ!」

 袁家の頭領としての自負は並々ならぬ。揚州で袁術も名声を集めているようだが、皇帝として即位した劉虞と圧倒的な民意の塊である黄巾の忠誠を獲得した今の袁紹の威光には、もはや到底かなうまい。政にも興味を持たず、ただ微笑んでいるだけの女である劉虞に袁紹はいささかも興味がなく、大将軍という地位を与えてくれる何者かでしかなかった。

 ただ一人、自分を差し置いて袁術を袁家の頭領だとのたまった李岳だけは許せない。宣言したのは皇帝であるが、どうせ李岳が言わせたに決まっているのだ。袁紹はその知らせを聞いた時、連合戦における敗戦さえ忘れて、すぐに南下して討ち滅ぼしてやろうと気勢を上げた。さすがに兵を出す余力はなかったが、袁紹の怒りはしばらく静まる様子さえなかった。

 袁紹が一定の落ち着きを取り戻したのは劉備と親しく過ごすようになってからである。劉備は袁紹の意図をよく汲み、楽しく過ごしてくれた。諫言を行うこともあったが、劉備が言うとなぜか気も荒立たず、大人しく聞く気になるのだ。

 結果、今のところ袁紹は急いで南下を催す気にはなっていない。それどころか公孫賛、曹操と和睦を結んでもいいという気さえしている。自分を認め、詫びの一つでも入れればこれまでの非礼は許してやろうというところだ。

 寛大さもまた大器の証明である、という劉備の一言が袁紹は大変気に入っていた。兗州と徐州を掠め取った曹操も何かと気に障るが、知らない仲ではない。こちらが争いを望んでいないとなれば、洛陽の頃のように親しく遊んであげても構わない。思えば宦官の家系の中でよく頑張っているものだ。大器の持ち主としては、多少の援助をしてあげたっていいところだろう、と袁紹は考える。そうすればきっと、張貘も喜び、また三人でお茶を片手に午後のひとときを過ごすあの日が戻ってくるに違いない。

 そのためにもまずは公孫賛への対処であった。北方の異民族と親しく交わるうちに、血の気がはやりすぎて戦のことしか頭に浮かばなくなってしまったのだろう、と思えば哀れにも思う。大器の持ち主としては、大らかに胸襟を開き、無礼を許してやってもいい頃合いだ。

「そのための使者というのが、桃香さん、貴女というわけですのよ。おーっほっほっほ!」

「え、あ、うん。はい。けど白蓮ちゃんは別に戦のことしか頭にないわけじゃ……」

「ものはいいようですわ! 言葉の綾ですわ! 微に入り細を穿つのですわ! おーっほっほっほ!」

「うん。意味はよくわからないけど多分そうだと思うなっ!」

 

 ――そうして劉備は冀州を発った。夏は既に終わりの気配。幽州から吹く北風のためか、冀州には一足早く秋の気配がただよい始めていた。

 

 その行先を見送る者が一人。後世『賈逵伝集解』にて曰く――城には七つの城門があり、そのうち鳳陽門、中陽門、広陽門の三つは南面にあった。真南に位置する中陽門は別名を章門ともいう。北門は玄武門といった――玄武門の楼上に田疇はいた。

 手には一冊の書物を携え、吹き始めた秋風に乾いた頬をさらす。その胸中を慮る者はおらず、憂いを癒やす友もいない。野望を遂げるために打ち捨てられる犠牲の数に涙することもない。ただ一人彼を理解することができる者の名を挙げるとすれば、それは彼の策をことごとく打ち破ってきた宿敵の少年だけだろう。

 田疇は身を翻し、次の策略の用意にとりかかる。いままさに見送り、やがて地平に去りゆく旅団の中に、己の宿敵が人足として身をやつしていることを知らないまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 唄は、たゆたう川のせせらぎを撫ぜるように流れていった。

 

 江南に蓮を採るべし

 蓮の葉 何ぞ田田たる

 魚 蓮の葉の間に戯る

 魚は戯る 蓮の葉の東

 魚は戯る 蓮の葉の西

 魚は戯る 蓮の葉の南

 魚は戯る 蓮の葉の北

 

 唄い終わると舟の中で一度口笛を吹いた。つがいで飛んでいた雲雀が、勘違いして舞い降りかけて慌てて再びはばたいていった。夏も終わりに近づいた。この夏、長江の流れは涼を運ぶと同時に、蒸し暑い湿りを伝って濃厚な熱気を大地に振る舞っていた。だがこれからは次第に、冬の冷気を運んでくることになるだろう。

「唄か?」

 雲雀は釣られなかったようだが、人は釣れたようだ。周瑜は起き上がると声の主に向き直った。魯粛は無表情に周喩を見ている。

「ああ。なんだか少しそんな気分でな」

「その唄、雪蓮殿が口ずさんでいるのを聞いたことがあるなぁ」

「私もそれで覚えた口さ」

 それでも忘れていくものはあるだろう、という言葉は飲み込んだ。

 孫策が死に、孫権が後を継いだ。袁術の元で逼塞していたのも束の間、李岳の南下に伴い即座に攻勢を取った。母、孫堅の仇を討ち、そして江夏を奪った。孫策の成せなかったことをした、と思ったものだ。

 自分も孫権も、孫策の呪縛に縛られ過ぎている。だが同時に、もっと雁字搦めにして欲しいと思うこともある。もっと胸をかきむしられ、もっと切なさに涙したい。だがそんな時はほとんど許されていないし、何より傷は嫌でも癒えてしまうものだ。

 あったはずの傷が塞がっているのを知った時、つまり喪失の手触りさえ失った時、その時こそ本当の喪失感は訪れるのだろう。時は失ったことさえ奪い去っていく。

「ま、あまり泣くな」

 魯粛が不意に失礼なことを言ったので、周瑜は肩をすくめた。

「とんでもない言いがかりだな」

「十全十全。そういうことにしといてやるさ」

 周瑜は立ち上がり、舟に乗り込んできた魯粛の手を取った。再会は何ヶ月ぶりになるだろうか。飄々とした身なりの汚い女だが、それでも死地をくぐっての再会である。

 

 ――周瑜がここ、江夏にたどり着いたのはつい先日である。孫権が陣頭指揮を執り、江夏を攻略したのだが、それは袁術との盟約を実質反故にするものであった。袁術の元に残っていた周瑜の任務はただひとつ。同じように取り残された孫尚香はじめ、昵懇の将と家族らを引き連れ、江夏へと脱出することであった。

 

 道中、五度に渡って交戦があった。その度に周瑜は策略を用いて、ほぼだまし討ちに近い形で袁術兵を沈めてきた。孫尚香の働きも大きく、誰一人欠けることなくこの江夏にたどり着くことができた。寝る間もなく舟を動かし続けた周瑜は、実際は疲労困憊であり、身動きさえ取れぬほどにつかれている。だがしかし、吸う空気が美味しくてどうしても家の中にはいたくなかったのだ。

 

 ――これが自由と独立の空気なのだ、と思う。

 

 だが命がけだったのは周瑜ばかりではなく。

 魯粛は孫権による江夏攻略の際、黄忠を対李岳戦線に向かわせるために劉表の元へと派遣されていた。黄祖が守る江夏城は難攻不落と言われていたが、その防衛力を削ぎ落とすための工作の一環である。

 城塞の防御力は当然守将の資質にも大きく左右される。黄忠は荊楚でその名を知られる剛弓の使い手であり、名声も高い。彼女がいるだけで兵の士気も上がるだろう。黄忠を事前に離脱させ、攻略の成功率を引き上げるための露払いを行うことが魯粛の任務であった。それもまた、一歩間違えていれば打首の憂き目にあっていただろう。

 また李岳が荊州攻略を成した際は、江夏の支配権について李岳と交渉を行うことも担っていた。果たして李岳は劉表を下したが、魯粛が仕掛けた交渉の結果は芳しくなかったことは既に書簡で報告を受けている。

「劉表は手強かったか?」

「いや、それより李岳さ。ケチョンケチョンにやられてしまった。面目次第もないよ」

「颯がかしこまると怖気がする」

「どこでそんなひどい言い草を覚えたんだい、親友」

 隠し持っていた酒瓶をかっくらいながら、魯粛は口惜しげに頭をかいた。

 李岳は予想以上に孫権を警戒しているのは意外であった。李岳は孫策の妹というそれだけで、孫権の資質を見抜いたのだろうか? 間諜が周囲にいると考えた方がいいだろう。魯粛の失策だと責め立てることは出来ない。 

「ところで冥琳。その、なんだ」

 魯粛が珍しく言い出しにくそうに口ごもっている。こういう時は大抵ろくなことを言い出しはしない。周瑜は気を引き締めてから言った。

「どうした。あの飲んだくれの道楽者が殊勝な態度じゃないか」

「うん、実はとても言いづらいのだが」

「何だ、何をしでかした?」

「所帯を持った」

 周瑜は腰を抜かしかけた。魯粛が手招きすると、後ろの柳の陰に隠れていた男が恥ずかしそうに現れた。気弱そうな冴えない男である。

「名は伊籍だ」

「り、劉表幕下ではないか!」

「いやあ、これが、行く宛もなく右往左往しているところを見ると、どうしても放っておけなくて」

「で?」

「酔った勢いで押し倒してしまってな」

 でへへ、と魯粛はだらしなく笑った。隣にいる伊籍の方が生娘のように顔を真っ赤にして俯いている。賛成も反対もない、周瑜は呆れてものも言えない。が、三人顔を寄せて黙っていると、妙な笑いがこみ上げ、次第に腹を抱えてしまった。

 笑いが収まるのを待ってから言った。

「式をせねば」

「うむ。いくらなんでも、私とて乙女。そういったことへの憧れはある。場所ももう決めた」

「ほう。どこだ?」

「寿春だ。そして新婚旅行は成都だ」

 周瑜はじっと魯粛の目を見て、頷いた。その言葉の意味は明白だった。

「袁術が居座る寿春を落とし、そこで祝いをする。そのまま舟で成都に向かう。名勝と名高き九寨溝も是非拝んでおきたいところだなあ」

「……それは、いいな」

「よき夢だろう? 楼船を浮かべて花を散らすのさ」

 それは、長江流域の全てを支配するという暗喩だ。南方を切り取り北方の覇者と対峙する。西から東、全ての地域を手に入れれば朝廷さえ譲歩やむなしだろう。散発的な乱とは勢力が違うのだ。

 

 ――天下二分の計。

 

 武者震いを抑えながら周瑜は言葉を繋いだ。

「天下の半分を併呑する、か。大きく出たものだな」

「うむ。だが冥琳、私の見立てではお前と雪蓮殿はさらにド派手なことを考えていたと思うのだが」

 洛陽を落として帝位を襲う。それが密かに雪蓮と疎通させていた志だった。今ではもう実現の見込みはだいぶ弱まってしまった。二人で羽ばたこうと決めた夢なのだ、片翼ではたどり着けるはずもない。

「次の夢、というわけだな」

「全員で一歩ずつ進めば何とかなるさ。それには北にはしばらく揉めてもらった方が都合がいいのだけれどね」

「それは心配いらん」

 周瑜の見立てでは、袁紹が公孫賛と揉めるのは時間の問題であった。袁紹自身の野望は大きな問題ではない。袁紹という道具を使って、北を動かそうと言う者が必ず現れるという確信が周瑜にはあった。それは劉虞か、黄巾か、あるいは別の者か。しかし袁紹の元には過大なまでの力が集まっている。不自然に巨大な力が集まるとき、それは弾けて飛び散る予兆か、あるいは誰かが意図をもってぶつけようとしている時である。

「北は荒れる。公孫賛と袁紹は本格的にやりあうことになる」

「洛陽は?」

 魯粛の問いに、周瑜は首を振った。

「長安が邪魔だ。夏至を過ぎて何度か小競り合いがあったようだ。赫昭が西の守りを担っているが、守っているばかりではな。それを見越して戦力が増強されたとも聞く。徐庶、張遼、高順、楊奉、徐晃が西に派遣されたようだ」

「相当な戦力じゃないか、冥琳」

「危機感の表れだろう。今のうちに西を片付けなければむざむざ冀州の増長を許すことになるからな」

 だが周瑜の目には戦力増派は目くらましのようにも思えた。本当に長安を崩すのであれば、内側からだ。それを李岳が考えていないわけがない。もう既に工作は始まっているのかもしれない。

「そこへ来て、我々の動き方というわけだ」

「そろそろ旗色を鮮明にする頃合いだろう、と考えている」

「李岳の提言を蹴るのだな?」

 魯粛が真意を問うように見つめてきたが、周瑜は迷わなかった。

「その話、私も混ぜてもらおうか」

 

 ――周瑜はハッとして面を上げた。孫権がこちらに向かって歩を進めていた。

 

「これは蓮華さま」

「颯、いま戻ったのか?」

「蓮華さま、帰着の報が遅れましてまことに申し訳ありませぬ」

「いいんだ。それより話の続きを聞かせてくれ」

 軽々と舟に飛び移ると、孫権は舟板にどっかと座りこんだ。居づらそうに伊籍が席を空けた。

 周瑜は孫権の目をみた。こんな話をするのは、実は初めてかも知れない。ようやく喪が明けようとしている、と思った。この人が私の主君なのだ、と周瑜は思った。ありきたりかもしれないが、感動していたのだ。

「これより、袁術を潰します」

 孫権は頷いた。もう心に決めていたのだろう。

「李岳の申し出は蹴ります。全面的に争います。我々は袁術の指揮下の武将から脱し、一勢力として旗を挙げます」

「冥琳はいつから考えていた?」

「もともと、颯とはこの方向で話を進めておりました。李岳との交渉も時間稼ぎに過ぎませぬ。我ら孫呉はあくまで武の民。剛力に頼らずして何を求めるというのでしょう」

「待ち焦がれたよ、私は」

 意外だった。周瑜は圧倒されるような思いであった。孫権から滲みでる覇気が、姉の孫策を凌駕しているように思えた。いや、と少し考えて違うことを知った。孫策の覇気がそのまま乗り移っている。二人分の魂を背負って、いま孫権はこの長江流域に覇を唱えるべく覚醒しようとしている。

「冥琳、策を言え」

「これより江夏を放棄します。そして全軍で寿春を目指す」

 孫権はキョトンとした後、快活に笑った。その笑顔は孫策にそっくりであった。姉に遠慮していたところのある妹だが、その性が苛烈であることは近しいものであればすぐに察する。獰猛な笑みを浮かべて孫権は言った。

「江夏を放棄して寿春に戻るのであれば、それは袁術の命令に服したことになる。袁術がこちらに兵を向ければいたずらに戦を起こしているという風に見える、か」

 魯粛が言葉を継いだ。

「そして接近を許しすぎた時には、長江の勢いを借りて一気に急襲します。これまで息をかけ続けていた長江の民を糾合します。決起の数は二万を上回るか下回るかどうかで、冥琳と賭けておりまする」

 魯粛は一万八千、周瑜は二万五千と読んだ。

 孫権は笑って、歩を立ち上がりながら言った。

「私は三万に賭けるぞ」

 周瑜は正座に改まり、平伏した。何故か涙がこみ上げ、舟板を濡らした。周瑜は涙を拭って面を上げると、拱手し告げた。

「必ずや、孫呉の旗を長江の全てにたなびかせます」

「そうしよう。きっと綺麗だ」

「ですな、ですな」

 うんうん、と頷きながら、魯粛は周瑜の琴を引っ張りだして下手な演奏を始めた。演奏が下手なら歌まで下手だ。周瑜はうんざりしながら琴を奪いとった。

「やめろ、颯。あまりにも耳障りすぎる」

「ほら来た、言うと思った。な? な? この周瑜という女は、他人の演奏にイチャモンを付けなければ気が済まない傲慢なやつなのさ。どう思われますか、殿」

「颯、私も同じことを言う。これはひどい」

「チェッ! まぁ続きはよろしくやってくれ、美周殿」

 あくびをしながら魯粛は舟に寝そべるといびきをかき始めた。眠りこける魯粛と、未だに顔を青くしている伊籍を置いて、周瑜は孫権にはせめて伝われと願いながら演奏に没頭した。

 

 江南に蓮を採るべし――

 




『江南』の楽府(歌)は三国志の時代には既に成立していたっぽいとのことです。
 本物の孫策や孫権、周瑜が歌ってたら素敵やん? と書きながら思いました。

 江南の蓮とか、蓮華のことを歌ってるとしか思えへんやん?

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