真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百八話 不迷の謀略

 恐怖は自らにその備えを課すことで和らぐことを田疇は知った。

 寝ずに自室の隅で膝を抱え、唯一の出入り口を眺めながら田疇は微動だにしなかった。冀州の州都、今や即位した皇帝劉虞の住まう宮殿の一角、自らへの護衛を三十人に増やし、扉の前にも立たせている。蟻の這い出る隙間もないはずである。

 しかし田疇の恐怖は一向に去らなかった。何より大事とする『太平要術の書』を懐に抱え、時に開いては凝視しながら田疇はうずくまり続けた。

 書の策が破られた。劉備は公孫賛と和睦し、帰順したとの知らせが昨夜届いた。

 書の計略では公孫賛の元に向かう劉備に対し異民族による襲撃が発生する。それにより鳳統が落命し、劉備は公孫賛の策略を疑い両者の間は決裂することとなっていた。それがきっかけで公孫賛の名誉を貶め、劉備を修羅と変え、さらに袁紹の戦意を北に向けさせるはずだった。

 しかしそれが覆された。

 

 ――書の予言を覆すことが出来るのはたった一人だけである。

 

 すなわち李岳。『黄耳』の報告では軻比能暗殺を阻止した男がいたという。背は高くなく、剣を振るって刺客を二人までも倒した。さらにその男は田疇の名を語ったという。田疇はもはや疑わなかった。その男こそが、李岳だ。

 李岳が来た、と田疇は百度目にもなる呟きを漏らした。李岳が来た……自分を殺しにやってきた。

 李岳は『太平要術の書』に気付いたのだ。そしてこの書を阻止出来るのが己だけなのだということも知った。そうでなければ単身この地にやってくるわけがない。理由も経緯もわからない。だがどれだけ信じることが難しかろうと、他に選択肢がないのであればそれが答えなのである。

 田疇は今や李岳に対してかすかに抱いていた尊崇、愛着をかなぐり捨てざるを得なかった。手間を嫌い、護衛も置かなかったが、気持ちはすっかり変わってしまった。

 李岳の動きがわからない。李岳はこの街に田疇を殺しにやってくるかもしれない……その圧倒的な恐怖たるや!

 これまで幾人もの英雄の心を騙し、焚きつけ、そして殺してきた。田疇の甘言を契機に死んだ者は十万を超えるだろう。どれほどの罪業となるか田疇にもわからない。その罰として自らの死など、とうに覚悟もしている。

 だが、何かを成す前に死ぬことなど出来ない。積んだ死体の数だけ田疇は進まねばならないのだ。死ぬならば蠱毒を成し、この世に真に平等たる天下泰平の礎を築いた後でなければ死にきれない。

 田疇の恐怖は死ぬことそれ自体ではなく、何も残せないまま死ぬことにあった。

「……外に出る」

 田疇が部屋を出ると黄耳の側近が即座に周りを囲んだ。田疇は歩き、城内の広場に出た。一昔では考えられない程に黄色い布が視界を彩っている。今やこの冀州では黄色が来福を示す吉兆の呼び水とされているのだ。

 張曼成という『黄耳』を束ねる六将のうちの一人がやってきて囁いた。

 この張曼成こそ、公孫賛勢力に対する諜報を一手に引き受ける頭領であり、軻比能の暗殺のために動いていた男であった。元は南陽で馬元義と共に地を荒らしていた賊だったが、田疇が引き抜き諜報の者として重用している。この男に立ち向かい、軻比能を守った男がいたという。男は田疇の名を出し、劉備と公孫賛の衝突を回避させた。李岳が動かなければ阻止出来るはずもない策略だった。あるいはその男こそが李岳本人ではないか、とすら田疇は疑っている……

「馬元義が捕えられた模様」

 覚悟していたが、田疇は衝撃を受けた。手にしていた書を取り落としかけた程である。

「馬元義が、なぜ」

「あぶり出されたのではないかと。いずれにしろ時間の問題だったでしょう。次の指示は?」

「……追って出す」

 張曼成は商人風の出で立ちのまま、人混みに消えていった。

 恐怖が滲み出し、再び田疇の体を這い回った。黄耳の敗北は初めてである。最大最強の生命線が諜報の網であった。田疇の策略の根幹は『太平要術の書』にあるが、それを伝えるためには連絡を取る間者が必要となる。田疇が書に記された法を知る時、それを成し得るには手足となる人間が必要なのだ。

 その手の一本が敗れた。李岳が本質的に書の性質に気付いたとしか思えない。田疇の策略は根幹から瓦解の危機に瀕している。

 

 ――思えば、ここに至るまでに立てた策略のほとんどが崩されている。

 

 元は匈奴を焚き付け洛陽を囲み、皇帝を失脚させて漢室の威厳を地に落とすことが『天下蠱毒の計』の根幹であった。それを『雁門の戦い』で崩されたことにより、全てがおかしくなり始めた。次善の策である『反董卓連合軍』の決起も祀水関を突破できず、裏に潜ませていた『長安への遷都』もままならず、予備に講じていた『長安攻略戦』が成功したことにより、洛陽の反転攻勢をようやく凌いでいるのが現状である。

 だがその現状もまた良い展開とは言えない。本来、河北の情勢は公孫賛を包囲することによって大勢は傾いているはずだった。張純を使うことによって烏桓と鮮卑を反公孫賛に引き込む手はずだった。それにより幽州は容易く傾くはずだったのである。しかし『張純の乱』も書の思惑通りにはいかず、烏桓が公孫賛と親密になることによって鮮卑も慎重路線を堅持した。

 その全てに李岳が絡んでいるというのは、田疇の妄想だろうか――否! 田疇はかぶりを振る。あの男は天の御遣いなのだ。書に抗する宿命を背負ってこの地に現れたならば、その力はすなわち書に匹敵すると解釈すべきである。田疇の策は全て李岳によって崩されたのだ。

 気付いたときには夕陽が田疇の頬を染めていた。座り込んで半日が経っていた。

 田疇は腰を上げることさえ出来ず、広場の縁石の一つに腰をかけたまま動けなかった。護衛は付き添ったまま、田疇の目には入ってこない。孤独を実感した。

 田疇は己の気力が萎え始めていることを知った。負けが込み始めてきた者に訪れる脱力である。己の無力さが許せなくなり、これまで浪費してきたあらゆる負債に思いを馳せ、罪深さと無力感を合わせたようなあの冷静さ。

 声をかけられるまで、田疇は鄴の街を無心で眺め続けた。

「田疇さん?」

 声に目を上げる。桃色の髪がまぶしかった。

 

 ――張角がそこにいた。

 

「こんなところでどうしたの?」

 張角は不思議そうに首をかしげる。さすがに田疇の護衛たちも張角を押しとどめることはできなかったのか。

「それは……こちらの言葉でしょう。国教を統べる大賢良師様がこのような所で」

「しーらない。私はただの歌手だもん!」

「は、はぁ……」

 沈黙がしばらく続いた。それが気まずかったのか張角は田疇の隣に座ると不意に歌い始めた。

 静かでゆっくりした、穏やかな歌い方だった。本当はもう少し早い歌なのかもしれない。張角は今この場の雰囲気に合うように、あえてそのような歌い方をしているのだろうと田疇にはわかった。

「なになに? 驚いた顔をして……」

「あらためて聞くと、お上手であると」

「んまっ。しっつれい〜」

「返す言葉もなく」

 頬を膨らませたあと、自分が居座っているということもすっかり忘れた様子で、邪魔しないで! と念を推してから張角は歌を続ける様子を見せた。

 田疇は気圧され、座りなおすと目をつむった。

 張角の声はどこまでも穏やかで優しく、田疇をこれまでの戦いを振り返らせた。張角ら三姉妹と出会った時のことが昨日のことのように脳裏に蘇る。そして『太平要術の書』との出会い。

 これまで夢想としか思っていなかった理想郷を達成するための方策を手に入れたまだ若かりし自分。全てをなげうって駆け抜けてきたと、その自負だけはある。世の闇を吹き払うために、この世に住まう全ての民にあまねく等しい光を与えるために、希望を根付かせるために戦ってきた。

 暗闇の技を使い、騙し、殺めてきた。手段を問わずに戦う価値がその夢にはあると信じた。

 頬に何かが当たった。それは張角の指であった。その指が濡れているのを見て、田疇は己が涙を流していることに気付いた。

「だ、大丈夫?」

 田疇は言葉が出なかった。歌を聞いて涙を流すことなど、自分の人生に訪れるとは思えなかった。

「いや、歌で気持ちが昂るなど、思ってもいなかったことで……」

「ふふーん。田疇さんがどう考えてるか知らないけど、私たちは歌を歌いたいから頑張ってて、で、たくさんの人に私たちの歌を聞いて、元気になって欲しいと思ってるんだよ……そして、田疇さんがその方法を私たちに教えてくれた。今はたくさんの人が私たちの歌を聞いてくれて、毎日を元気に暮らしてくれる! とっても嬉しい毎日だよ」

「そうですか、それは良かった」

 張角が名案をひらめいた、という風に声を上げた。

「――うん! そうだ。田疇さん、忙しいと思うけどもう一曲だけ付き合ってよ。いま練習中なの! でも早くて難しいんだ〜。いっつも人和ちゃんにズレてるって怒られちゃうの……いい?」

「そうですね、大丈夫ですよ」

「よかったー。じゃあ聞いたら正直に感想教えてね? いくよ!」

 先ほどと違って、聞くだけで元気になるような歌だった。確かにこのような能天気とも言えるような歌で、毎日民が元気が暮らせるのなら、それが一つの理想郷の証左だろう。

「ほら、ほら! ここで合いの手いれるの! はい、って言って! はい! はい!」

 田疇は苦笑しながら手を叩いた。この夕暮れがもうしばらく続けばと思った。

 

 ――しばらくして居室に戻った頃、田疇は平静に戻っていた。

 

 覚悟が揺らぐことなどない。ただ少しだけ疲れ、その疲れが癒やされただけだ。

 田疇は自らに対する過剰な警備を解除し、書を開いて今後の方策を練った。書はさすが、既に記述をあらためている。だがそこに記された内容は過去の謀略を凌ぐおぞましさで彩られていた。

 だがしかし、無類に有効であることも認めざるを得なかった。手に汗が滲む。何度も掌を拭いながら、田疇はこれから己が進むべき道を入念に頭に叩き込んだ。

 書の記述は焦点が絞られ、これまでにない程に一個の勢力に向けての動きばかりであった。

 対公孫賛。幽州を実力で潰さない限り、先はないとのことである。

(……やるのみだ。それに、まだ最悪の奥の手までは至っておらぬ)

 田疇はそう念じると、宮殿中央の大広間へと向かった。

 日は落ち、夜が始まったばかりの頃合い。田疇の前では次々と料理が持ち込まれ、宴席が繰り広げられている。劉虞、袁紹、張角、それに諸葛亮も出席している。ここしばらくは毎夜のように催しが繰り広げられている。皆、劉備から公孫賛と和睦が成ったという知らせを待っているのだ。

 

 ――鍛え抜かれ、数日でこの鄴まで辿り着いた『黄耳』の者と違い、劉備の使者は急いだとは言えさして際立って疾く駆ける者ではなかった。

 

 つまり、昨日既に仔細な情報を得ていた田疇と違い、鄴城の内部の者たちは何一つ知らないのだ。劉備軍が襲われたことも、鳳統が危難に遭ったことも、劉備と公孫賛が一触即発の事態に陥ったことも、実は鳳統が生きておりそれをきっかけに両者が矛を取り下げたことも。

 今ここに届く知らせは、劉備が最も初めに送り出した知らせに過ぎない。それはすなわち……

「き、危急の知らせにございます!」

 宴の席に飛び込んできた使者が叫んだ。顔良が立ち上がり、その無礼を叱責した。

「何事だというのですか。慌てるにも程があります」

 伝令は拝跪し続きを述べる。

「ご報告申し上げます! 劉備軍、豪雨の山中にて襲撃を受け、被害甚大! 軍師鳳統殿が遭難し、生死不明!」

 宴席の雅楽が静まり返り、驚きとざわめきで満たされた。ある者は怒りに立ち上がり、ある者は動揺で顔を見合わせあった。田疇はその中で静かに諸葛亮の顔を盗み見た。

 稚気と沈着冷静を併せ持つ幼い軍師の表情は、見たこともないほどに揺れ動き、青ざめ、やがてゆっくりと平静に戻っていった。見上げたものである。知らせを受け、心が不安に満たされながらもこの一報が正確ではないことを自分に言い聞かせ、予断と疑念を殺したのだ。

 対して袁紹は激高し、声高に非難を始めた。

「一体、どういうことですの!? 桃香さんは和睦を結びに行ったのですよ! なぜなのです!」

 茶碗を投げつける程に袁紹の怒りは相当なもので、居並ぶ重臣が思わず平服するほどであった。

 初期の想定ではこの袁紹の怒りと、劉備が対公孫賛に傾くこととを合わせて対北の戦端を開くに利用する予定であった。しかし現実は李岳の動きにより劉備は公孫賛に従うことになり、この冀州を裏切ることになった。

 過程は違えど動機には使える。田疇は立ち上がり、袁紹に願い出た。

「大将軍閣下、いまこの場で性急なご判断はお控えください。未だ第一報が届いたのみ。これより鄴からも情報を得るべく、兵を派するが良いかと思われます」

「そう、そうですわ! 田疇さん、すぐに手配してくださいまし!」

「しかし同時に、不測の事態に備えるべく兵の備えをすべきかと。いざとなれば劉玄徳将軍に援軍を飛ばす必要が出てくるかもしれませぬ」

「まったくですわ! その通りですわ……斗詩さん!」

 宴は袁紹の激怒と情勢への不安を残したまま流れた。玉座に居座る劉虞が静かに田疇を見て微笑んでいるが、それに頭を下げて田疇は場を辞した。説明せよという顔であるが、今は急ぎ話さねばならない相手がいる。当初であれば袁紹であった。しかし状況が変わった今やその相手も変わる。

「諸葛孔明殿」

 田疇は急ぎ足で廊下を行く少女を呼び止めた。

「はわわ、田疇様」

 諸葛亮が礼に動いたのを田疇は押しとどめた。何の官位もない諸葛亮と田疇の間には身分の差があるのだ。

「そのような……諸葛孔明殿、この度は心中痛み入ります」

「……いえ、大丈夫です。雛里ちゃんはきっと無事です。桃香様もきっとご無事に戻ってきます」

「私も、そのように願っております」

 それでは、と諸葛亮は頭を下げて辞した。

 田疇は目を細める。その態度、その言動。極めて平静であり、穏やか。冷静さを失っていないようであるが、彼女はいま田疇の前で劉備や鳳統を真名で呼んだ。親しくない者の前で、他者の真名を述べるのはいささか気安い行いである。万事において隙のない諸葛亮がかような様子を見せるのは、田疇が思う以上に穏やかでないからだろう。

 田疇は次いで張曼成を自室に呼んだ。

「公孫賛と劉備からの使者、伝令を全て殺せ」

 張曼成が怪訝な様子を見せる。田疇は地図の数カ所に印を描いた。

「劉備は公孫賛と結ぶ」

「そのようかと」

「では使者からは何という知らせが来る?」

「鳳統の存命。公孫賛との誤解を解いたこと。ともすれば陰謀について」

「鳳統は死に、その武力に気圧され劉備は公孫賛に降伏したのだ」

 張曼成がなるほどと頷いた。幽州からの情報の全てを遮断し、こちらが望む情報に書き換えるのだ。公孫賛はこれから急ぎ武力を整えるだろう。対冀州のために先制攻撃を企図する。そこには劉備もいる。袁紹からすれば、目をかけてやり友情さえ感じていた劉備が突如裏切ったことに、途轍もない失望と怒りを感じるはずだ。これで当初の狙いは劉備は失ったものの達成することができる。

 そして劉備を失ったとしても、もう一人同じ方法で利用することが出来る。

「鳳統が死んだという知らせは、諸葛亮に直接届けるようにせよ。文面は後ほど渡す。日は三日後だ……」

「ふふ、楽しみだ」

 不意に張曼成が疎ましくなり、田疇は手を振って追い払った。馬元義も張曼成も、危うく官軍に殺されそうになったところを田疇に救われ、その後従うように画策した。心から敬服されているわけではないが、この漢への恨みを同じくしているために不信なく動いている。離反の様子が表れれば書が知らせるだろう。

 鳳統が死んだ、となれば諸葛亮はどう思うだろうか。まずは悲しむだろう。次いで思うのはその友の仇を討つくことなく、敵に寝返った自らの主のことのはずだ。公孫賛と争うことに理はないと察しつつも、我が身可愛さに寝返ったのだと諜報の結果と揃えて吹き込めば信じざるを得ない。

 いや、諸葛孔明の聡明さは尋常を超える。となれば、もう一つの予測も立てておいた方が良いだろう。

 書はこの期に及んでその記述を詳細に増やした。劉備や公孫賛が放った伝令がいつどこに表れるか、代わりにどのような知らせを持ち込めばよいか、それによって諸葛亮や袁紹がどのように考えるか。

 書も追い詰められ、本気になりつつあるのだ。

「戦乱が起きるのであれば、多くの人が関わることになる……李岳殿。私は負ける気はない。私に勝ちたければ、私を殺す他ないのです」

 今宵より城内への立ち入りは身分証が必要となることに触れにすべきだ。名目は戦時であることとすれば十分だろう。劉虞と張角がそれぞれ指示すれば民から不満が出ることもない。諸葛亮への連絡と、田疇の暗殺の両方を阻止する目的がある。

 書に対幽州戦の作戦はほとんどまだ記述がない。諸葛亮がこちらに心からなびいた時、書は初めて記述を増やすだろう。書は無敵ではない。あくまでここに生きる人の力を読み、その力を利用する方法を提示するのみである。

 それがどんなにおぞましい方法であろうと、田疇自らが動かなければ何も変えられない道理だ。

 泥を這いながら進む覚悟は、揺るぐことはない。

 取り急ぎ動かなくてはならないのは、諸葛亮の心を折ることと対公孫賛のための軍令発動。そして南への備えである。

 公孫賛は尚武でもって成す北の武人である。彼女が率いる騎馬隊の攻撃力は冀州の大半を引き裂くだろう。そのための備えはすぐにでも必要である。逆転のための手は十二分に備えているが、それも最低限の時間が必要となるため、とにかく即応できる部隊の用意が必要だった。だが間に合うかというと、微妙なところで。初めは押し込まれるに違いない。

 そして北の公孫賛に関わっている間に、南の曹操に不穏な動きをされては困る。

「予定よりだいぶ早いが、仕方あるまいな……」

 田疇は兼ねてより仕掛けていた仕組みの一つを作動させる決心をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――下邳城。

 

 徐州の制圧と支配は概ね滞りなく進んだ。荀彧、程昱の働きは大車輪と言えるほどで、地元豪族の横の繋がりを調べあげ、間髪入れずに断ち切っていった。時には金で、時には理屈で、そして時には武力を背景とした恐怖を使い、曹操による支配に頭を下げさせていったのである。

 元々徐州を監督した臧覇は青州方面に派遣している。本人は心より臣従しているが、まだ周囲には担ごうとする者がいないとも限らない。臧覇本人も情けに脆いところがあると見抜いた曹操は、夏侯惇を目付役として早々に徐州から離したのである。報告によれば、良く兵と交わり指揮しているとのことだ。

 青州方面軍の強化は、もちろんただちに青州攻略を一度は念頭に置いたものであった。しかし時期尚早だというのが曹操の最後の判断であった。青州黄巾軍が精強極まる異色の集団だということは連合戦で目にした通りである。死を微塵も恐れず、殉教するように戦うあの姿は曹操の脳裏にしっかりと焼き付いている。

 たかが民の群れだと侮ることは出来ぬ。また母数も不明である。しかし動乱を巻き起こすだろうという予測は揺るぎない。冀州に居座る黄巾軍本体に当然のように呼応し、ただちに合流すべしと息巻く地域もあるようで、散発的な反乱は次々と報告されている。核となる本体は沈黙を守っているようだが、虎視眈々と隙を狙っているとしか思えない。

 今この時期に攻め込めば、あらぬ刺激を与え数を膨れ上がらせかねない。叩くのなら誘引してから糧道を断つのが最善だろう。あるいは冀州を直接叩くかである。夏侯惇にも挑発には乗るなと厳命してある。むしろ積極的に施米を行い、懐柔策さえ行っている。

 そうして曹操を含めた全員が寝食を忘れて働いた。まるで何かから目をそむけるように。

 忙殺されると、疲労はたまるが余計なことを考えなくて済む。それは苦痛を癒しはしないが傷が塞がるまでのわずかな間、麻痺を与えてくれる。それでも時折、いるはずのない許猪の思い出を見つけては瞑目することは無くせなかった。

 

 ――不可解な一報が飛び込んできたのはその折である。李岳が病に伏したとの知らせであった。

 

 色めき立つものは一人もいなかった。連合戦では散々に騙され、いいようにあしらわれた苦い経験があり、それは色褪せるほど昔の話でもない。あの男ならば、必要があれば自分を処刑されたことにさえするだろう。確認を取るとして程昱は動いているようだが、曹操は捨て置いた。嘘でも本当でも、李岳は勝利のためだけに動いているだろう、という奇妙な信頼があった。

 不確かな情報はさておき、曹操は目を北に向けた。袁紹と公孫賛が本格的にぶつかりつつあるのだ。州境付近で小競り合いがあったという。それがきっかけで瞬く間に緊張は拡大された。ぶつかりあえば、破竹の勢いで突き進むのは公孫賛の方であろうと曹操は見た。黒山賊と連携しながら関、城塞を次々と陥落させるのは想像に難くない。

 烏桓も公孫賛に肩入れすれば、袁紹は戦力を集中できないだろう。連合戦では本格的な衝突が起きる前に撤退していたこともあり、公孫賛軍の戦力の充実ははなはだしいのだ。

 惜しむらくは戦機だった。長安方面の戦線が決着していれば李岳からも攻勢をかけられたろう。包囲網が未だ完成せぬまま戦端が開かれようとしている。李岳が動いていれば袁紹はひとたまりもなかったはずだ。李岳の騎馬隊は難なく渡河し、一路袁紹の本拠地へと殺到しただろう。長安戦線の趨勢がこれほどまでに影響を及ぼすとは――そこまで考え、長安が陥落していなければ、まず自分こそが李岳に押し潰されていたということを思い出し、曹操は苦笑した――いずれにせよ、劉焉の長安攻略は巧妙極まる。

「さて、今のうちに麗羽の戦力を削らない手はないわね」

「全くですね~」

 程昱が茶をすすりながら答えた。

 袁紹がどれほど南下の意志を持っているか、それは未知数である。今は劉虞を皇帝に戴き大将軍の地位にある。彼女の自尊心を満足させるには十分だろう。意外な話ではあるが、袁紹はこのまま大人しくなるという可能性もあったのではないかと思う。そうであるのなら、公孫賛の攻勢は愚策となる。いや、やむにやまれず始まった戦いであるのなら、それは彼女の不幸であろう。

 しばらく進軍と配置について程昱と相談したが、やがて訪いの後に一人の少女が現れた。城内で見かけたことのない面立ちである上に、見すぼらしい出で立ちである――見すぼらしい服しか着れぬ身分の者が、曹操の居室にまで入ってこられるはずがない。少女は程昱が使役する諜報集団『蝕』の一員なのだ。

 少女から何やら耳打ちをされた程昱は、数瞬思考のために沈黙した。やがて嘆息の後に言う。

「華琳さま、問題が発生いたしました。濮陽が陥落したとのことです。恐らく反乱でございましょう。張貘さまによる謀反のようです」

 束の間考えた。目は地図を向いている。今、曹操は兗州と徐州を従え、北の青州と冀州に対峙している。東西に長く伸びた領土の肝は陳留と濮陽だ。片方だけ無事ということはない。どちらかが落ちれば、兗州は完全に分断される。この地を失えば曹操に生きる道はない。それに軍の主力は青州の黄巾と対峙している。ここで曹操が下邳城から離れ西に向かえば、未だ不安定な徐州を根こそぎ失いかねない。決起の機会とするならこれ以上の時はなかっただろう。

 それにこのまま行けばほとんど空白であった豫州を獲られる。時間をかければかけるほど曹操には不利に働く。

「そう、あの子が……」

 曹操は瞑目した。短い時間だった。張貘とは古い知り合いだった。誰よりも信頼していた親友と言ってもいい。いや、誰よりも好きだった。自らの両親の身の安全を彼女に託すほどに。自分の意志で決行したのだろうか? それはないだろうと思う。しかし、それを確かめる時間はない。

 瞑目は親と張貘への葬送だった。次に目を開けた時、曹操は決断していた。

「ただちに出陣する。青州方面軍を全て呼び戻せ」

「ですが、この下邳城には五千騎しかいませんが」

「やむを得ないわね」

「……この責は必ず」

 見れば程昱が平伏していた。曹操の血族を濮陽に預ける旨は程昱の上申だった。家族がどのように利用されるかはわからない。裏切った以上、あらゆる手段を使う覚悟でいるのは確かだ。程昱の失態をなじるのは正しいこととはいえない。あえて言うのであれば、曹操の過ちだ。

「袁紹の策略かしらね」

「あの人というよりは、周りの誰かでしょうか……」

「思ったより手強い。油断ならないわね……もう行け」

 再び平伏し、程昱が部屋を去った。私はよく耐えた、と曹操は思った。

 一人になるとようやく拳が震え始めた。怒りが全身に伝播し、気付いたときには曹操は眼前の椅子を叩き切っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――濮陽。

 

 洛陽の華とさえ言われた張貘は、手足を縛られ薄暗い牢獄に入れられていた。屈辱で頭がどうにかなってしまいそうだった。

 屈辱の根源は、牢に入れられていることではなく、自らの無力さと弟の蛮行がまさに恥辱にまみれたものだからであった。

「黎明! ここから出して、なぜこんな」

 牢の眼前で、泣いているような怒っているような顔をしながら、弟の張超が叫ぶ。

「これが姉さんのためなんだ! きっとわかってくれるさ」

 ある日突如、張超は張貘を捕縛すると曹操への反抗を宣言した。皇帝劉虞に付き、悪しき曹操を倒すと宣言したのである。目の前には最も信頼していた将の一人である衛茲の死体が転がっていた。

「姉さんは曹操なんかの下に付く人じゃないんだ! 大丈夫だから、きっと大丈夫だから……」

「何をいってるの、貴方は何かを勘違いしているわ!」

 張貘の話を聞くこともなく、高笑いを上げると張超は目の前を去った。張貘はうずくまり、友に詫ながら己の不明を恥じた。涙が流れて止まらない。罪深さは万死に値するだろう。

「華琳……華琳……!」

 張貘は喉が枯れるまで、冷たい牢の中で親友(とも)の名を呼び続けた。




田疇Pが本気出した。
挿入歌は以下の通りです。

「YUME 蝶ひらり 」
作詞:人萌乎/作曲:吉野貴雄/編曲:水谷広実/ 歌:数え役萬☆姉妹(張角(岡嶋妙)、張宝(梅原千尋)、張梁(吉住梢))

「あいはだってだって最強!」
作詞:Funta3/作曲:Funta7/編曲:Funta7/ 歌:数え役萬☆姉妹(張角(岡嶋妙)、張宝(梅原千尋)、張梁(吉住梢))


一曲目大好き。特に一番の方が好きなんですけど、どうしても『万華鏡』というワードの引用がいたしかねました…
万華鏡は19世紀のブリュースターさんが作ったものなんだ…この時代はないんだよ…


追記

上記二曲の一部を作品内に引用しておりましたが、ハーメルン様の規約に抵触する恐れがあるとご指摘を受けたため、削除いたしました。失礼しました!

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