真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百十六話 濮水の戦い

 濮陽城内、地下の武器庫には隣室がある。内外から錠の出来るその部屋は、常ならば貴品を収める間として用いられていたが、今は簡易な牢獄としてその趣を改めていた。

 牢獄にしては扱いが良いとも言えるその間に居るのは、豊かな金髪を蓄えた妙齢の女性であった。その眼光は穏やかなれど凛として鋭く、立ち振る舞いの所作は穏やかにして気丈。研ぎ磨かれた水晶球の如き人であった。

 

 ――姓は曹、名は(スウ)。元は夏侯の氏族であったが、その器量と才覚を買われ、漢朝に仕えること三十余年、政界の頂点に君臨していた大名士である曹騰の養子となった人。そして誰あろう曹操の実母であった。

 

 人を引き立てることで力を増していった養父の曹騰と同じように、曹嵩もまた謙虚と実直を旨として政界を上り詰めていった。司隷校尉や大司農を歴任し、やがて三公の一席である太尉を任ぜられることとなった。その道に至るまでに支払った賄賂は一億銭を超えるともいう。

 腐敗した漢朝政界、当時の霊帝は既に十常侍の傀儡と堕し始めており、界隈での売買官は公然のものとなっていたのである。宦官の養女ともなれば周囲の蔑みもあり、手段を問うては成り上がることなど出来ないと当時の曹嵩は考えた。

 やがて娘の曹操が孝廉に推挙され、騎都尉に任ぜられるのと時を同じくして家督を譲り隠居を決めた。払いが一億銭ともなれば実入りもそれ相応となる。曹嵩の元には莫大な金銭が眠っていたが、官位を退いた後は一切の奢侈を避け、ただひたすら娘の曹操への支援に使い込んだ。陳留の一郡のみを支配していたに過ぎない曹操が、相当の兵を養うことが出来たのはこれに起因する。

 今や曹操は夏侯氏も従え、家門の長として堂々と生きている。既に手元の銭から人まで全てを提供し尽くした曹嵩の元には、わずかばかりの蓄えと侍女一人のみが残っていた。慎ましさを絵に描いたような暮らしぶりであった曹嵩は、しかしこの濮陽において虜囚の辱めに遭っていた。

 

 ――やがて牢に見舞う人影が一つ。

 

「……失礼致します」

 曹嵩は居住まいを正すと、虜囚にあるまじき微笑みを浮かべた。珍客は新たにこの濮陽の城主として君臨することとなった張貘であった。自らの意に反し曹操に反旗を翻すことなった張貘は、意気消沈し、肩を落とし――ひと目ではどちらが虜囚かわからない有様であった。

「張孟卓……いえ、京香。久しいわね」

「母上様……!」

 張貘は洛陽一と謳われた美しい黒髪を乱し、曹嵩にしがみつくと泣き崩れた。

 付き合いは古く、洛陽では家族ぐるみで親しく過ごした。張貘は曹嵩を二人目の母と仰ぎ真名で呼ぶことを願い、曹嵩もまた願いを認めつつ自らを母上と呼ぶことを咎めなかった。

「申し訳も、申し訳もありません……!」

「おや、何を泣くことがあるのです。わたくしは元気。貴女も元気。良いことではないですか」

「このような、このような扱いを」

 日に二度の粗末な飯に汚れた敷物、用を足すことさえ自らだけでは何ともままならないというこの扱い――我が弟が、自らが二人目の母と仰いだ人に強いる仕打ちがこれとは! 張貘は情けなさと申し訳なさで膝が崩折れる思いであった。

 張貘がこの牢に見舞うことが出来るようになったのも、張超が軍を率いて濮水まで出陣したからである。あれほど姉を慕っていた張超が、何を言っても強硬に意志を曲げない。城内には恐らく袁紹陣営の手のものであろう、見知らぬ者たちが目を光らせている。昵懇(じっこん)の侍女に嘆願して、ようやくここに辿り着けたのが今日である。

「私の、力不足で……」

「どうしたのです、京香? なぜそのように悔いる?」

「悔いしかありませぬ! 弟の暴走を止められませんでした……私は死んで詫びる以外に他、浮かびません……」

 パシン、と頬をはたかれ張貘は前を見た。曹嵩はこれまで見たこともない厳しい表情で張貘を見ている。

「恥じよ、張孟卓。己自身を恥じなさい。一個の男子、一個の乙女たるもの、野心の一つ持たずしてまことに生きていると申すか? あまつさえ何もなさぬまま死を願うとは」

「母上様……」

「そなたがそう思うなら、そうせよ。そう思いながらせぬのなら、それこそを恥じなさい」

 自分がぶった頬を、曹嵩はもう一度掌をあてがい撫でる。細く乾いた指がただそっと添えられている。張貘は再び涙した。

「我が娘、曹操は赤子として生まれ、梟雄として生き、英雄として死ぬだろう。その友たる貴様がここで座しているとはどういうことか? 貴女の弟は決起した。それは勝負を挑んだということ。英雄たらんとしたその意気やよし。それは無謀なことかも知れぬが、情けないことではない。乱世である。曹孟徳の母たる私が囚われることなど有り得る話でしょう。娘が備えを怠ったに過ぎないのです」

 ああ柔らかい髪――曹嵩は張貘を抱き寄せ、幼な子をあやすように頭から背中を撫でた。

「恥は一時とせよ。雪ぐに力を費やすべきなのです。それこそが英雄たる者の務め――京香。貴女が今、本当にすべきと考えていることは何? 決して譲れないものとは何?」

「譲れないもの……」

 張貘は自分の中に力が戻ってくるのを感じた。譲れないもの。それは誇り。誰あろう曹孟徳の第一の親友であることの矜持。だが乱世の奸雄の親友であり続ける資格とは、決して慣れ親しみ追従することではないのだ。

 堂々と、張孟卓ここにあると謳うことこそが親友の務めだ。そしてまた、愚かであれ自らの弟と共に決着を付けることも義務である。

 迷いが吹っ切れた。決断は痛みと悲哀を伴うそれだが、清々しい風が吹いてもいた。

「行くのですね」

「はい。母上様、不肖この張孟卓、私もまた英雄たらんといたします」

「良い目をしております。叩いてごめんなさいね」

「目が、覚めました」

 張貘を送り出すように曹嵩は立ち上がった。背を向けようとした張貘に一つだけ、付け足した。

「最後に頼みがあります。この曹嵩、家督を譲った日から死に恐れはありません。死ぬのは良いのです。ただ娘の傷にだけはなりたくはない。あの娘の友であるならば、どうかこの母を見世物にすることだけはしないでたも」

 張貘は小さく首を振った。

「母上様。そうはなりません。必ずや生きて華琳に迎えて頂きます。私は張孟卓。真名を交わした朋友との誓いを反故にすることなど、ありえませぬから」

「……必ず、この母にもう一度その顔を見せるのですよ」

 二つ目の願いに頷かず、張貘は小さくはにかんで牢を辞した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雄大な河水(※黄河のこと)の流れは遥か西の高原から始まるのだという。羌族の土地よりさらに西、彼方の崑崙山よりもっと西などと信じられない話をずっと昔に聞いた。世界の果てから届く膨大な量の水の流れ……曹操はふと、この話を母から聞いたことを思い起こした。

 世界を横断する悠久の水。それが今、曹操の前進を阻んでいた。

 目前を流れる濮水。支流とは言え天下の河水に連なる流れである。どう見ても渡河は至難だった。虚を突くにしても敵勢は城壁に穴が空くくらい目を凝らしてこちらを窺っている。その監視をかいくぐって数万人の兵を渡すのは無理があった。

 いずれ戦線が破綻するのは目に見えていた。袁紹軍が二万の増派を向かわせたという報告もある。みすみす合流させれば兵力は逆転し、今度はこちらが防衛線を敷かざるを得なくなるだろう。

 謀反を鎮圧できないまま領土を切り取られたとなれば、いずれ兗州全域で燎原の火の如く叛乱が続発するのは明らかだった。停滞は破滅への歩みでしかなく、曹操は確実に追い詰められていた。

 だが動かない。曹操は無闇に渡河を試みることもなくただその時を待った。船自体は整えていたが、調練以外の乗船を命じたことはない。

 

 ――そして無為にも思える日々は一月を過ぎた。

 

 その日は朝から小雨が降った。曹操はこの一月そうしていたように城壁から濮水を見ていた。詩を詠もうとしては形にならず、虚ろな言葉の欠片だけが、しとしとと降る雨の中に溶けていく。

 今日もまた無為に一日が過ぎ去るのかと思ったちょうどその時、程昱が血相を変えて飛び込んできた。顔には朱が差している――曹操は全てを悟った。

「出陣!」

 曹操の激怒に似た指示が飛ぶ。控えていた幕僚たちが弾かれたように走り始めた。具足、武器を取ると曹操は側近を従えて兵の元へ向かう。既に幕舎を蹴破るような勢いで絶影が駆け込んでいた。曹操は愛馬にまたがりながら声を上げまくった。

「これより全軍で渡河を敢行、敵軍を攻撃する!」

 歓声が城内を一瞬で埋め尽くした。楽進、于禁、李典が兵団を従え城外へと飛び出していく。

 曹操もまた子飼いを連れて川岸へ駆けた。曹操が到着した時には既に水軍の先鋒が対岸へ向けて出航を果たしていた。水軍の指揮は李典が主軸である。

 李典はこの地域の生まれで濮水の流れは完璧に把握していると聞いた。その李典が自前の工兵部隊を揃えて渡河の先頭を切り、橋頭堡を築くことになる。後に続くのが楽進、そして于禁。曹操本隊はその後になるだろう。

 そこまでは見えている。今まではそこまでしか見えていなかった。今はようやく、その先が見え始めたのだ。

 曹操の檄に従い、総勢四万の軍勢が一斉に濮水の流れを突き進んだ。李典の旗がぐんぐんと向こう岸に迫っていく。対岸からは張超の指揮する軍勢が盛んに矢を射掛けてくる。が、矢をものともせずに李典の船団は進んだ。どうやら船にも何か仕掛けを施してあるらしい。

 しかし、張超もまた全力で応戦を行っているようには思えない。李典、楽進の先鋒までは容易く対岸にたどり着き、兵が上陸を始めるところまで曹操には見えた。

「水を絶ちて来たらば、これを水の内に迎うることなく、半ば渡らしめてこれを撃つは利なり」

 隣に立つ程昱の呟きだった。

「孫子の云う行軍篇」

「張超さんは大変勉強熱心のようです〜」

 水を絶ちて来たらば――古の孫子は敵の渡河作戦は半ばまではさせよ、と言った。その方が敵を撃滅しやすいからだと。張超はその教えを忠実に実践しているのだ。

「戦の基本。それ自体は悪くはないわね。ただし」

「相手が曹孟徳でなければなのです〜」

『アホの張超にしては上出来だがな!』

「これ宝慧。本当のことを言ってはいけないのです」

 頭上に載せた人形に相槌を打ちながら程昱は戦場に在るまじき穏やかさで言う。曹操も笑みを浮かべて前方の戦況を眺めた。

 孫子はなぜ敵軍の半分は上陸させてから攻撃せよと言ったか? それは兵を半数も上陸させてしまえば撤退が難しくなるからだ。渡河直後に陣形は乱れており、兵力の半分はまだ船上で戦うことは出来ない。戦力の整っていない敵の半数を討つのは容易く、そして苦戦する兵力の半数を見捨てることが出来る将もいない。船上の兵たちもいずれ無謀な上陸を試み、これを討ち滅ぼすのも容易いということである。

「孫子の教えを反故にし、敵が船上であるうちに攻撃を始めればどうなるかしら? 風?」

「敵は上陸を諦めるでしょう。あるいは船の機動を活かして容易く撤退いたします〜。それを追い討つのは困難きわまります〜」

「そうね。ただ逆を言うならば、追い返すならばそれだけで良いという訳でもある」

「……張超さんはそうすべきでしたね〜。華琳様が渡河を試みるなら必勝の策があると、思わなかったのでしょう〜」

「風。貴女ならどうする?」

「あら〜この程昱をお試しになるとは」

 袖で口元を隠してクスクスと笑い、うーん、とわずかに時を置いて程昱は言った。

「鄄城など捨て置き、定陶を一挙に攻略いたしますね」

「……貴女が張超に従わずにいて良かったわ」

「さようで〜」

 程昱ほど奇抜な発想を持たなくても、だ。張貘ならばこのような采配は取らなかっただろう。渡河自体を一旦は阻止し、状況を見るはずだ。伏兵を疑い陣を下げる。渡河直後の攻撃はそこからでも構わない。いずれにしろ敵は背水の陣に変わりはないのだから。

 張超は勝利に目がくらんだ。鮮やかに勝ちたくて勝ちたくて仕方なかったのだ。

 今頃は不利を承知で渡河を敢行している曹操をあざ笑い、勝利の予感に震えているだろう。

 曹操はこの敵の失態を、己の教訓とすることを誓い、深く心に刻んだ。いずれ再び衝突することになる李岳への備えとして。そして失策の代償がいかほどのものか、それはこれから張超が身をもって示してくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――果たして張超は歓喜の中にいた。

 

「勝った、馬鹿め! 何が乱世の奸雄だ!」

 ちょうど半数くらいの部隊が上陸を終えた頃、張超は総攻撃を命じた。渡河を果さんとする敵への攻撃は、その半数が終えた頃に始めよと孫子も言う。魚鱗陣を先頭に張軍は猛然と曹軍に襲いかかった。水際での攻防は渡河を待ち受ける側が無比に有利であることを兵も皆知っている。己の風上を自覚した兵は十二分に力を発揮し、すこぶる勇猛になるものだ。

「行け! 勝利は目前である! 躊躇うな! 曹孟徳の首を取れ!」

 曹操の首を差し出せば姉の張貘も考えを改めるだろう。これで兗州は我々のもの! いや、徐州に青州まで敵なしの状態で進軍できる。我が姉、張貘こそが三州を統べるに値するのだ! 田疇が約束を反故にするつもりでも構わない。張家ほどの名家が三つの州に影響を持つとなれば捨て置くことなどできるはずがないのだ。

 そして戦況は大いに張軍に味方した。曹軍先鋒の橋頭堡は満足に形成できないまま、ジリジリと押し戻されている。中核軍は上陸できないまま水上で立ち往生の有様だ。

 その時、兵の一人が駆け寄ると報告を伝え始めた。

「……北方より砂塵! 二万ほどの兵団が近づいてきております!」

 張超は脳裏で考えを巡らせた。鄄城とその周囲には網の目のような監視を巡らせている。夜陰に乗じて兵を動かしたとしても絶対に捕捉出来るほどの目を割いた。曹操が伏兵での機動戦が得意であることなど承知の上だが、それは徹底的に封じてあるつもりだ。

 つまり結論は一つしか無い。

「二万は袁紹殿からの援軍である! 加勢にいらしたのだ、これで我々の勝利は間違いなくなった!」

 張超は一層の攻撃を命じた。多勢に無勢、背水の不利の中でも曹操軍はよく戦っているように見えてしぶとい。しかしとうとう一角が崩れ始めた。李典の旗が動揺したように慌ただしく動いているのが見える。張超は拳を握った。古の教えの通り、曹操本隊は何もできずに水上で(たむろ)しているのみ。

 張超の心に感応したように、後方でもまた歓声が上がった。お味方の到着に喜びでもって応えているのか――だが歓声はやがてどよめきを交え始め、そして幾許(いくばく)かのうちには悲鳴と相成った。

「何が起きている、何が!」

「曹操軍です! 袁紹軍ではなく、北からやってきたのは曹操軍です! その数二万!」

 何も考えられなくなり、張超は束の間微動だにせず馬上で呆然とした。敗北の二文字が浮かび、続いてそれが死の一文字へと変わった。その死の一字はやがて怒りに狂った曹操の姿に変わり、張超の首元に手を――

「……撤退、撤退だ! 濮陽城まで撤退する!」

「し、指揮は」

「うるさい! お前たち全軍で曹操を食い止めろ、騎馬隊は先に戻る!」

 張超は子飼いの騎馬隊五千を引き連れ、一目散に戦線を離脱した。しばらく離れてから背後を見ると、夏侯惇、夏侯淵の旗が獣のように張軍の後背を食い破っているのが見えた。張超が転進を命じたのは敗北が明白であると悟ったからではなかった。ただ困惑を覚えた時、姉の張貘に教えを与えてもらい続けてきたこれまでの人生、それを忠実になぞっているに過ぎなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「無残ね」

 捻り潰されたとしか言いようのない敵陣を見て、曹操は肩をすくめた。濮水の対岸に陣取っていた張軍は二部隊による挟撃で崩壊した。曹操の渡河作戦は完全な形で遂行されたのである。軍功第一は間違いなく夏侯惇であった。

 

 ――公孫賛軍が青州黄巾軍をほとんど撃滅させてしまったことは既に聞き及んでいた。曹操が兗州域内に設置した『駅』の役割には、迅速な情報をもたらすことも当然想定されていた。駿馬を乗り継いで届けられた情報はまず青州黄巾軍が公孫賛軍に撃滅されたこと、次いで間もなく届いたのが夏侯惇、夏侯淵が可及的速やかに本軍に合流せんと向かっている、という連絡だったのである。

 

 曹操が待っていたのは青州方面の別働隊が下流で無事渡河を果たし、張超軍の側面を突く態勢が整った、という知らせであった。本隊の渡河作戦がどう展開しようが曹操にとってはどちらでも良かった。別働隊が側面を突いた時点で勝敗は決すると見ていたのである。

「張超は?」

「一目散に逃亡した模様ですね〜」

 程昱がやれやれ、と言ったように肩をすくめた。

「濮陽城に戻ったか。しぶといわね……」

「しかし全て捨て置いて逃げた模様……残兵の一万ほどが帰順を申し出ておりますが〜」

「受け入れなさい」

 ここで斬れば濮陽城内の寝返りが期待できなくなる。切り捨てたいのは山々だが仕方なかった。

 しかし張超を取り逃がしたのは痛恨であった。無様だが、逃げ足の速さは指揮官の能力でもある。しかし殿軍が死力を尽くすかどうかで、ただ命を惜しんでいるか、あるいは先を見据えて撤退したかの違いは明らかにわかる。

「華琳様!」

 夏侯惇、夏侯淵、荀彧の三人がボロボロの有様でやってきた。三人が三人とも、全身を乾いた泥で真っ白にさせている。兗州に広くひろがる湿地帯を遮二無二抜けてきたことを曹操に教えた。

「華琳様! 遅れて申し訳ありません!」

「そんなことはないわ、春蘭。よく間に合った。苦労をかけたわ、秋蘭も」

「もったいないお言葉……」

 恐縮したように頭を垂れた二人に頷きを返す。両手をそれぞれ二人の頬に伸ばした。乾いた泥と血がパリパリと剥がれ風に流れていく。美しき乙女の(かんばせ)だが、武人に相応しき化粧でもある。曹操は二人の汚れを誇りに思った。

「桂花もよく戻ったわね。ありがとう」

「……えっ」

 荀彧の頬の泥をぬぐってやると、あっ、うっ、と真っ赤になって俯いてしまった。夏侯姉妹の全力の進撃についてくるのは相当骨が折れただろう。参謀の中でも荀彧の働きは随一なのは間違いない。彼女がいなければ早晩立ち行かなくなるのは明白だった。

 しかし、と曹操は自虐的な気分にもなっていた。感謝の言葉などらしくない。感傷的な気持ちになっている。これから別れが待ち受けることを明確に予感しているからか。

「と、ところで華琳様!」

 照れて下を向いていた荀彧が、はっと意を決したように上を向いて言う。

「陣営をまとめたのち、すぐに濮陽の北へ進軍することを献策いたします!」

「濮陽の北? なんで濮陽じゃないんだ?」

「何よ春蘭、馬鹿はすっこんでなさいよ! どうせ説明してもわかんないでしょ脳筋馬鹿!」

「なんだと貴様! 私のどこが脳筋馬鹿だと! 秋蘭、言ってやれ!」

「桂花、姉者が脳筋馬鹿なのはやむを得ないが説明はしてくれ」

「しゅ、秋蘭……!」

「あら〜一気にうるさくなっちゃいました〜」

 夏侯惇、夏侯淵、荀彧、程昱……爽快な勝利に高揚しているのは間違いない。久しぶりに笑いの出るようなやり取りが出て曹操も口には出さないがホッとした。

 だが今は火急の時でもある。荀彧に目を向けると力強く頷いた。荀彧は地面に放り捨てられていた張軍の旗を拾い上げると、爛々と光らせた瞳で言ったのである。

「張超のどクズをボロ雑巾のようにブチ殺すのも重要ですが、その前に! 袁紹軍の増援部隊、今ならば容易く撃滅できるのです! 急ぎ濮陽の北へ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――後に云う『濮水の戦い』は情勢の不利を覆し、曹操の圧勝として決着した。本隊を陽動に使うという曹操の機動戦術は後世高く評価され『濮水の戦い』は多くの軍略家の手本とされることとなる。

 実際にはこの直後、支援に派遣させられていた袁紹軍二万を、出迎えに現れた張貘軍に扮し奇襲を敢行、散々に討ち滅ぼしてしまう。間髪入れずに敵の増派を撃退してしまうところまでを含め、曹孟徳を稀代の軍略家と評することに異論のある者はいないだろう。

 曹操はこのまま濮陽城を包囲し攻城戦に取り掛かることになる――その悪名を轟かせることとなる、濮陽虐殺事件の舞台である。





【挿絵表示】

華琳様の進撃図です。例によってむじん書院様のデータをお借りいたしました。
http://www.project-imagine.org/mujins/maps.html
濮水の位置はかなり推測です、というか都合よく使ってます(もう今はなくなった河川だし)
正直黄河水系の流れは変遷しまくってるんで当時の正確な位置が把握できませんでした。黄河さんマジヤベェよ……



さて、活動報告でも宣伝させて頂きましたが、本作のテーマ曲をプレゼント頂きました。

真・恋姫†無双〜李岳伝〜 大河ドラマ風テーマ
http://nico.ms/sm31702252

あたる様、ありがとうございます。イェイめっちゃ最高。皆様聞いてちょ。震えます。

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