真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第十二話 明暗

 山の麓には、鉱山町と言っても良いほど多くのゲルがひしめき合い、馬頭琴の響きが思い出したように響いた。

 岳の知らぬ内に塩の発掘は卒羅宇の部族総力を上げてのものとなっていた。

 塩山の開発、発掘は匈奴の許可と協力なしには無理だ。方法も公孫賛と匈奴の馬という繋がりを利用するのだから、自分ばかり甘い汁を吸うなど仁義にもとるだろう。遊牧生活とはいえ匈奴の人々だって耕作をし収穫に期待をする。ただ町と町の交流のような物品のやり取りが少ないので、一度凶作になればすぐに飢えてしまう。だから死ぬよりはましと漢へ略奪に走ったりするのだ。飢えることさえなくなれば揉める動機も解消される。

 漢と匈奴の間の問題点の全てを改善しようというところまでは無理だが、せめて親しく付き合っている卒羅宇の部族くらいその窮乏から脱してくれれば――岳は匈奴に積極的に貨幣を流通させようと考えていた。

 もちろん今でも漢との交流はある。だがその際の基本は物々交換だ。自然行き交う物の数も人の数も限定されてしまう。匈奴には特産と言えるものが多くある。羊毛を用いた織物、山羊の乳から作った酪、力強い馬、毛皮、鉱石……様々なものが産出されるというのに全く生かしきれておらず、もったいないもったいないと岳は日々考えていた。

 塩の密売はそれを改善する劇薬だ。一挙に多くの銭が卒羅宇の元へ渡るだろう。はじめはそれを町に持ち込み商品に替えて部族の皆に配るということになるだろうが、次第に金銭自体を分配し、加速度的に匈奴と漢との交流は増えていくだろう。そうなればいざ飢えるような事態になったとしても糧食を買い揃えることができる。人と人との繋がりが増えれば偏見やいさかいも減る、国境を挟んでの戦いも減っていくのではないか――

 確信などないし、その全てを自分の手で調整することなどできないが、岳にはそのような目論見があった。もちろん塩の密売はいずれ発覚するかもしれないので恒久的に続けていけるわけではないが、その塩山を官の管理下に置いたとしても別に構わないのである。匈奴の土地の塩山なので官も手が出しにくいだろうし、匈奴からの反発もあるかもしれないが、既にその点は卒羅宇に相談しており、塩は匈奴に安く融通する、山を持つ権利は匈奴にあるので官は匈奴から買い取るという形で塩を譲り受ける、といったいくつもの案を竹簡に認めて渡している。

 発掘時の岩塩の総量を百とすると、そのうち余分なものをこそぎ落として得られる量が少なく見積もって半分の五十、それを張燕に送り届けてさばいてもらうのだが、張燕以降の取り分が三十である。本当は比率は半々まで持って行きたかったが妥協させられた。取り締まられ裁かれる恐れは漢の地で売りさばく側なので理解はできるが、一旦流通経路が整えば交渉の余地はあるだろう。

 さておき、匈奴に戻る塩の取り分は金に換えて堀り出した百の塩のうち二十である。銭の受け渡しは届けてすぐに十、売りさばいた後に十である。はじめの十は全て匈奴にわたり、残りの十のうち一が李岳の取り分であった。百のうちのわずか一だが、岳は発案と運搬しかしないのでその程度のものだろう、と苦にもしなかった。山は匈奴のもの、危険は黒山賊。あるいは貰い過ぎかもしれないというほどでもある。

 発掘は匈奴の若者三百人が担っている。雨季の前後は草の育ちもよく、放牧は手間がかからない。春を過ぎれば山には獣も増えてくるので狩りも難しくなく、花の後に実る果物もある。月のうち十日ばかり労働力として動かせないかと提案したが、暇を持て余している当の本人たちが最も乗り気で、精を出して掘り始め瞬く間に目標の量へ達そうとしている。

 卒羅宇はいま招集を受けて大平原の最奥、匈奴の都へと向かっているが、指揮はいい加減ながらも香留靼がとってくれたので楽だった。ただ当の香留靼本人がすぐ仕事を放り出して怠けることを除けば問題などどこにも見当たらない。ただ予想外のことが一つだけあった――呂布がすっかり匈奴に馴染んだことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 匈奴の人々は生まれてから死ぬまでほとんど部族の中で暮らし、自然と交流する人脈も少なく、有り体にいってよそよそしい。岳が溶け込んでいるのも弁と卒羅宇の付き合いがあるからで、そうでなければ香留靼とも仲良くなれたかどうかわかったものではない。ところが呂布はいっぺんに馴染んでしまった。きっかけは塩山での働きぶりだった。

 岳が幽州への旅より戻って、呂布は手伝わせろと塩山に逐一付いてくるようになった。呂布の膂力には周囲の誰もが目を見張り、遠巻きに見物する者が出るほどであったが、決定的に距離が近づいたのはとある事故がきっかけだった。

 塩山には当然もろい箇所もあり崩れる危険がある。岳も香留靼も細心の注意を払って作業を指示していたのだが、人の注意を聞かずに焦って掘り進めた者がおり、とうとう岩盤が崩れ落ち崩落の危機に瀕した事態にいたった。

 濛々と立ち込める土煙に、人死にが出たかもしれないと誰もが不安になったが――二本のつるはしを暴風のように振り回し、崩れ落ちてくる岩を叩いて砕き、巻き込まれかけた男を肩に担いで出たのが呂布である。土煙が晴れてその姿を認めた瞬間、再び崩落が起きるのではないかという程の喝采が轟いた。

 それからというもの、匈奴は呂布を仲間と認め、戸惑う呂布をよそにはっきり言って懐いた。

 

 ――呂布の姐さん。

 

 という呼び名には本人が一番戸惑っていたが。

 一見粗野とも取れる呂布の立ち居振る舞いは匈奴の性向と咬み合わないこともなく、特に塩山の麓のゲルで炭鉱町のように居座っている女たちに評判が良かった。呂布の手が空けばすぐに引っ張り込み――

「これは去年嫁に出た娘のお古の服なんだが……おや似合うねえ!」

「ちょっと、これ食べてごらん!」

「歌と踊りを教えてあげようかねえ……ほら、真似して?」

 という風にたらい回しで可愛がられ、格好のおもちゃになっていた。あわよくば自分の息子の嫁に仕立て上げようと企む婦人もおり、さしもの呂布もほうほうの体で逃げ出してくる始末。だがその全てが岳には微笑ましく、呂布が多くの人と触れ合えるようになって良かったと思った。

(……俺がいなくても大丈夫か)

 過剰な心配かもしれぬし、余計なお世話かもしれないが、呂布にはどうしても捨ておくことの出来ない、構ってしまいたくなるような気を起こさせる何かがある。だから匈奴のおばさん達も競って世話を焼くのだろう。世間知らずで無口だが、不器用な優しさを隠し持った本当は素直な優しい娘――

「おやおや、寂しがってますか」

 いつの間にやら隣にいた香留靼が岳をからかうように言った。

「何のことやら」

「素直になりなっせ」

「俺はいつでも素直だよ」

「と、いうやつほどひねくれてるのが常だよな」

 その手には乗らない、と岳は肩をすくめてつるはしを置いた。もう夕方だ、今日も一日よく働いた。掘り出した岩塩はもうすでに結構な量で、張燕との期日には十分に間に合うだろう。早めに切り上げてねぎらうのも大事なことだ。

「素直なやつは、自分のやきもちだってよく分かるはずさ」

 何を言っているのか見当もつかぬと、岳は大声を出して作業中の人々に声を出した。皆が我先にと下山していく。岳も含めて皆疲れているが、夕日を浴びた横顔は充実した面持ちで辛さは感じない。あるいはこういう日がずっと続くのかもしれない、と岳は考えた。『三国志』の世界に生まれ落ち、十数年が過ぎた。正史の通り進むのか、演義のように争いが繰り広げられるのか岳には判断がつかなかった。あるいはそのどちらでもないかもしれない、と最近では思い始めていた。そもそも『呂布が女性』『公孫賛も女性』『もちろん張燕も女性』なのだ。さらには烏桓の姫の姿形――そこで岳は幽州からの帰りに烏桓山へ寄った旅を思い出し、うんざりした。

 仇を討ったとはいえ、楼班は母を失ったばかりで意気消沈していた。そのまま見捨てるには忍びなく、また最初に送り届けると約束をしてもいる。遠回りになるが常山からではなく幽州の北から回り烏桓の総本山、その名もまさに烏桓山へと向かった。ほどほど平和で問題などない旅だったが、支障は到着してからが本番であった。

 大人の妻が殺され、その娘がかどわかされかけた。これ以上激怒させよという方が難しいだろう。それを偶然とはいえ拉致されかけた娘を助け出し、その仇討ちの場を整え、あまつさえ娘が真名を預けるほど信頼している――山をひっくり返す婚儀騒ぎになり、面白がって腹を抱える香留靼を引きずって逃げまわる李岳――だが決して他へはやるまい婿になれと、大人の号令一過、泣き叫んでやめろと叫ぶ楼班をよそに大捕物になってしまった。その顛末がどうなったかは、今ここに無事戻ってこれたことをもって推して知るべしというところである。

 なにはともあれ、李岳にとって先入観を取り去るための旅であったような気がする。

 岳にはこの世界に生きている、という実感が希薄であった。前世の記憶があるから故に、どこか腰掛けでいるかのような錯覚を覚えてしまうところがあった。それは無力感と隣り合わせる感情でもある。自分には何も出来ない、歴史の通りになる、意味などどこにも――

 しかし、自分の関わったこととはいえ、烏桓の反乱は起こらず『西涼の乱』でも歴史にない活躍を公孫賛が見せた。人の営み。何が起こるかわからない、わずかなことで人の人生は動揺し、思いも知らないところに不時着する。けれど多少歴史を知っているからといって、それら全てを掌の上にあるかのように操るだなんて不可能だ。皆、登場人物ではない。人なのだ。そして思い思いに、命のままに生きている――だから逆説、自分にもきっと何か出来るのではないか、と岳は思った。

 岳はつるはしを小脇に置いて、眼下に広がる平原を見渡した。

 この土地はもっともっと栄えるのかもしれないという希望――父の弁には豊かな暮らしをして欲しいし、自分も戦乱に巻き込まれたくはない。そのために移住のための銭を蓄えようとしたが、あるいはここを漢人と匈奴が両方暮らす町に出来ることが可能なのではないか、そしてそれくらいのことならば、自分の一生の事業として思いを決めれば叶えられるのではないか――呂布が匈奴に受け入れられたように、誰が誰であるかということを問わずに、誰もがいさかいなく暮らせる町。

 まだ夢物語でしかなかったが、それが不可能ではないという希望の種が、岳の胸の奥底に埋め込まれていた。

 岳は自分の分の道具も片付けながら、掘り出した塩を確認した。明日からはこれを馬に括りつける仕掛けを整えた方がいいかもしれない、それは男連中ではなくゲルにいる婦人方の力を借りたほうがいいだろう、嫌がるかもしれないが呂布もやってみてはどうだろうか――ふと岳は少女の姿を探した。左手の斜面にて最後の一撃とばかりにつるはしを振り落としていたところだった。重厚で気味の良い音が渓谷に響いた。頬に泥をつけて、今掘り出したばかりの人一人分もあるような岩塩を掲げては誇らしげに笑みを浮かべている。

(誰が誰にやきもちを焼くって?)

 香留靼の軽口を振り払うように、岳は手を振った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 卒羅宇は旅の空の下にいた。十日の間馬を乗り続けたがようよう目的地が見えてきた。伴の若衆がほっと一息吐く音が聞こえた。

 匈奴が占める大地の中央、高貴なる王族と単于に連なる一族が住む都――単于庭。並び行く家々は広大な平原を四方に埋め尽くし遥か彼方の砂漠にまで至らんとするかのようだった。三十万を超す大部落は馬を十五万、駱駝を四万、山羊に牛を合わせるとどれほどの畜を伴っているかもわからぬ。動物の糞の匂いがわずかに漂ってきたが、勢力尊大なることを専ら示す証に違いない。卒羅宇は単于直々の招集を受け、この地に訪れていた。

 秋の大集会にはまだ遠いというのに、これほどの部族が集合していることに卒羅宇は怪訝に思った。また武装した戦士が整然と居並んでいるのも訝しんだ。まるで出兵のようだ。だが漢の先鋒として黄巾の乱の鎮圧に去年もその前も出兵した。今またその尻拭いを行うというのなら単于は信を失うに違いない。卒羅宇は齢七十をとうに超えた老単于、羌渠(キョウキョ)の矍鑠たる様を思い浮かべようとしたが、もはや遠い昔のことであるかのようにぼやけて浮かびはしなかった。

 馬上のまま歩みを進めたが、誰何を待つ前に伴の者が大声で訪いを入れた。駆け寄っては列を作る同胞を前に卒羅宇は豊かな髭の奥で相好を崩した。

「卒羅宇! この馬鹿者が! まあだ性懲りもなく生きていたか!」

醢落(シュウラク)! くたばり損ないめ!」

 真っ先に駆け寄ってきたのは古くからの知り合いで、ともに何度も轡を並べた醢落という部族長であった。身長は六尺にようやく至らんとする程度だが、その怪力無双なること同胞の内でも比肩するものはおらず、傷ついた愛馬を見捨てるが忍びなく、自ら背負って五十里を踏破したという伝説がまことしやかに語られるほどであった。

 乱暴に背中や肩を叩き合いながら抱擁を交わし、二人は並んで中央へと向かった。大声で笑いながら、その合間合間で醢落が囁くように言う。

「不穏じゃ。動員令がかかる」

「そうじゃ! 貴様が狩ったという虎の皮、もう一度見せてみよ、わしがこの前射殺した山の主はその倍はでかいぞ」

「何を! どうせ若い者を使って追い立てたんじゃろうが! わしは正真正銘一騎打ちよ」

「まことか」

「わしは嘘は言わん! 貴様と違ってな!」

 二人は大きい声で笑いあいながら部族の間を縫った。その声を聞きつけてゲルというゲルから人々が出てきて歓迎の声を上げた。卒羅宇も醢落も音に聞こえた武人だ。対漢、対鮮卑、対烏桓――いずれの戦でも遅れを取ることなく戦場の数だけ武勲を挙げた。勲の歌さえ作られるほどで、馬頭琴の調べに乗せて戦勝を祝うことさえ単于に許されていた。

 三百人はゆうに収まる一際大きい天幕に立ち入ると、既に居並んでいた大勢の長から歓迎の声が飛んだ。鮮卑との戦で挙げた武勇がここ近年で最も音に聞こえた勲だ。戦のために断絶した前の骨都侯の地位を譲り受けても堂々たるもの、誰もが卒羅宇の入場を待ち受けていたとばかりに歓声が上がった――が、卒羅宇はそれこそを訝しんだ。只の戦でこのような熱狂を呼ぶことがあるだろうか、それに例年とは違いこのような夏の時期に祭りではなく緊急の集会を開くなどと。よほどの喫緊の問題が発生したか、あるいは誰かの思惑が左右しているのか――卒羅宇は声の全てに笑顔と頷きで応えながら地位によって定められた場所にたどり着いた。

 やがて天幕の最奥にかけられた豪奢な生地――敦煌から漠北路を通りはるか西方の異国・波斯(ペルシア)より手に入れた至上の一品――が上げられると、奥から単于と左右の賢王が登場した。周囲はどよめきにあふれた。七尺を超える魁偉であった羌渠単于――十年前、先代の単于が漢の役人に卑劣にも背中から斬られその生命を絶たれた時、怒りに任せ単騎で漢の地平に押し入り暴れまわったとされる偉丈夫はもはやその影さえなく、ひどく曲がった腰に痩せた体、目に光がないのは明らかで、横で支える右賢王の於夫羅がいなければこの場に現れることさえ叶わなかったであろう。

 その於夫羅が一同を睥睨して宣言した。

「同胞よ、お集まりいただき大変頼もしい! 単于の御口上代わりに申し上げる非礼を許されよ! 此度漢より以下の書状が届いた! 黄巾賊の乱れること甚だしく、漢朝の命により匈奴の勇者は右賢王於夫羅を頭領に戴き騎馬を並べて進軍せよ!」

 一人の部族長が異論を上げた。

「待たれよ、先年も、その先年も漢に出兵したではないか、しかも彼奴らの動乱を鎮めるためという情けない理由で!」

「そうよ、納得がいかぬ」

 どよめきが一座を支配し、困惑から不審、疑惑へと様相が変化し始めた。卒羅宇は腕を組んで黙って見ていた。醢落も同じように腕を組んで眉を顰めている。

 動員は成らぬ――卒羅宇は確信をもって考えていた。毎年の徴兵により多くの部族が疲弊している。若い男が死ねば資産が減るということだ。働き手が減れば収穫も減り、侘しくなった村には子も生まれなくなる。しかもその動機も良くない。

 戦争は誇り高き武人の性。だが漢人の走狗として使役されることを喜ぶことはその限りではない。醢落の目が炯々たる輝きを放つのを於夫羅は認めた。あるいは弑逆もありうるとその目は何より雄弁に物語っていた――だが卒羅宇は醢落よりも於夫羅の様子に異変を感じていた。

 一座の不満を存分に見回しながらやがて、たまらぬ、と一言こぼした。

「……まことにたまらぬ! ここはまさに勇者の集いよ! よろしい! 同胞諸氏の胆の太さにこの於夫羅、感じいった!」

「……右賢王、一体何を言っているのかよく聞かせて欲しい」

 右大将が進みでて問うた。

 すると右賢王は漢からの書状――皇帝の玉璽でもって捺印された正当なる国書を、その場で無残に引き千切り始めた。一座は動揺にて再びざわめき、少数だが喝采を投げかけるものもいた。

 手紙をすっかり細切れにしてしまうと、於夫羅は意を決したように言った。

「同胞諸君。我ら匈奴は誇り高き大草原の民なれど、漢人の卑劣さに苦渋を舐める日々を余儀なくされてきた。使役され、使い潰され、舐められてきた! 古の時、我らの元にも玉璽があったが、それも卑劣な漢人により奪われ砕かれた。このような侮辱にいつまでも耐え忍ぶことは我が子ら、孫らのためになるまいと、単于はある一つの決心を持ってこの場においでになっている」

 右賢王於夫羅に背中をさすられ、単于はしわに埋もれたようなくたびれた口で呟いた。

「……か、漢を討て」

 その言葉に、一座は再びどよめいた。聞き間違いではないかと耳を傾ける者、またその声がか細かったために後列のものには聞こえなかったようで、前の者が後ろにまで聞こえるように大声で繰り返した――単于が漢を討てとおっしゃった!

 ざわめきは次第に潮位を増し、天幕の内側を目一杯まで満たした。

「聞こえたか、聞こえたか諸君! 漢を討てとおっしゃった! 単于はいまお命じになった、同胞!」

「聞こえたぞ! 単于の声に従う! 俺は単于に従うぞ!」

 若い者から喝采を上げ始め、次第に場は戦の熱に侵され始めた。鬨の声が起こり始め、既に潮位は天幕を満たして多くの者を溺れさせたことに卒羅宇は気づいた。激情は熱を増す一方であり、巻き起こる嵐のような絶叫の中で卒羅宇の呻きは髭の奥に隠れて埋もれた。

「よろしい! ならば我に策がある。我々匈奴は一旦漢の要望を受け入れたことにし、忌まわしき長城の壁を越えたところでその本意を示す。単于いかがお考えか!」

「さ……左様せい」

 その言葉ののち、陣幕の内側は完全に於夫羅の独壇場となった。

 その演説ぶりはまるで別人であるかのように朗々たるものであった。必勝の策、漢人の鼻を明かす、全てを奪う、誇りを取り戻す、と過激な口ぶりで匈奴の戦士を鼓舞した。

 だが於夫羅は間違いなく何者かの意図の上で踊っていると卒羅宇は感じていた。あたりを見舞わせば醢落を始め、幾人もの古参、古豪とも言える武人たちが訝しんだ目をして場を見回している。

 於夫羅の演説はとどまるところを知らず、そして不意に卒羅宇を真っ直ぐ見据えると、口をひどく歪めて笑った。

「幸いここには多くの戦士がいる! 百戦百勝のもののふ! 皆の衆も記憶に新しいであろうが、その最たる方をお一人紹介しよう……卒羅宇骨都侯、出ませい!」

 人が避け、卒羅宇の前に道が出来た。喝采が飛び交うが卒羅宇の内心は怒りに煮えくり返っていた。この若造めが、今すぐ縊り殺しくれようか――だがそれを許さぬこの場の圧力、熱気は既に於夫羅の掌中であった。

「骨都侯殿は先の戦で忌まわしき鮮卑の者共に膺懲の一撃を加えた大功あるお方だ!」

 喝采が上がる。卒羅宇は憮然としたままでいたが、次の瞬間耳を疑うことを於夫羅が口にしていた。

「だがもう一つ! 各々方肝を落とされるな。卒羅宇殿の部族には、遠き過去、我らが先祖にさんざ苦渋を飲ませたかの飛将軍李広、そしてその子孫の李陵! 匈奴の我らさえ認める武人の末裔が住まわれている!」

 雄叫びが上がる。場の興奮に、もはや意味もわからず絶叫している者もいるだろうが、その伝説の名前は匈奴の地でこそ漢より遥かに轟いている。一同の視線が一挙に卒羅宇に集まった。

「我らは強者を愛する! 李広も李陵も敵ながらあっ晴れの将軍であった! だが卑劣な漢人は強者を妬み辱める卑人共だ、逼塞したその末裔……李岳という少年はなんと匈奴の側に立ち、対鮮卑の戦で初陣を飾り、獅子奮迅の働きをしたとして功を挙げたのだ! 漢人どもの顔色なからしめる先鋒役としてこれ以上の適任はおるまい! 近しい部族の長である卒羅宇殿と合わせて先鋒をつとめて頂こう! いかがが単于!」

 左様せいという単于の言葉は、既に熱狂の渦とかした男どもの声と、踏み鳴らす地響きがごとき足音のために誰の耳にも届くことはなかった。誰が筋書きを書いた、と卒羅宇は饒舌な於夫羅を眺めて不審に思った。この男がこれほど達者に歌えるなどと誰が信じよう――あるいは漢に討ち入るなど大したことではない、ひょっとするとこの者を裏で操る影の思惑こそより一層匈奴の脅威になるのではないか――卒羅宇は単騎で敵陣に突っ込む時でさえ覚えぬ恐怖に、全身の肌が粟立つのを感じた。

 

 ――出征総勢二十万の陣容はその日のうちに決定された。


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