真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

121 / 184
第百十八話 さらば、わが恋〜覇王別友

 最初の激突は布陣から三日後であった。それも寄せ手からの夜襲。先手にこそ奇手ありき、とでも言わんかのような曹操の跳梁であった。

 夜闇の中から南門へと押し寄せる松明の波。妖怪変化の類いではあるまいが、死へと誘う怖るべき者共であることに違いはない。

 張軍の抵抗は頑強であった。張貘は己に射かけよと言わんばかりに、夜にも光る白銀の鎧をまとったまま。城楼の最前から腰を下ろして決して動かず、それが守兵を奮い立たせた。兵は沈着冷静な大将を心より信頼し、よく戦った。数日前に惨敗を喫した張超も、人が変わったように奮戦しよく指揮に服した。

 曹操の攻勢は容易くは途切れなかった。三日三晩休みなく攻め立てると、一日の間をおいてさらに三日三晩休まなかった。曹操の戦法は意外にも力戦だったのである。

 しかしあの曹操が策もなく押し迫るだけとは到底思えなかった。次に何をしてくるかわからないという恐怖は、城そのものではなく守る者の心を侵す。甚大な疲労を張軍に強いながら、攻城戦はちょうど二十日目の夜を過ぎた。

 

 

 ――明けて翌日、曹操の攻めはそれまでとは手法を変えた。

 

 夜明けを合図に李典の指示の元に組み上げられた投石車が火を噴くように城壁を襲う。二十日間の猛攻は、この投石機を組み上げるための日数を稼ぐ露払いでしかなかった、とでもいうような攻撃。

「よっしゃあ! どんどんいてこましたってや!」

 ウハハ! と声を上げながらからくり仕掛けの義手を振り回す李典の声に奮起し、工兵部隊は機敏に動く。

 曹操軍の投石機は祀水関攻略の頃より正確さで知られていたが、濮陽城に降り注ぐ岩の精度は当時を遥かに凌いだ。曹操の発想と李典の工夫により、改良を加えられた投石機は、正確で長大な射程、簡易化された操作によって連射を可能とする速射性を兼ね備えていた。他の追随を許さないこの新兵器は、後年『霹靂車』の名を冠することとなる。

 対抗となるような備えなど濮陽城の中にあるわけがない。濮陽城は射込まれるだけ射込まれ、石を浴びるだけ浴びる他なかった。

 

 ――だが粉砕される防備の陰で被害をまぬがれつつ、虎視眈々と張貘軍が逆襲の機を窺っていることを曹操はまだ知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「姉様のおっしゃる通りでした……!」

 張超が感動に打ち震えながらつぶやく。

 曹操の寄せの手順を張貘は読んでいた。ここ数日の内に投石の恐れを事前に言い含められてた将兵たちは、飛来する無数の岩石に動じることなく対処できていたのである。

 張貘は戦乱の最中、曹操が新兵器開発に夢中になっていたことを聞き及んでいた。この機会にその威力を試してみたいと考えるのは実に彼女らしい選択だろう。

「麗羽と事を構える前に試しておきたかったというわけでしょ? 前哨戦扱いであるのは間違いないものね」

 さて、と張貘は思慮を巡らす。防戦一方のまま主導権をこちらに取り戻すのはもはや至難。待ちの一手では戦機は巡っては来ないだろう。兵の疲労も馬鹿にはならない。援軍が来るかわからない中での籠城戦は、守備側の精神力が途切れればそれまでなのだ。この状況の中、投石機を放置するのはあまりに危険である。

「やるしかないわね」

「姉様」

「今はしのいでいるけれど、私たちは華琳の投石機を防いだわけではない。このまま捨て置けば城壁の防備は跡形もなくなり、敵兵の登攀を容易ならしめてしまい、早晩、城を失うことになる」

「それは、わかります」

「問題があるなら解決しなくては、でしょう?」

 状況を変えるためにはこちらに有利な波が必要だ。石を投げられてばかりでは相手の波ばかりが立つ。波紋を起こしたければ、自らも石を投げ返さなくてはならない。

「さ、波を起こすわよ」

 槍を振りかざしながら不思議なくらい上機嫌に張貘は言う。既に馬上。これより開門を告げて曹操軍に雪崩れ込む算段だ。だが随伴する張超の表情は疑念と不安で晴れやかには程遠い。

「姉上の軍略に異議を唱えるわけではないのですが……ですが、全軍というのはあまりにも」

「そう? だってその方が楽しいじゃない」

 耳を疑う弟を置いて、張貘は晴れやかな笑顔で城門を飛び出した。

 

 

 

 

 

 曹操が思わず腰を上げたのは先頭に張貘本人がいたからに他ならない。騎馬隊の猛進! 李岳軍の精強な匈奴兵に五分とは言わずとも、正面からよく渡り合ったその実力は、今や天下のよく知る所であったはず。

 白銀の乙女を先頭に飛び出した騎馬隊はその数一万を優に超え、投擲された油壺は一つ余さず火炎に包まれ投石機を舐め上げた。颯爽と仕事を終えて引き返していく張貘の騎馬隊に、追撃を加えようと突っ込んだ夏侯惇をしたたかに打ちのめしたのは、いつの間にか南門から出撃していた別働隊。

「張軍、全軍が飛び出してきています!」

 荀彧の声に曹操は笑いをこらえるのが精一杯であった。今や城内はもぬけの殻であろう。しかし投石機の攻勢に依存した陣形を取っていた曹操軍に、機敏な対処はできなかった。瞬撃の後に颯爽と撤退――鮮やか極まる手並みで城内に戻っていく張貘と、火炎に包まれた攻城兵器の前で指をくわえて見ていることしか出来ない曹操の対比は、滑稽の一語である。

「やるわね」

 全軍を振り絞っての奇襲など、曹操が最も得意とした戦法の一つである。それを眼前でこれ以上ない形で見せつけられれば面目などどこにもない……そして口には出さないけれど、それがどこか嬉しくもある。

 深く大きく息を吐き、曹操は声を上げた。

「真桜!」

「は、はヒッ!」

 叱責が飛ぶかと思ったのか、李典は声をひっくり返しながら曹操の前でしゃちほこばる。

「被害状況は?」

「……あの、二十基のうち、半分が完全にあきまへん。他に三基も消火がなんとか間に合ったんやけど、土台を組み直さんといつ崩れるか……」

 投石機の強みは言わずとも遠距離からの飽和攻撃にある。数が少なければ意味をなさず、牽制にも使いにくい。

「攻城兵器の再建にはどれほどかかるかしら?」

「えっと……」

 曹操軍の投石機は、精度を上げるために様々な工夫をこらしているからこそ、加工の難しい部品も複数組み込まれている。木を切って荒縄で縛れば出来上がる、というほど単純な仕組みの設備ではなかった。

「……腰据えて、二ヶ月は欲しいところやなぁ、って感じです。けどまた運んできて組み直すとなると……」

 片腕を失った李典を前線で使い続けるのは難しい。ここは冀州との戦いに備え、失った投石機の補充も兼ねて温存すべきだと曹操は割り切った。

「すぐに陳留に戻って取り掛かりなさい。ただし、ここまで運搬する必要はない」

「え、それって……」

 新しいおもちゃを早速使ってみたいという稚気を見抜かれた。この調子で李典まで失っては目も当てられない。李典は肩を落としているが責める気はない。僚友の楽進や于禁が慰めるだろう。

「私は焦っているのかしら。それを貴方に見抜かれたのかな、京香」

 城を囲んでやがて一月が経とうとしている。程昱の配下である隠密集団『蝕』からは、西と東で不穏な動きあると報告が上がっている。北の動向もある。いたずらに時間を費やせば近づくのは滅びだけだ。いずれ同様の決断を下すのであれば、それは早ければ早い方がいいに決まっていた。

 曹操は決断し、楽進を呼んだ。

 幕舎に現れた楽進はひざまずき拱手した。楽進の顔は武人の(おもて)こうあるべし、というような深い傷を得ている。曹操軍の最前線、もっとも困難な地点を任せてきた将の一人である。

「三百人の決死隊を組織せよ」

 楽進の頬がすぐさま赤くなった。

「必ず、ご期待に添います」

 

 

 

 

 

 

 濮陽場内は一転勝利間近の気勢に包まれていた。張貘の采配は冴え渡り、曹操軍の攻撃を物ともせずに退けている。あるいは袁紹軍の到来まで持ちこたえられるのではないか、とかすかな希望さえ見え始めた。

 曹操軍は投石機を潰されたことで躍起になったのか、衝車を使っての力押しでの攻めに切り替えてきた。城外から門に向かって、わずかに下り傾斜となっている西門を利用するあたり、やはり曹操は元は自領であったこの濮陽城を知り尽くしている。

 だがその全てを濮陽城は跳ね返していた。張貘を慕う義勇兵も増える一方で、日増しに戦意は向上しているほどだ。

 張超は思う――ずっと曹操が恐ろしかった。情が深いように見えて容赦のない冷徹さ。いずれ姉を殺すのではないかと思うと気が気ではなかった。いくら親友と言えど、だからこそ疎まれれば容赦なく殺されると思えた。

 その恐怖が頂点に至った頃、田疇から支援の提案を受けたのである。

 決起したことに悔いはない。今はもう心の内に曹操への恐れはない。攻め立てられているとはいえ、気分は晴れやかだった。

 気がかりなのはただ一つ、張超は姉を出し抜くような作戦を実行したことだけであった。

「姉様、申し訳ありませんでした……!」

 指揮の合間、城壁の上で張超は言う。知れず涙が頬を濡らしていた。

「どうしたの黎明、急に涙なんて……」

「姉上を騙したことを申し訳なく思い……そしてそれ以上に、嬉しくて!」

 張超は兵の目を盗み、涙を拭いながら続けた。

「私は幸せ者です……! ようやく夢が叶いました! 姉上の下で、こうして戦うことが夢だったのです! 誰にも指図を受けない姉上の下で戦うことが!」

 西門の上から城下を見下ろした。数万の曹操軍の陣営は威容ではあるが、その後ろに広がる中華の平原に比べれば何ほどのこともないように見えた。夜明けの青白さを背負った広大な原野! 頂点を極めるためにこの大地を張貘と駆けることがようやく出来るのだ。曹操を退ければ本当の夢が始まる。

「勝ちましょう! そして、天下に張孟卓あり、と号令するのです。姉上、もう恐れる事なく御自らの才を全て使って良いのです。恐れるものは、もう無いのですから」

 張超の意気込みに、張貘は静かに微笑んで頷いた。

 始まった夢はこれから飛翔を始めるのだと張超は確信を持った。曹孟徳、何ほどのこともない。時は張軍の味方なり。攻城戦は守備側が有利であることは歴史が証明している。袁紹の援軍が届くまでこらえれば良いだけなのだ。

 

 ――しかしまさにその夜、轟音と共に濮陽は落城の憂き目に遭う。頑強な抗戦を押しのけられたわけではなく、衝車に打ち破られたわけでもない。開門は城内からの呼応によるものだった。場所は衝車に攻め立てられていた西でなく、これまで無傷であった北門。

 極秘裏に掘り進められた坑道から、楽進率いる決死隊三百人による特攻が突入してきたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひと一人がやっと通れる坑道を掘るのに五日。いくら狭小であれ、城壁をくぐる穴を掘るには通常さらに日数がかかるものだ。

 それを成したのは荀彧が城壁の一部に欠陥があることを知悉(ちしつ)していたからだった。北門に連なる城壁の一箇所に地層の(やわ)い部分があり、そこを狙った。昼間は敵兵から見つかることを避けるために穴の中に潜み、夜のうちにだけ掘り進んだのである。

 言葉少なく寡黙な楽進。だが先頭で土を掘り、岩を運ぶこの乙女を、兵たちは良く信じて作戦の成功を疑わなかった――果たして穴は見事に貫通し、三百人は城内に雪崩れをうって北門をこじ開けるに至る。あとは西門から迂回してくる曹軍本隊が突入してくるまでこの門を支えるのみであった。

 北門に常駐していた守備兵は千五百。五倍する相手に決死隊は半円を組み、こじ開けた門を死守せんとする。その先頭にいるのは隊長である楽文謙。

 砂を噛み、地中をもぐらのように這いずって進んできた楽進の全身は、泥にまみれ、闇の中でさえさらに真っ黒だった。だがその双眸は烱々爛々(けいけいらんらん)と輝き、覚悟の闘気が熱となって全身から立ち昇っている。両手を組んで仁王立ち。その背に守るは、自らの体を縫い付けたように開いた門を抑える泥だらけの兵たち……戦友の覚悟が楽進の背を力強く押す。

 その両拳に装着した鉄甲の名は『閻王』……泰山府君に比肩する冥土の王であり、死者を罰して地獄に落とす悪鬼羅刹の主人の名。楽進は構えを取る。敵の喉元に捻り潰すように差し出された左拳、突き出せば全てを貫き通す程に気力の充溢した腰だめの右拳。

 短躯に闘気を漲らせ、楽進は低く構えて叫んだ。

「地獄の門を閉じたくば、この楽文謙を倒してみろ!」

 怒号とともに突っ込んで来る敵兵の槍衾(やりぶすま)に、怯むことなく立ち向かいながら楽進は拳を突き出した。閻魔の裁きに情けはない。地獄に叩き込まれる張兵の返り血を浴びながら、楽進は血風を撒き散らした。

 

 

 

 

 

 

 

「決死隊が血路を開いた! 全軍ただちに北門へ急行せよ!」

 曹操の叫びに夏侯惇を先頭とした軽騎兵が第一に駆け出した。

 三千の騎馬隊が本隊を離脱し城壁を右回りに迂回する。間を置いて異常に気づいた張軍が城壁の上から矢を放つが散発的で、曹操軍を押しとどめるには至らない。曹操もまた先頭を駆けながら小さく数を数えていた。五百を超えたところで北門が見えた。門は閉じかけていた。張軍が多勢で押し寄せているのが見える。間に合わない。だが門は閉じない。曹操は目を凝らした。

 

 ――自らの体を荒縄でくくり付け、あるいは門の間に体を投げ込んで閉門を防ごうとしている部下たちの死闘の様子が、曹操の目にはっきりと見えた。死してもなお命令に忠実足らんとする曹軍の気迫が曹操の魂を熱く焦がす。

 

「絶影、貴様それで死力を尽くしているというのか! 情けなく無いのか! 翔べ! 翔んでみせなさい!」

 曹操の声に、黒馬は翔んだ。夏侯惇の制止を振り切って曹操は閉ざされかけた門を先頭で蹴破った。刹那を置いて夏侯惇の雄叫び。雪崩れ込んで来る曹軍と張軍がとにかく押し合う。曹操も先頭で鎌を振り回しながら敵兵を押しまくった。三百人の決死隊うち、生き残っている者は五十人もいないように見える。討ち死にした味方を積み上げて、あるいは自ら飛び込んで門を死守したのだ。

「華琳様!」

 声の方を見た……楽進!

「凪! よくやった!」

「御下命のままに……!」

 見れば楽進の顔にも新たな傷が増え、流血で真っ赤になっていた。曹操は楽進を抱き寄せると、頬の深い傷に口づけを寄せた。

「剛毅果断……それでこそ曹操軍なり」

 熱い涙を垣間見せた楽進の肩を叩き、曹操は前を向く。

 夏侯惇が敵兵の十人からを一息に吹き飛ばしている。形勢は逆転の兆しを見せていた。だがいずれ敵の本隊が押し寄せて来るだろう。風を読む。曹操は楽進の血の味を舌に感じながら叫んだ。

「西門方面に火を放て!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 濮陽は一転混乱の極みに堕した。張貘は束の間目をつむって黙念した。北門には火の手が上がり、延焼は張軍の増援を妨げている。曹操軍本隊もいずれ北門から全軍押し入ってくるだろう。城内は兵を自在に動かすには適さない。混乱の中で民も逃げ惑う。普通に考えればほとんど失陥と呼んでもいい状態であった。

「ね、姉様」

 目を開けた。狼狽える張超に頷き、張貘は主な幕僚たちの前で言った。

「この濮陽城は今、陥落の只中にある。同時に最後の勝機が転がり込んできていることを自覚せよ。曹孟徳を討ち取る千載一遇の好機が今なのです」

 混乱の市街戦の中で曹操に迫る。それが張貘の立てた方針であった。

 指示を矢継ぎ早に繰り出す。本隊を西門から吐き出し、北門に突入させる。別働隊は一旦城内中央の公庁へと戻し、正面から受け止める。城内は大軍を動かすには適さないから、勝機はまだあるように見える。

 指示を終えると、張貘自らの馬にまたがった。

「私と本隊は中央で備える。後は指示通りに。黎明は私と共に」

 

 

 

 

 

 

 

 風に煽られ炎はじわりと濮陽城内に広がり始めた。避難を求める民を東門から逃がすよう誘導を指示し、曹操は夏侯惇、夏侯淵を従え濮陽城内を突き進んだ。

「華琳様、敵本隊が先に中央公庁に戻った模様」

 夏侯淵の助言に頷きながら、曹操はなお前進を指示する。夏侯淵が言下に、安全のために後ろに下がれ、と言っていることなど百も承知だった。だが曹操は先頭を譲るつもりはなかった。

 家や荷車を押し倒し、張軍はこちらの進軍を遮るように阻塞を積み上げてくる。だが全て力技で押し通した。曹操の隣に付いて決して離れない典韋が、許褚の形見の鉄球で敵兵を根こそぎ薙ぎ払っていく。武器を手に組織的な反抗を目論む敵兵は、顔をのぞかせた瞬間夏侯淵が軒並み射殺していく。曹操軍は市街戦を、苦戦しながらも一つずつ攻略していった。

「華琳様、やはり後背から敵兵が挟撃を目論んで参りました」

 報告に来た荀彧を曹操は手を振って追い払った。任せるという意味だ。この期に及んで出してきたには悪くない策だが、処理は容易い。罠は十分に仕込んである。西門から迂回してきた敵兵は、城門で半ば分断され各個に撃破される憂き目に遭うだろう。

 公庁前に立ちはだかっていた最後の二千ほどを打ち破ると、組織的な抵抗を試みる集団はもはやいないように見えた。公庁にも火が燃え移っている。赤い火花を散らして、黒い灰が舞っている――まるで曹操を誘うように。

 夏侯淵と典韋を呼んだ。

「中に入るわよ」

「えっ、はっ」

「……お待ち下さい、華琳様」

 典韋の声にかぶせるようにして夏侯淵が言う。典韋も同じことを言おうとしたのだろう、しきりに頷いた。

「中に入ると決めた。来ないというのなら春蘭を呼びなさい。一人でも入る」

「……いえ、お供仕ります」

 夏侯淵の号令に従い、五百ほどの兵が後ろに付き従った。それ以上連れて行っても連携は取れないだろう。所詮建物の中なのだ。

 中は明かりが灯してあり、曹操は迷わず進むことが出来た。しかし時間はない。曹操は類焼を止めるように指示はしていない。ここも間もなく焼け落ちるだろう。

 半ばまで進んだ頃だった。左右から百ほどの兵が飛び出してきた。

「曹孟徳、覚悟!」

 束の間混戦となる。だが典韋の攻めの前に、敗残の兵が立ち塞がれるわけもない。決着は見えているが、曹操はそれまで待ちたくなかった。

「先を急ぐわよ、秋蘭」

「華琳様! 危険です!」

「ならば、貴女が守りなさい」

 仕方ない、というように(かぶり)を振って夏侯淵が付き従う。

 建物の構造は単純だ。もうこれより先に兵を忍ばせる場所などない。曹操は躊躇うことなく歩を進めた。

 

 ――ようやくたどり着いた間には張貘、張超の二人がいた。それは曹操が予想していた通りの光景だった。

 

「私の勝ちよ、京香」

「そのようね、華琳」

 見ればあの白銀の鎧さえまとわず、張貘はいつものように笑っている。剣を手にしているのは張超だけだった。剣を両手で握り、曹操を睨んで気丈にも立ち向かおうとしている。

「あ、姉上! お逃げください! ここはこの黎明が、じ、時間を稼ぎます!」

「ありがとう、黎明……」

「姉上、早く!」

 次の瞬間、張超の胸から不意に刃が飛び出した。筆に息を吹いたような喀血。崩れ落ちる体を張貘が抱きとめる。わずかに震え、間もなく張超は動かなくなった。

「これしかなかったの」

 張超の亡骸を背中から抱きしめたまま、張貘は言う。曹操は拳を握りしめて、震えながら言葉を絞り出した。

「他に、手立てはなかったというの?」

「華琳、貴方はこの子を赦せた?」

 聞くまでもない質問だった。だから答えるまでもない。張貘も答えを求めているわけではない。

「曹孟徳を裏切った以上、結末は見えていた。けどね、華琳、こんなに馬鹿な子でも、私はこの子の姉で、そしてこの子が大好きなの」

 張超の口元を汚している血を、張貘が優しく拭う。曹操は否定も肯定も出来ない。確かに張超は殺す他なかった。謀反人を生かしておく理由などない。殺さなければまたいずれ誰かが裏切るか知れない。だがそれは、張超だけで良いはずでもあった。

「私は貴方が好き」

「京香」

「だから貴方が、私の弟を殺すことだけは耐えられない。大好きな貴方に、かけらでも憎しみを持ちたくなかった。貴方への想いは、一点の曇りもないままにしたかった……」

 そのためには共に戦い、敗れた時には張超の自らの手で殺める他なかった。とても張貘らしい、と曹操は思った。

 だがそれは答えの半分でしかない。

「逃げるという考えは浮かばなかったの?貴方にはその選択もあったはずよ!」

「逃げたらどうなってたかしら。貴方は私と戦うこともなく、それで傷つくこともなく、私を忘れ去ることが出来たでしょうね」

 返す言葉もない。曹操は張貘を忘れ、覇道を変わりなく進もうとしただろう。

「華琳に忘れられたくなかったの。だから貴方を傷つけることにした。もうこれで、私を忘れられないでしょう?」

 べっ、と舌を出して張貘は悪戯っぽく微笑む。曹操も毒気を抜かれ、大きくため息を吐いた。

「一つ教えて。これは麗羽の差し金だったの?」

「まさか。この子を焚き付けたのはその下にいる田疇。あの男、なかなか切れるみたい」

 書生のような、顔色の悪い男の顔が浮かんだ。

「華琳。お母上は東門側の李家という、濮陽城内で一番大きな屋敷にお隠れになっているわ。そこなら火の手も回らないはず」

「……母が、もしかして貴女に何か言ったかしら」

「曹孟徳の友らしくあれと。張孟卓らしくあれと。とても感謝しているわ」

「本当に、みんなして私を困らせるんだから……もし初めから貴方が立ち上がっていれば、私はもっと苦戦していたでしょうね」

「ずいぶん苦労したでしょう?」

「とても、手強かったわ……憎たらしいくらい」

「いい気味」

 その笑顔が曹操の心を八つ裂きにする。まだまだ張貘は曹操を傷つける気でいる。

 やがて煙が垂れ込め始めた。火がここまで回ってきている。曹操は口元に手をあてひどく咳き込んだ。火で人が死ぬ時、ほとんどは焼け死ぬのではなく黒煙にまかれて呼気を失うことが原因だと聞いたことがある。背後の夏侯淵が曹操の名を何度も繰り返し呼ぶ。曹操自身も意識が曖昧となる兆しを感じた――だがそこにまだ張貘はいるのだ!

 赤々と燃える炎に囲まれながら、張貘は見苦しい咳一つこぼさずに笑っている。

「行って、華琳」

「京香……言葉が浮かばないのよ! 私は貴方の名を呼ぶ以外に、言葉を失ったみたいに……!」

「曹孟徳から言葉を奪うなんて、私の生涯一番の戦果ね」

「……馬鹿!」

 洛陽の穏やかな陽だまりの中、袁紹と三人で詩を詠み、あるいは世を論じながら茶を薫ったあの頃――袁紹と他愛ない言い合いになった時、二人をたしなめながら必ず見せたあの困ったような、仕方ないと諦めたような苦笑いで、張貘は告白する。

「勝ってね、華琳。でも最後の最後に機会があれば、麗羽のことは許してあげて」

「……約束する。機会は与える」

「李岳は、容赦しなくていいわ。こてんぱんにやってしまえばいいと思うの」

 胸の傷が広がっていく。曹操は引き裂かれた奥から心臓をえぐり出されたとさえ思った。張貘は笑う。春先の木漏れ日の中でそうしていたように、秋の夕暮れでそうしていたように――

「さようなら……私の愛しい覇王様」

「京香!」

「華琳様! 限界です!」

 夏侯淵の声が曹操を洛陽から濮陽城に引き戻した。見れば立ち昇った火柱が天井に燃え移り、火は勢いを強め建物は崩落を始めている。夏侯淵の腕が否応なしに曹操の体を掴み、飛ぶように後退する。

 抱きかかえられたまま曹操は手を伸ばしたが、二人の間に立ちはだかる黒煙を振り払うことはかなわなかった。

 弟の体を抱きしめたまま、張貘は曹操を笑顔で見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が明けて翌日。曹操は兵を城外に再布陣させ、城内の火が収まるのを待っていた。城外に続く門からは、あわれな民たちが手荷物だけを持って避難している。また降伏を決意した残兵たちも、為す術なく座り込んでいる。そして拠点を回復した曹操。

 その者たち全員に、朝陽は平等に降り注ぐ。見ることが叶わないのは、死んだ者たちだけだ。

「桂花」

「はっ」

「この街を破壊せよ、徹底的に焼け、欠片も残すな。灰もまた土に埋め、その存在ごと消し去ってしまいなさい」

「……民はいかように?」

「全て殺した」

 荀彧が小さく頷く。

「流民が突如、陳留に溢れかえることになるやもしれませんが」

「仮の宿を用意し、炊き出しを実施せよ。軋轢や事故がないように配慮しなさい」

「……それでもなお、民は皆、華琳様を恐れるでしょう。本当は誰よりも民のことを思っているのに」

「不本意?」

「いえ、少し寂しいだけです」

 黒煙をまとわりつかせた火柱を上げ、濮陽の街が崩壊していく。

 それはまるで盛大な墓標を積むための地ならしに思える。だがそんなもの、本当は必要ない。張貘は銀色の短剣で曹操の心臓を串刺しにした。この胸に波打っている鈍い疼痛(とうつう)は、生涯消え去ることはないだろう。それは彼女が未だここにいるという証。

 癒えることのないこの痛みがある限り、悼むために見舞う石塊(いしくれ)など不要である。

「京香。貴方さては初めから、私のここにずっと居座るつもりでいたのね……」

 蒼天に涼風が吹く。凱風快晴。夏が終わった。熱い夏だった。そして時を同じくして、曹操の青春も終わりを告げた。淡く儚い恋心は、深く痛々しい不変の愛に成り果ててしまっていた。

 

 ――大きく息を吸い込み、曹操は進軍を命じる。約束の覇道を往くために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 陳寿は云う――曹嵩は官を離れた後に譙へと帰っていたが、のちに濮陽へ避難し、張貘によって殺害された。曹操はこれに怒り張貘を追いこれを殺すことを決めた。荀彧、程昱に鄄城を守らせ、河を渡り張超を略した。遂に濮陽城を囲み撃ち破った。張貘と張超を斬った。曹操は濮陽を焼き多くを殺した。叛していた兗州の東と豫州は曹操を恐れ、以後帰順を示した。




お疲れ様でした。もっと出番を上げたかったな、といつも思うんですけど中々上手いこといきません。
張超くんは地味に李岳討ち取りかけてたり活躍してなくもないんですけど、坊や過ぎたのが欠点だったか…
お二人ともゆっくり休んでください。

タイトルはレスリー・チャン主演の「さらば、わが愛/覇王別姫」のパロディです。名作。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。