漢朝の混乱が極まる前、かの皇帝、霊帝が未だ健在であった御代、舞台は幽州――北の遥かに山脈を臨みながら、今はまだ緩やかに流れる
面立ちは優しげで穏やか、涼やかな立ち居振る舞いが育ちの良さを伝える。線が細く非力に見えるが、手にした竹簡の束にこもった握力には一点の意志を感じさせた。初夏の風が、田を覆う穀物の穂を優しく撫でては青々と波立たせる――故国の美しい光景に、青年は竹簡をめくる手をしばし休めて目を細めた。
「またこのようなところで読書ですか?」
青年は立ち上がると、ばつが悪そうに微笑んだ。
「いやぁ、はは」
「貴方の勉強の虫は今に始まったことではないけれど」
「いずれ治世の役に立つのではないかと思い……」
「その言い訳も、今更ですわね」
「申し訳ありません母上」
諦めたように笑うと母は背を向けた。青年は慌てて後を追い、すぐ隣に並ぶ。
この地を治める官吏の子として生を受け、その将来を嘱望されて幾年月。武よりも文に才を示すその傾向は、実直な能吏として評価を受ける母の血筋を濃く受け継いでいる証左――いや、より多くの学びを求める欲求は母を凌ぐのは明らかで、その熱意で押し切るように洛陽への遊学の許可を得たのも昨今のこと。今は準備が終わり、出立もまだという合間の時であった。
「出立の備えは全て整いましたか?」
「はい、まぁ……」
「はっきりしないこと。まぁ何を心配しているかはわかるけれど」
自ら求めた留学でありながら、このところ後ろ髪を引かれる思いで心は暗鬱としていた。青い波に目を細めながら、青年はまごつきつつ言葉を続けた。
「戦の機運が高まりつつあります。もしもの時を思うと……残るべきかと……」
幽州の東、
「漢人と異民族の対立を煽るなど無意味だというのに……中央はなぜ……」
「それまでに。全ては天意なのです」
母の指摘に青年は口を閉じた。母の皇帝に対する忠誠は、二心なき誠のものだった。儒の教えを何より
「心配は無用。ここには慎ましやかな暮らしがあるだけ。脅威となる大兵もないのです。異民族とてそれはわかっています。ですから心安らかにして行って来なさい」
そこまで言ってもまだ憂鬱さが晴れない様子に、母は息子の手をそっと包んで続けた。
「やりたいことがあるくせに」
「母上、私は」
「それまで。貴方には引っ込み思案なところがあるから……私や他のことに気を使って表にしていない、いくつもの考えを蓄えているのでしょう?」
お見通しですよ、と笑う母。母に隠し事など百年早い、隠せると思い込んでいた自分の浅はかさに恥ずかしくなり、青年は頬を赤らめた。かなわないな、釣られて苦笑する。
学びたかった。そして学びを広めたかった――ずっと! この国の有り様をいっぺんに変えてしまうような発明、思想、政があると信じていた。全てを救う方策が! そしてそれは簡単なことなのである。多くの者が学び、知恵を出し合えばより多くのことをなせるはずなのだ。民に学びの場を与えること。それで多くのことが解決するはず。
しかし今はその時でないこともわかっている。政争に明け暮れる今の政体が悔しくて仕方なかった。洛陽へ向かう理由の一つが、その端緒を切り開くきっかけが欲しかったからでもあった。
腐敗の進んだ漢朝では些細な改革さえ実行できない。
もどかしい思いを抱えつつ、ご覧ください、と青年は河を指して言った。
「この
溢れればたちまち流れる地さえ変じさせてしまうことから、無定河とまであだ名される
「何も難しいことはないのです。水庫……
大規模な工事となるだろうが、その口ぶりから具体的な内容まで至っている腹案があると母は察した。
清純な野望に無邪気な才……若さゆえの向こう見ずな拍動を眩しく思う。同時に、疎まれたとしても
「一つ過ちを正しましょう。やるかやらないかをお決めになるのは私たちではない。私たちはただ天意を補うだけなのです。人知に出来ることには限りがあります。その慎みを忘れてはなりません」
「……肝に銘じます」
母は自らの子が民を慮るがゆえ、度々従来の考え方から逸脱してしまう傾向があることに気付いていた。儒の教えの根本にある天への敬意。それへの軽視がいずれ足元をすくうのではないかと危惧する。洛陽へ遊学させようというのも、帝のお膝元でその威光を感得すれば、という思いからであった。
考えに蓋をすることは良くはないが、節度を超えて傲慢ともなればそれもまた良くはない。中庸を身につけることを、言わぬが期待していた……非凡であることに疑いの余地はないのだから。
全ては穏やかな時の流れが自然な決着を与えてくれるだろう……河を眺めながら思った。
河辺を抜け、街へと戻った。街といっても慎ましやかなもので、村の寄せ集めに近い。右北平郡はどこもこのような程度だ。
入り口で待ち構えていたのか、二人が足を踏み入れた途端、先生、先生と声を挙げて子どもたちが駆け寄って来た。
「やぁ、君たち」
「先生! 教えて頂けるのは今日が最後だって聞いて……」
みな揃って涙目になって、何とも愛おしかった。青年は苦笑し、一人ずつ抱き寄せながら頭を撫でてやった。
青年はこの街で私塾を開き、子どもたちに無償で教えを説いていた。それは儒の教えだけではなく、読み書きや数の計算など実学に沿うものも多く含まれていた。
「田畑の仕事を抜け出して来たのかい?」
「あっ! 県令様!」
「父様のお許しは頂きました!」
母の姿に驚きしゃちほこばる子どもたち。子どもとはいえ親の仕事を手伝うことは当然。それが儒であり富国強兵の根本とされていた。子どもたちが怒られると思って緊張するのも仕方がない話だった。
「母上」
「怒るつもりはありません。学びを否定などしませんから。幼き師弟同士つもる話もあるのでしょう。私は先に館に戻りますから」
「……ありがとうございます」
「先ほどの堰堤の話、子供たちにも説いてあげたらよろしい。中身はとても道理にあった話ですもの。義を見てせざるは勇無きなり……論語にもそうある通り。そして貴方の中には成すに足る理もある様子。義と勇と理、そして天への敬意。余さず備えて進みなさい」
青年は母の言葉に無邪気に喜んだ。最大限の励ましであったし、洛陽で何をすべきか、その道筋を照らしてくれる言葉でもあったから。
洛陽にはきっと腕利きの土木専門家がいるに違いない。学ぶかたわら、治水工事の相談をしてより良い案を練ろう。
子どもたちに治水の重要性と
――全てを伝え聞いたのは、何もかもが終わってからだった。
ひととせを過ぎた晩夏、異民族が幽州東部に雪崩れ込んできたという。かねてより懸念されてた漢朝との軋轢が最悪の形で表面化した形だった。
聞けば応戦した官軍との間でしばしの激戦となり、周囲の村落や城塞に損害が出たものの、見事撃退したという……まるで英雄譚の一幕のような語りぶりは洛陽でいっとき持ちきりとなり、しかしありふれた事件の一つとしてすぐに人々の口の端には上らなくなっていった。
知らせを耳にした青年はすぐに故里へと走った。
朝も夕もなく、不慣れな馬で急いだ。故里に近づき間もなく青年は落涙した。豊かに茂った穀物の穂は不慣れな技で無残に刈り取られ、家は焼かれてあまりにもあまりな亡骸が捨て置かれたままだったからである。
襲われ、奪われ、踏み躙られた者たちの末路……それを目の当たりにする、間に合わなかった生き残りの苦渋を吐きたくなるほど堪能しながら、青年は変わり果てた故里を駆け抜けた。目指すは街の中心にある官舎、そこにいるはずの母の姿である。
母は、思っていた通り変わり果てた姿でいた。跪き、呻く。悔悟と侮蔑がまともな言葉になる前の、しかし言霊だけはしっかりと内包した怨嗟の叫びが、全身から漏れ続けた。
異民族に対する怒りが全身の皮を突き破る勢いで溢れた。しかしその怒りが卑小に思えるほど、朝廷や官吏の思惑に青年は震えた。これは人災である。愚かな争いを未然に防ぐことが政の真髄であるべきなのだ。だというのに――
「何が、英雄だ!」
この被害の大元が無能や怠惰であるのならばまだ良かった。青年は洛陽で学んだが故に気付いてしまっていた。これは人為的に引き起こされた戦いなのだ。それも愚にもつかない理由で引き起こされた唾棄すべき戦い。
異民族と矛を向け合えば現状の不満からは目を逸らすことが出来る。それを撃退すれば軍功である。あえて引き起こされる戦は、名誉と栄達のための儀式なのだ。
「その贄が、この街だというのか……!」
あまりに憐れで、虚しく……可哀想ではないか。青年は洛陽で目にしてきた醜悪な愚か者共の顔を浮かべて反吐を吐いた。才でも成果でもなく、渡した
「天意……これが貴方の信じた天意ですか」
城壁にさらされた母の首を抱きおろしながら、息子はなじるように言った。変わり果てた姿に、そしてあれほど守りたかった民と
「母上……母上! これが現実なのです! 天は容易く人を捨てる! 報われないのであれば、守られないのであれば、天を守る道理などないのです! これ以上を私たちが何を差し出せばいいのです! 人の暮らしを容易く踏み躙る、卑劣きわまる天とやらの道理こそ、慎みを覚えるべきなのだ!」
母の亡骸を抱きながら、一晩そうして泣き続けた。
朝を迎える頃、青年は放心しながら思い当たるところを歩き続けた。逃げ延びた者もいるだろうが、ほとんど急襲に近かったはず。憐れにも討たれた民は少なくない。見覚えのある者たちを一人ずつ弔いながら、青年は自らが子どもたちに教えを説いていた小屋に向かった。
せせらぎのそばに手作りでこしらえた小屋。それは子どもたちのためだけの学び舎だった。たった一年前だというのに、もう遥か昔のように思える。ここもまた焼き払われ、踏み潰されていた。恐る恐る瓦礫を拾うが、亡骸を見つけることは出来ずに全身の力が抜けるほどに安堵した。やがて隣に流れる小川のそばを歩きながら、青年は虚しい思い出を一つずつ手繰っていった。もうここに子どもの声が響くことはない。煌めく才能に心を躍らせることもないのだ……そんな風なことを虚しく思っていると、やがて小川に記憶と異なりがあることに気付いた。
粗末な溜池。しかしどこかで見覚えのあるような――
「おおお……おおお!」
青年は倒れ伏し、草木をむしって土を噛んだ。悔しさが溢れきり、統制を無視して四肢が別個に暴れる。青年が目にしたものは、些細ではあるが治水の模型。その姿形はまさに昨年の夏に語った堰堤であった。
子どもたちはあれから、親の手伝いの合間に試行錯誤し、様々な発想を浮かべてはからくりを試したのだろう。何も知らずに帰ってくる先生を驚かせてやろうと……
「みんな……すまない……洛陽には、何もなかったのだ……! 治水の官庁には技術者などおらず、出世の足がかりと考える名家の御曹司どもの腰掛けでしかなかった! お前たちの方が、お前たちの方こそが!」
失ったもの。奪われたもの。その代償に何かを得たものたち。帳尻が合っていると神は、天は言えるのか。ならばこの有様に蒼天より降臨し、筋道立てて説いてみるがいい!
なぜ何者にもおびやかされずに生きて、学べないのか、廷吏や皇帝なぞよりあの子どもたちの方がよっぽど理を知っていた。それほどまでに無意味に争いたいのか? 愚かな仕組みを戴いたこの時代の不幸を嘆く他ないのか?
「私は愚かな主人を許さない。いや、主人などと認めはしない。私達の、この子たちの主人は誰でもない、自身であるべきなのだ」
全員分の墓を建て、弔いを済ませた頃には青年の心は決まっていた。
「義と理を得た、ならば行わなければならない……」
水たまりを脇にしつらえた小川が、さらさらと涼やかな音を立てる。勘違いでなければ、その音は彼への後押しをしているようだった。ささやかな勇気。
「私こそが、天の愚行への堰堤となろう」
それがたとえ途轍もなく、無謀な志であったとしても。
――本来、青年の志は間もなく頓挫し朽ちるものであった。その細腕では、巨大に横たわる現実という岩石を揺り動かすことなど出来ないはずであった。
しかしやがて、たまさか旅芸人の姉妹に出会ったことによって、その志は時代の運命に逆らうように動き始めることとなる。張角、張宝、張梁の三姉妹が携えていた『太平要術の書』があり得べからざる力を青年に与えてしまうこととなる。
しかし今の彼は未だその未来を知らない。厳かに伏しては鬼哭するその心には、失われた命の尊さに想いを馳せる余地しかない。
焼き払われてしまった、本来あるはずのささやかな喜び。他人の思惑のために簡単に民が命を奪われてはならないという道理を世にもたらすため、青年は穢れることを受け入れた。
――田疇、十九歳の秋である。
少し短いですが……田疇の動機となる話でした。
㶟水は本当にある河で、今はきちんと永定河です。水庫(ダム)ももちろんたくさんあります。