真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百二十二話 金を刺す針

 河北は冀州、威県の北に界橋と呼ばれる土地があった。地は開け大きな流れも深い森もない。しかし東には川を臨み、西には山々の峰を抱える土地――大軍同士が干戈を交えるには絶好の地と言ってよく、示し合わせたように両軍はその東西で相まみえた。界橋の中央を占拠し、敵を一方に押しやれば勝機を大きく引き寄せることとなるだろう。

 孫子を引くまでもなく、戦は初戦で主導権を握ることが肝要である。何万もの骸を野晒しとする、後世「界橋の戦い」と呼ばれるこの激戦においても、両陣営ともにその教訓を念頭に置いていた。

 重装歩兵を中心とした袁紹軍は巨大な方陣を中心に、本陣後方に魚鱗、左右に長手の方陣をいくつも組み合わせ地の利を存分に活かそうと試みる。

 対して公孫賛軍は強みである機動力を最大化するため、騎馬隊と戦車隊を本隊から離す。機動力と突撃力を活かしつつ隙あらば短期で決戦へと持ち込もうとする思惑である。

 両軍共に会戦による決着が望みであり、戦機を探るべく小競り合いのような衝突が数日にわたって続けられた。

 結果、序盤の優勢を握ったのはこの戦役全体できつく押し込まれ続けていた袁紹軍であった。じわりじわりと公孫賛軍を押し込み、界橋の中央のほとんどを占拠するに至る。結果騎馬隊が自由に駆け回れる空間をかなり狭めた形になる。

 袁紹は大兵を良く(たの)みにした。特に重装歩兵を存分に活かした頑強な用兵は、公孫賛軍に付け入る隙を与えなかったのである。

 鈍重で小回りは利かないが、正面からの叩き合いでは無類に強いのが重装歩兵である。仮に方陣同士のぶつかり合いであれば、陣の一角さえ崩せば相手に立ち直らせる隙を与えず、一方的に殺傷せしめる。事実そうして袁紹軍は北方の覇者たらんと上り詰めてきた。

 一方、長期戦となれば補給が貧弱な公孫賛に不利である。虚を突き敵の中核を打ち崩さなくてはいずれ再編される各地の守備隊に退路を断たれかねない。

 いくら無類の突撃力を誇る騎馬隊とて、陣を構築した重装歩兵に無手で正面から飛び込むのは愚策である。公孫賛軍としては、是が非でも空隙を見つけて針一本でも通したい。

 開戦から十日。未だ活路を見いだせない公孫賛であったが、その頭脳と言える軍師鳳統が狙い穿たんとしたのは、まさに袁紹軍が発揮している一糸乱れぬ結束であった。

 

 

 ――二人だけで話がある。

 

 そうおずおずと言い出した鳳統に従い天幕の裏までやってきた。李岳が耳にした鳳統の策は、さしもの彼とて一考を要した。静かに頷き、さてと思案。目の前には不安そうに目を伏せる鳳統。

 軍師鳳統の力量を再度確かめる必要などない。膠着状態を打破する一石として十分試す価値のある策。李岳が考えを巡らせたのは別のことであった。

 天に雲する龍――名高き諸葛孔明の用兵の妙なるは変幻自在、縦横無尽の着想にある。謹厳実直を体現したような今の袁紹軍の用兵にその気配はない。

「雛里。今の袁紹軍の指揮は諸葛亮殿ではないな?」

 あわわ、とこぼして鳳統が答える。

「……そう、思います。今は袁家に仕えて長い参謀陣が采配を振るってるかと……朱里ちゃんの用兵ではありません」

 袁家の土台を支えてきた冀州閥からすれば当然のことだろう。元は敵に仕えていた小娘の力など借りずとも圧倒的に勝つ、と意気込んでいるのかもしれない。

 遠征軍を指揮して公孫賛の補給路を断ち切ったという成果を掲げたところで、その派閥に正面から兵権の主張などいくら諸葛亮とて出来ない。

「派閥の力は強い。それを利用してのし上がったのが袁紹とも言えるからな。無策のままであるならば、諸葛亮殿には兵権を握り続ける後ろ盾もないから前には出てこないだろう」

「無策であるならば」

 そう、無策であるならば。しかしそれは『諸葛孔明』からは最もかけ離れた言葉である。

 諸葛亮はいずれ必ず軍の主導権を握る。その方法は定かではないが、遠くない日にそうなるであろう。

 畢竟、多少劣勢になったところで自らが指揮すれば逆転の手立てがあると考えているということだ。そうでなければ今の時点で何が何でも指揮権を奪っていたはずだ。隣には田疇がいるのだから不可能ではない。

 つまり、余裕がある。諸葛亮には明確な勝機が見えていると言っていいだろう。

「悪いが、絶望的な劣勢というやつには慣れっこでね、興味があるのは打開策だけなんだ」

「あわわ、軍師泣かせですね」

「手はあるんだな」

「……はい」

 鳳統にしては強い返事であった。李岳はうんと頷き公孫賛の天幕へとまっすぐ向かった。疑う必要など欠片もない。あえて聞いたのは、当然戻ってくる返答を自分自身への勇気に変えるためだった。

 天幕の中、軍官吏から報告を受けていた公孫賛に向けて李岳は手短に言った。

「黒馬を一頭お借りしたい」

「一応だけ聞いておくけど、なんのために?」

 いたずらっぽく笑い、李岳は言った。

「針を通すのさ」

 

 

 

 

 

 

 

 顔良の心中は不安半分、残りの半分を期待と決意が二分しているという、中々複雑な様相を呈していた。

 戦に不安はつきもので、それ自体を悪いものとは思わない。ただし軍議のたび、沈黙を守り続けている諸葛亮を見るたびに顔良は常にはない種の不安を呼び起こされていた。

 諸葛亮がここにいる経緯を考えれば、のんびり成り行きを見守っているだけなど考えられない。必ず指揮権を握ろうとするはず。しかし顔良の知る限り裏でさえ動いているようには見えない。つまり……

(一度は負けるということ? その後に自分の出番になると考えている?)

 この懸念は文醜にだけ伝えたが、予想していた通りあっけらかんと「斗詩は心配しすぎだぜぇ〜」で会話が終わってしまった。

 しかし顔良は自らが先頭で指揮した討伐軍で、諸葛亮の切れ味を存分に目にした。あらゆる指摘が的確であり、相対する全ての敵部隊に内通者がいるのではないかと思わせるほどの洞察、百発百中の計略。

 その諸葛亮が簡単に諦めるとはとても思えない。しかし証拠はもちろん思い当たる節もない。どうしたらいいのだろう? 顔良は出口の見えない悩みの洞穴を進むように、虚ろな気持ちで歩いていたが――

「顔良将軍?」

「ひゃわぁ!」

 急に声をかけられ素っ頓狂な声を上げてしまった。目の前には痩せた顔色の悪い男が困ったように突っ立っている。皇帝劉虞の側近中の側近で、軍参事として帯同している男であった。

「で、田疇さん……」

「どうされましたか、お身体の具合でも」

「いえ……」

 どぎまぎしている心臓がまだ鳴り止まない。顔良は目の前の男が苦手だった。何を考えているのかわからないこの男が。

 顔良の心中など関知せず、田疇は顔良に顔を近づけ囁いた。

「重畳。将軍が軍全体の屋台骨であることは明白なのですから。不安そうにされていては兵たちにあらぬ疑心を与えてしまいます」

「そ」

「差し出がましい真似をいたしました。どうかご容赦を」

 叱責を遮るように田疇が頭を下げたので、顔良もそれ以上は言葉をつなげなかった。何か思惑があって近づいたのかと気を揉んだのに、そのまま頭を低くして田疇は去っていく。

 狐につままれたような心持ちで、顔良は去りゆく田疇の背中を見送った。

「……もしかして、本当に助言しただけ?」

 相変わらず田疇という男を顔良は掴みきれていない。浮世離れしてる印象だが、何が望みなのかすらわからない。

 田疇の顔を振り払うように歩き出したが、不思議とその声が耳に残った。考えてみれば確かに戦況は袁紹軍に優勢なのだ。将軍である自分に課せられた任務は懸命に勝利を目指すことだけのはず。そうでなければ命をかけて干戈を交えている兵たちにも失礼となる。

 現状の戦法も効果を発揮しており、事実敵の騎馬隊を封殺できている。全ては順調なのだ。

「……うん、気を取り直して頑張らなくちゃ」

 顔良はパンパンと頬を叩いて前線へと足を向けた。よく戦う兵たちを労うことも大事な仕事の一つなのだから。

 前線の兵たちはよく統制され緊張を保っていた。郷里を侵されているという状況は、否が応でも危機感を最大化する。戦意は高く指揮統率にも問題なし。顔良は自分の心配が杞憂であると結論付け、踵を返そうとした。

「敵軍に動きあり!」

 その声に足を止め、顔良は弾かれるように走った。敵軍の異常を察知した兵は、いきなり顔良が現れたことに驚きながらも報告を続けた。敵部隊がゆっくりと前進しているとのこと。詳細は続報待ち。

 顔良は大声で下知した。

「方陣のまま戦闘態勢! 本営に早馬を!」

 迷うことなく顔良はそのまま最前線にいることを選んだ。敵に奇策があるならばここにいる方が臨機応変に対処できる。それにいま背を向ければ恐れをなしたと部下に思われてしまう、そうなれば衝突の前に士気を削ぐことになるだろう。

「動じずに対処を! 左右の仲間と声を掛け合い連携するのです!」

 得物である金光鉄槌をドンと地に慣らして顔良は存在感を示す。斥候が頻繁に駆け回る。報告は逐一更新され、顔良の中の戦況図を塗り替えた。本営からも前線での指揮を命じる使者がやってきた。存分にやれということだろう。

 来るなら来い、という程に陣を整え敵軍の挙動を注視した。敵軍はやはり騎馬隊を主体としていて、しかしゆっくりとこちらに向かっている。速度の急変を予測したがそれもない。やがて矢が届くかという距離で前進を停止した。不審に思ったその時、ただ一騎がこちらに向かってきた。まるで何かを、思い出してはいけない何かを彷彿とさせる絵面だった。

 黒馬に乗った男がいた。まだ若いと思わせる背格好。彼は単騎で進み出で、やがて兜を脱いだ。多くの者が思った通り二十には満たないであろう少年。髪を風になびかせ、ふぅとため息を一つこぼした。なぜか見覚えがあると思わせる面立ち、立ち居振る舞い、馬上の姿。間もなくその口元が小さく動く。

「李岳である」

 その声は決して大きくはなかったが、大軍の一角にさざ波のように伝わった。間もなく波は収まり、残るは風の音さえ聞こえない痛いほどの静寂。甦るのは血の記憶。

 

 ――十面埋伏の計は、地獄だった。

 

 祀水関でのあの戦いを忘れたものなど一人とていない。あの死地、あの絶望、怒りと恐怖。それを作り出したのが、誰あろう李岳という男。

 袁紹軍にとってその名は憎悪と恐怖の対象であり、軽々しく口にさえ出せない忌むべき名であった。

 その名を目前で発する者がいた。似たような背格好で、あの時と同じような状況で。

 この時、立場のある者がすかさず大喝していれば事態は拡大することなく終息していたかもしれない。いや、黙殺していれば。しかし――

「り、李岳!? なぜここに!」

 静寂の中、顔良の声が方陣の一角に響いてしまう。

 しまった、と思った時にはもう遅い。顔良の声に打たれたように、前線の一角に絶叫が響いていった。

 ある者は怒りに飛び出し、ある者は立ちすくみ、ある者は思い出したように逃げねばと背を向けた。その千々に乱れた有様を人は恐慌という。混乱の伝播は全体に波及せず、前線の一部の数十人のみであったが、あの一枚の鋼のような一糸乱れぬ統率は確かに失われていたのである。そしてそれを押さえつけることは顔良には出来なかった。

 百も数えれば元に戻るであろう僅かな綻び。しかしそれだけで十分であった、少なくとも鳳雛にとっては。

 公孫賛軍最前線、高所を恐れながらも本体の(やぐら)に登っていた鳳統は、敵陣の乱れを感じ取りグッと拳を握る。

「……今です!」

 か細い(かいな)を振って騎馬隊の突撃を指示する。下知はすぐさま銅鑼となって原野に響き、待ちくたびれていた将の元へと届いた。

「……行こうか、白龍」

 声をかけると、愛馬はいつものように遠乗りに出かける時と同じ無邪気さで走り始めた。風を頰に感じる。槍を握り直し、思いっきり息を吸い込んだ。馬腹を蹴る。白龍が速度を上げる。見る間に僚騎が遅れ始めるのがわかる。槍を二回三回と左右で回転させた。風を裂く音が心地よい。

 もはや趙雲は単騎とさえ言えた。快速の愛馬は遊び相手を求めるように前へ前へと進む。刹那、黒馬にまたがる男とすれ違った。目を合わさなければ言葉も交わさない。だが何かを託されたと感じた。

 方陣の中央にわずかに見える綻び。昨日までは歯が立たない程の堅守を誇った袁紹軍に生まれた、冗談かと思える程のほんのわずかな隙である。百人に満たない敵兵が慌てふためいたからと言って、そこを攻めれば敵陣全てを瓦解させられると思うなど世迷言だ、作戦とは言えない。

 だが李岳は、鳳統はこの作戦に賭けた。そして公孫賛も。

 まったく、武人を喜ばせるのが上手なやつらだ! 趙雲は愉快になって笑い声を上げた。そのまま吠えるように名乗りを上げる。

「趙子龍、見参! 友軍が敵となるのも戦国のならい、死して恨むな袁紹軍!」

 趙雲は槍を低く構えて先頭から突っ込んだ。巨大な金塊を龍の顎門(あぎと)が食い破るように、趙雲は一撃で袁紹軍歩兵の守備陣形を砕いた。事態を飲み込めないままの兵から順番に突き倒していく。百を数えたところでようやく後続の騎馬隊が追いついてきた。混乱した袁紹軍の叫びが木霊のように四方から聞こえる。返答は全て槍の穂先で返した。

 返り血で白の衣を(あけ)に染めながら趙雲は突き進んだ。日輪を照り返す黄金の瀑布(ばくふ)を遡上するように、騎馬隊は猛然と駆け抜ける。その侵攻を食い止められるものはどこにもいない。

 あれほどの固さを誇った袁紹軍が割れ砕け散っていく。割れるはずのない黄金を、白衣の乙女が先頭で叩き割る。袁紹軍将兵は悪魔を見ているかのように混乱の坩堝から立ち直れない。鉄壁と疑わなかった重装歩兵の戦列が、正面から容易く打ち破られた衝撃は大きかった。

 公孫賛軍参謀、鳳統がこの勝機の読みを外すはずがない。続いて銅鑼が打ち鳴らされ、それを耳にした少女が不敵な笑いをこぼした。

「フッフフフ」

 フハハハ、と笑い続ける。わくわく、という様子が目に見えるようだった。異様な長さを誇る矛を軽々と振り回し、少女は自らが飛び出す時を待つ。

 姓は張、名は飛。劉備軍三姉妹の末妹にして最強の少女。銅鑼が響く。張飛は些細な指示の違いがわからぬ。いつもは副官の囁きにしたがって動くのだが、この時ばかりは必要なかった。

「突撃ぃ! なのだぁ!」

 それ以外の指示があるわけがなかった。

 丈八蛇矛を拾った枯れ枝のように振り回しながら、張飛が脇目も振らずに進む。兵たちは巻き添えを嫌ってかなり後から付いて従った。身の丈、細腕ともに見紛うことなき少女のそれ。しかし陽炎のように立ち上る闘気は、もはや熱波のようだった。

「でっばぁぁぁん!! なのだぁぁぁ!!」

 趙雲が裂いた傷を、腕力で無理やり引き千切るようにかっさばいていく。大の大人を木の葉のように弾き飛ばして立ち直る暇を与えない。払えば五人が吹き飛び、突けば鎧ごと三人まとめて串刺しに、掲げて回せば血の旋風が吹いた。

 張飛隊の突撃によって態勢の立て直しを目論んだ袁紹軍の連携は再び破壊された。大軍である袁紹兵の只中に潜り込んだ公孫賛軍であるが、袁紹からすれば二匹の獰猛な蛇に体内を食い破られている心持ちだろう。左右両軍は関羽と公孫賛が率いる本隊の牽制に気を取られ中央の支援には向かえない。鳳統は小憎らしい程に袁紹軍の動きを制限していた。

 いよいよ再編を余儀なくされた袁紹軍重装歩兵隊は、統率を取り戻そうと密集し、戦場を放棄しつつ後退を企図する。しかしそこにもまた風が吹くのだった。

 公孫賛軍本隊より離脱し、南の小高い丘陵に迂回していた戦車隊。気勢十分、逆落しの余勢を駆って袁紹軍右翼の横っ腹に食らいついた。

「烏桓の単于たる丘力居が娘、楼班推参。背から轢殺(れきさつ)されるは名折れであろ。戦士であれば、(おもて)の傷で死ぬがよい!」

 馬蹄と車輪の音を響かせて、戦車の群れが袁紹軍を蹂躙する。もはや袁紹軍に側面からの攻撃を支える余力はなく、間もなく総崩れとなった。この機を逃すまいと徹底的に押し込もうとする公孫賛軍の追撃は日が暮れるまで続いた。

 

 

 連携による集団戦を得意とする袁紹軍にとって、要である中央正面を破られることは機能の大半を喪失することを意味する。

 趙雲に断ち割られ、張飛に叩き潰され、烏桓に踏みにじられた結果、公孫賛と関羽が指揮する本隊の介入を阻止できる余力は袁紹軍には既になかった。

 文句のつけようのない中央突破は、袁紹軍の基幹戦略を瓦解させ、本営の放棄に至る。

 袁紹は界橋の原野中心部を維持する気力を阻喪、大軍を動かすには満足とは言えない湾曲した山間部を背負った西十五里までの後退を余儀なくした。

 この一日で袁紹が失った兵は八千。命からがら逃げ戻った兵の中に顔良の姿はなく、夜半を過ぎてもその安否は確かならず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不運。軍議で漏れ出たその言葉が袁紹の逆鱗に触れた。運の左右ごときで伐り倒される程度の木ではない、袁家はこの国の中心に居座る巨木であるはず。

 敵より大兵を揃え、装備も整え、油断もなかった。だというのに正面から破られ、戦略的要地を放棄して追い詰められてしまっている。敗戦後の軍議では戦略を練った参謀陣を軒並み叱責し、未だ戻らぬ顔良にもしもの事があれば全員斬刑に処すと宣言して席を立った。文醜は公孫賛軍の夜討ちを覚悟しつつ、捜索隊を組んで出撃している。袁紹には無事の帰参を祈る他に出来ることは何もない。

「なんで、どうしてこんなことになるんですの……斗詩さん……」

 彼女がいなければ誰がこの髪を整えるというのか? 誰が自分の不始末を叱責してくれるというのか? 自分と文醜二人だけでは大騒ぎをするだけして収拾がつかないではないか。いや、彼女を失って楽しく騒げることなどもう二度とできなくなる――

 袁紹は大事なものを失うことを恐れて震えた。張貘の死でさえ心を引き裂かれる程だったというのに、この期に及んで顔良まで失ってしまっては、どれほどの痛苦が襲ってくるか想像も出来ない。

 顔良だけではない、もしこのまま破れでもしたら本当に全てを失ってしまう。この界橋を失えば鄴までは目と鼻の先である。どうにかしなければ。しかし今更どうすれば?

 眠ることも出来ず、涙を抑えることも出来ず、ただ不安に苛まれるだけの時間が過ぎた。不安は時間に比例して増大し、袁紹を思う様苦しめた。

 その苦しみが頂点に達した頃、控え目な訪いがやってきた。

「どなたですの……」

「大将軍閣下、田子泰でございます」

 (あざな)で言われても咄嗟にわからない。無礼な訪問だったが袁紹は曖昧なまま天幕に容れた。顔色の悪い男、田疇。その後ろには諸葛亮がいた。

「こんな時間に、何用ですの……」

「顔良将軍を無事お連れいたしました」

 叫び声を上げて飛び出しかけたのを、田疇が抑えた。

「将軍は大事なく、今は疲労の極致でお休みになっておられます。お会いになられるのは明日がよろしいかと」

「顔だけでも見ます!」

「……かしこまりました。こちらへ」

 田疇に連れられ、袁紹は歩いてしばらくの天幕に向かった。顔良は確かにそこで横になっていた。目立った傷はない。しっかりと息もしている。

「文醜将軍にも先程知らせを走らせました。間もなく戻られるでしょう」

「良かった……」

 心の底から安堵し、胡床に倒れ込むように座った。寝台の上で顔良が胸を上下させている。これは夢ではない。

「田疇さん、貴方が斗詩さんを助けてくださったの?」

「いえ、私は手の者を走らせただけです。全ての差配は諸葛亮殿です」

「感謝を……感謝を申し上げますわ」

「何ほどのことも」

 劉備の裏切りを赦せず、その憎しみをぶつけた少女が無表情に頭を垂れた。袁紹はかすかな罪悪感に襲われた。

「閣下」

 田疇が言う。袁紹は顔良から視線をそらさないまま聞いた。

「このままでは敗北は必至。公孫賛軍の攻撃力は無比です。それに敵軍には李岳がいるという話も」

 そのことは既に聞き及んでいた。真偽の判別はつかない。敵が撹乱を目的に流した偽報かもしれない。袁紹にはすぐに判断がつかず、頭の片隅に追いやっていた。敗戦の衝撃と顔良の安否に気を揉むあまり、考える余裕がなかったのである。

「従来の戦術ではなく、刷新が必要です。既に後背に山を背負い、彼我の戦況はこちらに不利。閣下のご決断が求められているのです」

「諸葛亮さんに任せろと……? 元は敵の軍師だったのですよ」

「だからです。敵の内情を知り尽くし、かつ能力もあり」

「お斬りください」

 言葉を遮られた田疇までもがギョッとした顔で諸葛亮を振り返っていた。

「斬れ、とは?」

「私に指揮を任され、勝利を得ることが出来なかった時の事です」

「その時は死ぬと?」

「はい」

 袁紹は顔良から諸葛亮に視線を移した。自分を見つめる諸葛亮の瞳は暗く、これがあの闊達な娘だったのかと訝しむ程。親友である鳳統が殺され、主と仰いだ劉備に裏切られてこの陣営に来ている少女。

 不意に袁紹は彼女の境遇が自分とひどく重なることに思いが至った。

 一晩考える、と申し伝えて袁紹は二人を帰した。時折苦しそうに呻く顔良の手を握りながら、袁紹は考えた。

「……私はどうすればいいのかしら。ねえ斗詩さん」

 綺麗な黒髪の一房に口づけし、袁紹は顔良の手を握り続ける。やがて大声を上げながら突入してきた文醜がワンワンと泣き始めるまで、しばらく二人でそうしていた。

 

 ――その日の軍議、袁紹は半ば投げやりな口調で総参謀に諸葛亮を指名した。


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