真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー
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第百二十四話 陣を描いて願いを問う

 踊る篝火に照らされながら田疇は本営へと向かった。

 昨夜の軍議で取り決められたのは二点の方針のみだった。一つ、当面の目標は戦線を押し返すこと。二つ、指揮は諸葛亮が担うこと。

 夜明けには策を示すという諸葛亮。必要とする時間などわずか一晩だというのが、増上慢としか思えなかった。

 一晩明けて諸将は続々と参集し、緊張した面持ちで、あるいは嘲るような態度で諸葛亮を待ったが――果たして諸葛亮は諸将が皆集まった最後に現れた。童女にしか見えないが堂々たる胆力。静かに見据えた目を微動だにさせず、何の気負いもなく立つ。

「手筈の通り、夜明けを合図に前進を」

 軍議でもそう告げるのみ。諸将から異議はなく、それがなおさら重圧を与える。お手並み拝見という体であるが、失策があれば糾弾は容赦ないものになるだろう。

 やがて東に陣取る公孫賛軍の後方から滲み出るような朝陽が現れた。出撃の時である。

 田疇は思う。この戦を民主が始まる凱歌の篇首(へんしゅ)とする。李岳の死を強く願いながら、同時に強烈な憧れを抱いている己に対する決別の歌でもある。ともに歩めたならどれほど良かったろう。しかし用意すべきは挽歌である。

 居並ぶ将兵を前にして、袁紹が大きな声で叫んだ。

「皆様! わたくしが欲しているものをご存知かしら?」

 袁紹軍は大将の言葉を遮るまいと雄弁な沈黙で答える。

「わたくしは勝利が欲しい! 勝利の栄光に輝く黄金の軍団こそがわたくしの求めるもの! 敗残にまみれた兵などお呼びではないのです! 勝利の美酒で酔わせてみせなさい!」

 声もなく、しかし充溢した気を放って配置に着く兵たち。袁紹は大きなため息を吐いて腰を下ろした。手をひらひらと振りながら諸葛亮を蔑むように見下す。

「これで満足かしら?」

「はい」

 袁紹も一廉(ひとかど)の人物である。自らの気持ちを別にして兵を盛り上げることなど容易い。何ほどのこともなく頷く諸葛亮が、さも口先で自分を操っているように見え袁紹は鼻を鳴らした。

「わたくしにこんな働きをさせたのです。それ相応の戦果がなければ許されませんわ。少なくとも界橋の中央まで押し戻すくらいはしてもらわないと」

「その程度でしたら、半日もあれば」

 大言壮語だと批判する声が上がるが、諸葛亮は気にせず伝令を走らせ続けた。士気の上がった兵たちが指示に従って駆け始める。

 やがて完成したのはこれまで見たこともない奇妙な陣形だった。方陣をいくつか並べただけのように見える。軍事に疎い田疇にさえ隙だらけのよう思えた。

「前進を」

 諸葛亮が羽扇を仰いで淡々と指示を下す。背後の袁紹が訝しげに咳払いをしたが気にもしない。平然を装っていても、躊躇いなく前進する軍に抱く不安と恐怖が目に見えるようだった。

「声」

 諸葛亮が指示し、旗が振られる。太鼓が続き、兵たちが鬨の声をあげた。

 演説の効果か、兵たちは袁紹からの指示だと受け取りなお一層力強く突き進む。常と異なる陣形に疑念を持つ可能性を考慮し、それを払拭させるために袁紹に話をさせたのか、と田疇はここに来て気づいた。

 喊声を挙げながらジワリと戦線を押し上げていく袁紹軍将兵たち。傍目には隙だらけの方陣をただ漫然と進めているようにしか思えない。

「敵軍も前進して来ます!」

「速度そのまま」

 伝令の声にも諸葛亮は動じない。馬蹄の響きが腹の底を叩くように迫ってくる。袁紹が腰を上げそうになっていた。参謀の中からも、おい、と声が聞こえ始める。敵は万全の陣形を正面から切り崩した公孫賛軍なのだ。このままでは一蹴されるとしか思えない。

 とうとう彼我の距離残り一里、敵軍の白い騎馬隊が速度を上げ始める。確かめるまでもなく、先頭は趙子竜。

「前進を続けてください」

 諸葛亮はそれ以外の指示を忘れたかというよう、馬車に腰かけたまままんじりともしない。疑問の声など微塵も相手にしない。しかし兵は指示に逆らうことは許されずただ進み行くしかない。

 なんの障害もなく騎馬隊は迫り来る。その猛烈な加速は、大将首まで一挙に獲ろうとする程の気迫を感じさせた。本陣は馬蹄の響きが大きくなるにつれ浮足立ち始める。諸葛亮だけが涼しい顔。さすがの田疇も息を呑む。あっ、と声が上がるや否や、田疇は蹴散らされる歩兵の無残な姿を幻視した。

 しかしそうはならず、白馬を先頭にした騎馬隊は寸前で折り返して自陣へと戻っていったのである。

「なっ」

 疑念と困惑が満ちる。動揺を見せないのは諸葛亮ただ一人。繰り返される指示。内容は聞くまでもなくただ一語――前進である。

茫然とする幕僚を置き去りにするように兵たちは前進し続けた。

 その後も公孫賛軍は押しては引く波のように、袁紹軍に迫っては衝突せずに戻っていく。効果はあるらしいが意味のわからないものにすがる時、人は恐怖と高揚を同時に味わう。降りることのできない博打のように、兵も将も喊声を挙げながら諸葛亮の前進指示に従うしかなかった。

 永遠とも思えるような数刻余りが過ぎた頃、嘘のような呆気なさで袁紹軍は界橋中央の位置を取り戻した。唖然として一言も発さなくなった参謀陣営で、感慨なく続く諸葛亮の指示だけが朗々たる。

「全軍停止。前衛は密集せよ。両翼はともに半円に展開、左右で一対の鶴翼とせよ。本陣は三段に構えよ。顔良将軍は二万を率い後衛にて予備とする」

 外では大喊声を上げて兵たちが陣形を変えていくが、幕舎は水を打ったように静まりかえっている。浮かぶ疑問のどれを投げかけても自らの程度の低さを露呈してしまうのだから無理もない。しかし大将である袁紹の中では、羞恥心よりも好奇心が上回ったようだった。

「なぜ公孫賛は攻め寄せてこなかったのです。目の前まで来て、戻っていったのはどういう訳なのです!?」

「突入すれば全滅することに気づいたからでしょう」

 全滅、と繰り返す者がいた。あの隙だらけの陣に攻め込めば全滅? 問いかけが難解過ぎた。しかし主人と同じ振る舞いに恥じ入る理由などない。堰を切ったように、参謀らは矢継ぎ早に質問を繰り出した。

「あの陣形は一体なんですか」

「古来の戦法なのですか?」

「全滅の定義とは?」

 一転して質問攻めとなった。諦めたのか、それとも腰を据えて説明する気になったのか、諸葛亮は深いため息と共に棒で地面に図を描きはじめる。

「八門金鎖の陣」

 方陣の組み合わせを円で囲む。誰かが言い含めるように、もう一度その陣形の名を繰り返した。

「この陣の目的は敵の一個戦闘集団を誘引し、此方の複数の戦闘集団で包囲し叩くことにあります。敵が正面から押してくればこちらの方陣は下がり、左右から挟撃を実行します。敵軍が隙間を縫って攻め込もうとすれば突入路を塞ぎ、四方から叩きます」

 敵兵団の機動を、いくつかの類型で例えながら地に描く。確かにどの地点を攻めても包囲網となる。突入部隊は死地に踏み込む形だ。

「……これは、弱点のない無敵の陣構えということですか?」

 質問に諸葛亮は首を振る。

「いえ、この陣には弱点がいくつもあります。まず正面から右翼後方に抜けるように突破を図れば陣は機能せず、容易く抜かれるでしょう。その瞬間に総攻撃を受ければ瓦解したはずです」

 諸葛亮の棒が陣の崩壊を導く。

確かに包囲を企めば初期位置から反転せざるを得ない部隊が多く、その機に正面から圧力をかけられればこちらが挟撃の憂き目に遭うだろう。耐えられたとは思えない。

「で、では、軍師は間一髪の博打をされたということですか」

「今回の場合は抜かれたとしても、敵騎馬隊もまた全滅しますので差し引きこちらが有利と考えました」

「な、なぜです? この図ではどう見ても騎馬隊は無傷で駆け抜け、反転して後方を襲うではありませんか」

 諸葛亮はまさに愚物を見る目で蔑んだ。ゴクリと息を呑んだ全員に冷たく言い放つ。

「我らは三方を山や森に取り囲まれた隘路にいたのですから、側面に抜けられれば行き止まりです。例え強力な騎馬隊に此方の片翼が崩されたとしても、行き止まりに突き進むその後背を予備戦力で攻め立てれば全滅できたでしょう。虎の子の突撃兵団を丸ごと失えば公孫賛にもはや打つ手はなく、こちらは大勢をもって勝利していたに相違なく」

 もはや声さえあげることの出来ない参謀たち。当たり前のことであるが、現実を思い描くためには地に描いただけの絵図面では紙幅が足りないのである。実際の地理に当てはめれば、突入後に抜け出る先がないのは明白。それを想像できない己と諸葛亮の間では、思考の縮尺が大いに異なることを如実に示していた。

「それで……中央の要地を快復したから陣を解いた、ということですか。左右に広いこの土地では相手の打開策が効いてしまうと」

「はい。八門金鎖の陣は所詮その場しのぎの戦法に過ぎません。常用には値せず、対策を立てることも容易です。此度の採用はあくまで奇策。本番はこれからでしょう」

 確かに日はようやく中天に差しかかったばかり。一兵も損ずることなく失地を回復した軍師に疑義を挟む者などもういない。表情もなく、諸葛亮は扇を仰ぎながら涼しげに次の策を弄した。

 一方少女を取り囲み、滲む汗をぬぐい続ける男たち。その中には、田疇も確かに含まれていた。

(凄まじいな。これが天下の才)

 再び水を打ったように静まり返る幕舎を抜け出て、田疇は自らの配下である隠密『黄耳』の一人を呼んだ。

(しかし、ならばこそ……ここからが私の仕事)

 田疇は策を走らせる。自らの勝利のため。たった一人の男を殺すためだけに。

「裏の裏は表ではなく、さらに深い裏なのです。李岳殿。私の策をお受けください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あ、あ、あっさりすぎないか!?」

 公孫賛の狼狽した声に、まぁまぁ、と李岳が声をかけた。

「落ち着いてください」

「でもなぁ! 昨日あれだけ兵たちが頑張って勝ち取った戦略的要地だぞ! それをあんな簡単に手放すなんて!」

「それにこだわって兵を無為に失っては本末転倒ではないですか」

 むぅとふてくされていたが、説明すればすぐに得心して頷く公孫賛。犠牲を払って獲得した優位をあっさり手放すことに納得がいかない、というのは将としては至極まともな思考であり誰も責めない。局面が通常では考えられないほどに難解なのである。

「雛里、あれは」

「ええ……八門金鎖です」

 なんだそれ? と疑問顔の面々に鳳統があわあわと地に線を引きながら説明する。

「誘引の計略、それを野戦陣にて成そうと作られたのが八門金鎖の陣です。迂闊に攻め込めば――」

 たちまち様々な類型を図に描いて指し示す。その図のどれもが、空隙に飛び込めば簡単に包囲され、容易く撃滅されてしまっていたことを示唆した。敵の採った戦術の恐ろしさが明らかになるにつれ、突撃厳禁、目前まで迫っても陣形に変化がなければすぐに引き返してくることを厳命した鳳統の意図がようやく理解できてくる。

 李岳もまた鳳統の説明に、別の意味で痺れるような思いでいた。

(八門金鎖……実在したんだ)

 

 ――三国志演義で描かれた印象的な戦いがある。

 荊州攻めを命じられた魏の勇将・曹仁が、対劉備軍相手に繰り出した奇策がこの『八門金鎖の陣』であった。奇策に警戒を示した劉備に対し、客将として席を預けていた軍師徐庶は陣破りの策を献上する。曰く、生門から景門を抜くべし。徐庶の策を採った劉備は見事曹仁を破る。演義においては志高くても参謀に恵まれず不遇に耐えてきた劉備に、名軍師の凄まじさを理解させ希望を与える印象深い戦いであり、後に諸葛亮獲得の布石となる場面であった。

 

 基本的には物語上の演出としてのみ語られる八門金鎖だが、実効ある戦法として目の前で拝むことが出来たのは、状況を脇に置けば感慨ひとしおである。

 しかし、思いを馳せるべきはもう一つの事実である。

「……袁紹軍の参謀陣に八門金鎖を実行しようとする者はいるのか?」

 公孫賛の問いに李岳は首を振った。答えは明白だ。

「そうか、とうとう『臥龍』が相手なんだな……」

 信じたくない気持ちの表れか、公孫賛は名前ではなく号で呼んだ。しかしそれがなおさら危機を的確に表してもいた。

 天下が乱世と呼ばれて久しく、数多の勇者智者が星屑のように現れては名を轟かせていく中、なぜ未だにさしたる実績もないのに天下第一の軍師として『臥龍』の号が不動の最優と言われるのか。

 荊州に居を置く司馬徽の草盧。それはただ学びを得るためだけの場だけではなく、情報交換のための社交界でもあった。哲学や軍学、儒教から歴史に至るまで幅広い分野で意見を交わらせ、時に議論を戦わせつつ、お互いを評価し合う場なのである。

 そこで得た人物評を智者や名士は故里に持ち帰り、仕える君主に登用すべきと推すか、あるいは警戒すべきとして注意を促す。まさに天下を写す水鏡と言えよう。

 その盧で繰り広げられる論戦の中、一度の敗着もなく、煌めくような知の輝きを浴びせ続けてきた者の名こそ諸葛孔明。天下で名を成す者たちがこぞって話題にせざるを得なくなり、伝説のように語られるに至ったのである。

 しかし、そんなことは百も承知と頷くのは紛うことなき巨頭のもう一対(いっつい)

「しゅ、朱里ちゃんは、わた、わた――あわわ――わ、私が止めます」

 たとえ言葉がたどたどしかろうが、その力と自信を疑うものなどもういない。

「うん、大丈夫です。こちらには『鳳雛』がいるのですから」

「そう、そうだな! ……でも雛里、一つ質問なんだけど。あの陣形が出てくるとこれからもずっと飛び込んじゃダメってことになるのか?」

 公孫賛の不安を鳳統はあっさりと却下する。

「あわわ……無敵の戦法なんてありません。広い原野での戦いであれば攻略法もあります」

 八門金鎖の攻略は景から生の門へと騎馬隊を走らせ、正面から総攻撃を加えるのが上道とされている。門の区別をつけるために鳳統は趙雲に何度も陣の手前まで走らせたのだが、見抜いた後でも隘路の不利を悟り攻撃は控えさせていた。

「星さんは、あの八門金鎖の陣を間近で見て、どうでしたか?」

 んー、と頭を捻る趙子龍。

「見事な罠であろうな、初見であればまず見破れまい。事実、雛里の助言がなければ疑心はもっても誘惑に抗えず飛び込んでいただろう」

「一度見た今であれば?」

「正直、どうとでもなる」

 趙雲の言葉を付け足すように関羽が続く。

「角を落とすように孤立している方陣を一つずつ潰していけば、いずれ勝てる。そうだろ星?」

「うむ。愛紗の言う通り局地戦に持ち込めばこちらが有利だ。慌てて陣形を再構築し出せばその時こそ全軍を押し出す」

「混戦になれば、ボロ勝ち間違いなしなのだ!」

 関張趙の猛将三人が自信満々に豪語すれば、軍師鳳統もさもありなんと頷いた。

「そのとおりです。ですから同じ手を繰り出してくることは期待できません。常に新手で敵を惑わせるのが軍師の王道です……朱里ちゃんも当然、陣形を変えてきました」

「……ある意味、より厄介なわけだな」

 袁紹軍は界橋中央を占拠すると、八門金鎖を解いて陣を再構築していた。方陣、鶴翼、円陣を組み合わせている。

 採用する策の弱点を知り尽くした上で、確実に有効な間だけ使ってくる。役目が終われば都合が良すぎる誘惑は断ち切り、次は新たな策を起す。一面では諸葛亮の凄みを見せつけられているとも言えた。

「袁紹軍の今の陣形、どう読む?」

「……野戦で勝つ、という意気込みを感じます。それも軍師の指揮による臨機応変の軍略に自信を漲らせているかのような」

 八門金鎖が奇策であれば、次こそは正攻法。正面からこちらを打ち破ろうとしている方策であった。

「安易な対策は立てられない、というわけか」

「厄介極まる」

 間もなく配備を終えた袁紹軍は動き出すだろう。未だ敵方が戦力差優位。せっかく得た地理的条件も手放して、条件は五分に戻され兵力差の分だけ不利。

 そのような状況で諸葛亮と正面から智謀を競う。鳳統にかかる重圧は生半ではない。その重荷をたった一人に託すしかない不甲斐なさを、悔やまぬ者はいない。

 

 ――その時、それまで静かだった劉備がポツリと言った。

 

「あれは、朱里ちゃんの願いだよ」

 うん、きっとそう――劉備は繰り返した。

「願いなんだよ、答えを待ってるんだよ」

「願い……」

「朱里ちゃんは答えを待ってるんだよ。野戦で自分と同じくらいの軍略の持ち主がこちらにいることを期待しているんだよ……雛里ちゃん!」

「っ……!」

 必ず滅ぼすという覚悟と同時に、打ち破って欲しいという相反する想い。自分に匹敵する軍略を持つのはただ一人しかいないと確信する、諸葛亮の願いであり問い。劉備の言は恐らく正鵠だろう。

 諸葛亮が本当に戦っているのは、きっと己の心の内の闇だ。それに光を与えられるのは、もっとも大切な親友以外にあり得ない。

「雛里、私たちの全てを託した」

 公孫賛がその小さな肩に手を置いた。李岳が反対の右肩に同じように手を置く。感無量に至ったように抱きついてくる劉備。調子に乗って関羽と趙雲、楼班までを道連れに飛び込んできた張飛の勢いで、全員がもみくちゃに倒れた。

 

 

 

 

 

 

 

「……冬至、少しいいか」

「白蓮殿。もう兵を動かさなければならないというのに」

「少しだけだ」

 界橋中央を占拠した袁紹軍との激突が迫る中、公孫賛が本陣中央から離れるように促して来た。その表情は重く深刻だ。

 幕舎の裏で声をひそめながら話す。

「どうするつもりだ?」

「何がです」

「とぼけるな! みんな聞かないだけで……朱里が雛里は生きているということに気づけば、当然例の書も察する。そうなれば田疇はすぐに知る。助けるのは難しくなるぞ」

「でも、諸葛亮殿が雛里の生存に気付いていないといよいよ救えません」

「それはそうだ。それはそうなんだけど!」

「雛里もわかっています」

「……だろうな」

「彼女を信じるしかありません。いえ、彼女たちを」

 公孫賛はそこでようやく察する。李岳にも打つ手は限られているということに。

 諸葛亮と鳳統。二人の間にもはや賭けるしかないのか。

 不安そうに目を泳がせる公孫賛の肩に手を置くと、李岳は一言一句言い含めるように話した。

「白蓮殿は……ただの一人のために、多くの兵を死なせることを良しとしますか?」

「お前、それ」

 諸葛亮を諦めろ、と李岳が言っているのだと思い、公孫賛は思わず拳に力が入った。しかしそうではない。李岳は遠い目をしている。もっと違う何かを考えている。

 公孫賛の理解が追いつく前に、李岳は言葉を続けた。

「先程の劉備殿の推察ですが、私も言われるまで同じことを考えていました」

「……朱里が助けを待ってる、という話か?」

「ええ。しかし」

「なんだ、何があるんだ。おい」

「――諸葛亮殿は、ひょっとしたらとっくの初めから知っていたのかもしれません」

 その言葉が公孫賛の腹に落ちるまでの数瞬、李岳も息を止めていた。

「……初めから? 初めからっていつの話だ」

「私も……見誤っていたのかもしれません。私は……」

「答えろ、いつの話だ!」

「……全くの最初です。雛里が死んだと彼女が鄴で連絡を受けたときから」

「そんな」

 そんなことがあるというのか? だが、ではなぜ――公孫賛の思考がまとまるのを待たず、李岳は続ける。

「そうであれば、どれほど恐ろしかったでしょう、一人で敵軍の中で身を潜めているのは。仲間を憎むふりをして……それが演技だとしても、仲間たちが信じれば全ての希望を失うのですから」

 友を信じて友を憎み、敵を恐れながらそれに利するために働く日々である。常人の神経では持つわけなどない。

「諸葛亮殿は、懸命に生きようとしている」

 公孫賛はようやく李岳の苦渋の表情の真意を知る。

 先程の自分の言葉では諸葛亮がここしばらくで気付いたことを前提にしていた。だから田疇に知られ危険になると。

 しかしそうではなく、田疇もまたとうの前から諸葛亮の思惑に気付いていたと李岳は考えているのだ。

「可能性の話です。真偽を確かめるすべはありません」

「でも。そうだとしたら作戦全部が危なくなるぞ!」

「同感です。この戦は、勝つのが難しいかもしれません」

「あ、諦めるのか!?」

 李岳は小さく笑った。怖気を催すような笑み。

「逆です。もはやこの機を逃せば私は奴に勝てない。ですので、私は田疇に何がなんでも勝つことにしました。しかしそれは、勝利とは別として分ける他ないのかもしれない、と」

「お前……なに考えてる?」

「この戦の趨勢がどうあれ私は田疇には勝ちます。そして生きて帰る。それだけを考えています」

 公孫賛の肩を掴む手の力が一層強くなる。

「白蓮殿。我々は時に諦めも必要な時があります。生き残るために。いざという時は全てを捨てて逃げてください。生き延び、逃げる力も英雄の資質です」

「……残念だな。幽州の女はしぶといのが売りなんだ」

「なかなかかっこいいですよ、白蓮殿」

 ばぁーか、と言い捨てて公孫賛が駆け始める。やや置いて李岳も後を追った。本隊が動き始める。白馬にまたがる公孫賛を認めると、兵たちが歓声とともに槍を突き上げた。公孫賛もまた抜剣でそれに応えた。騎馬隊を先頭に軍団が巨大な生き物のように動き始める。

「正念場となるかな?」

「いや、どうかな。もう一山あるだろう」

 いつの間にか横にいた趙雲に答えた。この一戦で決着というわけにはいかないだろう、と李岳は思う。ただし激戦になることは間違いない。片手を上げて先頭へ駆けていく趙雲の背に、死ぬなよ、と李岳は叫んでいた。




「どうせまた一ヶ月くらい待たされるんだろ」と思ったろう?






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