真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百二十六話 掌中

 冀州戦役における最大の決戦の地となった界橋――そのうちでも最も凄まじき激戦は公孫賛軍が連環馬を繰り出した直後、まさにその夜から始まる。袁紹軍を突き崩し、優勢を獲得した公孫賛軍は、それを二度と手放すまいと夜戦を敢行する。草叢(くさむら)にしずくが濡れる晩夏の夜、雲下に滲む淡い月光に彩られながら、公孫賛軍はひた駆ける。

 

 

 

 

 

 

 ――公孫賛陣営。

 

 全身に満ちる疲労をほどく間もなく軍議は催された。息は荒く、浴びた血もまだ乾かない。だが誰も疑問を挟まない。この戦いの目的はまだ達成されてないからだ。

「夜襲のご用意をお願いします」

 なんとか切り抜けた大軍相手に、すぐさまその夜に決着を求めるという。

「ここで決めるのだな?」

 関羽が微動だにしない強い視線を鳳統に向けながら聞く。

「はい」

 答える鳳統の声に迷いはなかった。

「危険は?」

「賭け、なのは間違いありません……失敗すれば大きな危機です。ですが、この機を逃せば、もう方策が思い浮かびません……朱里ちゃんはきっと、全てを理解して私達を誘引してくれます。朱里ちゃんを助け、袁紹軍の中核を打ち破り、この戦役を勝利で締めくくります」

「良い。はっきりしている」

 関羽もまた言葉と同時に闘気を発した。張飛は静かに腕組みをしたままで、それがなお不気味である。逆襲に転じた直後、決戦を予感させる夜襲の献策が挙げられた。武人であれば滾らないわけがなかった。

「でも、朱里ちゃんはほんとに私たちのことを……」

 言いづらそうに言葉を濁らせる劉備。鳳統は首を振った。

「朱里ちゃんは、もう気づいてます。それはきっと、間違いありません」

「二人だけの符牒であろ!」

 中でも特に興奮を隠しきれない楼班。長い耳を忙しく上下させながら口を休めない。

「鳳統殿と諸葛亮殿にしかわからない計略があったと見た。さしずめ、鉄鎖で繋いだ我らの戦車ではないか?」

「……連環馬といいます」

 楼班は感慨深げに頷いた。

「然り! 確かに大叔父にそのような戦法があると聞いたことがある。そうか、我が民の古来の戦法も調べが済んでいるというわけか。そして今日それを蘇らせてくれた。稀有な体験だった!」

「それに急がないと……朱里ちゃんは、限界かもしれません……」

 劉備はかがみこむと、一度ギュッと鳳統の小さな体を抱いた。途端、えぐ、と声を上げて束の間涙する少女、その髪を優しく梳かしながら、劉備は耳元で慰めるように何事か呟く。その度に鳳統は励ましを飲み込むようにコクコクと頷いた。

「わかった、やろう。策は?」

 総大将の貫禄が日に日に増していく公孫瓚だが、今も興奮を抑えて冷静さを手放すまいとしている。

「楼班さんにまた一働きして頂きます。ただ、囮としてですが」

 鳳統が燭台の灯りの元、陣図に動きを加え始めた。楼班の戦車隊に明かりをつけ、陽動部隊として活用するのが初手であった。

「敵は連環馬を備える戦車隊にはかなり警戒しているでしょう。それを逆手に取ります」

「明後日の方向に走るのか?」

「側面を突く、と思わせます。そう思わせたところで正面から攻めます」

 あまりにも単純な策に思えた。いや、だからこそ有効なのだろうか? 相手の裏をかこうとする時に疑心暗鬼はやってくる。諸将が不安を覚える中、鳳統は小さく微笑む――それが万言よりも響いた。

「やるぞ」

「応」

 否やの声などあるはずなかった。

 作戦は単純明快――公孫賛以下幽州全軍、夜陰に紛れて敵陣突入。委細は鳳統の構想通りに諸将は配置についた。一刻の短い休み、兵たちに最後の食事を与えると火は残して馬上に並ぶ。しかし公孫賛だけは気づいていた。軍議の際も、隣の馬上で控えている間にも、不気味なまでの沈黙を守り続けている男が一人いることを。

 黄昏に没する原野のように、李岳は闇に沈んでいく。

 なお雄弁な沈黙が、その存在感をいや増していた。

 

 

 

 

 

 

 

 ――袁紹陣営。

 

「夜襲が参ります」

 諸葛亮の呟きに、円卓の諸将全員が息を呑んだ。

「何を根拠に……備えるのはわかりますが、まるで確定しているかのようにおっしゃいますな」

「確実、かと」

「理由をおっしゃってくださいまし」

 袁紹に向かって一礼し、諸葛亮は卓上の陣地図を指した。

「此度敵が用いた戦法は連環馬と申し、匈奴や鮮卑等の騎馬に長けた異民族が古来より用いてきたものです。突撃に比類なき戦車隊に、さらに相互で鎖で繋ぐという工夫を追加します。間に挟まれた敵兵はなぎ倒され、陣地ごと引きずり倒されてしまうというものです」

「防ぐ術は」

 諸葛亮は小首を傾げながら迷う風もなく答える。

「突撃力はさておき、小回りの効かない戦車をさらに鎖で繋いでしまうのですから、当然機動性は落ちます。側面を突けば驚くほど容易に崩れるでしょう。戦車同士の間も開いております、備えさえあれば叩けます」

「無敵の戦法などない、ということでしょう……八門金鎖の時と同じ回答になりますな」

 田疇が軍議では珍しく口を開いてそう言った。頷き、諸葛亮は続けた。

「それは敵も気づいているでしょう。明朝、再び同じ策を使ってくるとは思えません。そして新たな策を考えるしかない……兵数は少なく、劣勢が明らかなのですから。この負担は想像以上に大きいものです」

「だから、今夜のうちに再度使うというわけですか」

「削れる時に削れるだけ削っておきたいと考えているはず。敵もまた必死でしょうから」

 諸葛亮の説明に、諸将の大半が納得を見せた。諸葛孔明の力量はすでに明らかになっているのだ。遅れを取ったとはいえ初見の連環馬を看破し、対応方法を示してもいる。他に誰が同じことをできるだろう?

「だったらさ、対策って何すんのさ」

 文醜がわずかに苛立ちを見せながら聞いた。来るとわかっている夜襲であれば、さっさと備えてしまいたいと思っているのだろう。

「全軍で迎撃します」

「当たり前じゃん」

「全軍で、戦車隊を潰すのです」

 ざわ、と音がするようなどよめきが起きた。

「幽州軍にとって烏桓の戦車隊こそが戦力の中核です。今、その戦車隊を突撃させて来ようとしているのが明らかならば、叩き潰す好機でもあります。他の騎馬隊に攻め込まれる危険もありますが、防戦に徹して防ぎます。戦車隊を除くことができれば、こちらの勝勢は確実となるでしょう」

 袁紹が納得の仕草を見せると、顔良が諸葛亮の采配で動くことを宣言した。この時点で細かい差配の全ては諸葛亮が任されることになり、補佐に田疇が付くという形になった。諸葛亮はすかさず予測される敵兵の動きを宣言し、配置を指示し始める。田疇がその言葉を取り次ぐように、全軍へ伝令を走らせた。幕舎の中の諸将も余さず役割を課せられ、本陣に控える袁紹も含めて全員が配置についた頃、諸葛亮の周りにはもはや田疇一人が残るのみだった。

「……後は敵の動き次第です」

「臨機応変。臥龍先生であれば必ずや勝利を呼び込んで頂けることでしょう」

 田疇の言葉に、諸葛亮は否定も肯定もせずに瞳を閉じた。耳をすます。移動のために陣内を駆け回る兵の足音に混じって、かすかに虫の音が交じる。

 気づけばもう垂れ込める夜の帳。夕闇の訪れの早さに夏の終わりを予感する。涼風が肌を撫ぜる。諸葛亮は幕舎の中で田疇の目を盗むようにして、刹那に肩を震わせた。涼にではなく怖気によって。

 わずかな刺激でさえ諸葛亮の心を敏感に傷つけた。五分と五分に分けて思考を戦わせていたからこそ保てていた均衡が、焦燥と不安、孤独に塗り込められていた。十といくつをようやく数える少女が背負うには、あまりにも残酷な重量の闇。鍛え上げた明晰さをよすがにして、なんとかこらえているに過ぎない。

 心の限界はもうすぐそこまで迫っていた。

 諸葛亮は祈るような思いで宵闇の中から聞こえるはずの馬蹄の音を待ち続けた。

 そしてそれは、背後で控える顔色の悪い痩身の男もまた同じであることに、少女は気づかない。

 

 

 

 

 

 車上、楼班は風の音に耳を澄ましながら戦車隊の先頭にいた。

 けたたましく石を弾き飛ばす車輪の音の隙間に、袁紹軍から発せられる声が混じる。

「軍師の読み通り、夜襲の読みは合致したわけだな」

 備えがなければこれほど早くに対応できるわけもない。鳳統は諸葛亮が気づいたことを読み、諸葛亮もまた己の気づきを鳳統が察知するはずだと読んだ。そして申し合わせたように夜襲での衝突を企図したのだ。どうしてこれが人智の技といえよう。楼班は今日一日愉快な気持ちから自由になれない。冀州を発した公孫賛軍に随伴したことは決して間違いではなかった。

 袁紹軍からの声、気配が次第に濃密さを増す。楼班は戦車隊を北にむかって半円を描くように走らせている。袁紹軍は見事に釣られているようだ。

「頃合いだな。やれ」

 楼班は先頭車両の旗を振らせた。松明に火が灯る。無数の火を連れ回して駆ける様は、悪鬼が引き連れる鬼火に見えるだろう。いたずらに的にもなるが、それが目的の一つでもある。戦車隊はこの戦では陽動、予備と割り切った役割しか与えられていない。

 しかし端役だとて、満足に踊れねば祖霊の怒りを買うだろう。

「派手に叫べ! 烏桓の戦士は声だけで漢人の度肝を抜くのだ!」

 喚声を上げる兵を見回しながら、楼班は背後に目をやった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「点火を確認!」

「よし、出撃!」

 公孫瓚の声に沈黙で呼応する本隊二万。ここからは隠密さが何より肝要となる。馬に草鞋まで履かせているのだ。

 戦車隊は見事に敵を引きつけ半円を描いて北に駆け抜けている。釣られた袁紹軍の防備は大きくひずみ、いま公孫賛軍の正面、東側はぽっかりと間隙となっていた。

 そこに向かって、まずは並足で進んだ。夜風を切って進む騎馬隊の中で、李岳がおもむろに弓矢を取り出すのが見えた。その横顔は緊張し、やや引きつっているように見える。

「怖いのか、冬至」

 口にした瞬間、公孫賛は彼を侮辱してしまったと思い顔を真っ赤にして恥じた。違う、すまない――とっさにそう続けようとしたところ、李岳が小さく首を振った。

「怖い、とても。諸葛亮殿と雛里の二人の発想が、田疇を上回っているのかどうか……それともこれも『書』の筋書き通りなのか」

「まさかだろ、まさかそんなはずはない……雛里の読みじゃ今日の今日だぞ、朱里が自分の状況を把握したのは」

「ああ。だからこれは、これ以上ない最短の奇襲のはず……」

「これが通じないとなると……いや、やめよう。今は考えるのは駄目だ。もう信じた、始まったんだ。やるしかない」

 李岳は、小さくだが確実に頷いた。

 騎馬隊はやがて並足から駆け足になり、間もなく全速力になった。公孫賛は抜剣し、袁紹軍本隊への突撃を命じた。先頭を趙雲が行く。誰よりも早いその背を追いながら、自分の鼓動がやけに高く、大きくなるのを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 予想通り、戦車隊が先鋒となって夜襲を決行してきた。

 諸葛亮は駆け込んでくる伝令の報告を脳内で描写に変え、戦場を克明に描いた。夜の闇に目を凝らすよりもより正確な戦場風景を構築することが出来る。

「騎馬隊に戦車隊を追撃指示。重装歩兵は防御陣形を北側に展開」

 田疇の復唱が続く。

「……弓手はまだ射ても当たりません。混戦まで待機」

「はっ、そのように」

 弓手は最後まで使わない。これ以上公孫賛軍――劉備たちを傷つける理由は微塵もないからだ。

 戦端が東から北側に大きく引きずられ始めた。円弧を描いて移動する戦車隊に追随するのは歩兵では至難である。不用意に突っ込んでくることがなければ、揉み合うようなことにはならないだろう。しかしいつ襲ってくるかもしれないと怯える袁紹兵からすれば、松明を灯して駆け回る北夷の戦車は恐怖そのものである。

 しかしこれは明確な囮、わかりやすすぎる程の陽動である。本隊は当然作られた間隙に飛び込んでくる――そう諸葛亮が考えた時、悲鳴じみた報告を叫びながら伝令が転がり込んできた。

「正面! 東側より敵本隊接近! 来ます!」

 予兆はなく、公孫賛軍は音を殺してやってきたことを知る。衝撃は凄まじく、東側の防備を一挙に二段もぶち破った。

「軍師殿」

「田疇さん、まずは一度押し返せ、と。然る後に次の一手を打ちます」

 諸葛亮の言葉に頷き、田疇は伝令に耳打ちして二人三人と次々に送り出していく。陣幕を払って諸葛亮も外へ出た。叢雲をかぶった月の光が戦場を青く滲ませている。その先に確かに揺れ動く影――公孫賛軍!

(雛里ちゃん! 桃香さま! 私は、私はここです!)

 叫びだしそうになるのをこらえ、諸葛亮は羽扇で表情を隠す。慌てふためく兵士たちが一応の陣形を整え始める。東側の防備は減ってはいるが完全になくしてはいない、そのような不自然な陣構えにはしていない。不自然を自然たらしめるのはここからである。

 諸葛亮は一度距離を置き、再び突入せんとする公孫賛軍に向け、羽扇を指し示しながら声を上げた。

「本隊全軍左右に展開、前進せよ」

 ただひたすら本陣を無防備にする陣形であった。だが将兵は再び奇策ありと思うだろう。実際は全くの逆だというのに。

 初手で八門金鎖を繰り出したのには裏の意味がある。

 隙だらけの陣形でも戦えるという自信を兵に植え付けること。そして指揮にためらわず従うようにさせること。この二つを軍全体に刷り込ませるためだった――鳳統たちが自分を助けに来る時に、その活路を無傷で用意するために!

 全てはこの時のため、この瞬間のための布石であった。左右に開いた軍勢は、いずれ諸葛亮の指示に従って挟撃を決行すると信じているだろう。しかしその指示が出ることはない。開門された守備陣系の中央を堂々と公孫賛軍は進み、諸葛亮のこの陣幕に辿り着くはず。そして無傷のまま帰還を果たすのだ。

 私はいまここにいます――そう叫び出すのを諸葛亮はすんでのところで耐えた。でももう我慢が難しくて、喉が震えて涙が浮かぼうとしていた。

 

 ――しかしその喉の震えは、刹那に意味合いを変える。

 

 感情の高鳴りがはたと止まったのは、そうあらねばと考えたからでもあったが、それよりも違和感が先に立っていた――復唱がない。速やかに繰り返され、届けられていた声が聞こえない。先ほどとは違う意味で諸葛亮の体が震えた。己の智謀と察しの良さが、都合のいい未来を夢想するという最低限の救いさえ与えてくれない。錆びた鉄が軋むような動きで、諸葛亮は振り向いた。

 どこか虚しそうな瞳の色を湛えた男――田疇一人がそこにおり、静かに首を横に振っている。

「指示が、聞こえなかったのですか」

「残念です」

「……田疇さん、本隊全軍左右に展開せよ、と。私は……」

「まことに残念。もう少しであったというのに。あと一歩で軍師殿は救い出された。惜しい。本当にもうあと一歩のところで……」

 喉が一挙に乾き、舌と喉奥が割れるようにひりついた。看破された? しかしなぜ、いつ、どうやって?

 これまで敗北を知らず、軍略と論理を見極められたことなどない少女に、初めて訪れる理解不能という恐怖。

 敗北の代償として与えられる供物は、己を助け出さんと死地に飛び込んでくる仲間たちの命……

 自らに敗北を与える男は、智謀も、清冽さもおくびにも出さず、気怠そうに腰をかがめると、顎に手をやり不思議そうに呟く。

「あれはおっしゃられないのですか。口癖ではありませんか。こういう時にこそおっしゃられる言葉ではないのでしょうか。困った時や慌てた時はよく口にされていたでしょう?……はわわ、でしたか? 今はもう言葉も出ませんか?」

 諸葛亮は絶句し、たたらを踏んだ。人生で初めて真意を見抜かれ、謀略で敗北した。命の危機。そして、ここにいる自分を助けるために突入してくるであろう劉備、公孫賛の危機。

 絶望は時に熱く時に冷たい。後悔は熱く諸葛亮の頭脳と魂を焼き、そして最早全て取り返しのつかない事だと思い知らされた冷気は、諸葛亮の心臓を極限まで冷やした。

 加熱と冷却による混沌は、精神の均衡を崩すには十分であった。

 諸葛亮は全てを拒む赤子のような悲鳴を上げると、手足をつっぱらせて倒れ込んだ。

 失神した諸葛亮の体を何の感慨もなく見下ろしながら、田疇は自らの手下である隠密部隊『黄耳』を呼ぶ。

「袁紹殿に伝えよ。軍師諸葛亮は疲労がため、気息を病んで倒れられた。これより全軍の指揮は諸葛亮の言伝を書き留めた、この田疇が行うと」

 懐に携えていた『書』を開き、田疇は二人目を呼ぶ。

「控えていた麴義将軍に伝えよ。これより前衛を両側へ開く。敵が中央突破を図ろうとすれば、存分に射殺すが良い、と。さらに重装歩兵は全力で敵騎馬隊を左右から挟撃せよ。殲滅せよ。一兵も討ち漏らすな。幽州兵の降伏は認めぬ、諸共全て斬り捨てよ。敵が引けば反撃に移る。戦車隊は捨て置き、全軍で東方へ進軍する」

 指示の後、田疇は前線まで伴を連れて進んだ。軍を率いるのは初めてであるが、緊張はない。不安もない。定められたことがただ粛々と展開されるだけである。

 やがて前方から夜闇を裂くように白い騎馬隊の一軍が現れ、そして空を舞った無数の矢を存分に浴び始めた。

 田疇は何の感慨もなくそれを見守る。騎馬隊はもがき苦しむように、しかし抗えぬまま息絶える虫のような振る舞いを見せながら、再び闇の中に紛れようと必死さを見せた。田疇は続けて突撃を指示する。喊声を上げて突っ込んでいく兵たちを見送ることもなく、田疇はただ手にした『書』にのみ目を落としていた。

 あらゆる人を利用してきた。全てはなるべく自然な成り行きとして世を動かしたかった。

 だがしかし、それら全てが瓦解した以上もはや打つ手はない――己が陣頭に立ち、ただ全てを片付ける。

 気怠げなため息を吐きながら、田疇は月の在り処さえ確かめることなく進撃の前線へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 李岳の全身の毛穴が開いた。血流も倍の速さで走る。目がより多くの光を集めようと瞳を拡げ、頭蓋の内に霹靂が走ったかのよう。

 趙雲を先頭にした騎馬隊が、凄まじい数の矢を受け後退してくる――失策、そして明確な敗北の知らせであった。

 策が露見し、裏を取られた。来ないことを願ってやまなかった展開が眼前で繰り広げられている。

 田疇が、諸葛亮と鳳統の上を行ったのである。

 李岳は弾けるように馬を寄せると、小雲雀の上で固まる鳳統の肩を掴んだ。

「雛里、落ち着け。撤退の指示を」

「と、とと、冬至さん……」

「後は任せろ。いいから今は一人でも助けることを考えろ!」

「うっ……うっ!」

「しっかりしろ! 軍師だろうが! ここで死ねば、諸葛亮も死ぬぞ!」

 涙を拭い、一度二度嗚咽を漏らす――それで一旦の気を吐いたのか、鳳統は目を覚ましたように冷静さを取り戻し、矢継ぎ早に伝令を繰り出し始めた。負けた時、失敗した時のことは当然考慮している。まずは先鋒騎馬隊の速やかな後退、そして戦車隊への撤退指示である。

 界橋を放棄しなければならないだろう、と李岳は考えた。討ち取られた数はどれほどかわからないが、勢いが一挙に傾く。陣地の維持は不可能だ。夜を徹して後退戦に耐えなくてはならない。

 李岳は白馬義従の中心――公孫賛の元へ駆けた。

「冬至!」

「白蓮殿。戦況は」

 公孫賛は口惜しそうに歯噛みしながら言う。

「星に任せてよかった。なんとか戻ってこれそうだ。被害は、小さくない。そして結果論だけど、夜襲が祟ったな……視界が開けないから、後ろが詰まっていて騎馬隊が駆けるに駆けられない。袁紹軍本隊を引きずるようにして戻ってきている」

「やむを得ないでしょう。他の諸将は?」

「皆、大丈夫だ。ただ問題はこれからだな」

 大敗北といえた。戦線は崩壊し、各個に撃破されるだろう。まるで史実をなぞるように。

「私たちは負けたんだな?」

「……今は、です。ここを生き延びれば、本当の負けではありません」

「これが田疇の力か……頭がおかしくなりそうだよ。お前の嫌な予感が当たったわけだ」

「甘かった」

 公孫賛は李岳の口元の出血に気づいた。この男は口惜しさに、唇を噛みちぎってしまっている。

「白蓮殿、私は別行動を取ろうと思っています」

 薄々気づいていたのだろう、公孫賛は自分こそ最も過酷な状況に立たされるであろうというのに、丸っきり他人事のように李岳を心配する目を見せた。

「……手があるのか?」

「考えは、あります」

 李岳の思惑を公孫賛は知らない。知ってはならない。だから本当のことは何一つ言えず、ただお互い(おもんぱか)ることしかできなかった。

 不意に、悲鳴と歓声がこだました。悲鳴は味方のもの、歓声は袁紹軍のもので相違ないだろう。傷だらけの僚軍が敵を引き連れながら命からがら駆け戻ってきている。公孫賛も劉備も、きっと誰一人見捨てようとはせず、最後まで守ろうとしながらの撤退を選ぶだろう。

 李岳は嘘でも言わざるを得なかった。

「いいですか。何があっても、生き延びることを第一にお考えください。死ななければ再起はあるのですから」

「わかってる。死ぬ気はないさ。でもそれは、お前もなんだぞ」

「私は大丈夫です」

「ほらな。だったら私も、大丈夫さ」

「……また会いましょう。必ず」

「約束だ。お前にもらった夢は、まだこんなところで終わらせられないからな!」

 呼吸を二つほど見つめ合い、李岳と公孫賛は同時に背を向けた。

 途端、味方を励まし撤退を支えようとする公孫賛の声が全軍に響いた。堰き止められていた川が一気に流されるように、幽州軍兵は撤退していく。

 殿軍に駆け戻るのは公孫賛本人、そして劉備。関羽と張飛が逆撃を狙い、撤退に気づいた楼班が側面を突いたところで、ようやく袁紹軍との距離を開けることができた。夜襲であることは不運を呼んだが幸いもある。視界がないために袁紹軍は追いすがれず、そして連戦で余力もなかったのだ。

 しかしそれは公孫賛軍も同じであった。満足に撤退してくる味方を糾合もできず、本隊はただひたすら東を目指して逃げ惑うしかなかった。被害に包まれた先鋒二万のうち、そのほとんどが合流することが出来なかったのである。

 二万の損失は、幽州軍から戦線の一切放棄以外の選択肢を奪ったのである。

 こうして『界橋の戦い』は袁紹軍の勝利に終わり、これより公孫賛軍は長い長い道のりを逃げ惑うことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 ――『公孫賛伝』にて曰く。

 公孫賛、袁紹を討たんと幽州を発し、配下の将帥を青州・冀州・兗州の刺史へと独自に任命した。さらに太守や県令をことごとく配した。公孫賛の騎馬はあまりに早く、袁紹の城をたやすく抜いた。いよいよ魏郡に迫り、鄴を狙い西進した。袁紹は自ら兵を率いて両軍は界橋にてまみえた。公孫賛ははじめ袁紹をいよいよ討つほどに迫ったが、慢心を覚えて軽々に夜襲を行った。袁紹はこれを読み、弩兵に散々に射掛けさせ、多くの兵と騎馬を失わせた。公孫賛は二万の兵を失い、冀州で得た領地も全て失った。


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