真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百二十八話 磐河の戦い

 意地でも()を上げてなんかやるものか、この部隊の指揮は私がとるのだ――初め執拗にそうこだわったのは事実である。だがそのような決意など現実の前では無意味で、やがて司馬懿は疲労困憊に達し以後行軍の指揮については全く呂布に委ねるようになった。

「休憩終わり」

 呂布がそう声をかければ千人の部隊員たちは一斉に準備に取り掛かる。とうの呂布は眠そうな目をして緊張感は欠片もないというのに、部隊に漲る迫力はただごとではない。訓練が行き届いている精鋭の模範であった。

 司馬懿はというと、疲労と痛みで全身思い通りに動かず、しかし意地でも弱みは見せまいと歯を食いしばって呂布の体と赤兎馬にしがみつくのが精一杯。方角の指示、軍略に則った野営の方法などを持ち合わせていなければ、ただのお荷物だったに違いない。

 渡河を果たし三日。呂布騎馬隊は驚異的な速さで界橋へ至った。司馬懿の読みどおりそこは冀州軍と幽州軍が正面からぶつかった激戦地となっていた。

「これは……」

 しばし口を閉じ丘陵より戦跡を眺めた。後始末に残された千から二千程度の袁紹兵がのろのろと作業を行っているだけで、公孫賛軍の気配は微塵もない。

「幽州軍は破れたようですね。しかもかなり一方的に」

 司馬懿はその目でつぶさに戦の残り香のようなものを拾い集めた。陣地の跡、捨て置かれた旗や突き立った矢などもあり、戦の終始を思い描くには十分に事足りた。

「……夜襲を決行したものの手痛い反撃を食ったのでしょう。袁紹軍の夕餉の用意が中途半端に残されたままです」

「ん、わかる」

 呂布も司馬懿と異なる理屈でその結論に至ったようである。赤兎馬から降り、地を這うように姿勢を低くして何かを探っていた――匂いでも嗅いでいるのだろうか?

「どっちに行った?」

 司馬懿は脳裏に地形を思い浮かべる。東に逃げる公孫賛に、袁紹軍が全軍で追う形だ。機動力に勝る公孫賛だが敵地での補給の問題がある。選択肢は相当狭まるだろう。

「被った損害次第ですが、戦線を放棄するなら北、未だ冀州で再起を図るならば東の南皮」

「戦うなら?」

「……なんと?」

「戦うなら、どこ?」

 司馬懿は呂布の目を見た。ありえない、と言いかけた口をつぐむ。呂布は公孫賛のこともよく知っているらしい、司馬懿より判断の材料をより多く持っているのであれば指摘する可能性を捨て置くことは出来ない。

 それに勝勢の敵に退路を放棄してもう一度正面から争う――勝算の有無は別にして、そういった逆転の策はいかにも李岳が考えつきそうなものだ。

「袁紹軍も全力で追うでしょう。今頃再度激突しているかもしれません。であればどうします?」

「後ろから襲う」

 たかだか一千ばかりの兵をたのみに無謀な意気込みだと人は笑うだろうか。少なくとも司馬懿はその一人ではない。北西に目を向けながら司馬懿は言う。

「逃げた公孫賛が再び干戈を交えんとするのであれば、北から迂回して西に向かうはず。大兵を迎えるに足る地はそれほど多くはありません。名は……」

 司馬懿はその地名を思い出すのに、ほんの刹那を費やした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――磐河とは広宗の地を東西に横切る流れで、浅く、冬には干上がる程度の水量であり、周りは農地に適した。騎馬のまま駆け抜けることも出来るので障害にはならない。むしろ(かち)がより足を取られるだろう。

 

 そのせせらぎは草木の隙間を縫うように流れており、どこからが瀬なのか判然としない。膝上まで伸びた葦の有無が、河川の輪郭をぼんやりと教えてくれるだけだ。

 俄然、騎馬隊有利のこの地を挟んで冀州軍と幽州軍は再び合間見えた。袁紹――いや、田疇率いる冀州軍は、寸分の狂いなき正確さでこの地を目指し、先行しているはずの幽州軍とほとんど時間差なく相対した。

 田疇はその地形を一度だけ目に収めると、やがて興味を失い背を向けた。視線は『書』に戻りその記述を繰り返し追う。処すべき手は全て記されている。公孫賛軍の挙動は問題なく把握しているということだ。

 李岳があの陣営にいる可能性がある以上、いつどこで『書』の予測を裏切る動きを始めるか知れない。『書』もすかさず修正されるはずだから、それを見逃さないことが自身の役割だ、と田疇は戒めた。どんな奇策を打とうとて、たった一人で戦に勝つことなどできない。他の誰かが関わる以上『書』は必ずそれを知る。改訂を(あやま)たずに反映させ続けさえすれば、李岳に逆転の余地は皆無である。

「田疇さん、あの」

 振り返ると張梁が所在なさげに立ち尽くしていた。眼鏡の位置を何度も直しながらまごついている。

「どうされましたか」

「諸葛亮、目を覚まさないけれど」

 ああ、と田疇は再び『書』に目を落とした。素っ気なく続ける。

「お世話頂きありがとうございます」

「……あの子は、どうなるの?」

「さあ、特には」

 諸葛亮の処遇について『書』にはその後の記述はない。いずれ出てくるのかもしれない、と思うので生かしている。田疇の認識はその程度だった。あえて殺すつもりもないが、是が非でも生かすべき相手というわけでもない。ここで死ぬのであれば、そういう運命だったのであろう。

「陣営としても何か失策があったわけでもなく、造反が露呈したわけでもありません。処分するつもりもありません」

「じゃあ、このまま世話してもいいのね」

「情が湧いたのですか?」

「……だって、かわいそうでしょ」

 侮辱されたと感じたのか、張梁は頬を紅潮させ幕舎を出ていった。お優しいことだ、と田疇は自分とは関係のない遠い出来事のように思う。誰かの境遇を憐れみ、かわいそうと思うことはここしばらく無くなった。無為に死んでいった母や故郷の教え子たちのことを思い返しても、以前ほど感慨が湧くこともない。

 定められた運動を続けるだけの器具の一つに成り下がったか、と自嘲する。もはやこの革命の主体は劉虞でも袁紹でも田疇でもない。『書』である。

「だが、それが何の問題だというのだ」

 精神が磨り減り、心が麻痺したとて何の問題があろう? 世俗的な幸福にかかずらって大義を成し得るとは思えない。鴉に(ついば)まれても痛みを感じぬ案山子が善行を成したとして何の問題がある?

 重荷だと思ったことはある、遙かなる道程に目眩を覚えたこともある。しかし一歩一歩障害を踏み越えて田疇は歩いてきた。指し示された灼熱の峠を、臆することなく歩いてきた。道連れは皆、野心に焼かれて死んでいった。その屍を踏み越え、我は天空に至る道を進み続けるのみである。

 公孫賛を討てば幽州、冀州、青州の総兵力を全て南に傾けることができる。兵力は三十万を超えるだろう。それにいざとなれば黄巾に心酔している民草を立ち上がらせても良い。動かせる人頭数は百万に迫る。

 己自身が矢面に立つ以上、もはや道連れはいないことを示す。しくじれば次に死ぬのは己である。そして万民が平等に生きる理想も朽ちることとなるだろう。

 負けるわけにはいかない。

 頃合いだった。公孫賛の軍勢が哀れにも立ち向かわんと接近している、それを知らせる鉦が打ち鳴らされている。

 田疇は『書』を懐にしまうと、幕舎を出て本陣へと向かった。慌てふためいている諸将を前に指示を下す。全ては『書』に書き記された通りである。公孫賛軍に向けて全面に重装歩兵を並べ、弓兵は書簡で命じた通りに伏せる。そして背後に一万の重装歩兵を予備として並べた。

 田疇は『書』から顛末や事の成り行きの説明を受けるわけではない。ただ指示を忠実にこなすだけであるから、ときに田疇にも意図の読めない指示がある。背後への予備は敵の迂回作戦を読んでのものだろうか、と考えるのみだが確証はない。公孫賛も死力を尽くしてくるのだろうから、どのようなことだってありえる。

 諸将も疑問に思うだろうが、幸いすでに袁紹の信任を得ている以上反論などありえない。諸葛亮の意味深長な策略であると勝手に慮るだろう。

 開かれた軍議の席。公孫賛に決定的な打撃を与える最後の戦場だと事前に説明を受けているだけあって、さすがにその表情には活気が戻っている。諸将の興奮も熱いと感じるほどだった。

 田疇は一礼すると、質実剛健を顔に書いたような男の前に立った。田疇は書を閉じ微笑み手を差し出した。

「歴史に名を残したくはないですか――麴義将軍」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 公孫賛らは一帯を見下ろすわずかに小高い丘の上に陣取った。眼下にはこちらの数倍にもなる袁紹率いる大軍である。

「さてどう思う?」

「ま、罠だな」

 趙雲のため息に関羽がフンと鼻を鳴らした。そんなことはわかりきっている話だ。

「元より勝てぬという雰囲気を出さないでくれるか、星。確かに先の一戦では遅れを取ったが、奇策の掛け合いで奴らが一枚上手だったに過ぎない。私に一軍あればよい。向かい合った敵陣を一つずつ潰してやる。つまりだな、この関雲長が先頭に立てば、それを覆せるということだ!」

 なっ? と声をかければ張飛もピョンピョンと飛び跳ねながら気勢を上げる。

「鈴々もいるのだからなおさら負けないのだ! 一騎なんとか、なんとか不当なのだ!」

 やれやれ、と趙雲は肩をすくめる。

「一騎当千に万夫不当な。数字が苦手なのか? ……まぁ気持ちはわかるが、全てを読まれていると言われるとなあ。だいたいがだ、なぜこうも早く追いついて来られたかというと、やはり『書』とやらの力であろう。今この会話さえ見透かされているのかもしれんぞ?」

「田疇が全てを読めるからといって、別に地が裂けて割れるわけでもない」

「だが、雷雨は呼んだであろ?」

 楼班の言葉は劉備らが鮮卑の若者らから襲撃を受けたあの夜を指している。関羽も思い至り、ううん、と唸った。

 界橋では臥龍、鳳雛が二人がかりで仕掛けた策が破れた。それが何よりの証左である。ここに至る道中で鳳統も策を練ろうと試みた。しかしようやく持ち得たのは負け戦が前提となったその場しのぎの考えのみ。

 それでも希望が潰えていないことを示す者こそ君子である。劉備は震える膝を抑えつけながら言った。

「な、なんとかなるよ」

 ガチガチの笑顔を浮かべて、桃色の髪を揺らせながら笑う。 

 どんな絶望的な状況でも前を見ようとする。この娘の姿こそが希望というやつだ――耐えかねたように公孫賛が雄叫びを上げた。抜剣し地に突き刺しながら吠えた。

「ガチガチの桃香に言われちゃ仕方ない! なんとかなる、そう信じてここまで来た! 絶対勝つ! みんなで仲間を助け、北へ戻るぞ! 天下の行方は」

 不意に自分がとんでもないことを口走ろうとしていることに、公孫賛は気づいた。

 だが、自覚してなお――したからこそあえて――公孫賛は宣言した。

「天下の行方は、この一戦にあり! 袁紹を倒して、朱里を助けて、田疇を倒す!」

 鬨の声はやがて全軍に伝播し、天を衝くばかりになった。地が震えるほどの気合。劉備も公孫賛も、にわかに勝機を見出していた。

 興奮冷めやらぬまま諸将は配置につく。いずれにしろ初手については意見の合致を見ている。公孫賛軍の布陣はこれまでとは打って変わり単純明快、関羽隊、張飛隊を最前線に並べて配置した。両脇に趙雲の騎馬隊と烏桓の戦車隊を並べ、後衛の本陣に公孫賛と劉備を置いた。正面から押しに押しまくる、と宣言しているような布陣である。

 兵士の心意気に押されるように銅羅は打ち鳴らされた。

「さーて、暴れるのだぁあ!」

 

 ――張飛の雄叫びとともに前衛は突貫した。

 

 公孫賛軍は自軍が敗勢にあるということをすっかり忘れてしまったかのように、関羽、張飛を前面に押し出し正面から突っかかった。両将とも退く気配を一切見せない。将自身が最先鋒を譲らず、敵陣深く浸透していく。彼我ともに動揺を覚える程、退路がないかのように前に進み続ける。

 袁紹軍が関羽と張飛の後方を断つように包囲の陣形を取る。兵法においては包囲が完成する直前こそ隙が多いとみなされる。攻めるか、守るかの他にまずは包囲を完成させるか否か、という判断が加わるためである。三つ目の選択肢が存在すれば指揮に遅れが発生し、兵が動き出すにもわずかな間を要する。その間隙を突ききるのは幽州で最速を誇る趙子龍に他ならない。界橋の戦いで手勢の半数以上を失った趙雲、麾下兵の魂に捧げるためか、鬼哭の代わりの雄叫びを上げて敵兵を切り裂いていく。

「あっ、合図ー! 合図ー!」

 機を見た劉備が太鼓が打ち鳴らさせる。途端に張郃の長槍隊が突っ込んだ。

 隙間を押し入ろうとする袁紹軍の思惑を弾き飛ばすような動きだった。初撃を加えた後の長槍隊は四つに分かれ、自在に駆け回る遊軍となっている。これが心憎いほどに前線を支えた。

 袁紹軍がたまらず後退し始めると幽州勢はいよいよ図に乗った。烏桓の戦車隊が敵右翼を殲滅せんと部分包囲をしかける。投げ槍、騎射、そして轢殺。血の轍を大地に刻みつけながら突き進む戦車隊はまさに無敵に見えた。

 先頭を行く楼班も敵なしの心境だったろう。磐河の流れを飛沫と蹴散らしながら葦の原を踏み越えた。幽州軍の全員が行ける、と思ったその時だった。楼班の戦車が宙を舞った。

 

 ――まるで時が止まったかのように、楼班の華奢な体は無体に投げ出された。

 

 倒れ伏す馬、それに乗り上げるようにして両輪を備えた車が横転する。楼班の小さな体は抗いようもなく投げ出されると転がった馬体の下敷きになった。戦場に静けさが訪れる。戦車は堰き止められた水が岸に打ち上げられるように次々と砕けて飛んだ。張飛も関羽も、劉備でさえ呼吸を忘れた。公孫賛は手にしていた剣を取り落としていた。

 何が起きたかわからないまま、次の瞬間には趙雲の騎馬隊が四散した。朱に染まる白馬の群れ。一瞬足を止めたと思った時にはすでに騎馬隊は揉み潰されている。這いつくばるようにして白龍にまたがった趙雲が抜け出してくるのが見えるが、随伴は百騎も見えない。

 ハッと我に返った公孫賛は次の瞬間あらん限りの声で叫んでいた。

「きゅ、救援を向かわせろ! 星と楼班を助け出すんだ!」

 公孫賛は予備の投入をためらわなかった。快進撃を続けていたと思えた関羽と張飛も騎馬の援護を失い、半ば包囲され始めていた。のしかかってくる巨人に、背を反りながらも耐えるような苦しさで一歩ずつ後退してくる。何の端緒も予感もなく、戦況は嘘のような唐突さで覆されてしまっている。

 わけがわからないまま立ち尽くす公孫賛と劉備の隣で、鳳統は膝を折ってうめいた。

「あ、あっ……! そんな……」

「なにがあった雛里! 言え!」

「ふ、伏兵です」

「はぁ!?」

 ひどい剣幕で迫る公孫賛に、息をつまらせながら鳳統は繰り返した。

「葦の影に伏兵を忍ばせていたのです……騎馬と戦車の通り道を読んで……」

「は? そんな都合のいいことが」

 震える鳳統を離して公孫賛は目を凝らした。確かに伏兵だった。しかも数百程度でしかない……それがたった数箇所である!

「いつ、誰が、そこを通るか知っているからこそ、必要十分な弓兵だけをそこに配置し……合図に従い射たせた……ただ急所を一突き……あ、あ、あわ、あわわ……きっと、それだけのことだった、のです……」

「これが、これが『書』の力……」

 恐怖が全身を覆う気配がして、公孫賛はあえて自分を徹底的に鈍感にした。兵は死んだ、だがまだ自分は生きている! やることをやれ! うなだれている暇はないのだから。

 公孫賛は自らの愛馬に飛び乗ると前進を命じた。とにかく崩壊し始めた前線を支えなくてはならない。このままで囲い込まれてなぶり殺しにされるだけだ。見れば趙雲は残兵をまとめて烏桓の元へ駆け出している。楼班の姿は公孫賛からは見えない。今は趙雲の選択を信じるしかない。

 歩兵を救出し、本隊が烏桓兵、そして騎馬隊が一塊になり一穴を破ってそこから逃げ出す。それしか思い浮かぶ手はない。

「白蓮ちゃん! 待って!」

「今度はなんだ!?」

 鳳統をかかえて彼女の愛馬の小雲雀にまたがったまま、劉備は前方を指さした。左翼から悲鳴が上がっている。張飛の部隊がよれて引き千切られようとしていた。先程までは苦しみながらもこちらに後退してきていたというのに。

 公孫賛の目にも張飛を追い討つ旗が見えた。臙脂色の生地に黒々とした『張』の字が揺れる。

 元袁紹軍配下、そして今はこちらに寝返ったはずの男――張郃の旗。

「あいつ! クソ野郎!」

 この土壇場で元の主君に尻尾を振ることを決めたか、今であれば敵将の首級を挙げて手土産に戻れると思ったか! 公孫賛は思いつく限りの罵倒の言葉を吐き出した。

「白蓮ちゃん、鈴々ちゃんが!」

「わかってる!」

 既に本隊は救援に差し向けてしまっている。他に手はない、公孫賛は自ら右翼に馬首を巡らせて張飛の元へと駆けた。

 張郃の裏切りで紙一重持ちこたえていたかに見えた均衡が一挙に崩壊し始めた。戦線の中央を支えていた味方がごっそりと敵に回ったのだ。ここまで寸断された以上味方の連携は一切期待できない。烏桓兵に至ってはもう趙雲の判断に全てを委ねるしかない。

 しかし張郃の裏切りが考えれば考えるほどに納得いかなかった。確かに指揮する兵に間者がいる可能性があったために、軍議にもあまり参加させなかったが、それは冷遇とは異なることを本人も理解していたはず。

 田疇がなにか手を打ったのか。『書』は戦士の誇りさえ簡単にへし折ってしまうものなのか。

「伏兵! 左方に約三千!」

 伝令の報告に公孫賛は目を向けた。地から湧き上がったように敵勢が飛び出してきていた。麴義の旗。伏兵を忍ばせたのは袁紹軍随一の強弩兵の指揮官だったということだ。『書』の力によって兵が通る道をあらかじめ知っていたのなら、これほど容易い戦はなかっただろう。

 飛来する無数の矢を頭を低くして躱す。撃ち倒される味方を慮る余裕はかけらもない。張飛を救おうとして右方に転進していなければ麴義の奇襲を目前で受けることになっていただろう。命運がまだ尽きたわけではない、と思い直すことにした。

 合流した張飛は全身血まみれになりながらまだ蛇矛を振り回して吠えている。我を忘れたように血走った目で、怒気と覇気を撒き散らしていた。いわゆるブチ切れてしまっている、というやつである。一方、関羽はひどく冷たい表情で――内心はどうか知らないが――巧みに撤退しながらこちらと合流した。

 公孫賛は劉備と声をかけあい全軍を一塊にして駆け出した。袁紹軍が押し包むように迫ってくる。こちらの挙動を先読みしたかのように常に回り込んでくる。やはり動きが読まれている。兵力はみるみる削れていった。多大な犠牲を払い、公孫賛は趙雲らとの合流を果たした。

「……全身の骨を折っている。だいぶ血を吐いてもいる」

 趙雲の言葉は重く沈んでいた。戦車の荷台に載せられた楼班の胸元は吐血で真っ赤に染まっていた。

 馬体に押し潰され、臓腑をひどく傷めているのだ。小さい呼吸を細かく何度も繰り返しながら、楼班は懸命に魂を手放すまいとしている。公孫賛はその手を強く握った。

「必ず故郷に戻してやるからな! だから死ぬんじゃないぞ! 冬至にまた会うんだろ!」

 薄く開いた瞳の輝きが悲しいほどに淡い。しかし沈鬱にふける暇などほんの片時もない。喚声を上げて押し寄せてくる袁紹兵はもう間近だ。

 袁紹を倒すことも、田疇を討つことも、ましてや諸葛亮を救うという目標さえたったの一刻あまりで水泡に帰した。今や友軍全員の生命が危機に瀕している。だが公孫賛の心には悔しさや怒りよりも虚しさが上回っていた。

 そこに敵が来ることがわかっているから、兵を置いて矢を射らせる――そのようなものが作戦と言えるのか? 確かにたとえどのような英雄が率いていたとて容易く打ち崩すことができるだろう。だが戦とはそんなものなのか? このやり方で勝利を得たとて、人が自ら世を成したとどうして言えるのか!

 心のどこかで期待していた、全ての不利をひっくり返すような李岳の奇策が炸裂することもなかった。あの男は一体どこにいるのだろうか。まさか逃げたのか。それとも幽州軍全てを生贄にして何かを企んでいるとでもいうのだろうか。

「白蓮ちゃん……」

 劉備に声をかけられ、公孫賛は自分が泣いていることに気づいた。心が乱れている。力任せに顔を拭い、深呼吸して精神と思考を落ち着かせた。

「……ば、馬鹿だな私は。まだ負けてない。わかってる、大丈夫」

 まだ生きている。命ある限り戦うと決めたのだ。本当の意味で李岳を疑っているわけでもない。

 公孫賛は幽州の名主として何をすべきか、はっきりと理解していた。涙は心に先走って流れたものだった。

「今一番健在なのは、予備としていた本隊と白馬義従だな」

 誰も何も言わなかった。

 何もかける言葉がなかった。言葉を探しはした、しかし見当たるはずもなかった。

 幽州最強を自負した彼ら、彼女らはこれから死ぬ。公孫賛を逃がすための捨て石として、踏みにじられようとしている。何かを言うべきだとはわかっていたが、顔を見ると言葉は消し飛んでいた。

「また、会おう」

 それが精一杯だった。

 公孫賛は白馬の軍団に使命と義務を果たすよう命じた。雄叫びを上げて突撃していく背中を見送り、公孫賛は馬蹄を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 陳寿『袁紹伝』が引く『英雄記』にて曰く――強弩雷発し(あた)るところ必ず倒る、と。

 熟練した弩兵を率いる麴義の猛襲により三万の軍兵は見る影もなく壊滅。公孫賛が天下に誇った幽州無類の騎馬隊『白馬義従』も、彼女を残してことごとくが討ち取られた。本隊を犠牲に抜け出した残騎二千を率い、公孫賛は最後の望みを託さんと難攻不落の要塞――易京への帰還を目指す。

 後世の歴史家たちは、この『磐河の戦い』で冀州戦役のほとんどが決着したと判断する。

 だがしかし、人知れず流れた血があることを彼らは知らない。

 これより語られるは、描かれることも謳われることもない、誰も知ることのない死闘の顛末である。




俺も男だ、言い訳はしない。
スプラトゥーンが悪い。

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