真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百二十九話 冬

 刻一刻と吹く風は肌を刺すように尖り始めている。秋の中にいたはずが、もう冬が始まろうとしている。軍団は北を目指す。冬に向かおうとしているという方が正しいのかもしれない。

 磐河の戦いは完勝としか表現できないものだった。おびただしい人馬の屍で河は堰き止められ、水の流れは葦の原にあふれた。幽州の快進撃はこれで完全にその息の根を断たれたと言える。烏桓の主戦力も削いだ。河北の勢力図は一変するだろう。劉虞の国はとうとう中華の北半分全てを併呑することになる。

 そのことに対しての感慨はない。田疇を震わせたのは別のことだった。大勝利でさえ揺れ動かない田疇の心を、揺さぶることのできるたった一人の男。

 

 ――李岳に勝った。田疇を震わせるにはそれだけで十分だった。

 

 震えは止まらず、ついに田疇は膝をついた。

 喜びから一転、恐怖に怖気を催し田疇は肩を抱く。完勝とはいえ薄氷の勝利でもあった。苦しみ抜いた数ヶ月だった。無作法に伸びた髭も全く手を当てていない。田疇は痩せこけた頬を撫でながら李岳の痕跡を反芻した。

 劉備を使った謀略の阻止、不意を突く先制攻撃、南皮の陥落、青州黄巾軍の殲滅、曹操を誘導しての張貘の排除――思いつくだけでもこれだけのことをしでかした。おそらく徒手空拳で乗り込んで来たであろうこの地で我が物顔に力を振るった。事実、冀州は千々に切り裂かれて想定を大きく覆されてもいる。

 驚くべきことに、袁紹軍の後背には数千の騎馬隊があるという報告も届いた。魔の術を用いたかのように、李岳は再び伏兵を忍ばせていたのである。『書』が不可解にも後背に数万の予備を置いたのはこの伏兵を警戒してのものだったのだ。

 恐るべし李岳。それでも勝った。諸葛亮という鬼札と引き換えにして、である。虎の子の騎馬隊を喪失した公孫賛はすでに敗残、為す術はない。翻意した張郃も再び寝返っている。こうなれば伏兵にも為す術はなかろう。李岳の思惑は全て突き崩した。

 おそらくもう洛陽に戻ろうとしているはず。そして曹操との連携をもって再起を図ろうとするに違いない。田疇は己を戒めた。あの男が諦めることなどない。晒した首を見るまで勝利ではないのだ、と。

 震えはもう収まっていた。田疇は膝のほこりを払うと本陣の幕舎に戻った。

 彼の心境など思いもよらない諸将は叡智を湛えて拍手喝采。機嫌を損ねていたはずの袁紹も、自軍の勝利で自尊心が癒やされたのか笑みを浮かべていた。

 戦勝の茶を飲みながら待つうちに報告は次々と戻ってきた。損害は極めて軽微、比して公孫賛軍の被害は甚大である。歴史的大勝とはこのことと延べ、田疇は最大の功労者として麴義の名を挙げた。楼班率いる蛮夷の戦車隊を討滅し、趙雲さえあわや討ち取りかけた。名実ともに公孫賛の主力である白馬義従さえほぼ全滅させている。並々ならぬその武勲に袁紹自らが手を取りたたえた。麴義は顔を紅潮させ、満腔の歓喜に震えた。

 続いて届いたのは誰よりも耳目を集める者からの知らせであった。

「張郃殿より竹簡が届きましてございます」

「お読みなさい」

 袁紹は鼻を鳴らして命じた。

 

 ――公孫賛軍への投降は戦況悪化のためにやむなきことであり、本心は変わらず冀州にあり。偽りの臣従を終え、今まさに本来の主の元に馳せ参じんと公孫賛を後背より襲った次第なり。仔細ご説明したく参陣仕る儀なにとぞお許し願いたく。

 

 真偽を問う声で幕舎は一転大騒ぎとなった。都合の良い恥知らず者と(そし)る者あれば、張郃の忠心は武人の鑑であると称える者もいる。田疇は騒動の合間に目を盗むようにして胸元に潜ませていた『書』を開いた。

 記述に追記はない。張郃の裏切りは『書』の予測を超えたものではないということだ。田疇は一歩進み出ると『書』の記しの通りに言った。

「張郃殿にはその服従が真であるかを戦働きで示せと告げるべきでしょう。公孫賛軍を徹底的に追い討て、と。公孫賛の首級を以って初めて袁紹殿、劉虞様への忠誠を示せると伝えさせませ」

「説明を求めているけれど?」

「不要では? 一時の休息と補給を済ませた後、走れ、と」

 使い捨てよ、と言っているのと同義だった。田疇の進言は冷酷とも言えたが、忠誠を示すという張郃の意志を尊重したとも言える。仮に生きて戻れば許されるのだから寛容とも言える。

「それで田疇さん、張郃さんはどちらにどれほど走らせればいいの? つまりこれからはどうすれば?」

 諸葛亮の名前さえすでに出ない。軍の頭脳は田疇であると袁紹も認識している。

「すぐに北へと追撃をなされませ」

 袁紹は満足げに頷いた。公孫賛に二度と歯向かう気を起こさせないよう懲らしめてやるとでも考えているのだろうが、今やもうそれ以上のことを成す時である。

「北方の覇者を決定させる時が来ました。幽州併呑の兵を挙げられませ」

 にわかにどよめきが起きた。幽州併呑。概念としては考えたことはあったとしても、その言葉を明確に口にした者はいなかっただろう。田疇は大きく息を吸うと策を紡いだ。

「公孫賛を討ち取ることはすでに確定しております。まず討ち、そして呑む。それだけではありませぬ。これより并州とつながりを持ち続けている黒山を討ちます。奴らが幽州と連携をとっていることは明らかです。であれば座視する理由はございません。今ならば警戒もないはず。山など見事に焼いてご覧にいれましょう。冀州、幽州、并州、そして青州。全てを平らげ百万軍勢の総帥として号されよ、袁紹様」

 袁紹の喉がゴクリと動いたのが田疇からもよく見えた。そのつややかな唇から言葉が溢れ出ることを防いだのは、そばに控えていた腹心顔良。控えめに手を上げ田疇に意を問う。

「田疇様……幽州併呑とは威勢がいいのですが、それも容易いことではありません。難事を前に浮足立つようなことを申されては……」

「難事とは?」

 珍しくいらついたような仕草で、きれいに切り揃えた前髪を揺らして顔良は論駁する。

「要塞が……易京要塞がございます。公孫賛肝いりの城塞と聞き及んでおりまする。そこに入れば十年は戦えるとも……何か対策はおありなのですか」

「要塞はすでに陥落しております。何ほどのこともございません」

 疑問の声を片手で制し、田疇は続けた。

「以前より劉虞様より命じられ手の者を忍ばせておりました。公孫賛が幽州を出立して南下作戦を決行することが謀略の合図なのです。易京の砦はすでに我が軍門に降っている。公孫賛にはすでに拠って立つ地などないのです」

「証左なしにそのようなことをおっしゃられても……」

「虚偽であればこの素っ首刎ねられよ」

 諸葛亮が以前にそう言ったのと揃えるように同じことを言った。諸葛亮の首は刎ねられなかった。この言葉ににじむ自信の重さはすでに陣営に染み付いている。

「へ、兵力はいかがするというのです。幽州はよろしいとして、黒山も同時に討つだなんて」

「黄巾の者たちに武器を」

 黄巾の者たちは張角ら三姉妹に追従する者たちだ。劉虞即位後は静かに暮らしてはいたが、いつでも戦えるように訓練は続けられていた。三十六方軍団、その全てを糾合すれば兵力は二十万を超え、さらに膨れ上がる。無視するには巨大な戦力。甘美な野望をぶら下げられた袁紹にとっては垂涎の数字だ。

 わかっていたことだろうに、顔良は答えに窮してうつむいた。袁紹の手に及ばない武力集団があることは衆知のことである。それを用いなかったのはひとえに劉虞が武力面でも台頭することを防ぐためだった。劉虞、田疇からも言い出したことはない。

 いつのときも田疇は決断を袁紹自身に委ねていた。このときもまた然りである。

「よろしい。この袁本初の名において許可しますわ」

 

 ――この一言が欲しかった。

 

 ここから全てが変わりゆく。誰も気付いていないことだろうが、今この瞬間から変化の時だ。

 民を主体とした軍団! それも野盗ではなく、皇帝と大将軍から認められた軍勢である。袁紹本人は単に自分に追従する軍勢が増えた、という程度にしか考えていないだろうが、これは全ての事柄が転覆する変化である。

 田疇は初めから袁紹軍だけで勝ち続けるつもりはなかった。袁紹の力で天下を平らげては袁家の世が来るに過ぎない。劉から袁に旗印が変わったところで、それは真に望む黄天の世ではない。

 大事なことは民が望み、民が血を流し、戦い勝ち抜き、天下を手に入れてこそ意味があるのだ。黄巾の力があったから天下を治めることが出来たのだと、平定後の勢力を拮抗させて初めて民の世への足がかりができるのだ。

 黄巾軍は今この時をもって正式に袁紹の隣に立つ。天下を手に入れる戦いに名を挙げたことになる。袁紹自らが望んだ以上、簡単に手放すことはなくなる。そして気付いたときには失っては成り立たない程に影響力を浸透させているのだ。

 やがて名家名族ではなく、民の力でもって天下を平定したと認めざるを得なくなる。否定すればその時こそ袁紹は業火に焼かれ死ぬだろう――否定させるまでであるが。

 

 ――気付いた時にはもう遅い。世の全てに黄色い旗を振らせる。全土のあちこちから黄巾の名の下に民が立ち上がれば、正規軍の正面衝突とは別の理屈で勢力図が変わっていくのだから。

 

 田疇は耐え難い高揚を味わった。民が自らを決するときが来た。民の天下が始まろうとしている。劉虞と袁紹の旗の元に天下は治められたとしても、その栄華は長くは続かない。それに比べて民は不滅。永遠なのだ。民の世が一度始まりさせすれば、もう二度と天下を(わたくし)する者に牛耳られはすまい。

 儚く、幾度となく頓挫しかけた夢がようやくここまで来た。自らを阻み続けてきた李岳に対しても、ようやく勝った。李岳は公孫賛に賭けていたはずだ。公孫賛と共に北へ逃げているのであれば、易京の要塞で捕まえることができる。もう二度と立ち直る隙を与えてはならない。

「大将軍閣下、ご朋友の張貘様を失われてよりこちら、長きに渡る苦難をようよう耐えられました。その決意の甲斐もあり、冀州は守られ公孫賛の命も風前の灯火……さらに幽州を呑み、黒山を討ち、并州に手を伸ばし、そして満を持して曹操を討つのです。それこそが張貘様への慰めとなるに違いありません。張貘様は袁紹様が天下人となることを願っておいででした。ですから曹操を裏切り旗を変えたのです。その決意を無駄にしてはなりません」

 田疇は――らしくないという自覚を持ちつつ――感慨を乗せて声高に謳った。

「この中華を、その手で一つにまとめられませ。世に袁紹あり! その名を轟かせれば、きっと鬼哭のように亡き張貘様の耳にも届くでしょう」

 これはもう詩である。欺瞞の詩。偽りの調べ。しかし堂々と唄いきろう、誇りを胸に。万民のため! 母よ、教え子たちよ、私は今こそ千年の涙をせき止める堰堤を築くのだ。

 袁紹の喝采を承認とし、田疇の策は北に向けて放たれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜、冷気は身体の芯に沁みるほどだった。北風が良くないものを連れてくる、と母の教えを田疇は思い出した。それは単に風邪に気をつけろという程度のものなのであろうが、なぜか今でもよく覚えていた。

 田疇は懐に手を伸ばした。そこにはいつも肌身離さず持ち歩く『書』がある。良くないものはすでにある。これ以上に悪しきものなどないだろう。あるいは『書』が引き寄せているのだろうか? あながち間違いではないかもしれない、と田疇は自らが関わり朽ちていった男や女たちの顔を思い浮かべようとした。

 らしくないことを考えている。それを見抜かれたのか、眼前の少女が大きな声で聞き返してきた。

「ぼうっとして、なに、聞いてるの? いま説明した通りに動かして良いのね?」

 はっとして、張梁の問いに田疇は小さくうなずいた。夜半の(ほむら)の明かりを少女の眼鏡の輝きが照り返している。

「ええ、無論。劉虞様にはよしなに。ただちに黒山に向かって良いと『書』にもあります」

「首都の守りはいいのね?」

「『太平要術の書』に何も書かれてない以上、曹操らに打つ手はなしと見て良いでしょう」

「そう……」

「なにか?」

「別に? ただ嬉しそうだなって」

 不思議そうにこちらを見つめる少女の答えは、不意に田疇の心を刺した。

「嬉しそう、ですか」

「当たり前のことよね。ようやくここまで来たのだものね。民による天下泰平への道筋が見えてきたのだから、喜んで当然よね」

「ですが、あまり愉快そうにはおっしゃってくれないのですね」

「鬱々としているのが貴方らしいと思っていただけ。他意はないわ」

 身を翻して張梁は幕舎を辞した。その後姿を見送り、田疇は寝台に腰をおろした。

 気づけば齢は三十の半ばを超えていた。母、教え子らを失ったあの秋からもう幾歳月経ったろう。夢のため、汚泥をかき分けるように進んできた。流れる血を横目に、人の苦悩や弱みにつけ込んできた。それが田疇に許されたたった一つの剣だった。醜くおぞましいと思う。だが後悔は微塵もない。

 か弱きが学び、強欲を法にて律し、そしてなお弱き者の叫びを押し殺させぬ世がほしい。望んだ夢の輝きがあまりに美しいために、田疇はいつだって走ることが出来た。鉄塊で腸を切り裂くことと、人の耳に悪意をささやくことの優劣など誰が決められる? ――ああ、罵ればよい。卑劣漢として地獄で焼かれたい。振り向いた道程で、民が笑ってさえいれば……

 気付いた時には塩気が唇を濡らしていた。慌てて田疇は涙を拭った。戦勝からこちら感傷的になりすぎている。

 不意に人の気配が風に乗って届いた。喧騒が遠くでこだましているような気がするのは歩哨の交代だろうか? 田疇は寝台から腰を上げると近づく人影を待った。

 忘れ物ですか、と田疇は言おうとした。張梁が帰ってきたと思ったのだ。

 田疇は立ち止まると一歩、二歩と後ずさりした。そこには幽鬼がいた。顔から血を浴び炯々たる眼光は鬼火のよう。

 田疇は思う。これはきっと鬼神の類だろう。冬を引き連れ全てを凍えさせる鬼。

 名はおそらく、李岳という。




冬が来ました。

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