真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百三十話 夢を継ぐ者

 篝火が踊る。焔が揺れ動く度に二つの影は近づき離れた。

 冬の冷気と火の熱が渦巻く。しかしその二つは決して混ざり合うことなく夜の闇に消えていく。

 やがて炎と炎は身を焼くほどに近づいた。李岳と田疇。時代の影に燃えた二人の再びの邂逅は、小さな(とばり)に包まれひどく静かなものだった。

 李岳は大きく息を吐く。乾き始めた血の染みが、剥がれ落ちては塵となる。

 心臓が脈打っていることを李岳は胸に手を当てて確かめた。

 血は全身を満たしている。心の炎は燃えている。つまりまだ生きている――死に損ないながらも俺はここにたどり着いた!

「李岳……」

 田疇はよろめきながらその名前を口にしていた。夢かと疑っているのかもしれない。だとしたらお揃いの二人だ、と李岳は思った。李岳もまた夢のような曖昧な心持ちでいた。気が合うな、と軽口を叩きかけたが口に出すことはなかった。

 身を焼くほどの熱い何かと、心が凍みる程の冷たい何か。空虚と激情の汽水域で、李岳は言った。

「ここまでだ、田疇」

 頬のこけた男が、一層青ざめ李岳を凝視する。

「どうやって、ここに……」

「どうやって?」

 言葉がなかなか出てこなかった。喉の手前、胸と腹の間で言葉はしがみついたように出てこない。吐き出せない言葉は記憶に立ち返り、李岳を容易く過去にさらった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――時は界橋での敗戦にまで遡る。

 

 公孫賛に離別の言葉を述べた後、李岳は速やかに行動を開始した。

 自らの幕舎に戻り筆を取る。公孫賛が都合してくれた付き人には任に戻るように伝えた。最後まで李岳のことを徐原と呼んでいた少年であった。

 次いで向かった先は張郃の元。公孫賛に従い敗残兵を取りまとめて北へ駆け戻ろうとするところである。張郃率いる歩兵隊の被害は少なかったが、軍全体の損害を見れば危機であることに変わりはない。李岳の姿を認めると張郃は(いぶか)しげに眉を寄せた。

 張郃が何を言う前に、李岳は二巻の竹簡を与えた。

「時が来た。任を果たす時だ」

 李岳があごで指し示すに従い、張郃は一本目の竹簡を開いた。

 張郃は軍人だった。本物の軍人。真の軍人は主君を得た。軍人は主君からの命に言を挟むことはない。

 だがその張郃にとってさえ、指示の内容は理解の範疇を超えていた。

「これは……これを(それがし)にせよと……」

 張郃の額に汗が浮かぶ。二言を持たない武人にさえ動揺を与える無謀な指示がそこに書かれている。李岳は戦場で鍛え上げられたであろう二の腕を軽く叩きながら言った。

「張郃。一つ聞く」

「……はっ」

「金玉ついてるよな」

 しばらくの沈黙の後、張郃は爆笑した。ギョッとした兵が視線を向けてくる。

 ひとしきり笑ったあと、男は愉快そうに頷いた。

「ええ! どでかいのが付いておりますとも! 冀州一と自負しておりますぞ!」

「その証をみせてくれ」

「言われるまでもない! 信じると決めました。付いていく、とも。承知仕りました。殿、見事果たしてみせましょう」

「二巻目は最初の指示を全うしたその夜に見ること」

「間違いなく」

 話しているうちに張郃の動揺はほぐれていったようだ。額に浮かんだ汗も消え、目の輝きが一層強まっている。

「……ところで、殿ってなんだよ」

「本当の名をお呼びするわけにはいきますまい。それに仮の名とはいえ呼び捨てするというのも……臣従、と申しました。臣下の礼はわきまえたく思います」

「指揮官が雑兵の格好をしている無名の男を殿呼ばわりしている方が目立つだろう」

「さあて?」

「でも殿、ってのはやだな」

「いずれ名をお呼びする機会もありましょう」

「ああ。生きてまた会えたなら……その時は真名を交わそう」

 張郃の顔に覚悟と気合が漲り、みるみる紅潮していった。

『生きていれば真名を交わそう』

 この国で生きていて、その言葉の意味を取り違える者などいない。

 再び会うことはないかもしれない、今生の別れかもしれない、しかし生き延びたらその時は――万感を含んだ覚悟を伝える言葉である。

 李岳の作戦は疑わしい。だが戦う覚悟に疑念はない。

 張郃はひざまずき李岳に拱手した。自身に授けられた策の意味、そして李岳から漏れ出る悲痛なまでの覚悟が胸を打ちそうせざるを得なかった。齢、立志をいくつか過ぎたがここまで胸を震わせられることなどなかった。呂布が震える背中で祀水関を駆けていった気持ちが今ならば本当の意味で理解できた。

 敬意を捧げる張郃に背を向け、李岳は(かち)のまま武装を整えた。小雲雀は鳳統にゆだねている。歩兵のまま張郃隊に従うつもりだった。

 やがて遠目に大声を張り上げ槍を振り回す張郃の姿が見えた。歩兵隊は束の間押し合うように動き始めると徐々に歩幅を合わせて駆け出した。匈奴として生まれた李岳が歩兵として従軍することは初であるが健脚は自負している。足を引っ張ることはないだろう。

 問題は夜だった。いつ追手がやってくるかわからない恐怖は李岳から安眠を奪った。殿軍は劉備隊、烏桓兵が交互に担っていると兵たちの噂話が耳に届いたが気持ちは落ち着かない。敗走しているのだから当たり前でもあるが。

 それに加えて馬がいない不安ともどかしさは想像以上であった。匈奴の気風(きっぷ)が染みついているのか、と思うと少し愉快でもあった。

 数日の行軍を経た頃、軍全体が真っ直ぐ北ではなくやや西に折れていることに李岳は気付いた。他にも気付いた者はいるようで、休憩や夜の度に行き先の話題でもちきりとなった。

「もう一戦やらかすらしいぜ、坊主」

 ある日の昼休憩、二つか三つ年が上に見える男が李岳の肩を叩きながら意地悪そうに笑った。李岳は苦笑いして食事を済ませると場所を離れて空を見た。男のからかう声が追ってきたが耳から先には届かなかった。

(やるつもりだな……)

 公孫賛は真っ直ぐ北に逃げ帰るのではなく、さらに一撃を加えようとしている。

 頭に叩き込んでいる地図を思い浮かべる。場所はおそらく磐河だ。

「磐河の戦い、か……」

 

 ――史において公孫賛が袁紹に決定的に敗北した代表的な戦である。公孫賛はここで虎の子の騎馬隊を麴義率いる弩兵にほとんど全滅させられてしまう。

 

 田疇の持つ『太平要術の書』の性格を李岳はほぼ掴んでいた。『書』はなるべく自然にそうなるように策をこしらえようとする。超常的な力で人智を超えたりなどしない。可能な限り李岳が知る史実に沿うべく計略を練る傾向がある。

 この推測が正しいのであれば、田疇は磐河の戦いもまた史実にもとづいて袁紹軍の勝利に導こうとするだろう。諸葛亮と鳳統の合力をもっても抗えないことはすでに証明された今、公孫賛に打つ手はどれほど残されているだろうか。

 李岳ほどではないにしても、敗色濃厚だということは公孫賛はじめ陣営の誰もが知っているはず。ではなぜ戦うのか。李岳が手を打つと信じているからだ。李岳がなにかやるはずだと疑っていない。だから希望を掴むために歯を食いしばって手を伸ばそうとしている――李岳の思惑どおり。

 李岳は木の幹によりかかると膝を抱えた。胸に浮き出る黒いものを必死に抑え込もうとした。

 再びの駆け足を命じられるまで、李岳の誰にも知られない胸中の苦闘は続いた。

 

 ――やがて李岳の推測どおり、磐河の(ほとり)は開戦を景気付ける鬨の声で満たされた。

 

 その中『徐原』はただの一兵卒として張郃の指揮に服した。隊に揉まれていては戦況の把握は難しい。が、予想通り正面から殴り合う展開となった。奇策がないのであれば他に打つ手はない。猛将の余勢をかって兵を鼓舞させるのが正道とも言える。

 張郃隊は中軸で戦場全体を支えるように動いている。気を許せば脱落してしまう機動だ、李岳は半ば考えの全てを放棄してただ生き延びるために必死になっていた。

 張飛や関羽の勢いは傍目に見ても凄まじかった。両雄が力任せにこじ開けた敵陣を、楼班と趙雲が情け容赦なく切開していく。馬蹄の轟きが李岳の腹を叩いた。敵兵に与える響きはこの何倍にもなるだろう。猛然と突き進んでいく幽州兵の勢いに、周りの兵たちもにわかに浮足立つ程だった。李岳でさえ都合の良すぎる期待が脳裏によぎるほど。

 しかし間もなく崩れ出す。それを冷静に見定めようとする冷たい気持ちと、やめてくれと叫びたくなるようなむせ返るような苦痛がないまぜになり――果たしてその時はきた。

「烏桓が崩れたぞ!」

 怖気の鳥肌が両頬をぞろぞろと走る。李岳は弾けるように顔を上げた。李岳は全く見晴らしのよいところにいた。だから楼班の華奢な体が宙に投げ出されるのも、馬体の下敷きになりピクリとも動かなくなる様もはっきりと見えた。雨のような矢が飛び交っている。伏兵の弩兵に射られたのだ。

 駆け寄った烏桓兵が楼班を抱き起こすまでは見えたが、その後は群衆がさえぎりもうわからない。倒れ伏した友を助けに向かうことも気遣うことも李岳には出来ない。

「烏桓は総崩れだ!」

「趙雲隊も潰されたぞ!」

 ここは戦場、李岳には目を閉じることも耳を塞ぐことも許されない。そして涙を流すほどの破廉恥にはなれない、喉の奥が焼け爛れるような感覚に一度浅く胃の中の物を吐いた。酸い胃液が、李岳の正気をなんとか保つ。楼班も趙雲も生きていると、その生存を願うこと以外に出来ることは何もなかった。

 張郃が陣形を広く鶴翼に変え始めた。崩れた両翼をなんとしてでも支えようという動きである。公孫賛の放つ予備が来るまで耐えなくては、戦線の全てが崩壊しかねない。間接的に騎馬隊を助ける張郃の判断は流石だった。

 李岳もまた向かってくる白刃を(かわ)しながら槍を突き出す。肉を裂き血を浴びながら李岳はその時が近づいていることを知る。

「本隊だ、動き出したぞ! 白馬義従だ!」

 遠く離れていても分かる、揃い踏みんだ白亜の威容が目に眩しい。誰がなんと言おうと幽州にとって公孫賛は英雄である。白馬を従え味方の危難を救わんと駆けつける大将が、英雄でなくて何というのだろう。

 だが英雄がいるのであれば、それに立ちふさがる悪もいるはずだ。悪は手段を選ばない。悪とは目的の達成が価値の全てと割り切った者のことを指す。

 張郃の野太い声が響いた。

「これより、公孫賛を討つ!」

 

 ――疑念が立ち昇る前に張郃は再び激した。

 

「もう一度いう! これより我々は公孫賛を討つ! 動揺する者、解せぬ者もいるだろうが、今は何も考えずにこの張儁乂を信じて黙って付いてこい! 義を疑うな、俺を信じろ!」

 張郃が先頭に立って駆け始めるのと同時に、兵たちも狼狽から立ち直り走った。大将が裏切ればそれに従う他ないのが兵だ。従わなかったところで元の味方に斬られるしかない。旗色を鮮明にしなければ大将にも斬られる。従うほかないのである。その上で心から信じさせるのが将の度量である。

 張郃は背後から噛み付くように張飛の部隊に突っ込んだ。幽州兵が戸惑い、怯え、背中から突き倒されて死んでいく。

 李岳はそれが義務だとばかりに最前線で元の味方を斬った。ある者は罵り、ある者はわけもわからず、そして悔しさにまみれて死んでいった。敵に斬られて死ぬ覚悟は皆あっただろう。しかし味方に背中から斬られるとは! あるまじき背信である。武人の誇りさえ踏みにじらせ、李岳は張郃をけしかけたのだ。

 李岳もまた血に塗れながら、ただ一語をつぶやいた。それは張郃の檄の言葉であった。

 義を疑うな、泥をすすってでも進め。全てはただ一人の男のため。たった一人の男を斬るため。その先に真の勝利があると信じて。多くの友と仲間たちを助ける道であることを疑わない!

 李信達は敵を殺し、味方を殺し、自分を殺して血に舞った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――結果、幽州軍は磐河にてほぼ完全に壊滅した。戦線の維持は困難になり、結果として袁紹は北方の主人として君臨するだろう。残るは掃討戦である。公孫賛の首を獲るべく、雪崩を打つように北に追うはずだ。

 

 張郃軍は本陣に入ることを許され、張郃は袁紹に召し出された。公孫賛に寝返った理由、さらに再び舞い戻った理由の説明を求められているのだろう。無骨な武人として知られていた張郃である。さらには勲功も立てた。袁紹も聞く耳を持たずに処断することはないはずだ。敵に虚偽の寝返りを行い決定的な場面で離反する、埋伏の毒の計であったと張郃は弁明するだろう。

 武装解除さえ命じられていないのは今や三千に満たない張郃隊が単独で何かを目論むはずがない、と考えているからだ。公孫賛の本隊は既に散り散りに北に逃げているのだから、当たり前だった。

 袁紹の油断はつまり田疇の隙である。李岳はとうとうその懐まで飛び込むことが出来た。

(気配を感じるぞ……田疇)

 李岳は二振りを佩いたまま陣内を歩いた。驚くほどに警戒が少ない。立て続けの大勝利で軍規が緩んでいるとしか思えない。李岳は傷病兵の天幕を見つけると、袁紹軍の雑兵の武装を手に入れた。これで一層自由に歩けるはず。

 滞陣する際の陣幕の配置には軍略に則った基本がある。袁紹軍もそのあたりは手堅く押さえている。逆を言えば要人の幕舎もある程度推測が付く。思った通り、中心に向かうと戦場には似つかわしくないほど巨大で豪奢な天幕が見えてきた。袁紹の陣幕に間違いないだろう。

 田疇はどこか。運に任せて歩き回るのも方法の一つだったが李岳は愚か者になることをためらわなかった。

「あの……すみません、田疇様の幕舎はいずこでしょう?」

 五人にまで頼んでようやく当たりを引いた。

 李岳は導かれるがままだったが、やがて案内人はここまでだと言って去った。その理由はすぐに知れた。黄巾を被った男が立ちはだかると、見も知らぬ男を強く審問し始めた。

「この先に何用か? 述べよ」

 李岳は動揺し、膝を折ると平伏した。

「いえ、申し訳ありません。わたくしはただ申しつけられたまででして……」

「何をだ」

「馬元義様から、田疇様に言伝を……」

 男の目に強い動揺が見られた。李岳は怯えるように肩を寄せながら言った。

「必ずお伝えせよと仰せつかったので」

「なんとおっしゃられた」

「ここでは……」

 男はしばらく考えた後、付いて来いとあごをしゃくった。人影の少ない荷の寄せ場に二人でまぎれる。

「それで?」

「書き留めたものがここに」

 李岳はしゃがみながら震える手で懐に手を入れると、隠し持っていた匕首でまっすぐに突き上げた。喉の空洞を沿って刃は脳天に至った。男は声もなく死んだ。倒れる前に抱きとめ身ぐるみを剥ぐ。上手い具合に仕留めることが出来た。殺人の痕跡がなければ、暗殺後に生きて脱出できる可能性が格段に上がる。

 黄巾の者が護衛していることは想定の範囲だ。ここから先は騙せるなら騙し、無理となれば力押しである。殺すべくなら殺す。躊躇うことはない。

 黒ずくめの上着に黄巾を頭から被り、李岳は堂々と道を歩いた。とがめるものはいなかった。『書』に従っている田疇の配下なのだ、田疇の指示ありきで動く以外大した考えを持っているわけでもない。

 やがて当たりをつけ、李岳はその天幕に至った。護衛の歩哨が立っているのはここだけだ。既に夜、闇が降りている。焚かれた篝火がはっきりと敵の居所を教えていた。

 李岳は真っ直ぐ護衛に向かっていった。

「田疇様にお伝えすることがあって来た」

 言うや否や、護衛兵は抜剣の動作に入った。しくじったことを知る。符牒が決められており、李岳はそれを告げることができなかったのだ。血乾剣を抜く。後の先。突き出された刃を体を回転して躱す。そしてそのまま巻きつけるように剣を撃った。刃は首を削いでしまい、大量の出血を呼んだ。噴血を顔面から全身にまともに浴び、李岳は洛陽への生還が絶望的になったことを知る。

「……構うか」

 目元の血を拭い、李岳は天幕に押し入った。脇腹に鋭い痛みが走った。先程の突きを完全に(かわ)しきれてはいなかった。死にはしないだろう。そして、まだ戦える。

 あと一人、とつぶやいて李岳は天幕をくぐった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――そして時は今に戻る。

 

「どうやって、ここに……」

「どうやって?」

 長い物語が李岳の脳内を駆け巡った。雨の日の洛陽を単身出奔し、冀州に入り、鳳統と出会い、そして……

「全てを捨てた。仲間も、自分も」

 (したが)うと決めた気高ささえ。

 田疇は絵に描いたように顔を青ざめさせ、たじろいだ。

「仲間、ですと……では、張郃の裏切りは……」

「そう。貴様の持つ『太平要術の書』の考えではない」

「……」 

 青白さを通りこし、田疇の顔面は白味を帯び始める。

「どこで手にしたかわからないが、その『書』は目的を叶えるために字を紡ぐらしいね。であるなら己の利するところを除くことはないと思った。単純な話だ。張郃には本気で寝返ってもらった。与えた指示は一つ。心から袁紹に寝返れ、公孫賛を討て、と」

 田疇は絶句し、あとずさりする。李岳は心身の損耗が嘘のようになめらかに話し始めた。話せば話すほど言葉に怒りが乗り移る気がした。言葉の量だけ、自分の抱えている怒りが本物であることを確かめるとでも言うように。

「そうだ。田疇、私たちはお前のために戦ったんだ。界橋で勝てればよかった。しかし負けた。もうこの手しか思い浮かばなかったよ。公孫賛軍全てを囮にした。ただ一人お前を倒すために。味方を裏切り、何万人も死なせ、ただ、ただ一人……お前を……」

 まるで幽鬼に会ったかのように田疇は李岳を見る。それは正しい。己は幽鬼だ、未来から来た望まれぬ霊。鬼は自嘲した。怪物は怪物同士殺し合うが筋である。魔の書を抱えた貴様も鬼だ。だから今ここで全てを終わらせるため、殺し合うべきなのだ。

 鬼め、と――李岳は剣の柄に手をやった。化物を斬る! 李岳は田疇の顔を見た。

 

 ――田疇は蒼白な顔のまま、穏やかな表情を浮かべていた。まるでホッとしたような……憑き物が落ちたように。

 

 それは李岳が期待したものではない。狼狽し、慌てふためくべきだった。裏をかかれたのだ、取り乱すべきではないか?

 李岳の心は理不尽を糧に膨張した。そんな顔を見たくて来たわけではないというのに、なぜ貴様が救われている?

「なぜ、そんな顔をする」

「負け犬の顔です。私は負けた。ようやく貴方に勝ったと思ったのに……そうではなかったのか、と」

「貴様は人々を利用し……弄び! 己の目的のために殺し合わせた! 貴様は負けて当然だ!」

「そうですね、そうかもしれません」

 李岳は柄に手をあてた。脇腹の痛みのせいとは別に手が震えている。その李岳の仕草を、田疇は落ち着き払って見ている。

「利用し、殺し合う……弄んでいるという評価はいささか不満ですが、それも良いでしょう。ですがそれは誰でもやっているではありませんか。貴方とて例外ではない。いえ、己を弁護するつもりはないのです。ただし他の方々をかばうつもりもなく……何を申したいかと言えば、私は曹操殿や孫策殿、そして李岳殿と何ら変わりはないということです」

「一緒にするな!」

「そうですか? 皆誇りのため、出世のため、欲望のため、大義のため……あるいは娯楽に嫉妬。そして権力への渇望のために戦いを求めた。私がこれまで利用してきたのは、そういった者たちの野心に他なりません。私のこの魂に賭けて断言してもよろしい。私が働きかけずとも、あの者たちはいずれ互いに殺し合っていたに違いないのです」

「貴様……」

 しかしそのあとに言葉が出てこない。李岳には反論が出来なかった。田疇に対して李岳だけは反論が出来ない。

 そう、確かに歴史の通りに事が運んだに過ぎないことも多々あった。張純の反乱も、反董卓連合も、張貘の裏切りも全て史実に沿っている。放っておいた所で戦は頻発していたに違いない。田疇はそれを利用したに過ぎないとも言える。

「いかがでしたか、街は」

 まるで苦しむ李岳に助け舟を出すように田疇は言った。

「子が学び、政は合議とし、人の上下の区別なく生きていこうとする試みです」

 李岳は冀州に足を踏み入れてからこちら、田疇か試みたであろう様々な施策を思い出してきた。教育、医療、議論のための場……

「共に、歩けませぬか」

 命乞いのための嘆願には聞こえなかった。田疇は心から李岳を同志に迎えようとしている。

「貴方がここまで来た理由は痛いほどわかります。李岳殿、貴方には守るべきものがあった。私は意図せずそれを傷つけた。そして今も守るべき者のために戦うべくここまで来られた。それは素晴らしいことです。ですが、貴方に理想はありますか? 叶えるべき夢、理想がありますか? 太平の世を作らんとされていることはわかります。が、それは何年続くというのです?」

 義を疑うな……心で繰り返した。李岳は心を再び燃やした。

「貴様は匈奴を利用した……烏桓もだ! 理想郷とやらは漢族のためだけのものではないのか?」

「利用しました。殺し合わせようと。しかし利用したのは漢族の者たちも同じです。異民族に対する恨みは……」

 束の間、田疇は悶え苦しむように一瞬身をよじる。

 それは遠い過去の苦渋の味を彷彿する者の顔である。

「ないとは言いませぬ……が、もはや私自身のことなど小事。そしてそれは今の帝室を守らんとすることも同じ。束の間の平穏を超え、とこしえの安寧を目指すことこそ人の道ではありますまいか? そしてそのための方法はここにあるのです。想いがあり、方法を手に入れた。だから私は戦ったのです。未来の勝利のため、永遠の勝利のため! 李岳殿、誓って言いましょう。民は負けませぬ。そして貴方の帝国は、いずれ滅び無様に崩れ落ちるのです」

 田疇の言葉は熱を帯び、確かに李岳に届いていた。

 手段を問わず民のために戦う。漢室を打倒し、民のための世を作る。

 その思想自体を根本から否定することは、李岳には出来なかった。

 美しく、何より正しい。歴史を知っている李岳には投げかけられた言葉を否定など出来ない。

 人類の歴史の一面は、公平を求める人々の戦いの記録でもあるからだ。

「……美しい話だな。その正しさを俺は否定できないかもしれない」

「もっと早くにこうして話すべきだったのかもしれません」

「そうだな。残念だ」

「共に歩いてはくれないのですね」

「ああ」

「なぜ、と聞いても」

「……小さな子どもが」

 言葉が胸につまり中々出てこない。もがくように李岳は吐き出す。

「陰謀のせいで親が正気を失って……妹を助けようとして。そう……そうだ。小さな子どもなんだ……」

 田疇の朗々たる言葉に比べ何とまごついた話しぶりだろう。だが李岳は恥など覚えなかった。心という沼を手探りして、きれいな宝石を一つ一つ探し当てるように李岳はたどたどしくも、誇らしげに語った。

「小さな帝は、決して誰を傷つけたくてその位にいるわけでもない……王殿下も。それに皆、殺戮を好んで戦いに身を投じているわけでもない……そして一緒に戦ってくれる仲間たちがいて……俺は……そんな一人ひとりさえ守らずに、犠牲にして、叶えられる理想を……語り合うことを放棄して描く理想を、俺は美しいと思えない」

 紡がれる言の葉が後先(あとさき)になり、自身の想いが形作られていくのを感じる。

「救いたいという気持ちはわかる。だが、人は(あやま)つ」

 そう、そうなんだ――李岳は田疇にではなく自分に言い聞かせるように続ける。

「人は悩み、間違い……時に委ねてはならない者に全てを預けようとする。些細な違いを絶対的なものだとし、排斥し、殺すこともある。奪い、踏み躙ることもあるだろう。嘘に踊らされることもあるだろう」

「それを許せと? 奪われる人の気持ちはどうなるというのです。蹂躙され、親の首をさらされた子の気持ちはなんとするのです!」

「救いがあるなどと、そこまでおこがましいことは言えない。だから一歩ずつなんだ……」

 血塗れの顔、血塗れの手で李岳は美しいものを思い描く。これからも多くの犠牲を容認する怠惰な考えかもしれない。

「理想が実現することなどない。実現しないから理想なんだ。人に出来ることは唯一つ、理想を目指す歩みを止めないことだけ……そしてそれは多くの仲間を募り、一歩ずつ進んでいくことによってしか達成できない」

「皆で、一歩ずつ前に進む……」

「気高い夢だからこそ、そうあるべきじゃないのか?」

 前世を思う。幸福とは言えなかったから、世界を厭世なしに見れていたとは言えない。しかし思い返して見れば、世界は多くの人の取り組みの結晶だったのだと思う。

 より良きことを想い描き、仲間を募って取り組んだ……その当たり前の仕事が連綿と織り重ねられたものだったのだと。

 田疇の声に初めてゆらぎが見られた。敗北を察した時にさえ漏れ出なかったゆらぎである。

「そのような遅々たる取り組みで、一体何がなせると……根拠は。保証は? そのやり口でどうして人が平等な世に辿り着くと言えるのです! こんなにも無残な世相でどうして未来を信じることができるというのです! ……やはり貴方は天の御遣いなのだ。だから書から逃れ出ることが出来たのです。人の道をお認めにならないのだ……」

 田疇の動揺は尤もなことだった。李岳とて前世がなくばこんな想いは抱けなかったに違いない。

 李岳は思う。田疇の思想は卓越している。この時代においてここまで理想を明確な手法に落とし込み、描けた者がどれほどいるだろう。

 だからこそ田疇には知る権利があると言えた。

 この男にだけは言える。親にも言えない本当の自分の来歴を。

 禁忌を破ろうとする者、罪を犯す者に心臓は鼓動で真意を問う。苦しいまでの胸の高鳴り。

 李岳はとうとう人生で初めての告白を試みようとした。

「田疇、俺は」

 

 ――俺は未来の世からこの時代に生まれ直したのだ。

 

 そう口走る直前、李岳は己の弱さを許さなかった。それは大いなる侮辱である、となぜか悟った。

 全ての答えを知るから否定するなどと、事実だとしてもどれほどの無礼にあたるか……

「俺は……俺が、お前の夢を継ごう。民のために戦うと誓う。一人でも多くの人を救うために……俺は俺のやり方で」

 田疇はハッと顔を上げた。

「お前の考えは否定しない。人はみな学び、医療を授かり、そして平等であるべきだ……お前は焦りすぎた。時が足らなかった。早すぎたんだ」

「……何年かかるとお思いでしょう」

「――二千年」

 その言葉をどう受け取ったか、慰めか、嘲笑か……そう思われても仕方ないというのに、田疇は安堵したように微笑んだ。

「二千年ですか」

「それほどの時が必要なのだと思う。多くの人が自らの権利を認め、それを守るために議論し、子どもたちを学ばせ、脅かされることは減り……だから今からでも取り組もう。そしてそれを記して残していこう。それこそが、人を信じる道だろう」

「人を信じる道……人道、ですか」

 

 ――田疇は笑った。二十にも満たぬ、李岳と同じ年の瀬の頃の少年のように。二人は今ようやく屈託なく向かい合えた。宿敵としてしか始められなかった二人の関係は、末期を迎えてようやくただの二人に戻っていた。

 

 この男は救われたのだ。負けたことで救われた。敗北の先に、夢見た理想が花開く未来を垣間見たのである。

 何かを振り払うように李岳は言った。

「田疇、貴様はここで死なねばならない」

「当然です。皆、死なせました。張純殿、於夫羅様、劉岱様と劉遙様、張貘殿、張超殿。他にも無数。そして多くの民。破れた今、私だけのうのうと生きることは出来かねます」

 もし『書』を手に入れることがなければ、田疇は己の理想への絶望を心に抱いて山奥で静かに暮らそうとしただろう。夢は汚されることなく綺麗なまま、それが叶わぬと知る憂鬱な朝に、生涯かけて優しく寄り添い続けたはずだ。

 田疇は『書』という機会を得て、夢を血で汚してでも実現しようとした。本来願うことさえなかったであろう野望に火がついた。それに善悪の区別はない。ただ見てはいけない夢を見てしまったのだ――

 その夢は今や醒めようとし、世界もまた現実の史へと戻ろうとしている。李岳の刃と、田疇の死によって。

「言い残すことはあるか」

 田疇は言う。

「二つ。北に徐無山という地があり、そこに子どもたちを養っております。もうだいぶ戻れておりませんが……」

「罰することはしない」

「感謝を」

「もう一つは?」

「謝罪を。貴方に夢がないなどと言いましたが、そうではなかった。貴方と私は戦いましたが、二人は同じ夢を見ることが出来る。私は間違ったのですね……確かに、私は一代でそれを成し遂げたかった。それは歪なことだったのでしょう。だから貴方が現れた。私は絶望せず、多くの人と語り合うべきでした。やり直せるのであれば……そうですね、まずは匈奴の地に向かうべきだったのでしょう」

 似合わぬ冗談であった。李岳はちっとも笑うことが出来なかった。

 田疇は懐中より一冊の書を出すと、それを李岳に渡した。

 それが何なのか、あらためる必要はない。

「私は『書』に平等の世を願いました。そのために戦うと誓って……ですが『書』は貴方のことを記さず、私はここで負けようとしている。しかし思うのです。『書』は負けていないのでは?『書』は貴方を記さないことで、貴方を導いたのでは?」

「俺は、そう思いたくない」

「そうですな、そうかもしれません……ですが、そう思いたいのです」

 人は(あやま)つ。だから田疇も過ったのだろう。

 その過ちを李岳は正した。それだけのことだ、と思いたかった。

 田疇はやはり少年のような表情で言う。血色はいくらか戻り、もう蒼白ではない。

「諸葛亮殿は、黄巾の旗が一層多く立てられている天幕におられます。張梁殿が面倒を見ておられる」

「わかった」

「ここから生きて脱出するのは至難でしょうが……」

 田疇は困ったように微笑む。李岳はその笑みを見て、もっと困った気持ちになる。

 これから最後の仕事に取り掛からねばならないことを、二人ともよく知っていたからだった。

「李岳殿。私は負けました。負けるなら、最後まで負けたいのです……私とて男子です」

「それも、わかっている」

「ここしばらく剣を振っていました。貴方がいつ来るかと怖くて。練習していて良かった。せめて恥をかかずにすみそうだ」

 なぜか、田疇の顔をまともに見ることができなかった。田疇は歴史を変えようとしたのだ。それを自分が潰した。彼は未来を見ており、自分はこの過去を守ろうとした。お互いに戦う理由があった。そして自分が勝った。だから敗者を殺す。

 救いがたい愚かさの中で、自らの手を血で汚すことがせめてもの責務なのだろうと思い、李岳は柄を握った。天狼剣は、やはり意味もなく熱い。

 しがみつきたくなるような沈黙は、哀れになるほど容易く去った。

 田疇が抜刀し、頭上に振り上げたのが手に取るようにわかった。それは意外なほど素早い動作で、李岳は自らの死の気配を嗅いだ。李岳は抜かず、すり足で踏み込んだ。

 李岳は初めて前を見た。 吐息と吐息が混ざり合い、 交叉した視線が言葉にならない感情を取り交わす。田疇のこわばった顔。抜剣した。握りは左、逆手である。刃は天地逆転。鉄で魂が軋みをあげる。

 切っ先を地に向けたまま、右手甲で刃と反対の峰を押し滑らせた。斬った感触よりも先に、熱血が李岳の眼球を濡らした。切っ先は半円に曳光し、刃は肋間を透き通り田疇の心臓を傷つけた。

 至近距離での抜き撃ち合いにおける、必勝を疑わない撃剣抜刀の型。騙し討ちとも言うべき逆抜きからの不意打ち切り――秘剣、狐影返し。

 心臓からまともに噴き出た彼の血は、李岳を真っ赤に染めていた。この血は永遠にこの体にこびりつき、ずっと自分を見守り続けるだろうと思った。また一つ孤独になったこの己の残りの人生を、共に歩む染みである。

 仰向けに倒れ込んだ田疇はもう既に微動だにせず、血もすぐに溢れることはなくなった。ただ元より青白い顔だったために、血の気を失ってもさほど変わらず、まだ生きているように見える。そしてその表情は苦痛ではなく、きっと悔しさで歪んでいた。

 事切れた田疇の表情は強張り瞳さえ見開いたまま。そのまぶたを閉じようとして李岳は手を止めた。その開いたままの瞳で、これからの自分の戦いを最後まで見届けるがいいと思った。剣を納め、田疇に『書』を重ねると篝火を置いた。『書』はその見た目からは考えられないほど大きく燃え広がり始め、やがて田疇の全身を覆った。

 その書には田疇の夢が書かれていた。冥銭のようにそれを燃やすのだから、名付けるなら冥夢という儀式だろう。李岳は己の真名を呟き、それをもって弔いとした。

 長い夢を見よ、田疇。二千年後にまた会おう、と。




冬至の日に間に合わせることが出来ました。
ここまで長い戦いでした(作者的にも)
最後の李岳の心境はかなり悩みながら……納得いただけるか不安もあるのですが、私は田疇が好きです(嫌われるように書いてもいますが)
彼の戦いもここに終わりです。お疲れ様でした。
生き延びた李岳はまだ戦わなくてはなりません。少し休ませて上げたいところですが。

ラストの剣戟シーンは完全に黒澤明『椿三十郎』のラストシーンへのリスペクトです。未視聴の方はぜひ。

物語はまだ続きますが、一旦ここで感謝の言葉を述べたく思います。
ここまでお付き合い頂き、本当にありがとうございました。
これからもよろしくどうぞでございます。

末文を改訂しました(2019.4.24)

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