真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百三十二話 誇り高い捕虜

 夢を見ていた。

 失笑してしまうくらい突飛な夢で、飛び起きてお腹を抱えてしまいそうになるほどの荒唐無稽さだった。

 料理下手を周りにからかわれて真っ赤に照れる関羽、猪にまたがって辺りを駆け回る張飛、春画を覗き見ながら顔を真っ赤にしている鳳統、そしてドジでお人好しな――やがて王として戴かれる劉備。

 あり得たのかどうかすらわからない平和で牧歌的な光景だった。馬鹿馬鹿しい世界だ。しかし諸葛亮は夢の中で涙を流した。どうしようもないくらい懐かしい気がした。運命がイタズラを控えていればきっと叶っていたであろう他愛ない世界。いつまでも見ていたいと思うような温かい世界……

 やがて唐突に夢の続きは断たれた。突如響いた叫び声にハッと諸葛亮は目を覚ました。飛び込んできたのは、馬に頭をかじられる男の姿だった。

「いだだだだ! 痛い痛い! ごめんて! 悪かったって! 痛い!」

 目を覚まして間もないからか頭がうまく働かず、諸葛亮は身を守るように我が身をかき抱きながら後ずさりした。この男は何者? 自分はなぜここに? どうして馬に噛まれているのだろう? 劉備軍の皆はどこに?

 

 ――徐々に混濁が薄まり始めると、気を失う前の記憶が蘇ってきた。

 鳳統が殺されたと思わされ利用されたこと。南下してきた公孫賛軍への反撃を指揮したこと。しかし鳳統は生きており、界橋の戦いで逆転の機を得たこと。しかし目論見の全てを看破されてしまったこと。感情乏しく冷たい目をしたいつも残念そうにしている男、田疇――崩壊する公孫賛軍の姿を幻視し、絶望の果てに諸葛亮が卒倒する直前に見た最後の記憶である。

 

 それがなぜこうなったのか、目を覚ますと見知らぬ少年が馬に頭をかじられているのだから意味がわからない。

「……はわわ」

 男は諸葛亮が目覚めたことに気づくと、強引に馬を引き剥がしながらバツが悪そうに笑った。

「ああ、目を覚まされましたか……すみません大声出して。こいつは黒狐……放り出して勝手に出てきたことに対して猛省をうながされているところです」

「あ、あ、あの、あの……ま、まだ肩に噛みつかれていますけど」

「そうですね。おわかりにならないと思いますがよだれでベトベトです。多分この後ものすごく臭くなります。ひどい仕打ちだ……」

 それも含んで説教なんだろうな、と言いながらそれほど嫌ではなさそうに馬の首を叩く。

 やがて馬が飽きて離れていくのを待って少年は居住まいを正すと諸葛亮に向き合った。

「ここは磐河から西に抜けたところです。我々は袁紹軍から離脱しました。敵の追撃は闇夜に紛れて振り切っております」

 諸葛亮の言葉を待つことなく男は続けた。

「私は李岳。諸葛亮殿、貴方を田疇の元から奪還するため、雛里たちに代わって参りました」

 諸葛亮は深く息を吸い、吐いた。一つずつ確かめる。謎が立ち現れた時は事実を分解して個別に確かめる。沸き立つ感情に向かい合うのはその後で良い。

 

 ――この男は本当に李岳? だがなぜここにいる? 騙りだとして何か意味がある? 思いつかないということは本物? 袁紹軍から自分を攫って逃げ出すことなど可能なのだろうか? 周りに兵はいるが数千がいいところだろう。磐河の戦いは袁紹軍が圧勝したはず。また新たな田疇の策の可能性は皆無ではない。疑わしい。が、李岳と名乗った男は鳳統の真名を口にしている……雛里ちゃんの名前を!

 

 蓋をしたはずの感情が噴きこぼれるように顔を出し始める。諸葛亮は取り乱しそうになるのをすんでの所でこらえた。

「……みんなは、無事なんですか?」

「……わかりません。公孫賛軍は磐河で惨敗しました。幽州への帰還を目指しているはずですが、厳しい撤退戦になるでしょう」

 嘘は言ってないように見える。田疇の策という線は低いのだろうか? そもそも自分にそのような価値はすでにないだろう、と振り返って思う。

 男の言葉に(すが)りつきたい気持ちが膨れ上がった。しかし、とそれを遮るように理性が食い止めにかかる。何かを信じるということを利用されたのが田疇の元にいた自分なのだから……

 願望と警戒が綱引きをする。が、続いて現れた人物がその葛藤を終わらせた。

「ただいま」

 巨大な戟と肉の塊を担いで現れたのは呂布。一時期ではあれ劉備軍と行動をともにし、祀水関の戦いで李岳の元に去った呂布だった。

「恋さん……!?」

 諸葛亮の脳裏に在りし日の彼女と過ごした日々、そして祀水関で去って行った馬上の姿が思い浮かばれた。

「おひさし」

 よっ、と手を挙げる呂布。

 その他愛ない仕草が諸葛亮の疑問を一気に氷解させた。気心の知れた人の何気ない仕草一つで人は救われることがある。諸葛亮は心の暗雲が晴れていくことに気づく。呂布が肉を担いだまま、どっかと諸葛亮の隣に座って肩を抱いた。肉をさばいたばかりだからか獣の匂いがした。けど諸葛亮はちっとも嫌な気がしなかった。呂布の手からはとてつもない握力の予感があるというのに、限りなく優しく肩を抱いてくれていることが何の違和感もなく伝わってきたから。

「さーて、飯にするか。恋の成果を存分に使わせてもらおう」

「猪。大事な命をくれた。美味しくして」

「もちろん」

 諸葛亮の目から見ても李岳――ということをもはや認めざるを得ない――の料理の腕前は手慣れたものだった。いつも持ち歩いているのか、腰に結わえ付けた革袋から香草のようなものを取り出すと石ですりつぶし始める。どこからか持ち出したのか、鍋で猪の脂を溶かすとそこに香草を入れた途端一気に香りが広がった。

 猪は血抜きはもちろん皮も剥がれ解体も済んでおり、すでに枝肉の状態だった。李岳はそれをさらに細かく切ると塩で下味をつけて鍋に放り込む。

 香草のせいなのか、異様な匂いのする料理だった。煮物なのだろうか? 黄色い。鬱金を溶かしたような色である。昔読んだ書の一説に、遠く西の月氏国にそのような料理があるという記述を思い出した。

 しばらく他愛のない会話を繰り広げながら鍋が煮えるのを待った。といっても話すのはほとんど李岳で、呂布への問いかけだった。洛陽のみんなは元気にしているか、長安戦線はどうなっているか……呂布の返事は言葉少なかったが明確だった。

「みんな元気」

 李岳は嬉しそうに頷くだけ。諸葛亮は不思議な気持ちになった。

 そして煮えたといって鍋を分け始めた。黄色く、独特な匂いが鼻をついた。本当に食べ物? 呂布がまずかぶりついた。続いて李岳。ややためらって諸葛亮が匙を運ぶ。

 これまで口にしたことのない味だった。不味くはない。毒でもないだろう。しかし好きな味でもない。だというのに温かい。こうして誰かと食事をすることなどいつ以来だろう……

「必ず、みんなのところにお連れします」

 李岳の言葉に頷きながらもう一口諸葛亮は鍋を口にした。お味はいかがですか、と問う李岳に諸葛亮は首を振った。やっぱり好きな味じゃない。甘いのが好き。はらはらと涙を流しながら、諸葛亮はゆっくりと最後まで平らげた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 寝息を立て始めた諸葛亮を、呂布が抱きかかえて天幕に連れて行く。年端もいかない子どもだ。ここに鳳統か徐庶がいれば、と李岳は思わずにはいられなかった。自分では上手に慰めの一つもかけられない、友がいればどれほど変わるだろう。

 李岳が一人になるのを見計らったように司馬懿と張郃がやってきた。

 子供の相手は苦手だ、兵と共にいる――そういって中座していた張郃と、今後のことをゆっくり考えたいと遠慮した司馬懿。二人とも諸葛亮にあらぬ警戒を抱かせないためにそうしたのだろうと李岳には思えた。

 四人で焚き火を囲んだ。変わった味ですなぁ、と張郃は頓着なく鍋の残りを食べ始めたが、司馬懿は結構ですと口にしない。

 

 ――李岳はそのまま二人に洛陽出奔後の話をつまびらかにした。

 

 『太平要術の書』という超常の物とそれを利用した田疇の野望。李岳だけがその(くびき)から逃れ出ており、ただ一人立ち向かうことが勝利の条件だったこと。異様な話ではある。だが疑義を挟む者はいなかった。李岳の説明は田疇の暗躍と世の動静の異常さを矛盾なく語ることができたからである。だがなぜ李岳だけ、という戸惑いはあるだろう。自分にもわからない、とその点については濁すしかなかった。

 やがて田疇を斬ったことまで李岳が話し終えると、重い沈黙がのしかかった。パチリと弾ける薪の音がする。夜の風。司馬懿が口を開かなければただ火を眺めて夜明けを迎えていたかもしれない。

「今の話は……ある程度のところで留め置いた方がいいかもしれません」

「気が触れたと思われるかな?」

 李岳の軽口に司馬懿は首を振る。

「田疇の思惑はどうあれ、摩訶不思議なものが今の漢朝を否定する策を示した……その事実が漏れれば民は動じます。天下平定の大業に利することはないでしょう」

「そうだな……真実は闇から闇へ。史書には語ることのできるもののみを残すべき、か」

「ご不快ですか」

「いや、でもきっと他の誰かにとっては不快だろうな」

 薪が弾ける。立ち上った火の粉が李岳の顔の陰影を際立たせる。司馬懿は李岳の顔から目を離さなかった。

「そういえば洛陽では俺の所在はどうなっている?」

「非公表です。陛下にもお伝えしておりません。月様が秘められると決められました」

 帝は気丈だが弱い。この情勢で自分から人が離れていくことには耐えられまい。ましてや李岳である。董卓も重く考え慮ったのだろう。

「露呈してはいないんだな?」

「近頃顔を見せないという話はあったようですが上手くかわしたと。またぞろ悪巧みをしているのであろう、とおっしゃっていたようです」

「普段の行いが良かったな、得した気分だ」

 今日の李岳は下手な冗談ばかり口にしている。それが司馬懿には不愉快だった。

「本当はおわかりのはずなのにおやめください。皆どれほど心配していたか」

「……迷惑をかけたよな」

「迷惑ではなく、そこは心配かと……」

「そうだな、本当そうだ。すまない、如月」

「私などは……ただし張燕殿と会う時はそれなりの覚悟が必要かと」

 ああ、と李岳は空を見上げた。放任主義の母と違い、何かとお節介なのがまるで叔母のような張燕だ。諜報集団永家を率いている以上、李岳の足取りを失ったのは自分のせいだと責めているに違いない。

「……言葉が過ぎました。私はただご無事で良かったと……お伝えしたいのはそれだけで……」

 その時、張郃が無作法な音を立てて鍋の最後を平らげた。カラン、と鍋を放る。司馬懿が小言をいい始めるに前に張郃は膝をついて剣を抜いていた。

「さて、珍しい鍋を頂き腹も膨れました。殿、そろそろ約定を果たしたく」

 李岳も居住まいを正した。司馬懿は席を譲るように後退りした。李岳が捧げられた剣を受け取ると、張郃は拱手し豪胆な武将らしく太い声で名乗りを上げた。

「姓は張、名は郃。字は儁乂。我が真名を受けられよ――吉鷹、とお呼び下さい」

 噛みしめるように、李岳は大いに頷いた。

「姓は李、名は岳。字は信達。真名は冬至。瑞兆を見抜く鷹に選ばれた。これ以上の喜びはない」

「天命に従い存分にこの俺を飛ばされよ。どのような獲物とて断ち斬り奉らん」

「目一杯期待させてもらう」

 李岳が預かった剣を返すと、小気味よい音を立てて張郃は納刀した。破顔する。主君を得た男の顔であった。気が充溢しているのが分かる。疑われず、疑うこともなく、全身全霊で戦う場を張郃はとうとう得たのであった。

「さて、まず第一に(それがし)に与えられる任とはなんでしょうか。北に南に、いずこでも参らん」

「手勢を率いて洛陽まで帰還せよ。可能な限り兵を損じることなく」

「必ずや。しかし先導が必要ですな。袁紹軍に寝返っているのです、もはや誰にとっても美味しい首でしてな」

 ちょんちょん、と首に手刀を当てて張郃は冗談のように言う。事実として冀州からの脱出は至難である。せっかく再度の旗替えを受け入れてやったというのに、張郃はその夜に再び寝返りあまつさえ功労ある麴義を斬っている。袁紹は目の色を変えて追うはずだ。

「問題ない。如月が付く。二人で洛陽まで戻ってくれ。俺は諸葛亮殿と恋と一緒に北へ向かう」

 張郃は音も立てずにそろりと隣をうかがった。司馬懿はうつむいており表情は見えない。李岳は限りなく平静に見えたがそう装っているだけのようにも見える。

 熟考には十分な間をおいて、司馬懿が口を開いた。

「ここに単身来られたご事情も、その苦労も全て理解しているつもりです。田疇を斬るという目的も達した……今は一刻も早く皆の元に戻り安心させてください」

「だめだ。俺は幽州へ向かう」

 司馬懿が目を細めた――せっかく言葉を選んだというのに、とでもいうような顔つきである。張郃は先程司馬懿がそうしたように席を譲った。司馬懿の目にはわがままは許さない、という強い意志がこもっているように見える。

「ご自分の身をなんだと? これ以上まだ何をされると言うのです」

「白蓮殿……公孫賛殿を助ける。このままでは彼女は死ぬ。それは絶対に防ぐ」

「御冗談を。冬至様の担っている重責は、公孫賛の命とは比べものにならないものなのです」

「彼女がいなければ!」

 思わず声を強めてしまった李岳。表情を揺らしもしない冷静なままの司馬懿に、逆に動揺を自覚させられて一つ深呼吸をした。

「――白蓮殿がいなければ、俺は乱世に関わることもなかったし、於夫羅を討って匈奴を救うこともできなかった。そして田疇を斬ることも不可能だった」

「承知しております.しかしそれでもない諫言をお許し下さい。これから北に向かい公孫賛殿を救う。簡単におっしゃいますが、それがどれほどの困難かおわかりですか? ここは貴方の支配地域ではないのです。兵糧はなく、兵站も期待できず、拠って立つ地もなく、周りは敵ばかりで洛陽からどんどん遠ざかろうとしているのですよ。しかも袁紹は大兵を催し、幽州を呑み、さらに黒山まで落とそうとしている。その巨大なうねりの中で一体何ができるというのです」

「できる限りのこと全て」

 司馬懿は弾けるように立ち上がると、李岳に背を向けた。その後姿は怒気が洋々としているかのごとく。

「ご意志は固いようですね。わかりました。それではそのようになさいませ」

「如月」

 李岳の制止も聞かずに司馬懿は歩き出した。李岳の目配せがあったわけではないが、自分の出番だろうと張郃は立ち上がりあとを追うと、いくらも行かない先で司馬懿は肩を震わせていた。

「まぁなんだ、司馬懿殿を信頼されてるから殿も我らを導くよう指示したわけで」

「そんなことはわかっているのです!」

 李岳ではない自分が来たことにも怒っているのだろうな、と張郃は察した。そしてそんなことに怒っていることにも怒っている。難しい女だ、と思った。賢すぎる。そして思ったよりも情が深い。

 司馬懿はまるで自分に言い聞かせるようにまくしたてた。

「……本当に公孫賛軍を救うのであれば、最速の騎馬隊だけで追うことが理に適っている。兵站の問題もあります。兵をわけることで袁紹軍の追撃を翻弄することにもつながるはずです。わかっているのです! そんなことは、全部わかっているのです……だというのに……」

 張郃は明後日の方向を向いた。本当なら聞くべきですらないのかもしれない。だがここで張郃が耳を閉ざしてしまえば、司馬懿は独白であるがゆえに己自身のさらに深い感情に向き合わなくてはならなくなる。それはきっと残酷なことであった。

「全部わかっていて……私は……私を選んでほしかった……」

「難しいですなぁ、男と女ってのぁ……」

 張郃は困ったように司馬懿から背を向けた。誰かが見ていると泣くことも満足にはできないだろう、さりとて一人にするには危なっかしい。ガリガリと頭をかきながら、張郃は一人火の前で背中を丸めている李岳に目をやった。主君と決めた男もまた、強がりの下手な男であった。

 張郃はまだしばらく、甲斐もなく突っ立っていることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――二十日後。

 

 公孫賛軍の撤退は泥の中を這い進むようなものであった。

 袁紹軍の追撃は凄まじく、是が非でも公孫賛の首を挙げる気であることは明白だった。南下してきた道をそのまま折り返して北へと戻るが、道程は筆舌に尽くしがたいものがあった。

 最低限の兵力を配備していた数箇所の守備隊を吸収し、軍全体ではなんとか五千まで回復していたが、負傷兵も多く抱えた敗残兵が逃げ切るのは至難と言える。先行きは決して明るくなかった。鳳統の退路選択と欺瞞工作がなければすでに取り囲まれていただろう。

 それでも何とか高揚を越え、目指す易京城まで迫っていた。程緒から遣わされた使者も公孫賛の無事を祝い帰参を心待ちにしている、という竹簡を携えて来た。ようやく安堵の見込みが立ってきたのだ。急げば明日にでも城の中でゆっくりと疲れを癒やすことができるだろう。

 翌朝、進発した公孫賛軍は何ら抵抗に遭うことなく冀州を脱した。頻繁に駆け戻ってくる斥候も、袁紹軍接近の知らせを持ってはこない。全軍に逃げ延びたのだ、という弛緩した空気が流れたが、公孫賛はそれを戒める気にはならなかった。それほどまでに厳しい撤退戦であったのだから。

 最後尾の殿軍を買って出ている劉備軍が問題ないと判断し、先頭の公孫賛のところまで合流してきた。いつも明るく振る舞う劉備の表情にも疲労が色濃く見えている。関羽、張飛、鳳統にも疲れが見えた。

 肉体の疲労以上に心配がそうさせるのだろう。

「大丈夫、きっと朱里は無事だ」

「……そうだよね! 李岳さんは、やってのけたもんね」

 劉備がやつれた表情のまま笑った。

 

 ――幽州への撤退路でたった一つ朗報があったとすれば、それは斥候が持ち帰ってきた田疇死す、の知らせであった。磐河の戦いのまさにその夜、袁紹軍に寝返ったはずの張郃が再度袁紹に刃を向けたのだ。その中で麴義、田疇の二人を斬っている。張郃は混乱の最中に見事逃げ切った。

 

 思えば戦の最中、張郃の裏切りがなければ公孫賛は麴義の待ち伏せを正面から受け、そこで死んでいたかもしれない。張郃の寝返りは李岳の策だったのだ。田疇と書の読みの上を行くために公孫賛軍を差し出した。そして中から斬ったのだ。

 悔しいとか、悲しいとかいう気持ちにはならなかった。もちろん痛快というわけでもない。ただ、やったんだな、という熱い気持ちになっていた。その知らせを聞いたのは寒風を増す夜のことだったが、公孫賛はすでに明々と煌めく天狼星を見上げながら拳を突き上げていた。

 張郃の再度の離反があったからこそ袁紹軍は混乱に落ち、追撃が数日遅れたとも言える。公孫賛が生きて幽州に戻らんとしているのは、返す返すも諦めずに田疇にあらがった李岳の天命の加護によるものだと思える。

「易京城だ!」

 先頭の兵が声を上げた。公孫賛の全身にドッと疲れが溢れてきた。安堵がおさえていた疲労を解き放ってしまったかのようだった。

「まぁもう少し待たれよ。程緒殿からの叱責が二割増しになってしまいますぞ?」

「……うん、それは困る。絶対無理」

 隣で趙雲が冗談を言ってくれなければへたりこんでいたかもしれない。公孫賛は最後の意地を見せるように、趙雲と馬を並べて先頭に出た。劉備には悪いが待つことはできず、公孫賛は急ぎ駆けて易京に先乗りした。

 懐かしの易京城。あの時は数万を揃えていた軍勢も今は五千。大敗を喫した幽州の主を、民はなんと言うだろう。しかしただの負け戦ではなかった。この世の理を覆そうとする、大いなる敵に抗い打ち勝ったのだ。誰一人無駄死にではなかった、それを李岳は証明してくれたのだ――自分が誇らなくてどうする! 再起は今このときより始まるのだ。

 公孫賛が前に出ると防壁を万と揃えた易京城はその門を――微動だにさせることなく沈黙を守った。

「幽州牧、公孫賛の帰参だ! 門を開けてくれ!」

 公孫賛の呼びかけにも城は応じない。兵も誰一人として現れない。

 使者はすでに送っている。何か手違いでもあったのだろうか――公孫賛の楽観とは別に、早くも警戒心を全開にして趙雲が槍を構えて前に出た。

 永遠にも思える沈黙のあと、やっと兵の一団が現れた。喜びへの期待があまりに大きかったため、それが裏切られた時の落胆は凄まじく、公孫賛は肝が凍りついてしまったのかと思った。

 後ろ手に縛られた程緒が胸を張って進み出てきた。周りには槍を突き出している兵が十人からいる。

 説明など不要である。易京城は――すでに敵の手に落ちていた。

 程緒は朗々と説いた。

「この城はすでに袁紹の手に陥落しており、公孫賛は速やかに降伏せよ、とのことです」

 遠目から見てもわかる。ひどい責めを受けたのだろう、血の滲んだ服に顔も痣だらけである。しかし言葉の意味とは裏腹に、程緒の声は冬を迎え始めた幽州の空に、澄み渡るように響いた。

 老人の心意気に応えるように、公孫賛もまた声を張って答えた。

「誰かが、裏切ったのか」

「閻柔です。元々田疇という者の配下とか」

 閻柔! お前は私が絶対に殺す――公孫賛の脳裏にはすでに八つ裂きになった裏切り者の姿が思い浮かんだ。しかし即座にその怒りを抑え込む。いまこの瞬間は永遠よりも大事にしなくてはならない。あの厳しくて意地悪く、部下のくせに主君への手心を知らず、だというのに尊敬に値する人生の先輩との時間を、薄汚い裏切り者への感情で失いたくはなかった。

「程緒……私は、私はお前にたくさん世話になった。お前がいなかったら、なんにもできなかったと思う」

「まるで今は何かできるかのような口ぶりですな」

「そうだった、なんにも出来ない……牧って言ったって、負けて帰ってきた……」

「精進されよ、その後にしか結果はついて来ないのです」

 最後まで厳しい。笑ってしまうほど、程緒は程緒だった。

 次の瞬間、程緒を拘束している兵が後頭部に一撃を加えた。殺す気ではないが加減もない。指示通りに動かなかった者への制裁だった。倒れてしまうのをこらえながら、血を流して程緒は声を上げた。

「要求をお伝えします。今すぐ降伏し、幽州全域を劉虞、袁紹に譲渡なさいませ」

 公孫賛は叫びだしたくなるのを全身に力を入れて耐えた。

「断れば?」

「さもなければ私が死にまする」

「面白い冗談だな?」

「ええ、とびきり愉快でございます。冀州殿はさすが洛陽育ち、中々の洒脱さです。こんな要求が通ると思っているのですから、もはや滑稽でしょう」

「山奥までわざわざ伝えにくるだけはある」

「茶目っ気がありまする」

 程緒がらしくない笑い声を上げるものだから、不意にこみ上げ、公孫賛は歯で頬の肉を噛んで耐えた。にっ、と無理やり笑みを浮かべた。立派な姿を見せなければ! 最高の公孫賛の姿を見せなければならない。

「要求は以上?」

「左様でございます」

「なら、さよならの挨拶をしなければ」

 そして笑わなければ。公孫賛は自分に命じた。だが顔は上手に動いてくれない。

 苦しみもがく公孫賛に手本を見せるかのように、程緒はやつれたしわくちゃの顔を満面の笑顔に変え、言った。

「おさらばでございます。姫様と共に歩けて幸せでございました。これからも良い仕事をなさいますように。お健やかで」

 次の瞬間、後ろに控えていた兵士が槍を振り上げ真っ直ぐ程緒の体を貫いた。城壁の上、公孫賛の目には老人の口から鮮やかな血が吹き出すのが全くよく見えた。崩れ落ちた程緒の体はピクリともしない。二度と小言を言うこともないだろう。

 公孫賛は、自ら口の肉を食いちぎったがために、口内にあふれた血を吐き出しながら命令した。

「総攻撃だ、程緒の仇を討つ……!」

 抜剣して涙声で公孫賛は叫んだ。それを隣で趙雲が怒鳴りつける。

「敵は攻めさせようとしているのだ、それがわからないわけではあるまい!?」

「うるさい、知るか! あいつを、程緒を放って逃げることなんて出来ない! あんなにされて……! ちゃ、ちゃんと弔って上げなきゃ……きっと奴らは冷たい石の上に寝かせるんだ!」

「しかし、ここは撤退しかないのだ! 身動きの取れぬ楼班殿もいるのだぞ!」

「ぐっ……くぅっ! 程緒とは、ま、真名さえ交わさなかった……あんなに、大切にしてくれたのに……」

「だから、生きねば!」

 怒りと悲しみでがんじがらめになった公孫賛。その体を引き剥がすように趙雲が引っ張りながら撤退を叫ぶ。後ろからやってきた劉備軍が頬を引っ叩かれたように反転していく。易京城の門が開き、公孫賛の首を狙って兵が飛び出してきた。趙雲が手勢を引き連れ反転し、公孫賛の怒りを肩代わりするように片っ端から首を刎ね飛ばす。

 公孫賛は喉が枯れるまで泣きはらし、行先さえわからぬままただ走ることしか出来なかった。




さようなら、程緒。

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