真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百三十五話 敗れざる者たち(前編)

 北平を離れた公孫賛と趙雲。

 二人に残された選択肢は限られていた。西か東。わずかな迷いを残して、公孫賛が選んだのは西だった。

「東に行けばうちの一族を頼って、楽浪あたりまで逃げることになるだろうけど……そうなったらもう袁紹の思う壺だ。連絡を寸断されて孤立して、やがて滅びる」

「そこで西、か」

「西に逃げきれば洛陽にいずれ辿り着く。そうなれば幽州奪還の道も見える。なんせ幽州牧は天子からの拝命なんだ、旗頭には十分だろう?」

 だがその道がより険しいものであること、自明であった。しかし趙雲はよし、と頷き異論を挟まなかった。自分が決める立場であっても、同じ決断をしたであろう。

 二人の愛馬は快速を発揮し、北平からまっすぐ幽州を西進して并州を目指した。追随は難しいように思える。飢えは苦しかったがなけなしの援助をしてくれる村もあった。公孫賛が泣きながら一杯の飯をかきこむ様をみて、趙雲は存分に笑った。

 しかし二日も過ぎた頃、事態は明確に変わった。袁紹軍は既に西に展開していた。公孫賛たちの動きは読まれていたのか――趙雲は息を飲む。地に広がり進む人の群れ……ただ一人の首を求めて歩く幽鬼の如き軍勢である。

「星……私の覚悟は済んでるからな」

 その一言がなによりの勇気となった。

「よし……やつらに目にもの見せてやるか」

「ああ、度肝を抜いてやってくれ」

「任せろ。袁紹に付き従う者たちの一握りの肝など片端から引き抜いてくれる。この趙子龍の肝はやつら百万人分もあるからな!」

 趙雲は愛馬である白龍の腹を腿でしめつけた。その合図に白龍は喜び勇み、一瞬棹立ちになると敵の渦の中に飛び込んでいった。二頭の白馬が黄色い軍勢の中をかき分けていく。光の筋が穂原を駆け抜けていくような光景だった。

 はじめ袁紹軍の誰もその二騎が趙雲と公孫賛だとは気づかなかったようだ。急ぎ駆ける伝令兵のようにしか思わなかったに違いない――敵の中をこれほど堂々と進むとは! 気づいたときには慌てて号令が叫ばれ銅鑼が打ち鳴らされていた。矢が飛ぶ、剣が飛来する。趙雲はその全てを叩き落としては首を飛ばした。

 やがて十人あまりの兵が全力で立ちふさがってきた。趙雲はもう考えすらしなかった。体はそこに存在する人体を最も効率よく殺傷するために滑らかに機動した。血煙を上げて昏倒する死体には目もくれず、趙雲は血道を突き進む。

「白蓮殿、そこにいるな!」

「ああ、大丈夫だ!」

 答えが嬉しい。趙雲は声をかけながら猛進した。全てを断ち割り突き進める自信があった。血を浴び、浅手を受けながらも趙雲は駆けた。そして声をかける。公孫賛は答える。趙雲に力が戻る。それを何度繰り返しただろう。夕陽が落ちた頃、二人は包囲網を突破していた。

 荒野を駆け、にわかには見つかりにくい森に駆け込んだところで趙雲は馬を止めた。生き延びた。心臓が爆発しそうだったが漲る力は減ってはいない。包囲網はこれから狭まっていくだろうが逃げ道には至った。希望が見えてきた。

 声をかけようと後ろを振り返った時、趙雲は息を呑んだ。公孫賛がふらりと地面に倒れようとしていた。

 苦悶の表情を浮かべてしだれかかってくる公孫賛。無数の矢で針山のようになった馬から投げ出された彼女を趙雲は左手で受け止めて引きずり上げた。その背中、腰に突き刺さった矢と、こぼれ出していく赤く熱い生命の迸り。

「白蓮殿!」

「私は……大丈夫だ……」

 顔に降りかかった飛沫(しぶき)は熱く、趙雲の誇りを傷つけた。

「くそ! 白蓮殿、いつからこんな!」

 胡乱な目をしながら公孫賛は答える。見れば固まり始めている血もある。傷を受けてずっと耐えていたというのか。

「さぁな……か、かすり傷だから……気づかなかった」

「がらにもないことを……!  ここで死んだらかっこ悪いぞ!」

「……そ、それは困る……」

 へへ、と公孫賛が青い顔したままぎこちなく口の端を吊り上げていた。笑みを見せているつもりらしい。こんなにもわかりやすい強がりがあるだろうか? 激痛に押しつぶされそうになりながら、それを悟られまいと虚勢を張る人。

 趙雲は天に快哉を上げたくなった――これが我が友だ。羨ましかろう? だからどうか助けてくれ。

「白蓮殿、私にできることは少ない。痛みをおさえながら血を止めることは難しいぞ」

「わかりやすく頼む……」

「多分、めちゃくちゃ痛い」

「やっぱり……」

 話しながらも趙雲は公孫賛の服をむき、背と腰の傷口をあらわにした。急所を避けているのかどうかさっぱりわからない。ただ粗雑な刃物だ、傷も深くないはず。当たりどころの良し悪しは趙雲にはわからないから考えない。最速でやるべきことをやる。

「歯を食いしばれ。三、で抜くぞ」

 一、二で趙雲は二本同時に引き抜いた。公孫賛が絶叫を噛み殺そうと必死に悶える。すかさず引き裂いた布を傷跡に押し付けた。無闇に力を入れた方がいい、と聞いたことがある。それを信じて趙雲は公孫賛の悲鳴を無視して力任せに縛った。あまりの痛みに公孫賛が失神し静かになった。血は止まったように思える。

 これからどうする、と考えたところで妙案はない。公孫賛の愛馬は主人と同じように痛みをこらえて走り続けた代償に、見事その生命を散らしていた。さすがの白龍であっても二人でまたがり走れば逃げを打つのは難しい。これから狭まり行く包囲を抜け出すことは難しいだろう。

 打てる手はもはやほとんど残っていなかった。趙雲は愛馬の元に向かった。

「白龍。お前はいいやつだ。私はお前に出会えてよかった」

 白龍は趙雲の頬に鼻先を押し付けた。頬を強めに叩くと、白龍はいつも喜ぶ。

「さて、追いかけっこをするか」

 何かおかしなことが起こっているぞ、とわくわくするかのようにはしゃぐ白龍に趙雲はささやく。

「追いかけっこをしよう。お前が駆けるだけ駆けたら、その先でまた駆けろ。私はきっと捕まえにいくだろう」

 白龍はいつものように、状況など全然わからないけれど、どこまでも走り続けるのがただ楽しいんだ、とばかりにたてがみを揺らせた。そして趙雲が促すと躊躇うことなく馬蹄を響かせ駆け始めた。その姿は間もなく視野から遠ざかった。あるいは捕まり死ぬかもしれない。趙雲は心で詫びた。お前にはもったいない不甲斐ない主だった、けど楽しかったな、と。

 趙雲は白龍が躊躇うことなく駆け抜けていくのを見ると、公孫賛を背に負って反対方向に歩き出した。とにかく西へ向かう。敵は殺す。その二つのことだけを考えるべきだ。

 休むことなく歩き通してかなりの距離を稼いだ。このまま街道を避けて静かに山を這うように進めば見つかりづらくなる。それに賭けるしかない。

「……星」

「起きたか、白蓮殿」

「ここは」

「山を超えている。ここから先は歩きだ」

「どうして? 私たちの馬は?」

 記憶が混濁しているのか、公孫賛には前後の記憶が曖昧になっているようだった。

 立ち止まり、ぐっと公孫賛を持ち上げて体勢を整えた。再び歩き出してから趙雲は答えた。

「逃げてもらった。悪いが囮だ。その隙に包囲を抜ける」

 やがて意識がはっきりしてきたのか、事実を明瞭に理解した公孫賛の声は震えを帯び始めた。

「お前、私を背負って……?」

「この貸しは高く付きますぞ」

「星」

「そうさなあ、私の大好物であるメンマ! その十年分だとて到底足りますまい」

「……十年分か。竹林がまるまる消えちゃうな」

「なあに、竹は育つのが早い。心配することはないさ」

 その日はさらに二つの川を越えた。逃亡中である、火は焚けない。幽州の夜は既に冷える。趙雲は公孫賛に覆いかぶさるようにして体温を確保した。公孫賛の寝息はか弱かった。苦しそうに胸を上下させている。昼間の明るさは空元気だと、趙雲はとっくに知っていた。だがそれを押しとどめることなど出来なかった。

 寝息を立てた公孫賛を置いて、趙雲は密かにねぐらを抜け出た。それほど離れていないところに小高い丘がある。這うようにして登って見晴らしを手に入れると、趙雲は夜空の星を見た。方角は正しい。今はまっすぐ南西を目指している。その先には黒山賊の拠点があり、そこまで逃げ込めば当面の安全は確保できるはずだった。

 

 ――不意に物音がした。

 

 趙雲はその場に臥せ、衣擦れの音さえなく静かに移動した。鳥と虫の鳴き声の狭間で、人の足音が確かに聞こえた。足音に明確な意図は感じないが、ウロウロと惑うような動きであった。まるで何かを探しているかのような……

 さらに移動し、趙雲は樹によじ登ると枝の上で足音の主を待ち構えた。やがて松明(たいまつ)を揺らめかせながら二つの人影が現れた。農民はこんな夜に山をうろつかないし、狩人ならば火を持ち歩かない。素性は明らかだった。

 炎が近づいた。その揺らめきが真下を通った時、趙雲は枝から飛び降りた。松明を持っていない方を狙った。真っ直ぐ振り下ろした愛槍『龍牙』は、人体をなますが如くに容易く両断した。

 松明を持っていた方に向けて切っ先を突きつける。まだ若い女であった。あんぐりと口を開けたまま息も出来ずにいる。その喉に趙雲は槍の穂先を当てた。

「動くな。声を出せば殺す。勝手な真似をしても殺す。そのまま口を閉じて鼻で息を吸え。松明は放すな。理解したら目を閉じろ」

 死体がぶちまけた血を顔面から浴び、松明の照りを返す趙雲の表情は鬼気迫った。状況を理解した雑兵の額には玉のような汗が無数に浮き出た。言われた通りに女は目を閉じ鼻で息を吸っては吐き始めたが、あまりに荒いので発作を起こしたように胸が激しく上下した。

「もう一度言う。一度でも私に逆らえば喉をかっさばく。悲鳴はどこにも届くことはないし、お前は刹那で死ぬ。わかったか? わかったら一度頷け」

 女は頷いた。息はかすかに落ち着きを見せ始めた。

「今から聞くことに、囁きで答えろ。正直に答えれば助けてやる。聞いたこと以外を話せば、すかさず殺す。もちろん、大声を出そうとしてもだ。理解したら頷け。目は開けるな」

 女は続けて頷いた。

「袁紹軍か」

「あ、ああ」

「目的はなんだ」

「に、逃げた公孫賛と、趙雲の追跡……」

「本隊はどこだ」

「じゅ、十里手前……私たちは、半刻先行してる……」

「部隊規模は」

「た、助けて」

「これに答えたら助けてやる」

「だ、第五軍が動いている。兵力は、に、二万くらいのはず……」

「そうか、わかった」

 そして趙雲は女の肩をポンと押すと、正面からその胸を一突きに仕留めた。痛みも苦しみもなかったはずだ。もがくこともなく、女は倒れ伏し絶命した。こぼれ落ちた松明に土をかぶせながら踏みつけ、消し去る。

「すまんな。だが貴様も私と白蓮の命を狙った……覚悟はしていただろう?」

 小川があり、そこで浴びた血を洗い流した。流れに顔を沈めながら、二万か、と趙雲は呟いた。二人対二万。一万倍の戦力差。これを切り抜けたのなら、奇跡だろう。わかりやすい方が好みだ。奇跡が必要ならば、躊躇なく起こすまでである。

 趙雲は二人の死体を片付けると公孫賛の元へと戻った。公孫賛の様子に変わりはなく静かに眠っていた。その隣に趙雲も体を横たえた。袁紹軍も時を置かず、街道の捜索ではなく山狩りに切り替えたようだ。かなり距離を詰められた、と見ていい。白龍が敵をうまく誘導してくれたのかもしれない。しかしおまけのようなその先行分は既に消し飛んでいる。状況は逼迫している。気を抜けば即座に捕殺されるだろう。明日はこうして休む時間があるだろうか……

 夜明けを前にして趙雲は目を覚ました。公孫賛を起こして身支度を始める。

「さ、今日も楽しい遠足だ」

 公孫賛は力なく笑うだけだった。

 趙雲は乾飯(ほしいい)を噛み、十分に柔らかくすると公孫賛に口移しで食べさせた。最初は拒むために腕を動かした公孫賛だったが、抵抗する気力を失ったのか、やがて大人しく受け入れた。二度三度と同じ事を繰り返した。趙雲も一口だけ飲み込んだ。少ない水を分け、再び公孫賛を背負う。疲れがために、ギッシリと全身に重みを感じたが、趙雲は軽口を叩いて歩き出した。公孫賛の返事はなかった。

 野を歩き、川を越えた。どこに向かっても袁紹軍と遭遇しかけた。その度に大きく迂回し、最短で行くより三割は遠回りをしなければならなかった。人跡無き幽州の深い獣道を、趙雲は踏破し続けた。

 そうして四日が経った。無尽蔵かと思っていた趙雲の体力も限界を迎えていた。だが既に黒山が見えてもおかしくない距離まで近づいたはずだった。向かう先には煌々と朝日が照り始めているのがわかる。

「もうすぐだ……」

 趙雲の声に公孫賛はコクリと頷いた。しばらく声も聞いていない。友は死んでいるのではないか、という恐怖に抗うように趙雲は進み続けた。公孫賛だけではなく、趙雲は自らの限界をも悟っていた。人ひとりを背負って何日も昼夜の別なく駆け通したのだ、疲労は困憊し、喉も足も震え、腕の感覚はなくなり始めていた。耳元にかかる友の浅い吐息だけが、趙雲の精神を現実に引き止める(くさび)であった。

 せせらぎを越え、丘を回った。もはや黒山は目の前である。夜明けだった。目指す先の空は赤々と燃え、一日の始まりを告げている――そこでようやく、趙雲は自らの錯覚に気付いた。

 幽州から真っ直ぐ西を目指して歩いてきた。夜明けは背中からやってくるはずだった。だというのに目の前にそびえる西の山が明るい……

「白蓮、ここで待っていろ」

 坂の途中に窪みを見つけて、そこに公孫賛を下ろした。趙雲は槍を掴むと背を低くして走り始めた。西の山は一歩進むごとにその赤みを強めた。喧騒が聞こえる。ただならぬ事態を予感する。趙雲は風のように山を抜いた。

 

 ――黒山は燃えていた。

 

 趙雲は束の間言葉を失った。息を吸い、吐いた。黒山賊が敗れた。その総本山たる山が炎上しているのだから疑う余地はない。袁紹軍の別働隊がその周りに陣地を築いて包囲している。

 趙雲はここまでの道程を思い出し、そしてこれから先の向かうべき道を考えて足を踏み外しかけた。ようやく辿り着けたという浅はかな安堵は、覆された時は手痛い失望となって返ってくる。疲労は急に何倍にも増し、趙雲を地面に押し潰さんとしてのしかかってきた。

 ふらつきかけた足を折らずに済んだのは、まだ背に残る公孫賛の温もりが守るべき命の在り処を教えてくれたからだった。

「馬鹿な……諦めるな。手立てはある。諦めなければ、手立ては必ずやあるのだ……!」

 黒山賊が全滅したなど考えがたい。戦上手で鳴らした強かな奴らだ。何よりあの張燕の手下である。上手く退却したという想定は的外れではないだろう。問題は、このあたりに袁紹軍がうようよと溢れかえっているということだった。身の安全を確保しつつ、そしてどこへ向かうべきか……選択肢は多くない。それがなおさら決断に力を込めることとなった。

 公孫賛の元に戻ると、趙雲は包み隠さず全てを話した。公孫賛はかすれた声で答えた。

「黒山が、落ちただなんて……」

「なぁに、張燕一味が容易くやられるものか。どこぞで必ず落ちあえるさ」

「これから……どうするんだ……?」

 もはや目指すべき場所は一つしかない、それがどれほど遠くか細い道であっても。

「官渡を目指す」

 南へさらに百里を超える道程である。趙雲の提案に、公孫賛は呻くように表情を歪めた。

「私をおいて行け」

 公孫賛の声は弱々しかった。

「もう無理だ……星。一人でも、生き延びるべきなんだ……私はもう、限界だし、私を担いでなければ、お前なら逃げ切れる……頼む」

「酒を飲もう」

 公孫賛を相手にせず、その体を力任せに抱えながら趙雲は言った。

「秘蔵の酒があってな。赤い印をつけてるんだ。天下泰平になったくらい嬉しい時……まぁそれほど嬉しいことはないのだから、それよりちょっとだけ下回るくらい嬉しいことがあった時、飲もうと思って寝かせてある。常山の家にな」

「それが」

「飲もう。二人で」

 公孫賛の瞳に涙が浮かんだ。

「飲むのだ。生きてこの窮地を脱し、酒を飲もう。絶体絶命の死地から生き延びた。そのことは天下泰平の次くらい嬉しいことだ。いいか、おう? とことんやるぞ。必ず飲むのだからな?」

「……救いようのない飲んだくれめ」

「失礼なやつだな。捨てていくぞ?」

「やってみろ」

 ひとしきり、公孫賛は咳き込むまで笑い続けた。そして大きなため息をこぼして言う。

「酒か。いいな。飲みたいなぁ、ってすごく思う」

「で、あろう?」

「だから味見だけにしよう」

「味見?」

「飲み干すのは、天下泰平になってから」

 思わず言葉を詰まらせた。生き延びた先にある夢。公孫賛はそれを掲げてくれている。それはただ生き延びることを目指すより力強いことだ。

「天下泰平……うん。いい言葉だよな。いい夢を持った。秘蔵の酒を分けてもらえるなら、ご褒美には十分だ。たとえ私の命が潰えたとしても、きっとあの世で褒めてもらえるな」

「白蓮、何を」

「生きろよ、星。酒のためなら、お前は何だって出来るんだろう?」

 趙雲は大口を開けて笑った。そうでなければ泣き出してしまいそうだったから。

「そう、酒のためなら私はいくらでも頑張れるのさ。だから白蓮、そなたは前だけを見ていてくれ」

 うなだれるように頷いたのを確かめて、趙雲は公孫賛を背負い直した。右手に槍を握り直し、先を急ぐ。道のりは遥か。だが歩くのをやめれば夢が終わり、友が死ぬ。趙雲は地形を思い浮かべたが、超えるべきものを思うとずっしりと体に負荷がかかった。瞬時に、道はある、希望はあるのだ、と思い直した。ここから官渡までの距離は、考えてはならない。

 公孫賛が背中で震えている。悔しさか、悲しさか――嗚咽を繰り返していた。しかし決して後悔の言葉は吐き出さない。そして趙雲を励ますように、暖かく抱きしめてくる。この人を助けよう、と趙雲は思った。心の底から愛しいと思った。この人を選んでよかったと、趙雲は自分の選択を誇りに思った。

 ああ、趙雲は思う。これは単なる逃避行ではない。これは天下泰平という夢への道程である。夢がある限り友が死ぬことはない。

 

 ――そのためならこの趙子龍、疑うことなく不死身である。

 

 それから趙雲はひたすら歩き続けた。何日歩いたのか、趙雲にはもうわからなかった。明るさと暗さが交互に訪れる。それだけのことだと思った。一度雨が降ったような気がするが、もうわからない。

「白蓮、起きているか?」

 公孫賛は答えなかった。きっと夢を見ているのだろう、と思った。

 趙雲の意識が明確になったのは、人の気配を肌に感じた瞬間だった。趙雲は公孫賛の体を下ろした。闘志が無限に湧き出てきた。趙雲は自らの槍を構え、吠えた。

「戦ってやる」

 龍牙が熱い。そして今までにないくらいに槍は軽かった。目の前に千人いようと公孫賛のためならば皆殺しに出来るだろう。だが、足が動かなかった。地に根を張ったような体を引きずるように趙雲は一歩踏み込んだ。神速と謳われた動きなどどこにもなかった。それでも趙雲は歯を食いしばり、もはや視界さえ覚束ぬ目で睨んだ。

「我は、常山の子龍。来い。ただでは死なぬ。殺してやる。貴様らの喉笛、皆諸共食い千切ってやる」

 殺してやる、邪魔だてする者は全て殺してやる。愛する友の命を脅かすものは、絶対に許さない。

「白蓮は、私が守るのだ」

 踏み込み、腕を突き出した。敵を打ち倒した感触ではなかった、何の手がかりもないまま、趙雲の目の前は真っ暗になった。槍は手からこぼれ落ち、もはや立ってはいられなかった。しかし私は戦った、と趙雲は思った。

 温かいものが趙雲を覆い包んだ。殺し、打ち倒してきた人生だった。死とはその罰、辛く苦しいものだと思っていたが、こんなにも温かいものだとは知らなかった。友のために戦えた。人生の意味は全てこの瞬間にあったのだ。死しても魂は友のかたわらにあるのだ。

 趙雲は抗いがたい睡魔に襲われ、瞳を閉じた。最後の眠りだ、と思った。

 夢の続きを見ようと思う。その望みの成否を、趙雲は疑わなかった。

 

 




後編の結末はまだ迷っています。
しっかり考えて書きたいと思います。よろしくお願いします。

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