真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第十四話 訣別

 早馬の知らせに岳も呂布も趙雲でさえも動きを止めた。信じられないという顔で、だが苦渋に満ちた表情で岳が呻いた。その岳の様子に呂布は気もそぞろになり、自然趙雲も興が削がれたと槍を下ろした。

「戻ります。普通の知らせじゃない……念のため二人はここに残って……ほら、さっさと仲直りして。恋、こちらはこの人とは知らぬ仲じゃないんだよ。趙雲殿、彼女は私の友達です」

「……私の名は趙雲、字は子龍。李岳殿とはじゃれついていただけだ。誤解を招いたようであいすまなかった」

「ほら、恋も」

「呂、布……奉先……」

 まだ納得いきかねるという表情だったが、呂布も促されるまましぶしぶ頭を下げた。

 見たこともない漢人がうろうろしていては誤解を招きかねない。岳は一人でつるはしや道具をまとめて村へと戻った。竹林を出ると香留靼が塩山で働いていた連中をまとめ上げて下山させているのが見える。人々は騒然とし、常日頃の穏やかさは雲散霧消していた。

 近年漢からの要請に従って、匈奴の男たちは河北の戦場に駆り出された。黄巾賊の討伐のための戦力として使役されていたのである。走狗の如く扱われているとしてその不当さに顔をしかめる者も少なくなかったが、それが漢と匈奴の力関係を表しているとも言えた。論功行賞においても匈奴は朝廷に出仕することは叶わず、おざなりな対応で慰められるのが関の山。だというのに現在単于の位にある羌渠は漢の威信に怯え、息子である右賢王於夫羅に言われるがまま頷くだけの惰弱な傀儡である――多くの部族の人々から信を失っていた。

(だが、確かに漢を攻めるって聞いたぞ……どうなるんだ、声を大にして招集するってことは中途半端な略奪じゃない、侵攻ってことだろう……そんな大事件あったか? さっぱりわからん。匈奴の歴史か……元々何人か単于の名前に見覚えがあるくらいだからな……困った)

 岳は村に戻り何人かを捕まえたが要領が全く得ない。やがて戻ってきた香留靼と話してみても、彼もさっぱりわからないということでお手上げだった。早馬で駆けてきた男は幾重にも取り囲まれては質問攻めにあっており、おおよそのことは聞き耳を立てていればわかった。曰く、漢の走狗から匈奴は訣別する。彼奴(きゃつ)らの要請を受けたものとして匈奴は二十万の大軍を動員、漢に入った後に反旗を翻し洛陽を攻め落とす――とのことだった。

「どう思う」

 香留靼の訝しげな声に岳は束の間考えてから答えた。

「今はまだなんとも。洛陽ということは、河南にまで攻めこむつもりなんだろうけど……兵数が二十万……ひどいことになる」

 匈奴における徴発や動員は多数あるが、それは全て部族単位で行われるものであり、近くに住んでいるといっても岳は部外者扱いされるのが常であった。数年前の鮮卑との戦は偶然居合わせただけであり、その後何度も卒羅宇に戦に立たないかと誘われはしたが命令を受けたことは一度もなかった。が――今回の規模、岳自身が参軍することはまさかありえないと考えていたが、他人事だと言うには規模が大きすぎた。記憶の中にある歴史知識との違いに岳は困惑した。

 しばらくして早馬の男への質問攻めが収まり始めると、李岳と香留靼もいくつか話を確かめたいと近寄っていった。どこか興奮気味の男は、李岳の顔を認めると嬉しそうにその手を取って喝采を上げた。

「おお、李信達様ですね! おめでとうございます! 右賢王直々のご下命により、貴方は匈奴軍二十万の先鋒を任されることになりました!」

「……は?」

「名将李広のご子孫だなんて……その方が今や匈奴の側に立ち、漢に矢を向ける、心震えます!」

 心がひやりと冷えたのを感じた。手が先ほどまで手にしていたつるはしを求めて宙を泳いだ――その時、香留靼が飛び出し男の顔をしたたかに殴り飛ばしていた。辺りが騒然としかけたが、香留靼の声はそれら全てを圧する程の威であった。

「貴様に誇りはないのか! 自分が先鋒に選ばれたかったくらい言ってみろ!」

 呻く男を残して、香留靼は岳の腕を引っぱった。李岳の横顔にぞっとしながら、おそらく自分があの男を殴っていなければこいつはつるはしで打ち殺していただろうと半ば確信してしまうほどの冷たい表情であった。

「岳……」

「一人にしてくれないか」

 香留靼を振りほどき、李岳は人の輪から外れ遠くを見やって立ち尽くしていた。香留靼はとても声をかけることなど出来ずその後ろ姿を痛々しく見やった。

(なんて背中だよ……)

 李岳の気持ちを慮ると香留靼は馬に飛び乗ってどこまでも駈け出してしまいたくなった。そして天に地に怒りをぶつけてしまいたくなる。李岳は匈奴の土地に生まれ育ち、今も胡服を身に纏い馬に乗る。出で立ちだけを見れば匈奴そのものだが、やはり明らかに違いがあるのだ。それが先祖から受け継いだ血統のためなのか、それともこの男特有のものなのか香留靼にはわからなかったが、李岳が匈奴と同じくらい漢にも思い入れがあるということは傍から見てもよくわかった。

 根が暗いのか、自分から笑い話を仕掛けることなど全くないような男だったが、ここ最近の変化に香留靼は内心喜んでいた。塩の密売から始まり、匈奴を巻き込んでの発掘作業――それを取りしきる岳の嬉しそうなこと! 付き合いは長かったが、彼がこんなにも目を輝かせて何かに打ち込むのを香留靼は初めて見た。

(だってのに……)

 誰とも同じくすることの出来ない苦悶が、李岳という男をいま引き裂こうとしている。李岳は香留靼にだけちらりと漏らしたことがあった――漢人も匈奴もひとところに暮らすことが出来ればきっと双方によいことが起こる、両方の血を受け継いだ自分にならそれがなせるかもしれない――淡い夢だ、だが明るく価値のある夢だと思った。そして李岳が望むのならどんなことでも手伝おうと香留靼は心に決めていた。だというのに、この知らせ。香留靼は叫び声を上げてしまいそうになる衝動に全霊を持ってこらえていた。

 既に塩山の麓は騒然とし、仕事どころではなくなっていた。女性は皆、自分の子供を抱きしめて不安そうに俯いている。男も時折威勢よく張り切ってる者以外は憂鬱そうな顔を隠さなかった。香留靼はただ傾きゆく日を、肩を落としたまま眺めるばかりの李岳の後ろ姿を見ることしか出来なかった。なんという細い肩だ、震えているじゃないか、まるで女のそれだ、だっていうのに二十万の匈奴軍の先鋒に立って漢を攻めるだと? 李広の子孫だと吹聴されるがままになって――それは李岳に対する愚弄に他ならず、耐え難い辱めに他ならない。

 とうとう香留靼は李岳の隣に並びその肩を抱いた。はじめは嫌がるように押しのけてきたが、構いやせんと腕に一層力を込めた。岳はやはり震えていたが、その目はまっすぐに夕日を貫き赤々と燃えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕方になると匈奴の都へ行っていた卒羅宇が帰参してきた。隣には見慣れぬいかめしい男が立っており、数百騎に届くのではないかという程の兵を引き連れものものしい。

 部族の皆が待ちわびたように卒羅宇の周りを囲み詳細を聞き出そうと質問攻めにした。その人垣を宥めすかしてから卒羅宇は輪を抜け出し岳を見つけると、彼らしからぬ大仰な笑いを響かせながら近寄った。

「李岳よ、此度の大任、まことに素晴らしいな! 飛将軍の子孫だけある。右賢王於夫羅殿の抜擢に必ずや応えるのだぞ!」

 卒羅宇の口から信じがたい言葉が飛び出し、香留靼は我が耳を疑った。何度も先祖を褒め称えながら、その才は必ずお前にも受け継がれているとしつこく誇示し岳の肩を何度も叩いた。香留靼は慌てて李岳を見たが、まるで予想外のものを目にしてぎょっとした。先ほどの早馬の時とは違いその顔には満面の笑みが浮かべてあった。

「ええ、憎き漢に先祖の恨みを返すことがようやく叶います。これほどの誉れはありません」

「――おお! そうか、見事な覚悟だ!」

 卒羅宇は何度も岳の肩を叩きながら、時折意味深な力強さで握りしめた。

「……今年もまた黄巾賊の討伐をせよと、漢より出兵を求める書が届いた。右賢王於夫羅殿はそれに乗じて河北に攻め入る計画を立てた。雁門関より長城をくぐり抜けた先で、洛陽に向けて馬首を巡らせるとのことだ」

「兵力は二十万と伺いましたが」

「確かに、そう号された」

「進発の日取りは」

「……匈奴の都では既に準備が整っておる。進発は十日もあれば始まるだろう。道中、参集する兵を糾合しながらこちらへ向かってくる手はずだが、全ての部族の兵力を結集するには時間がかかるやもしれぬ」

「では私も急ぎ支度にとりかからねばなりませんね」

「……先鋒は大役だ、相談があればなんなりと申せ」

「ありがとうございます」

「今宵は戦勝を祈願して宴会を開く。李信達、出席せよ」

「はい。ところで、お隣の方は……」

 先程から卒羅宇の隣で肩をいからせている男に李岳は目を向けた。於夫羅に迫らんとする見事な体躯に長く縮れた髪、そして殺気を毛程も隠さなかった男は、李岳をまじまじとと見ると嘲りを隠そうともせず鼻を鳴らした。

「紹介しよう。右賢王於夫羅殿の弟君、呼廚泉殿だ」

「……名高き呼廚泉殿に拝謁できて恐悦至極でございます」

「こんな小さい男が何の役に立つというのだ……李広の子孫だと? 貴様、腕に覚えはあるのか?」

「……若輩者ですが、粉骨砕身いたします」

 呼廚泉は鼻が突き合うのではないかと思うほど李岳に顔を寄せて凄んだ。傷口のような縦じわが眉間を二つに割っている。

「貴様、惰弱な漢人の血も流れていると聞いたが役に立つのか? こんなやつが俺の代わりに先鋒を務めるだと? ふざけているのか貴様!」

「呼廚泉殿」

 呼廚泉は今にも李岳の首に手をかけようとしたが、卒羅宇が間に入らなければその手が同じように宙で止ったかどうか定かではない。一軍を指揮するには荒くれに過ぎるが、なればこそ武力においてはあるいは兄を上回るのではないかともっぱら噂される呼廚泉であるならば、その片腕でさえ李岳の細首をねじ切るに余るであろう。

 促され岳はその場を離れたが、卒羅宇に対して呼廚泉は未だ鼻息も荒くひどく汚い言葉で侮辱してはわめいていた。周りの部族の者達も皆しかめ面をして呼廚泉を憎々しく見ている。どうやら卒羅宇のことも罵っているようだった。

 無感情にそれを見やっていた岳がきびすを返して歩いて行くのを、香留靼はとても一人にはできないと追った。隣に並んで横顔を除くと、憎悪に燃える瞳が揺れもせずに真っ直ぐ前を見据えていた。どういう風に、なんと声をかけたらよいかわからず香留靼がやきもきしていると李岳の方から話しかけてきた。

「……卒羅宇の叔父上には感謝しないとね」

「……は?」

「お陰で生き延びることができた」

 訳がわからないと香留靼は声をあげようとしたが、それを手で制して物陰まで岳は歩かせた。周りに誰もいないかをしつこく確認してからのち、絶対に大声を出すなと念を押してから岳は言った。

「あそこで俺が嫌がったら、呼廚泉に切られてたよ」

「……なんだって」

 香留靼は茂みからそっと顔を出して卒羅宇の方に目を向けた。族長の隣には先程の男が未だ険しい顔をしたままきょろきょろと何かを探すように首を回している。

「間違いない。殺気が隠しきれてなかった」

「な、なんでだよ」

 香留靼には訳がわからなかった。わからないことだらけだ! と声を大にして叫ぶことができたらどれだけ楽だったろう――だが李岳は相変わらず声をひそめて、秘して漏らせぬ陰謀の内訳をこぼし始めた。

「さあ、気に食わないんだろうな。まあ理由はどうとでもなる。実は漢の間諜だったとか何とか言えば誰も反論できない。飛将軍の末裔だとか持ち上げた所で、やはり漢人の血は裏切り者の血だ、とでも言えば格好つくさ。だいたい、家にも帰るなだなんて信用してないって言ってるのと同じだ」

「……だが」

「於夫羅が俺を取り立てるなんてあるわけがない。先鋒っていうのも体の良い厄介払いだ。俺の下についたとしたら悲惨なことになるだろうね。援軍もよこされなければ糧食も回ってこないに違いない。あの手この手、さ」

 それはない、いくらなんでもそこまでの事があるわけない――香留靼は反論しようとしたが、それを許さぬほどに岳の顔は緊張と怒りで苦みばしっていた。悶々としたものを抱えながら香留靼は李岳と並んでしばらく物陰から様子をうかがった。ゲルの中から多くの人が出てきて卒羅宇を取り囲み進発の日取りや人数を聞き出している。が、二人のいる場所は離れているので話の中身はまるで聞こえない。顔を覆って嘆き悔しがる女性の声だけが原野に響いている。

「これから、どうする……?」

「……香留靼、俺は漢と戦うなんて出来ない」

「ああ」

「……とりあえず、家に戻るよ」

 岳は卒羅宇の側から呼廚泉が離れたのを見て取ると、竹林の奥にいるはずの呂布と趙雲に自分の家に来るよう伝えて欲しいと頼んでから、背を向けて原野を走り始めた。呼び止めかけた香留靼の声に気づかない振りをして、一目散に駈け出した。

 腕を振って全力疾走する、踏みしめる草が柔らかく耳心地の良い音を立てた。自分でも驚くほどに精神が溌溂としているのを感じる。怒りと悔しさで頭脳はまるで酩酊しているかのように火照り、筋肉は必要以上に躍動する――怒りは時に人にどす黒い希望を与えることがある。

 

 ――どれほど走ったか、とうとう岳は倒れこみ、息を荒げて汗も流れるまま空を見上げて声を上げて笑った。気づいた時には夕日はとうに西の空に沈み夜空には瞬く星が敷き詰められていた。

 

(なんて間抜けなんだ! 戦乱を避けて生きていくつもりがこれだ……塩はもう無理だな。先鋒なんて冗談じゃない、逃げるほかない……父さんをお連れしないと。問題は機会があるかどうかだ、ぐずぐずしてたら身動きがとれなくなる……今日か明日にでも出ないと。ふ、ははは。漢人と匈奴が仲良く暮らす町? はっ! 飛んだお笑い(ぐさ)だな)

 地を覆うばかりの匈奴のつわものが、漢の朝廷の要請に従って黄巾賊を討ち滅ぼすため要害・雁門関を超えて河北に入り込む。しかし一度長城を超えたが最後、匈奴は仮初の姿をかなぐり捨てて、黄巾賊ではなく漢の都、洛陽を急襲し天下を内側から食い破る――岳の記憶にはない恐ろしい計画だった。なによりそれが実現の可能性のある計画だということが驚きでもあった。

 だが見積りは甘いだろう、と岳は思った。洛陽を落としたとしても、皇帝を手中に収めたとしても周囲の軍が黙っているわけがない。包囲網を敷き匈奴は必ず負ける。双方に夥しい死体を積み上げた後で、平原を塗り替えるほどの血が流れた後で――

 あるいは止める手段があるかもしれない、と岳の中に一つの案が浮かんだ。

 どうにかして激突を避け、流血を防ぐ方策――だがそのためには様々なものを捨て去らねばならない、岳自身今までのように生きていくことは叶わないだろう。それは父の弁の側にいられないということでもある。李岳は浮かんだ案をかなぐり捨てて、大きく息を吸って吐いた。

 汗で全身が濡れそぼり、大草原の強い風に体は冷え切ってしまうかのように思えたが体は熱くて熱くて仕方がなかった。草木の息吹に包まれて深呼吸をしながら岳は存分に孤立を味わった。沸き立つ怒り、悔しさに身悶えしながら草むらを転がる。何も出来ない、何をしようにも限界を覚える。いまや全てが忌まわしく、岳は不貞腐れて叫び声を上げた。もうどうとでもなれという気がした。馬鹿みたいな夢を描いたが、絵空事はその端緒に至るまでもなく瓦解したのだ。そしていま、想像を絶する未曾有の惨事が大勢の人を巻き込もうとしている――岳は天を見上げた。

 

 ――天空には無数の星がきらめき、その一つ一つが自分を嘲笑っているように思える。

 

(星か……死んだ人は星になるって、この世界でもそうなのかな。いや、だったら俺がなんでもう一度生まれ落ちてるんだってことになる。星になれたらよかったのに……くそ、言ってる場合か、岳! 時間はないんだぞ。考えろ、考えるんだ。状況は多分俺が考えている以上に切羽詰っている……父さんを迎えにいかないと)

 弁を連れて漢の町に入り、そこで暮らす。元手もないし伝手もないがこの場で殺されてしまうよりましだ。だが問題は匈奴軍の標的となる町ではまたすぐに逃げ出す羽目になるということだった。洛陽、長安、弘農周辺はどれもだめだろう。兗州、豫州、徐州も視野に入れて逃げなければいけない。いっそ荊州に逃げる、あるいは巴蜀……どれだけの戦乱が巻き起こるかわからない、岳はもう自分の中の『三国志』の知識すら当てにならないものとしはじめていたが、三国鼎立は成るのか、官渡は、赤壁はどうなるのか――歴史の前提が覆されることになれば、これから行き着く先も全く白紙のものになってしまう。

 脳裏に弁の小さな背中が浮かんできた。いつかより曲がり、小さくなってしまった背中。もういい歳だ、そのような体で争いに巻き込まれたらどうなるのか――戦乱は起こるかもしれない、多くの人が苦しむかもしれないが、だが身内の一人を投げ捨てて何が成せる。父を守ろう、と岳は立ち上がり再び駆け始めた。今宵の内に出奔する。今ならばきっと長城を越えて漢に逃れ出ることができるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 弁は鉄を鍛えており、飛び込んできた岳に怪訝そうに眉根を寄せたがすぐまた炉にむかった。岳は弁に向き直ると、匈奴が漢の地を侵犯することを目論んでいること、先祖の名を穢された上に自分を先鋒に取り立てようとしていること、その真意が殺意に基づいていること、このままでは弁も危ないこと、そして漢の地に移り住み難を逃れなくてはならないということを切々と訴えた。

 ひとしきり説明を聞いた後、弁はじっと岳の目を見据えてから言った。

「私はここを離れるつもりはない」

「で、ですが」

「お前は一人で行くのだ」

 岳は弁がまともに判断できていないのではと束の間疑った。岳が出奔すれば当然弁にも類が及ぶ。先鋒という大任を預けられたのに漢の地へ逃れたとあっては、内通したと言われても言い逃れはできない。当然匈奴はこの家に踏み込むことになるだろう。

 だが岳が弁に問いただそうとしたことを、逆に弁が岳へと問うた。

「お前はそれでいいのか。冬至」

「……何をおっしゃっているのです」

「匈奴と漢が相争う地獄が始まろうとしている、それでよいのか」

 弁は静かだった。焼けた鉄を今までうち鍛えていたせいで、額には幾筋もの汗が浮かび滴っている。深くひび割れた顔、手にも深いしわが刻まれており、厳しい冬を何度となく越してきた経験は全てその体に浮き彫りになっている。岳は弁が好きだった。弁の寡黙さが好きだった。だが今饒舌に語る弁の言葉が、岳には一向に理解できなかった。

「漢にも匈奴にも私たちは(えにし)がある。そのどちらかに身を捧げることを正しいとは思わん、逃げるのも悪くはないだろう。だが、お前の目はそう言っておらん気がする」

「……いえ」

「方策が思い浮かんでいるのではないか。誰かを救う方策が。あるいは思い浮かぶ前に打ち消したのか?」

「私は」

「父にはわかる」

 弁が手を伸ばし、何かを探し求めるように揺れた。弁の手を取り、自分の頭へ誘った。岳にはわかっていた。弁が近頃全く外へ出なくなったこと――目が(めし)い始めていることを。

「自分に嘘をつくな。よいのだ……もう良い。私のことは気にするな。私は子の重荷になりたいとはちっとも思っていない。お前はよくしてくれた。何も返せなくて恥ずかしいくらいだ。私は幸せものだ」

 

 ――いい暮らしをさせてあげたかった。

 

 鍛冶師として生きているといっても、この并州の最北端の寒さの中で暮らすのは辛い。ろくな蓄えもない。日々の狩りで何とか飢えずにいるのが精々で、それさえ冬になれば見る間に目減りする。おいしいものを食べさせてあげたい。前世では親孝行なんて考える間もなくこの時代へ来た。だから人生二度分も親孝行をしてあげたかった。大きくなくても住み心地のよい家、温かい食事、食後には茶の一杯……だが弁の掌はどこまでも無骨で、骨ばっており、優しく岳の頭を撫で続ける。岳はとうとう無様に泣き始めた。

「父さん……どうか一緒に逃げてください……」

「もう言うな。よい、私はひとりでも生きていける。お前に狩りを教えたのも、獲物の血抜きを教えたのも私だ。卒羅宇もいる。よいのだ」

「ですが……」

「頼む。冬至よ、私を振り払え。くびきを抜くのだ」

「父さんを、くびきだなんて思ったことはありません!」

「わかっている。だがお前は特別なのだ、私などとは違う」

 弁が何かを思い出すように遠い目をした。瞳を閉じて、思い出のほこりを払うように静かに話しだした。

「……生まれは秋だな」

「はい」

「なぜ真名を冬至というか、教えてなかった」

 ついて来い、というまま岳は弁に連れられて外へでた。手を握り合って弁が躓かないように助けながら、二人は星で橋がかかっていると思わせるほどの満天の下に立った。

 李岳、字は信達。どれもありふれた名前と言えるだろう。だが真名にはなぜか『冬至』と付けられていて、それを問いただしたのも一度ではない。

 何度聞いても決して弁は答えようとしなかったし、頑なに首を振るばかりだった。

「私と桂の間には長い間子供が出来なかった。事情があり、中々会えない日々もあったが……子を諦めかけたその時、二人で冬至の祭りに出かけた。そして別れようとしたとき、天空に輝く一際大きい天狼星から、一筋の星が流れてきて桂の体を貫いた……」

 弁が空を指さした。天狼の星は冬に見える、夏の今では見当たらない星ではあるが、恐らくその指さした先に十数年前の冬の日、天狼星は輝いていたのだろうと岳は思った。

「天の御遣いという伝説が漢にはある……戦乱に喘ぐこの世界を救う、天より舞い降りた使者だという……一年のうち、冬至とは最も暗き日だ、太陽が一番衰える……だが再び太陽が力を取り戻す日でもある。この動乱の世に天から真冬の暗き日に遣わした子……嘘みたいな話だろうが、本当なのだ。その後、早産で体も軽かったが、お前はちゃんと育ってくれた」

 岳はかぶりを振って弁の言葉を遮った。確かに前世から生まれ落ちた、そのことを弁に言うつもりもない。天から星が落ちてきてそれが宿ったというのも自分の境遇を考えれば不思議でも何でもない。だがそれがどうしたというのだろう、なぜ父は自分を他人のように語るのだろう。岳は涙と鼻水にまみれた顔で、搾り出すように言った。

「私は、私は父さんの子です……父さんと母さんの子です」

「――母を恨んでいるか」

「いいえ」

「私はあれを愛した。あれは武人だ。漢の土地で名を上げ、一軍を率いている。丁原という名だ」

「まさか、并州刺史の」

「……并州で、匈奴に対して矛となり盾となった。私のような漢人か匈奴なのかわからぬ者を好いたがために、苦しみ悩んだようだ。戦乱の世だ、お前を産んでからもろくに会いにもこれない。敵同士と言える。しかし紛れも無く家族だ。その矛で突くことも出来ず、盾で守ることも出来ず……私があいつを苦しめた」

 二人共おくびにも出さなかった。岳に対してまで隠し通していた。

「本当ならお前が二十歳を越えた頃に血筋のことも含めて伝える予定だったのだが、全てはままならんものだ。お前があいつを――桂を恨まずにいてくれて私は心底嬉しかった。そしてあいつも、その何倍もうれしかっただろう。素直ではないから、厳しく当たっていたようだが」

「お二人の子で、私は、幸せでした」

 とうとう弁の瞳にも雫がこぼれた。嬉しく、悲しかった。愛は深く、その分根強く息子を縛ってもいる。それを解き放つ時がきた。

 弁は岳の体を正面から抱きしめてから言った。

「大きくなったな……本当に、本当に……」

「父さん……!」

「だが、もう良いのだ。冬至、走れ。翔ぶがよい。お前には翼がある。意志も力も備わっている。それを押しとどめることは許されない。此度の戦乱もきっと思し召しなのだ。時期がきたのだ――天から戴いた子を天へと返す。何の躊躇いもない」

 父の言葉が岳の体の中で反響し、隅々にまで染み渡った。翔べ――

 

 ――そのとき、ふと岳の頭の中で音がした。乾いた薪が爆ぜる音、馬の蹄が枯れ枝を踏む音に近かったが、周りには自分たちの他には誰もいない。だが音は聞こえてくる。それは岳の内側から聞こえてくる。

 

 やがて音だけではなく、目眩を呼び起こすような火花が、細かい電流の輝きのように岳の瞳の中でバチリバチリと爆ぜては明滅した――火花は美しく、鮮烈でありながら儚かった……まるで人の生き死にのように。人の死を想起させる精神の発火。今、岳の心の中で何かが死んだ、そしてそれを苗床にして新たな心が復活し再生している。

(火花――)

 言葉にならない気持ちが自分の奥に潜んでいる。それが考えとして現れる前に火花として爆ぜた。言葉にはならない……だが、何を行えばいいのか、今、李信達にははっきりと理解できていた――岳は自分に一体何が起きたのかということを冷静に悟った。李信達という男の中にある枷、それが粉々に砕け散った火花だった。

 岳の顔を見て弁は全てを悟ったように頷いた。言葉はいらぬ、目が盲したとしても子のことなら全てがわかる、それが親というものだ。子は巣立つ、その時が到来しただけである。喜びでもって迎えるべきで、悲しみはいらないのだ。弁は立ち上がり、粗末な家に戻ると自分の寝所の床の板を引き剥がした。そして奥から長い木箱を持ち出すと、中身を取り出して岳に渡した――それは一振りの刀剣であった。

「これを持って行きなさい。彗星が桂の体を貫いた時、地をえぐった隕鉄から打ち鍛えた一振りだ。天狼剣と名付けた」

 刀身は黒光りし、薄く、軽いが怪しいまでの艶がある。魅了し、蠱惑するように光を照り返した。

 既に弁から授けられた血乾剣は刀身が短く護身用と言えたが、天狼剣と銘打たれた一振りは長刀であった。まさしく戦場でこそ活き、その真価を発揮する刃であった。

「もう迷うな。もし迷った時は、気高きに(したが)え」

「気高きに順う……」

「思うがままに生きよ、冬至」

 うなずき、岳は天狼剣を受け取った。鈍く輝く刀身、虚空のような深み、そして生まれる前から側にいたような落ち着き――李岳は立ち上がり、最後にもう一度弁の手を握って抱きしめた。弁の手は岳の頭を撫でた。父の温もりをいつまでも覚えていようと、子の暖かさを終生残しておこうと。

 やがて岳は立ち上がり、天狼剣を腰に佩くと家を出た。弁が見送りにやってくる。側には何かを察したように山羊の点もいた。その体を何度か撫でてやると、岳は歩き始めた。もう別れは済ませた、男の別れを。だから振り向くまい、決して振り向くまいと岳は歯を食いしばって前だけを見つめた。背後で弁の大きな声が聞こえたが、それでも岳は振り向かなかった。

「天よ、照覧あれ! 我が子、李信達の行く末に誇りと誉れが満ち溢れんことを!」

 振り向かなかった、涙でくしゃくしゃに潰れた顔など見せられるものではない、翔ぶと決めた。涙もこれが最後だ――岳は走り始めた。思うがままに生きよう、戦いを恐れるな、決して羽ばたくことをやめまい、気高きに順おう! 大平原、月と星に照らされ煌くは鴈門の山。その目前を駆け抜けながら、もう二度とここへは戻れないという気がした。その予感は正しく、李岳はその死を迎えるまでこの土地をついぞ訪れることはなかった。


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