真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百四十話 天下再び揺動す

 冀州、幽州、兗州、青州、徐州、さらには并州にまたがった河北全域の支配権を争い、そして公孫賛の敗北と死によって幕を閉じた冀州戦役――

 それから三年。

 束の間の惰眠を貪るような穏やかな時を挟んで、天下の趨勢をかけた大戦の機運は再び高まり始めていた。

 

 ――曹操はこの三年で徐州と兗州の支配を盤石なものとしていた。

 軍事を最優先とした政治を掲げ、厳しい徴兵を行いながらも民心を和らげ、その執政に異を唱える者はいなかった。噂を聞きつけ、黄巾党と手を組んだ袁紹の支配から逃れて流れくる民も後を断たず、人口は日増しに増えていった。曹仁、曹洪、曹純といった一族の者たちも指揮官に加え軍勢の充実ぶりは甚だしい。さらには青州黄巾軍の残党を組み入れた『虎豹騎』と呼ばれる騎馬隊は、いずれ激突するであろう李岳軍に対する切り札として精鋭に磨き上げられた。動員兵力は十万の大台を超えるに至る。

 

 ――孫権はとうとう袁術との攻防戦に勝利し、荊州以東の長江流域を完全に支配下に置いた。

 孫権の袁術に対する反攻作戦は、無断で奪取した江夏を無条件で放棄するという低姿勢を示したため、完全に虚を突くこととなった。全軍で長江を下るうちに孫権の意気に呼応した民は四万を超え、それら全てを糾合した孫権軍の勢いは凄まじいものであった。立ちはだかる袁術軍を四方から殴りつけるように突破し、支流という支流から袁術の領地に雪崩れ込み、三ヶ月の熾烈な攻防戦の末にこれを打ち破った。

 揚州全域を手に入れた孫権は速やかに山越と和議を結び、強力な兵団を作り上げるために徹底的な練兵に日を費やすことになる。長江を埋める五万隻の蒙衝船と楼船、そしていずれ北進を見越してのものか、強力な騎馬隊を備えた兵力は堂々たる八万人である。

 

 ――一方、敗残となって落ち延びた袁術は豫州にいた。元より呉を中心とした揚州の民たちは河北の気っ風と明確に異なる面がある。江に生き、江に死すを良しとする民たちの心をまだ掴むに至っていなかった袁術にとって、孫呉の世界を標榜する孫権の反乱は容易に内応を誘発せしめるものだった。抵抗を放棄し、直臣と二千の手勢だけを率いて早期に撤退を選択したことは英断といえるだろう。

 孫権が無茶な追撃を試みなかったこともあったが、行く先行く先で地元の名士や豪族が助力を惜しまなかった甲斐もあり、己の氏族の生地である豫州汝南の地へと無事に難を逃れることになった。それはひとえに皇帝劉弁の『袁術こそ袁家の頭領』という勅宣(みことのり)あってのことだった。張勲による保険は完全な形で主君を危難から救う手立てとして役立ったわけである。さらにはその境遇に全土の名士から同情が集まり、やがて豫州の牧へと推挙されこれを受ける。

 漢の忠実な臣であることは既に証を立てた袁術である、特に潁川の名士から篤い支持を受けた結果、五万の兵を新たに揃えさらには隣接する荊州と合力し、孫権でさえ容易に手を出せぬ防備を築くこととなった。

 

 ――しかしその袁術をおいてなお袁家の頭領といって憚らない袁紹は、冀州、青州、幽州の全てと并州の東半分を手中に収め最大最強の単独勢力と成っていた。

 公孫一族の生き残りは遠く楽浪郡まで追い散らし、黒山賊の拠点は全て破壊し尽くした。烏桓族も北へと駆逐した袁紹にとって恐るべき勢力はわずかな雑兵どもを除けば存在しない。

 皇帝として即位した劉虞の威光は予想を超えて民に浸透し、黄巾の教えも相まって猛烈な勢いで増兵されていった。嘘か真か、兵力五十万。農業に従事する者たちさえ駆り出して軍団に組み込む袁紹の思惑は、中華全土を戦で踏み潰す以外にないと諸侯は確信する。あとはいつ南下するか、それを食い止める勢力は存在するのか……中華の命運を賭けた大戦が再び巻き起こるだろうが、その主役の一人が袁本初であることを疑う者はいない。

 

 ――その袁紹を悩ます種が一つ。追っても散らしても、決して膝を屈さぬ雑兵の一団があった。たった数千から一万程度の、軍団とも言えない勢力。

 それこそまさに劉備率いる遊撃旅団であった。

 広く幽州から冀州にまたがって、縦横無尽に駆け回っては軍の倉庫や兵糧の集積を襲撃する盗賊まがいの一団。袁紹も初めは容易く潰せると考えていたが、劉備は各地に点在する反袁紹の意志を持つ気骨ある名士と協力者をつなぎ合わせ、袁紹が幾度となく本気になってもその全ての攻撃をかいくぐった。劉備の人望、龍鳳の智謀、関張の武勇、さらには民心を得た旅団は実際の兵力に十倍する難敵に成り上がった。陰に陽に戦う旅団はとうとう三年の間に一度も尻尾を掴まれることなく戦い抜くに至る。掲げるは公孫賛の遺志を継ぐことを示す北斗七星の旗。智者と勇者を率いる頭目・劉玄徳の名は、今再び全土に知れ渡ることとなった。

 

 ――そして漢。

 一度は失った長安を再び奪い戻し、荊州はじっくりと再支配を浸透させて完全に従えた。涼州は今や鍾繇と張既という二名の功績で篤く信望を交わし合い反乱の気配はない。益州は漢中を抑えた赫昭が微塵も身動き出来ないよう封殺している。時間をかけて李儒が奸策を用いて一つ一つ益州の実権を奪っていくだろう。豫州においた袁術の元には監督官として司馬朗と馬良を派遣し、万に一つの失策も許さない体勢。

 元より精強だった騎馬隊は、匈奴からの定期的な軍馬の供給もありさらに充溢を見せ、他に類を見ない五万の騎馬隊を揃えるに至る。率いるは李岳を筆頭に張遼、高順、馬超、馬岱、趙雲、そして呂布。

 史上最強の軍団を揃え、中華再制覇の戦鼓をいつ鳴らすかと――身をかがめる虎の如く、小柄な男は静かにその時を待っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 春暁に小雨が降ったらば、ややもすれば雲ひとつない蒼天と相成るであろう。

 賑々しくも厳かな洛陽城内を抜け、李岳は宮殿へ出仕した。

 いつもと様子の異なる宮殿内を、しかしいつものように通り抜けようとする李岳を待ち構え詰問する影が二つ。

「何してんのあんたってば……」

「やあ、詠。おはよう」

 呆れたようにため息を吐く賈駆。ひょっこりと顔を覗かせた董卓もまた煮えきれない表情を見せる。ためつすがめつ李岳の服装を眺めたが、やはり首を振った。

「今日がどんな日かわかってんの?」

「冬至くん、それは……だめだめだと思います」

「だめ? どこが?」

 赤い礼服を身にまとった己の姿を見回しながら李岳は首を回す。

「ああもう、まだるっこしい。ねっ、月。ボクの言った通りでしょ? こいつはこういうやつなのよ」

「うううん……や、やっぱり準備しておいてよかった」

 二人に袖を引かれ、李岳は宮殿奥の後宮の手前、丞相の居室に引きずりこまれた。

「俺は一体今から何されるってのさ……」

「着・替・え! 今日が何の日か、本当にわかってないの!?」

「わかってる、わかってる。だからそれなりの格好をして……」

「それなり!? アホなの!? 確かに色はあってるけど、刺繍の一個もないじゃない! 木っ端役人じゃないんだから……ああもうめんどくさい、あそこに掛かっているやつにとっとと着替えなさい!」

 洛陽に来たばかりの頃、李岳は周囲の目をあざむくために豪華な暮らしにふけっていたが、質素で静かな暮らしが本来の性であるからして、やがて着飾ることも酒宴を開くこともなくなっていくのは自明のことだった。反董卓連合を退けて以後、呂布が引き取る動物たちを養うためにこさえた広い屋敷が唯一の例外。李岳の普段の装いは地位にそぐわぬ安っぽいものが常となった。今やそれをあげつらう勇者は丞相府の人員を除けばいるわけもなかった。

 で、あるからして、董卓と賈駆が李岳の今日の装いを予想してくることは手に取るほどのことでもないのであった。

 賈駆に引かれ、董卓に押されて李岳は一室に導かれた。そこには真紅の美しい衣と見事な冠がかかっていた。

 日月に龍、星辰は銀糸でちりばめられ、中央には、龍に頭を垂れるように描かれた星が一際輝くように縫われている。上衣、下裳ともに刺繍から細工まで細かな仕事がなされていた。

「あんたのことなんか、お見通し! 怒られるのはこっちなんだから、文句はいいっこなしよ」

 鼻息荒く李岳をせっつく賈駆。一朝一夕で出来る代物ではない。董卓と賈駆はかなり前もって李岳の礼装を用意していたということになる。

「これは……」

「なに? ご不満ってわけ!?」

「いや、ありがとう」

「フン! いいから。それ着たら早く行って。着いたらすぐ来るようにとの御召しよ」

 李岳を召し出せる者などもはや限られる。そして今日という日を考えれば一人しかいない。

 

 ――今日は皇帝劉弁の婚礼の日。諸人こぞりて祝いを述べる日。しかしこの祝事を寿くには、全ての反乱を鎮圧してこそであるということは自明であった。地を和して初めて帝の安泰を願うのが臣下の本来であったはず。しかし未だ北方で天に唾する偽帝の一党はその勢力をのさばらせ、漢朝の威信に盾突き続けている。この状況の中で婚儀を挙げることはある意味英断であったが、丞相府の進言、そして帝自身の応諾もあって婚礼の用意はするすると進められ、今日この日――新春の朔日を迎えたのであった。

 

 李岳は二人に手伝ってもらいながらようよう着替えると、慌てて劉弁の待つ居室へと向かわされた。

「李信達、(まか)り越しましてございます」

「入るがよい」

 ひざまずいて入室し、李岳は恭しく礼を述べた。

「陛下、御婚礼まことにおめでとうございます。臣、喜悦至極でございます」

「……うむ、喜んでくれるか」

「はい、これ以上の慶事はございません」

「そうか、うむ。これで朕も一人前じゃな。どうしたって婚礼しておらねば、子を成す気がないのかと民にも思われていたに違いない」

「万民、皆心安んじ、より一層陛下への想いが募ることでしょう」

 皇帝劉弁はいつものように砕けた口調で李岳に立位と拝顔の栄誉を与えた。

 劉弁は李岳が見たこともない出で立ちでそこにいた。

 皇帝の威厳を讃えつつも愛らしさを覚えさせる祭具、装飾――古典にはないものもあるだろう。だがきっと、腕っぷしの強い董卓配下の生え抜きたちが、宦官をやりこめて押し通したに違いない。

 劉弁は李岳の顔をしげしげと見つめた後、ふいと小部屋の窓から空に目を移して言った。

「李岳、貴様もなかなか似合っているぞ」

「ああ、これですか……いや、着慣れないもので自分ではさっぱり」

「胡服に鎧姿ばかり見慣れていたが、立派な礼服も悪くないではないか」

「……なんだか変ですよ、陛下。私が褒められてどうするというのです。逆ですよ逆」

「だったらほれ、なんぞ述べてみよ。宮女以外で目にするのはお主が最初じゃぞ?」

 くるりと婚礼衣装を見せびらかしながら、劉弁は李岳にほれほれと催促した。

「大変……お美しゅうございます。言葉もありません」

「……そうであろ。他にはないか?」

「先に拝謁賜り、ご皇配となられる方に申し訳ないと」

「生涯の自慢か?」

「当然です。ですが誰にも申せませぬよこんなこと。なので自慢はできませんね」

「秘密、というわけか。贅沢なことじゃの」

「それはもう……」

「嬉しいか? はっきり申せ」

「はい。とても嬉しゅうございます」

 劉弁は満面の笑みで頷いた。それはどんな香りや刺繍よりも愛らしく、美しく、劉弁を彩った。

「そうか、嬉しいか!」

「……陛下、決して口外なされませぬように」

「誓おう。そなたと朕――二人だけの秘密じゃもの」

 束の間言葉が途切れた。なぜだか口を開くのをはばかられ、李岳はただ劉弁の言葉を待った。

 あれほど幼かった天子は、今は立派に成長し威風堂々皇帝の威厳を兼ね備えている。しかし今この場においては、あの頃のままのように李岳には見えた。

 しばらくして、劉弁はぽつりとこぼした。

「張温も朱儁もおれば喜んでくれていたろうか」

 張温は先年、病を得て帰らぬ人となっていた。安らかな最期であったと聞いている。

「ええ。きっとご覧になっておられます」

「で、あるならば、多分泣いとるぞ?」

「泣きっ面を朱儁将軍にからかわれ、背中を叩かれていることでしょう」

「目に浮かぶ」

 劉弁は窓の外、深い空の青さを覗き込んだ。

「母上も……お喜びだろうか」

「無論のことです」

「そうか……そうじゃの」

 うん、と振り返り劉弁は微笑む。慎ましくも華やかな香り、秀麗極まる衣装が踊り、まるで周囲に絹の花が咲いたかのようだった。

 美しい花は、そのまま李岳に近づくと出で立ちを正した。

「まっすぐ立て、李岳」

 劉弁は李岳に近づき頭頂から手の平を伸ばす。背くらべだった。手が李岳の額にコツンとぶつかる。

「くそ、届かんかったな……お主はチビじゃから、いつか見下ろしてやりたかったのに」

「いつも伏し拝み奉っているではありませんか」

「そういう意味ではなくな……くそ。やっぱりまだ少し、お前が高い」

 この数年で劉弁も劉協も背が伸び、幼さの面影が消えていった。心労も多かったろう。人一倍早く大人になるしかなかっただけなのだ。その境遇を哀れに思ったことも一度ではない。

「臣も背が伸びたのです」

「少しじゃろ?」

「これでも指一本くらいは、伸びたのですよ」

「縦にではなく、横にした時の指の腹くらいじゃろ? 主君の前で見栄を張るでない」

「……かないませんね、本当」

「いつも見ていたからわかる」

 正面から背くらべのようになったので、劉弁の顔がすぐ目の前に来ていた。種類はわからないが、芳しい香りが鼻腔をくすぐる。目尻を塗る青と紫、頬の白、唇を際立たせる紅。そのどれもが鮮烈な色合いだった。色彩に目を奪われていると、ふい、と残り香を残して劉弁はくるりと回って離れていった。香りが踊り、誘うように李岳の周囲を舞う。

 劉弁は距離を置いても頑なに李岳と視線を逸らすことはなかった。

「朕は貴様に何度も救われた」

「臣下の義務を果たしたまでです」

「帝位を守れたのも、劉協を救えたのもお主が果たした」

「何ほどのことはありません」

「けれど……もし、もしじゃ……朕があの時、皇位を望まず、劉協と逃げたいと言っていれば……貴様は……」

 劉弁はまごつきながら、口ごもりながら李岳にささやかな空想を投げた。

 うーん、と思い出しながら李岳は答える。その口元をいたずらっぽく歪めて。

「そうですねぇ。私も面倒くさいことをぜーんぶ月たちに押し付けて尻尾を巻けたかもしれません。思ってもみない話に飛びついていたでしょう」

 劉弁は心底おかしそうに笑った。

「そうなると貴様は逃げた先で朕ら専属の飯炊きじゃったな!」

「逃げ出した以上召使いなんかいませんからね。陛下だって家事しないといけないことをお忘れなく」

「馬鹿を申せ。朕と劉協は猫を撫でるのみ!」

「ご無体な」

「ははは! そうなっていたのなら、貴様とも気兼ねなく真名を交わせていただろうな。姉妹ともども市井の民と同じなんだもの」

 皇帝は臣下と易々と真名を交わすことはしない。儒教の教えに真っ向から反する、君臣の在り方を覆す暴挙と(そし)られてもおかしくないからだ。

 帝が真名を許すのは血筋の中でも親と兄弟姉妹を除けばただ寝所を共にする者に限られる。

 劉弁が語る甘く儚い夢物語は、いくつもの意味で決して叶えられないことを劉弁自身がよく理解している。

 だから長く浸ると辛さも増す。劉弁は邪気を払うように手を振った。

「……しかしいくら尻尾を巻いて逃げると意気込んだところで、貴様は性格が悪いからさぞかし尻尾もひょろ長かろう。遠からずとっ捕まっていたはずじゃ」

「陛下だけでもお逃げくださいと言いたいところですが、難しいでしょうね」

「なんじゃ不敬者め、道連れにするつもりか」

「ええ。でもそれじゃあ結局、今と変わりませんね。我が君を必ずお守り通すと誓った身なのですから」

「……ばかなやつじゃ」

 夢物語は終わった。しかしその言葉を聞けただけで劉弁は満足だった。

 明確な気持ちにも言葉にもしない。けれど自分の人生に、名もなき心のしこりに区切りをつけることが出来た。固く、温かいくせに少しささくれ立つようなしこり――それを心の隅の小さな小箱にそっと閉まって鍵をかけることを劉弁は自分に許すことが出来た。いつかまたその箱を開け、そっと愛でることもあるだろう、と。

 ふうと大きく息を吐いて劉弁は居住まいを正した。李岳もまた再び膝をついて控えた。

「朕は泰平の世を求む。その願いのためにも此度の婚儀があると思え」

「はっ」

「朕の願いはそれだけではない。なるべく穏やかな世がよい。それで、平和が永続するための祈念と称して毎日宴会をして、お酒もいっぱい飲んで、たまには姉妹で逃げ出して……民からは平和ぼけした暗君と言われたい」

 李岳はさらに深く頭を垂れた。

「必ずや成し遂げます――我が君」

「平和になれば軍もいらぬな。それに……朕は後宮も作るぞ?」

 少しの間を置いて李岳は答えた。

「不届き者が夢見を乱さぬよう、臣は君の平安を守り続けましょう」

 李岳の返事を噛み締めるように、劉弁は頷き沈黙した。

 どれほどそうしていたろう。やがてあさっての方向に目を向けたまま劉弁は手をひらひらと振る。

「もう良いぞ。気が済んだ。また後ほど会おう」

 命じられて否やはない。李岳が見える限りでは、退室するまで劉弁はただ窓の外を見続けていたようだった。

 扉の外に出ると、待ち構えていたであろう劉協がいた。李岳は再びひざまずき拝礼する。

「殿下」

「陛下は、どのような様子でしたか」

「……お元気そうでした」

「それで?」

「お喜びをお伝えいたしました」

「それだけ?」

「はい」

「そうですか……」

 聡明な劉協にしては珍しく、言葉を選んでは小さく区切りながら話した。

「陛下は……姉上は無理をされていると思いませんでしたか? 望まぬ婚礼などと申せば、皇族としての義務を果たさないように思えるでしょうが……」

「私もお会いしましたが、御夫君となられるはとてもお優しい方でした」

「それは、わかっているのです。陛下も余も、そのようなことを心配しているのではありません。そうではなく……余が申したいのは」

 不敬を承知で李岳は劉協の言葉を遮った。

「殿下。そろそろ刻限です。参りましょう」

「……貴方は、ずるい人」

「はい。多くの敵が私のことをそう思い、そして兵たちも怖れているでしょう」

「そういう言い方が、なお一層そうなのです。愚か者のふりなどして……」

「それもまた、私が得手とするところなのです」

 ご容赦を、と述べて李岳はその場を辞した。後ろに控えていた太史慈が憐れむような目で李岳を見送っている。

 そのまま大広間へ向かった。まだかまだかと足を踏み鳴らしていた賈駆に導かれるまま、李岳は前列から四番目の中央にひざまずいた。隣には同じ格の品官別に官吏たちがズラリと並んでいる。広間にいる全てを数えれば二百名。そこから下って宮殿の広場では五千名。門を抜ければ数万人の人間が、同じように膝をついているに違いない。

「陛下の御成りでございます」

 宦官が呼び出しを行う。普段の祭礼でさえ鳴らない雅楽が響き、皇帝劉弁が姿を現した。先程は身につけていなかった(すだれ)のごとき珠の垂れた豪壮な冠をかぶっている。

 やがて典礼の儀官たちが何十人も現れると、一斉に言祝(ことほ)ぎの言葉を述べ、そしてひざまずいたまま伏し拝み礼を捧げた。

「陛下の萬壽無疆を願い奉り、臣一同真心より御祝い申し上げまする」

 全く同じ文言を全員で唱和した。かすかに垣間見た劉弁の顔。冠の奥で薄く頬を染めているように李岳には見えた。皇配となる方もすこしふくよかで優しそうな――

「万歳!」

 声に弾かれ、李岳は慌てて続いた。

 万歳、万歳、万々歳――

 

 

 

 婚礼の儀式が滞りなく終わるとかねてより通達した通り――とはいえ確実に異例なことであるが――帝は装いを新たにして大軍議の招集をかけた。

 祝賀の雰囲気を厳に慎むは国家危難の(とき)が未だ過ぎ去っていない現状を、帝がよく理解していることを示していた。

 軍議の冒頭、天子は逆賊劉虞と袁紹一党の速やかな討伐と北方四州の奪還を改めて指示した。

 その勅命を一身に受け止めるのは姓は賈、名は駆、字は文和。宣言通り任期で職を辞した董卓の後を継ぎ、天下国家を支える当代二代目の丞相こそまさに彼女である。

 誰もが認める天下の才はとうとう位人臣を極め、居並ぶ重心たちの前で玉文を読み上げる。そして末尾に至り、とうとう実働部隊の指揮官が指し示された。

「李信達、前へ!」

 賈駆の声に従い、李岳は前へ進み出ると拱手した。もはや壮麗な礼服ではなく鎧姿である。臨戦態勢であることを内外に示していた。

「勅命である! 本日をもって貴君は車騎将軍の地位を拝命し、北方四州全土の奪還に向けて行動を開始せよ」

「ご下命、謹んでお受けいたします」

「……やれるわよね」

 帝を前にして異例の私語。しかし誰も咎める者はおらず、天子もその返答に耳をそばだてた。

 李岳はらしくなく、大喝した。それはこの三年、屈辱と後悔を胸に抱いて生きてきた男の叫びだった。

「我が、全身! 全霊を以って! 敵を討ち天下泰平を成し遂げる所存! 我らが勇者の奮戦を、安んじてご照覧あれ!」

 

 

 

 

 

 

 ――軍議の後、李岳はただちに隷下の人員を招集した。それはこの数年、耐えに耐えた漢朝の最大戦力と言えた。

 李岳に付き従い東に向かう将は以下、張遼、高順、呂布、馬超、馬岱、華雄、徐晃、楊奉、廖化、黄忠、厳顔、文聘、霍峻、趙雲、張郃。文官軍師として司馬懿、徐庶、司馬孚、司馬敏。

 騎馬隊五万、歩兵三万、さらに二万の匈奴騎馬隊の動員も決定し、李岳は対冀州の最前線基地を白馬津と定めた。

 陳寿が著し、また後世に云う『官渡の戦い』が、静かにその幕を開けたのである。

 

 

 

 

 

 




いよいよ感が出てますでしょうか。とうとうといったところです。まぁまだまだ先は長いのですが……官渡の戦いで終了、というわけでもありませんのでよしなに。
珍しく少し後書きを書いてみようと思います。最終章と言い切ってるもので、作者も結構ドキドキしてます。ようここまで来たわぃ…

スカッと三年が経ってしまいましたが、まずは美羽様にはきちっと謝りたい。すみません。完全に省略しました。許して……
あまり説明すべきでないとは思うのですが、反董卓連合軍で漢に寝返った成果としての『名士の信望』がめぐりめぐって美羽様生存ルートにつながった、という裏設定です。七乃の保険が活きたな、という形です。他の面々も全員生存です。
桃香さんは旅団を率いてゲリラ戦を実施中。『劉備』として一番バフが付くスタイルと思います。袁紹からすればもう最悪に目障りだと思います。

帝の気持ちは永遠に宝箱の中です。それでいいのです。

それでは次回をお待ち下さい。がんばります。

あとせっかくなんでアンケート機能試してみました。(追記 アンケートは終了いたしました)

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