真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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前話で実施したアンケートに基づき、今回の更新は幕間とさせて頂きました。
調子こいて3つも書いてるんだから世話ないぜ。いずれも時系列順になっています。
他にも幕間ネタできたので、それはまた折を見て。


幕間 閑話集

「李岳の帰還」

 

 様々な意見は出たものの、議論の大勢としてはひん剥くという流れに傾いていた。

 李岳を、である。

 己に課せられた大任を放棄して単身出奔するなど、そんなことが許される身分などではない。しかも向かった先は幽州で大戦の只中に身を投じているという。それを救うために費やされた兵、将、資源、そして皆の気持ちを考えれば当然の処罰が必要となるのは明白だった。

 そもそもが、である。情勢は未だ混迷を究め、洛陽近辺でさえいつ何時(なんどき)反乱が起きるかもわからない中、李岳の存在がどれほど抑止となっているかまさか本人がわかってないとでも言うのだろうか? 健気にも信頼を寄せる帝の想いをなんとするつもりなのか――機転を利かせた賈駆が「父親の元へ顔を見せに行っている」と繕わなければなんとしていたであろう。

 呂布や張遼、高順らの騎馬隊と曹操軍の連携を用いての渡河作戦からはや数ヶ月、早馬から伝え聞くところによると李岳は既に冀州を脱して馬を走らせているという。もう幾日もすればこの洛陽に舞い戻ってくるであろう。日を追うごとに仕置人らの覚悟は確かなものとなっていく。

 さぁ剥かん、いざひん剥かん。洛陽に身を戻し虎視眈々と気勢を吐く張遼を筆頭に、機を見て折檻したいだけの華雄、身辺警護も含めて務めを任されていた張燕、その右腕廖化、義妹の徐庶らはどうしてくれようと腕を回し拳を鳴らした。やれいかにしてしんぜよう?

 ところがそれを差し止めた者がいた。いたずら好きで人の言うことなど平時はほとんど聞かない荒くれ者たちがやむなく従わざるを得ないその人は――

 

 

 

 帰還した騎馬隊は人目を(はばか)りあえて夜半に入城した。

 呂布率いる騎馬隊を見咎め引き留められる者など洛陽にいるはずもない。刻限に遅れて帰還した騎馬隊を、洛陽の城門はそっと開いて出迎えた。先頭に呂布、続いて李岳、趙雲、そして帰還を命ぜられていても河水南岸で頑なに合流を待ち続けていた司馬懿と張郃。

 急いで戻る理由は何もない道程だった。穏やかで静かな――しめやかな帰路だった。

 洛陽城内に入るとまずは軍団を兵舎に送り込み、将たちも別れた。張郃は元より付き従う子飼いの兵たちとしばらくは寝食を共にするという。司馬懿は李岳の申し出を断って一人帰宅した。

「星は」

「繊細でな。見知らぬ街では眠気が来ない」

 趙雲はそう言い残すと愛馬の白龍を引いて消えていった。李岳はあえて呼び止めることはしなかった。

「……帰ろうか」

「うん」

 あっという間に二人きりになった李岳と呂布。黒狐にまたがった李岳、赤兎馬にまたがった呂布。二人で月夜に照らされる洛陽の道を歩く。呂布は冀州からこちらずっと黙っていた。李岳に声をかける術を呂布は持たなかった。ただ隣にいて、一緒に飯を食い、寝起きを共にしただけ。それを間違っているとは思わないが、十分だったとも思えない。消し方を知らないもどかしさに苦しんでいると、あっという間に李岳の屋敷についた。

 厩舎まで馬を引き、邸内に入った。ほのかに明かりが灯っている。誰かが待ち受けているのは明白だった。

「お待ちしてました」

 茶を飲んでいたのだろう、茶卓に碗を置いて少女は――董卓は長椅子から立ち上がり李岳を出迎えた。

 この時刻になることも含めて李岳の帰還の日程は早馬で知らせている。彼女は李岳が来るのを待っていたのだ。

「お疲れ様です、お二人とも。よくご無事で……」

「月、すまない。黙って出ていって」

「恋さん。少し、二人にしてもらってもいいですか?」

「……ん」

 董卓は李岳を遮り、さらに呂布に退席を願った。呂布が反発せずに従う数少ない人が董卓である。相性なのか、それとも董卓の中の何かに恐れているかのように呂布は董卓に口答えしない。呂布は何度か李岳に見返りをしつつも、何も言わずにそのまま自室の方に消えていった。

「お茶はいかがです?」

「ああ。もらおうかな」

「おかえりなさい、冬至くん」

「ただいま、月」

 まるで侍女のように董卓は茶を淹れる。炭で火を熾した火炉から湯を茶壺に静かに注いでいく。冬の冷気の中、湯気がくぐもった音を立てながら生き物のようにゆらめく。皇帝を除けばこの国の頂点にいる少女は、他者に仕えることこそが権力ある者の務めであるということを示すように、美しくも慎ましい所作で茶をついでいく。

「事情はおおよそ察してます」

「……俺も、道中に如月からおおよそのことは聞いた」

「それは、良かったです」

 李岳の屋敷の居間には長椅子があり、李岳はその一方に腰掛け、董卓はその反対側に腰掛けている。丁寧に蒸らした茶壺から碗に浅葱色の液体を注いでいく。淹れ終えた時には董卓は李岳のすぐ隣に座っていた。

「美味しいよ」

「お酒より良いかと思いました」

「そうだな……酒は、際限なくなりそうだ」

「だめですよ」

 強い語気だった。李岳は答えずに茶を口にした。淡くも強い香りが一瞬だけ満ちて消えていく。南からわざわざ仕入れているのかもしれない。

 すっと飲み干してしまった李岳が碗を置くと、董卓は二杯目を蒸らし始める。百ほど待つのだろうかと思った時、李岳の頭はぐっと傾いた。

「よっ……こいしょ」

「おっ、あっ、とと?」

 李岳の頭をむんずと掴んで自分の太ももの上に導いたのは董卓。その小さな体のどこにそんな力があったのかと思えるような動きで李岳の頭を離さない。李岳は自分の生殺与奪が完全に上司である丞相董卓に委ねられたことを悟った。

「……力、強くなったんだなぁ、月」

「詠ちゃんに、運動しないとダメだ〜、って怒られたんです。だからえっほえっほって……書の巻物とかを持って上げ下げとか、全部自分で頑張ったんです」

 むむん、と全く見えない力こぶを誇示しながら董卓ははにかんだ。もう賈駆に一方的に庇護されていた少女はどこにもいない。賈駆もまたそれがわかっているから、あれだけ過保護に庇護していたことを忘れたように激励の言葉を投げたのだろう。

 諦めて李岳が身を任せたままでいると、董卓はさらさらと李岳の頭を撫で始めた。少し癖のある柔らかい髪。そのうねりを追いかけるように董卓の小さく細い指がそろりと這う。くすぐったくはなく、按摩のように気持ちよくて眠気を誘うほどだった。

「なんだか、懐かしいですね」

 その言葉に李岳ははっと眠気を追い払った。

「いつだったか、こんな風に看病したことありましたっけ」

「ああ……そんなこともあったな」

 あの時はお皿全部割って大変でした、と笑う――董卓。

 不用意に昔話をするものだから、強い波が立つように感情が立ち上がりかけた。思い出したくないことと、忘れてはならないことばかりな気がする。それが戦う者の宿命なのだろうが、こうして横になっている時にさえ襲ってくるとは。

「もう一つ思い出しました。あの日もこんな夜でした」

 二人の目線の先には壁を丸く切り取った十字格子の窓がある。上弦をいくらかふくよかにした月が見える。静かな夜。連想する過去は一つしかなかった。二人が盟約を交わした夜。一蓮托生の誓いを(ちぎ)り、宮中に攻め込んだ夜だった。

「……ああ。そうだったな」

 董卓は少し寂しそうに言った。

「血の階。冬至くんは一緒に歩くって言いましたよね」

「言った」

「でも、あれは嘘だった」

 李岳は首を傾けて上を向いた。董卓は窓を見てなどいなかった。ずっと李岳を見ていた。目が合う。董卓の瞳の色は夜の朧月のようにたゆたっている。

「私は一度だって血に濡れてなんていないですから」

「月も戦っただろう。苦しい戦いをしていたことを知っている」

「冬至くんはその百倍も、千倍も苦しんでました」

「俺は、俺は……それでいいんだ」

「何がいいんです?」

 董卓の声は怒ってはいない。責めてもいない。ただ静かに問うものだから、李岳は余計に答えに窮した。

 董卓もきっと答えを求めていなかった。李岳の髪をまた撫でながら月を愛でる。十字の格子に月がわずかにかかり始めた。こんなわずかなやり取りの中でも時間は流れていることをこれでもかと教えてくれる。

「頑張りましたね」

 やはり董卓は静かに言う。月は格子の十字の真ん中に来ている。雲がすばやく横切っては光を淡く濃く乱した。

「何も」

 涙の気配はなかったが、喉が乾いて李岳の声は詰まった。

「俺は、何も」

「ううん、頑張りました……冬至くんは、頑張ったんです」

「……月、俺を泣かそうとしているだろ? そうはいかない。男の涙は安くないぞ」

「へぅ……乙女の涙だって、安くなんかないですよ」

「それもそうだな」

 李岳は董卓の太ももに頭を載せられたまま、こぼれ落ちる董卓の涙を指でそっと拭った。

「だからさ、泣くなよ」

「うん……ごめんなさい。冬至くんの辛さが悲しくて……そしてその何倍も、無事に戻ってきてくれたことが、嬉しいんです」

「心配をかけた」

「本当です。罰が必要です。みんな怒ってるんですから」

「恐ろしい話だ」

「めっ」

 董卓は李岳の額をコツン、と指でつついた。

「はい、これで終わりです……勝手に出ていったやったこと、叱りましたから」

「……俺は」

「終わりましたから」

 董卓にはこれ以上李岳を謝らせるつもりがないことが、額から痛いほど伝わった。それがなおさら李岳を苦しめる。頼らなかったこと。頼れなかったこと。負けたこと。覆せない負けであったこと――その全てが一瞬で蘇る。月はまだ格子窓の中心にいる。時の流れが一定じゃない。この時間はひょっとしたら永遠なのかもしれない。この悲しみも、二人がわかちあう痛みも。

「ひどいやつだ、どうしようもない」

「ううん。だってそうなら……こんなに心配なんかされませんから」

 再びぐいっと李岳の頭を持ち上げて椅子に戻すと、董卓は立ち上がって奥の扉へと向かった。そしてやおら引き戸をガラリと開けると耳を押し当てていたのであろう張遼他、高順、徐庶、華雄、賈駆、徐晃、陳宮、張燕、そして帰ったはずの司馬懿に呂布……丞相符の面々が間抜けな格好で現れた。

「みんな」

「ちゃうねん!」

 真っ先に張遼が手の平を突き出して言う。

「勝手に出ていった思うたらこんなボロボロになって帰ってきよって……いっちょ文句言うたろか! っておもーとったのに、月がどぉ〜しても無茶なことはせんといたって! いうてお願いするもんやから、ほなおたくがケジメつけてくれるんやろな、言うて、言いっぱなしもなんやから顛末見届けな、こら寝付きが悪いやないの?」

「霞殿、ちょっとこれでは朴念仁の兄上には伝わらないのでは?」

 徐庶の言葉にきれたように、張遼がとうとう涙混じりに大声を張り上げた。

「よぉ無事で帰ってきた冬至! 袁紹と劉虞は後でウチがとっちめたるさかい、自分はちょっと休んでくれ頼むわぁぁぁ!」

 さらに面々が続く。

「坊や、このアタシ――張燕様のお守りを抜けて逃げ出すなんて、よっぽど腕っこきになったじゃぁないの。董卓のお嬢ちゃんは許したかもしれないけれど、アタシの仕置きはまだ始まってもいないってことをお忘れでないよ?」

「冬至。紅梅はこう言っているが一番気を揉んでいたのもこいつだ。母は気にもしていなかった。どっしり構えていろ」

「冬至殿! このねねを放っぽり出してよくもどっかに行かれましたね! しかも恋殿もいなくなって! この屋敷の馬十頭、牛三頭、犬十五匹に猫二十匹、代わる代わるやってくる鳥三十羽のお世話がどれだけ大変だったかおわかりになられるんですかぁ!? もうご飯のお世話はお腹一杯なのです! 人が食べる兵糧のことだけでも手一杯なのにぃぃ! 一生恨みますです!」

「おい! この華雄様率いる重装歩兵の増員が進んでいないのはお前がいないからだと聞いた! 一発殴らせろ!」

 いちゃもん含めて他にもそれぞれ、やんやの騒ぎ。

 理路整然と李岳を問い詰める賈駆、職責の重さについての自覚を促してくる徐庶、いつの間にか董卓との間に割り込んでじっと睨んでくる司馬懿、李岳の上にのしかかってくる呂布――へぅ、と困りながらも微笑む董卓。

 騒ぎの中心には、名付けようもない感情に襲われて表情を変え続ける李岳がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「李儒の異名取り」

 

 長安奪還の最大の功労者と言えば、もちろん責任者の董卓に帰する。

 旧都の失われた威光を一年も経たないうちに取り戻した功績は、失態を詰り悪罵を投げる未だ健在の守旧派、儒派を黙らせるには十分であった。

 そして天子の上機嫌はこれ以上なく、奪還に功ありとする主だった者たちを全て呼び寄せ酒宴を開いた。丞相董卓、その右腕の賈駆、前将軍李岳、軍師司馬懿、西涼を説得した実績を評価され新たに京兆尹として配されることになった鍾繇、その補佐張既。そして西涼からは馬騰、馬超、馬岱。未だ健在な益州勢力の抑えのために身動きの取れない赫昭、李確、郭祀を除けばおよそ関わった全員が召し出されていた。

 珠玉の如き智将勇将たち。そうそうたる面子の中で、しかし最も耳目を集めたのは李儒であった。

 

 ――その才、馬騰を引き込み長安を覆し、さらには逆賊劉焉の首を伐るに至る。

 

 功績は甚だしく、その名前はただちに天子劉弁の覚え目出度きに至る。

 酒宴の半ばで招きを得ることは当然至極のことであった。

「李儒といったな」

「へ、へへぇ……!」

 呼び出され、天子が座す玉席の前でだらだらと汗を流しながらかしこまる李儒。その恐れ入っている様子に内心安堵したのは一人二人ではない。普段から『邪龍復活』だの『暗黒神話を始める』だののたまう李儒である。天子に向かって世迷い言をぶつけて不興を買う恐れは十分にあったが、生来の土壇場の弱さが出てきっと怖気づくだろう、という李岳の予測が見事に当たった形である。

「そなたが今回の絵図面を描いたと聞いた。よくやったぞ」

「お、お、恐れおおくも……ゲホガホゲェッホ! オエッ!」

 拝礼が下手過ぎてむせる者など初めて見た、と一座が同じことを考え同じ表情をする。

「……聞くところによると特別な褒美を所望しているとのことじゃな」

「へっ!? はぁっ!?」

「李儒殿は格好いい二つ名が欲しいとのことです」

「ちょっ! おまっ!」

 告げ口のような李岳の言葉に李儒がらしくなく鋭い動きでつっこみを入れる。

「ふむ、二つ名か」

「へ、へへ、陛下!?」

「うむ。ならば朕がつけてやろう」

「えっ! へっ!? む、無理! 無理無理!」

 天子の申し出を無理の一言で無碍に断る女、李儒。この時点で既に伝説と言えた。

「そうか……朕では嫌か……だが功に報いねば君主とは言えぬ。李岳、月旦評の許劭でも呼んだ方が良いかの?」

「ああ、いえいえ。今の無理、という言葉は『あまりにも恐れ多すぎて感情の処理が追いつかずとにかく無理としか言えない』の無理なので大丈夫です。ああ見えて喜んでいるのです」

「そうなのか? 大丈夫なのか?」

「ええ。少し限界なだけです」

 

 ――そもそもその身体は龍の化身と言われ、天地人全てに触れる唯一無二の存在であるのが皇帝である。その設定が李儒の琴線に触れないわけがなかった。李儒が幼少の頃より書き連ねている大絵巻『邪竜伝説〜極覇伝〜』の最高潮はとうとう出現した邪龍と、元の巨大な善の龍の姿に戻った天子が洛陽の中心で激突する荒唐無稽極まりないものである。だがそれも愛ゆえに。漢の民としての一般の認識としての崇敬の念とは別に、李儒は天子をあまりに尊び敬っていた。そうでなければ李岳の奸計にほだされたといえ、こんな向こう見ずな戦いに身を投じるものか。李儒もまた帝を憂い、国を憂う義人と言えた。

 

 閑話休題。

 無理が無理すぎてあまりにも無理な李儒をさしおいて、いやに乗り気になった天子劉弁はうんうんと名前を呟いては唸り始める。

 それを尻目に、ひそひそと李岳に耳打ちする目ざとい女がいた。名は賈駆。

「……冬至。貴方さては自分で考えるのが面倒になって、帝を焚き付けたわね」

「人聞きの悪いことを言わないでくれ、詠。俺は全力で約束は守る主義だ。雲母が一番喜ぶ形にしてやろうと思ってだね」

「で?」

「……あの有様だ」

「ほんっとアンタって男は……」

「まぁ大丈夫だろう。俺につけられるより喜ぶよ」

 その内緒話が聞き咎められたわけではあるまいが、劉弁は頃合いよく二人を向いて声をかけた。

「李岳よ、世の智謀の士たちはどのような二つ名があるのじゃ?」

「えっ! えっと、そうですね。有名なところでは荊州の司馬徽様の水鏡先生、その門弟であった諸葛亮殿の臥龍、鳳統殿の鳳雛、愚妹にあたる徐庶は睡虎を賜っており、そこの司馬懿は賢狼とあだ名されております」

 ペコリと優雅に頭を下げる司馬懿。長く美しい茶色い髪が艷やかな気品と鋭い知性を感じさせた。

「なるほどの……動物の名が通例というわけか?」

「そうとも言えません。馬良殿はその頭脳明晰さと同じくらい白い眉が有名で、白眉殿と呼ばれてもいます」

「ふうむ。四神の名を授けるも良いが、亀とくるとどうにも印象と合わぬな。他になにか……李儒よ、立ってみよ」

「はひっ!」

 緊張のあまり不自然に膝をついたまま立ったため、足を痺れさせていた李儒はよろよろとふらつきながら、ようやく立ち上がった。

 全身黒ずくめの姿でそのように振る舞うものだから、劉弁の妙な心の琴線に触れてしまったらしい。

「……猫、か?」

 皇帝というのは厄介なもので、何かを思いついた時に周囲が押し止めることは難しい。それがどうでもいいことであればあるほどそうなのだった。

「黒猫、というのはどうじゃ」

「ね、猫ですか……?」

「嫌かの?」

「い、いえ! 黒猫で! 黒猫で構いません!」

 天子の妙な思いつきを授けられた李儒は、今度は臣下の己がその何倍も妙な思いつきを発揮する番だと珍妙な勘違いをしたのかとばかりに、突拍子もないことを叫んだ。

「我が異名、二つ名は堕天聖黒猫といたします!」

「うむ……うむ?」

「堕天聖黒猫です!」

「……」

 天子をタジタジにさせる女、李儒。

 頼んでもいないのに立て板に水の様子で説明を始めた。

「黒い猫は古来より魔の使いであると言われているとか言われていないとか。聖も魔も統べる帝の配下にふさわしき称号かと! で、あるならば我が心は黒と白をないまぜにした灰の属性……天より堕ちし、されど聖なる黒い猫こそ天子にお仕えする我が異名にふさわしいかと心得ます!」

「そ、そうか。よく励めよ」

「我が魂に標された星刻の紋章にある通り、たゆたう闇と迸る光に誓って、この堕天聖黒猫、龍の化身たる陛下のために邪龍様をお鎮めいたします!」

「……」

 かくして李儒の二つ名は堕天聖黒猫となった。しかし誰も呼ぶ者はおらず、その異名が定着することはついぞなかったことは付記しておく。もちろんのこと陳寿の著作にも記されなかったのは言うまでもないことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私がいるべき場所」

 

 洛陽に行ける。そう聞いた時の馬超の興奮ぶりは尋常ではなかった。

 今行きます、すぐ行きます、ええいまどろっこしい馬を引けい――馬騰が怒声を張り上げるまで始終そんな調子であった。馬岱には従姉にあたる馬超のその喜びぶりが、皆目理解できなかった。そもそも反董卓連合軍に参加した折、李岳軍に散々に騙され追い散らされたことを忘れたとは言わせない。あの時、馬岱は本当に死ぬかと思った。背中に迫りくる呂布の迫力を今でも鮮明に思い出せる。寝小便など馬超よりよっぽど早くに卒業した馬岱だったが、だというのに漏らした。あれほど明確に死を予感したのは人生で初めてだった。

「それなのにお姉様ったら……」

 目をキラキラさせて、こちらが一瞬でも視線を切れば飛んでいってしまいかねない。そもそもなぜそんなにも洛陽に行きたいのだろう。皇帝の覚え目出度く御出世遊ばせたいとでもいうのだろうか。それとも二度の敗戦ですっかり牙を抜かれてしまって帰順したいのだろうか。馬休や馬鉄に相談しても「心配しすぎ」の一言でまともに取り合ってくれない。そもそも馬岱自身が何を心配しているのか、本人でさえいまいち理解出来ていないので仕方ない話ではあるのだが。

 かくして馬超に追随して馬岱も上洛することと相成った。一旦旅出発してしまえば馬岱にとっても楽しい道のりであったことは確かである。長安を経由してあれほど攻略に苦慮した潼関の門をすんなりとくぐる。内側から厳顔を押し流した水攻めの仕組みを見て感嘆する。さらには歴史に名高い函谷関を物見遊山気分でゆっくりと見て回り、弘農では中原の美食に舌鼓を打つ。気づけば年始に雪を蹴立てて西涼を出たはずが、いよいよ洛陽に至った時にはすっかり梅も散ってしまっていた。

「ああ、いよいよだなぁ!」

「お姉様ってば本当に子ども……」

「チェッ! ほっとけよ、たんぽぽ!」

 洛陽の街に踏み入る馬超の浮かれぶりに水を差すも、馬岱とて人一倍緊張していた。天下に人が一千万人もっといるとして、その中心というべき街がこの洛陽である。見たこともない屋台の料理に織物の染め色、大道芸に目にするもの全てが真新しく、馬超に揶揄を向けたこともすっかり忘れて馬岱は目移りさせながら歩いた。

 やがて族長の馬騰はそのまま丞相府、そして宮中に挨拶に出向くということだったが、同道を打診された馬超は躊躇なく断った。

 馬超のお目当てはどうやら皇帝へのお目通りではなく他にあるらしい。

(まぁそんなことだろうと思ったけれど……)

 立身出世に血眼になる従姉の姿など、馬岱には逆さに振っても思い浮かばない。

 さて、と辺りを見回しながら馬超は練り歩き始める。馬岱は慌てて付いていく。

「お姉様ったら、ねぇ! あんまり勝手しちゃ怒られちゃうよ?」

「大丈夫だって、心配すんなって!」

「なぁにが心配するな、だか……いっっっちばん問題児じゃん!」

「誰が誰に迷惑かけたって? 連れてきてみろ!」

「ここにいるぞ〜!」

 キョロキョロと脇目ばかり振りながら街をうろうろする馬超だったが、やがてここだ、と声を上げて走り始めた。穂先に革袋をかぶせているとはいえ十字槍『銀閃』を持ったまま一目散で駆ける姿に馬岱は嫌な予感がしてならない。

 そして間もなくその予感が正しかったことを馬超はきちんと証明した。官軍のうちでも最も精強であり、昨年干戈を交えたばかりの董卓軍である。

 馬岱が止める間もなく、馬超は軍営に踏み込み大声を張り上げた。

「たのもぉ! 錦馬超だぁ! 全員ぶっ倒してやるから順番にかかってきやがれぃ!」

 やっちゃったぁ、と馬岱は天を仰ぐ。しんと静まり返った軍営。屈強なガタイに険しい面立ちの兵があからさまにこちらを()めつけている。嫌な予感しかしない。

「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと何してくれちゃってんのお姉様!」

「へん! あたしは元よりこのために洛陽くんだりまで来たんだ! 西涼一を気取ったところで天下に人が多いことは高順に穂先を切られた時に思い知った……あたしはもっと強くなる! そのためにはこの洛陽にいる猛者たちを全員ぶっ倒すのが一番の近道ってやつさ!」

 倒れる時は前のめり! なんて言葉を付け足しては格好をつけている。どこのめりに倒れようが一向に構いはしないが、巻き添えになる身になってほしい。

 こうなってはやむを得ない。馬岱も何があるかわからないと得物を手に心構えを作った。さぁどこから来る? 前から来るか? 右から来るか?

「おい」

 後ろから!? 馬岱は驚き慌て、振り向き、その顔を見た。

 

 ――呂布。

 

「ひえええええああああ! ダメダメこの人だけはダメダメダメダメ!」

 精神に負った傷がパックリと開いて馬岱は一瞬で取り乱した。蘇る恐怖、焦燥、絶望! 汗は流れて歯の根が合わず、膝を震わせながら馬岱は馬超にしがみついた。

 ところがその馬超は意気揚々の有頂天。馬岱のことなど目もくれず、槍の革袋を放り捨てて突きつけた。

「お前、呂布! 勝負だ勝負! 勝負勝負勝負!」

 呂布はいつぞや見せた鬼気迫る表情などおくびにも出さず、ぼけーっとしたままぼんやりと呟きを返した。

「いいけど後で」

「なにっ! この錦馬超が勝負だっていってんだから、ここでイッパツ決着を」

「今から、ご飯だから」

 ご飯。その言葉が与えた衝撃は馬超と馬岱、それぞれ別となった。

 馬岱は、ああこの人もご飯を食べるんだ、とまるで見当違いのことを思ってしまった。鬼ではなく人なんだ、とようやく冷静さを取り戻す。見れば見目麗しい美女である。穏やかな瞳には殺意も狂気も何も宿ってはいない。

 一方の馬超、回答は口からではなく腹から出た。盛大に鳴り響くは空腹を訴える特大の虫の鳴き声。

「あっ、その……や、やっ……いやっ……!」

 まるで生娘のように(実際に生娘だが)頬を染めて馬超はうずくまってしまった。普段や戦場ではこれでもかと目立っているくせに、男絡みやこういうどうでもいいところで妙に恥じらいが強いのはとても不思議なことである。

 それを笑うでもなく咎めるでもなく、呂布は首を傾げてぼんやりと呟いた。

「来る?」

 うずくまったまま、馬超はコクコクと頷いた。

 

 

 

 

 

 

 およそ一刻前。誰が言ったか定かではないが、肉を食おうぜ、という話になった。

 肉を食うことは正義だ。しかも野外で焼くとなるとこれはもう大正義といって差し支えない。

 正義が何であるかここに明らかであるならば、取るべき道は一つしかない。昔の偉い人も言ったではないか、義を見てせざるは勇無きなり、と。武勇に優れた猛将揃いの董卓軍である、勇がないなど外聞が出回れば沽券に関わることで許されるべきではない。

 それにまたこうも云う。兵は神速を尊び、好機逸すべからず、善は急げ、思い立ったが吉日、奇貨居くべし。

 梅の花が散ってしまい、それにこじつけて酒を呑むことも叶わなく成った昨今である、欲望に火がついた人の動きは早かった。気付いたときには誰彼ともなく集まり始め、さしたる間もなく丞相府のうち欲望に長ける者たちが気ままに集まりいずれ勢揃いするだろうという有り様と相成った。

 酒宴となれば一番の機動力を発揮するのが切り込み隊長、張遼が張遼たる所以(ゆえん)である。肉に酒にと必需品を満載した四頭だての馬車をだんだか乗り回すと、えいやと河の(ほとり)に突っ込んではどっかと杭を打ち込んだ。

「ここを野営地とする! たぁりゃー!」

 意外な手際の良さで火を起こし始めるのは華雄。自慢の戦斧で切り出した薪をじゃんじゃか放り込んではいざいざと急かす。

「豚だ! 豚! 豚を焼け! 豚だ!」

「鳥やぁぁぁぁぁ!」

「ひっつひっつじー、なのです!」

「に、肉! なんでもいいので、に、肉をください!」

 育ち盛りの陳宮と徐庶までもが、食欲の権化たる武人連中に混じって最前線を譲るまいと張り合う。がめつく厚かましくは董卓陣営に属す以上、なくてはならない素養である。

 肉はどんどん焼けていっては配給されていく。よほど飢えていたのか、あるいはあまりにも多忙な日々の中で粗食にまみれていたせいか、肉に目を曇らせた者たちが次々に串刺しの肉に手を伸ばしてはむしゃぶりついていく。こと宴会の運営に関して董卓陣営の右に出る者はそうはいない。特に理由のない宴である。だから誰も気を使うことはない。誰もが思い思いに自らの口に酒を放り込み肉を投げ込んだ。

 

 ――その最中に無造作に連れてこられたのが馬超と馬岱であった。

 

「おおおん? なんや恋、見覚えのあるようなないような二人連れてきて……どこのどちらさんや?」

「さぁ」

 馬超がいきり立つ。

「見覚えがあるようなないようなだと!? お前もさぁじゃない! 馬超だ! 西涼の錦馬超!」

 あー、と張遼が酒をとっくりから直接ぐびりとやりながら言う。

「おひさやん?」

「ああひさしぶり……っておおい! もっと他にあるだろぉがぁ! 二度までも敵味方に別れて槍を交えたんだぞ!? それを言うに事欠いて張遼貴様……!」

 なんだかお姉様がとても常識人に見えるなぁ、と馬岱は隣で妙な気持ちになる。

 しばらく馬超と張遼の押し問答を眺めていると、はい、と皿に盛った肉を差し出された。身なりの整った少女で、キリリとした眼と佩いている短剣に目が行く。賢そうな人だなぁと馬岱はぼんやり思いながら皿を受け取った。

「ようこそ宴会に。こちらどうぞ」

「あ、これはどうもどうも……って、えーと」

「姓は徐、名は庶。字は元直。軍師を務めております。本日は西涼から馬騰様御一行が来られることは既にお聞きしています」

「これはご丁寧に。馬一族が一人、馬岱で〜す。うちのお姉様がどーもすみません」

 てへ、と謝ると、徐庶もまた似たような仕草でてへへ、と笑う。なんだか仲良くやれそうだ、と馬岱は思う。でも少しこの子酔ってるな? とも思った。董卓陣営というのは強くて残忍で戦となればとんでもない連中だと思いこんでいたけれど、こうしてみると何ともおおらかで親しみやすそうな人ばかりだと馬岱は思う。

 だからきっと馬超もあっという間に仲良くなるだろうと予感したのだが。

「……っておいおい、早速なのお姉さま」

「だからさぁ、張遼! お前の槍さばきは本当にすごい! あたしはそれを学びに来たようなもんなんだ」

「んなん言うたかて馬超! アンタの槍も半端なかったで! しかもあの騎乗した後の動き。なんつったらええんや? ほら、あれ、人馬一体っつーんか? さすがやったで!」

「いやいや張遼お前こそ」

「馬超あんたかて」

 肩を組んでダッハッハ、と笑い合う馬超と張遼。多分この後すぐ、それも秒で真名を交換するんだろうなぁ、と馬岱は思う。お姉さまに友達が増えるのはとても良いことだ。

「あ、兄上も……じゃなくて李岳将軍も参りますのでご紹介いたします」

「り、李岳!? あのとんでもなく性格悪で人を陥れるのが趣味ともっぱらの噂の李岳将軍!?」

「……なんということだ。否定できない」

 李岳と徐庶は聞けば義兄妹なのだという。経緯は複雑なのだそうではぐらかされたが、どうやら悪い人ではないらしい。

「そうだね……やっぱり会ってみないとわかんないよね」

「馬岱殿?」

「たんぽぽでいいよ!」

「あ! ありがとうございます! 私は珠悠です!」

 実際に会えば誤解も解け、こうして友達も出来る。

 

 ――馬岱は自分がこの洛陽に来るのがなんとなく嫌だったことを思い出した。はしゃぎ回る馬超を見ながら、馬岱は自分の想いを振り返る。

 

 結局、馬超という器は西涼には狭すぎることが根底にあった。馬岱にもそれはどこかでわかっていたが、馬超自身も二度の敗戦を通じてそれを痛感したのだろう――世界の広さを知ったのだ。洛陽に行きたくなったというのもつまりはそういうことだ。もっと広い世界に駆け抜けたいという駿馬をどうやってくくりつけることが出来るだろう。

 なんてことはない、馬岱はそうやって前を向いて歩き始めた『お姉様』の背中を見て、寂しくなったのだ。馬超とはずっと西涼で暮らしていけるものだと思っていたのに、いきなり遠くに行こうとするものだから。そして自分にはそんな欲望も野心もないことが浮き彫りになってしまった。それが寂しかった。

 でもそのわだかまりも今はほぐれたように思う。同時に馬岱は余計に嬉しくもなった。だってほら――

「おーい! たんぽぽもこっち来いよ! みんな良いやつだ、紹介するぜ!」

 馬超はあんなにも馬岱のことを気にかけているではないか。

「――フンだ! もーお姉様ったら! このたんぽぽを置いて皆さんと仲良くなろうだなんてズルいんだから! いいもーん! 私の方がもっと一杯の人たちと真名交換するんだもーん! 珠悠ちゃんとはもう親友になったし!」

「なんだとー!」

 馬岱は思う。不器用で危なっかしいお姉様の隣には誰かが必要だ。そんな面倒で大して旨味もない役割、他に誰が出来るというのだろう? だからこの馬岱がいつでもいてやろうと思うのだ。無駄話をしたくなれば聞いてあげればいい。たまにはからかってやればいい。不安になったり道を見失いそうになったら支えてやればいい。ここがどこだかわからなくなったなら、こう叫んでやればいい。

 私はここにいるぞ、と。

 

 

 




「李岳の帰還」
大騒ぎでお出迎えしてやろうかと思いましたが、あの結末のあとですから少ししんみりです。
まぁ結局騒ぎになるんだけどね。マイホーム…
月様の出番が最近全然なかったのでスポットを当ててみました。実は一番の理解者だと思います。


「李儒の異名取り」
というわけで李儒の二つ名は「堕天聖黒猫」となりました。本編には二度と出てきません。
感想欄でアイデア出して頂いた皆様、ありがとうございます。
ちなみに元ネタはご存知「俺の妹がこんなに可愛いわけがない 」シリーズからの拝借です。いやそりゃ中二病女子の金字塔ですからね…断固後輩支持過激派です。


「私がいるべき場所」
馬岱→馬超がエモすぎでは? 尊すぎでは? と書きながら熱が出ました。こんなに長くなる予定なかったのに……
お姉様! お姉様って呼ぶんだぜこの子!? あああ(スライムのように溶けて土に還る


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