真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百四十一話 北伐始動

 天子の婚礼から数日後の夜、いつもの面々が李岳の屋敷に集まり鼻を突きつけあっていた。

 昼が表であるなら夜は裏。より一層他言できない話題はここで話されることがいつからか決まりになっていたのである。

 普段は李岳と司馬懿の二人なのだがさすがに今日は人が多かった。賈駆に陳宮、実働部隊を代表して張遼。発言はないが給仕をしたいと申し出た董卓もいる。給仕などする気もなく食べるだけだが呂布もいる。並ぶ食事と茶。さすがに酒はないといいたいところだったが食事の伴に喉を潤す程度に留めるなら許されている。食事と同時に繰り広げられる会話は実質軍議であった。

 蓋碗を器用に傾けて、茶を口にしながら司馬懿が言う。

「河南の役所には戦費の捻出に不平を持った陳情が増え始めています」

 軍人にとっても最も大きな障害の一つ、厭戦感を司馬懿は指摘する。三年もの月日の間、戦がなかった。それは可能であれば今後もないことを期待させるには十分な期間である。民の反発は当然と言えた。

 しかし状況はそれに留まるものではないと賈駆は指摘する。

「正直に言いなさいよ如月。反李岳の声が上がっている、って」

 司馬懿は曖昧な表情で頷く。

「……そういう声もあります。ですが決して大勢ではありません」

「でもあるのは事実だ。気を回さなくていいから」

 頭を下げる司馬懿。李岳は腕を組んで目をつむった。

 今回の対袁紹の戦は李岳が強く進言したために帝が発意されたと噂が広がっている。悩ましいのはそれが事実だということだった。否定のしようがない。民の反発は強い。三年の平穏はそれほどに甘く強い。

 張遼が箸を叩きつけながら言う。

「せやかてしゃあないやん! あいつらシバかな何も始まらへんねんから! 文句いうやつなんかほっとけ!」

「おっしゃることはわかりますが、馬鹿には出来ません。後方で反乱が起きた時にどれほどの被害が起きるか、我々は三年前に痛感しているではありませんか」

 司馬懿の言葉にほとんど全員がうなずく。思い浮かべることは長安の失陥である。爾来、後方の備えを徹底すべしというのは洛陽の最も重要な方針の一つになっている。

「それにこうとも考えられる。戦が起ころうとして、それに反対する民がいる……喜ばれるよりはましだ、ってね」

 李岳の言葉に張遼は鼻白む。

「んなん言うたかて、その民の皆々様方のためにも戦ってるのがうちらやんか」

「戦になれば人が死ぬ。交易も滞り損をする。税は上がり米は取られる。こんな有様になるのに賛成してもらえると思う方がどうかしてると考えるべきだ……民がわがままとか無知だとかそういう話をしていない。これは水が低きに流れるのと同じことなんだ。むしろ民の皆は賢く正しい。自分の不利益に怒るのは人間として当然のことだからだ」

「けれど帝が」

 徐庶の言葉を遮るように李岳は続けた。

「そうだ。天下泰平は我々の総意であり帝のご意志だ。ならば臣の我々はその間に立って軋轢を取り除くのが仕事だ。つまりこのような事態を引き起こさせないための対処が政で、それを担っているのが我々だ。我々自身の無能が招いた結果なんだ、と考えるべきなんだ」

 司馬懿が再び茶を飲み、董卓が湯を注ぎ足した。張遼が鳥の骨をバリバリと噛み砕く。面々の態度にはそれぞれの立ち位置がわかりやすく表れていた。目的意識における文武の差である。

 乱世の常として定着しやすい悪習が、戦の成否を最優先とする風潮だと李岳は思う。

 戦は手段で目的ではない。発生した時点で政治的失敗なのだと孫子も言う通りだが、これが中々当事者には理解が出来ない。文民統制を是とするなどと唱えれば聞こえはいいが、血を流さない者の意見をどれほど素直に聞き入れることができるだろう。軍を統率する将こそ、戦争の最も悲惨な一面を直視しなければならないのだと李岳は思う。

 だからこそ、張遼の怒りを大切にしつつもそれを諭す必要を感じていた。

「皆、肝に銘じておこう。戦に反対する民たちを馬鹿にして侮る考えは、すなわち自らの無能と仕事の不出来から目を背ける考えに他ならない。我々が軍という力を有するのは、皆を守るためであって、責任転嫁を誤魔化すためにあるわけじゃないんだ」

 李岳の言葉に張遼が、だあああ、と声を出して頭をかきむしった。

「んなん、わーっとるがな……うちらはなー、そういうこと言いたいんとちゃうくてやなぁ」

「……え?」

 徐庶と陳宮が同時にため息を吐き、司馬懿が興味なさそうに誤って口にした茶葉を引っ張り出す。李岳一人だけが取り残されている錯覚を覚えた。

「あれ、何か変なこと言った?」

 心底呆れた様子で徐庶が言う。

「霞殿は兄上が馬鹿にされたことが許せないと、そう言いたいんですよ。何も戦をしたくてたまらないわけではないのです。その程度のことどうして気付けないんですか?」

「……そ、そっか。ご、ごめん霞」

「謝られる方がむず痒いっちゅーねん!」

 はぁ、とため息が漏れる。人の気持ちがわからないと常より指弾されることの多い李岳だが、さすがに自信をなくす。董卓が慰めるように李岳の碗にも湯を注ぎ足す。李岳は少しだけ泣きたくなり、まだ煮出しも甘い茶を口にして気を取り直した。

「……えーと、ま、なんだ。とはいえ陳情は対処すべき事案だ。戦のさなかに反乱が起きたとあっちゃ目も当てられない。さてどうする?」

 司馬懿が挙手する。

「減税を実施しましょう。幸い、白波賊の農地復帰から時間が立ち今年度から税収も上がる。多少の余裕はあるはず」

 はい出た! と大声を出して反論を繰り広げるのは陳宮。

「余裕など期待しないで頂きたい! 減税は既に実施されているのですよ? 長安、荊州、それに豫州の各地域全てです!」

「おっしゃるまでもない。再征服した以上民心を安定させることは必要でしょう?」

「どこでもブンブンお米をばらまいてたらいずれ立ち行かなくなりますぞ! ていうかなりかけなのです! そもそも皆様方は蝗害の被害をきちんとご理解頂いているのでありますか?」

 昨年大規模な蝗害が発生して飢饉一歩手前の事態にまで発生した。幸い戦もなく、李岳の指示で備蓄を十分に用意していたために最悪の事態は免れたが、それでもかなりの規模で財政は出動され、税収は激減している。軍の活動期間にも強い制限がかかる水準だ。

 陳宮の反論と心配は至極当然のものであった。作戦の全てに賛同している陳宮の反対だからこそ重みもあると言える。だからここから先は政治判断だった。賈駆の目配せを受け、李岳が口を開いた。

「兵糧は荊州から引っ張る」

「しかし、それは」

「泣き言は聞きたくない。何とかしてくれ。そろそろ豪族の首に縄もつけ終わった頃だろう」

「……近日中に荊州に向かいますです。長期出張となりますので!」

 フン、と陳宮は頬を膨らませてそっぽを向く。荊州に着いた日にはこの鬱積を全て舌鋒に乗せ、甘い見積もりや怠慢を鋭く容赦なく指弾し、細腕に似合わぬ豪腕で兵糧をもぎ取ってくるのだから侮れない。

「苦労をかけるよ、ねね」

「ふーんだ! これがねねの仕事なのですから任せてもらうのは当然のことなのです……だから皆も仕事を果たして無事に帰ってくるのです。お仕事なんですから、お家に帰るまでが大事なんですからね」

 待ってる側の身にもなれってなもんです、と言い切って呂布の胸に飛び込んでいく陳宮。よしよし、と呂布が慰めているうちにすっかり寝入ってしまうまで百を数える必要はなかった。

「あーあ、ねね殿、寝ちゃいましたね」

「そうだな珠悠。今日はここまでにするか」

 見れば夜も更けている。勅命は下ったが、戦の準備はいまだ七分である。明日からも仕事は山積みだ。無理は出来ない。

「今日はここまでにしよう。ねねには兵糧を用意してもらうが、政務としては民心を最優先にして欲しい。民からの不評は俺が一手に受ける。とにかく今は御婚礼の祝賀の空気に便乗するしかない。二度とは使えない手だ。今回の遠征、何より求められるのは結果だ。半年以内に必ず勝利をもぎ取る」

 全員が小さく頷き、解散となった。

 董卓と賈駆は張遼が、司馬懿は呂布が送りに出た。いつもなら司馬懿には李岳も付いていくのだが、今日は控えた。陳宮はもう寝台に寝かせているからだ

 一人になったのを確かめて、李岳は酒瓶を取り出した。酒は一人になった時だけ飲むようにしている。皆の前では、なぜだかあまりその気になれなかった。

 ちびりちびりと口をつけながらこの三年間用意してきたことを思う。

 勅命は下ったばかりだが、この時に備えての用意は三年間欠かさず行ってきた。

 北伐の軍は大半が既に出立の用意を完了している。李岳もまた本隊を率いる予定だったが、それは後発である。

 騎馬隊五万、歩兵三万、二万の匈奴騎馬隊。

 その全兵力の部隊集結はまずは洛陽の支配地域の東の限界地点である原武と定めた。その後に本隊は白馬津に移動し曹操と合流するという手はずになっている。すでに先遣部隊として高順の騎馬隊、馬超と馬岱の涼州兵、華雄と徐晃率いる重装歩兵が進発している。香留靼率いる匈奴兵もやがて到着するだろう。

「ああ、美味しい」

 碗の酒に口をつけながら呟く。

 

 ――この三年の間、ずっと戦の準備してたようなものだった。将は兵を鍛え、参謀は策を練り、諜報は策謀を働いた。そのほとんど全てに李岳は大なり小なり関与している。

 

 勝つための用意は全てしてきた。だが戦いが始まると思うとどうしようもなく憂鬱がのしかかってくる。

 袁紹は五十万の兵を称しているが、その全てが正規兵ではない。ただ武器を充てがわれただけの民も数多い。着の身着のまま、武器だけを渡され歩いてくる民達――それもまた今回の敵なのだった。

(黄巾の乱と官渡の戦いが同時に発生しているようなものだな……)

 田疇という統制を失った黄巾は暴発した。農を耕す者はおらず、食料の奪い合いは起こり、人々は武器を取るしかなくなった。あれほど豊かであることを誇っていた冀州は見るも無残な状態に陥っているという。民は聖帝を自称する劉虞にすがり、食糧を奪うために南下を試みているのが実情だ。その勢いを袁紹軍は利用している形だ。

 袁紹は一言で表すなら自暴自棄になっている。全土を支配したいというよりも、全てを破壊したいという思いに突き動かされているように李岳には見える。張燕率いる永家の者たちの情報によれば、親友である張貘を亡くしたことが人格に影響を与えたという。張貘を殺した曹操、自らを裏切った劉備、祀水関で屈辱を与えた李岳については深く憎悪しているだろう。

 劉虞についての情報はほとんどない。御簾(みす)の奥にいるだけでほとんど何もしていないとのことだったが、李岳にはなぜか彼女の気持ちが手に取るようにわかった。

 

 ――劉虞はきっと、楽しんでいる。

 

「田疇、お前の理想は馬鹿どものおもちゃにされているぞ」

 宿敵との戦い自体を汚されている気がして、李岳の手に思わず力が入る。

 あれは何人(なんぴと)たりとも介在を許さない戦いだった。暗く、目を淀ませながらも理想を貫こうとした男の覚悟を弄ばれているような気がしてならなかった。

 二つ目の碗にも酒を注ぎ、誰もいない席に置いた。自分の碗にも二杯目を注ぐ。

「そう思うだろ、貂蝉」

 いつの間にか姿を現した筋骨隆々、剃髪におさげをぶら下げた男はためらわずに酒に手を伸ばした。

「久しぶりだな」

「ご無沙汰でしたわねん……んん~、おいちっ」

 李岳は黙って二杯目を注いでやる。貂蝉はそれもやはり一息で飲み干した。

「げぇっぷ……失礼。大変結構なお点前で……」

「よくわからないけど良い酒らしい。贅沢な話だよな」

「良いご趣味ですこと」

 巨躯に比してしなやかな仕草で李岳の向かい側に座る。

「……どうした? 例の元気がないな。三年ぶりだというのに……いや、四年になるのかな?」

 田疇暗殺のために洛陽を出たあの日以来、貂蝉は李岳の前に姿は現さなかった。もちろん李岳もあえて探すはずもない。すっかり音沙汰がなくなり、再び洛陽を出立する直前の今日、また突如現れた。

「お怒りでしたでしょう?」

「別に」

 茶菓子の月餅をつまみがら李岳は首をかしげる。

「お前を恨んでどうするんだ。意味はない。あの時は確かに理不尽さをぶつけはしたが、別にお前が悪いわけじゃない」

「もう……しゅき……」

「いや結構」

 しがみついて来ようとする貂蝉を足蹴にして距離を置きながら、いつか交わした会話を思い出す。

「凄絶な苦しみ、か」

「……覚えておいででしたのねン」

「忘れろという方が難しいだろう……ずっと考えていた。白蓮殿を失うことがその痛苦とやらだったのか? そうじゃなかったのなら、これから先どれほどのことに耐えなきゃいけないんだ、って」

「さぁ……これ以上はなんとも。わたくしもまた全てを知りうる立場にはございませんのよ」

「まぁいいさ。是非もない」

「……お辞めにはならないのですわねン?」

「身を引く場所なんてどこにある?」

 両手を広げ李岳はおどけるように振る舞った。

(したが)うとか、背負うとか、継ぐとか守るとか、帰るとか、安易な約束ばっかりしちゃってるよ俺は。果たせなかったことも、果たせるかどうかすらわからない約束もある。もうがんじがらめだ、首も回んないや」

「あなた自身の望みはございませんの?」

 不意を突かれたように李岳は口を閉じた。自分の望み。自分自身が本当に望むこと……

 しばらく黙った後、さぁてね、と李岳はこぼした。

「さぁてね……全てが終わったら考えようかな」

「……それもまたよし、ですわねン」

 貂蝉はフン、と全身の各部位の筋肉の蠕動を披露しながら立ち上がった。

 笑ってしまうような話ではあるが、李岳には貂蝉のその仕草が別れの挨拶なのだと気づけた。

「もう会えなさそうか?」

「運が良ければあと一度くらいは」

「そうか、楽しみにしているよ」

「別に今夜寝床にお会いに行ってもよろしいのよン?」

「やっぱり遠慮する」

「ふふふ……ふはははは! 承知! それではまたいずれ!」

 貂蝉はぶるぁぁ、と猪のような吠え声を上げると、胸を反って宙を舞い、月光を背景にみだらで逞しく腹立たしくも美しい影絵を李岳の瞳に刻んで消えた。

 不思議な感覚ではあるが、李岳は貂蝉のことが嫌いではなかった。その正体を知りたいとは思わないし、理由も知りたくはないが、自分の素性を知っている唯一の相手なのだ。この数奇な人生、一人くらいそういう人がいてもいい。

 李岳は碗に残った最後の一滴をぐっと飲み干すと席を立った。

 春風うららかな昼とは違い、夜は未だ冬を名残惜しむようにかすかな冷気が踊っている。

 すっかり洛陽にも馴染んだ。自分の街だ、と言えるようになった気もする。国を守るというと一気に曖昧になるが、この街を守ると思うと具体的な感覚になれた。

 この思いが、戦争に挑むものでなかったのならばどれほど良かったろう――李岳は月明かりに目を細めながら嘯いた。

「詩才があればな」

 曹操ならばきっと、この胸にわだかまる熱を言葉にし、憂いを慰めることが出来ただろう。

 出口を見つけられない蛇が胸に巣食っているかのような感覚に、耐えるようにして、李岳は呂布が戻ってくるまで酒精の余韻を洛陽の夜と分け合い続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日はまたたく間に過ぎ、北伐軍の本隊が出立する日となった。

 本隊とはいえ、全軍のうちほとんどは既に洛陽にはいない。残余となったのは一万ばかりの騎馬隊である。これを率いて李岳は原武、そして白馬津を目指すことになる。

 黒狐にまたがり、屋敷を出たところで李岳は意外な声に呼び止められた。

「おう、ちょうどぴったりなのじゃ!」

「これは、袁術様」

「久しぶりなのじゃ、李岳!」

 袁術とその後ろに控える張勳であった。

 帝の婚礼のために拠点である豫州から来ていたことは知っていた。祝賀の祭祀の場でも姿は見ていたが、話す機会を得ることが出来なかった。それから李岳は戦の準備にかかりきりになったため、すっかり袁術の存在を忘れてしまっていた。

「ずっと洛陽におられたのですか?」

「いや? 一度戻ってまた来たのじゃ。妾も忙しいからのう。あっち行ってこっち行って、たくさんの人に顔を見せなければならぬ。袁家の頭領じゃからな!」

 フフン、と精一杯胸を張って反り返る袁術。そこで李岳ははたと気づいた。

「お。少し御身丈が」

「おお〜! そうなのじゃ! よく気づいた李岳!」

 ペシペシペシペシと李岳を叩きながら袁術は笑う。身長が伸びたことはよほどお気に召す話題らしい。

「この調子で伸びれば妾はいずれ山より大きくなると七乃も言ってくれたのじゃ!」

「山よりですかー、それは大変楽しみです」

「うむ! そうなった時には敵の軍団は全部踏み潰してやるから安心して見ておれ!」

 フン! おりゃ! ジュワッ! と掛け声を上げながら袁術は手刀を放ち足で蹴る。しかしその年にしては伸び率はいまいち、これでは山を超えるどころか平均身長に達するかどうかも怪しいというところであるが――

「今考えたこと、それ以上お口にされない方が身のためですよー?」

「これは張勲殿。私の考えを読まないで頂きたいしついでに言うのであれば握った拳をお腹に当てないで頂きたい」

「うふふー」

 笑いながら拳を引く張勳。その両拳で過去に劉繇をこれでもかと殴り飛ばしたことは被害者から聞き取っている。張勲はそれを知ってて露骨な態度を示してきたのだろうと思える。

「全く。相変わらずですね」

「こんなに見目麗しい美女を捕まえてそのおっしゃりよう。ひどいですわ」

「見目麗しくて頭が切れて根性座っててタチが悪い知り合いが多くてね。正当な評価だと思っている」

「お口が悪いこと」

 どの口で、と李岳は笑顔のまま内心毒づいた。

 帝から正しく袁家の頭領と呼ばれた袁術を見捨てるなどという天意に背く悪逆非道な行為をまさか御龍体を守護する李信達がするわけがない――孫権に攻め込まれ揚州から撤退する際、張勳が投げてよこした書簡がこれである。しかも宛先が董卓なのである。もちろん無視するつもりは元よりなかったが、有形無形の圧力がさらに加えられ袁術救済の方策は事前に想定していたものよりさらに手厚いものとなった。

 結果的に袁術の揚州進出は失敗で終わったわけだが、潁川を中心に豫州、ひいては全土の名家信奉者の厚い支持を獲得するに至り、損切りの見極めを含めて驚異的なしぶとさを見せた。それも全て眼前のこの張勲の差配なのである。

 袁術とはそれ以来明確な協力関係にある。

「それで、本日はどういったご用向で? まさか激励に来て頂けたとかですか」

「そうじゃ」

 袁術の正直な言葉に李岳は少し面食らった。袁術の表情からは笑みが消え、固くこわばってしまっていたから。

「李岳には無事に帰ってきてほしい。勝って欲しいと本心から思っているのじゃ。けど……麗羽も討つのかや?」

 袁術の瞳は潤んでおり、李岳は束の間答えに窮した。袁紹と袁術は従姉妹の関係にあったはず。いがみ合っているとばかり思っていたが――

「私は冀州の混乱を鎮めたいと思っています。そのために戦いに出向くのです」

「じゃあ、じゃあ何も殺す必要はなかろ? 袁紹を助けてくれるのかや?」

「……そうしたいとは思っていますが」

「約束してくれ、李岳! 麗羽を……麗羽姉さまを助けてほしいのじゃ! あのくるくるは確かにどうしようもない奴じゃし、妾も決して好きではないが……けど、けど! 妾が姉さまと呼ぶのはあの者一人しかいないのじゃ……」

「美羽様、そのあたりでどうか……」

 張勳が声をかけると、感極まったように袁術は袖に表情を伏せて背を向けてしまった。所在を失った李岳に張勳が歩を詰めてくる。吐息がかかるほど耳元に口を寄せ、張勲は囁いた。

「李岳様、私たちは何も枷を架そうと参ったわけではありません」

「そうではなくて単なるお願い、といういつものやつかな?」

「――斬るべきであれば、袁紹は斬るべきです」

 密やかに話すその声音が、張勳の本気を李岳に伝えた。

「今度の戦、速やかに討伐なされませ。少なくとも被害は最小限に抑えるべきです」

 さすがに李岳もその異様を察した。袁術と張勳は今この話を伝えるためにわざわざ再度洛陽まで来ているのだ。

「何か情報が?」

「孫権の動きが妙です」

「孫権だと。まさか豫州に手を伸ばそうとしているのか」

「いいえ。徐州との国境付近に兵を集め、頻繁に調練を繰り返しています」

 孫権の立場からすれば、冀州と洛陽の争いは長引けば長引くほど己に利する。その間に兵力を整えあわよくば荊州か豫州、または徐州を奪い取る機会が増えるからだ。普通に考えれば曹操の支配地である徐州に向けて南から兵を出すということは、曹操に兵力を割かせるための牽制のように思える。

「逆、かと」

 張勳の試すような瞳。李岳はしばらく考えて答えた。

「曹操は南に兵を割いたのか?」

「はい。徐州防備として于禁、李典、楽進が貼り付くことに」

 中途半端な対応ではない。その三者は曹操の信頼厚い将である。

 実際には曹操と孫権が共同歩調を取っていることは既に知っている。だというのに圧力をかけるということは単なる欺瞞工作に過ぎないと見て取れるが、曹操は対応した。実は薄氷の同盟なのかと傍目には見えるが、そうではないと張勳は睨んでいる。すなわち、曹孫の連携はこちらが思っているよりもっと強固なのだと。

 全貌が李岳にも見えてきた。

「……孫権は曹操を助けたのか」

 張勳が静かに頷き、李岳は戦慄とともに得心した。

 

 ――曹操は袁紹を相手取って余力を残そうとしている。

 

 孫権は曹操に対して圧力をかけるように出兵した。曹操はそれに対して兵を割かねばならなくなった、と李岳には説明するだろう。つまりより一層李岳の負担が大きくなるということになる。事前の協議で曹操は手勢の臧覇を派遣して青州方面から圧力をかけている。袁紹との正面決戦ではその二つの条件を元に李岳に実行部隊としての役割を担えと説くだろう。

 そして戦端が開かれんとするこの時点でのこの動き。曹操と孫権の目は袁紹を始末したその先を見ている。

「……袁紹、劉虞との戦が終わった後、曹操は温存した兵力で次を睨んでいる」

「孫権はその曹操と決定的な段階まで連携する可能性が高い、ということです」

 曹操と孫権が連合して同時に西に進撃を企む、と張勳は読んだのだ。しかも袁紹を撃破した直後の疲弊した状態を狙って。

 思ったより曹操の手が早い。そして孫権との連携が強い。李岳は勢力図を思い描いた。袁紹を初戦で打ち破ったとしても、冀州の再制圧にはもちろん何年もかかる。史実の曹操でさえ五年以上を費やした。その隙間を曹操は狙っている。

 

 ――あるいは孫権の進軍は見せかけだけでなく曹操軍と共同での調練を行っている、という状況までありえる。

 

 反董卓連合戦で曹操が放った拒馬槍での一撃は、未だ李岳の脳裏に生々しい。再び対李岳用の秘密兵器を用意している可能性は決して低くはない。

「……李典は曹操軍の兵器工作も担当している。孫権軍とは合同訓練かも知れない」

「あり得ますね。すぐにでも諜報を放たれては?」

「難しいだろうな」

 曹操軍はいっときより防諜能力を格段に向上させている。程昱が首魁となって隠密集団を組織したとのこと。名は『蝕』と張燕は言っていた。田疇亡き今、永家の者たちが最も手こずる相手である。

 事実、打つ手も限られている。時もない。それを見越した上で曹操と孫権は行動に移したのだ。

 このまま行けば曹操と孫権の連合に対し、洛陽勢力は北の冀州と南の豫州に兵を割いた状態で対決を強いられるだろう。曹操は袁紹という最も強大な敵を迎え撃とうとする状況で、そこまで絵図面を描き李岳を潰す最大の好機として昇華しようとしている。

「全く、俺って男は……」

 李岳は己の愚かさに天を仰いだ。

 あれほど心で恐れておきながら、曹操のことをどこかで侮っていたのではないか、と。田疇を斬ったことで、歴史を知る己が再び他の群雄に対して圧倒的有利になった、という驕りがあったのではないか。いや、あった。それを自覚さえしていた。その傲慢さを何度も殴りつけながら懸命であろうとしていた。しかしそれでも及んでいなかった。

 

 ――曹操は史実とは比べようもない程の苦境に立たされておきながらも、天下を取るための逆転の一手を用意している。余力を残して袁紹と戦うという、無謀に輪をかけた暴挙に。

 

 今ここで間違いなく意識を糺すべきである。この漢は再び絶命の危機にある。

 劉虞と袁紹を倒したとしても、その先には姦雄・曹操と長江の覇者・孫権の連合が待ち受けている。

「……ありがとう、張勳殿。大切な知らせを頂けた」

「あらそんなお気になさらず、貸しにしておきますから。さぁて何でお返し頂きましょうか?」

「袁術様お助けください! 張勳殿がこの私を虐めるのです! せっかく袁術様にと最上級の蜂蜜を用意したのに!」

 いつの間にか少し離れていた袁術が、なんじゃとこらー! と声を上げて駆けてくる。張勳は笑顔のまま器用に李岳を睨めつけた。

「なかなか対応されて来られますね。うふふふふ」

「一蓮托生なのですから。さて、曹操と孫権が狙ってくるのであればもちろん南からの進軍です。豫州は最も危険な地となりますよ」

「承知の上です。はぁ……まったく。やれやれですわ。忙しくなりますわね。とっとと勝って戻ってきて下さいまし」

「そうしたいのはやまやまですがね」

「……ゆめゆめ、麗羽様を侮られなさいませぬよう。袁家の頭領を気取っていたのはもちろん名ばかりで隙だらけの方ではありますが」

「……他になにか?」

「名家であれば人は集まります。しかし人を繋ぎ留め続けるには他にも何かが必要です。私が知る麗羽様であれば、この状況でまだ人がついてくるとは思えません。つまり何が言いたいのかといいますと」

「袁紹は変わった可能性がある、と」

「……武運長久をお祈りしています。あくまで我が主、美羽様のため」

「ああ。お互いのために」

 李岳は袁術と張勲に別離の言葉を残すと、黒狐にまたがり飛び出した。いつの間にか馬上で待ち受けていた呂布。馬首を並べ、二人は城外に控える中華最強を自負する騎馬隊に向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――興平元年、李岳北伐の兵を興す。

 

 

 




あまりにもひどい事件があり、多くの人がつらい思いの中にいると思います。
自分ごときに出来ることなど何もないのですが、素晴らしいクリエイターの皆様の足跡を追う(というと大層だし表現が変ですが)ことが、数少ないながら出来ることなのだろうと思いました。
物語を描くことの素晴らしさを何度も教えてくれた、京都アニメーションの皆様には尊敬の念しかありません。
卑劣な行いの詳細よりも、素晴らしい仕事と在り方へのリスペクトを表したいと思いました。

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