真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百四十二話 衆の欲するところ

 洛陽から原武、そして白馬津へはたっぷり一月をかけて移動した。

 常の李岳軍ではありえない日程のかけ方だったが、十分仕掛けを施すには必要な手間だった。

 白馬津にはすでに五万の曹操軍が待ち構えていた。両軍合わせて十五万。壮観、の一語といえる。李岳ははやる黒狐をなだめながら全体の先頭に出た。隣にはぴたりと呂布が付き添う。

 曹操軍からも二騎――曹操と典韋が姿を現し、四つの影は引き寄せられるように近づいていった。

「三年越しの約束を果たしに来たよ、曹操」

「長かったわね李岳。いえ、あっという間だったかしら?」

「さぁ、どうかな」

 あの冬の酸棗からこの春まで、三十の歳月を過ぎたようにも思えるし、たった一冬を越しただけのようにも思える。時の流れは奇妙な感覚を伴って二人の間を緩やかに流れゆく大河のように横たわった。

「茶を用意しているけれど時間はおあり?」

 断る理由など何もなかった。

 李岳はそのまま呂布と二人で曹操軍の陣内に馬を進めた。司馬懿や徐庶などは血相を変えているだろうが後で怒られればいい。周囲の目など気にもせずに李岳と呂布は曹操軍本営の幕舎をくぐった。

「おかえりなさいませ華琳様……げぇっ! 李岳!」

 天幕に入るや否や、荀彧が毒気たっぷりの台詞を吐いて手刀を突き出し身構えた。

「お連れするかもとは聞いてたけど、まさか本当に招きに応じるだなんて……厚かましいわね本当」

「荀彧殿もお変わりないようで」

「あーもうただでさえ男は嫌だっていうのに、よりによって……! 華琳様ぁ~」

「桂花、そのあたりにしておきなさい」

 なお頬を膨らませながらも、曹操の制止に渋々舌鋒の矛を収める荀彧。話すことはないが視線は切らないとばかりに曹操の後ろで控えた。

「座りなさい、いま茶を淹れさせる」

 李岳は勧められるままに腰を下ろしたが、呂布は固辞して李岳の背後に立ち続けた。鋼糸を張ったように静かな緊張をたたえている。呂布にとってここはあくまで敵地なのだった。

「洛陽の茶ほどではないかもしれないけれど」

「そうかな? 洛陽でなくても茶は飲めるだろう。南の物も評判が良い」

 李岳の言葉に曹操は軽く微笑んで受け流した。揺さぶりにしては稚拙すぎたかもしれない。

 茶を用意したのは曹操と同じ黄金の髪を蓄えた少女だった。齢は主君よりいくつか若いだろうが大人びて見える。長い髪がたおやかな姿態をなぞるように螺旋を描いている。

 李岳の視線に気づいたのか、女性は茶を蒸し始めると居住まいを正した。

「姓は曹、名は純、字は子和と申します」

 李岳はその名に驚きつつも、同じく失礼のないよう名乗った。

「姓は李、名は岳、字は信達です。後ろの者は呂奉先、我が軍団が誇る将です」

 呂布は興味なさそうにぞんざいな仕草で頷きもしなかったが、曹純はそれを非礼とは受け取らなかったらしい、淀みなく茶を淹れ始めた。

「我が主、曹孟徳よりお噂は予々(かねがね)

「はてさて、どのような噂なのか。きっといい風におっしゃって頂けているのでしょうね」

 曹純が困ったように首を傾げて微笑むと、曹操が言葉を引き継いだ。

「この私が浅ましい陰口を叩くとでも?」

「目の前で堂々と悪口を言えば褒められるという訳じゃないからな」

「ほら柳琳(ルーリン)、言って聞かせていた通り口が減らない男でしょう?」

「やっぱり陰口言ってたんじゃないか……」

 柳琳と真名で呼ばれた曹純は目を白黒させている。曹操と李岳が気の置けないやり取りをしていることに驚いているという風だ。一度は真名を交わした相手である。李岳もあの『曹操』だからと無用にかしこまる気にはもうならなかった。

「曹純殿は曹操殿のご血縁の方ですか」

「従妹にあたります」

「新設した騎馬隊を指揮させているわ。名は虎豹騎(こひょうき)

 李岳は手のひらに浮いた汗を拭った。

「……勇ましい名だ」

「呂布。貴様の騎馬隊とも正面からやりあえるつもりよ」

 呂布の目の色が変わるのが李岳には見ずともわかった。同時に曹操の言葉が虚勢でないこともわかる。

 

 ――史実において、虎豹騎は曹操麾下最強の騎馬隊とされている。指揮官の曹純の元によく指揮に服し、冀州の袁譚、烏桓の蹋頓の首級を挙げた。さらに荊州では劉備を破り、潼関では馬超軍を撃破している。曹操が最も信を置いた部隊の一つと言えよう。

 

 虎豹騎は元々青州の黄巾族に参画していた者たちが中心だという話もある。虎豹騎結成がこの時期だというのは李岳の知識に合致する。

 この三年、曹操は青州の流民を多く受け入れその力を増した。袁紹の暴政の煽りを受けて流民と化した人々を、曹操は限りを設けず受け入れたのだ。大規模に展開していた屯田の成果もあり、難民を住まわせても治安が大きく乱れることはなかった。

 その中から選りすぐりの者たちで構成しているのが虎豹騎であろうと李岳は推測する。成り立ちから考えても曹操への忠誠は無類だろう。

「さて、そろそろ麗羽への対策について話したいのだけれど」

 ぼうっとしていたようにでも見えたのだろう、曹操の促しに李岳はハッとした。

「ああ。そうだなぁ」

「のん気な声出して。考えくらいあるのでしょ?」

「ん。撤退しようかと」

 曹操はふっ、と声を漏らして笑った。

「機動戦に持ち込むつもり?」

「敵の方が兵は多いし遠征になる。移動は負担だろう」

 撤退しながら追いすがる敵を撃つ。それが李岳の目論見だった。敵から常に追撃を受けるという危険極まりない策でもある。だが司馬懿や賈駆らと何度相談してもこの結論にしか至らなかった。敵の分厚い兵力を正面から支えることは難しい。いかに乱し、いかに横から突くか……常に走りながら戦うというのがその答えであった。

 戦列を整えたまま移動することは決して容易なことではない。厳格な軍規と高強度の訓練を通して初めて秩序立った移動が可能になる。袁紹軍の大半にその実力はない、というのが李岳陣営の見立てだった。ただ移動させる。それだけで疲弊を発生させ、隙を見出す活路になるだろう。

「釣られるかしら」

「それが問題だ。だいぶ評判が悪いからな、わかりやすく移動するとすぐに罠と疑われるだろう」

「日頃の行いね」

「君が言うか?」

「……フフフ」

「……しかし乱世の姦雄・曹操殿であれば、俺の考えくらいとうに読んでいたろ?」

「あら」

 李岳の挑発に曹操が応戦するように笑う。

「何故そう思う?」

「この手で来るとわかっていたからこそ曹純殿をここに呼んだんだ。いずれこちらの騎馬隊と連携する機会もあるはず、李岳や呂布との顔合わせは早いほうがいい……そんなところかな」

 曹純は内心驚いた。李岳はとぼけた顔をして曹操の内心を見抜く程の洞察力を有している。荀彧が聞こえぬように小さな舌打ちを鳴らしたことで、自分の推察が的外れではないことを曹純は知った。

(もしかして虎豹騎についても事前に……そうじゃないのなら、もっと興味を持って情報を引き出そうとするはずだもの……!)

 曹純は視線を外さず李岳を伺い続けた。曹操は実際のところ陰口などではなくはっきりと言っていた。李岳こそが恐るべき相手、そしてただ一人の宿敵だと――曹孟徳が唯一人警戒する男・李岳。

 曹純の心の内などいざ知らず、李岳と曹操は団欒しながらのん気に茶を楽しんでいるようにしか見えない。曹純はあくまで優雅たらんとしながら、茶の続きを注いだ。

「そちらこそ、思いついただけではなく用意くらい済ませているのでしょう? さっさと渡すものを渡しなさい」

 今度は李岳が苦笑する番だった。懐から地図を取り出し卓上に広げる。それは原武から白馬津の間で李岳軍が設置した兵糧の貯蔵所を示した地図に他ならない。

 機動力を最大限に生かすためにはいかに物資を減らすかにかかっている。しかし兵糧や秣、武器の類をなくして戦は成立しない。しかも河水水系の流れが幾本も交差する地域である。渡河を含んだ長大な距離を駆け続ける可能性がある以上、備えは必須だった。ゆるゆると一月の時間をかけた理由はこれに尽きた。

 李岳は反董卓連合を迎え撃った時に活用した『駅』の仕組みを変則的に再利用しようとしていたのである。そしてその位置を示した地図を曹操に渡すために持参していたのだった。

「見抜かれていたか」

「まぁ、ね――なるほど、軍略に則った場所ばかり。これは貴方が?」

「うちの自慢の軍師たちがね」

「司馬懿に徐庶か。羨ましいこと。司馬懿とはしばらく、徐庶とはまだ会ってないわね。今度引き会わせなさい」

「いいけど、絶対寝返らないから。引き抜くつもりなら無駄手間になる」

「そうかしら。わからないわよ? 私は貴方より打てる手が多い」

「……ちなみに聞いておくけど、なに?」

「夜の悦び」

 色魔め! と李岳は思わず立ち上がっていた。

「司馬懿はああ見えてうぶなんだ、弄ぶのはやめろ! それに徐庶は俺の義妹だ、遊びなら許さんぞ!」

「お義兄様とお呼びすれば満足?」

「頼むからやめてくれ!」

 二人は主従でも同志でもなく宿敵でしかなかったが、今この時ばかりは対等だった。二人並び立てばこれほど噛み合う相手がいるのかと思えるほどに。

 曹操も似たようなことを考えていたのだろう、ひとしきり笑った後、ぽつりと呟いた。

「今ここで貴方を殺せば、色々と楽になるかしら」

 天幕の内側には弛緩した空気が流れていたはずが、その言葉が敵意と緊張で満たしてしまった。李岳は肩を震わせている曹純に茶のお代わりを所望しながら答えた。

「空想を楽しんでみようか」

「麗羽にいいようにやられるでしょうね。洛陽から来た十万の兵は貴方の弔い合戦に取り憑かれて鬼となるのは目に見えている」

「心配いらない。その時はお前たちの首を一瞬で飛ばす」

 呂布が全力の殺気を放ちながら言うので、天幕の内側がビリビリと音を立てて震えた。

「だ、そうだ」

「なるほど、得策でない理由がもう一つ見えたわね」

「殺すならそうさせないように段取るに決まってるでしょ」

 腰を抜かしている曹純と違い、さすがに曹操と荀彧は呂布の圧を受けても平然としていた。

「無礼な空想だったかしら」

「いや、俺もここに入って何回も同じことを考えていた。剣は佩いたままだ。ここで抜き撃てば曹操の首を取れる、ってね」

「同じ結末を辿るわね」

「ああ」

 曹孟徳は善政を敷いている。ここで彼女を斬れば兗州、徐州、青州の支持を失うだろう。そうなれば北と東から敵を迎える上に袁紹への圧力は減る。二方向からの敵を支える余力などどこにもないのだ。

 この河北の戦線は両者で支えるしか選択肢はない、などということは二人ともわかりきっていた。ただ和やかに談笑するこの空気がむず痒くなり、戯れに殺意を紛れ込ませたくなっただけの話。

 李岳と曹操は必ずぶつかる。対袁紹戦の間だけの束の間の同盟であることを再確認するためだけの余興に過ぎない。二人の持ち寄ったものがただの物語であればどれだけ爽やかであったろう。

「難儀ね」

 曹操の言葉は何一つ十分ではなく、欠けており、それがなおさら李岳に想像させた。

「そうだな、全く難儀だ」

 曹操は張貘を、李岳は公孫賛を失った。それぞれが不敗を誓いもう一度前を向いた結果、ここで(まみ)えている。

「君は何を望む?」

 曹操はらしからぬ様子で答えにまごついた。

「そうね、ひとまず青州」

 だけか? という言葉を飲み込んで李岳は頷いた。

「印綬を渡すわけにはいかないが」

「ええ。けれど青州」

「なるほど」

 大義名分はある。青州からの流民を養っている以上、将と兵の思惑も合致している。泥沼の冀州争奪戦に発展するよりはいいのかもしれない。

 冀州から幽州までを巡って曹操と対立に発展すれば泥沼の都市争奪戦になる。そうすれば手の空いた南方の孫権が長江を西に侵していくだろう。李岳は袁術と荊州閥の力に頼る他なくなる。何年にも渡る攻防戦になるはずだ。

 それを避けて青州に甘んじると言う。その意味は明快だ。すなわち平野での曹孫連合軍をもって、短期に正面から李岳を討つ、ということだ。

 曹操としても幽州に残る公孫賛派閥……劉備がまとめている勢力をまともに相手し続けることは困難だと考えているのかもしれない。北方の併呑よりもまず李岳を討つ。そして全土の平定に乗り出す。そんなことを考えているのかもしれない。

 いずれにしろ、李岳が知る歴史とは似ても似つかない情勢であった。

「……冬至」

 呂布の呼びかけに李岳は思案の海から顔を出した。緊張は時の流れを見誤させる。手に包んでいた茶もすっかりぬるまっていた。

「すっかり長居したかな」

「明朝、桂花をよこす。そちらも軍師を待たせておきなさい。実務で詰める話もあるでしょう」

「ああ、そうだな。さて土産を頂きたい」

 土産? と曹操は首をはぐらかすようにかしげるが李岳は踏み込んだ。

「君にだって対袁紹戦の腹案が一つや二つはあるはずだ。俺にだけ吐き出させるつもりか?」

「必死ね。手ぶらで帰ると怒られるのかしら」

「……うちの軍師は本当に怖いんだって。頼むよ」

「な、情けないわね……」

「うるせぇよ……」

 はぁ、と曹操は嘆息して肩をすくめて首を傾げて――ありったけの『呆れて言葉もない』という意味の仕草を披露してから言った。

「寝返りを期待できる将がいる。使い所によっては切り札になるわ」

「それは?」

 こぼれ出た名に、李岳は驚きまさかと声を上げかけた。

「信じられない?」

「……にわかには」

「確証はない。まだ詰めの段階よ」

「それでも俺に話すということは、自信があるということなんだな」

「ええ」

「……作戦に織り込みはしないが期待はしている。多分、どう転んでもその方が結果的にいいだろうから」

「お叱りは免れるかしら?」

「無理。どうせ怒られるから」

 呂布の返答に曹操は呵々と吹き出した。

 自陣に戻ろうと幕舎を出れば、すでに夕陽さえ沈んでいた。典韋に引かれた黒狐と赤兎馬にまたがり二人は曹操陣営を後にした。卑怯な工作や嫌がらせもなく、兵一人一人に至るまで堂々としたものだった。

 帰路、呂布が珍しく自ら口を開いた。

「冬至。聞きたいことがある」

「なんだい恋?」

「敵の数」

 李岳も曹操も敵兵力については言及しなかった。呂布にはそれが不思議だったらしい。

「そうだなぁ。袁紹は兵百万と豪語しているけど」

「百万人が来る?」

「さすがにそれはない。ないだろうが……途轍もなく多いだろうな」

「どれくらい?」

「袁紹の持つ正規兵は二十万から三十万。そこに黄巾兵……つまり民兵がどれだけくっついて来るかだな。俺が想像出来るのは、精々三倍程度まで。多めに見積もって五十万」

「百万の半分」

「ああ。だがそれが限界だろうな……それ以上の数になると、想像すら出来ない」

 五十万人を引きずり回しながら勝機を探るような戦いになるだろう。まともとは言えない。官渡の戦いと黄巾の乱が同時に押し寄せるようなものだ。あるいは史実の曹操より苦しい立場にあるのかも知れない。

「わかった」

「恋は怖くないのか?」

「別に。冬至が勝つから」

「お。嬉しいこと言うね。ちなみに根拠は?」

「別に。勝つ時の目をしてるから」

 不意に呂布が振り返った。夜の(とばり)を背負う頃合い、鈍色(にびいろ)に染まり始めた原野の中でもはっきりと分かる――李岳の見間違いでなければ、呂布は微笑んでいた。にこりと頬を染めている。年に一度もない笑顔。だからこそ何よりも貴重なもの。

 呂布が本当に喜んでいる時にしか見せない顔だった。

「……勝つ時の目、か」

「お腹すいた」

「そうだな。飯を食わなきゃ戦には勝てない」

 飯、飯、飯か――李岳は何度もそう呟きながら、黒狐の背に揺られながらお叱りの待つ自陣へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後年、陳寿が劉虞に対して特筆して文量を割いた事績がある。

 興平元年の朔日――つまり洛陽で皇帝劉弁が婚姻し、李岳が北伐の兵を挙げた日と同日のことである。

 

 

 

 鄴の街には黄色い布や旗がたなびき黄天の到来を謳っていた。朔日である。民の喜びは常ならずひとしおだが、それは単に新年を迎えたからということに限られなかった。ただ劉虞をひと目拝みたいという熱狂がここにはあった。劉虞という新たな皇帝を戴いた冀州の民は有頂天におり、それは年を経るごとに強まっていたのである。

 

 ――この三年、明白な形で冀州に起きた変化がある。それは民による劉虞への異様な尊崇と、偉大な帝を奉っているという自覚に伴う民らの優越心の増長であった。

 

 元より天下で最も豊かであると自負する土地に生きる民たちである。事実はどうあれ天下の窮乏を自らの生産が防いでいるという誇りがあった。同時に洛陽の高慢な官吏たちが我が土地の実りを容易く収奪していく様を苦々しく思っていたことも度々であった。

 そこに現れたのが名家の袁紹と至尊の座にふさわしい帝、劉虞である。帝位を僭称しているという揶揄もあったが、その批判が強いほど冀州の民たちは頑なに劉虞を支持した。そう! 帝を迎えるのであればこの地において他にはないはず。ようやく天下の中心を(あらた)める(とき)が来たのではないか?

 人々は聖帝劉虞の偉業を噂した。黄色い布を巻いて劉虞に謁見した者は傷を癒やされ心を満たし、また業病に冒され死にゆく者さえ安堵の息を吐いて天に召されていくと。聖人劉虞は真に三皇五帝の系譜に連なる者だと信じる者が絶えなかった。

 その噂はやがて歌舞を伴う物語となった。演者はもちろん黄巾三姉妹である。ただでさえ人気を誇った姉妹たちだが、劉虞を賛美する演目をやればやるほど熱狂に押し上げられた。今ではただの楽しいだけの歌や踊りでは観衆は満足しなくなるほどに。

 聖なる徳の持ち主である劉虞。そのような偉人が今この冀州におわすことに意味を見いださない方が不自然である。我々は優れ、選ばれた民なのだ! 熱気は日増しとなり、ひと目拝まんと鄴を目指して行脚する者さえ現れた。

 

 ――そして朔日の今日、道から道へ、辻から辻へ、壁にしがみつき屋根によじ登り、固唾を呑んで街は帝を待ち望んだ。

 

 正午。劉虞は新たに建築された宮殿の楼台に現れた。遠目にもわかるその神々しさ! 唱える言葉は周囲の宦官に復唱されて伝播し届けられたが、不思議と劉虞自身の言葉がそのまま伝わってきたように思えた。

「朕、劉伯安。新年を皆と迎えることが出来、とても喜ばしく思います」

 雲間が晴れる。一条の光が劉虞を介在にして天地をつなげたように差し込んだ。鄴の街すべてがどよめきに包まれる。

「穏やかな今日この日ですが、これより始まる一年(ひととせ)は苦しく厳しいものになることでしょう。洛陽の傲慢は認め難く、いずれ大将軍袁紹殿は兵を挙げられるからです」

 許せん、立つべし。弾けるような声は決して少なくなかった。

「捨て置けばこの冀州は攻められ、再び漢の横暴に抑圧されることになるでしょう。冀州は選ばれた土地。それを奪い、侵さんと兵が来るのです。それを待つことは愚かでしょう。朕は苦渋の果てに大将軍袁紹の鈇鉞(ふえつ)()って南進仕らんという願いを聞き届けました。さらに大賢良師張角様も義勇兵を率いて随伴されるとのこと」

 熱気はとうとう狂気じみ、民衆は一個の蠢く黄色い何かに変貌し始める。

「朕は陣頭に立つことも出来ず、皆様の無事をお祈りすることし出来ません。しかしされど、共に戦い、勝てば分け合い、敗ければ差し出す覚悟です。それは皆様と共に在りたいという願いにほかなりません。朕はここに証を立てたいと思います。朕はこの体、この魂すべてを皆様に捧げたいと思うゆえに」

 劉虞の口からまさかの言葉が出るのではないかと、嫌な予感と期待を百万人が共有しているかのように街は一気に静まり返った。

「朕、姓は劉、名は虞、字は伯安。皆様に我が真名を捧げ奉ります――」

 真名は自己のすべてを捧げることを意味する。魂の盟約を百万の人と一斉に行うなど前代未聞である。当然交換など出来るはずもない。百万の民に捧げ、尽くす覚悟なのだ。

「朕の真名は金蘭。朕は皆様と臥所(ふしど)を共にし、等しく墓地に埋められるでしょう。願わくば、いずれ骸は天下泰平の苗床として花を咲かせませ!」

 

 ――易経は繋辞伝に曰く。二人心を同じくすればその(するど)きこと金を断ち、その言のかおり蘭の如し。

 

 ゆえに金蘭とは信頼と情の交わりの素晴らしさを意味した。そしてもちろん地にうねる黄金の旗に集った者たちにはそれ以上の意味にも聞こえた。

 百万の民は涙ながらに声を枯らし、己の真名を叫びながら帝との交感に打ち震えたのである。

 

 

 

 

 

 

 数日後、袁紹の私室の前に顔良はいた。

 狂ってしまっている――顔良の思いはほとんど確信といえた。誰かの人格が、ではない。あるいは運命や天命などと呼ばれるもの全てが狂わされてしまった。何の根拠もないというのに、顔良にはそれが真実としか思えなくなっていた。

 部屋の中から聞こえる嬌声から逃げるためには、そのような考えに没頭する他すべがなかったのである。

「お、おやめにならないで……! まだ、まだ、もっと……!」

 声は二人のものが入り混じり、溶け合い、あらん限りの苦痛と快楽と恍惚を顔良に伝えた。顔良は耳を塞ぐことも出来ず、虚空の一点を見守りながらまんじりともせずにいることしか出来ない。

「ああ、そんな……!いやっ、いや……ああ……」

「あっ……! うっ……! くっ……!」

 気をやったかのように長く間延びしたうめき声が響く。顔良は唇を噛み締め、その声が途切れるのをただ待ち続ける。

 やがて嬌声は荒い吐息に変わり、寝息のように静まった頃、扉が開き袁紹が姿を現した。あられもない姿で体のいたる所に情事の痕がある。開いた扉の奥からは雨季の森のような湿気と、袁紹以外の匂いが見せびらかすように溢れてくる。

「あら、斗詩さん」

「れ、麗羽さま……」

 いつもは念入りに巻き上げている髪もすっかりほぐれていた。汗で額に張り付いた前髪、上気した頬、それとは異なる理由で赤みのある首筋……色欲に溺れている絵に描いたような怠惰な有様だったが、だというのにそれがなお放埒な魅力を放っている。

「来たのですわね?」

 顔良の答えを待たずに袁紹はにやりと笑った。

「はい、洛陽では我々を逆賊、朝敵とみなして遠征軍を派遣。その数は十万。軍を率いるのは」

「李岳さんでしょう?」

 顔良はうつむくように首肯した。

 洛陽に派遣していた諜報部隊『黄耳』からの情報が届いたのである。田疇亡き今、その指揮は張梁と顔良の二人が分担することとなっていた。

「李岳さんも華琳さんものんびりしていること。そう思いません? ふふふ、心待ちにしてましたわ。小蝿のような劉備さんも川の向こうでこそこそしている華琳さんもまとめて踏み潰す時が来ましたわ。さぁ軍議を開きましょう。全将全軍をただちに召集なさい! 湯浴みの用意はできていて?」

「は、はい」

 間断を置きつつも半日もの間ずっと濃厚な行為に耽っていたはずが、袁紹は気力精力ともに横溢するほどの凛とした気を張り詰めさせていた。それは三年前、冀州戦役をくぐり抜けたときから表れた袁紹の変化だった。

 

 ――冀州戦役。それは袁紹と彼女を取り巻く全ての環境を変えてしまった戦だった。袁紹はこの戦いで張貘を失い、劉備に反旗を翻され、さらに田疇を失った。たとえ公孫賛を滅ぼし幽州を手に入れたとしても、袁紹の心から喪失したものを埋めるには至らなかった。

 あれから三年、袁紹は軍務に熱中し、良策を求めて臣下を訓令し慫慂(しょうよう)した。そして毎日のように色に耽った。それは正しく袁家の頭領にふさわしい振る舞いであり、英雄と呼ばれる者の行いだった。

 喪失を埋めるために袁紹は変わらざるを得なかったんだ、と顔良は思う。しかしそこには顔良が知る、高慢でありながらそれでいて抜けていて、愚かでありながら優しく、どこまでも愛しい主君の姿はなく……

 

 一度や二度ではない葛藤に苛まれながらも、顔良は袁紹を湯浴みへと導き命令通りに全将兵に伝令を走らせた。間もなくこの鄴から未曾有の大軍が進発することになる。袁紹直下の正規兵が二十五万。さらに劉虞に尽くしたいと願い出る黄巾軍は三十万を下ることはない。

 その膨大な人口を移動させることだけでも一大事業である。しかも運び込める兵糧は限られており、生産の担い手さえ送り込む以上補給は乏しい。南下し、敵の糧食を奪うしかない。そうでなければ街や村から略奪する他ないだろう。だが果たしてこれが本当に王者の戦と言えるのだろうか?

「麗羽さま……私たちはどこで間違ってしまったのですか」

 顔良の呟きを聞く者は誰はおらず、襟足できれいに切り揃えられたつややかな黒髪を揺らしながら、顔良はとぼとぼと袁紹の私室に戻った。乱雑に脱ぎ捨てられたままの服、熱気は収まったがだからこそより強く感じられる香り。袁紹がいなくても顔良にはまだやることがある。

「……陛下」

 ひざまずく顔良に微笑みを返し、寝台で気だるげに横たわっていた劉虞がゆるゆると立ち上がった。かすかに垣間見えたのは、齢に比してなんと若々しくもあられもない姿。しかし放たれる魅力は瑞々しい類のものではなく、妖しく婀娜(あだ)なもの。

「顔良将軍。何か?」

「はい。こちらのお片付けをさせて頂きたいと」

「そのような手間は朕が。または麗羽がやりますわ」

 真名を呼ばないで! 泣き出したくなるのを何とかこらえて、顔良は再度下働きを申し出た。

「そう。ではこちらにいらっしゃる?」

 劉虞の言葉の意味が取れず、顔良は小さく顔を上げた。劉虞は薄く透き通る青紫の絹を肩に纏わせながら微笑んでいる。

「ええと、なんという意味で……」

「寝台においでませ、というそのままの意味ですわ」

「お戯れを……」

「戯れなど。朕は貴方の望みも叶えて差し上げたいだけ……望みを叶える。それが朕の欲するところ」

「の、望み?」

「人より優良でありたいという欲を、敵を倒したいという欲、色欲……あるいは権力欲や名誉心。そして志……そういった気持ちというのは本当に強い。朕はそれを感じ取り、叶えたいと思う性分なのです。ご迷惑かしら?」

「迷惑だなんて、そんな」

 顔良には何一つ理解が出来なかった。ただ善良な者の言葉ではなかった。だというのに心底本気でもある。

 聖者と狂人の境界が、顔良には見分けがつかなくなっていた。だったらこの冀州は今、心の狂った者を頂点に据えているのではないのか。

 劉虞は顔良が真摯に耳を傾けていると信じているかのように、近づき手を取り、耳元で囁いた。

「人徳とは愛されること。そして愛とは受容ですから。将軍、朕を愛して頂けるかしら? どのような事とて受け入れますわ。例えば……」

 取った両手を劉虞は引き寄せる。

「将軍は朕を憎んでおられるでしょう? あるいは暴力で制したいとさえ」

「そ、そのような!」

「わかるのです」

 弱々しくか細い手であるはずなのに、武人の顔良が抗えない力でその両手を己の首にあてがわせた――劉虞は顔良に己を絶息せんと強いるつもりなのだ!

「さぁ、首をお絞めなさい。さぁもっと強く。さぁ」

「……ひっ!」

「あっ」

 恐ろしいのは顔良が本当に力を込めてしまったこと。鍛錬など一度もしたことないであろう、柔い首が顔良の指の形に容易く押し込まれ、気道の手触りさえしっかりと感じられた。

 顔良は己の憎しみを自覚した。劉虞が憎い! 同時にその憎しみを己以上に劉虞が理解していたことを恐れた。そしてそれを叶えようとする心遣いに感謝し、狂いそうになる。

「くっ……か、は……あっ!」

 情事がまだ続いてるように恍惚とした表情で劉虞はかすれた吐息を漏らす。顔良はその声音で袁紹の顔を思い出し、弾けるように飛び退(すさ)った。

「わ、私は一体何を……!」

「はっ……! あぁ……!」

「へ、陛下……」

「――残念、もう少しでしたのにね」

 うずくまり、顔を青ざめさせながらも本当に残念そうな笑顔の劉虞。顔良はたちどころに震え上がり、謝罪も袁紹の指示も投げ捨てて逃げ出した。咎められないことは確信できた。それがなお恐ろしかった。顔良の願いを叶えたいという劉虞の言葉が真実であると理解できたから。劉虞は人のどのような欲望さえ見抜き、それを受け入れるというのか。

(だ、だったら……! 麗羽さまの本当の理解者は、私たちじゃないってこと!?)

 どこをどう歩いたろう。打ちひしがれたまま歩き続けていると、ふと真名を呼ばれてはっと顔を上げた。

 そこにはいつものように笑顔を浮かべた文醜がいた。

「斗詩〜、どうした? めちゃ暗いじゃんか」

「文ちゃん……」

「あれ……泣いてたのか? どうしたどうした、あたいの可愛い斗詩ちゃんがさ!」

 文醜はいつものように顔良を抱き寄せてたはは、と笑う。この狂った世界で顔良が唯一すがることが許される日常だった。

 顔良はしがみつき泣いた。問いも答えも得難い苦悩に苛まれ、やがて疲れて眠るまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 興平元年。袁紹は洛陽から李岳軍出陣の報に接し、ただちに全軍出撃を命じた。袁紹軍本隊二十五万、義勇軍を含む黄巾兵は四十万まで膨れ上がった。

 字面通りの意味で地を埋め尽くす大軍を率い、白馬津を目指して南下を開始した。




田疇が道理を踏み外したとしても叶えたい信念を持った民主主義者なのだとしたら、
劉虞は何の信念もないポピュリストなのかなと思いながら書いています。
人徳100って妖怪だと思います。人に愛されることが才能だとして、人としての限界を突破している者がいるのだとしたらそれはやはり狂人か何かなのかなと。
まぁよくわかんないんですけど、一つだけはっきりしていることは夏休みが終わるということです。

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