真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百四十七話 刻一刻の戦場

 ――李岳出撃の半刻前のこと。袁紹は許攸離脱の報に接していた。

 

「フン! 許攸さんが動いたようですわね。無様に偽の兵糧集積地に案内してくれることでしょう」

 袁紹の言葉に天幕の内側に控える文武両官全員がひざまずいた。それは許攸の離反を見事見抜いた袁紹への心からの賛辞であった。

 袁紹が裏切りに気づいたことは偶然ではない。しかし同時に推理や洞察からでもなかった。

 何も許攸だけが疑念を持たれていたわけではなかった。袁紹は一人の例外もなく幕僚全員を信用せず監視を命じていた。その中で最初に網に引っかかったのが許攸だったという話に過ぎない。

 率いる兵は未だ三十万を数え、全国に名を知られた名将を従えながらも、あわれ袁紹は誰よりも孤独の中にいたのである。

「大将軍。それではこれより作戦を決行いたしたく」

「万事よろしくお願いいたしますわ。命令はたった一つ。李岳軍、曹操軍の殲滅です! 捕虜は取りませんわ、一兵でも多く殺しなさい! この袁本初に逆らったらどうなるか、全土に知らしめるのです! おーっほっほっほ!」

 袁紹は豊かな金髪の巻き毛を揺らしながら笑う。高慢に、誇り高く。しかし思うのだ。なんのために、誰のために笑っているのだろう? そして目の前で手を組み頭を下げている者は誰なのだろう? 顔は見たことがあるというのに、誰一人名前が一向に出てこない。

 だがどうせ、それは些末なことなのだ。

「さぁ皆様お行きなさい! お馬鹿な方々の骸を山と積み上げるのです! この袁本初の威光を天の向こうまで喧伝するのですわ! 優雅に! 壮大に! そして、残酷に! ですわ!」

 拱手し、鬨の声を上げて出陣していく将たち。

 哄笑を終えて全員が陣幕を出た後、袁紹はただ一人になってようやく心穏やかになれた気がした。

「おーほっほっほ……ふふふ。あはは」

 袁紹は豊かな金の巻き毛をもてあそびながら、まだしばらく立たずに座り込み続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 ――その袁紹からの早馬を受け、顔良も出撃の用意に奔走していた。

 

 数日前から酸棗の手前二十里に布陣していた。そろそろ誰かが裏切るだろうという頃合いを袁紹が見抜いた――というより賭けた。博才に関して袁紹の右に出る者はこの天下にいないだろう。袁紹は主力の重装歩兵部隊を、偽の兵糧集積地にやってくる李岳への伏兵として、大胆にも前線から引き抜いていたのである。

 顔良率いる主力部隊は袁紹からの早馬を受け、ただちに臨戦態勢に突入。やがて訪れるであろう李岳軍の騎馬隊に向けての備えに忙殺された。

「ここで全ての決着をつけられれば……!」

 この戦を速やかに終わらせることに顔良は強く執着し始めていた。袁紹に心の平安を与えたい。またいつかのように穏やかで楽しい日々を袁紹に与えて上げたい。そう望む顔良にとって、この戦は障害でしかない。

 穏やかな日々を取り戻すためにも李岳軍を討つ。敵は酸棗を目指して駆けてくるだろう。その手前で奇襲をかける。討てないまでも、ここで時間を稼げば袁紹本隊が間に合う。三十万を二手に分けた挟撃だ、いかな李岳軍とて持ちこたえられるわけがない。

 しかし、顔良の胸中は正反対の不安で占められていた――果たして本当に勝てるのか、と。そして勝利の先には何があるのか、という。

 顔良はなぜか無性に程昱に会いたいと思った。今ならば間に合うのでは、という主語を欠いた不穏な気持ちだけが沸き起こる。

「斗詩ぃ、どうした? 暗い顔して」

「ひゃぁっ!」

 いきなり後ろから声をかけてきたのは文醜。顔良は飛び上がって胸をおさえた。よこしまなことを考えていた分、驚きの量は大きい。

「ぶ、文ちゃん!」

「おーぅ、文ちゃんだぞー。どうしたんだよ、そんなに驚いて」

「ちょっと考え事をしていて……」

「んんー? なんか不安そうだけど……可愛い可愛い斗詩がそんな暗い顔してちゃ、あたいは悲しいぜ」

「文ちゃん……」

「だぁいじょうぶだって! なんとかなるなる。いざとなればこの猪々子さまが麗羽さまと斗詩だけでもひっかついで逃げてやるからさ」

 今は文醜のこのあっけらかんとした明るさが顔良には何よりもありがたかった。

「いつも言ってるだろ? 斗詩はいずれあたいの花嫁になるんだ。いつでも笑顔でいてくれなきゃな!」

 じゃあまた後でな、と手を上げて文醜は歩いていった。当然文醜も部隊を率いて李岳軍を迎え撃つ役目を与えられている。激戦となるだろう。それでもこうしてわざわざ顔良の様子を見るために足を運んでくれた。

 顔良は心に決めた。私は裏切らない、と。最後まで戦い抜いて、きっと二人を守ってみせるのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――出撃から一刻後、李岳軍。

 

 先頭を駆けるは馬超の部隊であった。志願である。補佐に馬岱、そして地の利に優れた徐庶がついた。事態は緊迫しているが、部隊長である馬超は全速の行軍中にも拘わらずなんともだらしない顔で笑っている。呆れ顔で注意する馬岱。

「どうしたのお姉さま、気持ち悪いったらありゃしない」

「えっへっへ」

 馬岱の言葉にもクネクネするばかりで馬超は一向に要領を得ない。

「んん。なんていうかさ、あのさ、珠悠」

「なんです? 翠様?」

「あたしはさ、なんで李岳軍が強いかようやくわかった気がするんだ」

 へっへっへ、と馬超は親の問いに答えを用意できた子どものように笑う。

「みんな誰かのために戦ってるから強いんだなぁ、ってさ」

 意外な言葉に馬岱が目を丸くする。それは馬超らしからぬ言葉であった。

「あたしはさ、今までずっと自分のために戦ってたんだ。もっと強く、最強になるために! ってさ。でも負けた。李岳軍に何回も負けちまった。いま思えばそれは当然だったんだ。勝てるわけなんかなかった」

「そ、それはわたしがお姉さまの足を引っ張って」

「違うんだたんぽぽ。そういう意味じゃなくて」

 いつも言葉足らずで自分の気持ちを正直に打ち明けるのが得意ではない馬超だったが、肚の底の熱いものをよいしょと持ち上げるように口から吐き出す。

「黄巾軍をぶっ潰した時、あたしは痛快だった。三十万の軍隊に勝ったんだぞ!? 大勝利だ! って。でも冬至は違った。悲しそうに、寂しそうに夕陽を見ていた。しょげてるみたいに」

「……ご覧になられてましたか」

「たまたまな……乱世なんだ。そしてあたしたちは武人だ。戦で戦って人を斬ることに、もうほとんどなんとも思わなくなっちまった。でも冬至はそうじゃない。なんとも思わなくなる前のあたしが持ってた、なんというか……何かをちゃんと持っててくれてるんだなって。大事にしてくれてるんだなって思った」

「お姉さまだって、みんなを大事にしてるよ」

「ありがとよ、たんぽぽ。でも足りないなって。冬至のああいうの見るとさ、あれだな。ぐっと来るんだな。頑張らなくちゃなって」

「……そうですね。兄上はいつでも怒ってて、悔しがってて……誰かのために。時には敵のためにも」

「顔には出さないように……いや、出さないようにしてるんだけど結局出ててしかもみんなにバレてるのに気づいてない感じ」

 徐庶が吹き出した。

「そうなんですよね。だから放っておけないんです」

「だから李岳軍は強かったんだな、ってわかったのさ」

 馬超が徐々に速度を上げ始める。

 それは皆を促すような速さではなかった。誰よりも先に立ち、自分の身を呈して戦おうというような速さ。

「あたしも冬至のために、たんぽぽのために、そして珠悠のために戦ってみることにする」

 見れば前方からまばらな明かりと共に敵陣が現れた。まだ酸棗までは距離がある。動きも鈍いから待ち受けていたわけでもないだろう。規模から考えても袁紹が敷設した中継の陣でしかない。事前の打ち合わせでは手間取るようなら素通りすると決めていたが、馬超は十文字槍『銀閃』を強く握った。刃が十字に交差する中央に埋め込まれた翠玉が月光を照り返し、二房の桃色の飾り毛が螺旋を描いて翻る。

「いっくぜ」

 馬超は先頭から敵陣に飛び込んでいった。手間取る? 手間取るわけないだろ! いまこの時、馬超は抑えようもなく沸き起こる力に全身を委ねた。駆け抜ける愛馬の馬体に全てを預け、前のめりになりながら立ち塞がる全てを斬り伏せていく。

 そして喜びとともに叫ぶのである。

「李岳軍の先鋒、錦馬超ここにあり!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――同刻、袁紹軍本隊。

 

「そろそろ陣の一つとぶつかっているころでしょう。おそらく持ちませんが」

「フン! どうせ蹴散らされているのですわ。まぁ構いません。袁紹軍は不意討ちを受けている。そう思わせることが出来れば良いのです」

 袁紹の言葉に幕僚はかしずくのみ。いつから主君はこれほど強くなったのか。これこそが天下の器だと今ならば言える、と並んで駆ける将たちは誇りを抱いた。名だけではなく実までも充たされた。袁紹軍はこのまま覇を唱えるだろう。

 袁紹は言う。

「李岳さんも思ってもみないことでしょうね。今度は自分たちが埋伏の陣でなぶり殺しに遭うだなんて!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――半刻後、曹操軍。

 

 今頃李岳はどのあたりだろうか。曹操の予測では酸棗まで残り一刻というところだろう。距離に対してありえない勘定だろうと思う……李岳軍以外であれば。

 ほとんど時を同じくして官渡城を飛び出した曹操軍も目指す烏巣まで半刻を切った地点にいた。真っ直ぐ走れば酸棗よりも烏巣が近い。李岳もそれを知っていて即決でこの作戦を採用したのだ。

「華琳様……烏巣に守備隊がいればそろそろ索敵範囲内ですが……」

「そうね」

 随伴する郭嘉が曹操にだけ聞こえるようにささやく。その意図は明白だ。

 もしこれが李岳による曹操への罠であれば袁紹軍の伏兵がいることになる。烏巣に到着した瞬間、挟撃を食らって全滅――ありえないことではない。曹操が李岳であればその作戦への誘惑は計り知れないだろう。袁紹であれば一も二もなく飛びつきそうだ。

 しかしそれはない、と曹操は断じていた。

 であれば、行くしかない。

「李岳を信じるというのですか? 烏巣であると見抜いた根拠は何もありません」

「信じる。この曹孟徳の宿敵が本物であることを信じるわ」

 曹操は振り向き声を上げた。

「司馬懿!」

「ここに」

 郭嘉の後ろから司馬懿が声を出した。さすが李岳軍の軍師、この曹操軍の行軍についてこれる文官は全土を探してもそうはいないだろうに。

「烏巣はもう近い。策はあるのかしら?」

「敵を見たらば、(たちま)ち攻めかかられよ」

 郭嘉が眼鏡の位置を直しながら視線を隠すように俯いた。それは自分の心のうちを見られたくない時の彼女の仕草だ。司馬懿を相当警戒しているらしい。

「それが策?」

「他には何もございません。曹操軍の武威、存分に示されるがよろしい」

 曹操はニタリと笑った。司馬懿、この曹孟徳を試すか!

 

 ――さらに行軍速度を上げる曹操軍。やがて無警戒な明かりが見えてきた。敵陣、それも規模が大きい!

 

 司馬懿も同様に興奮していた。敵の動きは鈍い。袁紹軍の兵糧拠点であるという信憑性が鼓動と共に高まっていく。李岳は司馬懿にさえ明かさない情報を持っていた。思い返してみればいつだってそうなのだ。李岳はどこからともなく敵の急所を見つけて作戦に織り込んでくる――その度に司馬懿を魅了する。

 曹操軍の動きが早まっていく。夜闇に声が響く。曹操は止まらない。司馬懿の進言通り、ただちに攻めかかろうとしている。

 曹操軍の先鋒として飛び出たのは曹純率いる虎豹騎だった。噂に違わぬ速さでみるみる敵陣に迫っていく。軽騎兵としては呂布隊に並ぶ速度だろう。虎豹騎は一当てすると本隊に折り返してきたが、敵陣に見る間に炎が走り始めた。いつどの機で行ったのか、火計を実行したのだ。愚直に突っ込む以外の手管を持っている。

 さらに夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪の部隊が波状攻撃を繰り返す。敵陣が混乱から立ち直る暇など一切与えないという見事な連携だった。軍がまるで生き物のように動く。将は手足。曹操の意のままに軍師が指示し、部隊は駆けに駆けて敵を討った。

 強力な騎馬隊を擁してその力を存分に活かして戦う李岳軍の精強さとはまた別の強さであった。敵の弱点を見逃すことなく正確に突き、崩し、押し潰す。気づいた時、司馬懿の眼前では煌々と夜空を照らす火柱が幾本も立ち昇っていた。もはや袁紹軍は補給を絶たれたも同然であろう。

「ご満足頂けたかしら?」

「……感服いたしました」

 まさに蹂躙、という言葉以外に評しようがない。李岳軍が奇襲をかけたとて勝利は揺るがなかったろうが、これほど速やかに全てを焼き尽くして目的を完遂できただろうか。

 息を呑む司馬懿に向け、一つ小さな笑いを浮かべて曹操は言った。

「司馬懿、私の陣営に来なさい」

「何度も申し上げましたが、私は」

「李岳のためにもそうするべきよ」

 意外な言葉に、司馬懿は殴られたような衝撃を受けた。

「あの男は本当に将の器かしら? 傷つき、心をすり減らし続けている。いえ、確かに器は大きい。しかし同時に薄く繊細よ」

 曹操の目に冗談を言っているような色はない。曹操は心の底から李岳を哀れんで、心配さえしている。

「李岳は不幸だわ。能力があり、志もあった。しかし気質が向かなかった。優しすぎる……残酷になれもするけれど、無理をしてそう振る舞っているだけに過ぎないから。そして何より主君に恵まれなかった……誰一人、李岳を守る者がいない」

 司馬懿よりいくつも背が低い曹操を、なぜか見上げるような錯覚に陥っていた。司馬懿は圧倒され腰を抜かしそうにさえなっていた。そして泣きそうになっていた。自らの未熟を責められているような気がして、そして同時に李岳は決して、それが事実であっても自分たちを責めはしないだろうという想像までしてしまって。

「私なら全てを受け止められる。憎悪も歓喜も、汚濁も何もかも。司馬懿、私は冗談で言っているのではない。私はこの国に本当の意味での王道楽土を築きたいと考えている。今の帝は李岳を支えていると言えるの? 察するに、帝もまた李岳に甘えているのではなくて?」

「……臣が君を支えるのは当然のことです」

「そうね。そしてそれは君が臣を抱きとめる力があるという揺るぎない前提があってこそのはず。気息奄々たる漢王朝……皇帝劉弁だけではそれを守れるわけもない。李岳がいたからこそ何とか形を保っているに過ぎないではないか。そのような不安定な国家が許されると言える? 李岳が去ったらどうするというの」

 司馬懿は戦慄とともに曹操の言葉に立ち向かうとする。だが足を震えさせずに立ち尽くすことが精一杯だった。李岳がこの人をなぜこれほどまでに恐れていたのか、その一端を垣間見た気がした。

「貴女たちは戦いの果てに何を得られるか考えるべきよ。そして李岳が何を失うのか……考えが変わったならいつでも来なさい。私は誰であろうと歓迎する。貴女も――李岳も」

 司馬懿は言い返せなかった。李岳を救える者が果たして洛陽にいるのか、と。みな助けられてばかりではないか。あの切ない背中!

「私は……」

「いま答えを得ようとは思わない。それよりまずはやることがあるから……さぁ、駆けるわよ。これからはまばたきの時間さえ惜しくなる」

 手勢の整備と立て直しが終わったのを察して曹操が言う。鬨の声を上げて曹操軍は走りだした。司馬懿は答えの糸口さえ見つけることの出来ないまま、愛馬にしがみつくことしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――同刻、李岳軍。

 

 そろそろ酸棗が見えてくる、という地点に差し掛かった頃だった。四方に放っていた斥候のいずれかから叫びが上がった。

「敵兵!」

 途端、無数の矢が暗闇の中を飛翔してきた。間を置かずに駆け降ってくる無数の黄金鎧……袁紹軍の重装歩兵隊である。

 しかし最初の斥候の声が叫ばれた時には李岳軍は既に弾けるように散開していた。二列に分かれてただちにその場で旋回する騎馬隊。奇襲の最中、李岳軍はただでさえ危険な全軍反転機動を闇の中で行わなくてはならなかったが、そこに逡巡は介在しなかった。それはあらかじめ決められた動きであったから。徐庶と司馬懿が出発前にすでに定めていた通りの動きである。

「……やはり伏兵か」

 李岳は呟いた。隣にいる許攸が顔面を蒼白にしたまま震えている。徐庶が舌打ちをしながら叫んだ。

「それも両側からの埋伏の計です。これは……兄上!」

「祀水関の戦いをやり返すつもり、だな……!」

 まさに祀水関で己が受けた戦術をそのまま返してやろうとでも言うかのようだった。

 両脇から歓声を上げて突撃を目論んでくる敵兵。ようやく反転を終えた全軍が駆け始めるが、造作もなく突撃を喰らい始める。袁紹軍の士気は高い。祀水関での十面埋伏の計で受けた恐怖が強ければ強いほど、それをやり返してやろうという戦意に変えているのだ。

「珠悠……!」

「このままです兄上、このまま!」

 今ここの被害を減らすためならば反転せずに真っ直ぐ突っ切った方が正しい選択だったかもしれない。しかし李岳はここに袁紹を倒しに来たのだ。ならば苦難が待ち受けていようと反転することが正しい。

 追撃を躱すように騎馬隊は疾駆する。しかし二段、三段と挟撃は続いた。袁紹軍の士気は想定以上に高く、そして途轍もない量である。袁紹がこの戦場にまさかここまで大兵を置くとは、徐庶も司馬懿も見抜くことは出来なかった。

「はっはっは、来ましたな」

 張郃が爆笑しながら近づいてくる。そしてなおも笑いながら言った。

「殿軍は私にお任せあれ。あいや心配は御無用。なにせ他の皆様と違って、これを喰らうのは初めてではありませんのでな」

 張郃の言葉にハッとして、思わず苦笑いをこぼす李岳。人生に二度も埋伏の陣で挟撃を受ける男はそういないものだ。

「……厳しい追撃になるぞ」

「でしょうな。追い討たれるのは慣れているとはいえ、油断はしますまい。それにお館、いくら考えてもですなぁ……ここが己の死地だとはどうしても思えんのですよ」

「――吉鷹。信じるぞ」

「お任せあれ」

 声を張り上げて兵を集めると、猛烈に追いすがってくる袁紹軍に向けて張郃は飛び込んでいった。冀州戦役でとうとう最後まで撤退戦を演じきった男である、その能力をもっとも買っているのは誰あろう李岳だ。しかし不敵に笑う張郃を信じたい気持ちが溢れるのと同時に、冷静に人を見極めようとする意思がせめぎ合う。

「……恋」

「わかった」

 名前を呼んだだけで呂布は李岳が望む言葉を理解していた。こくりと頷き張郃の元に駆けていく赤兎馬にまたがった呂布と、それに付き従う黒ずくめの騎馬隊。張郃だけでは心もとない、というわけではない。呂布に任せればより生存の確率が高まるだろうと考えたまでだった。それにあの二人は一時であれ反董卓連合軍で並び立って部隊を率いていた。その奇縁に賭けたいという気持ちだった。

 消えて行く背中は感慨を長引かせることなく、すぐに夜闇に飲まれてしまった。多くの者が戻っては来ないだろう。李岳はもう振り返ることなく駆け始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――半刻後。李岳軍は何とか追撃を追い払い小休止を得ていた。

 

 袁紹軍の埋伏の陣は十面とは言わずも八面を数えた。精強迅速な騎馬隊だけを率いていたからこそ命からがら抜け出せたと言える。そうでなければ全軍圧殺されていただろう。

 殿軍を務めた張郃と呂布も何とか敵を躱しているようだ、とは廖化の手勢の知らせである。どうやらあえて本隊とは別の方向に撤退しているらしい。敵の追撃を分散するつもりだろうが、徐庶も口を挟まない。李岳は張郃の判断を信じた。

 李岳はしばらくの休憩を取った後、兵から剣を借り受け歩き出した。向かった先には疲労のあまり座り込み、身動きさえ取れない男――許攸がいた。

 李岳の接近に気づいた許攸が、パンと手のひらで張られたように顔を跳ね起こした。その仕草がなぜか面白く感じ、李岳は微笑んだ。

「り、李岳将軍!」

 これ以上ないほど顔面を蒼白にしながら、許攸はよれよれと立ち上がる。

「許攸殿、貴方は嘘をおっしゃった」

「そ、それは……! 私は誓って!」

「誓って?」

「きょ、虚偽を申したわけではありません! 私もまた謀れたのです!」

 李岳は一振りの剣を手にしたまま許攸に近づく。許攸は己に訪れる残酷な運命を察し、ひざまずいては懇願を始めた。

「ち、違うのです! 私も騙された……ど、どうか、どうか御慈悲を……」

 両手を突き出し、振り仰ぎ、こすり合わせながら許攸は涙を流す。李岳はそれらの仕草には一切取り合わず、許攸の手を取った。

「さぁ許攸殿、これを」

 李岳は許攸を立たせると手にしていた剣を手渡した。許攸は、これで自害せよと? とまだ鼻をたれながら口ごもる。

「違います。私達はこれから死地を抜けます。貴方をこれ以上お守りすることは難しい。ここでお別れです」

「……わ、私を斬らないのですか」

「ご自分でおっしゃられる通り、貴方は騙されただけでしょう。正直なところ、私は貴方を好いてはいない。損害も受けた。ですが私もまた貴方を利用しようとした。袁紹と変わりません。ここで貴方を斬る道理などないのです。それに、何も死ぬことはないでしょう」

「……李岳殿」

「約束ですからね。丞相位はお預けです。後は真名もか。良き友人になれたら良かったのですが……私にできるのはこの剣を差し上げることくらいです。後は竹筒に一杯の水くらい。情けない限りですが」

 竹筒と一握の乾飯を李岳は押し付けるように渡した。許攸は先ほどとは異なり、今度はめそめそと絞り出すように泣き始めた。

「……今更ですが、私は己の浅慮を恥じる思いです。頂いたこの剣、戒めに家宝といたします」

「生き延びることが出来れば、ですよ。勘違いされてはいけない、私はここで貴方を放り出すのです。感謝を受けるいわれはありません」

「いえ、御恩に感謝いたします。なに、意地汚く逃げ切って見せましょう。失敗談と遁走劇には困らない人生を送ってまいりましたので……」

「それは美点ですよ」

「ご武運をお祈りしています」

 では、と言って脱兎の如く逃げ出した許攸を見て、李岳は思わず感心してしまった。先程の疲労困憊、立ち上がれもしない姿は一旦なんだったのか。しかしあれもまた自然な人の有り様なのかもしれない。

「よろしかったのですか?」

 徐庶の訝しげな声に李岳は頷きを返す。

「どうせ後で増長する。切り捨てるならこうした方が後腐れがない」

「またそんな悪ぶって」

「いじるなよ。実際、それどころじゃないんだ」

「ふふん、まことにお優しい兄上でございますこと」

「こいつめ」

 そうしているうちに廖化が放った永家の者から知らせが届いていた。烏巣を焼いた曹操が向かってきている、とのこと。李岳は胸に巣食っていた大きな心配の種が溶け落ちるのを感じ、大きく嘆息した。作戦は成功したのだ。司馬懿も無事。ただし袁紹軍の本隊が向かってきてもいる。呼吸一つが生死を分ける、時宜は峻烈なまでに狭隘(きょうあい)である。

「敵軍、迫ってまいります」

 徐庶の言葉に李岳は立ち上がった。張郃に釣られなかった追手の半数だろう。未だ厳しい撤退戦になる。だが公孫賛が味わった痛苦に比べれば如何ほどのことであろうか――そう考えた時に思わず趙雲の顔を見てしまったから、心の(うち)を見透かされてしまった。

「何も心配することはないぞ、冬至? 今度こそ私が守り抜いて見せる」

「泣かせるようなことを言う。まさかこの程度の窮地で緊張しているのか、星」

「まさかであろう。笑わせた方が良かったか?」

 胸元に手を伸ばしては不穏な覆面を取り出し、華蝶仮面! とやり始めた趙雲。その尻を蹴っ飛ばす仕草を見せてから李岳はひそと囁いた。

「……ここを耐え抜けば袁紹と正念場だ。そこを勝ち抜けば幽州まで一気に北上することが出来る」

 華蝶仮面のまま、趙雲は腰帯に差した剣を撫でながら言った。

「果たせぬ約束などではなかったことを、ようやく証明できるというわけだ」

「死ぬなよ」

「そなたこそ」

 李岳は騎乗すると、全兵に前進を命じた。史上最大規模の挟撃を受ける中、その逆転を信じて疑わずに。




次回、対袁紹戦決着!

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