真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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幕間 続閑話集

武人たちの夕

 

 ――洛陽場外、李岳軍陣営にて。

 

 血反吐というのは文字通り血の混じった反吐である。胃が破れて血が混じり、こらえきれず吐き出すもの。粘り気のある赤いものは地面に飛び散り、無様な匂いが口腔を満たす。鼻を刺して目に抜ける痛みは、屈辱からなるものだ。

 華雄は血で地を朱に染めながら、雄叫びを上げて立ち上がった。

「もう一本こぉい!」

 向かい合うは長剣を構えた武人・高順。

 この数年、華雄は幾度となくこの高順と手合わせを行ってきた。陳留王劉協をかどわかされたあの『洛陽のもっとも長い夜』に、悔恨であえいだのは何も李岳だけではない。立ちはだかった太史慈に一撃を受け、眼前でみすみす敵の思惑を阻めなかった華雄もそうであった。

 世に云う反董卓連合戦のあと、紆余曲折を経て李岳軍の陣営に加わることになった高順に対し、事あるごとに対決を挑む華雄の姿はもはや日常の光景となっていた。武力もそうであるが、師としての資質が頭一つ抜けていることを無意識に華雄は察していたのかもしれない。

 決して口には出さないが高順もまた華雄の挑戦に喜びを得ていた。蹇碩との激闘を経て肉体に重大な損傷を受けた高順にとって、華雄との油断ならぬ打ち合いは心身ともに刺激を与え力を再び取り戻すための助けとなっていた。

 李岳の母であるという特殊な事情から、陣営に馴染めぬ己のことを慮って華雄が挑んできているのだと高順は勝手に好意的に解釈していたが、もちろんそれは真実ではない。ただしその効果を及ぼしていることも事実であるが。

 

 ――飛びかかってくる華雄の大斧を高順は辛くも受ける。

 

 華雄の懸命さは高順が誰よりも知るところであった。押し迫る戦斧の迫力は昔日のそれではなく、高順にもすでに幾ばくの余裕もない。幾度の大戦を、そして死闘を経て華雄は武人として新たな境地に至ろうとしていた。

 その証左こそ、高順を襲う斧の嵐。剛腕自慢の華雄が新たに身につけたのは細やかな技量でも老獪な手練手管でもない。華雄はどこまで行っても華雄。華雄こそ何者よりも華雄である。彼女が手に入れたのは、剛力を持って打ち伏せる技を間断なく放ち続ける無尽蔵の体力であった。

 

 ――されど高順もまた天下第一に名乗りを上げても遜色のない武人。華雄の猛攻を全てさばききり、返す刀で色を失うほどの剣戟を存分に奮った。それはのたうち回るように戦いをやめない我が子李岳に発奮を受けていると思わせる動きであった。

 

 ひとしきり打ち合った後、休憩のいとまに華雄は聞いた。

「どうやったら最強になれる?」

 華雄が正面からこのようなことを聞くのは初めてだった。高順は手を止めて華雄に向き直った。

「……私は呂布にも、張遼にも、高順! 貴様にも勝ちたいんだ。無論夏侯惇などは一刀で斬り捨ててしまいたい」

「夏侯惇は強いぞ」

「そんなことはわかっている! 知りたいのは私には何が足りないということなんだ。私は何を得ればいい?」

 新たな境地が見えてきたからこその焦りなのだろうか。華雄の切迫した飢えは過去に高順――丁原もあえいだ覚えのあるものだった。

 高順は昔を思い出しながら言った。

「静かさの境地」

「……なんだそれは」

 必殺技じゃないのか、と聞く華雄に高順は重ねて答えた。

「あれは師である蹇碩との決闘の時だった。私は手傷を負い、技量でも劣っていた。このままでは死ぬと思ったよ。だが同時に、生きねば、と思った。大切な人を守るために生きねば、と」

 華雄は相槌もなく食い入るように高順の目を見ている。高順は己の顔面を斜めに横切る傷に手を当てながら続けた。

「その時、全てが静かになった。音もなく、色さえなかった。けれど何でも出来ると思ったよ。不思議な感覚だった」

「今でもその感覚になれるのか?」

「あいにくあれ以来音沙汰はない。しかしあれを経てから己が一つ強くなったということはわかる」

 斧を振り、音を立てて風を切りながら華雄は呟く。

「誰かのために戦う、か」

「そういう相手がいるかどうかだがな」

「さっぱりだな! 見当もつかん。けど参考になった。覚えておく」

 その答えに満足したのか、華雄は戦斧を立てかけると着替えを始めた。ここには二人しかいないので気にもせずにあられもない姿になっていく。全身隆々たる筋骨だが傷だらけでもある。この肉体の有様こそ、捨て身のように敵に吶喊していく重装歩兵から決して逃亡兵が出てこない証左だろう。華雄は驚くほどに兵卒からの信頼が篤いのである。

「戦はまだしばらく先なのか?」

「さあ、どうだろう。戦い足りないのか? 華雄」

「当たり前だ!」

 上半身にさらしを巻いたまま、ザバッと水を浴びながら華雄は答える。銀灰色の髪からみずみずしい雫を飛ばしながらヘン! と鼻を鳴らす。

「曹操に孫権! 敵はまだいるんだ。戦をやめる道理はない」

「洛陽の民はそう思っておらぬようだがな」

「知らん!」

 一度は執金吾として宮殿から洛陽を見守った高順だからこそ洛陽の現状がよく見えていた。

 すでに人々は戦が終わったものと思っている。それほど劉虞、袁紹の脅威は大きく映っていたのだ。まさかこの漢に帝が二人も立とうとは。再び王莽が荒らしたかのような世になるのではないかと気が気ではなかったのだ。

 それが静まった今、新たな戦を望む者などいようはずもない。

 李岳が奏上した出師表によって軍備動員への理解は得られたかもしれないが、この効果がそれほど長続きするとは思えない。機会は一度きりだろう。

 つまり、天下守護のために戦い続けてきた李岳軍閥とも言うべき面々に対する不要論が、いずれ時をおかず持ち上がろうということであった。無論、今はまだ天下泰平の光復に酔いしれているのではあるが。

「そういう情勢の中だ、開戦の契機を掴むこともまた一つの戦いだろう」

 己の考えをかいつまんで高順は説明した。

 浴びた水と汗を布で拭いながら、華雄は表情も変えずに言った。

「だからだな、それを何とかしようとしているのだろう、あの小僧は」

 何を当たり前のことを、と華雄は唇を突き出す。

「荊州にまで出向いてこそこそと人と会っているのも悪巧みのためであろう。こういう時にろくなことをせんのが貴様の息子だ!」

 今頃出向いた先でまともな神経なら思いつきもしない悪辣な策略を巡らせているのだろう、と――想像しては華雄は不敵な笑みを浮かべる。

「小癪だが」

 華雄は繰り返した。

「全く小癪だが、こういう時のあの男は――絶対になんとかするのだ」

 お世辞にも仲良しとは言えない、好いているとも言えないであろう李岳への言葉に、高順は妙にくすぐられて笑みを浮かべた。高順の笑顔などほとんど拝むことのなかった華雄が目を丸くするのを見て、心配性の李岳の母はさらに大きく笑った。

 見やる西には夕陽を背に闇へ没しようという洛陽。振り返れば東からは馬群の巻き上げる砂塵が濛々たる。張遼の騎馬隊が戦闘での基本的な機動を何度も繰り返しているのだ。

 華雄から桶を受け取り、高順も水を浴びた。心身の充実で胸がにわかに熱を帯び始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤子騒動

 

 妊娠が発覚したので呂布は報告することにした。

「赤ちゃんが出来た」

 お腹に手を当てながら李岳の目を見て真っ直ぐ言った。朝議の場であった。こういう時に限って程よく全員が揃っているものだ。

「多分あと二ヶ月だと思う」

 嬉しい、と呂布は微笑んだ。

 それから瞬きする程のわずかな時間に何が起きたか、時系列で述べるなら以下の通りである――李岳は筆を取り落とし、張遼は椅子から転げ落ち、徐庶は盛大に茶を吹き出した。董卓が次に入れようとしてきた茶を器ごと放り投げ、それを浴びた賈駆が叫び声を上げる。陳宮は李岳に飛び膝蹴りを喰らわさんと机を蹴って宙に舞い、黄忠が小さく『アリなのね』と呟けば、高順はよくやったと拳を握る。でかした大将! と無責任にはやし立てる張郃の人の悪さったらない。司馬懿だけは一言もなく微動だにせずにいた。

 事程左様に、呂布はただの一言で洛陽丞相府を崩壊させることに成功したのである。この瞬間、国家機能は完全に麻痺した。一瞬の間に天下国家を論じる会議場は阿鼻叫喚の愁嘆場になり果ててしまった。

 絶叫、悲鳴、弁解、爆笑が入り交じる中、転げ落ちた姿勢から立ち直った張遼に黄忠が懐かしそうに囁く。

「あらあら、前にもこんなことありましたわねぇ」

「……前のあれはあんたのせいやったやろがい、紫苑」

 荊州攻略戦にて劉表の元より黄忠を帰順させた折のこと。黄忠が娘の黄叙――璃々を連れて来た時も似たような騒動が起きた。あれももう何年も前の話である。璃々も幼子という年柄ではなくなりつつあるが、それでも府内の面々と会う時は甘えん坊のままである。

 とぼけたように首を傾げる黄忠は今や李岳軍でも強力無比な弓隊の長である。張遼率いる騎馬隊に比べて派手な戦績とは言えないが、要所要所で決定的な仕事をしている重要な戦力である。

「すっかり馴染みましたねわたくしも」

 繰り広げられるどんちゃん騒ぎを見ながら黄忠は楽しそうに笑う。荊州から降った時は後ろ盾となる者が誰もいない洛陽でどう生き抜いていくか、それに悩む日々だった。李岳のことは信用できたが海千山千の有象無象が権力を求めてひしめき合う魔都が洛陽である。娘の璃々をどう守るか、それに腐心することも覚悟の上であった。

 しかし蓋を開けてみれば黄忠がそういう些末なことで煩わされることはなかった。陰惨とも言える権力闘争は董卓、賈駆、李岳らが全て対処しているらしく、黄忠にはもっぱら軍人としての任務だけが与えられた。そして母として存分に娘と過ごす時間もまたしっかりと与えられたのである。

 今では疑いようもなく、ここにいる全員を仲間と信じて全霊を賭すことが出来る。

「せやけどまぁ、みんなあんだけよう遊べるわ。あの冬至にそんな甲斐性があったら今頃この丞相府は第二の後宮やで……なぁ紫苑」

「そうね霞ちゃん……まぁそれはそれで楽しいでしょうけど、それはそれで大変だったでしょうね。私も本気になってたわ」

「ほ、本気ってアンタな……」

「霞ちゃんだって人のこと言えないでしょう」

「ぬ、なぬぅ?」

「さてこの騒ぎ……お母上としてはどういうお気持ちなのかしら?」

 黄忠が水を向けたのは李岳の実母である高順。

「せやせや、おかーはんなんやからきっと間違いとはいえ色々気になりますやろ? まぁどうせ勘違いかなんかなんやろうけど……」

 意外にも『えっ』という顔をして振り返った高順。まさかとは思うが、と張遼は言葉を継いだ。

「……もしかしてほんまに子どもが出来た信じてましたん!? あのとぼけた恋でっせ! 妊娠いうたかて……どうせ犬か馬やて!」

 間もなく明らかになるがこれが正解だった。

「ち、違うのか」

 張遼は我が目を疑った。高順が動揺に声を震わせるなど今後一生お目にかかれないに違いない。

「……ぬか喜びさせおって」

「……そ、そんな言葉が返ってくるとは。実は孫が見たいとか、そういう……?」

「孫、見たい」

 赤子を抱く腕をしながら虚ろな瞳になる高順。張遼は開いてはいけない扉を開いてしまったことに気づいて後ずさりする。この話題、下手に茶化せば死まであると察する次第。

「まぁさておき、そろそろ止めとくか?」

 主に陳宮と徐庶の手によって簀巻きにされ、水責めか火炙りの憂き目に遭おうとしている李岳。さすがにいさめ時かと張郃が言う。

「そうね……ご主人様もこういう時は助けがないと何も出来ない人だから」

「せやな……おいこらー! 恋が一言あるそうや! 耳かっぽじってよう聞きや!」

 張遼の声に処刑を敢行しようとしていた面々の動きがピタリと止まった。卓上の菓子にもそもそと手をつけていた呂布が名を呼ばれてゴクンと動きを止める。

「……ほんで恋、誰が誰の子を生むんやて?」

 

 ――たどたどしくも要領の得にくい呂布の言葉を端的に解釈すると以下である。妊娠したのは李岳の愛馬・黒狐。黒狐は牝馬であったのだ。そして相手の牡馬はなんと赤兎馬であるとのこと。自分のお腹をさすっていたのは単に朝食を食べすぎたからでしかなかったらしい。

 

「……恋、次からはそういうことを先に言ってくれ」

「? わかった」

 天井に逆さに吊るされた状態から、這う這うの体で抜け出そうとあがく李岳が何とか告げる。

 なぜこんな大騒ぎになったのか理解できない呂布だったが、李岳の言葉はちゃんと守るつもりだ。次からはちゃんと朝ご飯の多寡はきっちり報告しようと、食べ過ぎて膨れたお腹をさすりながら思うのであった。

 そんなこんなを経た後に、そういえばと張遼は議場を振り返った。こんな騒動の中で一番騒ぎ出しそうな司馬懿がひどく静かである。椅子にも腰掛けたままだ。張遼は肩に手を置き『おい生きとるか?』と声をかけた。

 司馬懿は静かに微笑んでいた。

 そう、ただ静かに――

「し、死んどる……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠く果てまで歩く夢

 

 散々だった――李岳は昼間の騒動を思い出して今日何度目かになるため息を吐いた。

 向かい側に座る司馬懿は平静を装いながらそうですね、と相槌を打つ。視線の先には書簡、手には筆、頭は真っ白。昼を思い返すと顔から火が出るようでまともに前も向けない。司馬懿は本当に李岳が子を作ったのかと思って気を失ってしまったのだ。張遼曰く『仮死状態』だったとのことだが……

 今は騒動ももちろん収まり、食後の仕事の時間である。何年もそうしてきたように司馬懿は李岳の私邸で打ち合わせ、情報の整理、今後の相談など平時であればほとんど毎日通い詰めた。李岳が気を使って休めと命じても、司馬懿は聞く耳持たなかった。

 今夜もいつものように夜食代わりに点心をつまみながら言葉を交わしている。李岳とであれば永遠に会話を続けることが出来るだろうと思う。

「どうした如月」

 李岳の声に小さく首を振りながら司馬懿は答えた。長い髪がゆらりゆらりと揺れる。

「いえ、この数年のことを思い返してみたまでです」

「ん?」

「こういう時間もすっかり慣れ親しんだものになったな、と」

「ああそうだな……ついつい付き合わせてしまっているね」

 李岳はやはり、司馬懿の言葉を非難として受け取った。

「そういえば睦月さんに怒られたよ。『年頃の娘を毎日家に通わせて、このままでは妹の貰い手がいなくなってしまいます!』って」

 己がそうされたように司馬朗の仕草を真似て、左手は腰に、右手は指を立てて突きつけながら李岳は口を尖らせる。実の妹から見ても意外と似ているものまねで、司馬懿は小さく吹き出した。

「笑顔なんだけどめちゃくちゃ迫力あって腰抜かしそうになった」

「それで、なんと答えられたのです?」

「その時はこの李岳が責任を持って」

「……責任を持って?」

「お相手を見つけます、と」

 司馬懿は困ったように苦笑した。

「姉上は一層笑顔になられたのでは?」

「……よくわかるね」

「姉妹ですから」

 司馬懿は姉の司馬朗にこそ呆れた。李岳にそのあたりの情緒を期待するのは間違っている。司馬懿の読みが正しければ次は――

「如月ももう官位を得た。昼も仕事で忙しいし二人が顔を合わせる正式な議事もある。無理に屋敷に通ってこなくても構わないぞ」

 ほらきた、と司馬懿は内心自分の読みが当たったことに少し気落ちしながらも喜んだ。李岳が次に何を言うかなどはここしばらくほとんど予測を外したことがない。

「いえ、好きで来ているものですから」

「そう?」

「はい。お構いなく」

 そう言われれば李岳も強く押し留めという気にはなれなかった。なにせ初めは自分がそうせよと命じたことなのだ。

 司馬懿は卓上を片付けると茶と月餅を用意し始めた。もういい頃合いの時間である。仕事終わりの一杯を楽しむのが二人の日課になっていた。茶の時もあれば酒の時もある。その日李岳がどちらを望んでいるか、言われなくても司馬懿にはわかるようになっていた。

「ありがとう」

「いいえ」

 長い袖をぎこちなくめくりながら李岳は茶を飲む。李岳は官吏の正装であった。頭頂には武官位を示す豸冠をかぶっている。出兵に備えて宮殿に出向き、高官と会うことがここのところ目に見えて増えているので官服の日が増えていた。李岳にしか任せられない根回しもあるのだろう。調練などは前線の将に任せきりである。

「馬に乗って調練に出る方が気楽なのは変わらないな」

 首を回し、肩をもみながら李岳は年寄りじみた呻きを上げる。

「冬至様にとっては、やはり元の暮らしの方がお体に合うのでしょうか」

「そりゃね。朝起きて、水をくんで、飼い葉をやって、飯の用意をしてから狩りに出る。山に実があればそれを摘み、鳥か鹿を射て帰ってくる。山羊の乳で作った乳酪を焼きながら塩を振った肉で晩ごはん」

 音を立てて茶をすすりながら李岳は窓の向こうに目をやった。

「馬の牧草地を求める匈奴の旅に同行したことがある。あれは……楽しかったな。北の草原に果てはないように思える。実際には果てはあるんだけどね。先まで行くと、さらにその先には違う世界が広がっている。世界はどこまでも広い」

 窓の外には庭があり、すぐに塀にぶつかる。だというのに李岳の目は千里向こうを夢見ているように霞んでいた。

「旅ですか。近頃は街道も落ち着いたということで、泰山を拝みに出歩く人も多いようですが」

「俺は逆だな。行くなら西」

 ずっと西さ、と李岳は続けた。

「如月はさ、西にずっと行けばどこに着くか知ってる?」

「長安、でしょうか?」

「もっと西」

「……敦煌?」

「そこから西は?」

「……突厥の住む地域でしょうか。草原地帯と聞いております。北には阿爾泰(アルタイ)の山々が見えるとか。康居、奄蔡と呼ばれる者たちが住んでいると読んだことがあります……が、この流れで行けばさらに西とおっしゃるのでしょう?」

「さすが我が軍師」

「もしや、大秦(ローマ)?」

 

 ――和帝の御世である永元九年……つまり今このときより百年近く前のことである。西域都護の班超が甘英という男を使者として大秦に派遣したとされている。その成否は定かではないが、この中華から西域のさらに向こうを目指して旅立った者がいるというのは歴史的事実である。

 

「……近しいところですと、桓帝の暦である延憙九年、大秦国王安敦(アントニウス)の使者が訪れたとされていますね。父も立ち会っていたかもしれません」

「それは羨ましい話だ……いや本当に!」

 二十年以上前のこと、西域から象の牙、犀の角などを献上しにやってきたのがその使者だった。匈奴が治める地からさらに西域の安息(パルティア)大夏(バクトリア)といった国々に住まう胡人らから細々と伝え聞くだけだった大秦国――両国が初めて直接交流を得た事件である。

「大秦は西の果てに栄える変わった国だと父から聞いています。普段は王はおらず、国に災難があった場合には民が優れた人物を選んで王とする。災難が終われば王は解雇されるが、王はそれを恨まない」

 不自然な程に目を輝かせながら李岳は司馬懿の言葉を訂正し始めた。手を振り大きく頷きながら指も宙で円を描く。

「そうだね、過去の大秦ではそうだった」

 司馬懿が思うのは大秦についてではなく、好奇心の塊のように笑顔を浮かべる李岳のことである。だがそれは望まぬ答えだろう。いくつか考えを浮かべながら司馬懿は答えた。

「先程、過去の大秦とおっしゃいました。気になるのはその点です」

「今は帝制のはずだ。世襲で皇帝を継いでいる。大枠ではこの国と同じだな」

「……冬至様は共和制を進歩的だとお考えなのでは? けれどそれが維持されず、退化したとは。なぜでしょう?」

 冠が大きく傾くほど李岳は右に左と頭を揺らした。

「難しいなあ! 共和制には種々の条件が必要だった、ということだけは理解できるだろう?」

「そうですね。投票可能な人口の選抜、国家が強大になるにつれて選抜が難しくなること、手続きが煩雑になることによって緊急時の即応能力を喪失すること、より強大な権力を望む側と制限したい側の対立、などでしょうか」

「……さすが司馬懿先生」

「田疇の想い描いた夢ですね」

 李岳が田疇の理想に――本人は否定しつつも――強く共感していたことは司馬懿にはわかっていた。

 途端に先程までの流暢な語り口はどこへやら、李岳はすっかり静かになってしまった。茶をすする音だけが静かに響く。

「西域までご自身で行かれたいのですね?」

 大胆な質問だったろう。李岳も驚いたように司馬懿を見つめた。図星だったらしい。司馬懿の胸に棘で突かれたような痛みが走った。

「まぁ夢の話さ。行って帰るのに十年で出来るかな? ってくらい遠いだろうし命の保証もない」

「……そうですね。将軍がおいそれと物見遊山に行けるところではなさそうです」

 だからいいのさ、と李岳は茶を口につけた。

「しかしもし可能であれば?」

「……行ってみたいね」

 李岳は照れくさそうに言った。子供が将来の途方もない夢をふと呟くような顔で。

「色んなところに行ってみたい。大秦に限らず、そこから南に海を渡れば埃及という国がある。そこには三角の山みたいなお墓があって……」

「それも、西方に旅した商人から聞いたんですか?」

「そ、そうそう!」

「もっと、聞きたいです」

 そう、もっと聞きたかった。李岳の楽しそうな話を。

 李岳はよく死んだ者の話をする。もっと言うなら殺した者の話を。田疇だけではない。於夫羅、二龍、劉虞でさえそう。そして公孫賛。李岳は死に囚われやすい性格なのだろうと司馬懿は思う。生きる者より、この先あることよりも過去に死んだ者たちを思い返す人。自分が傷つくことをためらわないくせに後悔をいつまでも抱え続ける人。

「無駄話、し過ぎたかな?」

 相槌を打たなくなった司馬懿を怪訝がって李岳は覗き込んできた。吐息がかかる程に近いところにある少年の顔に、司馬懿は少しだけ頬を染めて首を振った。

「いえ。いいえ。もっとお聞かせください、冬至様」

 司馬懿は思う――今この時ばかりは、決して誰も邪魔してくれるなと。

 

 

 

 






多分本シリーズ最後の幕間です。
「武人たちの夕」は前話で李岳が荊州に行っている間の話。
「赤子騒動」はその荊州からの帰還後。
「遠く果てまで歩く夢」同じ日の夜の話です。

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