真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百五十三話 結集

 ――陳寿はまず宛に向かった。

 

 洛陽の南に位置するこの街は、今や荊州や揚州と河北をつなぐ流通拠点になっている。近頃は南方の交州からの物品まで仕入れられているというのだからすごい。

 本来の目的地は北だったが、それでも寄り道する価値のある知らせが陳寿に届いた。まさにその交州から面白い物品が届いたと出入りの業者が知らせてくれたのである。珍品に目がない陳寿であるが、遠く海を渡って西から届いたものと聞けばなおさらである。しかも長年探していたものであると聞けば一も二もない。あっという間に旅程を変更して南行きの馬車に乗ってしまった。

 宛で待ち受けていたものは全く陳寿の期待に応えるものだった。いや、それ以上の僥倖とも呼ぶべきものであった。陳寿は返す刀のように北行きの馬車に乗り、もう用は済んだとばかりさっさと宛から出立してしまった。目指すは北である。洛陽を超え、并州に入り、晋陽からさらに向こう……雁門関を越えて匈奴の大地に踏み入るつもりだった。

 旅の最終目標地点を陳寿は李岳の生まれた土地と定めた。李岳はいた。それは間違いない。しかしこの国の人間は忘れているか口を閉ざしてしまう。ならばその外に、答えを求めて出向くことは自然なことである!

「如月様、私はもうすぐ答えを見つけられそうな気がするのです」

 そううそぶきながらの道中、陳寿は書きかけの草案について読み返していた。丁寧に舗装された道を行く馬車の揺れは心地よく、秋の終わりの冷気も相まって陳寿に程よい集中力をもたらした。

 天下の趨勢を決した――いや、この世界のありようを決めてしまったと言っても過言ではない潁川の戦いを含む、豫州戦役についてであった。

「自分で書いた物を読み返してみてなんですが……」

 潁川の戦いだけを見るならば、解釈はそれほど難解ではない。両軍が激突し、勝敗が決した。それだけとも言える。しかしその顛末には大いに疑問を挟む余地も多々あり、当事者の証言も少なく決定的な場面については霧中と評していい。いくつか資料らしきものもあるが、それも真偽不明であり陳寿は棄却した。曖昧な記録に関して採用する気が一切なく、それは陳寿のこだわりであった。

 記録は少なく、あったとしても不確かなものばかり。だから真実にはたどりつけないのだろうか? そうかもしれない。しかし断じる事はできない。

 それを紐解く鍵が、宛で手に入れたこの一巻の書であることを願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――曹操軍襲来の一報はまずは原武に駐屯する楊奉の元へと届いた。

 

「来なすったな、クソガキがぁ」

 曹操軍の行動に対して楊奉はただちに自軍に出動を命令。次いで早馬を走らせた。司隷北東方面常駐となるこの部隊は三万にまで増強されている。『不壊鉄壁』の文言を至上の命題として背に負うまさに洛陽の壁である。

 反董卓連合戦以後、元白波賊を主力とした彼の軍勢は陰に陽に戦い、主力とは言えずとも李岳軍になくてはならぬ戦力として存在感を発揮していた。打撃力では他の部隊の後塵を拝することになろうとも、柔軟な運用力においては攻守両面で支えになっていた。

 原武は対曹操戦線の北限にあたり、洛陽からの距離も非常に近い。曹操が最短距離で洛陽を襲うのであれば必ず通過する城塞である。その地を任されていることだけ取って見ても楊奉が李岳から信頼され、重用されていることが窺い知れた。

 そして原武から南方の陽武、中牟にはそれぞれ文聘、霍峻が手勢を率いて控えている。いざとなれば楊奉の指揮下で動かすことが許されていた。この規模の方面軍は他にない。

 曹操軍は河水沿いに真っ直ぐ西進してきていた。数は二万から二万五千、曹洪の牙門旗がはためいているという。曹操は信頼の厚い己が一族の将を差し向けてきた――主力といって差し支えない。同時にその少なさが気になった。陽動、牽制の寄せ手であろうか? いずれにしろ数的優位ではあるが楊奉はぶつかって勝つという選択を早々と留保した。敵には備えがある。

 この原武が攻められた場合、通常ならば北の冀州から劉備軍の援軍が出向く手筈になっていた。しかし先だってより青州から冀州に向けて臧覇率いる五万の軍勢が集結しているため、劉備軍の主力は警戒のために東に張り出している。戦力を分散させようという曹操の策だろう。

 現時点で楊奉は劉備からの援軍を絶たれた形になる。

「……まぁ、やるだけやってやらぁな」

 楊奉は軍を進めながらうそぶいた。すでに二日もすれば衝突する距離だが、決戦に備えている洛陽からの援軍は当面ないと見るべきだ。手持ちの駒で何とかしのげと李岳なら言うだろう。そして何より、それが出来ると踏んでこの地を任されているという自負が楊奉にはあった。

 決戦の地がどこになるか楊奉にはわからないが、李岳が曹操を完全に打倒するまで防備を突破されないのが使命であるとして、楊奉は全軍に下知を始めた。明日には文聘と霍峻が合流する。その間、のらりくらりと惑わせながら煙に巻いてしまおうと楊奉は思案を巡らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 呂布と共に丞相府に戻った李岳を待っていたのは楊奉からの一報だった。曹操軍来たる! 第二報、第三報と矢継ぎ早に届く知らせは、その回を増すごとに情報の精度を増やしている。楊奉は的確に敵情を入手していた。

 主だった面子はすでに集まっており、遅くなった李岳を差し置いて議論は進んでいた様子。遅いわね馬鹿、と賈駆がなじるくらいで咎める者は他に誰もいなかった。

 議論の顛末も含めて、状況の報告を受けた李岳は思案する。董卓、賈駆、司馬懿、徐庶、張遼、高順、馬超、馬岱、趙雲――皆の目が李岳一点に集る。星に例えても差し支えない英雄たちが、皆この男の一言一句によって生かされ、輝いてきた。本人にその自覚はないとしても、星々を束ねその中心にいる李信達という人は、間違いなくこの世界の中心、巨大な恒星であった。

 李岳は沈黙の後に司馬懿に聞いた。

「曹操軍本隊はいないんだな?」

「そのようです」

「状況を整理したい……如月」

 李岳の意を汲んで司馬懿が立ち上がり話し始めた。全体を把握し、その後に細部について検討する方が見落としが少ない。

「では諸州の状況より。まず西方の涼州と益州ですが、こちらは問題ないと判断できます。反乱に動き出す気配はありません」

 早速いきり立った馬超が卓を叩いて大喝する。

「私がここにいるんだ! 反乱がないなんて当たり前だろ!? 涼州を一体なんだと思ってるんだ、問題起こして当たり前みたいに言いやがって!」

「……前科があるんだから仕方ないじゃん」

「言うな! たんぽぽ!」

 馬超と馬岱の声に一同が笑い声を漏らした。

 二人がここにいる。確かにそれも大きな判断材料だった。史実と異なり馬騰、韓遂ともに反乱を匂わせるような気配は微塵もない。天子と朝廷が尊重されている国だからか、それとも馬超の報告が好意的なものだからか。どちらにせよ鍾繇と張既の働きぶりが大であることは確かな事実であった。長安以西は近年類を見ないほどの安定を見せ始めている。

 益州に至っては李儒による謀略で反乱どころではない状況に陥っている。詳述するとあまりに無残であるというので司馬懿は省略したが、あえて聞きたいという者は出てこなかった。李岳は内心劉璋に同情した。

「続いて幽州と冀州ですが、復興は当初の予定通り進んでいるとの報告です」

 減税による民心の安定、官吏の再配置、政治の脱宗教化など手を付ける点は多いが、諸葛亮の内政手腕は辣腕の一語といえた。大都市、小都市、村落それぞれに適した施策を矢継ぎ早に発布し、きめ細かな手当てはこのことを言うのだと政治の模範を示しているかのようだった。意外にも、冀州の豪族に広く人脈を得ている許攸が殊のほか活躍しているとのことだった。人はどういう局面で適性を示すかわからないものである。

 軍事に関しては関羽、張飛、そして鳳統が中心になってまずは治安維持に徹しているという。軍の主体はあくまで当初の劉備軍を中心にし、袁紹軍や黄巾軍だった者たちはそのほとんどを民に戻して農に従事させることにした。とにかく民心を安定させることに重点をおいた施策である。再び反乱が起きるようなことがあれば天下の安定はさらに十年遅れることになるからだ。

「とはいえ南下作戦もあり得たわけだが」

「潰えましたね」

 鳳統と最も密にやりとりをしている徐庶が口惜しげにこぼした。劉備軍による河水を南越しての兗州奇襲作戦は有効な戦略の一つとして考えられていたが、それは早々と水泡に帰した。臧覇率いる青州軍が北東方面から冀州侵攻を匂わせるように度々州境付近を侵犯しており、その対処に余力を割かれたためである。

 青州黄巾軍は先の冀州戦役で凄まじい数の戦死者を出した――李岳が助言し、鳳統が発案した水攻めによる死者である。その残党をまとめ上げた臧覇は怨恨を動機にいつでも冀州へ攻撃をしかける準備を整えた。実際に侵攻することはないかもしれないが、備えを皆無というわけにはいかない。何より青州から程近いところに大都市南皮があるのだ。その備蓄食料は冀州を支え、なおかつ李岳軍の重要な兵糧拠点でもある。原武への圧力も含めて曹操としては当然の一手だったろう。

「仕方ない。冀州と幽州は復興が最重要の地だ……荊州は?」

 劉表を排除したあとは長子である劉琦を荊州の支配者に据えている。異母弟の劉琮は洛陽で詩作で名を馳せ始めているとのことで、今のところ権力争いの恐れは低い。

「劉荊州殿は非常に従順に洛陽の指示に従っておられます。悪く言えば主体性がないため緊急事態の対処能力は低いとも言えますが」

「洛陽で監督し続けるしかないわね。まぁ言うこと聞くだけましよ。父親とは大違いね」

 賈駆が吐き捨てるように言った。荊州とのやり取りは政治的な動きが重く関わるため賈駆の所管となっている。劉琦の煮え切らない態度に苛立ちを覚えることもあるだろうが、大きな問題は起きていない。

「荊州水軍は冬至の激励もあって予想よりも動きはよくなっている……まぁ多少強めに尻を叩いた甲斐はあったということかしら?」

「孫権と魯粛のおかげだな。いい頃合いに動いてくれたよ。多少の鼻薬も嗅がせた。次に手を打ってくるにしても大方の予想はつく」

 若い、というのが李岳の感想だった。激戦に揉まれていない孫権たちの動きは李岳にしてみればあまりに読みやすい。思いついた仕掛けを躊躇なく働かせてしまうのだ。才気を感じる仕掛けであり手強さも感じるが、それよりも見え透いた動きに安堵を覚えるほどだ。じっと動かず何もしない方がよほど得体が知れず恐ろしいものである。

 もし孫策が生きていればそれこそ突拍子もない動きでこちらを翻弄していたはずだ。もし孫策が死なず、生きて曹操と同盟を組んでいれば――考えるだけで肌に粟が立つ事態だった。

 恐れるべきは戦場での周瑜の動きだろう。曹操と組んだ時にどれほどの相乗効果を見せるか、極めて未知数だった。

「最後に豫州ですが、袁術殿をどこまで信用できるかが鍵になるかと」

「あの蜂蜜姫け? ほんま大丈夫なんやろな!」

 胡散臭そうに舌打ちする張遼に李岳は苦笑いを浮かべた。裏切りと打算で生き延びた人間に対して、戦場の武人の評価はからい。しかし李岳は違った。

「全面的に信用する」

 信用しているのではなく信用する。その言葉の微妙な機微を察せたのは賈駆、司馬懿、徐庶を除けば高順と趙雲くらいだったろう。

 今現在、豫州の存在が天下の趨勢を左右する天秤の支柱と言えた。もし袁術が曹操に寝返れば形勢は一気に傾いてしまうだろう。だがそれはあまりに危うい賭けである。袁術と張勲は曹操と孫権相手に遺恨を抱えすぎた。いくら水に流すと持ちかけられても到底乗ることは出来ないだろう。

 張勲はその巧みな政治判断によってここまで袁術の命運を永らえさせることに成功した。最後の最後の段において、とうとう命を張ることを迫られる局面になったのである。袁術軍は死にものぐるいで戦うだろう。張勲は恐るべき謀略家であるがただ一点、袁術を裏切ることがないという点に関してだけは信頼が置けた。

「まさに一蓮托生さ。豫州の袁術と漢帝国の運命は生きるも死ぬも同じというわけだ」

「……まっさか、あのクソ生意気な小娘が戦乱の鍵を握ることになるやなんてな……ま、せやけどはっきりしてわかりやすいわ。李岳袁術連合対曹操孫権連合っちゅーわけや。決戦の舞台は豫州!」

「と、全員が思うわけだが」

 高順の言葉に張遼がハッと表情を固めた。この状況で曹操は南の豫州から遠く離れた北の兗州から西進してきたのである。

 場を狂わせるような淀みの一手。果たしてこれをどう考えるべきか。

「本攻めかな?」

「いやどうでしょう。陽動と見るのが筋では」

「そう見せかけて、洛陽までまっすぐ攻め入る手段を隠し持っているとか」

「……補給線の遮断が狙いでしょうね」

 司馬懿の言葉に李岳と徐庶は同時に食い入るように地図に目をやった。なるほど、と義兄妹同時に呟く。

「冀州との連絡を断ちに来たか」

「ねね様の兵糧輸送計画を挫くつもりですね。真空飛び膝蹴りを食らっちゃえば良いのです。過去最高の切れ味になるはず」

 陳宮は出張に出向いたままでこの席に不参加である。この場にいれば思いつく限りの罵詈雑言で曹操を貶さんと気炎を上げていただろう。

「兄上、この推測はただちに楊奉殿に知らせましょう。もし途中で目的に気づかれたら無理な攻めを考えないとも限りません」

「ああ見えて責任感あるからな、楊奉殿は」

「兵糧の問題はないのか、冬至」

 高順の問いに李岳は首を振った。

「大問題です。ですが、輸送が滞ることは想定の範囲内です。既にかなりの割合は運び入れに成功しています。今後遮断されることは問題ですが、当面の間は戦えます」

「当面の間というのは?」

「年内は」

 ふむ、と高順がうなずく。

「曹孟徳もそれを察していると考えた方が、よかろうな」

「はい……年内決着をこちらに強いる一手でしょう」

 こうして議論してはいるものの、おおよその曹操の動向は素直なものだった。

 曹操は主力を徐州南西部の彭城に集結させた。揚州北西部の寿春に主力を集めた孫権と合力して豫州に侵攻しようという意図が明らかになりつつある。南北から分進合撃を行い、沛国の相で合流するだろうというのは司馬懿の読みである。州都の譙から、陳、潁川とまっすぐ西進してくる可能性が高い。

 豫州を奪われれば荊州との連携も容易に寸断される。そうなれば兗州と豫州から洛陽は包囲され、今度こそ長安に遷都せざるを得ない。今は大人しい涼州がそれでも味方についていてくれるかというと(はなは)だ心許ないだろう。冀州と幽州が戦乱の爪痕から立ち直るにはまだ時が要る。

 曹操の思惑も李岳には十分理解できた。豫州での決戦、である。間をおいて幽州、冀州が回復してしまえば兵力差が決定的なものになってしまいかねない。涼州を離反させる工作も分が悪いと踏んでいるだろう。孫権との連携も李岳の謀略により瓦解する危険を常に孕んでいる以上、戦場での激突で決着をつけたいと考えるのは自然だった。そのために青州、兗州、徐州の兵を総動員している。全戦力を吐き出しての動きだ。曹操も苦しんでいる。

(……曹操が? あの曹操が苦しむだって?)

 いやそうじゃない、と李岳は考えをあらためた。あの曹操なのだ。腕を組み、胸を反り返らせながら笑顔を浮かべて心躍らせているに違いない。出てこい、殴り合おう。きっとそんなところだ。

 決戦の場は豫州。天下の中心、まさに中原を意味するこの地で李岳は曹操と孫権を迎え撃つことになる。

 中原に鹿を逐う――未だこの世に生まれていない未来の故事が、李岳の心中で幾度となく反響した。

 李岳は言った。

「決戦の地を豫州と定める。全軍、ただちに進発の用意を進めてくれ」

 返答はなかったが、全員の気迫が熱となって部屋に満ちた。董卓でさえ眼差しを揺らさず静かな炎をまとっているかのよう。

 結局、第一候補地であった豫州で決定となった。重装歩兵を始め、行軍に時間のかかる兵は既に進発して久しい。今頃は豫州袁術軍と合流している頃合いだろう。それを追う形でこの場に残った騎馬隊は最速で南方に追う。

「到着まで間に合うでしょうか。やや際どいような気もします」

「間に合わなくてもすぐに破られることはない。そのための人選だ……それにこれは勘だけど、曹操はきっと待つだろう」

 もし戦端が開かれていたとしても側面を急襲すれば大打撃になる。伏兵については散々見せたし食らわせてきたのだ、もうこれ以上曹操に痛撃を与えられるとは思わない。曹操もこちらの全戦力を眼中においた上で戦いたいと思うはずだ。

 李岳はなぜか根拠もなく確信していた――それに多分、彼女は言葉を交わしたがっている。

「月、明日にでも天子に進発決定を報告してほしい」

「うん……大丈夫です」

「兗州から西に伸びてきた軍は楊奉殿に任せる。いざという時は……詠」

「承知しているわ。ボクの采配で粉微塵にしてしまえばいいのよね」

「皇甫嵩様と連携して当たってくれ」

「心配無用よ。貴方は曹操を締め上げることだけを考えていなさい」

「袁術は主力を吐き出すでしょうか?」

「如月、今度ばかりは張勲も本気だ。袁紹軍譲りの黄金鎧の重装歩兵を揃えたらしい。期待していよう」

「騎馬隊は一丸となって進む、でよいのだな」

 高順が立ち上がりながら言う。張遼、呂布、趙雲、馬超、馬岱も続いて立ち上がった。騎馬隊の結束は固いが、その中心に実母がいるというのも何か変な気がする李岳であった。

「それでは母上、お任せします。自分は匈奴隊と共に行きます」

「鐙の扱いにも慣れた。北方の民にも引けを取らないこと、証明してみせよう」

「心得ております。さて参謀陣はどうしようか。珠悠は本隊かな。如月は」

「匈奴隊とともに参ります」

「大丈夫?」

「……色々と、揉まれましたので」

 かなりの荒療治で司馬懿が馬に乗れるようになったということは李岳も聞いていた。あまり聞き返してほしくなさそうなので、それ以上話題は広げることはなかったが、道中のでき次第では聞かざるを得まい、と思う。

 その後、いくつかの指示を下した後に露骨な護衛に囲まれながら李岳は私邸に戻った。呂布は騎馬隊の元に直行している。反李岳の声は日増しに大きくなっており、市井の人々に紛れた姿をしていたとしても李岳一人で歩ける状況ではなくなりつつあった。

 門をくぐった李岳は一目散に馬房へ向かった。黒狐と赤兎馬の仔が気になって仕方ないのである。

「馬飼いさん。我が愛馬の調子はどうですか」

「はいご主人様……って、馬鹿野郎」

 香留靼は李岳に蹴りをくれながら笑った。なんと自ら黒狐の出産に最初から最後まで付き添ってくれた。馬との付き合い方に関して漢人と比ぶべくもない、香留靼はその仕事を決して譲らなかった。

「いい仔だな。親に似ずに大人しい。体躯は少し小さいが……なんだろう、今にも弾けるみたいな、密度ってのか? 可能性みたいなものを感じるよ。今にも天を駆けそうだ」

「すごいな。香留靼を詩人にしてしまうほどか」

「ちぇっ、言っとけよ」

「黒狐の調子は?」

「予後は順調だ。まだいつもより疲れやすいかもしれないが、誇り高いやつだ。おくびにも出さんだろう。並の馬より相変わらずよく走る」

「付き合ってくれるか、黒狐」

 黒狐はそっけなくあさってを向いた。わざわざ野暮なことを言うな、と李岳は受け取った。もしこれで他の馬を選んでたりしたら暴れまわって手がつけられないだろう。

「決まったか?」

「ああ、豫州だ」

「匈奴の軍勢二万も城外で待機中だ、御大将」

 様々な駆け引きもあったろうが、二万もの精鋭を率いてくれた香留靼の尽力は計り知れない。

「香留靼、頼みがある」

「死ぬな、というのなら間に合ってる」

 困惑した李岳の顔――香留靼は首に腕を巻き付けて締め上げた。

「お前なぁ! 毎回毎回それ人に頼んで回るわけ!? いつまでも人が生きたり死んだりに責任感じやがって! デン、としてやがれ! 死ぬときは死ぬ! 生きるときは生きる! そんなもんだろうが」

「ぐ、ぐぇ……け、けどな」

「俺達の草原にいた頃から変わらんなぁ、お前は……けっ、そこがいいとこだがな」

 立派なひげを蓄えようと躍起になっているが、無精ひげが精々の親友の横顔を、李岳はしばしじっと眺めた。

「……香留靼も変わらないだろ」

「俺は変わった。今ここにいるのも部族のためだ。ま、政治だな。だからお前、友情のために来てくれたとか勘違いこくなよ?」

「そんなこといってぇ、なぁ、我が友」

「うっざいなっ! 嫌なやつだ!」

 うるさい、と黒狐が吠えたので二人して黙った。母に叱られたような気になる。

「そういや、この仔の名前はどうする?」

「考えてない。帰ってから決めようと思う」

「そうだな、それがいい」

「一人じゃ決めきれないからな」

「ああ……けどな、その時が来たら迷わず言えよ。死ねと、そういえ。誇り高く死ねと。その覚悟もなしにここには来ていない」

「わかった。だが俺は優しくないぞ。香留靼、這ってでも生きて帰ってこい……きっとそう言うよ」

「ずるいやつ……ああ! 我が母なる北の大地、老いさらばえ痩せこけた肉体を天に返すまでしばし待たれよ」

 李岳は香留靼の肩を抱いた。巻き込んだ……その罪の意識から逃れる術はないだろうから口には出さない。出せば香留靼は李岳に失望し、殴るだろう。まず第一に頼るべきは己ではないかと。

 匈奴の騎馬隊は、おそらく最も激甚な場面で投入される。その覚悟があるから、その覚悟があることをわかっているから二人とももう何も言わなかった。夜露に濡れるような月が雲に隠れるまで、二人は出会った頃のようにくだらない言葉を投げあい続けた。

 

 ――翌朝、騎馬隊は洛陽を進発した。民の見送りはその一切がなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女は湿気に鼻を拭った。地を覆う草原の露だろうか、それとも淮水の流れがもたらすものだろうか。

 西方の乾いた風にすっかり馴染んでいたので、慣れるまでもう数日かかるかもしれないと女は――赫昭は思った。

 その赫昭に向け、鼻面を突きつける勢いで迫ってくるのが華雄である。

「赫昭! なぜ貴様が総大将なんだ! 普通に考えればこの華雄様だろうが!」

「はっはっは! 華雄殿が総大将ですか! 冗談がお上手だ、はっはっは!」

「何がおかしい張郃! 貴様!」

 野外ではあるが立派な軍議の場でもある。しかも天子から任免も得ている人事に対して明け透けなく糾弾し、しかもこの勢いの良さといったら――ああ、これぞ李岳軍だ! と赫昭は嬉しい限りだった。

「華雄殿。華雄殿の武力は前線でこそ最大限に発揮される類稀なるものです。総大将とは本陣に控えてあれこれ指示を出すのが仕事ですから、華雄殿のせっかくの持ち味が失われてしまうと思います」

「む! そう言われてみると」

「ですので今回はこの若輩者を助けて頂けますでしょうか。私の指示など誰もまともには聞いてくれないかもしれませんが、華雄殿が率先して作戦を貫徹して頂ければ他の者も当然のように付き従ってくれるでしょう」

「ま、そうだな。それは当然のことだ」

「華雄殿の牙門旗を先頭に進むのですから、この軍は華雄軍といっても差し支えありませんね」

「ま、まぁそこまでいうのなら……仕方あるまい! 前線でお前を支えてやろう!」

 ふん、と満足気に鼻を鳴らして去っていく華雄を見て、張郃が口笛を吹いた。

「大変お上手なことだ」

「本心をお伝えしたまでです。華雄殿の武力に頼らざるを得ないのも事実なのです。それに冬至様……李岳将軍は開戦までに間に合うでしょう。私が実際に指揮をとることはありますまい」

 張郃の目が鋭く赫昭を射抜いた。有能な男だと聞いた。初めて相まみえたのは反董卓連合軍が攻め寄せた祀水関のはずだが、当時は敵味方である上に直接顔を合わせてはいない。これも戦乱の縁だろうと思う。

「陣立てを始め軍略をしっかり修められたことがよくわかる」

「……ふふ」

「何か、おかしなことでも?」

「いえ、少し昔のことを思い出しただけです……」

 軍略は修めたというよりも、授けられたものだと赫昭は思う。今は遠くなった北の戦地を思う。少年、李岳の面影を思う。

「ところで、そこもとのお名前をお伺いしてよろしいか。いや何、あらためて挨拶という程度のものであるが」

 張郃の言葉に赫昭は慌てて名乗った。

「これは申し遅れた。姓は赫、名は昭、字は伯道です」

「張郃、字は儁乂と申す……并州の盾。お会いできて光栄の至り」

「おやめください。そのような……張郃殿こそ不死身と聞き及んでいます。吉兆の将が陣営にいるとなれば、これは心強いです」

「うむ。口説いてよろしいか?」

「――は?」

 喉をつっかえたように言葉を吐き出せなくなった赫昭に張郃は重ねて聞いた。

「もし、ご婚約がすでにおありか」

「……いえ、ありませんが」

「ではそれがしが名乗りを上げても一向に構わんということですな」

「いや、構いますが」

「なぜに?」

「お断りするからです」

「ほう? それはなぜ」

「好いた人がいますので」

 自分でも驚くほどにその言葉は違和感なく出てきた。赫昭に動揺はなく、もはや一切の照れもない。とても自然なこと、当然のことを口にしたという感覚しかなかった。

「伊達男ともてはやされて来ましたが、まさかかようにして土が付くとは」

「申し訳ありません」

「いや、謝られると立つ瀬がない。それに一度負けた程度がなんですか。生きているうちはずっと勝負です」

 華雄をからかった時と同じように張郃は声を上げて笑いながら去っていった。気持ちのいい男だった。しかし一緒になることはないだろう、となぜか確信していた。魅力的な男だったが全く揺れなかった。それが嬉しくすらあった。

 騎馬隊本隊の到着はそれから数日後であった。競馬遊びのつもりなのか、一目散に駆け込んできては勝利勝利と雄叫びを上げる張遼に近寄り、赫昭は無遠慮に肩を叩いた。

「ンなんや、誰やオラ……って沙羅! 沙羅やないか! ちょっ、おまっ、うちに一言もなしに!? 戻ってきたんか!」

「こちらは軍令に基づいて行動しているだけだ。お伺いを立てる必要があったかな、霞?」

「アホ抜かせ!」

 こんちくしょう、としがみつく張遼は心底嬉しそう。李岳は気を利かせて黙っていたようだ。赫昭は続いて高順に挨拶をした。相変わらずの固い表情だったが、肩に置かれた手が優しかった。

 

 ――李岳は赫昭、そして魏延を長安方面軍から引き抜いていた。鍾繇、張既の判断で東部に回しても問題ないと判断された。李岳はとうとう己が信頼を置く全戦力を一挙に集めることに成功したのである。これまでの戦ではあらゆる面で不利を強いられてきた李岳にとって、これは生涯初めてのことであった。

 

「やぁ、沙羅」

「冬至様……」

 何年ぶりだろう。毎日数えていたというのに、もう思い返したくはない。立派に仕事を果たしたという自負と、よくぞ求めて呼び戻してくれたという喜びがないまぜになり、赫昭は目を真っ赤に腫らした。

「問題は?」

「何もございません。袁術軍との連携も予定より順調です」

「敵方は?」

「先日、各拠点を進発したとの知らせが。進軍はそれほど早くはありませんが」

「いい、細かいことは軍議で話そう。二度手間になる」

「はっ……冬至様、この場に呼んで頂き、自分は」

 李岳はいたずら小僧のように口の端を歪めて言った。

「さぁてね。歴史に残る最後の大きな戦になるかもしれないと思ってね。沙羅を仲間外れにするのは忍びないかなって」

「はっ。お呼び頂かなければ長安で叛乱を起こすところでありました」

「わ、笑えなさすぎる……」

 ここに来るまで練りに練った冗談だったが受けなかったらしく、赫昭は首をひねった。

「では、指揮権をお返しいたします」

「うん」

 赫昭は預かっていた命令書を李岳に返上した。

 それは今ここに李岳軍が完全な形で集結したということを意味した。

 最強を示し、歴史を作る――その準備は整った。李岳の心に火が付き、それは他愛ない言葉に変えて口からこぼれた。

「さぁ、全てに決着をつけよう」

 

 ――その一言は、居合わせた全員の心にたやすく類焼したのであった。

 

 


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