真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

166 / 184
第百六十一話 蜂も花咲く未来を夢見る

 沛の戦いの直後、張遼を引き抜いて孫権軍を攻撃させた李岳の作戦を目にし、周瑜と曹操が大きく動揺した理由。それは有効性や意外性からではない。自らが企図している作戦に酷似した内容だったからである。

 曹操もまた「見えている伏兵」での奇襲を計画し、実行に移そうとしていた状況であった。李岳が同様の作戦を用いたことについて、周瑜も曹操も李岳の警告なのではないかと勘繰ったのだ。露見していれば奇襲部隊は確実に全滅する。周瑜が作戦の中止の可能性について言及したのもまた同じである。

 だが曹操は賭けた。李岳の性格上、見抜いていればそうと知られないように罠だけを仕掛けるはず。敵の作戦を看破したことを露わにして矮小な虚栄心を満たす匹夫ではない。

 曹操は、これは奇貨であるはずだと信じたのだ。

 そしてそれは正鵠を射抜き、見事李岳軍の側面を急襲するに至る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 馬超の攻撃によって曹操軍は足並みを乱し、追撃続行の態勢を立て直すために束の間の時間を要することになった。

 それはつまり李岳軍もまた全体の再編成を行える猶予を得たということを意味する。司馬懿はただちに損耗の激しく足の遅い重装歩兵を中核に置き、その前後を守るように騎馬隊を配置した。無用に隊列を長大化させることなく、連携を失わないまま速やかに撤退するための対処だった。

 袁術軍は騎馬隊に包まれるように中軍に移動していた。そして厳しい撤退戦の束の間の小休止として、袁術軍は夜営に入っていたのである。

 

 ――その全てが仇となった。

 

 絶叫と悲鳴で驚き飛び起きるのと、閻象(エンショウ)が蒼白な顔で張勲の幕舎に飛び込んで来るのは全く同時だった。

「何事ですか!?」

「曹操軍の敵襲の模様。敵将不明、人数不明、損害状況……不明」

 背の高い閻象が不安で背を縮こもらせている。それが相当悪い状況であること――否、最悪の状況であることを何よりも雄弁に張勲に伝えた。

 次の瞬間、発作に襲われたように、張勲は閻象を押しのけながら袁術の幕舎に向かった。袁術は寝台の上で張勲を見上げて目を泳がせている。

「美羽様!」

「な、七乃……? どうしたのじゃ? て、敵が来たのかや……?」

 かすかに震えている袁術を抱きしめた。孫権から揚州を奪われた時、厳しい撤退戦を逃げ延びた。その時のことが思い起こされるのか、袁術の小さな震えは止まりそうもない。

 張勲は袁術の背を優しく撫でながら言葉を続けた。やることは決まっていた。

「……美羽様、お聞きください。これからしばらく騒がしくなるため、場所をご移動頂きます。美羽様もご存知の李岳さんという名の不束者が御身をお守りすることになりますが、心配はございません。何せ本陣なのですから、どこよりも安全です。しばらくすれば敵を追い散らすのでそれまでご辛抱ください」

 袁術は急に泣き出す直前のように顔を歪めた。

「七乃……七乃はこんのかや?」

「李岳さんの元へはご一緒しますが、少し野暮用がありますので」

雷山(らいざん)も? 醴泉(れいせん)は?」

 雷山とは紀霊、醴泉は閻象の真名である。

「閻象さんは美羽様とご一緒ですよー。そして紀霊さんと私は一緒に頑張ります。ほら、大丈夫! ご心配には及びません。この七乃が美羽様に嘘を申し上げたことがございますか?」

「あ、あるかも……?」

「……ふふ、でしたら、これが嘘でしたらお詫びに蜂蜜のお風呂をお作りします。すごいですねー、大変なことですよー!」

「……ほ、本当?」

「はい。だから今はこの七乃のお願いをどうか聞いてくださいませ」

 閻象が半ば強引に袁術を抱きかかえた。敵の喚声は先程よりも如実に近づいている。猶予はどんどん失われていた。

 李岳本営まで兵を蹴散らすように突き進んだ。常日頃、統制を乱すことなどない李岳軍が混乱の坩堝に堕しているのが恐ろしかった。袁術軍へのまとまった援軍を出すにはまだ時間がかかりそうだ。出せたとしても数千ずつ程度の小部隊に限定されそうだ。しかしこのような有様で戦力の逐次投入など、贄でしかない。

 張勲が本営に乗り込んだ時には、既にかなりの将が集まっていた。道中、駆け足の徐庶を捕まえて手短に情報交換をする。敵将は夏侯惇、夏侯淵、曹純。数は一万から二万。連絡が付かない者は赫昭、張郃、高順、厳顔、黄忠、魏延、法正……いずれも敵軍を挟んで向こう側に配置された面々である。軍は完全に寸断され連絡さえままならない。

 張勲は覚悟を飲み込んで李岳の元へ急いだ。

「皆さまお集まりのようで、ご機嫌よう」

「張勲! 無事だったのか!」

 どこから声がするのかと思えば、李岳は馬上だった。不思議な光景である。その周りを幾人もの人が取り囲み、行かせまいとしているようだった。

 張勲は驚き、そして呆れたように肩をすくめた。

「嫌ですわね、まさか自ら援軍に向かおうとしてらっしゃいましたか?」

 司馬懿の難しい表情が答えであった。張勲は全員に聞こえるように殊更大きなため息を吐いた。

「少し、貴方のことをみくびっていたかも。何をしにいらっしゃるつもりなのです。これ以上失望させないでくださいませ」

 いつもの上辺だけの笑みさえ浮かべず、張勲は軽蔑するように李岳を見ている……が、ぷっと吹き出して笑った。

「けれど、少しいい気味」

「……なに?」

「そんな情けない顔している貴方を拝めるなんて、こんな役得が他にあるでしょうか? ふふふ、いつだって他人が自分の思い通りに動いていると思い込んでいるような顔しているんですもの。笑われて当たり前でしょう?」

 李岳は下馬すると張勲の前に立った。全ては私の責任です、と顔に書いてあるようだった。

 はぁ、とため息を吐いて張勲はいつものように人差し指を立てた。

「何とか時間を稼ぎますわ。その間に態勢を立て直すしかないでしょう。そのためには大将である貴方がここにいなければ、ですよね?」

 まるで袁術に言い含める時のように張勲は言った。

 もちろん張勲もわかっている。どう考えても袁術軍であの奇襲部隊を押し止められるとは思えない。敵軍を挟んで反対側の部隊とは連携が取れず、この夜の闇の中では同士討ちの可能性さえある。袁術軍は完全に孤立しているのだ。

 李岳はうめくように言った。

「曹操の本当の狙いはこれだった……昼の戦闘は俺たちを撤退に追い込む下ごしらえに過ぎなかった。この伏兵が本命の罠だった」

「どうやらその様子ですね。夏侯惇のバカみたいな大声がここまで聞こえていますもの。はぁあ、全く面倒くさい方々ですわ……ですが、侮らないで頂きたいですわね。今ここで私達が敗れれば軍全体が崩壊することくらい、わかっています。そうなれば美羽様の行く先はどこにあるというのです」

「張勲、俺は」

 その先の言葉が何であれ、聞きたいと思わなかったから、張勲は人指し指を真っ直ぐ李岳の唇にあてて言葉を封じた。

「貴方が死ぬのは最後です。まだ順番じゃありませんわ」

 李岳の顔が面白いように歪む。くしゃくしゃだ。これほど感情豊かな人だったとは思わなかったから新鮮な驚きを得た。張勲はもっとからかいたくなったが、あいにく時間がない。

「私達とて、覚悟してここにいるのです。人生には優先順位というものがございます。私にとってはいつだって、その順位が覆ったことはございませんの……さ、美羽様」

 閻象の腕に抱えられていた袁術を抱き下ろし、李岳の手元まで導いた。袁術は少し不安そうだが様子はあまりいつもと変わらなかった――そうであろうとしていた。

 張勲は袁術の小さな体――けれどいつの間にか、少し大きくなった体を抱きしめながら最後かもしれない言葉を続けた。

「はぁい、それでは先程申し上げた通り少しお(いとま)しますね? うん、たった半刻程度でございますからご心配なく。後で蜂蜜と乳酪を混ぜたおやつをご用意いたしましょう。美羽様大好物ですものね?」

「うん。妾の大好物……」

「たくさんご用意しますから、だから」

「――みんなで食べるから、大好物なのじゃ」

 そこで張勲はグッと言葉につまり、全く違うものを引き剥がすように袁術の体を離した。そして李岳の手を半ば強引に握らせた。

「李岳さん、もしもの時は美羽様をよしなに。そこの閻象さんもお役に立てるはず……本当のことを言いますとね、馬上の貴方を見た時、少し嬉しかったですよ。奇襲を受けたのが袁術軍で良かったなんて言われたらどうしようかと思ってましたもの。だから先程の皮肉と嫌がらせは、まぁただの当てつけです。本当は感謝しております。けれど優先順位とも言いましたわ。私にそれがあるように、貴方にもやるべきことがあるのでしょう? 敵を全部倒して、天下を平和にするのでしょう?」

「どうして、そこまで」

 袁術を連れて逃げ出すことを迷わなかったといえば嘘だ。けれどここで逃げたとて、どこでなら愛しい主人に安寧を約束できると言うのだろう? 張勲もわかっていた、天下が治らなければ本当の意味で袁術が健やかな幸福を享受することは出来ないということを。

「だから、優先順位です――美羽様には天下泰平の世界がぴったりお似合い。穏やかな天地の間で、ごゆるりと遊んで頂きたいのですもの」

 それに絶対絶命の境地から何度も逆転し、一つずつ問題を解決し、世界の混乱を収めていく様を見て、胸を躍らせる人が居ないとでも言うのだろうか。

 本当に……本当にこの男は、自分のことを全く理解していないのだなと、張勲は呆れた。

「――頼む、死ぬな」

「はぁい。やれるだけやってみまぁす」

 李岳の言葉は空疎な気休めだ。しかも見えすいている。張勲も見抜いている。でもそれで良かった。本当に来てもらっては困る。慰めとしてだけ見れば満点だ。

 張勲は馬腹を蹴った。後ろ髪引かれるように振り返ると、袁術が振り返って手を伸ばしていた。

「七乃、七乃……!」

「また後ほど、美羽様!」

 心残りは無限にある。

 だから戦えると、張勲は思った。

 

 ――そして地獄のような前線に戻った。あっという間に三里は後退している。被害報告を受けた。四万はいたはずの兵は半数まで減っているようだった。半刻も経っていないはず。殺戮という言葉以外では表現できない。

 

 前線では紀霊が耳が破裂するような大声で指揮していた。

「ん!? 戻ってきたか! 良いのか張勲殿! ここは我一人でもこらえてみせるぞ!」

「荷が重いでしょう、さすがに……あとその大声どうにかなりません? 今さらですけど、作戦も何もかも全部筒抜けでは?」

「重畳である!」

 意味わかって言ってるのかしら、と張勲は首を捻った。

 とはいえ重畳である――張勲もそう思う。袁術を逃がすことが出来た。任せたのはあの李岳。きっと良きに計らってくれるだろう。

 反董卓連合を裏切り、寝返ったあの時から掛け金の全てを李岳に賭してきた。嘘もつくし騙しもするが、博打に体を張ることくらいは礼儀である。

 それに、自分たちの前で天下泰平と謳った人を、張勲は他に知らないから。こんな人心無残な乱世で生きて、その言葉にときめかない人などいるはずないのだから。

 

 ――悔しいから本人には言わないけれど。

 

 さてさて、と張勲は剣を抜いて前を向いた。前を。

 五段に横に並べた即席の陣形もかなり抜かれてしまっている。連携などまるで取れていない。曹操軍は打撃を与えて退くということを考えてもいない。ここを突破して李岳の首を取るまで撤退などありえないだろう。

 張勲自身、己の武力に自信などあるはずない。だが戦では声を震わさず、足も痺れさせずに立つことくらいは出来る。そのくらい出来なくては袁術を守れないと身に着けてきた所作だ。紀霊だけでは玉砕と意気込んですぐに全滅してしまう恐れがある。ここは優先順位を理解して差配する、参謀である己が不可欠な局面。

 出来ることは、粘るだけ粘って死ねと、鼓舞する程度だが。

 張勲は紀霊に負けまいと声を張った。

「親衛隊に告ぐ! 今ここは美羽様をお守りする正念場です! もし、皆が全員ここで美羽様のためならここで死んでもいいと思っているとしたら……それは思い違いだと断じさせて頂きます!」

 懸命に戦う黄金鎧の重装歩兵。重くかさばるが、固く命を守る鎧。どれほど金がかかろうとも、蜂蜜を我慢しようとも、絶対全員に揃えてほしいと袁術が懇願した装備。それを身にまとった兵士たち一人ひとりが、己と同等の忠誠を持っていると張勲は信じている。

「我々は生き残らねばなりません! 美羽様を守るために、生き残らねばなりません! 死ねば美羽様は泣きますもの。それもとびっきりたくさん泣いてしまいますもの! 主君の笑顔を曇らせてなんぞ臣下といえますか! 美羽様を泣かせる者は、絶対に許しません!」

 それにあの何でもわかっている余裕綽々の、自分にためを張るくらいに面の皮が厚いくせに、時に腑抜ける情けない冷血将軍も――情けなく傷つくだろうから。

 さて調子が出てきた、と張勲は笑った。この流暢なペテンでのし上がってきたのだ。そして袁術を守ってきた武器。今ここで振るわずしていつ奮う!

「我々は美羽様を守るスズメバチ! 愛しき主が求めるのならば、甘く(かぐわ)しい蜜も運べば城を築く蝋も練ろう。しかしてその身に危うきが及ぶのであれば牙を剥き、針を突き刺すのが我々親衛隊の役目なり! 奮い立て、袁術軍! 我らが姫君の笑顔を守るため! 抜刀! 前進! 切り開け! その先に――その先に、天下泰平があるのですから!」

 

 

 

 

 

 

 

 ――張勲が去った後、李岳は痛みにうめいていた。

 

 袁術が李岳の手をすがりつくように握るのだ。それが痛かった。昨日の朝に自ら傷つけてしまった親指の傷痕を刺激する。袁術はか弱い力で強く握る。痛くて立っていられないほどだった――指ではなく、心の痛みで。

 全員を助けたい、誰一人死なせたくない。その想いが強まるのに比例して、ある種の瘴気が脳裏で濃度を高め続けることに気付く。

 それは敗北の予想。勝てないのではないかという、他人事めいた不安。しかしそんな曖昧なものではなく、どこかで見てきたような不確かな確信。

 

 ――物語の終焉という予感。

 

 それは恐ろしい字面だった。考えれば考えるほど、正気を失ってしまうような絶望的な論である。これまで何度も頭の中に浮かんではかき消してきた……『李岳』という人間が歴史的には用済みになったのではないかという仮説。

 貂蝉は言った。田疇を斬ればただちに消えろと。その先には苦しみが待っていると。

 視点を逆にするのであれば、田疇を斬るまでだけが李岳の役割と言い換えることも出来た。『太平要術の書』という異物を不用意に誤飲した歴史を、本来の形へと正すことが李岳の役割だったとするならば……

 その役目を全うした以上、用済みの人間はどうなるというのか?

 新たな異物と言えるのではないか?

 世界は、物語は、李岳排除のためにあらゆる努力を厭わないのではないか?

 李岳が知る史実を正とするならば、その史実にいるはずのない『李岳』を除去するため、曹操が新たな世界を修正する担い手として、そして時代の主役として選ばれるのではないか。

 曹操が天子を傀儡とし、魏国を作るという本来の歴史の座に返り咲かせるまでが『李岳』の役目だったのではないか。ならばこの戦の結末は……

 何より許せないことは、この結末を自分自身どこかで予期していたという無様さだ。常勝の将が勝利で肥満し、脂肪を纏ったような安堵で大敗する、あらゆる歴史で散見できる事象。それこそ史実での曹操が赤壁で敗れたように。

 

 ――瘴気の濃度はどんどん濃くなる。頭も心も破裂させんとパンパンに注入され続けていく。まるで酸欠に陥ったように李岳はふらつき始めた。圧力と臭気で李岳を殺すつもりなのだ。このまま放置すれば魂は腐り色のついた水を流して溶けるだろう。

 

 親指に痛みが走る。泣き顔の袁術が李岳を見上げていた。

「り、李岳……七乃は約束したのじゃ。大丈夫って。嘘をついたら蜂蜜の風呂を作ると……出来もしないことを言ったのじゃ。だから、これは、妾との約束を絶対に守るって意味であろ? そうであろ?」

 

 ――瘴気が臨界点を超えた。李岳は微笑みを浮かべた。

 

 李岳は片膝を突き、袁術の目線に合わせて言った。

「張勲殿は帰ってこないつもりです。自分の身を捧げて貴方を守るつもりです」

「そんな……!」

「クソくらえ」

「え?」

「クソくらえ、ですよね」

 困惑で目を丸くする袁術。周囲の幕僚の血の気が引いているのがわかる。

「一緒に言ってみましょうか。せーの」

「く、クソくらえ?」

「そうです。これは悪い言葉です。無闇に使ってはいけませんよ」

「……なんで、なんでそんな言葉をいう? 七乃は悪い言葉は使っちゃダメって」

「悪い言葉を使ってでも、自分を奮い立たせたい時には使っていいんです。張勲殿を見捨てて自分たちだけ助かろうなどという考えは……クソなのです」

 

 ――運命が李岳を殺そうとするのなら、絶望という瘴気で窒息させようという方法を取るべきではなかった。この瘴気は可燃性なのだ。クソの一言で容易く火がつく。

 

 すまない張勲、と心の中で詫びた。李岳という男は英雄でもなんでもない、清濁合わせ飲む大器でもない。人一人の命を背負うことにさえ躊躇うしみったれだ。少女に犠牲を飲ませて達成する天下泰平なぞというものに力は尽くせるような男じゃない。

 ただし、心を預けると決めた相手の願いなら別だ。

「袁術殿、真名を交わしましょう」

「え?」

「私の真名は冬至です」

 気圧されたように袁術はコクコクと承諾し、真名を返した。

「み、美羽なのじゃ」

「これで私たちは何よりも得難い信頼の証を交わしました。私は貴方を絶対に信頼します。それは美羽様もですね?」

「えっ、えっ」

「美羽様。どうぞ言葉に出して」

「……冬至を、信じる」

 

 ――火がついた。瘴気は全て吹き飛んだ。頭の中が嘘のようにスッキリと冴えている。

 

 仲間を信じる。仲間も自分を信じている。答えはそんな簡単なことだった。

「如月、動ける部隊は?」

「趙雲殿と白馬義従が既に動けるようですが、まさか」

「預かる」

「冬至様!」

 司馬懿は怒りで顔を真っ赤にしながら李岳を掴んで揺さぶった。

「無茶です!」

「言ったよな? 見捨てないって」

「ですが足の遅い重装歩兵を引き連れては逃げ切れません。他に選択肢はございません。それがお嫌でしたら私が残ります! それとも共に死にますか!?」

 選択肢を問うなど、司馬懿はわかっていない。まるで李岳という人に諦めるという能力があるかのようではないか。

 ひどい誤認だ。

 諦められるくらいなら、あの時雁門関を越えてなどいないのだ。

「準備できた。冬至」

 呂布が集められるだけの麾下を率いてやってきた。自身も赤兎馬、方天画戟の出で立ちで万端の備え。

「恋殿!」

「如月、無駄。冬至が言うこと聞くわけない。相談するだけマシ。でも聞かないから意味ない」

「そういうこと」

 司馬懿は目を疑った。李岳は笑っていた。冷たく、それでいて愉快でたまらないという風に。

 それは己を許せない者が浮かべる笑み。

 同時に、答えを得た者だけに浮かべることが許される笑みだった。

「如月。今から俺がいう内容を検討してくれ。賭ける価値のある考えなのか。それとも追い詰められて精神が参っちまった馬鹿野郎の与太なのか」

 李岳は司馬懿の肩を抱いて引き寄せると、その耳に急ぎささやいた。冒頭、司馬懿は怒りで顔を赤くしたが、言い終わる頃にはハッと目を覚ましたように目を見開いた。

「……あまりにひどい与太です」

「で?」

「……冬至様との賭けで私が勝ったことはまだないことを思い出しました」

「性格の悪さならまだまだ天下一さ……博打だが、これに賭ける。ただちに行動に移るぞ。如月は今の考えをまとめて後は上手いことやってくれ」

「そんなひどい指示がありますか?」

「よしよし、かわいそうな我が軍師殿。付く相手を間違えたと思って諦めるんだな」

 言葉が終わる前に李岳は黒狐に飛び乗り駆け出していた。

 全ての謎が解けた時の、痺れるような快感に酔う。

 自分が世界の敵ならばそれも上等、運命に噛みつくような生き方こそ性に合う。下手に政府の高官に上って、らしくない大人しさに囚われていた。

 また、李岳は自分の立ち位置を履き違えていたことに気づき、考えを改めることにした。曹操と会った時から、わかり合えるのではないかという甘い幻想を抱いてしまっていた。

 飯を食い、束の間であれ真名を交わした。それがそもそもの過ちだった。自分のような凡人はその程度のことで簡単に(ほだ)される。曹操による迂遠な策略だったのではないかとすら思う。

 李岳は笑い続ける。暗くおどろおどろしい、懐かしい殺意の感触を確かめながら、李岳は黒狐を煽った。曹操を殺す。邪魔立てする者は誰一人生かさない。皆殺しにするのならいくらだって考えは湧いてくる。東西南北数千年分の戦争史が味方だ。

 盛大な鳴り物、李の牙門旗を振りかざして李岳は鉄火場を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。