真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百六十五話 痛みに苦しみ悶える龍

 ――華雄死す。

 

 その知らせを受け取った李岳は手にしていた剣を取り落とすにとどまらず、膝を地に突いてうめいたという。信じられなかったのは全将、全兵とも同じだった。李岳は笑顔のまま事切れている華雄にすがりつきながら、声を上げて責め立てた。命令違反、独断専行、無謀な行動。それが華雄が重ねた罪だという。しかしその声を聞いた誰もが、李岳は己を責め立てているのだとわかっていた。

 亡骸は討ち死にした麾下の兵全員と共に丁重に洛陽へと送られた。華雄直属の重装歩兵は誰もが一様に涙し、されど去りゆく馬車に雄叫びを上げて見送った。気勢を上げて復讐を誓う方が華雄は喜ぶだろうと誰ともなしに吠えたのである。また葬送の馬車に最上の敬意を示したのが重装歩兵だけではなく、匈奴も含めた全軍であったことはここに付記する。

 その間、李岳に言葉はなかった。

 ほんのわずかな弔いのあと、李岳軍は陳からさらに西、穎川郡許県の南東二十里の地点まで退いた。いよいよ豫州も西の果て、ここから先は峡谷に挟まれた隘路を抜けなければ洛陽にも荊州にも逃れようはない。まさに水を背に負うかの如き逃げ場なき窮地である。

 穎川に到着した李岳はただちに曹操軍の情報を欲した。既に行動を再開し、李岳を追って西に進んできているという。二日の距離。斥候の移動時間を考えれば次に知らせが来た時には決戦に備えて布陣を整えることになるだろう。

 曹操もやはり時間をかけるつもりはない。冀州青州の戦況が劉備優位に進んでいるという知らせも届いている。曹操も李岳同様にここで勝ちきらなければならない状況に追い込まれている。

 李岳は袁術とともに、急ぎ周辺の領城の主だった者たちを集めて不安の解消を図った。豫州牧の袁術の評価は悪くなく、李岳以上に懸命に曹操への抗戦を説く少女に皆が感じ入り、李岳の戦歴を考えれば不安はないという回答を得た。

 戦闘中、後背が不穏になれば戦どころではなくなる、というのは李岳軍の血の教訓である。慰撫して回った相手の誰もが好意的であったのは、反乱でも起こせば洛陽から鬼神の如き速さで丞相がやってくると思いこんでいるからだろう。先の戦が思わぬ副産物になっていた。

 ただ彼ら彼女らも、李岳が負ければ手の平を返して曹操に付くだろう。李岳は満足げに歩く袁術にそのことは伝えぬままにした。とにかく勝つしかないのだから。負けた後の事後策はないという、ひどい有様である。

 

 ――その夜、李岳は窒息するような息苦しさに突如喘ぎ、幕舎を出て陣内を歩き回った。

 

 曹操が来る。曹操と最後の決戦を演じる。勝つ手段は講じてある。しかし、誰も死なさずに勝てるという確信だけがない。

 また誰かを死なせるかもしなれないと思うだけで、李岳は貧血に陥ったように平衡を失う。

 罪、自責、自己嫌悪。それらを引っくるめて煮詰めたようなものが、喉の奥にこべりついているようで、ことごとく李岳の呼吸を妨げる。死ぬに値する罪だと内心が訴えている。苦しむ己を含め、弁護の声は皆無であった。

「だ、大丈夫ですか」

 振り向くと徐晃がいた。声をかけるかかけまいか悩んでいたようで、おずおず、という音が聞こえてくるかのようだった。

「……藍苺」

「冬至さん! すみませんけど、顔が真っ青です!」

 李岳は首を振った。苦しむのはいいが、仲間を苦しめるのは嫌だという意固地な考えが李岳を支える頼みの綱になっている。

「なんでもない。まぁでも、少し休むか」

 無造作にどさりと腰を下ろす李岳。ほとんど立っていられなかったということに徐晃は気づかない。雲の多い夕暮れだった。引き延ばしたような雲に様々な角度から光が当たり、藍色から黄色までの無数の彩りを反射させている。日没までのわずかな間の自然の奇跡。李岳と徐晃は無粋な群青一色に空が塗り込められるまで、声もなく空を見上げていた。

「静か、でしたね」

「ん?」

「なんだか静かな時間でした」

「そうだな」

 夕暮れのことを言ったのではないと李岳にはわかった。あの時から、今この時までのことを徐晃は言っている。

 行軍の間、李岳軍は静かさに包まれていた。沈黙しているわけではない。あるいは常と変わらず士気も高かった。しかし静かだった。どうしようもなく何かが足りなかった。

 それは無闇な突撃や当てのない主戦論を主張する声がないからだった。諌められてもなお溢れんばかりの戦意を叫ぶ怒号がないからだった。兵士一人一人にまで届く、勝利の確信に基づいた激励が響かないからだった。

 李岳が沈黙したことを気に病んだのか、徐晃は背に負った鉄塊を見せた。

「あの。見てください、これ」

「それは」

 金剛爆斧だった。

「これ、持ったことあります?」

「いや……」

「すごく重いんですよ。びっくりなんです。しかも見てください。持ち手のところ! 手の形にすり減ってるんです」

 徐晃にせがまれて、李岳はすり減った持ち手に掌を合わせて持ち上げてみた。不思議な熱がある。華雄本人と手を合わせたような気になった。

「この重い戦斧を担いだ華雄さんに、いっぱいいっぱい怒られました。勝つ気があるのか、根性見せろ、私たちの力で敵を倒すんだ! って」

「……華雄殿は他になんと」

「李岳は嫌いだ、って」

 思わず苦笑した。徐晃は続ける。

「そして……信頼してると。その二つが同時にあると。それは矛盾しないことなんだって」

 李岳は笑い続けた。それ以外の表情に変えようがなかった。

「……本当、気が合わなかったんだなぁ。俺と華雄殿は」

「そう、なんですか? でも」

「もちろん信頼してた。けど俺は華雄殿と違って、全然嫌いなんかじゃなかったから」

 ああ、と徐晃は察したように俯いた。その表情を李岳はあえて覗き見たりはしなかった。

 いくら嫌いだと言われても、李岳は華雄が大好きだった。いつだって最大の危険を前にしても臆せず立ちはだかり、自分と戦友の両方のために全力で怒って戦っていた。どうして嫌うことが出来よう。

 そのことをきちんと伝える機会はあったのに、彼女は最後まで生き残るものだと無闇に信じてしまっていた。敵の奇襲に気づかず、味方の犠牲で生き残るのと同程度には無能である。

「お願いがあるんです。この、金剛爆斧は……私に使わせて頂けませんか。すみません、ごめんなさい。華雄さんは多分怒るだろうけど、鼻息を荒くしながら最後は許してくれると思うんです」

 やれるもんならやってみろ! フン――確かにそんな声が聞こえてきそうだった。

「重いよ」

 二つの意味で。徐晃は俯いたまま頷いては首を振るを繰り返した。

「私……食いっぱぐれて白波賊に入って……楊奉のお頭に拾ってもらってなかったらどうなってたかわからないし、そして冬至さんに会ってなかったらもっとどうなってたかわからないし……」

「うん」

「そして華雄さんに会ってなかったら、出会えてなかったら……!」

 徐晃にはその冷静さを期待して華雄と連携を組ませることが多かった。李岳は逆のことも起きていたのだと知る。華雄の頼もしさが徐晃をどれほど救っていただろう。

 徐晃はとうとう大声を出し始めた。

「間違えました! 失敗しました! 華雄さんを信じて、もっと兵を連れていくべきでした……私のせい、私のせいなんです!」

「違う。藍苺はよくやった。何も悪くない。何一つ悪くなんてない」

「ぐっ、ふっ、うっ……! 私も、残ればよかった……!」

 慰める言葉などない。極限の状態での究極の判断だった。その場にいなかった者に何が言えよう。できることは泣きすがる少女に胸を貸してやることくらいしかない。泣け、と思った。存分に泣け。仲間を死なせて心を曇らせるのは俺だけでいいからと、李岳は口には出さずに思った、

 徐晃はそれからひとしきり泣き続け、金剛爆斧を抱いたまま眠りについた。李岳の肩に頭をあずけたまま寝息を立てる少女を抱きかかえると、李岳は背後の人影に向かって言った。

「恋、悪いけど連れてってくれるか」

 しばらく前から後ろに控えていた呂布。徐晃と李岳の二人の時間を邪魔せずに、ただ夕暮れの時間を過ごしていた。

 言葉もなく呂布が徐晃を連れて去っていくと李岳は再び一人になり、夜の中に想いを沈めた。

 

 ――心が冷えていくのがわかる。華雄の死への悲しみがそのまま殺意に転化していることを感じる。軍を率いる者の適切な心理状況とはとても言えない。なぜならこれは極めて私的な復讐心でしかないからだ。

 

 それに抗いたいという思いと、存分に飲み込まれてしまいたいという思いが葛藤してせめぎ合う。

「……やめよう」

 その声に李岳が振り向くことはなかった。戻ってきた呂布がいつの間にやら李岳の後ろにいた。

「何を?」

「もう、もう十分」

「だから、何が?」

 呂布の手が伸び、李岳の肩を悲しくなるほど強く、だが切なくなるほど弱々しく掴む。

「もういい。もう戦った。たくさん、たくさん戦った。冬至は戦いたくないのに戦った。戦いたい人はたくさんいる。そいつらが戦えばいい。冬至が戦う理由はない。辛いだけ。やめてもいい。逃げてもいい。恋も一緒に逃げる。このままじゃ、このままじゃ!」

 このままだとどうなるのだろう。呂布は答えを示さず、李岳は心当たりがありつつも何も言わない。憐憫と哀願。李岳を掴んだままの手は震えている。

 うんと頷けば、その千人力の力で李岳をこの地獄のような戦場から逃してくれただろう。そして貧しくとも二人で穏やかに暮らせる場所まで、一生をかけてでも付き合ってくれたはず……本気でそうしたはずだ。

 それをありがたいと思うのと同時に、復讐の機会を奪うなと疎む気持ちが同時に溢れ出る。冷えた心は冷め切ったまま、凍てついた地面が刃物のような切れ味を持つように、何者をも傷つけようとする。

 李岳の口が開く。応とも否とも声が出てしまう前に、横から遮る者が現れた。

「冬至様、曹操軍が出立したとのこと。至急お越し下さい」

 呂布が殺気を込めて睨みつけた。司馬懿はまつ毛さえ揺らさず冷徹に視線を返す。

「……皆を集めてくれ」

「かしこまりました」

「冬至……!」

「これが最後だ」

 果たしてそうか? という疑念を拭い去れないまま李岳は歩く。戦いの舞台から降りることが出来る日が来るとはとても思えない。永遠の勝利でさえ、友の死に報いるにはあまりにも安過ぎるから。だが目先の勝利さえ得られないのであればそれこそ無駄死にということにしてしまう。

 勝利しかない。そして乱世を終わらせる。李岳にもう気後れはなかった。

 幕舎に入って座したまま待った。やがて集結した全員に向け、李岳は言った。

「この国の未来を、その先の景色を作ろう。曹操と孫権に勝ち、その権利を得る」

 すでに決戦の最中かのように、血気を立ち昇らせながら張遼が言う。

「華雄のボケの仇討ちやぞ、相応の作戦は用意してくれてんねやろな? あんなかっこよく死なれたらこっちはたまらんねん。冬至、そこんとこきっちりわかってんねやろな!」

 李岳は微笑むことによって何より明瞭な返答とした。

 理想的な展開であれば、と前置きをした上で李岳は作戦の推移を説明した。それは始まりから終わりまで、いかに人を多く殺すかだけに注力した策だった。援軍はない。伏兵もない。秘密兵器もない。戦場での用兵だけで李岳は曹操と孫権を殲滅するつもりなのである。

 曹操は『友軍を見捨てることが出来ない』という李岳の弱点を見事看破した。青州の臧覇、兗州の曹洪、そして夏侯惇ら別働隊を死地に追いやるような策略を用いて曹操はその弱みを突いた。まさに、張貘という唯一の友をその手で殺めた覚悟を示すように。

 だが曹操は見落としてもいた。誰かを守りたいという当たり前の素朴な気持ち、それこそ李岳の闘志の原動力であるのだということを。苦境の仲間を見捨てられないというのは確かに弱点かもしれなかったが、それを補って余りある熱が彼の中で冷たく燃えるのである。

 そしてもう一つ、曹操が見落としていた知る由もない事実……李岳が既に一度、勝利のために友の命を捧げているということを彼女は知らない。幽州の北斗七星・公孫賛。彼女の敗戦を贄にして、田疇を斬るという決断を成した後だということを。

 

 ――(いにしえ)、法家の韓非は龍について云った。其の喉下に逆鱗の径尺あり、もしこれに触れる者あらばすなわち必ず人を殺す、と。

 

 李岳にもそれはあり、曹操は華雄の命と引き換えに触れた。龍は痛みに苦しみ悶え、膨張した殺意のままに大地にうねろうとしていた。

 幾万の血を欲する龍は、ただ静かに冷たく微笑む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全ての数字を出せ。曹操の指示は明快だったが量としては膨大であった。滞陣中の庶務を統合する荀彧は、寝る間も惜しんでその作業にいそしんだ。並べられる兵糧、秣、矢、兵器、果ては幕舎の材料、そして負傷者の数とその内訳。

 報告を聞き終えた曹操は言う。

「所感は?」

 荀彧は束の間考えたあとに答えた。

「物資は乏しく、兵の疲労も限界に近づいています。何より兵站が伸び切っています。これ以上の継戦は厳しいと思えるほどに……」

「つまり?」

 平伏し、拱手した荀彧の叫びが響いた。

「あと一戦! あと一戦で勝ちきらなければいけません!」

「……皆、聞いたわね。次が最後の機会と思いなさい。決戦よ」

 睥睨する曹操に帰ってきたものは戦意に満ちた眼光だけだった。臆病者も卑怯者もここにはいない。惜しむらくは最も信任する将である夏侯惇の不在。

 乾坤一擲とも言える曹操の奇襲作戦は失敗し、さらに追撃を試みた夏侯惇は華雄にその道を阻まれ敗退した。夏侯淵の援護もあったがそれでもほとんど相打ちに近く、華雄は討ったが、夏侯惇も瀕死の重傷を負い今も意識はない。戦場に立つことは到底できそうもない状態だった。

 しかしそれを悲観しても仕方のないこと。曹操は夏侯惇への心配を押し殺し、この状況を奇貨ととらえた。

「華雄を倒したことは大きい。正面の重装歩兵の圧力が減れば、泰山槍の自由度は増す。前回以上に圧倒できるでしょう。李岳の基本戦術が変わることはないと私は読んでいるわ」

「……御意に。しかしあの李岳が対処を怠るとは思えません。必ず代わりとなる人材を配するはずです」

「予想はつく。そして対処も」

 華雄の代わりに置ける将など限られている。李岳も編成には苦しんでいるはずだろうから。しかしそれは曹操も同じだった。夏侯惇の率いていた兵を誰に預けるか、まだ迷っていたのである。夏侯惇直々に鍛え上げた兵たちは、曹純に任せている虎豹騎を除けば曹軍最強の自負が高い。于禁が鍛え上げた兵たちの中から、さらに選りすぐって夏侯惇が練磨した部隊である。遊ばせるには惜しく、簡単に任せるには難しい。

 曹操が珍しく迷いに時間を費やした時だった。幕舎の中に這うようにして入ってきたのは、満身創痍の夏侯惇であった。

「春蘭! 意識が戻ったのね!」

「姉者!」

「か、華琳様……」

 血を失い、熱を出し、意識を取り戻さないまま予断を許さない状況が続いていた夏侯惇。軍医は意識が戻るかどうか全く見通しが立たないと言っていたため、曹操は夏侯惇の姿を見て心の底から安堵した。

 夏侯淵が駆け寄り抱き上げる。

「なんて無茶を!」

「しゅ、秋蘭……」

 必死の形相で体を持ち上げながら夏侯惇が言う。

「我が名は、夏侯元譲……主の覇道を……切り開き……立ち塞がる何者をも打ち倒す……曹孟徳の、剣……」

 それは夏侯惇がこれ以上ないほど昂ぶった時、戦場で叫ぶ常套句だった。居合わせた全員の胸が締めつけられた。誰よりも重傷の夏侯惇が、未だ戦意喪失していないのだ。

 秋蘭に腕にすがるようにしがみつきながら、夏侯惇は呻くように言葉を続ける。

「華琳様……! あの時、七星餓狼が砕けた時……私は、負けました。華雄に負けた……生きてここにいるのは、秋蘭が手を貸したからです……」

 夏侯淵は責められるのかと思った。反論も用意していた。実の姉を守るためなら取り決めのない一騎討ちに割り込むことなど、百回あったとて百回繰り返すに決まっている!

 だが夏侯惇は妹を決して責めなかった。

「曹孟徳の剣は、負けてはならない……だというのに砕けるなんて、もっての他だ」

「夏侯元譲は負けてない! ここに生きている! 二人がかりだったが、倒したではないか!」

「……」

 夏侯惇は答えなかった。代わりに夏侯淵の手を懇願するように握る。

「戦え秋蘭、私の分まで……」

「姉者、それを言いに……?」

「李岳を倒せ……華琳様を、頼む……!」

 そこまで言い切ると限界が来たのか、夏侯惇は意識を失った。慌てて駆け寄る程昱と郭嘉。息はあるが脈は乱れている。荒く波打つ胸。風前の灯火のような命で願ったことが、半身とも言える妹に戦場で勇躍せよということ!

 その言葉に火がついた。夏侯淵は姉を横たえると曹操にひざまずき懇願した。

「夏侯妙才、お願いがございます」

「言ってみなさい」

「我が姉、夏侯惇が率いていた兵を我に兵をお貸し与えください――二人分までも戦ってご覧に入れます!」

 平生は姉の陰で支えるように密やかに佇む夏侯淵。

 しかしその性が真に大人しいわけがあろうか。実際は姉よりもなお激烈な闘志を秘めていた。夏侯惇と夏侯淵は身体分かたれているものの魂は一つと思えるほどに強く結びつけられている姉妹なのだから。

 曹操は大きく頷いた。

「許す! 我が覇道、最大の試練の時よ。存分に戦って見せなさい」

「ありがたきお言葉」

 以後、曹操は配置と戦略に迷うことはなくなった。全ての兵、全ての武器、全ての将を縦横無尽に駆使して戦場を謳歌する時が来たのだと悟った。人生にそう在りはしないはずの……いや、唯一かもしれない予感があった。

 今この時こそ、己の生涯における全盛期が来たのだという昂りである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 孫権は悩んでいた。答えは出ていたが悩むことに意味があるかのように思えた。許されるのならばいつまでも悩んでいたい。だが時はこれ以上待ってはくれなかった。

「お呼びですか、蓮華様」

 幕舎に入ってきたのは周瑜だった。孫権はせめて悩んでいることを顔には浮かべまいと、最大の忍耐を発揮して言った。

「体はどれほど悪いの?」

 孫権が選んだのは直截だった。少し面食らったように、けれど諦めたように周瑜が苦笑いを浮かべる。孫権が気づいていたことに気づいていたような仕草。想定してはいたが望んではいなかった展開が訪れた時の諦めた顔。何もかもお見通しだというのなら、せめて自分から言ってきて欲しかったと孫権は唇を噛む。

「体調は……良い時と悪い時がありますね。ひどい時は眩暈がして立てないのですが、良い時はいつものように疲れ知らずです」

「治すあては」

「戦が終わればゆるりと」

 わかりきっていた事である。具合が悪いから家に帰ることが許されるような戦場ではなく、そのような役柄でもない。周瑜なしに孫権軍は成り立たない。彼女の力と差配は孫権以上に軍を支えている。

「……耐えて欲しい」

「わかっています」

「けど、相談して欲しかった」

「……申し訳ありません。けれど、言いにくいこともあるのです。匹夫の小心と言いますか、何とも情けない話ですが」

 病状は深刻だと言っているようなものだった。

 何となくそれ以上話す気になれず、孫権は周瑜を追い払うように退室を命じた。

 先刻曹操と打ち合わせがあり、李岳との決戦について仔細に至るまで詰めた。この段において迷いはない。

 だが問題となるは決着がつかなかった時である。勝勢であれ敗勢であれ、戦局が決定的にならない場合も当然ありうる。その時はどうなるのか。孫権には厳密な展開まで読み切ることはできないが、はっきりしたことはわかる。両軍ともに継戦能力がほとんど枯渇するということである。疲弊は極まり、もはや戦いを継続できる状況ではないのだ。

 再び戦えるようになるまで、自領に守り兵を養うところから始まる。広大な領地を管理する李岳とて即座に兵を興すことは出来ないだろう。

 それが来年になるのか、それとも二年先か三年先か。

 その時、周瑜は己の隣にいるのか。

 孫権は悩んだ。答えの出ない問題に悩み続けることは、あまりにつらく重かった。母と姉のことを思った。気持ちを聞いて欲しいという弱さから決別するには、まだ自分は弱すぎると思った。

 

 

 

 




次話より最終戦です。

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