真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百六十六話 抜山蓋世

 無事朔州に辿り着いた陳寿は、御者が懇意にしている匈奴の集落に宿を借り受けることになった。珍しい客人に匈奴の旦那衆も気に入り、馬乳酒と羊肉が振る舞われた。

「うんま! うんますぎでしょこれー!?」

 遠慮なく平らげていく陳寿。どんどん振る舞われる酒と肉。遊牧の民にとって旅人を招じ入れることは大きな喜びである。しかも博学才人となれば言うまでもなかった。陳寿にとっても直接匈奴から話を聞けるという貴重な機会、これを逃す術はなく、自身が追い求める李岳が関与したであろう戦や事件について根掘り葉掘り聞いた。

「李岳というお人について」

 最年長の男は豊かな髭をしごきながら口ごもる。やがて躊躇いがちに言った。

「我らが言えることはない。大切な約束があるのでな。どうか許して欲しい」

「……残念です」

 しかし内心陳寿は小躍りしていた。李岳は匈奴との縁が深い、しかも特別な友誼があると考えて間違いないというのがわかったのだから。

 陳寿は機嫌を損ねないよう攻め方を変えた。

「話を変えましょう。匈奴の方々はある時から積極的に漢に援軍を出されるようになりました」

「うむ」

「それはなぜでしょう? 外交の一環にしてはあまりに身が入った規模だったかと。特別な事情があったのでしょうか」

「そんなもん決まっておろう」

 すると匈奴の老爺は数節の歌を唄った。匈奴特有の喉を震わせる歌唱である。歌詞の意味はわからなかったが、郷愁のような、深い情を感じさせるものだった。

 歌い終えて老爺は言った。

「匈奴は友のため、兄弟のためならどこへでも戦いに赴く」

 

 

 

 

 

 

 第一報から二日後、とうとう曹操軍は李岳軍との交戦距離から半日の位置まで到来した。お世辞にも速やかな移動とは言えない。李岳もただ待った。もはや急ぐ必要がないことを相互が十分に理解していたからだ。

 三日の滞陣を経て両軍はさらに接近する。既に間合いであった。李岳、曹操ともに騎馬隊を両翼に展開。防備のための柵を構築し堅陣で備える。しかしそれら全てが間もなく取り払われることはおよそ自明であった。

 翌未明、李岳は最後の軍議のために全将兵を集めた。兵たちは全ての武装を終えて直立不動のまま待っている。軍馬でさえいななくことはなく、夜明け前の嘘のような静けさの中、息白く(けぶ)らせている。

 幕舎の中では将たちもまた暖を取ることさえなく集まっていた。李岳を中心に司馬懿、徐庶、張遼、高順、呂布、赫昭、馬超、馬岱、趙雲、張郃、徐晃、黄忠、厳顔、魏延、法正、袁術と張勲、紀霊もいた。そして香留靼。末席には目立たぬように張燕と廖化。

 松明がくゆる中、人影もおぼろに揺らめく。熱気があった。静かな、そして断固たる熱。ここにいる者と、既にここにいない者のためにも戦うという決意――国家と人民のために戦うという志のため。子どものため。主君のため。矜持のため。今は亡き友のため。愛のため――皆、様々な理由を持っていたが全員が共通する前提があった。それはこの輪の中心にいる少年の力によって、時局は事ここに至ったというという事実……彼がいなければ、あらゆる趨勢は似ても似つかぬ有様になっていただろう。

 立ち上がり、抗い、挫けなかった者たちの運命の結実が今ここなのである。

 人によっては感涙さえ浮かびそうなほどに情緒の高まった空間で、最初に声を上げたのは羊毛豊かな胡服の青年であった。

「友よ、俺たちはどうやってお前を助けよう」

 香留靼の言葉は(てら)いもなく、素朴でふざけているようでもあったが、見事にその場の全員の気持ちを代弁していた。

「そうだな……」

 李岳は少しだけ目をつむった。重い疲労と、今すぐ叫び出したいような衝動を抑えるように。

 

 ――少年は、己がこの殺戮の時代の中心にいるという自覚をもう十分待っていた。

 

 李岳はずっと見てきた。この時代の無残さを許すことが出来なくて、黙って見て見ぬ振りが出来なかった英雄たちを。

 腐敗と貧困、暴力を前にして立ち上がった気高き人。

 時代の混迷を打ち破るのは己以外いないと決意して戦った誇り高き人。

 故郷の土地を豊かに、害されることなく生きる権利を求めた人。

 名家の誇りのために戦った人。

 強くはなくとも見捨てられず、命を賭して仲間のために走った人。

 美しい理想のために、己の全てを汚して戦った凡夫。

 そしてこんな自分を信じ、共に戦い、平和を成し遂げようとする仲間たち。

 みんな熱くて、命を懸けた。それを目の当たりにして震えない日はなかった。この世界の不足は誰よりも気付いていたのに、初め逃げることしか考えなかった己の不埒さと比較してどれほど死にものぐるいであったか。

 戦った皆、余さず全員に戦う理由があった。

 そしてそこに己も含むべきなのだ、と思う。遅まきながらでも、その列に参じたい。

 もはや未来の世界から来た余所者などと自分を卑下しない。罪悪感など全部抱えて飲み込んだ。屈辱は踏破した。生まれも生きるもこの大地。真実、李岳は己の人生を心から肯定した。常に誰かのために戦っていた李岳が、今ようやく己を肯定するためにも戦おうとしていた。

 

 ――その価値がこの世界にはあるのだと確信していた。

 

 李岳は声に出して言った。

「今日ここで、俺と一緒に天下泰平というやつを作ってくれ」

 初めの一声(いっせい)が誰だったのか、それはわからない。しかし雄叫びは(とき)となり、幕舎を破ってたやすく全軍に伝播した。

 戦の無残さを前に美辞麗句を謳うなど厚顔無恥の極みであるか? そうかもしれないと思うと同時に、それだけではないはずだと李岳は願う。美しい夢があるからこそ、人は戦いいずれ死ぬことが出来る。死に行く仲間たちは皆そうだった。公孫賛も華雄も名も知らぬ兵たちも、あるいは敵であった田疇に至るまで李岳にそのことを魂で示した。

 たった四文字の、しかし無限の意味を含む言葉。

 心が震える人の夢。

 その儚くも美しい願いを継承し、血の緋文字で完結させることを心に誓う。

 

 ――李岳は最後の作戦を説明した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……李岳軍、布陣しています」

 荀彧が当たり前のことを言った。曹操は何の反応も返さずに前だけを見ていた。

 重装歩兵を正面に、そして騎馬隊を左右に配置している。それは先の戦いで李岳が敷いた陣とほとんど変わらないものだった。

 曹操の長大な長槍――泰山槍部隊の前に半刻と持たず撤退を強いられることになった陣である。敗因を検証できなかったのか、それとも運に賭けたのか。

 そのどちらでもないことだけは明白だった。

「桂花、稟、風。どう見る?」

 三人の軍師は間を置かずに答えた。

「李岳は泰山槍の威力を目にし、それでも攻め合いを選んだと見ます。歩兵が破られようとも騎馬隊による突撃で勝つ。そのように思われます」

「重装歩兵隊の支柱である華雄は今は亡く、されどそれに替わる侮らざるべき将たちもいます。騎馬隊の攻撃力に頼るところ大であるとはいえ、歩兵の押し合いでもむざむざやられはしない、と考えているのではないでしょうか」

「まぁこの状況を打開する新兵器の情報もございませんし〜、賈駆さんの援軍もきっちり洛陽に帰ったことも確認いたしました〜。伏兵はなし。手持ち戦力の駆使と、戦場の機微の読み合いに勝機を見出そうとしているのではないでしょうかー」

 曹操軍とて同じである。もはや新たな手札はなく、余剰戦力もない。手も腹も見せあった上で、ぶつかり合うということになる。

「つまり、指揮者の采配が戦局を分けるというわけね」

 三軍師は揃って拱手した。李岳と曹操の指揮官としての才が全てを決定する戦場となったのだ。言うまでもないということであるが、誰もが曹操の勝利を疑っていない。

 夏侯淵を筆頭に楽進、李典、于禁、曹純、曹仁、典韋。夏侯惇を欠いたことによる心もとなさは否定しきれないが、それを補う手段もある。孫権軍は周瑜、魯粛、黄蓋、甘寧、呂蒙、陸遜、周泰という将ら全員に戦闘態勢を取らせているとのこと。合力すれば李岳の軍勢とも遜色はないだろう。

 唯一の懸念があるとすれば――

「孫権殿がお越しです」

 少し考えた後、曹操は幕舎に戻って会談を許した。天幕をくぐって孫権が入ってくる。驚いたことに供は甘寧一人だけだった。周瑜もいない。

「戦端はいつ開いてもおかしくないのよ。いま話さなければならないなんて、そんなに大事なこと?」

「大事なことだ」

 孫策の妹であることを曹操は思い出した。孫策であれば笑みを浮かべていただろうが、それを除けば孫権の纏う気迫に微塵も遜色はなかった。

「華琳。以前のことだが、貴方の首を持てば孫呉の地位は安泰であるという提案が李岳よりあった」

 典韋の殺気が膨れ上がったのがわかる。孫権の隣に控える甘寧も臨戦態勢に入った。普段通りなのは孫権と曹操だけだった。

「……それをいま私に言うということは、その気はないということね」

「ええ。どうしても戦の前に伝えなければならないと思った。そうでなければ存分に戦うことが出来ない。つまり、私は私の納得のためにここに来た」

「心残りは消えた?」

「いや、まだある」

 孫権の手が腰に伸びた。

「華琳。貴方もまた、冥琳の病を告げることで私を戦から降りれないように操ろうとした。その点に関しては私は貴方を嫌悪する」

 抜剣、そして振り下ろすまでの挙動が見えなかった。典韋でさえ間に合わない。素早く、そして殺意がないからこその技。

 孫権は曹操の座っていた卓を両断し、静かに納刀した。南海覇王という銘の剣であることは世に広く知られている。孫家代々に伝授される宝剣だった。

「八つ当たりよ。他意はない」

「……見事」

「これでおあいこね、華琳」

 ふぅ、と薄紅色の長い髪をかき上げながら孫権は笑った。いたずらっ子めいたその笑顔に曹操は再び孫策の面影を見た。

「あらためて言っておく。私は私と、私の仲間達の利益を最大化するためにここにいる。そのためには李岳が邪魔だ。袁術を庇護する彼は孫家の台頭を決して許さないでしょう。最善の手段として、統一された指揮権を華琳、貴方に任せる。私はそれを伝えに来た」

 最後の懸念が完全な形で払拭された、と曹操は思った。

「……いい目ね。姉によく似ている」

「当たり前じゃない。姉と妹だもの。二人揃って母譲り」

 曹操は初めて孫権に気圧されるような迫力を見た。後ろに二人、いやそれ以上の気配を感じるような嫌な錯覚を覚えた。まるで母が、姉が、長江に生きた先祖たちが背後から見守っているかのようだった。

 これが己が否定した血脈の力か、と思うと愉快で曹操は小さく笑みを浮かべた。

「蓮華、持ち場へ。そろそろ李岳も動き出すでしょう。やつが先手をみすみす譲るとは思えない」

「勝ち、生き残り、そしてまた会おう、華琳」

 去りゆく孫権を見送りながら曹操は内心つぶやいた――あれもまた英雄。

 さて、と気を取り直して幕舎を出た。李岳の陣に気配あり。朝陽はまだだが眠りから覚めた巨大な獣のように身じろぎを始めている。

 曹操は口に出して言った。

「失望させないでね」

 落胆するくらいなら、熱く煮えたぎる絶望がより良い。

 整列、と声を張った。曹操軍はひとかたまりになり、主君の意を体現するために動き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 朝までもう間もなく、急ぎ足で駆けるような雲がにわかに流れると、夜の切れ間にざっと雨が降った。それはほんの束の間のことで、やがて旋風(つむじ)が平原を横切ると空は見る間に吹き払われた。払暁は間近、されど濃紺の空に残月は未だ煌々たり。

 

 ――潁川の平原を二分するように、李岳と曹操は向かい合う。

 

 敵味方の隔たりなく、これから行われる戦の価値を一兵に至るまで全員が理解していた。

 破れた布地に継ぎを充てるように国を立て直すのか、腐敗を断ち切り新生を目指すのか。この一戦の結果によってこの国の命運は分かれるということを。すなわち、漢帝国の興廃はまさにこの一戦にあることを。

 英雄はいつも並び立つ。そしていつも志を共にすることはない。李岳と曹操は相互に得心していた。数奇な運命と人生の帰結を。

 儚くも無謀な夢を見た。揺るがぬままに走り続けて、今ここに二人は軍を率いて向き合っている。既に存分に失い、いくら得ても補うことは出来ない傷もある……それでも求める! 勝利以外に、去った者たちへの慰めはないのだと盲信して。 

 

 ――恨みはない。時代が地獄であるがゆえ。だから終わらせたい。ゆえに、これは願いである。その価値を等しく分かち合おうとも、剣を握り師旅(しりょ)を並べて初めて二人は語り合うことが許される。

 

 李岳は言う。

「行こう! 守るべきもののために」

 曹操は言う。

「全軍進め! 新しき世界を作るために!」

 両者の号令を待っていたかのように蒼天は白熱に希釈した。来迎は閃光を大地にまぶし、天地の狭間と生死の境界を曖昧にした。

 後世、穎川の戦いと呼ばれるたった一日の出来事がいま始まりを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

「曹操軍、前進してきます。例の長槍を前面に押し出してきています」

「予定通りだ。迎え撃つ」

 司馬懿の報告に李岳は動じない。腰を据えた。一歩も退かない覚悟であり、それについては軍議で明言した。

 尋常でないほどの長槍を備えた曹操の部隊が真っ直ぐ迫ってくる。兵たちの緊張と恐怖が存分に伝わってくる。それを察したように司馬懿が声をかける。

「手はず通りでよろしいですね」

 李岳は無言でうなずく。

 騎馬隊は微動だにしない。歩兵同士のぶつかり合いに騎馬隊を投入すれば攻め手を欠き、曹操に先手を譲り続けることになる。歩兵は歩兵で食い止めなければならない。

 後の先が李岳の思惑である。反撃で痛撃を加える以上、採用する戦術はあくまで金床戦術であった。李岳軍重装歩兵部隊の頑強さは大陸一だという自負に曇りはない。華雄は間違いなく最強の部隊を作り上げたのだから。

 長槍が来るとわかっている以上、無様に逃げた前回とは違う。この局面に小細工はない。正面からぶつかる。麾下の軍団は地上最強、その自負に曇りなし。

 

 

 

 

 

 曹操は馬上で身を乗り出した。

 激突した。泰山槍が突き進む。李岳は対策を立てられていないのか、と曹操は血を熱くした。しかし前回と違って李岳軍は容易には退かない。いや、一歩も退かないと言っても良かった。気勢はあちらに分があるのか、戦線を押し上げるまでには至らない。が、優勢なのは確かなのだ。李岳軍は粘れば粘るほど出血を強いられることになる。

 曹操は前進を命じた。四半刻、気を揉むような押し合いが続いた。頑強だったが手応えもある。兵がさらに押していく。騎馬隊を警戒せよと怒鳴りながらも、曹操は歩兵から目を離さなかった。正面の歩兵同士の叩き合いで一方的に押し切ることができれば勝利への最短経路になる。いやでも力が入った。

「食い破れ!」

 叫んだ。その声に応えるように兵は李岳軍の腹に食らいつくようにさらに深く進んだ。崩れるか。曹操は追撃の用意を指示しようした。

 だがある一点から動かなかった。突如石を噛んだように長槍部隊の前進が止まったのだ。曹操は柄にもなく大声で叱咤し、進めと厳命した。それでも軍は微動だにしない。

「どうなっている!」

 顔を蒼くした荀彧が言う。

「呂布です……」

 その一言で十分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 比喩ではなく、はね飛ばした首と引きちぎられた背中、絡みつくはらわたを踏み越えて呂布は歩を進める。畏怖するのは敵に限らず、友軍でさえ戦慄に身をすくませた。

「次」

 そう呟くと、呂布は勇躍。左方の槍衾に向かって舞い踊った。

 当たり前ではあるが、長大な槍を全方位に向けて構築した槍衾は精強無比である。長槍の弱点である方向転換の鈍さを消し去った一団は近接戦闘では生半可な抵抗さえ許さない。

 しかしその槍衾にも決して向き合うことの出来ない方向が一つだけあった。

 内側である。

 つまり呂布は正面の一兵を斬って捨てると、そこから槍衾の内側に侵入、体内を食い荒らすように敵兵を斬殺しているのである。かすった程度でさえ重大な負傷になり得る方天画戟を、密集している無抵抗の背中に容赦なく叩きつけているのだ。人体などただの肉の袋であるという事実を血風と悲鳴で思い出させながら、呂布は槍衾を一つまた一つと喰らっていく。

「次」

 真紅の呂旗を地に突き立てて、この先に進めるものなら進んでみよと立ち塞がる呂布を前に、泰山槍は困惑で右に左に揺れた。

 さらに後ろから響く声。

「恋! 我々がいることも忘れるな!」

「そ、そそ、そうです! わ、私たちもいるんです!」

 赫昭と徐晃である。李岳は歩兵の指揮に呂布を含めてこの三人を充てていた。

 李岳軍随一の防戦の名手として既に議論の余地がない赫昭。そして長さでも数でも負けているが、長槍隊の運用では一日の長がある徐晃。

 特に徐晃は重装歩兵の指揮も自ら買って出た。華雄の残した部隊を率いるのは己以外いるはずがないという自負に、李岳は深く理解を示して金剛爆斧と共に任せることに決めた。

 敵歩兵の攻撃を正面から支えるのが赫昭なら、呂布が砕いた長槍の亀裂をさらに押し広げるのが徐晃の任である。

 小さな体躯に似合わぬ大きな大きな戦斧。徐晃はその重さに泣きそうになるのをグッとこらえた。やはり内心謝りながら、しかし照れたり恥ずかしがったりすればあの人は激怒するだろうと確信があったから、徐晃は腹の底から叫んで吠えた。

「行きます――見様見真似ぇ! 武神豪撃ぃっ!」

 

 

 

 

 

 

 楽進と于禁が目を合わせた。戦況は芳しくない。呂布の存在が泰山槍部隊全てに悪影響を及ぼしている。

 李典がここにいれば止めたかもしれないが、彼女は弩砲の部隊を指揮するために後方にいる。

 于禁は部隊指揮を得意とする。

 ならばここは自分だった。

「私が行こう」

「……絶対に無理しないで、なの」

 こくりと頷き楽進は走り出した。長槍隊の指揮を任されている楽進だが、戦闘前から曹操から呂布が投入される可能性を示唆されていた。確かに華雄に代えて置く人材としては申し分ない。

 伝説が一人歩きしている、と思っている。祀水関で雲霞の如き矢を捌ききった、涼州の騎馬隊をほとんど一人ですり潰した、一騎討ちで黄忠を圧倒した……よかろう、だが天下無双というにはまだ飛躍があるのではないか? 楽進の想いは腕に覚えのある者に共通する疑問だった。実力を確かめることなく相手を無敵と思い込むほど馬鹿なことはない。

 そんな楽進でも、流血で赤く汚された大地に一人立つ、その姿を見た瞬間に怖気が走るのを止めることは出来なかった。深紅の呂旗を背に、一人寂しげにぽつんと立つ呂布。周囲に散らばるのは人体だったもの。

 楽進はクソ根性を奮い起こした。

「呂奉先殿とお見受けする」

 むせかえるような血の匂いを漂わせる乙女がちらりとこちらを向く。味方の血肉を浴びたのだと思えば頭に血が上りそうになるが、楽進は努めて平常心を心がけた。かつてなく謙虚になれた。呂布が本物であることは肌で感じ取れた。伝説など、この迫力に比べればいかほどに生ぬるいか。

「楽進と申す。一つ手合わせ願いたい」

「死にたい?」

 挑発ではなく、無邪気な疑問を投げかけてるだけだと楽進にはよくわかった。歯牙にもかけられていないのだ。事実、それほどの力量差があってもおかしくはない。呂布が構えた。背中の産毛まで立ち上がってしまうほどの殺気。楽進も構えた。そして背後に飛ぶ。呂布はまだ間合いではない。しかし己にとっては間合いである。

 楽進は人前で易々と披露してはならないという禁を破り、技を繰り出した。練気を拳に集め、発気の法を通じて放つ闘気の塊。初見でこれを躱した者はいない。

 闘気が見事呂布の顔面に命中するのが見えた。弾けるようにのけぞる呂布。確かな手応えを感じた次の瞬間、楽進はさらに間合いを開けた。

 呂布は見えない打撃を受けてのけぞった状態から、不自然な瞬発力で元の姿勢に戻った。笑っていた。獲物を見つけた獣の顔だった。

 

 

 

 

 

 

「楽進将軍、敵将呂布との交戦に突入!」

 華雄の代わりに李岳が呂布を配置する可能性について、曹操は主だった将には十分に言い聞かせていた。予想が的中した快感などどこにもない。不穏な予感だけが脳裏を巡る。曹操は孫権軍に向けて旗を振らせた。

 

 

 

 

 

 

 眼前にいるは凶獣であると確信した楽進は、あらゆる戒めを無視することに決めた。身につけた技の全てをぶつけなければ喰われる。

 悪獣退治。そうとなれば不要に近づくわけにはいかない。楽進は迫り来る呂布の攻撃を距離を取って躱し続けた。間合いの優位は絶対に渡さない。飛び、避けるたびに闘気弾を放つ。恐るべきことに初撃以外まともに当てることさえできない。呂布は既に見えない遠当てを見切り始めているのだ。

 だがこうして時間を稼いでいればそれだけで価値はある。呂布を止めれば友軍の被害は減るのだ。楽進がそう己を納得させ、再び闘気を放った時だった。

 呂布は避けることなく闘気弾を正面に迎え、戟を振った。斬られた! 見えもせず大きささえわからない痛烈な打撃を!

 ペッと口元から血を吐き出し、戟を肩に担ぎ上げながら呂布は手招きした……撃ってこい、という挑発。

 楽進は三つ編みを振り乱しながら吠えた。

「うおおおおああああ!」

 怒声もまた気を練り上げる一助となる。肚の奥の胆に向けて気を練り上げる。火傷しそうな程の熱。それを拳に乗せて吐き出した。刹那、放たれた闘気は二十を超えた。標的の呂布は踊る。遠当ての全てを斬ってみせると、小首を傾げて声もなく言った――もう終わり?

 舐めるな! 楽進はそれまで堅守していた間合いを捨てて踏み込んだ。剛毅果断こそ信条! それを侮られては武人としての名折れである。

 効かないのであれば他に使い道もある。楽進は目眩しがわりに闘気を乱打し、左右に刻む歩法を織り交ぜ間合いを詰めた。肉薄。殺気に反応して頭より体が先に沈み込む。頭部の上を死が通過する。下段蹴りからさらに円月蹴。ものの見事に全て防がれるが、ここまでが虚。楽進は胆に練り上げた闘気の全てを解放した。

 至近距離から飛び上がり、左足に全ての力を込めた。蹴りで体勢を崩したところに闘気の全てを叩き込む! 楽進の秘奥義であった。

 だがその思惑が成し遂げられることはなかった。飛び上がった楽進にわずかな間も無く呂布は追随して飛んでいた。目標を見失った楽進に渾身の一撃を叩き込む。手に纏った鉄甲・閻王の防御が間に合わなければ両断されていたところ。だが力を殺し切ることはかなわず、まるで己が呂布にそうしたかったことと全く同じように楽進は地に叩き伏せられ身動きが取れなくなった。

 追撃が来る。しかし体が全く動かない! 上空から迫ってくる真っ赤な影が、己を虫のように捻り潰す様を楽進は幻視した。

 気づいた時、楽進は放り投げられ地面を転がされていた。首も胴もどこも砕かれてはいない。

「あの程度の挑発に乗るとは、曹操軍の突撃隊長も甘いな」

「助太刀参上!」

 甘寧、周泰。いずれも孫権軍の主力の将である。

 孫権が手配したのか、曹操が乞うたのか。いずれにしろ楽進は九死に一生を得た。

「……かたじけない」

「今は仲間だ、気にするな。しかし……あれが呂布か。噂以上の化け物だな。まさに黄泉路より迷い出た悪鬼」

 甘寧が抜刀しながら低く呟く。

 必殺の機会に横槍を入れられるも、呂布に苛立ちはなかった。新手の二人を見据えながら――戦いの前、最後の軍議で李岳が言ったことを思い出していた。

 

 

 

 

 

 

「恋、君を最前線に配置する」

 異論は出なかったが、疑問をためこんだような空気が流れた。

 李岳が期待するのは華雄の代わり、つまり歩兵の最前線である。最も損耗率の高い役割であるのは言うまでもない。華雄は根っからの重装歩兵部隊の指揮官として指揮統率の要領も心得ていたが、呂布にそれはない。

 それを李岳が知らないわけがなく、つまり期待する役割は別ということになる。

 個人の武勇による、単騎で戦果を挙げろと言うこと。

 呂布にもそれはよくわかっていた。

「戦えばいい?」

「ああ」

「全力で?」

 李岳の答えに躊躇いはなかった。

「全ての力を出してくれ」

 刹那、隣に立つ趙雲が息を呑むほどの闘気が漏れ出たが、すぐに呂布はそれをしまいこんだ。これを出すべき時は今ではないとよくわかっていた。

 

 

 

 

 

 

 自惚れではなく、李岳に大切にされているという自覚が呂布にはあった。人より少しだけ多く心配され、人よりほんの少しだけ優しくされているという些細な積み重ね。

 その李岳が戦場で呂布を頼った。戦ってくれと(こいねが)った。それも心配や懸念も口にせず、ただ全力で戦え、と。躊躇しなかったわけではなく、苦悩をとうに置き去りにした上であくまで平静を装って。

 そこまで李岳を追い詰めた状況が怒りを呼び、同時に抗い難いほどの喜びに包まれた。

 極みまで高まった怒りと喜びが合わさった時にどうなるか。人によるだろうが、呂布の場合それは剛力に変わる。

 

 ――敵将三人を前にして、呂布は言う。

 

「お前たちは――恋を本気にさせた」

 誰よりも強くなると誓った乙女。

 今、それを証明する(とき)

 

 

 

 

 

 

 


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