真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百六十七話 激動の潁川

 呂布が来るとわかっていた。それをわかって対処もした。しかしそれらが全て無駄に思えるほど圧倒的だった。

 呂布はほとんど単騎で曹操軍前衛の陣形を破壊しかけていた。後に続く深紅の呂旗と浸透を試みる徐晃の部隊。新兵器の優位性から総体では曹操軍が押しているものの、呂布の存在するただ一点で均衡が崩れかける。

 それを何とか阻止しようとする曹操軍の健闘さえ小うるさい虫を払う程度にしか相手にしない。台風の進路を変えられないように、地震を抑えつけることが出来ないように、人には呂布が止められないのか。

 止められるわけがなかった。

 呂布は人であることさえやめようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 予定通りです、という言葉を司馬懿は飲み込んだ。

 李岳は涙を流していた。ただの一雫(ひとしずく)、頬に押しやって乾く程度の涙だったが司馬懿から言葉を奪うには十分だった。

「……予定通り、順調だな」

 李岳が言う。心を覗かれたのかと思ったがおそらくそうではない。再び目を向けた李岳の横顔に涙の跡はどこにもなかった。

「……はい。これで曹操はより中央に兵を集めようとするでしょう」

「騎馬隊にも合図を」

「少しお早いのでは?」

「ああ。だから曹操も焦るだろう」

 本当にそうか、と言う言葉を司馬懿はまた飲み込んだ。呂布を助けたいから作戦の優先度を変更しているのでは?

 それを口にする勇気があれば、自分はここまで卑怯者でいられずに済んだのに、と。司馬懿は見当違いな恨みを内心抱えながら、はい、とだけ言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「李岳軍、騎馬隊を展開!」

「忙しくさせてくれるじゃない!」

 曹操は曹純、李典、夏侯淵に指示を下した。どこかで騎馬隊が動くことはわかっていた。比喩でも何でもなく、兵が血を吐くほど対策を積み重ねてきた。容易く突破されはしないという絶対の自信が曹操にはあった。

 それにしても呂布を起点とした攻勢があまりにも目障りだった。泰山槍部隊は列を維持することによってその真価を発揮する。長い槍の弱点は容易に方向転換が出来ない点にあるからだ。列が乱れれば左右と後ろにも敵を迎えることになり統率を崩される。そこを早くも看破された。李岳は呂布に一点を破らせ、そこから泰山槍部隊の裏面に浸透、展開を図っている。

 楽進、甘寧、周泰が防ごうとするも多少の遅滞が精々といったところ。

 やがて曹操は自分の内面から忍耐が切れる音を聞いた。

「呂布だけではないか! 押し破れないのか!」

 しかしそれが出来ない! 李岳はここまで読んで呂布を温存していたのか? だとしたら大した詐欺師だ。真冬の酸棗で会った頃の茫洋とした少女を思い出す。確かに古来の言い伝え通りである。鬼は人の姿をしているものだ。

 ここに夏侯惇がいれば話が違ったというのに。討てはしなくとも足止めは出来た。そういう意味ではこの状況は華雄の残した最後の手柄であろう。猛将は曹操軍全体に届く爪痕を残して死んだのである。

 嘆いても仕方がない。前線の崩壊は戦略の破綻を意味する。押し止められない以上、返し技で攻め合うしかない。結果的に戦力の逐次投入となったが、悔やむのは全てが終わってからで遅くない。曹操は孫権軍本隊に追加の指示を下した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 状況を聞いた孫権は耳を疑った。呂布がほとんど単騎で前衛を破壊していると言う。泰山槍の威力は孫権も十分理解している。呂布の武勇が尋常でないことを踏まえ、甘寧と周泰を支援にあてがってそれでも止められないのか。

 さらに曹操から追加の部隊派遣の指示が届く。興奮に冷静でなくなりかけていることを半ば自覚しながら、孫権は叫んでいた。

「敵将呂布を討つ! 冥琳、ここは全軍でかかろう!」

「落ち着かれよ、蓮華様。呂布を討つ必要はないのです」

「……冥琳?」

「祭殿!」

 周瑜の声に――まさか居眠りしてたのではあるまいが――黄蓋は目をこすりながら応じた。

「応、ようやく出番か?」

「曹操軍の前衛が崩れかけている。例の呂布が大暴れしている状況です」

「ふむ。この老体にその呂布を討ってこい! というわけではなさそうだが?」

「側面を突いて頂きたい」

 即席の地図を地面に描き始めた。

 向き合う李岳と曹操の歩兵集団、その一部を呂布が破り均衡が崩れ始める状況である。攻めに転じた部隊の脇は甘いというのが反撃戦法の基本である。

「突出してきた呂布のさらに側面から背後を狙うのです。攻めすぎず、されど敵に脅威を与える程度には圧力をかけて頂きたい。老練な手練手管が必要な局面ですが、可能でしょうか?」

「儂を呼んだ上でほのめかすのはやめてもらおう。見事役目を果たして見せようぞ」

「亞莎をお連れ下さい。きっとお役に立つでしょう」

 黄蓋は大声で呂蒙を呼びながら騎乗、出立していった。肩に担いだ『多幻双弓』の弦を弾いてまるで琴の音のように響かせながら。

 出撃していく黄蓋以下五千の兵を見送った孫権が沈んだ声で言った。

「冥琳……そうか、何も呂布を無理やり討つ必要はないんだな。被害も大きくなるし、無理をすればこちらも陣形を崩すことになる」

「その通りです。直接対峙するのも手段の一つですが、単に合流したとて曹操軍との間で混乱が生じるでしょう。目的は戦線を押し戻すことにあるのです。それさえ見誤らなければより効果的な手が思い浮かびます。曹操もそれを見越してこの機に兵の突出を指示したのでしょう。防げないのであれば攻め合いで形勢を整理しようということです」

 周瑜は自分に一つずつ教えようとしている、ということに孫権は気づいた。悔しいという思いの何倍も悲しい。周瑜は自分がいなくなっても孫権が戦えるように仕込もうとしているのだ。今この時を逃せば、周瑜と共に天下をかけた戦いに参加することはもうないだろうということがわかった。

 最後の機会に出来ることをする。吸収すべきことは全て吸収する。

「……虚心坦懐」

 孫権はあえてそう口にし、曇りなき眼で戦場を見つめ直した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 剣から鳴るのは敵を黄泉路に誘う鈴の音――本来的にはそうなのだが、今この時ばかりは自らの危険を訴える警戒の叫びにしか聞こえない。

「鳴りっぱなしだな……」

 甘寧は余裕のなさを半笑いで誤魔化しながら跳躍、追撃に打ち込まれる戟の刃を幅広刀『鈴音』の腹で受け流した。後方転回を繰り返して距離を取る。鈴音は限界を訴えるようにまだ震えている。

 心配した周泰が声を荒げる。

「思春さま!」

「明命。見ての通りで悪いが自分一人で精一杯だ、あまり気にしてやれそうもないぞ」

「は、はい!」

 得物である長刀『魂切』を抱え、片手には指の間にズラリと短飛刀を掴んだまま身動きが取れない周泰。短躯をさらに低く構えて敵の懐に飛び込んでの斬撃を繰り出すことを得意としているはずが、まだ一度たりとて近づけもしない。呂布の迫力は刃圏に踏み入ることすら許さない域だ。

 先程助けた将に向けて甘寧は声をかけた。

「無事か、楽進」

「……何とかな」

 強がりとは裏腹に顔は蒼白である。骨の二、三本は軽く折れているだろう。

 楽進とは新兵器の共同訓練で面識がある。曹操が謀反を起こした張貘を攻めた際、濮陽城の門を開くために特攻をかけた命知らずとして呉まで噂が飛んでいる名のある将だ。

 命を惜しまない剛の者がここまで一方的に押しやられるとは。

「三人がかりで手早く片付けたいところだが」

「……あ、侮るな。最強の看板に偽りはない」

「の、ようだ」

 しかし時間も猶予もない。呂布が破った穴から李岳軍の部隊がどんどんと侵入してきている状況なのだ。泰山槍は長さの分だけ機動力で不利になる。一度陣形が崩れれば立て直しは困難である。

「楽進、何か手立ては?」

 楽進は初めて笑った。苦し紛れと、開き直り。確かに笑うしかない。

「……せーので行こう」

「良かろう」

「だ、大丈夫でしょうか……?」

「やってみなければわからんだろう。せーの!」

 周泰の心配を押し切るように楽進は飛び、甘寧は間合いに踏み込んだ。

 鈴音を逆手に構えた。手持ちの技では最速の冥誘斬、それを三度まで繰り返そうとしたが、初撃に合わされた。武器ごとこちらを押し潰そうという一撃。甘寧はあえて技を放ちきらず、反り返らせた刃でいなすと駆け抜けた。直後、戦慄する。刃こぼれどころではなく、切っ先の三寸あまりが断ち切られていた。溶断したような煙が断面から立ち昇っている。耳に届く悲鳴のような鈴の音。

 振り返った時、呂布は空に戟を振っていた。楽進の遠当てを両断し続けているのだ。背後にいる甘寧には切り捨てられた気弾の余波である熱波が届く。体力の温存など忘れたような楽進の猛攻に対し、呂布は玉遊びのような気楽さでさばく。隙。がら空きの背中に向けて剣を振り上げた時、衝撃に甘寧は吹き飛んだ。呂布の蹴撃。まるで背中に目があるような正確さで甘寧の喉を狙った一撃は、鈴音の柄がたまたま触れたために直撃を免れた。ただし左手の甲がへし折れている。皮膚を突き破った骨がぞっとするほど白い。

 片足を浮かせた呂布に周泰が滑りこむように斬撃を放った。左足の脛、そこから股間に切り上げる容赦のなさ。

 しかし通らない! 呂布は気弾を切りながら周泰の攻撃までも防いでいる。回転数を上げれば済む話だとばかりに壮絶な速さで方天画戟を操る。しかも右足はなおも甘寧を警戒して浮いたままなのだ!

 やがて呂布はまとわりつく羽虫に癇癪を起こしたような蹴りを地面に放った。石礫を腹にまともに受けた周泰がうめいて膝をつく。

「大丈夫か、明命」

「め、めちゃくちゃです! めちゃくちゃですよあんなの!」

「そうだな」

 相討ち、という言葉が甘寧の脳裏に浮かんだ。いざとなればその選択がある。身を呈して呂布を止め、自らもろとも背中から斬らせる。周泰には無理だろう。頼むのであれば楽進。不惜身命こそ座右の銘としている以上、命の捨てどころが来れば躊躇うことはない。

 その時、楽進が言った。

「何とか一瞬だけでも動きを止める。私ごと斬れるか?」

 その言葉が甘寧の誇りに触れた。先に言われた。自らが命を惜しんでいるかのような気がした。

「出来るが、希望としては逆だな。私が止める。貴様が仕留めろ」

「馬鹿な話はやめろ。なぜ逆の提案を受けなければならないんだ」

「私も同じことを考えていた」

「私が先に言った」

「それがどうした――ははん、さてはアレを私ごと仕留める自信がないのだな?」

「それは貴様だろう。だから逆のことを言い出した」

「バカを言え」

「誰がバカだ!」

「お前だ!」

「貴様!」

「あぅあぅ……あの、よろしいでしょうか……?」

「なんだ!」

「後にしろ!」

「敵が……退いて行きますけど……」

 顔を上げた先にはすでに呂布の姿はなく、それに従うように李岳軍もまた後退し始めていた。遠く喚声を上げて攻め上がる呉軍の旗。黄蓋隊だった。痺れを切らした本隊が追加の援護をよこしたのだ。

 命拾いをしたという安堵と屈辱が、甘寧の表情を固く峻厳にした。負傷した手を治療しようとする周泰を振り払い、甘寧は部隊復帰を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まだ斬れた。まだ殺せた」

 幽鬼のように呟き続ける呂布を引きずるようにして赫昭は退路を確保した。孫権軍の増援部隊がこちらの右翼に攻勢をかけている。このまま攻め込んでは敵陣中で孤立する。李岳のいる本営からも後退の銅鑼が鳴り続けている。

「沙羅。邪魔。恋は殺しに行く」

「落ち着け!」

 考えるより先に体が動き、赫昭は呂布の頬を張り飛ばした。

「冬至様は獣になれと言ったのか! それともここで死ぬつもりか! 一旦退くだけだ。作戦を忘れたのか? まだすぐに戦わなくてはならなくなる。引き際を見誤るな。お前まで死んだら冬至様がどうなると思う!」

「……」

 李岳の名前を出すことでようやく呂布の瞳に色が戻った。

「皆さん! お早く!」

 突破口を再び塞いでしまおうと迫ってくる曹操軍を食い止めながら、押し切られそうになる徐晃。正気に戻った呂布と共に赫昭は何とか敵からの包囲を免れた。

 戻り際、ふと振り返った赫昭は呂布が舗装した血の轍を目撃して息を呑んだ。この短時間で何百人を一人で斬ったのか。曹孫両軍の勇将三人を相手に圧倒したその光景も含めて赫昭は震えを止められなかった。これが李岳が恐れ、何とか使うまいとしてきた力――

 内に獣を宿す少女・呂布の全力。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黄蓋と呂蒙。二人分の牙旗を揺らして孫権軍が押し迫ってくる。それに相対するはもう一方の重装歩兵を指揮する張郃と、夏侯惇の奇襲によって大損害を受けたが何とか再編した紀霊率いる袁術軍。

 水軍主体の軍勢何ほどのことあらん、と見ていた認識を張郃は即座に改めた。先頭を行く黄蓋の射撃とそれに続く揚州兵の勇猛さ、部隊全体を指揮する呂蒙の手並みは曹操軍に全く遜色がない。

 数で劣勢、なお本隊は復旧しつつある曹操軍の長槍部隊の攻勢によって支援も少ない過酷な状況である。しかもここを押し破られれば呂布、赫昭、徐晃らが孤立する。

「とはいえ手強い。長くは持たんぞ……」

「若造! 自信がなければ退いても構わんぞ! この紀霊が! ここを見事支え抜くでな!」

「侮るな、この程度の劣勢がなにものよ。しかし声のでかいおっさんだな! 負けんぞ!」

「その意気や良し! では大声勝負である!」

 さしたる戦果もなく負け戦の続く袁術軍だが、この士気の高さはどうしたことだろうか。袁術個人への忠誠がここまで力になるとは。張郃は愛剣・望天吼を引き抜きながら紀霊に負けじと大喝した。

「不死身と噂の張儁乂とは俺のこと! 一つ試して見ようとは思わぬか!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 呂布の凄まじさは離れている張遼にも伝わっていた。

 優しい心に強すぎる力。血に酔う趣味もないくせに誰よりも強い――まったく! どこぞのひねくれ坊主と瓜二つではないか!

「ほんまに! あんたらそっくりやで!」

 心待ちにしていた張遼の元にようやく突撃の指示が下る。孫権軍の介入で半ば有耶無耶にされたが、呂布の攻勢によって曹操軍前衛には十分間隙が出来た。目障りな長槍も随分と乱れている。

 騎馬隊で断ち割ってくれと言わんばかりだ。

 棹立ちになり、次の瞬間には飛ぶように駆け始めた。飛来する矢を笑いながら回避する。戦場の醍醐味を張遼は存分に味わう。曹操軍の新兵器・弩砲がかすめるように地に穴を空けるが張遼は止まらない。とうとう敵兵に喰らいついた。偃月刀が喜びに叫びながら血をすする。

 まさに天下に縦横無尽! あの精強な曹操軍が己の顔を見るだけで怯えているではないか!

「霞様、深入りは禁物ですから!」

 せっかく興が乗ってきたところで水を差したのは徐庶。

 

 ――霞が一番指示を聞かなさそうだからな。お目付け役に珠悠が付いてくれ。

 

 などと戦の前にのたまっていた李岳の顔を思い出して張遼は腹を立てた。確かに自分には独断専行のきらいがある。しかしそれにしても馬超よりもなお警戒されるとはどういうことか。

「めちゃくちゃ心外やで!」

「翠様の隣にはたんぽぽがいるからです」

「……な、なるほど」

 さすが軍師、一撃で張遼の不満を根こそぎ粉砕するとは。これは口ではかないそうにない。

「そ、それよりもそろそろ退いて下さい。敵の矢が集中しすぎています! 被害は最小限に抑えなければ!」

「わぁっとるで、よっしゃ、ほな行くで! すたこらさっさや!」

 密度を増してきた矢と、そして援護に飛び出してくる敵の騎馬隊の動きからも逃げるように張遼は部隊を引き連れ迂回、反転した。断ち割るまでは至らなかったがその武威は存分に示した。見れば同時に飛び出していた馬超と馬岱、そして趙雲の騎兵も思う様躍動している。曹操の防御陣形はこれまでのどの敵よりも強固だが、動きは悪くない。

 しかし次の瞬間、張遼の表情は(かげ)った。自分を育て、半歩先を歩く高順。その動きが遅かった。傍目には十分強力な攻撃を繰り返していたが、ほんのわずかな違いだがいつもの精細がないように張遼には見えた。立ち位置から李岳には見えまい。あと気づくとすれば赫昭くらいだろう。

 嫌な予感が胸を突く。

 しかし気を揉む間もなく李岳の次の一手が戦場に放たれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曹操の足元の小石まで躍るような振動が曹操軍を襲う。

 無数の馬蹄が大地さえ震わせている。地上最強と呼ばれて久しい李岳軍の騎馬隊だった。

 張遼、高順、馬超、趙雲。それらだけでも強烈だというのに、さらに厄介極まるのが雨と矢を降らせながら駆け抜ける天災にも比する殺戮集団――匈奴の騎馬隊であった。

 匈奴兵の無数の騎射が泰山槍のさらに射程の外から放たれる。李典の弩砲が効果を発揮しない絶妙な位置で匈奴兵は騎射を繰り返す。弩砲の射角にも制限があり、後衛から放つ以上水平射撃は出来ない。山なりの射撃はある程度の距離を飛ばざるを得ない。匈奴兵はその弩砲の飛距離と泰山槍兵との間という、絶妙な位置で騎射を繰り返した。見る間に前衛が負担に動揺し始める。

 そこに飛び込んだのは曹純の虎豹騎、そして夏侯淵率いる騎馬隊であった。

 夏侯惇の部隊をも吸収した夏侯淵。彼女が選択したのは場合によっては弓兵ではなく騎馬隊を率いるということであった。曹操も同じことを考えていたため、夏侯淵から提案された時は面食らいさえした。

 弩砲は既に見せ、拒馬槍は警戒されている。さらに虎豹騎は損耗が激しい。李岳がさらに対策を積んで騎馬隊を動かしてくることは目に見えている以上、曹操にとっても機動部隊の補強は絶対必要な対処だったのである。

 曹操軍左右両翼の外縁は騎馬隊同士の激突により砂埃といななきが入り交じる戦場となった。夏侯淵は鐙を踏みしめ、匈奴兵を混じえた中でも随一の騎射を見せている。何より弓を扱えば天下有数の使い手なのだ。鐙を搭載した弓騎兵としての適性は考えてみれば抜群であった。

 結果、徹底的な応射と拒馬槍の威嚇も合わせて李岳軍の騎馬隊は最後の一歩を踏み込んで来ることなく下がり始めた。皮一枚を傷つけることが精々の位置から血を流そうとはしない。

「敵騎馬隊は反転して行きますねぇ〜。さすがに真っ直ぐは来ませんでしたか? しかしそれも陽動でしょうか〜」

 砂糖菓子を舐めている程昱は、棒を上下に動かしながら言う。集中している時の癖だった。

「華琳様! 李岳はやはり自軍の損耗を過度に嫌っております。ここは攻勢のご決断を」

 確かに荀彧の読みが勝ったように思える。李岳は友軍への犠牲を最小限に抑えることに腐心しているように曹操にも見えた。呂布の撤退も騎馬隊の後退も、曹操であれば絶対にない。限界まで押しまくって敵を退かせようとするだろう。李岳の描く軍略は美しく見事だが、刺し違えるような迫力を欠いているようにも見える。

 しかし荀彧と異なり、曹操は果たして本当にそうなのか、という疑念を捨てることなく心の隅に留め置いていた。検討結果を重視することと盲信することは似て非なるものである。

「中、外と来たわね……稟、どう思う?」

 始めは正面から呂布を筆頭に歩兵で攻勢をかけ、続いて外に展開した騎馬隊で攻め寄せてきた。

 郭嘉は眼鏡の位置を直しながら言った。

「中、でしょう。我が軍は中に絞り、さらに外に展開しました。部隊間の距離はそれに伴い(たわ)んだように広がっています。私が突くなら中です」

 中、外、中。殴りつけるのであれば全力を出したくなる機だ。

「――来るわね、備えなさい。外に広がった部隊にも中央を支えよと指示を。来るわよ!」

 曹操がそう指示したときだった。

「華琳様、敵軍前衛が再度押し寄せてきます!」

 伝令の報告に曹操は前を向いた。重装歩兵が再度迫ってくる。それに呼応した泰山槍部隊が気勢を上げる。再度激突……そう思った刹那、敵兵は止まった。そして左右に割れていく。

 

 ――赤い閃光が曹操の瞳を焼く。

 

 呂の旗が翻る。死の旗は再び曹操軍の前に立った。此度は騎馬を率いる真紅の呂旗。たった数百騎、千にも満たない黒ずくめの騎馬隊。

 だが本当に曹操が我が目を疑ったのはその後ろだった。

 蒼天の下に翻る、天を写し込んだような青い旗。

 まごうことなき李の刺繍。

 呂布に並び、李岳自らが先頭で駆け始めるのを、曹操はその目で確かに見たのである。

 

 

 

 

 

 


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