真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百六十八話 雷光の男

 李と呂の旗がはためいた時、全体の戦況としては未だ曹操軍有利と言えた。序盤の呂布を先頭にした前衛部隊の突破と浸透は、半ばまで至るも孫権軍の介入により転進。騎馬隊の攻撃も鮮やかに戦場を駆け抜けるものの決定的な損害を与えるに至っていない。むしろ泰山槍との叩き合いでは呂布のいた地点を除けば李岳軍にこそより大きな出血があった。

 奇襲、搦手による新手を次々繰り返す李岳軍に対し、総じて曹操軍は出鼻を挫かれつつも概ね想定通りに戦況を推移させていたと判断できる。

 曹操軍から見れば泰山槍による絶対的な突破力は未だ健在、拒馬槍を併用した弩兵による機動射撃防御陣地構築は成功し、対騎馬隊抑制は十分効果を発揮していると評価を下せた。

 騎馬隊を侵入させないこと、そして李岳軍の放ってくるであろう奇策に間違いなく応じることさえ出来れば、突破は時間の問題と思えた。

 

 ――そこに現れたのが総大将である李岳本人。

 

 報告を受けた荀彧は拳を震わせながら叫んだ。

「馬鹿なの! いくら武勇に自信ありだからって、たった千騎で何かできるつもり!? 舐めるのも大概にしなさいよ!」

 総大将が最前線で戦うなど、英雄譚に憧れた蛮勇でしかない。まさかこの高度な決戦でそのような考えに囚われるとは。呂布と呂布の騎馬隊にどれほど自信を持っているか知らないが限度というものがある。

 と同時に、荀彧はこれまで李岳が敵の前に姿を現した事例を思い浮かべた。匈奴との戦、そして反董卓連合戦では幾度も。いずれも戦況が強いた判断であり、声望を求めてというような虚飾にまみれた理由で前に出たことは一度もないはず。そして味方の士気を上げるためだけというようなものでもないと信じることができた。

 つまり李岳には勝ちへの展望があると考え、姿を現したのだ。自分たちには見えていない何かが李岳には見えている。

 荀彧がまずすべきことは、曹操にしがみつくことだった。

「華琳様! お待ちください! 挑発に乗ってはいけません!」

 まさに今、飛び出そうとしていた曹操の体を荀彧は全身で妨げる。愛馬・絶影の馬腹を蹴らずに済んだのは、そのまま走り出せば荀彧を蹴り飛ばしていたから以外の理由はない。

「桂花。私は怒りでどうにかなってしまいそうだわ」

「どうか心をお鎮めください。李岳は苦し紛れの一手を放っているだけなのです!」

 一見派手な動きを繰り返している李岳軍は、打開策を見つけられず足掻いているがゆえである。自力での勝算があれば真っ直ぐ攻め寄せればいいだけ。矢継ぎ早に虚を突くような攻撃を繰り返し、こちらの思考を乱そうとしているのは劣勢を覆す努力なのだ。

 その目的が曹操を炙り出すことである可能性は低くはない。絶対に行かせてはならない。

「……放しなさい。もう冷静よ」

 押し寄せてくる騎馬隊。先頭には呂布。そのすぐ後ろに李岳。揺れる李と呂の旗を睨みながら、曹操は掌をかざした。

「企みもろとも、全力で踏み潰しなさい」

「仰せのままに!」

 

 

 

 

 

 

「さて、行こうか」

 李岳の声に呂布の返事はない。殺意のままに見境なく戦い、撤退の指示さえ無視しかけたことを呂布は悔いていた。

 李岳は俯いたままの呂布の頭をぐしゃぐしゃとかきまぜた。右に左に手が動くたびに、飛び出た二本の触覚のようなくせ毛がぴょんぴょんと跳ねる。

「おっ。落ち込んでるんだ? うなだれてるから頭が触りやすいや」

「……後で殺す」

「照れるなよ」

 呂布の頭を撫でた手のひらから乾いた返り血の欠片がパラパラと落ちる。李岳はそこから目を逸らし、白々しいほどに笑った。

「冬至様」

「如月か」

 李岳は馬上から司馬懿に向き直った。李岳が呂布と出る以上、司馬懿が全軍の指揮を監督することになる。しかし李岳には微塵の懸念もなかった。

「手はず通りだ。あとは頼む」

「……はっ」

 やむを得ない。けれど納得はしていない。そう顔に書かれていた。

「曹操軍はさらに中央に兵を集中させようと試みています。冬至様の首級が目当てかと」

「……見抜かれているかな。それともかかったか」

「賭けですね」

「だったら上等。この手の博打は負けなしなんだ」

 当たり前であった。一度でも負けていればここにはいない。

 司馬懿は悔しそうに笑った。

「そうですね。私もその敗者の一人ですもの。貴方は強い人。だからきっと大丈夫です」

「我が軍師の評価を信じよう」

「前衛を突破した瞬間、黄忠殿に前進を指示します」

 これまでとは異なり変則的な編成ではあるが、全軍の中核となる中軍部隊を黄忠指揮としていた。黄忠の下には厳顔、魏延、参謀に法正。歩兵、騎馬兵、弓兵を含む複数兵科統合部隊である。

 つまり李岳軍はこの騎馬隊の突破に中核部隊を投入することになる。正しく総攻めと言えた。

「引き際の合図をお聞き逃しなく」

 司馬懿は呂布にも声をかけた。

「恋殿。冬至様を頼みます」

「殿いらない」

「……恋」

「約束した、如月」

「約束です」

 赤兎馬が飛び出した。黒狐がそれを追う。後に付き従う千に満たない騎馬隊。残された司馬懿は信頼に応えるためにただちに声を張る。

 騎馬隊は呂布が直々に鍛え上げた精鋭中の精鋭である。人馬ともに、そして速度と武力ともに呂布が認めたものしか入隊することが許されない。さらにそのうちの半数までもが脱落するという徹底的な選別を経て磨き抜かれた騎馬隊である。張遼や高順の騎馬隊を大刀とするならば、呂布の騎馬隊は極限まで研ぎ上げた急所を一突きする匕首と言えた。

 騎馬隊は呂布を先頭に真っ直ぐ敵の前衛に突っ込んでいく。結集を図っているが未だ外縁に戦力が分散している曹操軍は、長槍隊の槍衾によって呂布を阻もうと動いた。

 そのうちの一つが果実のように破裂した。呂布は正面から敵を打ち破っていく。栗を石で叩き割るように呂布は槍衾をものともしない。中の赤い実が弾けて大地に染み込んでいく。

 槍衾の密度も開戦当初よりも薄い、と李岳は感じた。やはり騎馬隊の動きが効いている。振り返れば黄忠率いる部隊が騎馬隊の空けた穴を塞がせまいと後続していた。しかし曹操軍の戦意が高い! 黄忠も厳顔も魏延もよく戦っているが、大軍での突破は容易ではない。被害も急速に増え始めている。

 それでも李岳は前進を選んだ。もうこの道を進むと決めた。李岳も矢を射て呂布を助ける。ときに並び、駆ける。ああここが――ここが無辺の大地であれば! ただ自由を享受するだけであったのに。呂布が方天画戟を振るい、李岳が射撃する。人を殺し、骸を踏み越え先に進む。燦々たる日輪を受けているというのに目を覆いたくなるような血と闇の洞穴! しかしこの先には光に満ちた出口があると信じて――

 騎馬隊は曹操軍前衛を突破し右折した。途端に襲い来る矢。そして分厚い岩盤のような三万の曹操軍本隊。後続の黄忠は長槍隊の挟撃に未だ突破しきれず、李岳と呂布は敵陣中で孤立した。

 

 

 

 

 

 

 

 人には誰しも好不調の波というものがある。絶好調を十とするならば、今の高順は四が精々だった。死ぬ傷ではないが体の動きが(にぶ)っている。さらしを何重にも巻いているものの、腿まで血で濡れているのがわかった。傷は蹇碩から受けた古傷に重なっていた。

「……何の、これしき」

 中央では息子である李岳の旗が敵陣中央にめり込んでいくのが見えた。この作戦は全将兵に明確な役割がある。皆が懸命に戦っている中、自分が足を引っ張ることだけは認められなかった。

 四をせめて五、いや六にする。我が子のためならばやりようはあるものだ。

「一でも二でも貸せ……枝鶴」

 心強さは思い出の中に。

 高順はふぅと深く息を吐くと隊を率いて再び曹操軍に向かって突撃を敢行した。飛蝗のように襲い来る矢、地をめくりあげながら跳ね上がってくる杭、そして突き出される長大な槍。曹操軍の対騎馬隊の備えは盤石なれど、高順は玉のような汗を浮かべながらも珍しく小さな笑みを浮かべた。

 指示に従い次の動きに向かう。見れば張遼、馬超、趙雲、そして匈奴らも手はず通りの動き。

 高順は自分に言い聞かせるように呟いた。

 まだ戦える――まだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「殿の無茶が始まったか!」

 張郃は思わず叫び、手綱を引いた。李の青旗が陣中を前に前に進んで曹操軍の前衛と接触するのが見えた。

「主が心配か若造! 気持ちはわかる! いっても良いぞ!」

 紀霊の大声に張郃は叫んで返した。

「無用である! 李岳将軍の隣には俺よりよっぽど腕利きがいるからな!」

 

 ――李岳突出により判断が必要となった張郃と紀霊。一方、対峙する孫権軍黄蓋隊にも葛藤があった。

 

「祭さま、李岳本人が自ら正面突破を試みている模様です! 蓮華さまは曹操の援護に向かわれたご様子」

「じゃあどうする! 儂らも向かうのか!?」

 少し考え、呂蒙は自信をみなぎらせた眼光で言った。

「この場を堅持します。背を向ければ眼前の敵兵が自由になってしまいます。本隊からの指示がない限り、現状の戦闘を継続いたしましょう」

「儂も賛成だね。張郃って男、噂通りなかなか手ごわい。しかもついでにちょっといい男じゃないのさ」

「祭さま!」

「わかっておる、冗談冗談!」

 多分冗談じゃないな、と呂蒙は思う。

 急激に密度を高め始める中央最前線に一度だけ目線を向け、そして執着を振りほどくように首を振ると呂蒙は己に課された任務に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「秋蘭の部隊が戻って参りました! 前線に投入させます!」

「急げと」

「はっ!」

 荀彧は喉を()らしながら指示を繰り出す。

 曹操は騎馬隊を率いて外縁の防衛に向かっていた夏侯淵を呼び戻した。夏侯淵には騎馬隊にさらに弓兵をも統合させた大部隊の指揮を預けている。決戦兵力として荀彧は使うつもりなのだ。夏侯淵は曹操に顔を見せる間もなく最前線へと走らされていた。

「凪は?」

「手当てに戻っておりましたが戦場に復帰しています」

 楽進は呂布から一撃を受け肋を折っていると聞いた。楽進は上半身裸になると幾重にもさらしを巻きつけ、四半刻の間瞑想を行うと再び走って戻っていったという。気の扱いに熟達しているが故の技だろうか。

 誰もが限界の中で戦っている。未だ無傷の己が許せなくなるときがある。

 だから自ら先頭で戦いに出向く李岳の気持ちは、曹操には実は痛いほどよくわかっていた。

「……仲間のために戦っているのは貴方だけではないわ。私は私に付き従う全ての者のためにも必ず勝利する」

 曹操は敵騎馬隊の動向に注意するよう指示した。

 普通に考えれば李岳の突出は自分を囮にした罠である。自らを餌として陽動を行い、手薄になった両翼から騎馬隊を突破させようという腹かと思える。案の定周囲の騎馬隊は盛んに突撃を狙って迫ってきているが、李典の武器と孫権軍の動きによって隙は見つけられずにいるようだ。どうにか間隙はないかと左右両翼とも様々な箇所に攻撃を加えている。しかしどの地点から攻撃を受けてもいいように、曹操と李典は準備を怠らなかった。

 あるいは外と、そう見せかけて本当に中央突破を図っているのか。確かにそう思わせるほどに李岳の攻撃は苛烈であった。破った前衛にためらいなく兵力を投入している。泰山槍の威力が減ったわけではない、相当の兵が失われているはずだが一歩も引かない。

 荀彧の想定であれば、これが罠であれば李岳には出来ない選択であった。友軍をここまで死なせて罠を張る。それが果たして李岳に出来るのか。

 出来るだろう、と口には出さないが曹操は思った。欠点などない、と考えて対応すべきだった。

 ならばここが思案のしどころ、そして決断のしどころである。

 その時、荀彧の叫びが響いた。

「敵軍本隊、分断に成功しました! 半数には突破されましたが半数は阻止! 李岳は此方で孤立の状況です!」

 曹操の喉に熱いものがこみ上げた。拳を握り叫ぶ。戦況は圧倒的な優位になりつつある。李岳の決死の反撃を阻止したのだ。

 その時、曹操の目の端に典韋が映った。じっと静かに前線を見守っており、その表情は晴れない。戦意を損ねていると怒るわけでも叱咤するわけでもなく、曹操は典韋の優しさに触れた気がして心穏やかに話しかけた。

「悩んでいるの?」

「悩みじゃないです」

 浮かない顔に、李岳への情が湧いたのかと思った曹操。

 しかし典韋の返事は違った。

「殺さなくてもいいんですよね」

 違うんです、と典韋は曹操が何を言う前に言葉を続けた。

「手を抜きたいとかそういうわけじゃないんです……命じて頂ければ全力で戦います。けれど最後の最後で、殺すか助けるかなら、助けてもいいんですよね? 華琳様!?」

 典韋の声は切実な響きを帯びていた。少女は李岳と曹操との間での約束を知っている。完全無欠な形で決着が付いた時、敗者は勝者の軍門に降る、と。典韋はその約束に一縷の希望を見出している。

「そう約束した……けれど季衣の仇なのよ?」

「悲しみは残っています。けれど恨むのはやめました……そっちの方が、心の中の季衣ちゃんは笑っているから」

 ぐっと喉の奥に詰まったものが熱くなる。涙の予兆だったが曹操はそれを意志で殺した。

「……そうね、季衣には笑顔が似合っているもの」

「はい」

 典韋はまた静かに戦線に視線を投げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 李岳の元には呂布と一千の騎馬隊。そして曹操の前衛を突破してきた黄忠とその麾下五千。厳顔と魏延の部隊は曹操前衛の部隊を突破出来ず、分断された形だ。

 曹操は主力部隊を投入しこちらに向けて前進させている。既に矢が届き始めている。

「ご主人様、この紫苑の目には絶体絶命の窮地に見えるのですが?」

「気が合うな。俺の目にもそう見える」

 なるべく言葉を軽くしたが、腹の底はどこまでも冷えていた。敗北と死が目の前まで迫ってきている。

 曹操の長槍部隊を突破、その後背に部隊を浸透させることに対して曹操はかなりの力を入れて妨げてきた。正面からの押し合いには絶対負けないという意気込みがある。一方の李岳軍は騎馬隊で切り裂くことも出来ていない。そして己は敵中にいる。

 限界と判断するには十分だった。しかし李岳は決断を待った。司馬懿の合図がまだなのだ。

 李岳は司馬懿を信じると決めていた。それに従うことこそが今は重要だと考える。

「……反転の用意を。用意だけをしてくれ」

「いざとなれば、ご主人様だけでも恋ちゃんに担いで逃げてもらいますから、ねっ!」

 矢を放ちながら黄忠は子供を叱るように言う。反転に備えつつ、その場での射撃防御で待機する。だが前から曹操軍本隊は迫りつつあり、後ろからは曹操の長槍部隊が反転を試みている。

 十だけ数えよう、と李岳もまた矢を射ちながら考えた。十。しかし指示はない。たまりかねた呂布が騎馬隊を率いて飛び出し、曹操軍前衛を打ち払っては戻ってくる。しかし兵力差は圧倒的で気休めにもならない。

 もう一度十だけ数えた。もう一度。それを五度繰り返した時、李岳の耳には確かに銅鑼が鳴った。

「全軍反転! この場を離脱、本隊に戻るぞ!」

 李岳の反転指示に従い部隊は急速に転回、再度の敵中突破を経て自軍への帰還を目指す。

「行くぞ恋」

「連れて帰る。絶対」

「あらあら、それは私の台詞でもありますわ。ご主人様をこのようなところで死なせるわけには参りませんもの。殿軍、お許し頂けますわね? それにこちらに向かっている旗印は夏侯淵のそれ。相手が弓使いであれば適任は明白でしょう」

「死ぬことは許さない。璃々が待っているんだからな」

 黄忠はにっこりと笑った。

「もちろんです。母は強いのですから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰よりも冷静さを失っていたのは司馬懿だった。

 態勢が整い、銅鑼を打つ。それだけのことがこんなにも極限の行動になるとは。李岳は今や敵に挟撃されつつあり、いつ旗が倒れてもおかしくないように思えた。戦場に行きたかった。今すぐ駆けつけたかった! 司馬懿は足踏みしながら李岳の戻りを待った。どうか、どうか!

 

 

 

 

 

 

 

 

 李岳が反転したとの知らせが届いた。

 それは彼の中央突破作戦が瓦解したことを意味する。李岳は作戦失敗と今が窮地であることを認め、態勢の立て直しを迫られているのだ。

「華琳様……李岳本人は取り逃す公算が高いです」

 謝罪する荀彧に曹操は手を振った。あともう百を数える間でもその場にとどまっていれば、李岳の撤退は間に合わなかっただろう。英雄は逃げ足も早い。そのことを思い出させた。

 それに曹操の目にも呂布の戦いぶりが見えている。あれは人では倒せない。李岳を守るために戦う呂布は、先程よりもなお強く見えた。天下最強の豪傑といえるだろう。殿軍で舞うように戦う黄忠も見事で、夏侯淵が部隊指揮を半ば諦めるほど。さらに当たり前の話ではあるが、曹操軍の前衛をこじあけて李岳を救おうという本隊の働きも必死といえる。李岳を取り逃がしたのは仕方ないことと言えた。

 しかし、その代わりに手に入れた有利は十分なものだった。

 ここに曹操は千載一遇の勝機を見た。

「追え! 今こそ総攻撃の機会よ! 泰山槍にも進めと伝えよ!」

 荀彧が叫ぶ。郭嘉が前線へ向かうことを願い出たので曹操はただちに許した。程昱は諜報部隊から周囲の警戒情報を何度も何度も確認していた。勝利を決定づける総攻めである。

 曹操が最も懸念しているのは反董卓連合戦で見せた十面埋伏のような伏兵だったが、その気配はどこにもない。李岳はただ背を向けて逃げている。あの背を追う勢いに乗ずれば勝てる!

 黄忠隊の射撃がうるさいが、曹操は気にせず突っ込めと命じた。荀彧が半狂乱になったように指示を繰り返している。戦況を見守る程昱も、珍しく顔を真っ赤にしていた。

 李岳は中央突破からの逆転に期待しすぎた。それに指揮官が最前線で戦い兵を鼓舞するという効果に過剰な期待を抱き戦線の均衡を崩してしまったのだ。優秀な軍略家の李岳だからこそ、曹操の泰山槍や弩砲の威力を十分に把握した上で賭けるしかないと判断したのかもしれない。

 だがまだ勝ったわけではない。曹操は激怒するように全将兵に再度の警戒を命じた。強靭な騎馬隊はほとんど無傷で残っている。だからこそここで勝ち切る意味がある。

 曹操軍は大きく攻め込み、中央をほぼ突破したと言っても過言ではない。李岳軍は圧力に耐えかね、大きくわたみまるで椀のようになっている。ここで一気に崩せば李岳軍各部隊の連携は取れない。そうなれば小部隊ごとに包囲して殲滅すればいいのだ。

 そう考えた時、曹操は自ら思考した言葉に囚われた。

 

 ――椀?

 

 言葉は幾度も曹操の脳内で反響した。

 己に都合のいいことなどありはしないと、李岳を終生の敵と定めた曹操はその時から己の慢心を厳に戒めることを第一としていた。確かに騎馬隊は封じた、袁術軍を退け兵力差は逆転している。李岳自身が先頭に立った攻撃も退け、中央突破をほとんど成し遂げかけている。掛け値なしに有利だ。しかし、と曹操は思う――このまま勝ち切ることなどあり得るのか、と。まさに李岳が己の真価を示し続けてきたような展開ではないか!

 匈奴の大軍、群雄の連合も、三方包囲の窮地でも! 黄巾の大軍さえ従えた北方の覇者袁紹と偽帝劉虞でさえも、全てを打倒してきたあの李岳なのだ。一度の有利で勝ちきれるなどと愚昧の儚い願いでしかない。

 

 ――李岳、貴様が何も企んでいないはずがない。

 

 己には思いつきもしない逆転の手があるはずだと、曹操は自軍による空前の攻勢から目を逸らしてしばし馬上で目をつむった。己の視座を地を這う人ではなく、天空を翔ぶ鷹と模して戦場の俯瞰を試みる。

 機動力を活かすために横に広がった李岳軍に対し、我軍は中央突破を試みた。本陣を切り裂かんと突入を企図する敵の騎馬隊も虎豹騎らが頑強に防いでいる。本陣は無傷のまま李岳に迫ろうとしている。何も問題はないように思えた。

 しかし耳に入る伝令の報告を脳内で地理と重ね合わせた時、曹操は戦慄と共に唇を噛んだ。まさか、と。やはりか、と。それでこそだと!

「桂花! 後退!」

 振り返った荀彧は怪訝な表情をしている。聞き間違えたかというような顔だ。

 曹操は繰り返した。

「攻撃は中止! 前衛を後退させよ!」

「は……はっ!? 華琳様、それは! 勝ちを手放すことになります!」

「このままでは命さえ手放すことになる!」

「おっしゃることの意味が……」

「包囲網よ、これは!」

 寸暇をおいて荀彧も悟った。

 これは一部ではなく、全軍を用いた誘引。

 見れば李岳軍の中央歩兵は後退しつつもじわじわと半円を描きながら左右に展開し始めている。押し切られているのではない、柔らかくたわんで受け止めているに過ぎない。そして外縁の騎兵も中央に切り込めていないのではなく、広く戦場に翼を広げて展開を優先している。その勢いは曹操軍の後背まで達しようとしていた。敵騎兵は曹操軍の全周に外殻を築くように駆けているのだ。これまで突破しようとしていた圧力は本物だった。突破できないことまで織り込み済みの作戦だったということかと、曹操は戦慄する――李岳は、曹操軍の強さを信じてこの策を構築したのだ。

 李岳軍の動きは巧妙極まった。奮戦している前線の味方は何一つ理解できていないだろう。

 曹操は刹那の間に戦況を始まりから整理した。

 まず呂布を先頭にして中央に圧力をかける、次に騎馬隊を使い左右両翼から攻撃を行い外を意識させる。さらに己までを利用して中と攻めた。再び外なのか、中央からもう一撃あるのかと曹操の思考はそこで二択に絞られてしまった。

 そこまでの全てが本当の狙いから目をそらさせるための布石だったのだ。

 李岳の本当の狙い。それは李岳軍歩兵部隊による誘引と耐久、その間に騎馬隊両翼を展開させ曹操軍の全てを包囲してしまうというものだったのだ。李岳は曹操軍に総攻めを行ってほしかったのだ。そしてその全てを包み込んでしまおうとしている。

 

 ――李岳は曹操軍をまるごと、一人残さず殺してしまおうとしている。

 

 曹操は己が本当に鷹であればと妙な願望を抱いた。この凄まじいまでの戦術機動を全て見ることが出来たというのに。空を飛べたなら。しかし地を這うことしか出来ない己は想像で現実を補完するしかなく、手をこまねいていればこのまま戦場で焼き尽くされるのみ。

 曹操は眼前に作り出されている戦術をまさに前人未到であるとして、芸術とも呼ぶべき人類史上最高峰の機動包囲殲滅戦の展開に感動し、喉を震わせ天に獅子吼(ししく)した。

「李岳よ、貴様はやはり李岳だった! この曹操の生涯の敵である資格を、貴様だけは持っている!」

 

 ――曹操は知る由もないが、この包囲戦術には前例があった。

 

 それは遠く数万里も西の果て、この中華では誰も知るはずのない大戦に起源を発する。西方世界の覇権を握る敵国を打倒せんと、山脈を踏破して敵中に踏み入った隻眼の軍人がいた。古今東西無双の名将は、たった一人で最強の大国を千々に引き裂くに至り、とうとう伝説とも言える大会戦を催すことに成功する。

 彼我戦力差ほぼ二倍という目を覆うような不利の中、敵方全軍を殲滅させるという神々の叙事詩でさえ謳うに躊躇う結末。

 地中海世界を震撼させたその戦いから二万里と四百年――今ここに、大秦国(ローマ)を蹂躙した男の真髄が甦る。

 男の名はハンニバル・バルカ。名は恐怖を代弁し、家名は雷光を意味する。李岳が脳裏に召還した最後の前世の記憶。歩騎連携の作戦調練など何もないが、しかし我が軍団に絶対の信頼を置くが故の可能な選択――否、不安など元より絶無である。

 唯一これだけが宿敵曹操を打倒しうる解であるとして、李岳はここに伝説の再現を試みた。

 曹操軍の追撃を振り切り、自軍に辿りついた李岳は息を荒げながら呟いた。

「ここが俺とお前のカンネーだ」

 その言葉の意味を理解できる者は誰もいないが、確かなことは一つだけ。

 乱世の混迷は、今ここに沸点を迎える。

 

 

 

 

 

 

 

 


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