真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百六十九話 偉大な日

 本陣に復帰した李岳は下馬するや否や倒れ込んだ。負傷はないが疲労が凄まじい。短時間に激烈な戦闘を潜り抜け、体の芯から粘つくような疲れが溢れ出てくる。

 しかし休む間などない。息を荒げて駆けてくる司馬懿は目を真っ赤にして叫ぶ。

「曹操軍本隊の誘引に成功! 騎馬隊は一気に敵後背まで駆けています!」

「部隊損耗はどうか!」

 恐ろしいことに曹操の長槍部隊を正面から支え続けた主力の中軍部隊は半数まで減らされていた。呂布の騎馬隊が開けた穴に突っ込み左右から支えたのだ、挟撃を受けていたこととさして変わりはない。さらに張遼、高順、趙雲、馬超、そして匈奴がまさに血を流して包囲網を完成させようとしている。中央で引きながらも全軍を支える赫昭、徐晃、張郃、紀霊の働きも筆舌に尽くし難い。全軍の損耗もすでに三割を超えているだろう。戦線を維持できる限界点の一歩手前だった。

 その犠牲の上に作戦は進んでいるのだと、李岳は己に戒めた。

「包囲、八割!」

 司馬懿の震える声が李岳の耳朶を叩いた。

「……頼む」

 願うような李岳の言葉は、しかし無残にも裏切られる。

「曹操軍、後退します!」

 悟られた。敵の撤退に味方は歓声を上げるが李岳は土を蹴った。曹操! 初見でこれを見破るとは。

 この作戦を隠蔽するために呂布に、騎馬隊に、全将兵に体を張ってもらった。迂遠なまでの作戦を経たのは大秦国(ローマ)の指揮官より曹操が優れていると認めているからこそ。愚直な誘因では総攻めさえ誘い出さないだろうと読んだからだったが、しかしそれでも足りなかったというのか。

 罠には嵌めた。しかし復旧しようとする。この速度!

 せめて無闇に中央突破を試みるのなら陣が長く伸びたところを騎馬隊で分断することが出来たというのに。未完成の包囲網から脱出されることは策の不発を意味する。

 司馬懿が顔面を蒼白にしたまま叫ぶ。

「冬至様! 曹操軍、二列縦隊を形成、まっすぐ後退していきます。このままでは」

 李岳は展開される陣形を思い浮かべた。騎馬隊の包囲は閉じきっていない。包囲が完成する前に曹操が袋の口から縦隊で飛び出したならばどうなる?

 震え上がるのは李岳の番であった。

「……逆包囲をしかけるつもりか」

「まさに。袋の内と外から左右同時に騎馬隊を押し潰す考えかと」

 二列縦隊で脱出した直後にそれぞれ左右に展開する。すると包囲しようと迫ってきていた二方向の騎馬隊がそれぞれ同時に半包囲の状態に陥る。包囲を完成させるために死にものぐるいで駆け通している騎馬隊だ。その場での反転は不可能だろう。成す術なく押し包まれる様がありありと思い浮かんだ。曹操は一兵たりとて逃すまい。

「騎馬隊への指示は!」

「混戦です、複雑な指示は間に合いません……」

 ここまで鮮やかな返し技をこの究極の戦場で思いつくことが出来るものなのだろうか。思いつくのだろう。それが曹操なのだ! ハンニバルであれば愉悦の笑みを浮かべたろうか。

 

 ――残す手立ては一つしかない。

 

「引き絞る」

「早すぎます!」

「遅すぎるよりましだ!」

 包囲網を引き絞るということは内側に向けて攻撃を開始するということだ。前進から突如後退に転じた曹操軍の陣形は大いに乱れている。長槍も弩も混乱の中で統制は取れないだろう。騎馬隊の攻撃はかつてない規模で炸裂するはずだが、未完成である以上こちらの被害も大きい。

 しかし今を逃せば乱世を終わらせる機は来ない。

「やれ!」

「……鉦を打て!」

 絶叫するようなけたたましさで銅鑼が鳴り響く。包囲を狭めよ、全軍突入せよの指示である。この後にありうる指示は停戦か退却の二つだけ。銅鑼は戦が最終局面に至ったことを知らせる地獄の呼び声にも似通った。

 その呼び声に導かれ、李岳軍は一斉に動き始めた。鬨の声、悲鳴、絶叫が原野を塗りつぶす。敵味方を問わず、戦場は最終段階に至る。

 本来は包囲を完成させてから下したかった決断。ただ絞っただけでは袋の出口から曹操を逃がすことになる。それでは何の意味もない!

 自らが追うしかない。皮肉にも、曹操追撃の最短の位置にいるのが己なのだった。

「呂布隊を呼べ! もう一度突っ込むぞ……!」

 しかし今度こそ司馬懿は李岳を行かせまいとした。

「このような混乱の中では何が起こるかわかりません! 先程よりもなお危険なのです!」

「だからこそ行く。その価値がある。もうたくさん死なせている! そんな俺が命を惜しんでどうする!」

「それで勝ったとて、残された者たちはどうするのですか! 私に後を継げとでも!?」

「そうだ……君ならできる」

「――少しは私の気持ちも考えてください!」

 一瞬驚いたような顔を見せたが、李岳はただちに司馬懿を無視して動き始めた。呂布を呼び、自身もまた黒狐にまたがる。

 司馬懿は己に失望した。何という利己的な考えだろう。この戦場で唯一人、自分だけが天下の趨勢よりも想い人の安否を優先している……

「すまない如月……だから賭けよう。俺は絶対に生きて戻る」

 それは李岳の精一杯の誠意だった。

「どうかご武運を……」

 そうとしか言えなかった。

 司馬懿と初めて会った雨の日と同じように、李岳は黒狐を棹立ちにして疾駆していった。その隣を呂布が赤兎馬で行く。戦乱の困難に向かって進む鮮やかな風。風は吹けば後ろなど振り返らずもう戻ることはない。ただ一目散に前に進むだけだから。

 司馬懿は膝をつき、顔を覆って涙した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 銅鑼が鳴り響いた直後、李岳軍騎馬隊はただちに反応した。

 それは曹操軍の背後を目指して駆けていた張遼と馬超も例外ではなかった。包囲は閉じていない。しかし攻撃の指示が下された。未完成だが戦機は今だと李岳が判断したのだ。ならば白刃を叩いて大地を血で染め抜くのみ!

 張遼、馬超、高順、趙雲、そして匈奴の騎馬隊が一斉に馬首を巡らせ曹操軍に向かって殺到した。弩砲で射抜かれる者、拒馬槍で吹き飛ぶ者も少なくないが騎馬隊は止まらない。反董卓連合戦での同じ轍は踏むまいと仲間の死体さえ踏み越えて騎馬隊は曹操軍に喰らいつく。

 既に半ば包囲している状況であるがゆえに破壊力は十分。方向転換に手間取る長槍隊は嘘のような脆さで蹂躙された。これまでの突撃が本気ではなかったことを曹操軍将兵は思い知る。これが、命さえ投げ出して雪崩れ込む大陸最強の騎馬隊の本当の威力。

 

 ――乱れた陣形の一縷を見つけて突っ込んだ趙雲は、これがまさに親友に誓った天下泰平のための総仕上げであると感じ入り、その赤き槍の冴えはまさに白き龍の(あぎと)のごとし。

 

 ――馬超は西方世界で逼塞していた頃の己に今の自分を見せてやりたいと誇っていた。隣を駆ける馬岱と共に、天下の英雄が雌雄を決する戦の最後の一撃は己が決めるのだと猛る。目指すは曹操の首! 唸る十字槍・銀閃には返り血さえ纏わりつかない。

 

 ――手持ちの矢をありったけ射ち尽くすと抜剣を指示。未だ最大の脅威として弩砲の照準は匈奴に向けられていたが気にしなかった。香留靼は先頭で突っ込んだ。立ちはだかる何者全てを叩き斬る。他愛ない明日に友と肩を抱き合うために!

 

 ――曹操軍のほぼ後背まで回り込んでいた張遼は、包囲網が閉じ切らないうちから攻撃の指示が下った理由をほぼ正確に把握していた。やはり曹操は只者ではない。李岳考案の前人未到の策に気付くとは。偃月刀を翻しながら張遼は迫り来る曹操軍を見て笑った。それでも貴様らはここで終わりだ、終わらせるのだと。張遼は己の闘志を端的な叫びで言い表した。知るかボケ、ウチの名前に震えて死ね!

 

 ――そして高順もまた、敵軍浸透を果たして乱戦に身を投げていた。視界は冴え渡り力がみなぎっていた。覚えがあった。師との決闘で覚えたあの感覚……静けさの中に高順はいた。己が死にかけていることを高順ははっきりと自覚しながら、槍を振るって敵陣中央を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四方八方から騎馬隊突入の知らせが届く。曹操には自軍の惨状が手に取るようにわかった。

 李岳は不完全であろうとも包囲網をただちに収縮させることを選んだ。曹操が後退したことで何が起こるか理解しているのだ。悲鳴のような問い合わせに荀彧、程昱は沈黙するしかない。曹操は力の限り応戦せよ、とだけ伝えた。もはや外郭にいる兵を救う手立てはどこにもない。

「わ、私の責任です……」

 青白い顔の荀彧が涙ながらに懺悔する。

「李岳は味方さえ犠牲にして……そ、そのようなことは無いのだと私は……あ、安易な……!」

「我が張良。お前は何も間違えなかったわ」

 軍師は最善の仕事をした。あえて罪の在り処を問うのなら、総大将の己の生き様という他ない。

 しかしまだ終わりではない。

 曹操に残された道は二つ。後退し、単身だけでも脱出すること。そしてもう一つは……そのもう一つの選択肢を選ぶための報告だけを曹操は待っていたが、届くまでさしたる時間はかからなかった。

「李岳軍本陣より呂布隊、追撃してきます! 先頭、李の牙旗! またもや李岳本人です!」

 曹操は再び騎馬隊を停止、そして再度の反転を命じた。荀彧も程昱ももはや口を挟まない。曹操守護のため舞い戻っていた虎豹騎率いる曹純が息を呑む。

「行くわよ。目指すは李岳の首のみ……!」

 それが残されたもう一つの――否、最後の一手だった。

 曹操の後退を阻止しようと李岳本人が出てくることに、曹操もまた賭けたのであった。

 曹操は虎豹騎の半数を率いて己が先頭に立つ。もう半数は曹純と曹仁に預けてわずかに遠回りの迂回路を走らせる。時間差での二方向からの挟撃を狙う。最後に効かせるひと味だった。

 包囲網脱出と騎馬隊への逆襲を防ぐために曹操を追う李岳。それを迎え撃つために反転する曹操。手勢は両者とも限られる。笑い話ね、と曹操は自嘲しながら自らの武器である大鎌を握り直した。総大将同士のぶつかり合いで決まるとは! ならば初めからこうしても良かったかもしれない!

 

 

 

 あらゆる戦線が崩壊し、指示系統も破断した。戦場は血で血を洗う殺戮の舞台に堕した。中華の戦乱が極まった頂点とも言えるこの最後の戦場で、人心は剥き出しの獣性に取って代わられた。渦巻く殺意と悲鳴の中心で、李岳と曹操は渦に呑まれるように急接近する。

 引き合う、天命に導かれるように。

 否! あくまでも、どこまでも人の意志! ここまで戦い続けてきた両者の戦意と志が、運命をも超えて二人をまたも邂逅させようとする!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 李岳が再び駆け出した瞬間を赫昭は見た。事前の打ち合わせにはない行動だ。作戦に狂いが生じたのだ。

「な、何が起きてるんでしょう……?」

 不安げな徐晃を見据え、赫昭は考える。己のすべきことを考える。懸念、不安、可能性……そして己が欲しているものを。

 そう思った時、赫昭の元に影が走った。影は言う。赫昭がすべきことを。

 赫昭は徐晃の肩を掴んで言った。

「ここを頼む。自分には別の持ち場があるようだ。行かねばならない」

 赫昭の声に徐晃はグッと唇を引き結んだ。なぜか後退し始めたとはいえ曹操軍は健在、そこかしこで激しい戦闘が繰り広げられている。それを捨て置いても行かねばならないと赫昭は言う。あの赫昭が!

「わかりました……けど、けど、絶対に」

「死なない。必ず戻ってくる。皆で天下泰平の新しき空を見る。そのために行くんだ」

 徐晃は赫昭を信じ、見送った。そして再び戦場に身を投じた。戦斧を担ぎ、畏友たる重装歩兵らと共に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曹操の指示に従い正面突破を狙った主力の夏侯淵の元に、突如反転後退の指示が下る。夏侯惇の手勢も合わせて率いる夏侯淵は兵力としては曹操軍主力を一手に引き受けている形だ。疑問は払拭できないが独断専行が許される立場ではない。

 後退する夏侯淵を、態勢を立て直した李岳軍が追いすがってくる。黄忠の旗があまりにも目障りだった。さらに重装歩兵もにわかに攻勢をかけてくる。

 押し切れたと思ったはずが後退の指示。本陣で何かがあったとしか思えない。異変を突き止めようと周囲に視線を巡らせた時、夏侯淵の視界にその姿がよぎった。

「李岳!?」

 自陣に逃げ込んだはずの李岳が再び戻っている。呂布を先頭に中央右翼を破って行くではないか。

 姉の代わりに決着をつけるのだ、という思いが夏侯淵の中で燃えた。夏侯淵ならここで待つ。だが、夏侯惇ならここで行く!

「凪! 沙和! この場は頼む……私は行く!」

「秋蘭様!?」

「決着をつけてくる!」

 副将として付き従っていた楽進、于禁に指揮を任せて夏侯淵は愛馬に鞭をくれると、李岳追撃のために単騎離脱した。あの男が出向く以上曹操の首を狙っているであろうことは明白。であるならば――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「紫苑!」

 厳顔の声に黄忠は弾かれたように振り向いた。その顔に浮かんだ表情の意味を即座に察する。黄忠もまた異変を察していた。おそらく包囲網は完成していない。しかし李岳は騎馬隊に突撃の指示を下した。同時に自ら先頭で追撃を開始する。そして夏侯淵の動き。

 厳顔、魏延、法正を呼んで黄忠は言った。

「もう疲れたという人はいるかしら?」

 法正だけが手を上げていたが――魏延に睨まれすぐに下ろした。

「いいのよ、本当に。ちょうどいいわ。聞いてほしいの……」

 李岳に本隊を預けられた黄忠、厳顔、魏延。三人とも一度は李岳に剣を、矢を向けて敵対した過去を持つ。だというのに李岳は何のためらいもなく軍の中核を預けた――この史上空前の決戦の場面で。

 昼行灯のあの少年にはわかるまい。三人の心がどれほど震えたか。

 それに応えるためならどのような事でもする覚悟。

 黄忠は自らの考えを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 孫権は異変を察知したと同時に胸が締め付けられ、脂汗を浮かべて苦しんだ。敗北の予感がために心の臓に強い動悸が現れていた。

 中央突破を図った曹操軍が一転して後退している。周瑜、魯粛、陸遜が議論の結果、この軍全体が包囲されているという。

 いち早くそれを察した曹操は包囲網離脱のために後退し始めたというのだ。

 孫権軍は中央左翼に兵力を固めており、ある意味予備として控えていた。いざ突撃と備えていたところにこの急転直下である。ボヤボヤしていれば敵騎馬隊が殺到してくるだろう。至近にいるのは匈奴である。起こりうる被害については、考えたくもない。

「……撤退しましょう」

 周瑜の言葉に孫権は我が耳を疑った。

「敗勢濃厚。曹操は逆転を試みるでしょうが、分の悪い賭けです。勝つにしても被害は甚大なものとなるでしょう。後事を考えここは戦線を離脱、我軍の温存と立て直しを図るべきです」

 躊躇いがちに魯粛が続いた。

「えぇ……幸い、祭殿が外縁近くで敵兵と押し合っておりまする。我々にはまだ運があります。全軍でそこに向かえばこじ開けることが出来ましょう。後は振り返らずに離脱すれば……敵もきっと曹操軍撃滅を優先するでしょう」

「華琳を見捨てて逃げるというのか!」

 そうだと、参謀の誰もが沈黙で答えた。

 しかし孫権が本当に怒っていたのは別の理由だった。周瑜を見る。未だに信じられないが、病を得ているという真に敬愛する軍師を。

 ここで逃げ、曹操も討たれればもはや覇権に挑戦する機会は失われる――少なくともこの数年は。

 呉に逃げ帰り再起を成したとて、その隣に周瑜がいるとは限らないのだ。

「……李岳を討つ。全軍一丸となれば出来ないはずがない! それに私の軍旗は未だ奪われたままだ! こんな有様で戻れるわけがない!」

「おやめ下さい! あまりにも危険です!」

「戦況は未だ五分と見た。であれば、ここで孫権軍が全力でぶつかればそれだけで勝敗の左右を結し得る!」

 魯粛の制止も効かない。孫権はこう見えて姉の孫策よりなお激しやすい性格だった。今にも火矢のように飛び出してしまわんばかり。

 魯粛も陸遜も周瑜を見た。孫権を止められるのは、今は亡き孫策を除けば周瑜しかいない。

 周瑜は孫権の手を取っていった。

「お聞きください。私はもう目の前でお仕えする主君を失うのは嫌なのです……蓮華様、貴女を守りたい。それがいま一番強く想うこと。天下の覇権などよりもずっと大事なこと。旗だっていずれきっと取り返せます。いいえ、縫い直したっていい。大したものではないのです」

「こ、ここで諦めれば、め、冥琳は」

 もう二度と天下に挑む機会を失うのではないか!

「良いのです。私は、良いのです」

 懇願する周瑜。その後ろでひざまずき拱手する魯粛と陸遜。騎馬隊の響きが聞こえる。残された猶予はあらゆる意味で少ない。

 孫権はその現実を肯んじられなかった。

 何せずに友の死を待つことが正しいだなんて、こんなことがあるものか! 抜剣。全軍に号令して駆け出そうとした。きっと姉の孫策でもそうする!

 その時だった。眼前に赤い光がよぎった。

 目を凝らす。見間違いではない。ひらりと舞う赤い布。いつか寝物語で孫策から聞いたことがある。母である孫堅が巻いていた赤い頭巾が窮地に陥った自分を導いてくれることがあると。

 孫権を導くように揺れる赤い布は――周瑜の言う脱出路に向けて揺れていた。

 孫権は俯いた。足元の土がパタパタと濡れる。剣を納め、呟いた。

「……離脱する」

「ご英断、まことに感謝いたします! 告げる! 全軍撤退する! 包囲網を突破せよ! 戦果に構うな、我らがご主君、孫権様のご帰還だけを考えよ!」

 孫権は導かれるまま馬に乗り、駆け始めた。黄蓋と呂蒙、そして甘寧と周泰を回収して脱出を図る。

 赤い布はもう見えなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 総大将同士の牙門旗が急速接近する状況を、目端と機転が利く将は混乱の中にも関わらず察知した。そして己の最善手を求めて独自の行動を取り始めていたその頃、この究極の戦場でただ一人剣さえ握っていない者がいた。

 名は袁術。

 戦えもせず、指揮も出来ない袁術は、一人応援していた。

「が、がんばれ! がんばるのじゃ!」

 それしか出来ない袁術は、実のところ戦の初めから応援していた。ただし心の中で。それが包囲が狭まるや否や、いてもたっても居られず叫び始めた。

 がんばれ、がんばれ。

 その声が誰かに届くことはなかった。一番近くにいる張勲さえ忙殺されており気づかない程。涙ながらに訴える袁術はこの戦場で最も無力で、弱々しく、役立たずだった。

 しかし彼女も戦っていたという事実だけは曲げられない。

 少女はこの戦場で逃げず、立ち向かい、目を逸らさなかった。

 がんばれ、がんばれ。

 そう叫ぶ袁術もまた英雄であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 曹純は虎豹騎の半数を従え右方から迂回し、李岳軍への側面急襲を狙う。

 曹純の心中は不安、恐怖で暗く淀み始めていた。部下の前ではもちろんおくびにも出さないが、隣にいる姉の曹仁にはついこぼしてしまう。

「姉さん……大丈夫だよね、私たち……!」

「心配するなっす、きっと絶対本気の本気で、大丈夫っす、柳琳!」

 あっけらかんと前向きな答えを返してくれる姉の曹仁。いつもはだらしなく、おっちょこちょいな所もあるがこういう時の心強さは誰にも代えがたい。

「それに……春姉ぇがいない分はあたしが頑張らないと!」

 曹仁は夏侯惇をそう呼ぶ。長刀を武器に戦う曹仁は、武人として夏侯惇の強さと在り方に心酔していた。そうありたいと強く願い、陰ながら努力していることを曹純も知っている。

 曹仁はきっと夏侯惇に並ぶ武人になるだろうと曹純は信じていた。そのためにもこの戦で勝ち、生きて死地を抜けなければいけないと思う。李岳を倒さなければならない。

「姉さん、頑張ろうね」

 揺るぎなき信念の元に曹純はそう声をかけた。

 だが揺らいだ。

 疾風が飛んだ。透明にさえ見紛う白銀の剣を振りかざした騎馬が陣地を破って雪崩れ込んできた。李岳の方向とは反対である。つまり外郭を破って浸透してきた敵の騎馬隊である。

 翻る『高』の旗。曹操から張遼に次ぐ脅威として知らせていた高順に相違なかった。

 陥陣営とさえあだ名される勇将。率いるは李岳が最もたのみとする騎馬隊。

 ここを抜かれれば、曹操の喉まで手をかけるのは目に見えていた。李岳の側面を付く前に曹操が危地にさらされては元も子もない。ここで阻止し、潰してから李岳を目指さなくては。

「虎豹騎のみんな……! あの騎馬隊、ここで食い止めます!」

「っしゃあ、行くっすよ!」

 曹純が部隊を引率して駆け、曹仁が単騎で飛び出た。曹操麾下、夏侯姉妹に次ぐもう一組の姉妹武人は、負けず劣らず呼吸を一にした連携を得意とする。直線の曹仁、曲線の曹純。一対となって攻め寄せ倒せなかった敵はこれまでない。

 

 ――そして一方、高順は敵の力量を正確に把握した。その強さも手強さも。

 

 皮肉にも、高順も曹純らも作戦目的を同一にした。敵の強さを認めるがゆえに、守るべき主君に近づけてはならないという考え方に同じく至ったのである。曹純らは襲いくる騎馬隊を殲滅すべきと考え、高順は可能な限り時間をかせぐべしと考えた。

 もはや倒すことは出来ないと悟っていたからだった。深い傷を負った今、高順が見込む力量差は保って四半刻。

 高順の戦況の読みは、それで十分だと考えた。いつからか既に熱く照りだした斜陽。それを背に浴びながら高順は我が子のために時間だけを獲得せんと行く。左脇に槍を抱え込み、右手で抜くのは夫が鍛えた未盲剣。既に全身余す所なく血を浴びている高順は、その性に似合わぬ大喝を放った。

「やれるものならやってみよ!」

 正面から向かってきた曹仁に向け、槍を投擲した。初手にしては意外な一撃に、曹仁の足が思わず止まる。方向転換した高順はそのまま曹純の虎豹騎に食らいついた。引き連れる騎馬隊が押し戻すように乱戦に持ち込む。皆が皆、自分たちを率いる隊長の状態も思いも全てを共有していた。

 一騎が一騎ずつにしがみつくような戦いになった。騎馬隊の華麗さなどどこにもない。時と体力を浪費させるためだけのみっともなく、雄々しい戦い方だった。その中を高順は駆け、一騎また一騎と未盲剣で斬り捨てていく。

 斬り捨てた兵が二十を超えた時だった。高順は宙に投げ出された。さばききれなかった矢が愛馬に突き刺さっていた。小癪にも、剽窃のくせに李岳軍よりも連弩を上手に扱う。

 滑るように落馬した高順は、土煙の中で傷を抱えながら走った。愛馬は首に矢を受け血のあぶくを吹いていた。何年も過酷な戦場をともにした戦友である。

(げい)よ、見事だ。先に散った同胞の元へ逝くがいい」

 心臓に刃を当て、高順は友への介錯とした。

 気づいた時には敵兵に押し包まれようとしていた。剣を握った。歩く度に砂が血を吸うのがわかる。しかし構えた。痛みも苦しさも経験がある。死んだことがあるというのは大きな強みだ。例え全く望みがなくても、なんとなしに立っていることが出来るから。

「我が名は……我が名は高順。李岳に従い、気高きに順いここまで来た。天下泰平の目前、死ぬには惜しいが是非もなし。だが私は寂しがり屋なのだ。一人でも多くの道連れがいなくてはな……皆、歌でも歌ってあの世へ行こうではないか」

 怯えたような曹操軍の兵士一人一人の顔が見える。高順が踏み込むと、輪の全員が一歩下がった。もう一歩踏み込んだ。突っ込んできた兵の一人の脇の下を抜けた。通り過ぎた兵の首が音を立てて転がる。二人目は距離を置いて対峙したので、すっと踏み込んで喉を裂いた。三人目は手首を斬り落としただけで済ませた。

 そこで高順は止まった。収めた武術が、剣術が訴える。これ以上戦えば死ぬということを体が、技が訴えた。

 しかし心だけは止まらない。ならば仕方ないと体も技も従った。足が動こうとした。しかし動きはしなかった。

 闖入者が高順をその場に押し留めたのだ。

「桂様! ご無事ですか!」

 聞き覚えのある声だった。高順は動けば死にそうな一歩を止めてその姿をしっかり見定めた。

 赫昭だった。

「沙羅、貴様。持ち場は」

「ここが自分の持ち場です! 仲間が危うきにいるのなら! そこが自分の持ち場なのです!」

 支離滅裂な言い分である。武人である高順にはその言葉は我慢できなかった。

「決戦なのだぞ。仲間の命を優先し、作戦を放棄するなど。この戦いの目的を何と心得る」

「だからです!」

 短戟を振り回しながら赫昭は叫ぶ。

 

 ――途中、張遼が高順の異変に気づいたように赫昭もまた気づいていた。赫昭の思いは李岳を守りたいというところにある。しかし今の李岳には呂布がいた。ならば他に守るべき者はなにか……答えはさして難しいものではなかったのである。

 

 赫昭は思いのままに叫ぶ。

「この決戦に勝っても桂様に何かあれば冬至様がどんな顔をされるとお思いですか! もう味方は誰も死なせない! 自分は……私は! 屯長を死なせた時のような思いは嫌なのです!」

「オホホ! よく言ったわね」

 高順はさらなる闖入者に目を向けた。馬鹿にするように見下す、戦場に似つかわしくない艶やかな衣装をまとった女。銀に輝く双剣を肩にひっかけ、口元に添えた手の小指をちろりちろりと動かしている。

 腐れ縁の張燕である。彼女もまた旧友の異変に気づき、赫昭を導きここまで来た。

「……紅梅」

「アンタさぁ……まぁいいや。面倒くさいから一つだけ言っておいてあげる。ここで死なれたら面倒くさいの。おわかり? アタシはね、面倒くさいのは懲り懲りなのさ。そこでじっとしてな……死ぬなら坊やに会ってからにしておくれ」

 赫昭は本来全く気の合わない張燕と背を合わせて言った。

「百戦錬磨の曹操軍よ。ここは赫伯道がお相手する。我は飛将軍の盾、我慢比べで勝てると思わぬことだ。うんざりするほどこらえて見せよう。かかってくるのであれば心せよ!」

 張燕は顔を見ることさえ好きではない赫昭の間合いを守りながら一歩踏み出した。

「今日は大盤振る舞いさ。この飛燕将軍の剣の舞、さぁてとくと御覧じろ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もはや李岳と曹操を隔てる者はないように思えた。既に両者、お互いの旗を視認する距離。

 曹操は別働隊とした虎豹騎が来ないという異変に、なにかあったのだろうと思うが既に捨て置いた。不測の事態という名の生き物の腹の中にいるようなものなのだ。思い通りにいかなかったとてそれも当たり前のことである。敵には呂布がいる。しかしこちらにも典韋がいた。それだけで十分である。

 李岳もまた典韋の姿を認めた。巨大な鉄球のかもしだす圧倒的な暴威の迫力。しかしこちらには呂布がいる。矢は射ち尽くしている。李岳は天狼剣を抜いた。冗談ではなく、曹操との一騎討ちが現実味を帯び始めていた。

 

 ――そしてそれこそが最後の罠だった。

 

 華雄の最期の戦いの中、猛烈な斬撃を受けて前後不明、未だ意識の戻らぬ姉・夏侯惇の分まで一矢報いんと妹の夏侯淵は前線を放棄してここまで舞い戻っていた。

 遠く並走する馬上、誰も気づかぬ距離で夏侯淵は矢をつがえる。馬を止めた。北風が弱いが少しある。夏侯淵は狙いを修正した。疾駆する李岳の頭はかすかに上下に揺れている。だから狙うのは胸だった。夏侯淵の技量にとって、それは大きな問題ではなかった。

 

 ――獲った。

 

 しかし次の瞬間、夏侯淵の耳は己に向けて放たれた矢の音を聞いた。

 考えるより先に体が動き、地を飛んだ。三本までが影を追って刺さった。流れ矢ではない、意に満ちた明確な射撃だった。間違いなく手練れだ。夏侯淵は姿を伏せたまま叫んだ。

「誰か!」

「黄忠、と申します」

 チッ、と小さく舌打ちした。夏侯淵の離脱を知って追ってきたのか。李岳への狙撃を行うと読まれた。

「老将殿! ここまでご足労痛み入るが、老体に鞭打たれてはこちらも辛い! あまりご無理せずにゆるりとお休みになられるがよかろう!」

 返答はない。挑発に乗る様子はない。

 そう思った瞬間、左方から膨れ上がる殺気に夏侯淵は飛んだ。横薙ぎに払われる大剣は、夏侯淵の元いた地面ごとえぐる。

「ちぃっ、すばしこい!」

「貴様……!」

「おぅ、我が名は厳顔。お主に用があってそこの老将ともどもやってきた」

「桔梗! 貴女も同年代でしょ!」

 これもまた名を聞いたことがある。益州の厳顔。夏侯淵は矢を続けて放った。厳顔は赤い大剣を振りかざしてそのことごとくを防いだ。

 夏侯淵は黄忠と厳顔の二人を警戒しながらさらに距離を取る。既に李岳への攻撃は行いようもない。撤退戦に入っていた。

「二人がかりとは!」

「老体ですもの、ご寛恕くださいな……それに貴女も、華雄さんに二人がかりだったでしょう?」

 黄忠の指摘に厳顔が笑う。

「夏侯淵、間違ったのう! この老将殿は陰湿でな、だいぶと根に持つぞ! 今も青筋立てておるわ!」

「桔梗、無駄口叩かないで」

 そう言いながらも黄忠は射撃を続けていた。曲張比肩とはよく言ったもの。矢の達人を自負する夏侯淵でさえその腕前には驚嘆した。そのしなやかに舞うような動き、空中から矢を放つ様はこちらの狙いを定めることを許さない。

 気を許せば黄忠の射撃が影を射抜く。巨剣を盾に迫る厳顔が地を叩く。夏侯淵は躱し続けた。後方転回しながらしなやかに距離を取り、瞬時に周囲を見回し状況の全て把握する。さばけないはずがない。逃げ切れないはずがない。手持ちは八矢、黄忠の射ったものを引き抜いて合わせて九。脱出できる、と夏侯淵は矢をつがえながら退路を構築し始めた。

「それに、間違いはもう一つございますわ」

 矢と共に届く黄忠の声。その不自然さが夏侯淵の危機感を一層高めた。厳顔はまだ遠い。ならば、まさか!

「三人がかりだぜ……!」

 背後から突如膨れ上がった闘気は、巨大な鉄塊を通して夏侯淵を襲った。

「オッラァ――!」

 無様に転げ回る夏侯淵の背中を石塊の破片が打ち付ける。名の知れた手練が三人! 執念におののく。夏侯淵は初めて焦りに肝を冷やした。三人の動きに無駄はなく、夏侯淵の逃げる先々を塗り潰すように詰め寄ってくるのだ。

「ちぃっ!」

 黄忠の矢を躱し、追い打ってくる魏延の鉄塊を受け流すと地を転がった。それを予期した厳顔の大刀を飛んでいなした瞬間――詰みだったことに気付く。続く黄忠の矢構えは、まるで紐づけたように夏侯淵の心臓にぴたりだった。

(この連携は……! 姉者!)

 やはり二人で一つだったのだ、と夏侯淵は最期に思った。半分の魂で戦いに出向くべきではなかったか。いや、そうせざるを得なく仕向けた、華雄の手柄だろう。

 吸い込まれるように体内に矢が侵入してきた瞬間、夏侯淵は比類なき主君と唯一の姉に詫びた。官吏の不正を糺し、荒廃した天下を治めるべく立ち上がった人生。駆け続けた青い日々。曹操と姉の夏侯惇のためならどんなことでも出来た。全てを捧げることが出来た日々だった――幸福の日々だった。

 夏侯淵の脳裏に浮かぶ姉との思い出。頼もしくも間が抜けていて、豪快だが愛らしい。生まれた時からの半身。そこに居て当たり前の人……ここに居てくれれば、死ぬとしてもこんなに心細くはならなかったはず。

 

 ――お姉ちゃんと、最後に呼んだのはいつだったろうとふと思った。

 

 黄忠の一射は無用の苦しみを与えなかった。眠るように倒れ伏した夏侯淵のまなじりには、しずくのような涙が溢れもせずにとどまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 李岳と呂布。曹操と典韋。

 夕暮れの潁川の原野に、後続する部隊のそれまでまるで鏡写しのように影を落としながら近づいた。

 あとほんの刹那で間合いに突入するという瞬間、呂布が小さな声で李岳に言った。

「戦えと言って」

 呂布の声は戦意と、少しの怯えが混じっていた。

「戦えと言ってくれば、恋は誰よりも強くなる」

「恋……」

 李岳は望みを叶えようとした。

 戦えと、迷わずそう言ったつもりだった。

 しかし口からは全く思わぬ言葉が出てきた。

「……一緒に生きて戻ろう。まだ二人でやりたいこと、たくさんあるもんな」

 呂布は驚いたように目を丸くすると、今まで見たこともないような屈託のない笑顔を見せた。

 

 ――殺すために生まれてきたと思った。親の顔もまともには思い出せず、周りから疎まれ気づけば一人。有り余る力の向ける先さえわからないまま山野を放浪した日々。

 

 そこに光を射してくれたのが李岳だった。戦わなくてもいいと。傷つかなくてもいいと李岳は言った。あまつさえこんな自分を守ろうとさえしてくれた。

 けれど呂布はあくまで呂布だった。手にある力を使いたいと、李岳のために使いたいと思って戻ってきた。

 呂布はその武力を李岳に捧げた。李岳は望まなかったかもしれないが、呂布には力があった。斬った、殺した。多くの陣を踏み潰した。しかし李岳が本当に喜んだことはこれまでなかったのではないかと思う。

 その李岳が初めて戦場で望みを言った。

 戦う前の鼓舞ではなく、思わずぽろりとこぼしてしまう……本当の願い。

 李岳の言葉は光り輝く呂布の胸にしまい込まれ、全身を満たす力となって駆け巡った。

 呂布は不敗と最強を確信し、飛んだ。

 誓いは胸に宿り、熱く滾って呂布の命を迸らせる。

 

 

 

 

 

 その呂布に向け、典韋は正面から立ち向かう。

 今は亡き許褚から譲り受けた巨大な鉄球を全力で投擲した。泣きそうな顔の少女が、しかし一切のためらいなく体を運用する。典韋はこの戦いに悲しみながらも覚悟を決めていた。

 何百斤あるのかすら見当もつかない鉄球を投げつける典韋も凄まじければ、それを受け止め弾き返す呂布もまた人の域を超えていた。呂布は目の前に立つ少女を思い出していた。雪の日に食事を作ってくれたあの少女。名は確か――典韋。

 食事の分だけかける情けを呂布は持っていた。

「手加減できない」

 手加減できる心境ではなく、そして典韋の力量もまたそれを許さぬ域にある。戦いの前にそれを告げることは呂布にとって異例中の異例だった。

 典韋もその意味がしっかりと理解できた。だからこそそれまで耐えていた悲しみが溢れ出した。

「どうして、私たちはこんな思いで……戦ってるんですか」

「冬至のため」

「私も……華琳様のためです。そしてみんなのためです!」

「だから戦う。二人で帰るために」

 呂布の瞳の輝きに典韋の情緒はさらに揺り動かされた。

「私たちだって……無事に帰りたい! ねぇ、私たち一緒にご飯を食べましたよね? 一緒にご飯を食べたんです! 私たちは、一緒にご飯を食べられる! なのになんで!? なんで殺し合ってるんですか!」

 泣きながら典韋は鉄球を振るう。許褚の遺した武器を継いで、典韋は復讐を誓ったはず。しかし時の流れと人との出会いがその尖った怒りを緩やかに練磨した。怒りの風化は友の非業の死をなかったことにするものなのかと自分を責めたこともあった。

 そうじゃない、と典韋は今悟った。だったら私たちは永遠に殺し合いを続けるしかなくなる! 親友がそんなことを望むはずがない!

 それでも言葉で呂布を止められないこともわかっていた。そして典韋もまた呂布を相手に手加減など出来るわけもない。全力で戦う以外の選択肢は持ち得ていなかったのである。

 典韋は呂布と戦いながらこの地獄が終わることを心から願った。この苦しみを終わらせる力が己にないことを悔やみながら、同時にその力を確かに持った二人に最後の願いを託した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二人を隔てる者は真実、何もなくなった。

 李岳が馬を降りると曹操もまたそれに(なら)った。

 それぞれ手には天狼剣、そして大鎌の絶。二人は他愛なく歩を進め、間合いまで半歩の距離で止まった。

 曹操が言う。

「まさに洛陽の守護者、漢の軍神ね……このような戦術、思いつきもしなかった」

 李岳は肩をすくめた。

「乱世の奸雄のために特別にあつらえた秘策だ。まさか見抜かれるとは思わなかった」

「間一髪だった。けれど、遅すぎたわね」

「……そうだな」

 李岳と曹操の間だけが静謐だった。しかし兵士が上げる種々の叫びは空気を切り裂いて二人の間を通っていく。無残で悲しい戦場の叫び。そして絶え間なく聞こえるのは呂布と典韋の激突による、凄まじいまでの音。

 李岳は大きく息を吸って、吐いた。

「決着の時だ。誓いを忘れてはいないな」

「貴様こそ……李岳、今度こそ私が救ってあげるわ」

 両者ともに構えた。総大将同士の一騎討ちで決着させるなど、仮に事実をそのまま伝えたとて信じる者がどれほどいよう。史実に書き写したとてありえないと断じられ添削されるのが落ちだろう。

 

 ――しかし何一つ嘘ではない。これから二人が進んできた歩みも、そしてこれから起こることも。

 

 李岳が先に間合いを詰めた。曹操の得物には間合いでは到底及ばない。初撃、それをしのげるかどうか。

 曹操は様子見などせず、大振りで真っ直ぐ振り抜いてきた。踏み込んだ間合いを蹴って離れる。李岳の鼻先を黒々とした弧の刃が走り抜けた。まるで空間までも斬ったような鋭利さ。曹操は自信を持ってこの場に臨んでいるのだ。奸雄は何一つ諦めてはいない。

 李岳は再び構え、踏み込んだ。あの鎌は長さ、そして描く弧の軌道を考えれば途轍もない重さの一撃を生む。まともに受ければ武器は両断されてしまうだろう。

 だが、それでも踏み込んだ。密やかに抜き放っていた小刀の血乾剣。それを左で逆手に振る。力は込めずに受け流したが、ただそれだけで(ひび)が走っていた。そのまま捨てて李岳は地を蹴る。鎌を返す曹操よりも速く間合いを詰めようと急ぐ。天狼剣を斬り上げようとした瞬間、李岳は慌てて右半身に充てた。

 曹操は鎌を踊らせるように回転させると、剣では考えられない軌道で再び李岳に走らせたのだ。大きく曲がった形状だからこそ出来る運用である。李岳も受けたが、ひっかくように曲がった刃が額と肩を割く。

 傷は浅いが再び間合いが空いた。李岳は肩で息をしたが、同時に曹操の顎から汗が滴っているのが見えた。李岳が構えようとした瞬間、今度は曹操が踏み込んできた。空気を割く音と共に振り回される刃。大味だが隙がない。いずれ捉えられるのが目に見えていた。

 しかし隙がなければ隙を作るのが撃剣である。李岳は捨てた血乾剣の元まで転がると、起き上がりざま飛刀として放った。柄で受ける曹操。一気に間合いを寄せ、転がりながら下段を狙った。いかにも鎌は下段が浅く見える。案の定嫌がって下がった曹操に、李岳は遮二無二体を寄せた。驚き、顔を歪ませる曹操。鎌を振らせない間合いに持ち込んだが剣も振るえない。

「ぐっ!」

 曹操のうめき声。李岳の放った拳が顔面に直撃したのだ。よろめいて間合いが開く。剣を振ろうとしたところで、曹操の刃が再び間合いを疾走した。何一つ狙いなど定めていないだろうに、踏み込んでいれば李岳の首は確実に飛んでいた。

 二人が再び対峙した時、間合いは一歩半であった。曹操には近く、李岳には踏み込めば済む分だけ遠い。これが李岳の狙いであった。隕鉄から鍛え上げられし天狼剣は李岳の怒りに触れ、赤熱する。李岳は腰を落とした。曹操は跳躍を目論んで膝を抜いた。

 二人同時に叫んでいた。

「曹操!」

「李岳!」

 飛んだ曹操を李岳は追った。天狼剣を腰だめに、曹操の斬撃を待って放つは撃剣の奥義――母から受け継ぎ、彼が最も得意とする技・蜉蝣回し。

 二つの影が地に戻った時、ガランと音を立てて追いかけるものがあった。青黒く鋭い刃紋をとどめたまま、首を断たれたように大地に身を横たえる弧の刃。

 当人も含め、見守っていた者たちの誰もが声もなかった。

 武器を失った曹操は膝をついたままであり、李岳もただ無造作に立ち尽くすのみだったから。

 やがて、曹操が大きな嘆息と共にいった。

「殺しなさい」

 ある意味、それは慈悲を乞う声だったのかも知れない。膝を屈した曹操の前に李岳は立った。手には剣。未だ血を欲するように赤く燃える天狼剣。

 曹操が顔を上げた。斬れと、その青い瞳が訴えていた。それが望みであると。誓いは覚えていても、それでも敗北を受け入れるにはあまりに多くの棘が刺さりすぎていた。

 ここで殺した方が楽なのかも知れない、と李岳は息を荒げたまま思う。生かしたところで本当に従うのか。いつまた叛乱を起こすか……相手は曹孟徳。次また大戦が起きれば、また何万人死ぬのだろう。その責任を己が負えるとでも言うのか。

 天狼剣が赤く、燃えるように熱くなる。殺意に燃えているのだと思った。しかし李岳は思い直した――そんなわけがない! これを打ったのは父なのだ。殺意に溺れているのはあくまで使い手に過ぎない。

 剣はただ自制を促していたに過ぎない。冥府魔道に堕ちるなと訴えていただけ。本当に大切にすべきものを思い出せと語りかけているのだ。

 

 ――何かに感謝し、何かに謝った。その二つを同時に想った時、李岳の胸から熱くて重いものが消えていった。悲しみや後悔は変わらずここにある。それらは抱きしめて前に進めばいい。消えたのはおそらく、もっと違うわけのわからない何かだろう。

 

 李岳はとうとう剣を収め、曹操に手を差し出した。

 戦いを終わらせることは、戦いに勝つことよりも難しい。しかしそれは何よりも気高いことだと思う。この人とならそれが出来ると、李岳は信じたかった。

 逡巡の時間はどれほどだったか、曹操は李岳の手を無視して立ち上がった。息を荒げたまま見つめ合う。曹操は李岳の側頭部から血で肩を濡らす程の傷があることを見つけた。李岳は曹操の右目が打撃で赤く腫れ上がっていることに気づいた。他にも無数に傷がある。心にはもっと多くの傷がある。しかし、二人はまだ生きていた。

 やがて曹操の青みがかった瞳が揺れる。李岳は己の手にぬくもりを感じ、息を呑んだ。

 曹操は正面から手を差し出し、そしてしっかりと李岳の手を握った。

 曹操は言う。

「我が真名は華琳。今ここに私は――敗北を認める」

 稀代の英雄・曹孟徳。

 李岳は全身を震わせながら応えた。

「君と、君の決断の全てに敬意を表する……華琳」

 やがて二人を中心に、静けさが波紋のように広がっていた。

 もはや武器をぶつけ合う音も、苦しみに呻く声も、怒りに震える喚声もなかった。

 潁川の地はもはや戦場ではなくなり、兵士は武器を置いて己も敵も人であることを思い出した。

 次第にあらゆる人が安否を気遣い、傷を負った者を慰める声、そして死者を悼み悲しむ声に包まれた。

 死ではなく、人の意志で戦争が終わった瞬間だった。

 偉大な瞬間であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




お読みいただきありがとうございます。
最終決戦、一気に駆け抜けました。
不足があるのか、余すことなく書けたのか、書きすぎているのか、自分ではわかりません。
わかりませんが、ようやくここまで来たのだなという感慨はひとしおです。
生き残った人、果てた人、生きなければいけない人など様々ですが、この戦の結末が皆様の思うところに落ち着けばこれに勝る喜びはありません。

この物語も多分あと三話。よろしくお願いします。

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