真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百七十一話 最後の勝者

 起きてみればそれなりに計画的な犯行だったということがわかる。洛陽城内八ヶ所同時に火の手が上がり、城外でも決起の動きが発生した。

 叛徒の計画は以下の通りである――まず天下騒乱の根源である李岳を暗殺、洛陽に火の手を放ち混乱を惹起、然るのちに天子を誘拐。長安に脱出後に正統なる国家樹立を宣言する――杜撰ではあるが大胆だった。天子誘拐は運が良ければという程度だったらしいが李岳暗殺だけは何としても成し遂げようという思惑だったらしい。しかしおおよそは田疇による陳留王誘拐事件の模倣に過ぎなかった。

 賊にとって大きく目算が狂ったのは曹操軍の動きだった。叛徒は曹操が同調して決起すると思い込み、裏取りもなくそれを計画に織り込んでいた。しかし実際には混乱に際し落ち着いて対処し、むしろ暴徒鎮圧に大きな働きを見せた。

 天子は太史慈が有事に備えていたこともあり、混乱を耳に聞くくらいで大事はない。

 しかし天下泰平の宣言となるはずだった凱旋式は、結果として未だ天下に騒乱の種は潰えず、という印象を万民に与えることになった。

 事件の直後から李岳は身辺警護を理由に自宅で過ごすことを強要された。引き続き討手が襲い来る可能性も高く、本人の意志とは無関係にほとんど軟禁状態で十日を過ごすことになる。私邸の外には厳重な警備が敷かれ、外からも内からも人の往来は極端に制限されることになった。

 

 

 

 

 

 

 十日目、人の行き来をある程度緩和しようということになった初日の朝、一番に訪ねてきたのは曹操だった。李岳は読み耽っていた竹簡の束から顔を上げると顔を顰めた。

「……なに笑ってんの」

「いいえ?」

 李岳は何を言われる前に言い訳を始めた。

「おたくと違ってだな、この陣営で俺の決定権なんて本当名ばかりで参謀たちが黒と言えば黒なんだよ。つまり俺がいくら大丈夫だからと言ったところでこの家から一歩も出しちゃもらえない! ……何も言うな! わかってる! 家に引きこもってるのが臆病だからとかじゃなくて、みんなに逆らえず言われるがまま閉じ込められてるのが面白いんだろ!? だから笑うな!」

 曹操の笑いが収まるまで李岳はしばらく待たねばならなかった。

 

 ――口には出さなかったが曹操も李岳とさほど変わらない日々を過ごしていた。

 

 事件発生後、丞相賈駆が手勢含めて曹操に城外へ展開するよう指示した。無用な混乱を避けるための処置だったが、容疑から完全に除外されるまでは天子の近くから離すべきという判断だった――実際には、曹操自らそうすべきという進言があったのではあるが。曹操自身、政治的な立場の危うさを十分に理解しており疑いをかけられまいという配慮に余念がない。

 李岳が手ずから淹れた茶に口を付けながら曹操は言う。

「落ち着いた、と見ていいかしら」

「そうだな。主だった者たちのかなりの部分は捕まえたと聞いている。軍は未だに臨戦態勢だがしばらく我慢してもらうしかない」

 呂布も即応部隊として下命があり今は陣にいる。

 外出はままならないが、司馬懿が毎夜捜査状況を報告しに来るので状況のほとんどは頭に入っている。今夜も訪ねてくるだろう。

「犯人は冀州の者たちだった。俺への個人的な怨恨が主な動機だ」

「黄巾の者たち、ね」

「そのほとんどが劉虞に心酔していた者たちだ。劉虞を無残に殺した俺が許せないらしいな」

「狂信者ども」

 唾棄すべき、と口には出さずとも曹操の表情によく表れていた。

「後から言うようだけれど、もっと上手に劉虞は処分できなかったの。こうなることはある程度予測できたのではなくて?」

「いや、斬るしかなかった。生きていれば何度でも担がれるのが目に見えていた。神ではないと知らしめるためにも大衆の前で斬るのは正しかったと今でも思っているよ」

 劉虞は人だった。どうしようもないくらい人間だった。だが李岳は最後の最後で憎みきれなかった。愛されていたという、謎の確信があった。李岳でさえそう思わせる程の魅力は、まさに魔性と言って差し支えない。斬る以外の選択は何度考えてもない。

「……貴方が言うならそうでしょうね。けれどそのせいでここまで憎まれることになった」

「やむを得ない負債だ」

 気を紛らわすように李岳は早口で続けた。

「しかし洛陽の治安不信が相乗効果を出したな。思っていた以上に李岳憎しの声が大きい。もちろん劉虞に直接手を下したことが主だけど……華琳、責めるわけじゃないが、君の謀略が今になって痛撃になっているよ」

 下手な冗談だった、と李岳は口にした瞬間に後悔した。曹操は己を責めるだろうか、それとも不快になるだろうか。

 しかしそのどちらでもなく、曹操は怪訝そうに眉をしかめるばかりだった。

「すまない、終わったことだ、不快にするつもりは」

「違うわ冬至」

 曹操の困惑したような表情は不快が原因ではなかった。

「取り調べても構わない。部下を全員呼び出してもいい。それを踏まえた上で言うけれど……私は、洛陽近辺の叛乱を煽ってなどいない――私が組織した諜報部隊は貴方の手勢を突破できなかった。洛陽で流言飛語を弄することは一度たりとて出来なかったのよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、いつものように司馬懿がやって来た。そして来て早々茶を淹れ始める。勝手知ったる、という振る舞い。

「ありがとう、如月」

「この程度のこと」

 司馬懿は不器用にほほえみながら李岳の対面に腰を下ろして書き物の続きを始めた。司馬懿は今のところ捜査の責任者である賈駆の直下で実務を担っている。李岳が動けなくなった場合、指揮権は司馬懿に委譲されると定めていたためだ。

 黄巾の者たちの背後関係、この機に乗じて不穏な動きに乗り出す者がいないか、それを確かめ必要な手立てを講じるのが彼女の役割だった。

 今のところ問題が起きているという報告はない。

「反省されましたか?」

 司馬懿の言葉に李岳は頭をかく。

「何のことやら?」

「わざわざ子ども一人助けるためにご自分の命を危険に晒すなど。この間、反省する十分な時間はございましたよね」

「……確かに危ないところだったけど」

「肝を冷やしました。今後はひと目に付くところに出てもらっては困りますね。何も人助けするなというわけではないのです。少なくとも、転んだ子供を助けるのは他の部下に指示してください」

 司馬懿の剣幕は本物だった。

「……仕事を取り上げられ説教までされる。とんだ隠居生活だ」

「天下のほとんどを安じられたのです。途轍もない偉業です。ごゆるりと休んで責める者がいましょうか」

「有能なみんながいるんだ、休みから戻ったら俺の居場所はなさそうだ」

「さて? 休んだ分だけこき使われるのがおちでしょう」

 李岳は茶を飲み干した。司馬懿がおかわりを注ごうと背を向ける。

「あぁその、あれだ」

 はっきりしない前置きのあとに李岳は言葉を続けた。

「あの子どもはさすがに仕掛けじゃないよな? 想定では俺があそこにいるはずじゃなかった。暗殺者とあれだけ近づいてしまったのは計算外だった?」

 司馬懿は手を止めた。

「……といいますと?」

「さすがに俺を殺すつもりはなかったんだろう。だからあれだけ焦った。黄巾の残党は予想以上に上手くやったし、標的の李岳は馬鹿だからわざわざ自分から近寄りさえした。実際、于禁殿があの位置にいなければ危なかったよ」

 司馬懿は李岳に背を向けたまま答えない。

 李岳は繰り返した。

「如月、なぜ叛乱を煽った?」

 

 ――司馬懿は首だけで振り返った。表情はない。その目は静かに李岳を見据えている。怜悧、情熱、憤怒。そのどれも読み取れはしなかった。

 

 やがて体ごと向き直り司馬懿は言葉を紡ぐ。

「まず、どうして私だと?」

 否定しなかったことが、李岳の胸に刺さった。

「……華琳は洛陽に謀略を仕掛けることが出来なかったと言った。張燕の裏をかいていたのは彼女じゃない。永家の者の動きを全て把握していた内部の者の犯行だった。考えてみれば当たり前の話だよな。永家の実力は全土随一、その監視網を本拠地である洛陽でくぐり抜けられるわけがない。曹操に脅威を覚えすぎて、俺は目を曇らせていた」

「曹操殿の話を信じるのですか?」

「彼女はあの場で決起せずに鎮圧に動いた。裏で手引きしていたのなら動かないはずがない」

「冬至様が助かったからでしょう」

「かもしれないが、俺を守ったのは彼女の手勢の于禁殿だ。反乱を目論んでいたにしては矛盾に過ぎる」

「だから私が容疑者ですか? ただの消去法では」

 雨が降り始めたようだ。冬の雨だ。雪よりもなお冷たい雨。

「如月。君は誰よりも有能だ。そして権限も持っている」

「権限については月様も詠様もそうではありませんか。私だと断定できる理由にはなりません」

「そうかもな。けれどあの二人にはなくて君にしかないものもある……永家以外の諜報部隊だ」

 李岳は司馬懿が差し出した茶に口をつけた。苦いのかと思ったが、甘く澄んでいた。花が開いたような香りがする。

「司馬家には独自に動かせる草の者もいる。君の姉が使っている者たちだ。荊州で劉表の裏をかくために活躍していたな」

「確かにその手の者はございます」

「思い返してみれば色々と辻褄が合う。如月、対曹操戦の前に張燕と廖化の二名を曹操陣営の情報収集のために派遣したよな。それはもちろん必要な対処だったと同時に、あの二人がいない洛陽であれば永家の者たちの目をかいくぐって謀略を動かせると考えたからでもあるだろう」

 司馬懿も茶を口につけた。李岳と同じ茶とは思えないほど苦々しそうに飲んでいる。

 李岳がうながしたので、司馬懿は再び茶のおかわりを注いだ。外は今にも雪が降り始めそうなほど寒いのに雨ばかり降る。今季はまだ雪がない。この雨が止んだ後の初めての雪が、全ての音を吸い込む程の積雪になるかもしれない――司馬懿は口にした茶の熱に押し出されるように、ため息を吐いた。

「はい。私が叛乱を煽っておりました」

 司馬懿は悪びれもせず、頭を下げることさえしなかった。

「大逆罪だ」

「はい。けれど私が介入しなくともこうなっていました。私は誘導、管理したに過ぎません」

 李岳の言葉を遮って司馬懿は言う。

「これからの戦いとはこういうものです。反乱を操作し、時に押さえつけ、時に懐柔する。官吏の不正を正しつつさらに悪辣なことを企み実行する。あるいは孫呉の存在さえ利用することになるでしょう。貴方にそれが出来ますか?」

 司馬懿は李岳では戦後を担えないと考えているのか。だから李岳排除に動いた? しかしこの動きは相当前から用意していないと出来ない。一体いつから……

「……いずれにせよ決起は失敗した。情報をくれるな?」

「そちらにまとめてあります」

 司馬懿が指し示した一巻を手に取りめくった。詳細な資料だった。これがあれば半日とかからずして残る全ての関係者を捕縛出来るだろう。司馬懿は黄巾の者を操りつつ、いつでも処理できるように首に紐まで付けている。

「一つ訂正が。決起は失敗ではありません。十分に成功しました」

「なに?」

「私の目的は完遂されたのです」

「目的?」

「李岳将軍を排除するにはこれで十分なのです」

 司馬懿の手の動きに従って、燭台に照らされた長い髪が優雅に泳ぐ。

「おそらく自覚はないのでしょうが、貴方はもはやこの国最強の人となりおおせた。その影響力は計り知れません。しかし同時にこの国で最も憎まれている人なのです。軍勢を率いて各地を転戦、敵という敵を屠ってきた。益州では劉焉を暗殺、荊州では劉表の実権を奪い長安では内乱を誘起した。北方四州は是非はどうあれ袁紹を殺し、多くの民を路頭に迷わせることとなった。そして何より信仰の中心であった劉虞を自らの手で殺しているのです。その証拠が此度の騒乱でした。曹操殿を降したといえど、戦乱の種はなくなっていないのです」

 司馬懿は敵を論破するように続ける。

「良いですか? 貴方一人のためにこの国は再び内乱の危機に陥りかねないのです。帝ですら貴方のためなら暴君、愚帝と成り果てるお覚悟でしょう……そんなわけない、などとはおっしゃらないでください。時間の無駄です」

 事実だけを述べます、と前置きして司馬懿はまくしたてた。

「はっきり申し上げます……この国の戦乱の中心であった李岳将軍。貴方の存在こそ、この国における全土融和のための最後の課題、最後に残った棘なのです。私は天下泰平のために働くという貴方の指示を忠実に実行しているに過ぎません。孫権を残して全ての敵を倒した今、残された課題が民の融和であるのなら、邪魔なのは貴方なのです」

 そう言い切ると、司馬懿は一巻の書を卓に滑らせた。

 李岳は黙ってそれを受け取り、読んだ。それは司馬懿が書き記したこの国の現状と問題点、そして解決のための方策を記したものだった。

 読めば読むほど隙がない。読めば読むほどよくわかる――いかに、李岳という男がこの国にとって不要なのかということが。 

 司馬懿は李岳という男がいるだけでどれほどの危険因子になるかということについて滔々と書き記している。あまりに巨大な戦功ゆえにもはや誰一人逆らえないこと。望めば帝さえたやすく(わたくし)できること。外戚になどなれば漢帝国自体の存在が危ぶまれること。それに反して民心は掴めておらず、いつ巨大な反乱が起きてもおかしくないこと。さらに洛陽での儒家からは最も警戒され敵意さえ抱かれているということ。だというのに軍部からは圧倒的な支持を得ている状況。最大の不安要素である黄巾残党の求心力が、劉虞を殺した李岳に対する憎悪だということ。

 国と民、または洛陽と地方、そして文と武という対決の図式が、李岳がいる限り解決しないのだということ。

「……確かに、この李岳ってやつがいないだけで全部丸くおさまるな」

 なんて厄介なやつだ、と竹簡の束を机に放り投げながらつぶやいた――確かに、消えてもらった方がせいせいする。

 李岳は居住まいを正して眼前の少女にきちんと向き合った。

 長い茶色がかった髪、すっと伸びた背、智謀を静かに称える瞳、薄く結ばれた唇。

 李岳は己がとうとう極めつけの馬鹿であることを認めた。

 己が知る『三国志』の勝者が一体誰であったか、自分は知っていたはずだ。

 曹操でも劉備でも孫権でもないことを。

 戦乱の本当の勝者が誰であったのかを。

 

 ――姓は司馬、名は懿。字は仲達。

 

 賢狼とあだ名される少女は、話は終わりだと深々と頭を下げてから言った。

「先の騒動も貴方がこの国の急所であることを知らしめるために企図したもの。何も殺したいわけではないのです。どことなりとでも行かれるとよろしい。恋と一緒に行きたいところに行って、やりたいことをやられればいいのです……一度おっしゃって頂きましたよね。遠く西にも行ってみたいと。もう貴方を縛り付けるものは何一つない。私は貴方を誓いや戒め、義務といった足枷の全てから解き放ちたいと思っている。そのためなら李岳という人がこの国にいたという痕跡さえ全て消し去って見せましょう」

「そんなことは」

「出来ないとお思いですか?」

 司馬懿は思わず鼻白んだ。李岳はこの期に及んで司馬懿の能力と覚悟をわかっていない。

 司馬懿は再び書の束を卓に置いた。さすがに李岳の胆が冷えた。玉璽が押されている――司馬懿は帝の応諾を得ている。ということは董卓と賈駆以下、陣営のほとんどの了解を得ているということなのか。

「この十日の間、私はそこに名を連ねている方々全てにお会いし考えを説明いたしました。誰もがすっかり納得して頂けました。曹操殿にも先程お会いし、印を押して頂いております。笑っていましたよ――記録は全て抹消、永家の者たちを使って全土から李岳という名は誤って広まったのだと流布し、口の端に上ることさえないようにします。李岳などという男はいなかった。貴方は何一つ負い目なく出ていけます。何のご心配もなく」

 それでは、と司馬懿は立ち上がり屋敷を後にしようとした。まるで逃げるように戸口へ向かおうとしたその背に李岳は聞いた。

「どうしてそこまでして……俺を自由にしようとする」

 

 ――司馬懿は振り向きたいという衝動と戦った。本気で聞くのだろうか? だがこう聞いてくることはわかっていたから、その時のための用意はずっと前から済ませていた。

 

「それは、貴方が李岳だからですよ」

 なんと可愛い意趣返しかと自分でも思う。

 いま、本当の意味で司馬懿は李岳に勝利した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 司馬懿は一人冬の夜、冬の雨を行く。雨除けなどない、すぐに全身が凍てついたように冷え切った。

 しかし心は晴れ晴れとしていた。最も重要な仕事を終えたという気がしていた。いや、始まりなのだ。これから司馬懿は長い戦いを続けることになる。しかしそれ自体には何の苦労も感じない。

 司馬懿は李岳と出会ったこれまでのこと、全てを振り返っていた。

 かすかに色味の違う瞳。いつもどこか遠くを眼差す視線。

 世界を飲み干さんとする悪意に、無辜の民を傷つける暴力に、仲間を奪う刃に……怒り、傷つくことに恐れながらも決して歩みを止めなかった少年。

 

 ――本当のところ、司馬懿は最初から最後まで少年と彼が率いる軍団の勝利をこれっぽっちも疑っていなかった。この人が負けるはずなどないのだ。

 

 だがそれゆえに恐れていた。

 勝利の後に彼を待ち受けるのは無残だが情熱あふれる戦場ではない。汚く濁った(まつりごと)と陰謀の世界だ。陥れ、騙し、富と栄達を求める者たちとの妥協。

 少年は暗闘も得手だろう。そして勝つ。勝ち続け、永遠に戦いの螺旋を歩き続けることになる――いつか一人になったとしても。

 魔王と恐れ得る少女を(きざはし)から下ろし、戦場をともに駆けた友は休ませ、それが気高いことだと信じて。己の全てを犠牲にし、己以外の全てを守ろうとする。

 勝利が彼を癒やすことはない。栄光は下卑た笑みを浮かべて次の戦いを(うやうや)しく供するだろう。彼を守るには安らかな敗北しかなかった。義務も権利も全てを奪い、彼を戦わせようとする運命の鎖を完全に断絶させるしかない。

 歴史にすら何の痕跡も残さず。もはや始めからいなかったのだとする容赦のなさで。

 だから己が勝つことに決めた。自分なら出来るはずだから。

 汚泥をすすり毒を揉み込むような戦いを生涯続けることになろうとも、きっとやり遂げられると確信していた。いつか白く老いさらばえ、全てが曖昧になる日が来ようとも。

 

 ――狭い居室で書物に囲まれ、賢しらに世界を理解したつもりになっていた小娘にたくさんのものを与えてくれた。偉大な仕事の意味も、酒を飲む仲間も、恋心も。人生に必要なもの全てを与えてくれた。だから今度は返すべきなのだ、彼に彼の人生を。豊かな時間を、壮大な旅を、見知らぬ世界への挑戦を。だってもう十分に戦ったのだから。幸せになる権利は、誰よりもある。

 

 なぜこんなことをするのか? 

 李岳の問いに、司馬懿は一人になって再び答えた。雨と涙で濡れた唇から言葉が震えながらこぼれ出る。

「貴方が……李岳だから……」

 薄闇を払ってくれた人だから。

 愛しているから。

 最後の勝者になろうと、司馬懿は決めたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




李岳は敗北しました。彼は腹心の部下に裏切られ、その功績も地位も全てを奪われることになりました。
彼はもはや何者でもなくなり、ただの一人の個人に戻ることになります。
戦乱の勝者、司馬懿によって。

次回、最終回です。

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