真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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幕間 蒼き狼

(一)

 

 頬が冷えすぎて熱い。

 冬に馬を駆るといつもこうなる。豊かな羊毛で編んだ帽子で隠していなければ、耳などは千切れ飛んで行くかもしれない。

 香留靼は一人こうして馬を駆るのが好きだった。部族の誰よりも馬を駆るのが上手い自信があった。

 まだ齢は十だが、あと二年もすればきっと戦場で手柄を立てるのだと信じて疑っていなかった。

 なにせ自分は戦場で散った勇敢な父と、命の全てを費やして自分を生んだ母の子なのだ。

 だからきっと自分は立派な戦士になるのだ、と。

 勇敢な自分はどんな相手でも怖れはしない。

 その思いが香留靼を一人駆けさせていた。

 とある少年に会うために、香留靼は駆けていた。

 

 ——その少年の噂を聞いたのはある冬の日のことであった。

 

 大地さえ凍てつくような寒い冬、匈奴では部族みんなで毛皮にくるまり天幕の天井を見上げながら尽きない話をする。

 夜長の話の定番は蒼い狼だった。

 それは幼い頃から聞かされ続けて来た伝説で、そして香留靼はその話が本当に好きだった。

 天から下りてきた蒼い狼が部族の危機を救い、混迷の時代に正しき道へと導いてくれる、という。

 いつもならそこで終わる話が、その夜は違った。

 変な子供がいる、という噂が続いたのだ。

 何やら雁門関の北側に住む物好きな漢人がいるらしい。しかも妙に浮世離れした知恵者だという。

 みな笑いあった。ひょっとすると蒼い狼かも、とひとしきり笑って眠りについた——香留靼以外は。

 胸を刺す感覚は誇りを傷つけられた時のものだ。

 蒼い狼が漢人なわけがない。

 長城を築いて引きこもり、勇敢に戦いもせずそもそも馬にも満足に乗れないやつがなぜ蒼い狼なのか。

 確かめてやる。

 冬の旅の間、香留靼は強くそう心に決めた。

 香留靼の一族は家畜を養うために草を求めて旅をする遊牧の民だ。冬には氷土を避けるために漢のすぐ近くまでやってくる。

 雁門関の北側は部族の冬の拠点の一つでもあった。

 噂を確かめる好機はその時きっと来るはずだ、と。

 そしてとうとう香留靼は馬の世話と言い張り、一騎で雁門関を目指し集落を抜け出した。

 気持ちよく泳ぐようにしばらく駆けた。あてはないが見つかるだろう、という漠然とした自信があった。

 狩りをする時も迷った馬を探す時も、その自信がある時は最後は必ず見つけることができた。

 香留靼は大いに自信満々、ためらうことなく駆け続けた。

 

 ——そして迷った。

 

 巨大な雁門関を前にして、香留靼はべそをかきそうになっていた。

 馬の扱いは誰よりも達者な自信があるが、方角読みはまだ得手ではない。

 雁門まではまっすぐ駆けてこられたが、この後どうすればいいかわからず途方に暮れる。

「く、くそ。臆病な漢人め」

 漢人がこの草原に生きるとなればきっと訳ありだ。

 勇猛な匈奴の生き方を教えてやらねばならない。

 だから来た。だというのに姿を現さないとは。

 臆したか。きっと蒼い狼なわけがないのだ。

 匈奴の男は誇り高く生きる。べそなんてかくわけもない。しかしもしかして戻れないのでは、と思うと心細くて何だか鼻の奥がむずむずする。

 その時、てくてくとこちらに歩いてくる小さな影があった。

 少年だった。

 今年十歳になる自分とさほど変わらないだろうが、背は低い。くせ毛が風に揺れている。香留靼に気づいているだろうに、関わるまいと知らんふり。 

 だが香留靼は色めき立った。

 毛皮の胡服!

 きっと地元の匈奴の少年だ。

 命拾いした、と胸を撫で下ろした。漢人に弱みは見せられないが匈奴なら話は別なのだ。

 香留靼は少年のところまで一息に駆け寄ると、馬から飛び降りて少年の手を両手で握った。

「族長卒羅宇の部族、名は香留靼! ここで出会ったのも我が先祖の導きによるもの! 風を違えていた我ら兄弟が、魂の導きに従ってようやくここに再会したのだ」

「は、はあ?」

「なぁ、友よ!」

 部族の大人がよくやる契りを真似してみた。少年たちにとって親友の誓い、義兄弟の契りは憧れのものである、そんなものはとうの昔に暗記していた。

 道を見失っていた自分を助けるために現れた少年は、きっと前世からの導きに従ってきたに違いない。

 香留靼の勢いに気圧された少年は、そのまま飲まれるようにうんと言ってしまった。

 名を聞き、正体を聞き、彼が匈奴ではなく漢人であり、かつ探していた少年であると気づくのはこのあと間もなくのことである。

 だが気付いたときには岳と呼び、心底気に入る友となった。

 

 

(二)

 

 李岳とは暇さえあれば度々会うようになった。

 漢人でもいいやつがいる、というのが香留靼にとって面白くて仕方なかった。それがまたこんなにも変わったやつであればなおさらである。

 まるで大人が子供をやっているかのような落ち着きぶりだというのに、妙に世間知らずなところもあって飽きないのだ。

 例えば獣の解体をおっかながるくせに、開いた肉を見ながら臓物の働きを説明したりする。肝が血を作る場所とは初めて聞いた。

 日と月、星の動き、大地が丸いことなど李岳は何でも知っていた。その代わり香留靼は馬の乗り方を教えた。李岳はなかなか器用ですぐにものにしていった。

「おおい、今日はあっちの池まで行こうぜ」

「帰る頃には夜になるだろ。父さんに怒られる」

「臆病な漢人め!」

「勇敢な匈奴は仕事をずる休みして遊んでいることを、族長に知られても怖れないんだろうね」

「それはよくないぞ! やめなさい!」

 そんな調子である。匈奴と漢人、分かたれていても何も気になることはなかった。

 ある日のこと、李岳がいっぱいの鏃を担いで集落までやってきた。李岳の父は腕利きの鍛冶師で部族も大いに世話になっていた。

 鉄の仕事は旅の身の上では難しく匈奴が生業とする仕事ではない。その点定住している漢人は得意であり、なかでも李岳の父である李弁の仕事は香留靼でもひと目でわかるほどに見事なものだった。

 李岳はその日、長旅の用意もしてやってきていた。

 どうやらしばらく匈奴の旅に付き合うらしい。聞けば卒羅宇と李弁の間で話し合いがあったらしい。

 放っておけば日がな一日父の背中を見てばかりの息子に、様々な経験を積ませたいのだという。

 遊牧の民にとって同行者は常に歓迎である。卒羅宇の親友の息子ともあれば言うまでもなかった。

 しかも、である。李岳の容姿はなかなか整っており若い娘たちたが色めきたつほど。

 一言でいえば大歓迎なのだった。

「よ、色男」

 香留靼のからかいに李岳は顔を真っ赤にしてうつむく。うぶなやつだ、嫁をもらえるのかと少し心配になってしまうではないか。

 天幕をたたみ荷馬車に積むと一路東へと向かう。

 李岳はすっかり馬に乗るのも達者になっており、道中の早駆けや馬追いで遊んでも見劣りしなかった。

 馬に乗れるものを匈奴は仲間として受け入れる。三日も立てば李岳もすっかり家族のようになっていた。

 家族だからもちろん寝床も同じである。たっぷりの毛皮に包まれて、李岳と肩を並べる香留靼。

 することは一つしかない。

「何か話をしろよ」

「……といってもさ」

「お前の話おもしろいんだから。ほら、前にやってくれた桃のやつでもいいぞ」

 何やら馬鹿でかい桃が流れてきて中に子供がいるという突拍子もない話で、大きくなったら化け物退治に行くとか何とか。

 そもそもでかい桃が流れてくるという絵面が面白いというのに、中に人が入っていて切ったら出てくるのだからすごい。その上連れていく家来は犬と鳥と猿なのだ。話のどこをとっても笑ってしまう。

「たまには香留靼の話が聞きたいな」

「たまにはって、いつも話さないみたいに」

「馬の話か下ネタしか種類がないじゃないか」

「人を馬鹿みたいに言いやがって……事実だが……」

 えーと、と香留靼は思案した。

 思い当たるのは一つしかなかった。

「天に蒼い狼がいてだな」

 これまで幾度となく聞いた話ではあるが、李岳に話すとなると不思議と新鮮な気持ちになった。

 聞き手がいいのもあるだろう。合いの手のように挟まれる質問が香留靼にとっても心地よかった。

「蒼い狼、か……」

「信じないか?」

「いや信じるよ。きっと遠い未来、そう呼ばれる英雄がこの地に生まれると思う」

 李岳はたまにこういう不思議な物言いをする。

 自分たちが知るはずもないことをまるですでに決まっているかのように言い切るのだ。

 しかし香留靼は今回ばかりは不満だった。

「やっぱり信じていないじゃないか」

「え?」

「俺は信じている。今この時代に現れるって」

 おとぎ話を信じていると思われると気恥ずかしいが、せめて李岳は同じ気持ちでいてほしかった。

 見透かされる前に、香留靼は不貞腐れて寝た。

 

 

(三)

 

 翌日、煮出した山羊の乳と塩漬けの肉を頬張っていると、見知らぬ男が大声を上げて駆け込んできた。

 身なりから匈奴である。部族の中に顔見知りも居るらしい。男は顔にこびりついた血を拭きもせず、鮮卑に襲撃を受けたことを告げた。

 集落は一気に騒然となった。鮮卑! 近年ことあるごとに匈奴の領土を侵犯する東方の異民族である。

 一族の信頼厚い檀石槐という大人は野心に溢れ、縦横無尽に草原を駆け抜けているという。

 やがて卒羅宇がやってきて言った。

「全員で移動する。岳よ、そばから離れるな。お前は何としても家に帰してやる」

 李岳は青い顔をして頷く。戦なんて初めてだろう。

「大丈夫だ、俺がついてるからな」

 李岳の手を勇気づけるように握って香留靼は言った。足が震えているのは、きっとばれていないはず。

 卒羅宇の指示に従って集落は全員で襲撃現場に向かった。草原から丘陵に入り込んだところで、切り立った岩場が左右にそびえている。

 その中央に遺体はあった。無惨な有り様だった。斬り殺した後に馬で踏みつけてさえいる。

 香留靼が怒りと恐怖で震えかけた時、握られたままだった李岳の手が異様な力で握りしめられた。

 そして少年は言った。

「叔父上、妙です」

「なに?」

 李岳は大地を指さして言った。妙な雰囲気に卒羅宇も言われるがまま目を凝らした。

「遺体は無惨ですが妙に血が少ないと思いませんか。岩は血を吸いません。よそで殺してここに運び、そして踏み潰したのです」

「どういうことだ」

「心の臓が止まっていれば、切りつけても血はあまり出ないものです」

 卒羅宇は首を振った。

「理屈を聞いているのではない。なぜそんなことをわざわざするのか、と聞いたのだ」

 李岳はあたりを見回した。そして肩をすくめる。

「なぜでしょう。叔父上はこの後どうなされるつもりでしたか」

「当然、弔う。この地に埋め、朝まで悼む」

「では、目的は夜襲ですね」

 夜襲! 声が出る前に李岳は指を唇に当てた。

「静かに。見られているかも」

「まさか……」

「いえ、確実かと。ここは間違いなく挟撃に有利な地形です。別の場所で殺した人たちをここに運び、罠としているのです。馬で踏み潰したのは不自然さを隠すためですね。敵は匈奴がこの場で弔う風習を知っていたのです。それを利用している」

 少年は何の感情もないように遺体を見据えながら言う。卒羅宇でさえ唖然としているのだ。香留靼に至っては震え上がっていた。

「叔父上、どうされますか。逃げるのも手ですが」

「……無論戦う。我が部族は戦士の一族。みすみす逃げることはできん。敵もどうせ少数だ」

「わかりました。せっかくなら勝ちましょう」

「簡単に言いよる」

 声を出さないように、と再び念押ししてから李岳は座り込んで言葉を続けた。

「夜襲を誘います。空の天幕を襲わせましょう」

「背後を討つのか? しかし見られているのだろう。隠れて動くのは無理がある」

「はい。ですので堂々と移動するのです。天幕を立てた後、匈奴の本国に知らせに出るとして半数を。残り半数を怒りに狂って敵を探しに行ったという形にでもして出してしまうのです」

「気づかれぬわけがない」

「そうでしょうか。鹿も兎も堂々と目の前を横切れば警戒はしません。敵はすでに一勝し、さらに罠を仕掛けてもう一度いい気持ちになろうとしている。きっとはまりますよ。見抜かれても逃げるだけです」

「……一理ある」

 香留靼はまるで夢でも見ているかのような気分になった。まるで一国の軍師のような李岳の話しぶりはもちろん、卒羅宇まで信を寄せて方針を決めているのだ。

 だが最後の言葉がさらに度肝を抜いた。

「囮には私が残ります。夜に火も付けずにいればさすがに見抜かれますから」

「なに?」

「ご心配なく。適当に抜け出しますので」

 まずい、と香留靼は思った。このままでは李岳が一人で死地に残ることになる。香留靼は気づいたときには叫んでいた。

「戦力外なら、もう一人いるだろう!」

 あまり自慢にはならない主張にはなったが。

 

 

(四)

 

 夜襲が来るとわかっている天幕にとどまる。

 こんなに恐ろしいことがあるだろうか。何か手違いがあれば鮮卑の刃に首を斬られてしまうのだから。

 だが落ち着き払った目の前の漢人の少年を向こうに回して、先にべそをかくわけにもいくまい。

 香留靼は意気揚々と哀悼歌を歌い始めた。それは匈奴の民が先に去りゆく家族を送る時の歌である。

 李岳が意外そうに目をパチクリとした。

「まさか歌が上手だなんて、とか言うわけじゃないだろうな」

「まさかそんなに歌が上手だなんて」

「この野郎」

 けれど悪い気はしなかった。確かに自信あった。

「もっと普段から歌ってくれたら良かったのに」

「照れるだろ」

「女の子にもてるよ」

「馬鹿野郎。男は戦場で手柄を立てるんだ。歌でもててどうする」

 けれど今後は人前で披露する回数も増やそう、と香留靼は内心思うのであった。

 さて、あたりも暗くなり火を灯してすでに半刻は経っている。そろそろ火を消してもいい頃合いだ。

 匈奴の葬送も夜っぴてやり続けるとはいいながら、実際には深夜には眠りもするからだ。

 けれど眠れるわけもない。この天幕の周囲には殺意に満ちた鮮卑の集団が潜んでいるのだ。

 緊張もせずに妙に落ち着いていられるのは李岳がいるからに他ならない。

 強がっている自覚のある香留靼から見ても、この状況をまるで意にも介さない様子。

 ただ冷静に事の推移を見守ろうとしているその横顔は、決して同じ年頃の少年のものではなかった。

「お前、もしかして天から下りてきたのか?」

 口に出すつもりはなかったというのに思わずこぼれ出た。香留靼は頬を赤く染めた。何やら気恥ずかしくて仕方なかった。

 ぷっ、と李岳は吹き出した。

「ずいぶんと持ち上げてくれるね」

「……口が滑ったんだよ。冗談に決まってるだろ」

「うん。俺は別に、ただ惑いこんだだけだから」

 何をだ。そう聞こうとした時、天幕の外から喚声が聞こえてきた。始まった。潜んでいた鮮卑の背後をとらえて逆に襲いかかったのだ。

 李岳もさすがに緊張しているのだろう。ずっと握り合っていた手に力がこもる。香留靼は空いている右手をどこに置こうか迷った。

 ここは戦場、ならばすでに戦士。香留靼の腰には卒羅宇に渡された剣がある。

 しかし迷ったすえに、香留靼は右手で李岳の肩を抱いた。正面から抱きしめ合うような形であるが、恥ずかしくはなかった。

 もし負けて死ぬのなら、無惨な白刃をその瞳に映してやりたくなかった。

 喚声はしばらくすると止んだ。息を呑むような静けさの中で天幕が開かれた。

 卒羅宇が雄叫びを上げ、凄まじい威勢で吠えた。

 敵かと思って香留靼は腰を抜かしながらも剣を抜き放ち、李岳を庇うように立っていた。

「よくやったぞ岳、それに見事な心意気だ香留靼。誇りに思うぞ!」

 思わず剣を取り落とす香留靼。今度こそ腰を抜かしかけたが、失態を演じずに済んだのは卒羅宇にすぐさま抱きかかえられたからである。

 卒羅宇の豊かな髭に埋もれながら、香留靼と李岳はくすぐったくて笑うしかなかった。

 聞けばどうやら鮮卑は取り逃がしたらしい。

 無理もない、こちら側もそれほど多いわけではなかったのだ。一族の亡骸を守り、無事弔ってやることができればそれは勝利であろう。

「これから、どうなりますか」

 埋葬が済んだところで李岳が聞いた。卒羅宇はわかりきっていることを聞くな、とばかりに怒鳴るように答えた。

「戦に決まっているだろう! やつらは我が同胞を辱めたのだ。ここで引き下がるようでは匈奴の誇りも何もない!」

「ですが鮮卑は手強く、きっと匈奴にも多くの犠牲が出るでしょう」

「岳よ。ただ生きることだけが人生ではないのだ」

 部族を率い、長年戦場で生きてきた卒羅宇の言葉は重かった。李岳もそれ以上言葉を続けることができなかったようで、ただ静かに頷くだけだった。

 香留靼は見当違いであるとわかっていながら、慰めるようにいった。

「戦が怖いのは当たり前だ。でも男なら戦わなくっちゃならない時があるんだ」

 部族の中にも兄貴分は多いが、その中でも一番年上の兄の口癖がそれだった。

 香留靼は大真面目にいったというのに、李岳は吹き出して笑った。

「何が面白いってんだよ」

「いや? かっこいいよ。本当にそうだと思う。そうか、男なら、か」

 うん、と頷いて李岳は続けた。

「香留靼も行くのかい」

「行くさ」

 当たり前だろう、と胸を張る香留靼。

 卒羅宇が戦う以上部族総出の戦になる。負けたところで行くところもない。

 それが匈奴の戦だ。

 そうか、と李岳はもう一度だけ呟いた。

 

 

(五)

 

 大地を埋め尽くすほどの人馬だった。

 鮮卑と匈奴、敵対していた部族の主力がこの平原で向き合っている。

 香留靼は身震いした。

 負ければ死ぬ。だが勝てばこの草原の主が誰だかはっきりする。

 ぶかぶかと音がするような鎧を揺らしながら香留靼は隣にいる友——李岳に聞いた。

「……良いのか、岳」

「良いんだ」

 何が良いのかわからないまま香留靼は聞いたのに、李岳は躊躇うことなく良いと答えた。

 ならきっと良いのだろう。

 序盤から激戦であった。

 鮮卑はこれまで吸収してきた複数の部族を前線に立たせ、まるで捨て身の勢いでぶつからせていた。

 事実捨て身であろう。鮮卑は後退も逃亡も許さない。勝利か死か。鮮卑に隷属することになった者たちの末路はその選択を続けざるを得ない。

 ゆえにこそその勢いは凄まじいものであった。

「押されてるね」

 まるで呑気に言う李岳。

 興奮気味の香留靼はその声に思わずカッとなった。

「どっちの味方だ! きっと今に押し返すさ!」

「そうなればいいけれど」

 鎧もまとわずにいつもの胡服のまま李岳は小柄な馬にまたがっている。まるで自然体だった。

 空の上から見下ろしているような……

「叔父上のところに行こう」

「なんだって?」

「だってここじゃよく見えない」

 先に行くよ、といって李岳は馬腹を蹴った。

 香留靼は遅れまいと慌てて後をついていく。

 李岳の存在はすでに一族では知れ渡っている。誰も彼の前を塞ぐことはしなかった。

 卒羅宇は単于からの指示に従い左翼を担っている。

 動かせる兵は五万。多大な兵力と言えるが、鮮卑は総勢数十万と号している。

 真に受ける必要はないとはいえ、どちらの兵力が多いかは戦場をつぶさに見れば一目瞭然だった。

 李岳は卒羅宇の元に辿り着くと、妙な異様な冷静さで告げた。

「陣を下げませんか」

「……なんといった?」

「陣を下げてはどうかと」

 馬鹿にしているのか、と卒羅宇は怒鳴らなかった。

 李岳が見せた異才はそれほど強く彼の印象に刺さっていた。

「下げればどうなる」

「前衛の決死隊は……下がることを許されない部隊です。死にものぐるいで前に出ています。それを受け止めるのは至難でしょう。彼らはこちらが引いても必死に食らいついてきます」

「そして?」

「後続の鮮卑軍本隊と隙間が空きます」

 香留靼ですら容易にわかった。本隊ががら空きだ。

「鮮卑本隊は予想していないでしょう。側面からの攻撃には耐えられないと思います」

「鮮卑を直接叩かねば意味がない、というわけだな」

「現状では流れる血が増えるだけです。戦を早く終わらせるためには、鮮卑と直接当たらなければ」

 卒羅宇はしばらく熟考したあと、匈奴軍本隊の元へと馬を飛ばした。単于の元に話を献策しにいくのだろう。

「これで早く戦が終われば、無駄な犠牲が減るよね」

 李岳の言葉に香留靼が答えようとした時、匈奴全体の動きが変わった。一斉に後退の合図が鳴ったのだ。

 香留靼は李岳と手をつないで馬の元まで走ると、群れに流されるように退路を駆けた。

 隣には屈強な匈奴の精兵が付いている。

 何かあれば香留靼と李岳を逃がす算段だろう。

 後退は半刻ほどに及んだ。大地を響かせていた馬蹄の音は、やがてその律動を変化させた。

 香留靼と李岳はその時すでに丘陵の上まで逃げてきていた。戦場が一望できる位置だ。

 見れば匈奴の軍が真っ二つに分裂していた。

 そして左右から覆い包むように鮮卑の本隊に食らいついていく。

 濛々と立ち上る砂埃が鮮卑の目から匈奴の接近を遮ってしまったのだろうか。匈奴の逆撃は唖然とするほど綺麗に鮮卑軍を両断した。

 反転した匈奴軍は、そのあと地平まで追い続けるような勢いで鮮卑を追撃した。数十万を豪語した軍は、ただ大地を臥所に眠る骸に変わり果てた。

 古来よりあったかどうかわからないほどの圧勝。

 匈奴は当然歓喜に湧き、自らの部族の勇猛さと鮮卑の愚かさを謳った。逃げ遅れた鮮卑の処刑と、奴隷として首紐を付けるだけで半日を費やした。

 香留靼は握る李岳の手が震えるのを感じる。

 こうなるとは思っていなかったというような横顔。

 犠牲を減らしたいと、心から思っていたのだろう。

 そうであるなら、事実は彼の心を裏切った。

 血の気を失い、蒼白で、ただ自らの起こした事態を前に逃げることなく目だけは開かれている。

 やがて英雄を呼ぶ声がする。

 卒羅宇が大いに誇らしげにこちらに駆けてきていた。そして何事か叫びながら李岳を担ぎ上げた。

 匈奴の民が少年をたたえた。

 殺戮の王であると褒めそやした。

 彼に会う前であれば香留靼もそうしたであろう。

 しかしすでに李岳は友である。

 目に見えぬ彼の涙を思って、香留靼は胸が締め付けられる思いだった。

 そして心に決めた一つの誓い。

 自分はきっと、何があってもこの友を助けるだろうということ。

 賢く、物静かで、勇気と慈愛を持つ漢人の友よ。

 

 ——心優しき蒼き狼よ。

                   

 




年末、いかがお過ごしでしょうか。
今年はおかげさまで大変忙しく過ごさせていただき、小説にたずさわる時間が皆無でございました。
冬コミにエントリーしたものの3巻目は出せず、1〜2巻目の再販も断念し(キャンセルになった皆様本当にすみません)オリジナルの方もほとんど手つかず…
25年はぜひあらためたいと心に誓いますが、本当にそれを実現できるかどうか。
とはいえ頑張ります。

さて、23年冬に李岳伝書籍第2巻に載せた書き下ろしを品出しさせて頂きました。
幼い李岳と、彼の悪友との出会いです。

あと直前ではありますが、明日は冬コミです。
東地区 “h”ブロック-37a(東7ホール) に配置されました。
前日にご連絡して告知も何もないですし、3巻も出てません。
無料配布のコピー本を並べるだけです……お許しください。
内容はローマ編の遊びみたいなものです。機会があればご笑覧ください。
それではよい年末年始を。
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