真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第十九話 赫昭

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その男は突然訪ねてくると、己の運命をたやすく変えてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は晋陽出立の前に遡る――岳は夜、燭台の明かりを頼りに名簿を睨み続けていた。

 配下の隊長の名簿を借り受けたいという言葉はすぐに通り、李岳の居室に竹簡が山と積まれた。丁原も張楊もただ名を覚えるだけだろうと思っているに違いないが、李岳は他に密かな目論見があり、それは余人には思いもよらぬことであった。

(歴史上の人物を探すなんて、言えるわけないよな)

 李岳は会議で決定した作戦配置にわずかな不安を見出していた。人材が少ないのである。もちろん何万もの兵がいるのだ、部隊長を始め軍人は多くいる。だが丁原の隣で補佐を行える程の武将が正直に言って心許ない。別働隊の指揮は張遼が執ることになるだろうが、どんな手段を使っても随伴する心づもりの岳、籠城戦の補佐が欲しいところだった。

 守備兵も当初の案より二千を増やしてはいるが、守城の指揮を丁原がほとんど一人で執らねばらないことになっている。攻めるに難く守るに易い雁門関とはいえ手の行き届かないところも出るのでは、と危惧していた。

(聞くだに、攻めの戦ばかりだったはずだ……母上はいつも自分が先頭だったと聞いた。籠城が下手だとは思わないけど、誰か他にいてくれたらきっと……)

 かすかな燭台の明かりを頼りに李岳は竹簡に書かれた名前を追い続けていた。百人隊長以上の名前が記されているので細かな役職を含めてその名前は四百以上に上る。姓と名、字に出身地しか書かれていない。

(関羽とかいないかなあ……いやいくらなんでも関羽はないよな、ぼけてるのか俺は……でも本当に関羽がいたらなあ、すごいだろうな。なんせあの美髭公だ、青龍偃月刀で千切っては投げ千切ってては投げ……ってそうなると張遼とのツートップか。夢があるなあ。そういえば張遼も女性だったな、まあもう驚かないけど)

 

 ――不思議と、呂布がいれば、とは李岳は一度も考えなかった。

 

 夜通し駆け続けてやってきた、疲れもあり眠気も取り切れていない。朧気な意識は時折虚ろに飛び跳ねあらぬ方向へと転がっていったが、その度に首を振って目を覚ましあきらめずに字を追った。自分にできることは全てやりつくさなくてはならない、武力も知れている、部隊の統率も出来ない……であるのならば、生前の知識だけが今使うことのできる武器だ。張遼がここにいたのだ、だったらきっと他に誰かがいてもおかしくはない。味方の部隊にいまだ埋もれたままの珠玉のような人物を見出すことが出来れば素晴らしい戦力の向上となるだろう。

 何冊に目を通したか、山と積んだ読破済みの竹簡……残りのものも心もとなくなり、甘い考えをしたか、無駄な試みだったかと岳がぼんやり考え始めた頃、ひとつの文字が目に飛び込んできた。歴史に名だたる英雄というわけではない、誰よりも武に長じ中原を跳梁したというわけでもない。眼前の竹簡に記された位は百人隊長の末席の一人である。丁原率いる并州兵の中で頭角すら現してもいない。

 だがその名前を李岳は見知っていた。生前読み通した『三国志』の歴史の中に確かにその名前はあったのだ。字は覚えていないが、電流のようにほとばしった直感が間違いないと囁く。

 朝日が差し込み雀の鳴き声もかしましいが、李岳は燭台の隣でその竹簡を手にしたまま微動だにすらせず、炯々と眼光を輝かせた。

 

 ――赫昭。

 

 史実では曹操の興した魏に仕え、将軍として活躍した人物である。

 その名が千年後も勇名として語り継がれることになる一つの戦いがある。『陳倉の戦い』――中華の大地に、魏、蜀、呉の三国が鼎立し、正しく『三国時代』と呼ばれることになる情勢下、天下にその名を轟かせる稀代の名軍師、諸葛亮は蜀漢の正統性を謳い、漢の帝より禅譲を強いて帝位を簒奪した魏皇帝曹丕を討つべく北伐の兵を起こした。鍛えあげられ戦意も高い蜀漢数万の軍に対し、防衛するは陳倉城に旗を立てる赫昭麾下数千。

 天下の趨勢を占うにしてもあまりの戦力差、勝負は蜀の勝利で揺るぎないと思えたが――果たして赫昭は名軍師諸葛亮の采配する攻城作戦の全てを看破し、とうとうその兵糧が尽き撤退已む無しとなるまで凌ぎ切ったのである。諸葛亮の指揮する戦においてほとんど初めて土をつけたのだ。

(あの赫昭! ほんとか? 太原の生まれ……いやありうる。魏に仕えたんだ、ここだって曹操の勢力範囲になるんだ。紆余曲折あっても死ななかったらほとんどが曹操の軍勢に加わることになるわけだからな……陳倉の守護神……赫昭)

 まるであつらえたかのような天の配剤であるが、李岳にはまだ本当の『赫昭』であるという確信がなかった。同姓同名など珍しくもない時代であるし、残念なことに赫昭の字まで記憶をしているというわけではない。直接会って確かめなくてはならないだろう、見込みがあればよし、仮に予想が外れていたとしても優秀な人材であるなら推薦しよう、と思った。後の『守護神』か否かなど些細な問題に過ぎないのだ。

 翌朝、結局興奮した頭で熟睡できぬまま李岳は兵舎にいるはずの赫昭を訪ねた。

 出動を待つ軍勢の営舎は祭りを控えているような騒然さに包まれていた。

 李岳の配置に関しての布告は済んでいるらしく、手近な者に声をかけ名を名乗ると、居住まいを正して対応してくれた。

 ちょうど良い、と李岳は赫昭という人物の評判を尋ねて歩いたが、誰もが褒めちぎり信頼出来る仲間だと胸を叩いた。百人隊長など今だけだろう、すぐに出世して多くの軍勢を率いることになる、とも。

(本物っぽいけどなあ)

 あいにく留守であった赫昭だが、しばらく待つと折よく警邏から戻ってきたので李岳は話を聞く機会を得た。赫昭は背が高く纏った鎧も堂に入った見事な戦国娘であった。

「李岳、字は信達です。鴈門の北の生まれです」

「はっ。姓は赫、名は昭、字は伯道と申します。太原の生まれであります」

 李岳は名乗った少女をまじまじと見つめた。すらりと伸びた手足にはいくつもの刀傷があり、戦場を駆け回っていたことを雄弁に物語っている。邪魔にならないようにか赤色がかった髪は肩口にすら至らず、鋭い光を湛えた目は戦士のそれだが、それをやたらめったらに振りまかない意志の強さも現れていた。

「軍にはいつから」

「四年になります。家が貧しく志願しました」

「歳は」

「……おそらく二十二になります」

 自分の生まれ年を正確に記憶していない者がざらにいる時代だ、李岳は頷くとさらに質問を重ねた。

「今日より私が貴方の上官になりますが、質問はありますか?」

「ありません」

「ないんですか? 貴女は四年勤めた百人隊長、私は新参ですよ。しかも明らかに年若い」

「自分は軍人です。軍人は命令を聞くのが仕事です。質問を返すことは仕事ではありません」

 卑屈や無為な謙虚ではなく、本心からそう思っているらしい、細い目は微動だにとも揺れなかった。

 丁原も鉄面皮といえる程に表情が固く、軍規に厳しくとっつきづらいが、この少女はさらにその上を行く固さだった。武芸者上がりの丁原と、まず軍人であるというところから始まった違いだろう。

「百人隊長ですね。部下の掌握はできてますか」

「はっ」

「聞くところによると、貴女の部隊は他に比べて戦死が少ない。なぜでしょう」

「部下が優秀なためです」

「優秀な部下はよい上司の賜物でしょう。要諦は?」

 束の間口ごもったあと、赫昭は意を決したようにハキハキといった。

「彼を知り己を知れば百戦して(あや)うからずと言います」

 李岳は目を細めた。『孫子の兵法書』からの引用であった。

「……続けてください」

「百人で走り、百人で飯を食い、百人で寝ました。お互いに名前を覚え合いました。仲間であることが強いことだと自分は考えました。自分は孫子の言う『彼』を知る立場にありません。ですから『己』を知ろうと思いました」

 配下を掌握するには正道とも言える手法だ、隊長が部隊員と共に同じ苦しみを味わい、同じ生活を営めばそれだけで仲間意識が芽生える。李岳は眼前の人物が自らの知る赫昭と同一人物か見極めることができないと思った。同姓同名など珍しくないのだ。だが、例え史実の通りの人物でなくても、この人ならば丁原の良き補佐となるだろう、と確信した。

 とはいえ結論を急ぐことはできない、李岳は今のやり取りでわずかな瑕疵を見出していた。

「どこで覚えましたか?」

「はっ?」

「『孫子の兵法書』です。道端に捨ててあったわけじゃないでしょう。貴方は自ら貧しい出自だと言った。年齢すら定かではない。それに武官だ。文書を学ぶことなど普通はない。どこで読みましたか?」

「……」

「黙りこくるのが部下の仕事ですか?」

「……いいえ」

「では答えなさい」

「――訓練のあと書庫に忍び込み許可無く借り受けました」

 このように追及を受け、それを自白するという形になっても赫昭は気をつけの姿勢から微動だにせず真っ直ぐ李岳の目をみていた。

「借り受けた? それは盗みというのでは」

「……はっ」

「軍に居る者が規律を守らず貴重な兵法書を私した……その罪に対する罰はいかほどかご存知ですか?」

「――放逐であります」

 赫昭は息を飲んで答えた。岳は手を顎に当て、さて困ったと首をかしげる。

「……さて、どうしましょう。貴方はどうしたらいいと考えますか?」

「……と、おっしゃいますと」

「貴官はこの場合どのような処罰が相応しいと考えますか」

「……軍規は軍の依って立つところです。罪には罰で報いることを避けてはいけないと自分は考えます」

「放逐ですよ。二言はありませんか?」

「ありません」

「……では、なぜ泣いているのです」

 赫昭は思う。戦死を減らしたかった。兵法書を読めばそれがひとりでも減らせると思った。悪いとは思っても欲望を我慢できなかった。だがそれはいけないことなのだろうか。同じ位の隊長たちはそんなもの読んでも役には立たないと笑うばかりだし、直属上司の屯長はいずれいずれと言うばかり。忍び込み盗み読む他にどういう手立てがあったのだろうか。

 突如目の前に現れた李岳という男。并州刺史の一存でいきなり抜擢されたのだ、きっと自分などよりよっぽど優秀であるのだろう。だが赫昭の胸の内にはやるせなさが募り、自分がしでかした愚かさと自己弁護の葛藤の間で、目の前の小柄な男の顔など見たくないと訴えた。

 男はこほんと息を吐いて、あさっての方向を見ながら言った。

「数日後、匈奴が国境を脅かさんとやってきます。并州軍は鴈門の城塞にてこれを迎え撃つ。丁原様の副官に貴女を推薦します。城塞防衛軍五千の副官です、責任は重大です――寄せ手は二十万。激戦となるでしょう」

 赫昭は李岳の言葉に思考が追いつかなかった。副官、と確かに目の前の男は言った。罪に問うと言ったのに出世を命じられている状況がどうしても赫昭の納得に届かない。

 さらに戦の知らせがまた混乱に拍車をかけた。匈奴が国境を脅かさんと迫ってくるというが、その数が二十万――二万と聞き間違えたわけではなく、確かに李岳は二十万と言った。前代未聞の大軍であった。

「……お言葉ですが、何をおっしゃっているのか、わかりません」

「守兵の指揮につけ、と言いました。無事守り切ることが出来れば罪は不問とします。敗れれば追放です……望むのならば、今ここで追放を選んでも構いません」

 李岳という男の瞳に嘘や偽り、冗談などは見いだせなかった。反対に慮るような風さえあり、赫昭は束の間これは夢なのではないかと疑いさえした。

「……」

「返事は」

 返事を求められている。軍人としての本能で赫昭は反射的に応えてしまっていた――おそらく数日かけても同じことを述べるであろう答えであった。

「――はっ! 機会をお与えいただきありがとうございます!」

「……丁原様にお引き合わせします。付いてきてください」

 くるりときびすを返して歩き始めると、李岳は作戦の詳しい内容については丁原から直接聞くように、と声を潜めた。しばらく歩き官舎に足を踏み入れようとした頃、ああそういえば、と思いだしたように李岳は言った。

「私も孫子には学ぶべきところが多いと思います。多くの人が学べば良いとも……戦が終わり無事に生きて帰れば、読み解きの会でも設けますか……」

 ぽりぽりと鼻頭をかきながら言い捨てて、李岳はそそくさと足を速めた。

 良い人なのかも知れない、とふと赫昭は思った。厳しく口を引き結び露骨な優しさは見せないが、明らかに自分の涙に動揺しているし最後はどうにか聞き取れるという程度の早口にもなっていた。

 大体おかしな話だ。二十万もの大軍を迎え撃ち、防ぎきることが出来れば罪を不問とするなどと、破れたら死は確実なのだ。目を瞑る、ということと同義である。そしてこの場での追放とは、死地のような戦場へと出向くことを拒否する権利を与える、ということを指す。

 何より総大将である丁原の副官につけなど、百人隊長しか任されたことのない赫昭にとっては唖然とするほどの抜擢だ。

(李岳……一体、どういう人なのだろう)

 頭ひとつ小さい男、くせっ毛が耳のとなりから飛び跳ねている。赫昭はひょうきんに揺れ動くその髪の毛を目で追いながら。李岳の後ろを刺史の居室まで付いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は戻り雁門関、関をかけた匈奴との攻防戦は三日目に至っていた。

 赫昭は運び込まれた石を手当たり次第に投げ落としながら叫んだ。

「落とせ! 城壁に上げるな!」

 今日だけで三度目になる総攻撃であった。総勢二十万の匈奴兵が代わる代わる寄せ手となって鴈門の砦に殺到してくる。狭く切り立った崖を塞ぐような関ゆえに、一度に突っ込んでくる兵は二千から三千に過ぎない。だがその背後には蠢くような人の波が打ち寄せようと揺れ動いている。

 この砦が打ち破られるまで寄せ手は永遠に朽ちることなく攻めつづけてくるのではないか、そう思えるほどに物量は圧倒的であった。

 投石は城壁に取り付いた匈奴兵の頭をいくつも押し潰した。下にいた者共もそれに巻き込まれて被害は拡がる。赫昭はさらに合図を出した、すると引き絞られた矢が一斉に放たれた。矢は吸い込まれるように再び押し寄せようとした第二陣の出鼻を挫き、ようやく敵はさざなみのように引いていった。昼から二刻続いた攻勢が何とか一段落というところなのだろう。

「前列を交代。負傷者の手当てを急げ――丁建陽様。私は工兵を連れて岩を砕いて参ります」

「うむ」

 丁原は額の汗を拭いながら頷いた。赫昭は間近でその弓矢の威力、振り回す刀剣の凄まじさをその目で見ていたが、流石に仰ぐに相応しい大将だと誇らしさを感じるほどであった。

 無数にいる百人隊長の一人でしかなかった自分が、憧れた刺史の副官として五千の兵を率いる二位の席を与えられることになるとは、ひどい籠城戦を戦っているというのに何度考えてもまるで夢の中のようでさえあった。

「工作隊」

 声を上げると二千弱の兵が威勢のいい声で応答して赫昭に続いた。顔に出しはしないし臆しもしないが、赫昭は内心、ああ私は指揮をしているのだな、と胸がドキドキと高鳴り、誇らしい気持ちが沸き起こるのを止められなかった。

 事実、赫昭は見事に副官としての任を全うしていた。

 五千の兵をいっぺんに防備に振り分けても混雑し統率が取れない。赫昭は丁原に進言し防衛隊を三隊に分けていた。前衛、工作、予備であった。前衛は敵の攻撃を受け止め防ぎ、工作は岩を砕き投石用に備え、予備戦力は危うい箇所への援護、負傷者の手当て、炊飯などを行う。その甲斐あり人員は滑らかに移動でき、物資の不足もその陰りさえない。赫昭はその全ての現場で休みなく奮闘していた。

 全身が岩のように重く、気を抜けばその場にへたり込んでしまいそうになるのを叱咤して赫昭は兵を連れて裏の岩山へ向かった。矢はすぐに足りなくなるので防塞戦では岩が意外な程に効く。鴈門の山に挟まれているので岩くれには困らない。

 そして工作隊の半分は木々の伐採に振り向けている。木の幹を頭上から落とすのだ。直撃を受ければ一溜りもないであろうし、城壁の下は斜面である。豪快に転がり落ちて匈奴自慢の騎馬隊の足を絡めとるだろう。

 死闘の後だというのに赫昭は誰よりも多くつるはしを振るい、誰よりもたくさんの石を運んだ。常日頃の訓練でも誰かに遅れを取ったことはない。特別な武勇は持ち合わせていなかったが、昔から体力だけは人一倍であった。

 一刻程作業を続けたあと、一つの人影が寄ってきて赫昭に声をかけた。

「赫昭……」

 照れくさそうに頭をかくのは入隊した頃から面倒を見てもらっていた男で、百人隊長であった頃の上司であった。

「屯長……」

「その、なんだ」

「あ」

 赫昭は髭面の屯長が気まずそうにしているのを見てはっと思い当たることがあった。若輩の自分が口利きによって、多くの先達を飛び越えて上位に配置されたのだ。不義とまでは言わないが不満があって然りだと赫昭も思う。嫌味の一つが飛んできた所で当然なのだ、と内心覚悟したが――

 男は照れくさそうに笑ってから、赫昭をねぎらった。

「おめえ、よくやってるな」

「……え」

「俺、ビビっちまってよ、逃げたくてたまんねえんだ……けど、お前はすげえよ、指揮して戦ってる。最前線で血まみれになって、すぐに次は工作隊と一緒に汗かいて……立派だ、俺はお前に……いえ、副官殿についていこうと決めましたぜ」

 頭を下げた男を赫昭は押しとどめた。

「お、おやめください屯長殿」

「赫昭、お前はもうおいらの上司なんだ、これが普通なんだぜ」

「ですが……いえ、そうですね」

「飛将軍に認められたんだ、胸を張れよ」

 飛将軍――自分を引き立てたのがただの武官などではなく、漢の地にて最早伝説として語られる将軍、李広の子孫なのだと赫昭は初戦にて知った。

 

『――我は李広の子孫にして飛将軍を継ぐ者……名は李岳!』

 

 李岳の叫びが今ここで再び唱えられたかのように赫昭の耳朶を打った。その後の武者働きも凄まじかった、近づいていたとはいえ敵の大将の馬を見事に射抜き味方の士気は天を突かんばかりになった。

 自分よりも背の低い、あの癖毛の少年――赫昭は自らが仕える者にひょっとしたら出会えたのかもしれない、と思うと胸が熱くなった。少なくとも取り立てて頂いた恩は返さなくてはならない、この身を粉にして働き、戦い、あの将が無事に帰ってきた時にきっとこの関所で出迎え己の罪を赦してもらうのだ。そして孫子の講釈を聞かせてもらう、きっと――

「……勝てるって気がしてきた。并州様……いや、今はもう執金吾様か。そして飛将軍だ。きっと勝てる。生きてかかあに会えるな」

 屯長は笑って敬礼をすると、背を向けて作業に戻っていった。大声で怒鳴り散らしながら作業が差し支えていた場所に手を加えている。赫昭はついぞ知ることはなかったが、この不器用な元上司の計らいにより、百人隊長以下の兵士が軒並み不信や反感を抱かずに赫昭の命令に従っていたのであった。

「……勝ちましょう」

 もう目の前には誰もいないが、誰ともなく赫昭は言った。そう、勝つのだ。無事に生きて帰り孫子の講釈を受けなくてはならない、そして受けた恩を返さねば死ぬにも死ねない。城を守りぬき罪を雪げと李岳は言った。自分は軍人だ、命令には絶対服従が原則――だからこの雁門関を絶対に守りぬこう、赫昭は自分の全てをもって誓った。

 不意に敵襲を知らせる叫びが反響した、こちらを休ませずに攻め立て疲労を蓄積させようという腹なのだろう。

 疲弊させたければさせてみよ、どれだけ困憊しようともここは抜かせぬ。死守するは赫昭、全ての攻勢を跳ねのけて必ずや仲間を生きて家に帰らせるのだ――剣を抜き放ち赫昭は号令をかけ走り始めた。

 

 

 

 

 

 

 ――後に『赫昭伝』は言う。姓は赫、名は昭。字は伯道。太原の生まれ。若くして軍に属す。晋陽にて執金吾丁原に従卒として取り立てられる。丁原の死後は校尉となり李岳に仕える。霊帝崩御後は賊の鎮圧に功ありとして中郎将となる。寡兵よく敵を凌ぎ城を守れば侵入を許さず、百戦百勝叶わずとも城塞を守りて百戦百守す。配下の兵卒をよく監督し皆喜んで指揮に服した。人は皆彼女をして歩く関が如くと称し、難攻不落の勲はまさに長城が如しと謳った。後に鎮護将軍。晩年、漢中にて病没。列侯に封ぜられる。

 


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