真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

2 / 184
第二話 出会い

 次の日はそろそろ春の訪れを予感させる朗らかな晴れ日で、岳は久しぶりに散策をしようと昼弁当をこしらえた。

 塩をよくまぶした干し肉と蒸した粟をこねて作った饅頭はどちらも岳の大好物だ。母がよく作ってくれたその味を、ここ最近ようやく再現できるようになった。塩は庶民の手には中々届かない高価な「食べる銀」ではあるが、恒山の一角に岩塩が出ることが匈奴では知られており、もちろん弁と岳もおこぼれに与っている。

 岳はその塩を用いたとある計画を温めているのだが、それを誰かに言ったことはまだない。

(ま、次の『お使い』の時くらいが頃合いだろうな)

 卒羅宇から譲ってもらった仔山羊が伴である。仔山羊は言うことをよく聞き健脚で、額に黒い模様があるので岳は点と名付けた。家の周りにはシダなどの固い草ばかりで、点を不憫に思って放牧の真似事をと思い立ち、よい場所を求めて普段立ち入らないような所に目当てをつけて巡っていた。

 産湯に浸かってから住み続けた山である。もうその大半が庭のようなものだったが、改めて回ってみると四季の彩りに目を見張る。道すがら、かかれば御の字とばかりに手慰みの罠をしかけながら、飽きることなく岳は散策を続けた。それを半日も過ごした頃か、いい具合の泉にたどり着くことができた。川のせせらぎの溜りになっており、流れは淀まず水も腐ってはいない。

(この前の雨で新しく流れがつながったのか、地下から湧いたか。何にしたってめっけもんだよね……ん?)

 ふと、茂みの奥から異様な気配を感じ取り、岳は金縛りにかかったように身動きがとれなくなった。額や胸、背中から汗が吹き出す。見る間にぐっしょりと濡れそぼった掌を服にこすりつけながら、岳は喘ぐように後ずさった。常人離れした筋力の持ち主の卒羅宇、丸太を容易く両断する母の殺気がまるで児戯に等しく思えるほど、むせ返るような熱だった。

(なんだよこれ、こんなの人間じゃない! ……例の虎か!? どうする。点を身代わりにして助かるなんてしたくないぞ……)

 隣で自分以上に震える仔山羊を見て岳は選択肢のいくつかを捨てた。出会って一月だが、もう情が湧いてしまっていたのである。

(……そもそも逃げられるのか?)

 山野で生きてきた岳は、その気配の異常さを正確に捉えていた。

 気配は秒刻みで、確実に迫ってくる。もう囮など意味はない、見逃してもらえるはずはない。絶望的な未来を確信できるほどの濃密な殺意に対し、岳は気づいたときには弓と矢を構えていた。父が手ずから鍛えた腰の剣でさえ今は心もとない。

(こんなのが一体何の役に立つっていうんだ? まるで玩具じゃないか……)

 目を狙うしかない。しかも両目とも間髪入れずに。そして一目散に逃げるのだ。その他に生き延びる術はないだろう。岳は矢を一杯まで引き絞りながら固唾を飲んだ。不思議なことに、出会うことがなければそれ以上の幸せはないというのに、覚悟を決めれば今か今かと待ち遠しくなる。岳は自らの殺気を極力潜ませながら、だが恋焦がれるように茂みの奥を見つめ続けた。絶望的な死への確信を胸に秘めて。

(生まれ変わった先で、虎に食い殺されておしまいか……あっけないもんだ。次に生まれ変わるのならどの時代がいいかな)

 走馬灯など見なかった。不謹慎な冗談を考えついては、それがあまりにおかしくて岳は笑いをこらえるのでやっとだった。

(さて、来そうだな……っ!)

 影は目にも止まらぬ速さで飛び出し、岳の目論見をあざ笑うかのように跳躍した。ましらのごとく樹間をはね跳びながら、影は岳に迫った。岳は矢を放った! 速すぎる動きにその姿さえ満足に捉えきれていなかったが、鋭い眼光を見紛うことはなかった。

 影は岳の頭上を素通りし、背後に着地した。慌てて茂みに飛び込み、伏せて二の矢をつがえる。

(手応えはあった! 狙い通り射れたはずだ)

 岳の感覚に反し、影は身悶えすることも痛みにもがき苦しむこともなく、静かに振り返り岳を見つめた。岳もその者を正面から見据えた。

 唖然とし、見間違いではないかと思った。気配の源は虎などではなく、まごう事無き人だった。それも年端もいかない少女である。

 岳は目をしばたきながら思わず弓矢を取り落としかけた。自分と変わらぬ歳と思しき、すらりとした細身の女の子。だが確かに殺気を振りまいていたのはその少女であり、彼女の右手がしっかと掴んでいる矢は間違いなく岳が放ったものだった。少女は静かだが、刃物よりなお透き通る隙のなさで岳に立ち向かっていた。

「……上手」

「え?」

「矢」

「……あ、ああ。うん。ありがとう」

 そう言った後、岳は心底から怒りを覚えた。

(何がありがとうだ! 馬鹿め! もう少しでこの子を射殺す所だったんだぞ!)

 あわてて頭を下げる、事態が。

「あ、あの! ごめん! もうちょっとで君を」

 その言葉に少女はうんともすんとも反応することはなく、むしろ岳さえ見ることはなく、彼の背後でまだ怯えている山羊の点に近づいていった。きょとんとする岳を放ったらかしたまま、少女は点を誘うように掌を差し出す。はじめは怯えていた点だったが、やがておずおずと差し出された手に頬をこすりつけると、程なく懐いてしまった。

「いいこ、いいこ」

 点はメェ、メェと可愛らしい声で女の子に体をすり寄せては甘えている。その光景がどうにも呑気なもので、岳はすっかり毒気を抜かれてしまった。

「……点というんだ。そいつの名前だよ」

 少女は口には出さずに頷くだけだったが、岳には彼女の気持ちがなぜかよくわかった。動物が好きなのだ。

「うん。そう。俺の家族。一緒に暮らしてる家族」

 点、点。

 声には出していないというのに少女の声が聞こえた気がした。仔山羊を可愛がり続けた。どれほどそうしていただろう、やがてキッと岳に向き直るや否や――今度ははっきりと口に出して――少女は言った。

「食べ物」

「へ?」

「食べ物」

「……」

 ぐぅ、とダメ押しのように少女のお腹が鳴った。さっきの死を覚悟したやり取りは何だったのか、ほとほと呆れ返りながらも、どうしてもその子を憎むことが出来ずに岳は自分の昼食となるはずだった饅頭と干し肉を渡した。途端に、少女は饅頭を頬張りはじめた。

「……んぐ」

「落ち着きなよ、ほら水」

「……おいしい」

「そう、よかった」

 頷く。

(変な子だ……けど、相当強いんだろうな)

 おそらく、自分などは歯牙にもかけないくらいに、と岳は彼我の力量を測った。生まれ変わって身体能力が増したとはいえ、岳は所詮一般人の域を出るものではないと自認していた。比べて目の前の少女は間違いなく、英傑。それも生半可なものではないだろう。知り合いがそれほど多いわけではないが、これはと思うほど強い人間もいた。その人達が赤子に見えるほど少女の迫力は突出していた。

(卒羅宇が虎と見間違える程だからなあ……ん?)

 よっぽど気が抜けていたのか、李岳は自分でもいまさら何を、と思うような質問をした。

「そういえば、どうしてあんなに殺気を?」

「……んぐ。追っ手」

「と、勘違いしたのか」

 コクリ。少女は自前の水筒に口をつけながら困ったように、曖昧に頷いた。

 ひょっとしたら照れているのかもしれないなと思い、岳は内心おかしくなった。

「……失礼なこと考えた」

「……いやそんなことは全く。美味しかった?」

「……ん」

「そりゃよかった。ところで追っ手って、いったい何をしたのさ」

「盗み」

 平然と言ってのけた少女に悪びれた様子はなかった。何か理由があるんだろうとすぐに察しがついた。身なりがみすぼらしいわけでも性根が腐ってそうなわけでもない。だが聞いてもいいものかどうか、岳は束の間迷った。人には誰しも踏み入れてはいけない領域があるものだ。

 その迷いをかき消したのは点だった。メェメェ、と戸惑ったように鳴き始める。見れば小さな仔犬がじゃれかかっていた。

「あの仔のため」

「え」

「お乳……セキトの……」

 少女が声をかけると、仔犬は耳と尻尾を忙しく振り回しながら飛び込んできた。少女は仔犬に小さくちぎった干し肉を与えている。食べにくそうにしているが、セキトと呼ばれた仔犬は辛抱強く噛んでは少しずつ飲み込んでいく。

「……そっか、まだお乳がいるんだな。そして匈奴の牧場かどこかに忍び込んだのか」

 岳は無心に頬張る仔犬の頭をそっと撫でた。

(ん? セキト……? どこかで聞いたような……)

「言ってもわけてもらえなかった」

「……君、漢人でしょ。まぁ、匈奴の人は漢人に優しくないからね。だから盗みか……」

「お金がない……自分で出せれば解決するのに」

 そう言うと、少女は自分の胸をもみ始めた。豊かな乳房が手に合わせて形を変える。

「わあわあ! なにしてんの」

「でない」

「そりゃそうだ! 子供いないでしょ!」

「……ちぇっ」

 なんだか独特の間を持つ子だなあ、と岳はドギマギしながら話題を変えた。

「お金がなければ仕官すればいいんじゃないかな。禄が出るはず。君の武術の腕ならすぐに出世できるんじゃないか」

「仕官すればお金がもらえる?」

「もらえる」

「仕官する」

「……そんなんで決めていいのか? 自分で言っといてなんだけどさ」

 なんでかトントン拍子に進んでしまった。こんな風に迷いなく決めてくれるのなら進路指導なんてチョロいもんだよな、と思った。だが意見を変える気はなかった、忠告が的外れとも思わない。

 与えられた干し肉を全部食べてしまうと、セキトはまた点を追いかけまわし始めた。点も逃げまわるが心底嫌そうなわけではない。動物同士気が合うのかもしれない。

 さてそろそろお暇しよう、と岳が別れを切りだそうとした時、少女が不意に口走った。

「……呂布。字は奉先。真名は恋」

 はじめ、彼女が一体何を口走っているのか岳には見当が付かなかった。

(どこの言葉だろうか……俺も北匈奴の言葉はさっぱりだからなあ)

 しかしやがて彼女が姓名字、挙句の果てに真名まで含めて名乗りを上げたということをはっきりと理解すると、目に明らかなほど動揺し、思わずのけ反らんばかりになった。

「……?」

「……いやいや! ちょっと待って!」

「名乗った」

「それはわかるけど……!」

 岳の動揺は尤もだった。

 --呂布。

 長い中華の歴史において、その名を凌ぐ豪傑がいるかと言われたら誰もが唸る。豪傑入り乱れる三国志の中でさえ『人中の呂布』と謳われた最強の人物。金に汚く信義を守らず、董卓の暴政に加担し、悪辣という誹りを鼻にもかけずに跳梁した魔将軍――だが掛け値なしに、乱世を大暴れした稀代のもののふ。

 それがどうして女の子なのか、こんなところで出会うのか、次から次へと疑問は頭をめぐるが、とりあえず自らの動揺を説明する必要があった。

『君はこれから乱世で大注目を浴びる人だから』

 だなどと本音は言えたものではないが、幸いなんとか説明できる材料はあった。

「……そんなすぐに真名を言うもんじゃないでしょうに」

「いい」

「いいって……」

 呂布と名乗った少女は真っ直ぐ岳を見据えたまま頷いた。

 ――真名とは、その者の魂さえ明らかにすると言われる秘中の秘、根源的な名前である。それを他者に教えるということは、相手を心の底から信じ、許し、命を預けたことに等しい。

「いい。セキトの恩人」

 少女――恋はセキトを抱き上げながら、そっと笑った。

 迷いのない信頼の眼差し。岳は、困ったなあ、と呟いては頭をかくことしか出来なかった。内心は混乱と動揺で頭がおかしくなりそうだった。

(呂布と知り合っていいことはあるのだろうか、危険はないのか、だが史実とはどうも違うようだし、とはいえ武力は間違いないだろう……じゃあやっぱり本人……)

 悩み続ける岳に、恋は抱き抱えているセキトを手渡した。仔犬は何もわからず、ただはしゃぎながら岳の顔を何度も舐める。その愛嬌に苦笑しながら懐に隠してあった干し肉の最後の一切れを与え、岳は意を決した。

(あーあ、だよなあ……そうなんだよなあ。残念なことに、俺は、犬が好きなんだよなあ)

 そして犬を大事に可愛がる人も、やっぱり好きなのだった。

「姓は李、名は岳。字は信達……真名は冬至」

 肉親以外、誰かに真名を預けるのは生まれて初めてになる。それがまさか歴史や物語で親しんだ呂布だとは。岳は自らの身体に鳴り響く鼓動はきっとそのせいだと、不意に花のように微笑んだ目の前の少女から目を背けながら念じた。

 

 ――この出会いが、彼の運命を大きく変えてしまうきっかけになるのだとはつゆとも知らずに。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。