真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第二十一話 天地よ、刮目せよ

 まるで地を這うような遅々とした歩みで別働隊は恒山の西を進んでいた。

 二万の軍勢、そのほとんどが騎馬だ。一息に駆け抜ければ半日で済む所を、馬から降りて手綱を引き、ゆっくりゆっくり移動した。敵に察知されれば全てが瓦解する計画、馬の嘶き一つさえ許されない。

 時折響く剣戟と喊声の音は匈奴が雁門関に殺到する余波だ。その音が聞こえる度に部隊は一度足を止め、悔しさに唇を噛み締めた。二十万の大軍が生きない立地、関の上での専守防衛の利、大将丁原への信頼――だがそれにしても五千は寡兵だ。昼夜の別なく攻め立てられることもあり、部隊の誰もがもどかしさに歯噛みして進んだ。張遼もじれったそうにしていたが、先導する李岳もまた耐えていることを知っていたので文句をぐっとこらえて足を進めた。

 渓谷の合間を縫うような桟道で、これを知り得るのは自分を除けば黒山の張燕くらいであろうと岳は思っていた。まず見つかるはずがない。後は公孫賛が思惑通りに動いてくれれば――

 霧の中を手探りで進むように進軍して数日が経った頃、ようやく匈奴の本陣が見下ろせる場所へとたどり着いた。誰もが息を呑み、手にじっとりと汗を滲ませた。

 長く伸びた本陣は見るからに防御が薄く、攻められることなど欠片も考えていないように思える。逆落しの勢いは何に遮られることもなく本陣へと我らの牙を届かせるだろう――勝てる、いける――誰かが囁いた。於夫羅の首を挙げることは夢物語などではなかった!

「ええ場所やな……これ以上ない」

「はい、後は公孫賛殿の活躍を待つのみです」

 このまま食い破ることも可能だが、目的は於夫羅を打ち破ることだけではない。匈奴の撤退を促すことだ。二万の軍勢で大将を討ち取ったとしてもそこは援護のない敵の只中、挟撃されれば全滅の憂き目に遭う他ない。匈奴の軍を本国へ撤退させるためには、幽州から進発した公孫賛の快進撃がどうしても欠かせない。そしてそれを独自に知る術は張遼率いる別働隊にはなく、匈奴の本陣から脱落し帰国していく軍勢の動きから察する他はない。

 その夜はもどかしい露営になった。お預けを食らっているようなもので、誰もがそわそわと居心地の悪さを感じていた。火を炊くこともままならないので、挽いて蒸した粟の餅をさもしく口に運んでは何度も何度も味がなくなるまで噛み締めた。馬にも口はみを噛ませたままでいる他なく、順番に小川へ連れて行っては水と少量の秣(まぐさ)を与えて耐えてもらう他なかった。

 夜空には満天の星が煌めいており、皆思い思いにくつろぐ中、李岳は横になった黒狐の腹にもたれるようにして空を眺めていた。

「なぁに黄昏てんねん」

 降って湧いた声に李岳は笑った。

「邪魔すんで、李岳っち」

 李岳ではなく黒狐に声をかけてから張遼は隣に腰を下ろした。

 どこか上気したような紅のさした頬、芳しいうっすらとした香り、李岳を見つめる瞳はとろんとしており、わずかに息苦しそうに吐息を漏らしている――

「呑みましたね」

「にゃはは!」

 バレたかあ! と小瓶のとっくりを取り出してから張遼はニマニマと笑う。

「……隠し持ってきたんですか? いやぁ、流石に示しがつきませんよ」

「せやからアンタの隣でやんか。目つぶっててくれるんやろ?」

「条件があります」

 やだっ、と張遼は豊満な胸元を両手で隠してからいやいやと首を振った。

「ウチを、ウチをどうするつもりなんや……! 弱みを握ったのをええことに、戦の前に荒ぶった精気をここぞとばかりにウチにぶつけるつもりなんやろ……! ケダモノ……!」

「――なに考えてんスか。どうもしませんよ。一杯分けて欲しいと思っただけです」

 張遼ははぁとため息を吐いてから言った。

「……李岳っち。あんた、よくつまらん男、って言われへんか?」

 渡されたとっくりに口を付けながら李岳は答えた。

「もう嫌になるくらい言われますよ。なんだってんだっつーくらい言われます」

 趙雲に張燕に匈奴の悪友に、枚挙を上げればきりがないと岳は唇を尖らせた。

「堅物って感じやもんな」

「親譲りなんですよ」

「あー、そら言えてるわ。お母ちゃんそっくり」

 そうそう俺が悪いんじゃないんです、と言ってもう一口呑もうととっくりを傾けた瞬間、李岳はむせ返って吐き出してしまった。うるさい、と黒狐がしっぽではたいてくる。してやったりの張遼。よだれを拭きながら李岳は聞き返した。

「……知ってたんですか?」

「いやもうバッレバレやで。突っ込んでくださいと言ってるようなもんやで」

「……そんな」

「なんか隠したそうやったから言わんかったけど。アンタら鈍感親子だけやで、隠せてると思ってんのは。大体并州様は普通は字で呼ばはる。ウチとかなら『おい、張文遠』てなもんや。せやのに自分の時だけ『ねえねえ、李岳ちゃん』やで」

「ちゃん付けはしてないでしょ!」

「してるようなもんやで、いやこれほんまの話」

 李岳は自分と母、丁原のやり取りを思い返してみたが、何もおかしいところはなかったように思える。だが周囲からすれば丸わかりだったのだろうか、そう思うと妙に気恥ずかしくなり、李岳は俯いてもぐもぐと言葉を飲み込んだ。

「……ひひひ。まあバレバレは言い過ぎかな」

「……脅かさないでくださいよ」

「けどな、剣の使い方が一緒や。それでピンと来た。よう見れば顔立ちも似てる。こら間違いないなあ、って」

 意外と鋭い洞察に、李岳は照れてあさってを向いた。自分の内心を察してほしくはなかった――まさかこんなにも嬉しくなるなどとは夢にも思っていなかった。師と剣の使い方が同じと言われて喜ばない武芸者がどこにいるだろう。

 コホン、と咳払いをして李岳は話を変えた。

「ところで……李岳っちってなんです?」

「呼びやすいやろ?」

「はぁ……」

 まさかあの張遼を『張遼っち』と呼ぶわけにもいくまい、李岳はもやもやした気持ちのまま二つ目の質問を投げた。

「仮に公孫賛殿が約定通り動いているとするならば、匈奴の撤退はいつ頃になると思いますか?」

「明日、かな」

 間を置かずに張遼は答えた。

「なぜそう思いますか」

「根拠なし。ただの勘。アンタはどう思うん?」

「私も明日だと思いますね。張遼殿の勘なら間違いなさそうだ」

 というより明日でなくては困る。李岳はその言葉は口には出さなかったが、雁門関に詰めている留守部隊のことを考えるとそう何日も持つまいと考えていた。

 正直な所、焦りがあった。於夫羅は絶対に兵を後方に差し向けなくてはならない。これは道理だ。だが強引に全軍突破を狙うような暴挙に出ないとも限らない。それが一番不味い、なにせ公孫賛は精々数千、やはりとてもじゃないが都など落とせない。それを看破し、反対意見を封殺して南下を断行するのならば、この策は無残に崩壊するのだ。

「霞や」

 不意に張遼が言った。照れ臭そうにとっくりを奪い取って口をつけている。

「これから二人、死地へと向かうんや。自分の背中を……命を預けるんや。真名も預けて当然やろ」

「冬至です」

「敬語も禁止」

「……だ」

「よっしゃ、よろしゅうな、冬至」

「よろしく。ただ、軍務の最中は敬語で呼ぶけど。序列もあるし」

「固っくるしいやっちゃなぁ」

「母親似、でしょ?」

 違いない、と愉快気に笑うと、張遼はまだ半分残っているとっくりに栓をした。残りは戦勝の後の祝い酒というわけだ。

 李岳は張遼に感謝した。李岳は恐怖と戦っていた。それは怯えと言い換えても良い気持ちで、晋陽を出立したその瞬間から苛まれ続けていた暗い感情だった。

 初めて一から十まで戦を描いた。前世の頃に『三国志』好きが高じて種々の兵法書や戦絵巻に目を通し、それらの引用を継ぎ接ぎして献策した。成る、と思う。成らねば困る。だが果たして成るのか、何か見落としはなかったのか……

 煩悶はおそらく勝利を手にするまで消え去ることはないだろう。ただ、今は隣にいる張遼に感謝していた。自らにとって初めての戦友に。

 星の瞬きが一際強く滾る春の夜。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、張遼以下二万の軍は朝も早くから食い入るように敵陣を眺めていた。撤退しろ、と誰かが囁く。撤退しちまえ、と他の誰かが続いた。

 どれほどそうしていただろう、陣営の中に微かな動きが見受けられた。その動きはやがて大きなうねりとなり、ひしめき合っていた人の群れの中から、粘着の大きな塊がこそげ落ちるように一群が離脱すると、真っ直ぐ北を目指して鴈門から撤退していった。喚声が上がりそうになったが、それを張遼が叱咤した。

 策は成った。趙雲は約定を果たし、公孫賛は頼みを聞いて動いた。慌てふためくように数万の軍勢が全速力で北上していく。間違いない、幽州兵が匈奴の背後を脅かしたのだ。二つ目の鍵がこじ開けられたのであろう。

 それからがまた辛抱の時間であった。すぐさま攻め掛かっても離脱した軍が取って返してきてしまう。今日もまた懲りずに雁門関を攻めるだろう、その時こそ陣営は最も間延びし防御力が弱まるはず――李岳の提案を張遼は受けた。およそ一刻半待った。匈奴は濛々たる土煙を上げて幾度目になるか、雁門関に殺到し始めた。伐採した木の幹を抱えて坂を駆け上り、関の正門を打ち破ろうと迫る。矢と石、油と火でそれを防ぐ友軍并州兵。その攻勢が始まってからも四半刻待った。

 不思議なことだ、と張遼は場違いな思いで考えていた。こんなに辛抱強い自分がいるなんて考えもしなかった。隣にいる李岳の影響だろうか、それともまだ知らなかった新たな自分がこの限界の状況で現れたのだろうか。どちらにしても悪い気分ではない。最大にまで引き絞った矢を解き放つときの快感に似ている、あるいは極限の空腹に耐えてから肉を喰らう時の気分か――

 張遼が一声かけると、二万の軍勢が整然と列を成した。その目には期待と希望、勇気と決意が滲んでおり、その全てが合わさり猛々しい戦意となって天に昇っている。

「総員出撃準備」 

 張遼の騎乗を待って全員が馬上に揃った。片手には見事な照り返しを見せる偃月刀。李岳を始め并州兵は皆々彼女に続いた。見下ろす先に平野を塗りつぶす程の敵兵だが、策略にかかり兵を分けた。こちらの目論見には気づいていないに違いなかった。李岳の瞳に鮮やかな炎が灯る。

(於夫羅……俺はお前の喉を掻き切るためにやってきた。俺の因縁は全てお前から始まった。ケリをつけよう、右賢王)

「時、(きた)れり」

 李岳が思わず呟いてしまった声に、応、と二万が答えた。いななきをさせないために施した馬への封印も解かれている。もはや咎める者はいない。

 張遼が武器を握ったままの右手を上げた。そして天地の全てに届けとばかりの雄叫びを上げた。狙うは敵の総大将、於夫羅の首唯一つ。

 上げた大刀が振り下ろされるのと同時に并州兵は疾走した。逆落しは無類の威力を発揮し、瞬く間に山を駆けおりた。目前の匈奴の軍に動揺が走るのが見える。長く伸びた戦列、その横腹を食い破り、漢の牙を打ち立てる!

「泣く子も黙る張文遠! ウチが張遼や! さあ、張遼がきた、張遼が来たで!」

 張遼の名乗りにどよめきはさらに大きくなり、并州兵の勢いに匈奴はたまらず後退した。立ち塞がってくる前衛をまさに一撃と言っても良いほどあっさりと蹴破る。まるで障害などないかのように疾走し、敵兵二十万の中心に踊りでんとした。二つに分かれた騎馬隊が並行して突き出された槍のように突貫する。匈奴の守りを突き破りながら容易く二里までも押し込んで――張遼と李岳が異変に気づいたのは同時であった。

 敵兵の動揺はすぐに止み、突き破られようとしていた横腹は柔軟にその陣形を変えると、双頭の蛇のようにくねり并州兵の両脇を押し包むように駆け始める。さらに待ち構えていたかのように矢が雨のように飛来した。呻き声を上げては僚友が何人も脱落した。

(早い、対応が早すぎる……!)

「こら――あかん」

 大刀を一振りし、立ちふさがった敵兵を吹き飛ばしながら張遼は舌打ちした。李岳は声も出すことが出来ず、手にしている弓を砕けんばかりに握りしめた。

「読まれとる……!」

 匈奴の動揺はたちまち収まり、備えていたかのように――いや、確実に備えていた。こちらを待ち受けていたのだ。全ては想定内だとばかりに戦列を広げると、巨大な鶴翼の陣を敷き、敵兵は罠にかかった獲物に舌なめずりをするかの如く、じりじりと距離を狭めてきた。十倍する敵の包囲網は、絶望を呼び起こすに造作もなかった。二十万の包囲網……

 李岳は己の失策に頭が真っ白になっていた。

(どこかで於夫羅を侮っていなかったか……『三国志』では埋もれた男だと舐めてかかっていた! 最低だ……二万人の味方が死ぬ……并州も洛陽も……陥落する)

「――総員、迂回!」

 その声にようやく李岳は我に帰ると、ゆるんでいた手綱を再び握りしめた。呆けている暇はない、まだやり残したことがある。失策があったのならそれを取り返すべく動かなくてはならない。

 張遼が左に旋回をはじめる。目論見は理にかなっていた、山沿いは密集が薄い。まっすぐ敵軍を突き抜けて関所に打ち掛かっている攻城兵の背後を襲おうというのだろう。張遼率いる別働隊が取って返してくるということの事態、丁原ならばすかさず見抜くに違いない――だがこちらの思惑の全てを丸呑みにしているとばかり、攻城兵ですらも別働隊を釣り上げるための偽兵に過ぎなかったらしい。敵の猛攻をかいくぐってようやく二里程進んだ先では、攻城兵はその矛を関所ではなくこちらに向けて取って返して来ていた。

 李岳は覚悟を決めた。

「ここで食い止めます。兵三千をお貸しください」

 振り向き様、張遼の張り手が李岳の頬を襲った。火花が弾けたような派手な音がしたが、口の端に血を滲ませながらも李岳は引かなかった。

「殿軍を務めます」

「何言うとんねんボケ!」

「隊長を死なせることはできません」

「もう一撃くらいたいんか……エエかげんにせえよ、お前を残して撤退しろっていうんか! 勝手に決めんな! この別働隊を率いる隊長はウチや! ウチが残る」

「隊長が討たれてどうする! 匈奴の侵略は何としても食い止めなくちゃならない、そのためには張文遠の力が要るんだよ……霞! それにこれは俺が考えた策だ! 破れたのならその責は当然俺にある」

「責もクソも、そんな言葉出したら意見が通ると思いなや! 并州様、丁原様になんて言うたらええねん! アンタの子を身代わりにして生きて戻っちゃいました、ってか? 言えるわけないやろ! アンタは意地でも生かして送り届ける!」

「知るか! 言えよ! 別働隊とはいえ隊長が死ぬわけにはいかんだろうが!」

「ほな隊長は今からアンタ!」

「無茶苦茶言うな!」

 自分を見殺しにしろ、という押し付け合いは長くは続かなかった。顔を蒼白にした兵卒が馬群から駆け寄ってくると、凶報を告げた。

「――も、申し上げます! 後方に砂塵! おそらく……て、敵騎馬隊です。その数およそ二万……!」

 ピタリと言い争いをやめて、李岳と張遼は向かい合った。果たしてどちらが先であったろう――笑い声を上げたのは。張遼は李岳が先だと思い、李岳は張遼が先んじたと思った。だが周囲の兵にはどちらも同時だとしか思えなかった。二人とも腹を抱えて笑い、その目に涙が浮かぶまで哄笑を上げ続けた。いまだ敵の攻勢はやまない。こちらを並走しながら騎射が続いているが、それをさばきながらも二人は笑った。

 やがて声が枯れた頃、李岳はため息を吐いて見事、と呟いた。

「まさかここまで用意周到だったとは……参ったな」

「完全にしてやられてもうたな」

「ああ――全滅だ」

 退路とすべき後方、東の山からの伏兵である。どうやって回りこませたか、自分たちに気付かれないように背後を取り、襲撃を待って追い討ちをかけたのだ。策を完璧に読んだ上にこちらの退路を断ち全滅を余儀なくする盤石の布陣……もはや於夫羅を賞賛する他なかった。

 どちらかを逃がすなどという言い争いはこの期に及んで意味を失った。李岳に張遼、付き従う并州兵二万弱。その尽くがここを死地と定められた。あとは死に様、散り様の話になる。あの於夫羅が捕虜を取るなどという真似をするわけがない。仮に捕らえられたのなら想像を絶する残忍さで処刑されるだろう。ならば選ぶべき道は一つしかなかった。

 張遼は全軍に向かって振り向くと、大声で言った。

「すまん! ウチらの負けや! 悪いけど生きて帰ることはできそうにあらへん……一緒に死んでくれ!」

 誰一人怨嗟の声を上げることはなかった。同じように笑顔を浮かべる者、まなじりを濡らしながらも気合の声を上げる者、ただじっと敵を見据える者……并州に弱卒なし。

 張遼は満足気に頷いてから李岳に聞いた。

「冬至、どっちがええ?」

「そりゃ、前、かな」

「せやな、万が一ってこともあるしな」

 このまま立ちすくんで討ち取られるなどもっての外、玉砕するならどちらに突っ込むと張遼は聞いていた。

「食い破ってやろう。そして於夫羅の喉元をとらえる……ちぇっ、殴られ損か。思いっきり張ってくれたよな」

「ははっ、ほなあの世でいっぺんしばかせたる」

「忘れてなければ」

「よっしゃ、ほな行こか――匈奴兵二十万、あの世への道連れに不足なし!」

 二万の兵が張遼の号令と共に動き始めた。誉れはないが悔いもない。常にここが墓場と思い定めて戦ってきた。いつどこで果てようとも良し、それが故郷の地を守りぬくための戦で散るとなるのならば、本望と呼ぶ他ない。并州兵は常に最前線にて戦ってきた精兵中の精兵。その心意気、今ここで満開と咲かせずして如何とする。

 李岳は弓矢をしまうと天狼剣を抜いた。怪しい輝きがしとどに濡れて、まるで血の涎のように見えた。

 父、弁から授かった形見がごとき一振り。飛べ、と父は言った。その言葉を守ることが出来ず、今ここで地に這う破目となりそうである。だがもう一つの言葉には李岳は忠実であったと自負していた。気高きに順え――その言葉に忠実であったからこそ今ここに立っている。指をくわえて手をこまねいて、己一人助かるならばそれで良いとしたあの頃の自分はもういない。

「武芸者の心意気とくと見よ。血塗れの徒花(あだばな)、見事に咲かしたるわ……この張遼の首、取れるもんなら取ってみさらせ!」

 号令一下。死兵、駆ける――さあ、誇りに殉じよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前陣と衝突した。小細工などない、力と力のぶつかり合いだった。天命を悟った并州兵の勢いは古今東西ありえるかというほどの力強さであった。

 餓狼の如く遮二無二押した。張遼が血路を切り開くと、すかさずそこを李岳が押しこむ。天狼剣を口にくわえ、再び持ちだした弓でもって一度に五本の矢の束ね撃ち……その全てが匈奴兵の命を略奪していく。并州騎馬隊が鋭い槍のように突っ込んでいく。押し包むように狭まってくる敵兵から、千の槍、万の矢が繰り出された。次々に討たれていく騎馬隊だが一騎たりとも止まらない。もはや退路はなく、前進に一握の希望があるのみ。

 その決死の様が匈奴兵の動揺を呼んだ。腰が引けたかのようにわずかに間隙が空き、そこを逃すまいとさらに張遼が先頭で突き進んでいく。口に放り込んだ硬い肉がいつまでも噛みちぎれないかのように、伏兵の挟撃は漢兵を押し包み切れない。張遼は一縷の希望が見えたかに思えた。このまま速度を落とさずに駆け抜けることさえ出来れば――

 しかし。

「後方……! 敵騎馬隊迫って参りました!」

 三方から押し包まれ、攻撃をかいくぐりながら敵を打ち取っていく自軍と、ひたすら駆け通してくる敵の最後の伏兵との速度の差は明らかだった。とどめの蓋をするように後方から馬蹄が迫ってくる。張遼の絶叫が鴈門の原野に轟いた。

「後ろはええ! 前だけ見つめ! ウチの背中を見ろ! ここに張遼在り! ――ナメるな、ウチを殺すまで勝負はつかへんぞ!」

 鬼神、鬼神だ――敵兵からは恐怖のどよめき、味方からはこれほどの頼もしい隊長はいないと涙ながらについてくる。

 言葉は戦場にさざなみ打った――張遼が来る、張遼が来る!

 されど敵陣中央に斬り込めば斬り込むほど多勢に無勢も度を増した。周りは全て敵のように思えた。李岳はとうとう血乾剣を抜き、二刀を握って狙いも定めず振り回し始めた。どこを振っても誰かに当たる。黒狐にも浅手が無数に走っており、苦痛と疲労で喘いでいたが、最後の疾駆とばかりに速力はなお増した。

 そのとき、ドン、という音がして李岳は崩れ落ちた。敵兵の一撃がまともに李岳の体を捉え、小柄な体は吹き飛ばされて落馬したのだ。

 慌てて手綱を引き、返した大刀を振り抜いて李岳の体をすくい上げると張遼は強引に黒狐の馬上に戻した。見れば一撃はまともすぎた故に鎧に阻まれている。血が流れているが深手ではない。

「冬至! まだ行けるやろ! もうすぐや!」

「霞……」

 だが疲労は李岳の全身を蝕み、流れた血がなけなしの体力を根こそぎ奪っていく。見ればいつ刺さったのかわからない矢が左肩に突き立っているが、もはや痛みさえない。意識が朦朧とする中、何度手綱を離しかけたかわからない――もはや李岳は生きているのか死んでいるのかすらわからなくなっていた。

 張遼はもうすぐ、と言った。李岳はその言葉を信じて意識を取り戻し、再び黒狐のたてがみにしがみついた――なんだ、本当にもうすぐじゃないか、あと精々二万騎程度だろう、あの中を突破すればいいだけなんだろう? 全然いけるじゃないか――

 不意に、圧力が消えた。今度こそ本当に死んだのか、と李岳は思った。この命潰えて、苦しみから解き放たれたのではないか。

(霞、済まない。父上、母上、申し訳ありません。さよなら、恋…!)

 断末魔など上げるものか、歯を食いしばったまま死んでやる――李岳を包んだ死の錯覚を打ち砕いたのは、味方の絶叫だった。

「こ、後方の騎馬隊、敵兵に打ちかかっています!」

 一体何を言っている――李岳は辺りを見回したがまだ打撃の威力が体内で踊り狂っておりよく見えない。だから代わりに耳をすました。疑い、不信、そして狼狽の声を。

「なんやと!」

「……す、すごい!」

「仲間割れか?」

「いや、あ、あれは……」

 朧気な意識は徐々に焦点を合わせ始めようやく目の前の景色をしっかりと把握できるようになったが、李岳はやはり眼前に拡がる光景を信じることができなかった。後方から并州兵を討ち滅さんとやってきた増援部隊が、我々ではなく敵の匈奴に猛然と襲いかかっているのだ。今まで見たこともないその戦法、戦型で。

 

 ――古来、漢は匈奴との戦では常に機動力で敗れ、その後背を突かれて散々に苦渋を舐めてきた。だが血の流れを流すままにしたわけではない、様々な工夫を凝らし対応してきた。その中の一つに、乗り慣れぬ馬に無理にまたがるのではなく、車を牽かせて機動部隊を形成するという戦法があった。その攻撃力たるや絶大なれど、柔軟性に劣り歴史の影に消えていった戦法であった……しかし、一部の部族の間では逆にその戦法に着目し、改良が加えられ、さらに洗練され、今この時代でさえも主力として名を馳せていた。

 機動力を補うために戦車と騎馬の混合部隊とし、戦型は蜂矢。弓矢による射殺と槍の投擲を両脇から散々に繰り返し、まさに敵無しのごとく突き進んでいく圧倒的な凶暴性である。

 死体を量産するかの如き血生臭い戦法を先頭でもって率いるのは、年端も行かない少女であった。青い髪、鮮烈なる剣技、誇り高き眼差し、そして忘れもしないその声とその名――天は見よ! 地は聞け! 匈奴の騎馬隊何するものぞ! 原野を蹂躙するは、その名も高き烏桓の戦車隊!

「仁と義によりて、我ら烏桓の精鋭二万騎、漢の援護に馳せ参じた! 我が名は楼班――推して参る!」

 

 ――後に言う『鴈門関の戦い』は、これより最終局面に至る。


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