真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第二十三話 戦う理由

 夜が泣き濡れているような月明かりであった。

 夕暮れのあと、慈悲のような小雨が降った。四半刻もすればまたいつもの雲ひとつない乾いた群青色の空に戻ったが、降った雫は立ち込めた血の匂いをかすかではあれ流してくれただろうか……李岳は一人、鐘楼に登り北の大地を見渡していた。まだわずかに湿っている石積みのへりに手をやって、春の夜の目の覚めるような風に身をさらしていた。

 数日前にはこの大地を埋め尽くしていた騎馬民族の姿は、既に夢だったのではないかと思わせるくらい忽然と消え去っている。

 匈奴兵二十万と漢兵二万五千との戦いは、野戦急襲により漢の勝利で終わった。だが実態は辛勝もいいほどの厳しさで、匈奴兵の一万二千あまりを討ち取っていたが漢にもほとんど同数の死者が出ていた。部隊全軍から半数近くの損害が出るなど並の戦であったならば全滅と呼んでも差し支えのない水準であり、卒羅宇はじめ匈奴の穏健派が残兵をまとめ上げ収拾を図っていなければどうなっていただろう。

 戦後、数日をかけて両軍は遺体の埋葬と行った。合計二万人以上の死者だ――おびただしい数である。血塗れの山、鴈門山。その裾野に広がる標(しるべ)なき墓所がまた数を増やした。大地に伏した(ともがら)の骸を弔い、匈奴兵の大半は帰国の途についた。

 匈奴の撤退を見届けて、漢兵も明日前線配備を解いて晋陽に帰還する。階下は張遼を筆頭に兵卒まで含めて戦勝を祝った宴に興じている。葬送の沈鬱さをいつまでも引きずるのは士気に良くなく、勝利は勝利として祝わねば死者も報われない。だが李岳の心は晴れず、宴もたけなわに至るを待つこともなくそこそこに抜け出すと、黙って月明かりを浴びていた。

 左腕に痛みが走る。肩に突き立った矢傷は深くはなく他に負った傷も大したことはなかったが、於夫羅を討ち取った後関所に帰還した際、赫昭に無理やり包帯を巻き付けられて、今の李岳は見た目は重傷者もいいところであった。階級を盾にしてやめろと命令することができたが、気丈で表情など崩しそうもない娘が人目も憚らずに号泣しながらしがみついてくるのだから断りようがなかった。

 

 ――守兵の指揮にあたっていた屯長が死んでいた。

 

 嘘のような流れ矢が胸を貫いたと聞いている。一瞬のことだったようだ。赫昭の元の上司であり、最後の混戦の際に丁原の後について出撃したため、その代わりとして留守を任されていた男であった。赫昭は自分の身代わりで死んだと思っているのだろう。傷だらけの李岳に対して見せた過剰な程の狼狽はそれがあったからに違いない。守ると決めたのに、と何度も呟きながら涙を流すままうなだれていた。

 激戦地で短戟を振るっていた赫昭にはかすり傷しかなく、より安全な後方の指揮官が流れ矢で落命している。五割に届く損害なのだ、誰が死んでもおかしくなかったことを改めて実感させる。

 李岳はひと巻きひと巻きゆっくりと包帯を解いた。肩の矢傷の血はすでに止まっているが、青黒く腫れ上がっており、腕をあげるとかなりまともな痛みが走る。うんざりするような疲労が全身に残っていて、痛みもそうだが気怠さもつらい。今日も最後まで寝床から起き上がることが出来ず、自分の貧弱さが嫌というほど自覚できた。初陣だった、と皆は慰めてくれるが情けないことには変わりない。

 丁原、張遼、赫昭。主だった面々は皆無事で、それだけが救いだった。だが損害はやはり大きい。そして漢兵だけではなく、匈奴の死者にも李岳は思いを馳せてしまっている。香留靼は果たして無事だったろうか。

(これが戦か……)

 不毛だった。何をもって争わなければならなかったのか未だにもってわからない。於夫羅はなぜ立ったのか、誰かの手引きがなければ皇帝位に就こうなどと思うはずがない。どう考えても野心を植えつけたものがいる。自分が知っている『三国志』の歴史との齟齬――己自身が持ち込んだ因果が歴史の波を狂わせているのかもしれない、と李岳は考えた。歴史の歯車を狂わせた小さな小石――

(張純の反乱を防いだために、匈奴が煽られた? そんなこと、あるのだろうか。だがそうとしか……)

 答えの出ようもない問いで、考えるだに全身の疲労が増すような気がした。だが逃げることを許されない問いでもある。臆するな、逃げるな、立ち向かえ――腰に佩いた二本の剣がそうささやいているような気がした。そしてそれこそが二度目の生を与えられた理由でもあるのだろう。自分のせいで引き起こされた歴史の狂いであるのなら、それから逃げずに徹底的に立ち向かってやる――父の言葉が心の中で李岳を勇気づけた。

 とはいえ体が資本。不意に李岳は空腹を覚えて、何か宴会からくすねてこようと振り返ったが、あるものを見つけて立ち止まった。思わず苦笑がこぼれかけたが、それをため息で相殺して声をかけた。

「美兎様」

「う」

 不意打ちに驚いたろうが、繕う気もなかったようだ。柱の影から小柄な姿は現れ出ると、居心地の悪そうに視線を泳がせている。盗み見したことを悪いと思っているのかもしれなかった。

「さ、さすがだな冬至! 私の隠密を見破るとはっ!」

「……ええまあ、なんとなく」

 李岳は誤魔化すようにあさってを向いた。

(耳が見えてた、なんて言えるわけないよな)

 李岳がなんとも言えない笑顔を見せると、楼班は両手のお盆を掲げてよってきた。そこにはいくつか料理が載っており、見るだに腹の虫を刺激した。二人で椅子と机に移動した。饅頭に漬物、そして白湯だった。酒は傷に触るということで慮ってくれたのかもしれないが、根が飲兵衛の李岳には少々物足りなかった。

「途中でいなくなったから、空腹かと思ってな」

「ご慧眼恐れ入ります」

「むう」

 だが楼班は一度差し出した盆を渡すまいと背後に回した。そして拗ねたように頬をふくらませている。

「……えーと、なんでしょう」

「ま、真名を交わしたというのに、よそよそしいじゃないか! 敬語もそうだし、様づけだし……」

「いえ、ですが、美兎様」

「聞こえない聞こえない」

「……いやもう慣れないんですよ! わかってくださいよ! 烏桓の王族の方の真名って漢人に比べても普通とは違うじゃないですか。だからその……」

「つーん」

「……えーとその」

「名前」

「……」

「な、ま、え」

 意を決したように李岳は言った。

「――美兎」

 蚊の鳴くような声であった。楼班はお盆をつきつけると大声で笑い始めた。

「……ふふ! あはは! まあいい、許してやろう! ――しかしそんな面白い表情で真名を呼ばれることになるとは思わなかった!」

 やり込めて喜んでいるのだろうが何がそんなにまで面白いのか、楼班は腹を抱えては耳をぴょこぴょこと動かして笑った――助かった、と李岳は汗ばんだ額をこっそりと拭った。なかなか常には味わえない緊張感だった。

 二人は机に向かい合って座り、李岳は夕餉を取った。

 一つ一つ口に含んでゆっくりと咀嚼した。胸に打ち付けられた一撃が意外な程痛み、体の芯でまだ残っている。嚥下する度に鈍い痛みが胸の辺りを走ったが、それをこらえて李岳は食事を続けた。楼班は宴会の席で済ませたのだろう、酒も口にしたようで耳までほんのり赤い。今回の戦の殊勲の筆頭とも言えるのだ、皆、楼班には感謝している。烏桓の助力がなければどうなっていたか、考えたくもない。

 全てを平らげることは出来なかったが、程々に片付けると李岳は居住まいを正して楼班に礼をした。戦が落ち着いたあとも仕事に追われ、ようやく落ち着いて話すことができる。李岳はあらためて感謝を述べた。

「此度のご助力、まことにありがとうございました」

「いや」

「……烏桓の助力がなければ全滅していたに違いありません」

 楼班は照れくさそうに頭をかいている。

「護烏桓校尉からの要請だ。否やはないさ」

 護烏桓校尉は公孫賛だが、そこまで気を利かすだろうか、と李岳は考えた。おそらく趙雲の差金だろう。脳裏に「してやったり、ふふん!」と鼻を鳴らす青い髪の戦乙女の姿が思い浮かんだ――また借りが増えた。借りてばっかりだ。いつか首も回らなくなるんじゃないか――李岳は決して忘れないと心の帳面に書きこんでおいた。

「とはいえ、二万騎もの精鋭を率いて参戦いただけるとは」

「いや……そなたの危機と聞いて……その、借りを返したかった」

「美兎様、借りというのならこちらこそです。どのように返せばよいか」

「違うんだ、私だってそなたに全てを返すことができたか」

 李岳は再び礼を取ろうとしたが、楼班も同時に頭を下げようとしており、二人して思わず笑ってしまった。

「礼はいい。本当に! それにこれは烏桓族の総意でもある。大きな乱など望んではいないのだ」

「……説得していただいたのですね」

 照れたように俯いて、楼班は小さく頷いた。

「力になれたのなら、よかった」

 顔を上げ朗らかな笑みを浮かべた楼班に、李岳は思わず胸が締め付けられた。なぜだろう、と自分で思った。誰かの優しさに、心が容易く感傷的になってしまう。きっと月明かりが自らの意識をたぶらかしてしまったのだろう、と考えた。

 李岳は立ち上がり、未だ戦闘のあとが生々しく残っている砦の先に歩いた。岩、血糊、矢の跡……城壁の傷み具合を確かめるようにそっと手を這わせた。

「……多くを死なせました。私の力不足です。どこかで侮っていたのかもしれません。万全の策を献じた、これで敵を翻弄出来ると……自覚はありませんでしたが、今になって思えば驕っていたのですね。恥ずかしい話です。おこがましいとさえ言える。於夫羅は勇者でした。私は彼を侮り、ともすると味方を全滅させかねませんでした」

「そうだな」

 楼班は甘い言葉は一つも言わず、それが李岳にはありがたかった。

 於夫羅に対する怒りはもうなかった。戦士として戦い、散っていった。見事な死に様だったと思う。用兵も流石に匈奴の王と言えるもので、やはり今回漢兵が勝利できたのは多くの僥倖があったからなのだと思った。遺体は丁重に包まれて郷里へと運ばれていった。

 これから匈奴の勢力図、権力構造はどうなるか、恐らく匈奴の単于はすげ替えられることになるだろう。すぐさま他の単于が立つか、しばらくは数人の王によって治められるのか。卒羅宇が単于となることは難しいだろうと思えた、流石に血筋の面で説得力が乏しい。

 大草原を見渡していた瞳を楼班に戻して李岳は話題を変えた。

「ところで、丘力居大人はお元気ですか?」

「ああ、元気も元気。今回も付いて来ようとして大変だった。違うというのに何度も何度もそなたを」

「え?」

「……いや、その、なんでもない……忘れて……」

「はあ」

 突如口ごもった楼班だったが、忘れろというので李岳は気にしなかった。立ち上がり両手を思いっきり突き上げて伸びをした。左肩は突っ張るが、気怠さがだいぶましになっており、心地良い眠りを誘うものに変わっていた。楼班が気を使ってくれたおかげで心の凝りがとれたのだろう、と思った。

「これからどうするのだ?」

 楼班の問いに、李岳はしばらく考えてから答えた。

「丁原様は執金吾に就任するため上洛します。それについて行きます」

「洛陽へ……なぜ?」

「陰謀がありました。匈奴はそれに乗せられたに過ぎません……その根を断ちます」

「……劉虞?」

 はっとした。張純をそそのかしたのは幽州刺史劉虞だということを公孫賛から聞き及んでいる、そのことに李岳は考えが及んでいなかった。楼班の瞳にかすかに火の粉が灯ったのを李岳は見た。

 そう、張純をそそのかした劉虞が匈奴をそそのかさない理由などないのだ。一体何の目的で、どういう手段で煽りたてたのか未だ見当もつかない。しかし嫌な予感がする。李岳も楼班もそれをひしひしと肌で感じているのであった。

「――幽州刺史がどれだけ根深く今回の陰謀に関与しているか、私にはわかりません。黒幕なのか、さらに影に潜むものがいるのか。あるいは無関係なのか……まずはそれを確かめます」

 楼班には言わなかったが、李岳の内心には天下の情勢に関する燃えるような関心があった。生まれてこの方押し殺してきた感情でもあった。なぜ『三国志』の世界に生まれ直したのか。その理由を見つけることが、生まれてきた理由を知る一歩目に違いない――こうなったらとことん関わってやる、父の言葉のままに飛んでやる――李岳の心にはもう安穏と隠遁する、という言葉は消え去っていた。

「私に出来ることなら何でもする。いつでも言って欲しい」

「――ありがとう、美兎」

「う」

 不意打ちに戸惑った楼班をからかって李岳は階下に逃げた。照れ臭さがあまってとうとう耳まで真っ赤になった楼班が怒って後を追いかけてくる。鴈門山にかかる月は変わらずに煌々としていて、二つの影が舞台劇のように軽やかに踊った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 匈奴本国の中枢、単于庭まで残り三十里と迫った頃、南方から合図の狼煙が上がった。漢へ侵攻しようと南下していた匈奴の軍勢が幽州兵の北進に気づき兵を分けたという合図であり、同時にその後背を狙って走り始めたという知らせでもあった。公孫賛率いる『白馬義従』はかねてより申し合わせていた通りに反転すると、全速力で帰参の途についていた。快進撃を続けているとはいえ所詮数千の軍勢である、敵地にて万を超す軍勢を相手取るには何もかもが足りない。

 撤退をはじめて数日後、さらなる続報は届いた。匈奴の全兵が帰国の途についたという報告である。大軍に立ち向かった并州兵は一歩も引かず、半数が討ち取られるという激甚な被害をこうむりつつも、駆けつけた烏桓兵の助力もありとうとう敵将於夫羅を戦場にて討ち取ったという――於夫羅の首を上げた男の名は、李岳といった。

 思わず拳を握りこんだのは公孫賛だけではなかった。趙雲も、呂布も、幽州兵の多くも、この戦が漢の危機でありそのために并州の同胞たちが命を張っているということを重く受け止めており、夜営のさなかの知らせに歓喜の雄叫びは陣幕を貫いて夜に轟いた。

 すでに軍勢は幽州に入り後は城に戻るだけであったが、公孫賛の許可を得て近くの村から買えるだけの酒と食べ物を買い取っての宴会となった。もはや敵襲の恐れはなく、当直の歩哨の者以外は思い思いに火を焚き車座に囲んでは武勇談義に花を咲かせた。

 公孫賛、趙雲、呂布の三人もまた同じように火を囲み、保存食としてこしらえた味気ない兵糧を除けば久しぶりのまともな食事に舌鼓を打っていた。

 成るか成せぬか。きわどい策だったがどうにかものにすることができた――烏桓への援軍要請が役に立ったということもあり、趙雲も公孫賛も祖国防衛に一役買えたと内心満ち足りていた。飯は美味く酒も進む――だが一人だけいつも以上に口数少ない者がいた。黙って口に食べ物を運んでいるだけの呂布に、趙雲はおもむろに話を振った。

「よかったな、恋。李岳殿はご無事のようだ」

 二人、そして公孫賛も合わせて戦場を共にした三人は既に真名を交わし合っていた。戦場に肩を並べて立ち命を預けあった戦友なのである、万の言葉を交わすより多くのものを既に交換しており、真名のやりとりも自然な成り行きだった。

 趙雲の言葉に、呂布は一度だけ深く頷きを返した。もっと喜ぶのではないかと思っていた趙雲にはささやかな反応が意外であった。

「嬉しくないのか?」

「嬉しい」

 その言葉は本当だろうと趙雲も公孫賛も思ったが、呂布の顔を曇らす物憂い影は晴れる気配がない。趙雲は薪を二本三本と火にくべた。パチリと乾いた音を立てて火の粉が散る。舞い上がった炎が呂布の表情を一瞬だけ明るく照らし出した。

「恋は、これからどうするつもりなのかな」

「李岳殿の元へ戻るんじゃないのか?」

 趙雲の問には公孫賛が答えたが、呂布は首を振った。

「良いのか?」

 趙雲の言葉にも呂布は首を振る。

 呂布はなぜ李岳が自分を突き放したのかずっと考えていた。戦えるのか、と李岳は呂布に問うていたが、呂布は答えることが出来なかった。趙雲に誘われて生まれて初めて戦場に足を運び、匈奴の支配する北の大草原で初陣を飾った。盗賊を叩きのめすとは訳が違う、本物の戦場で。

 一つ一つ、自分の中にある言葉を探り当てては彫り出すように呂布は言葉を紡いだ。自分が落としてきた小石を拾い上げるように、風にさらわれてしまった花びらを掴みとろうとするように。

「冬至には会えない。冬至は、匈奴と戦うって言った。恋はすぐに戦うと言えなかった」

 趙雲も公孫賛も黙って聞いていた。兵卒たちの歌が響いているが、その喧騒も全く耳に届かない。長い沈黙を挟んでポツリと言葉をこぼす呂布を辛抱強く待った。

「星」

「ん?」

「恋は変わりたい」

 再び火の粉が舞う。呂布の顔からわずかに影が晴れはじめ、その瞳に力が宿り始めているのを趙雲は知った。

「どう変わりたい」

 呂布はしっかりと考えて、しっかりと自分の言葉を見つけて、小石を拾い、花びらを集め、思いを形にした。

「強くなりたい」

 趙雲はとぼけたようにニヤリと笑った。公孫賛は何を不可思議なことをと首を傾げる。

「もう十分強いじゃないか」

「はぁ……わかってないなあ、白蓮殿は」

「ええ?」

「そんなんだからイマイチなのではないだろうか」

「イマイチ!?」

「そんなんだからモテないのではないだろうか」

「モテない!? ……いや待て! モテは関係ないぞ!」

 二人のかしましいやり取りにクスリと笑って、呂布は再び言葉を紡いだ。

「二人は強い?」

 さあ、と『神槍』と名高い『常山の子龍』はとぼけて笑った。『幽州の雄』と謳われる『白馬長史』もまた、何のことかと酒に口をつける。

「強いとはどういうことだと思う? 例えば、白蓮殿にとっての強さとはなんだろう」

「民草を守れる力だ」

 酒気を帯びほのかに赤らんだ表情のままだったが、間髪入れずに公孫賛は言った。その瞳に胡乱な様は欠片もなかった。寒さの厳しい遼東に生まれ育ち、父母より受け継いだ身分とはいえ、夏の乾燥と冬の凍土にまともに食物が育たない痩せた土地、そのどこにも甘んじる余地などなく、学んでは鍛え、領民のせめてもの生活を守らんと懸命だった。

 志は三郡を統べる身となっても何ら変わることなく、いやより一層増して公孫賛の心に根付いている。

「星は?」

「弱きを助け強きを挫く。無法を許さず仁愛を守る――正義の味方になりたいのさ」

 趙雲もまた即答した。幼き頃、槍一本で世の中を渡ると誓った。天下無双の頂きに立ち、武の誉れを独占する――だがその根には常に世への憂いがあった。当たり前の人生が当たり前に続くことこそが本道であり、暴虐な理不尽が罷り通る今の世を心の底から憂い、趙雲は武を練磨した。

 奪い奪われる世ではなく、育てはぐくみ合う素朴な世の中――具体的な施策など浮かびはしなかったが、目の前の暴力や邪悪を一つずつ打ち倒していけば、自ずと理想に近づけるのではないか、助力になるのではないかと今でも素朴に、確固に信じている。

「恋、私たちは強いぞ。なにせ負けられない理由があるからな。誰かのために戦える者というのは、自分のために戦う者よりもよほど手強い」

「……ふたりともすごい」

 小石、花びら……上空を見上げて、暗い夜空に散らばる星に手を伸ばすように、呂布は言葉を紡いだ。

「……恋は弱い」

 呂布は嘆息し、俯きかねないほどに自分の貧しさを身に染みて感じた。自分に一体何があるというのだろう。戦えば勝ち、打てば勝つ。されど誉れを感じたことなどなく、わずらわしさが増すばかりであり、匈奴の村で慎ましく生きていればそれで良かったものを兵士の横暴に苛立ったという理由だけで叩きのめしてしまい、全てを見失ってここにいる。

 

 ――たどたどしい語りを、趙雲も公孫賛も微笑ましく聞いていた。

 

「なんだ、あるじゃないか」

「うむ、白蓮殿の言うとおり」

「なにが?」

 キョトンとしている呂布の肩を趙雲はそっと抱いた。

「見過ごせなかったのだろう、横暴を」

 まるで張りあうように反対側から公孫賛がもたれかかってくる。

「子供のために戦った。立派な理由だ!」

 二人に挟まれて窮屈でもどかしかったが、同時に温かく和やかで、ああひとりじゃない、と呂布はほっとしていた。こんなに心が安らいだのはいつ以来だろう、そう、

きっといつも泉の前で二人で遊んだあのとき以来――くせっ毛の少年の姿が呂布のまぶたに浮かんだ。

「冬至も?」

「李岳殿の戦う理由? さあ、どうだろう。いつか直接聞いてみればよいのではないかな」

 いつかまた会う日があるだろうか――いやきっとある、と呂布は信じた。確信と言える程の力強い予感があった。

「そのためにも、己が戦う理由を……戦い続ける理由を見つけるがよい。さすればきっと、強くなったと思える日が来る」

 何かを察したように公孫賛は酒を置いた。趙雲は眼前の娘の変わり様に瞠目し、サナギが蝶に変わる瞬間を目にしたかのような感動を覚えていた――滲み出るような覇気が隣の少女から漏れ出しているのだ。それは静かで大人しくあるいはかすかなものでしかなかったが、だがそれゆえに山脈のように雄大で、地鳴りのように力強かった。

 目の前の少女は戦場で誰よりも強かった。弓矢を扱わせれば二、三人まとめて貫く剛弓豪矢を放ち、戟を振るわせれば立ち塞がる者全てを薙ぎ払った。しかしどこかで儚さ、脆さを感じたのも確かだった――だがどうだ、自らを弱いと認めるこの娘のどこに脆さがあるのだろう! 迷いなき強さなどない。この目を見るがいい!

「強くなりたい……!」

 その瞳には、天空の星のような煌きが映り込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雁門関には常時の守兵を残して并州兵は丁原を先頭に晋陽へと戻った。烏桓兵の出立の二刻後であった。

 満身創痍の者も多い。行軍は遅々としたが、どの顔も晴れやかだった。戦勝の軍だ、勲に謳われても良い勝利を得た。天空の青空のように誇らしく、凱旋の歩みは森の大木のようにしっかりとしたものだった。

 やがて晋陽の城門が近づいていた。だがどうにも異様な雰囲気に包まれており、丁原も張遼も顔をしかめた。正門に多くの兵卒と民が群れており、常に無い不穏さでざわめいている。残り半里を切ったというところで、その異様さの原因を丁原は理解し、馬腹を蹴って単身疾駆し始めた。慌てたように追随する張遼、李岳以下の并州兵。丁原の表情には憤怒の化身のような怒りの表情が刻まれていた。やがて張遼も李岳も城門付近の異常さに気がつくと、狼狽を隠し切ることが出来なかった。

 

 ――城門には留守を任されていたはずの張楊が体を縄でくくりつけられて吊るされていた。

 

「誰の仕業だ」

 静かだが、地響きのように人を震え上がらせる丁原の怒声が周囲を圧した。守兵も民も皆恐縮、畏怖し頭を下げる。丁原の命令で慌てて縄が切られ張楊の体が地に寝かされた。息はあるようだが顔は真っ青に憔悴し、一筋二筋交じるだけだった白髪が頭髪の全てを覆っている。意識はないようだが脂汗がとめどなく滲み、どれほどの長い時間吊るされていたのか、生死の狭間を彷徨っているのは確かだった。

「――誰がやった」

 丁原の質疑に守兵の長と思わしき女が進みでて告げた――張雅叔様は自ら己を吊るせと申されました、と。

 そのときだった。瀕死の体であったはずの張楊ははっと目を開けると、幽鬼のように飛び上がり丁原の膝元に平伏して叫んだ。

「殺してください!」

 乾ききった口内のまま叫んだからか、口元からかすかに血が滲んで飛んだ。何を言っている、という丁原の声に張楊は重ねて叫んだ――殺してください!

「私が、私が作戦を漏らしました! 私は内通者なのです! 匈奴の手先に別働隊が於夫羅を狙うことを漏らしたのは、私なのです!」

 周囲が否応なくどよめいた。作戦が漏れていた! 内通者は丁原の信頼厚い張楊であり、李岳の献策の肝が秘匿であると知りながら別働隊の存在を於夫羅に明かしたという。張楊は丁原の足元で石畳に何度も何度も頭を打ち付けながら叫び声を上げた。

「殺してください! 罰してください!」

 天地に慟哭しながら張楊は絶叫し、やがて雷に打たれたかのように白目を向いて痙攣するとそのまま意識を失った。息はある。だが一体何がどうなって張楊は作戦を漏らし、そしてこんなにも錯乱しているのか――怒りよりもまず疑問と困惑が押し寄せ、丁原は守兵を呼ぶと事の顛末を質した。

 曰く、并州兵が出立した二日後の朝、張楊はいきなり屋敷を飛び出すと詰所に押し入り、今すぐ自分を城門に吊るせと叫び始めた。剣を振り回し逆らえば命はないと叫びながらで、兵も従わざるを得なかった。吊るし上げられている最中に幾度も意識を失う張楊、その度に地に下ろして介抱しようとするが意識が戻れば再び剣を振り回して吊るせと叫ぶ。それを既に何日も繰り返したとのこと。

「なぜだ。張雅叔はなんと言っていた」

「一度だけ、ご妻子が人質になった、と」

「――なんということだ」

 沈黙が周囲を包んだ。敵に情報を漏洩したとなれば斬首は免れ得ない罪だ。だが妻子を人質に取られたというある種の究極の事態に陥ったとなれば――

「人質にされた家族は無事なのか」

「お命は。ただ……」

 答えていた兵士が口ごもった。容易に答えることは出来ない状態だというのか。張楊は線の細い男だが胆力に優れ義に厚く、例え家族を人質に取られたとしても易々と機密を漏らしたりはしない。その張楊が思わず口を割ってしまった――拷問、という単語が脳裏に浮かび、丁原は眉根を寄せて天を仰いだ。己にではなく、家族への拷問。想像を絶する葛藤の果てに、張楊は機密を漏洩し、そしてその慙愧の念がために死を賜ろうとしているのだろう。

「自裁は許さん」

 丁原は誰ともなく言った。そして二、三人の顔を見知った兵卒を呼び寄せると張楊を居室に押し込め休ませるように厳命した。

「……情報漏洩は罪だが、沙汰は追ってしよう。武器は没収し、見張りを絶対に離すな」

 自殺を防ぐための人員だったが、表立って気を使えば張楊の自責を加速させかねない。裁きを待てといえば思いとどまるかもしれない――そんな一縷の望みに賭ける他なかった。

 想像だにしていなかった異様な事態に、どこか浮き足立ったような落ち着かない雰囲気に誰もが包まれていた。戦勝の浮かれ気分などとうに雲散霧消している。やはり陰謀はこの地にまで伸びていた。そして手を下したのは明らかに匈奴の者ではなく、獅子身中の虫とも言うべき誰かなのだった。匈奴の者が人知れず晋陽に忍び込み、第二位の席次のものの家族をかどわかすことなど到底出来まい。動乱の呼び水として匈奴を誘引しようとした者がいる――

 おそらく并州と司隷の境付近に放たれていた隠密の者が、上洛するために出立したはずの并州兵がいつまでも通過しないことを不審に思ったのだろう。匈奴の攻撃を防ぐために見せかけの南下後すぐさま反転し、鴈門目掛けて北上を開始した并州兵――闇の者は目まぐるしく蠢いただろう。鴈門の防備が固められているという知らせを届けるには間に合わなかったが、その作戦の内容を知るべく急遽留守を預かった張楊の元へ人をやった。そして下手人は張楊にではなく、その家族を痛めつけることで口を割らせた。

 おぞましい。丁原は率直にそう感じた。武人の為すことではない。これより執金吾として上洛する道を歩むことになるが、そこには一体どれだけの毒が滴っているのだろうか。

 漢に潜む闇の手が這い回っている。丁原、張遼――そして李岳も、その冷たい手がヒタリと首筋を撫でたような悪寒を感じ、身震いを抑えきれなかった。

 南からの風が吹いてきた。夏に近づいている。風は湿り気を帯びており、いずれ大いに雨を降らす暗雲となるだろう。

 魔都・洛陽からの風が吹いている。


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