真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第二十七話 張貘

 午前中は夏侯惇の指揮する調練を見学した。

 巷の賊であれば倍する相手であっても決して遅れを取ることのない強さはあるが、敵が賊とは限らない時代がすぐそこまでやってきていることを曹操はひしひしと感じとっていた。ある地域を支配している諸侯、群雄らが率いる軍隊――統率が取れ武装も充実している正規軍と干戈を交えることになるのはそう遠くない。であるのなら、今以上の精強さを曹操は欲した。夏侯惇は主の意を汲んだように懸命に兵を鍛え上げようとしている。

 夏侯淵は(エン)州に残してきた。陳留郡の治安と内政を任せるには他に適任がいない。まだまだ人材が足りない、と(ほぞ)を噛む思いではある。夏侯惇の訓練は野営の支度までが含まれていて、兵たちは息も絶え絶えに走りまわされた後に天幕を張り飯炊きをしなければならない。昼食時くらい総大将の監視から外れてもよいだろう、と思って曹操は洛陽場内に馬首を巡らせた。治安はよい、十騎ほどの供だけを連れて自らが起居する屋敷へと戻った。

「……で、どうして貴方たちがいるのよ」

 いるはずのない先客に自室で迎えられて、曹操はこめかみを揉んだ。

「あらっ! もうちょっと素直に喜んでもよろしくてよ! せっかくこの袁本初がわざわざ……わぁざわざ! こんな手狭で窮屈でちんちくりんなお家にやってきて上げたのですから!」

 おほほほ! と頭痛を覚えるような笑いを上げるのは袁紹である。黄金色の豊かな巻き髪、たわわな胸がその度に揺れるのに曹操はうんざりした。

 

 ――四世に渡って中華の統治機構の頂点である三公を排出した名門袁家。その頭領として堂々たるは姓は袁、名は紹。字は本初。河北随一の豊かさを誇る冀州を盤石の態勢で付き従え、さらに北方四州に存分に影響力を及ぼし始めている大勢力の頭目である。その名と勢力に心酔し、集う名門、俊才、勇者は数知れないともっぱらの噂であった。

 

 とうの本人に未熟な点も多く、だが同時にそれは伸びしろがあるとも表現できる。決して侮ることが出来る相手ではないが、現状、誇り高さだけ頭領の格に見合っている、と曹操は思っていた。

「勝手にやってきた上に勝手にお茶まで飲んでるくせに、ずいぶんな言い草ね本当……そして京香。貴女まで一緒だなんて」

 もう一人の来客に向かうと、曹操は溜息をはいた。

「まぁ、そう怒らないでよ華琳」

「なら、元から怒らせるような真似をしないで欲しいわ」

「うふふ。お茶がしたくなっちゃって、私が麗羽を誘ったの。ごめんなさい」

 ぺろりと舌を出して謝ってはいるが、悪びれた様子などない。だというのに憎めず、むしろかすかなときめきを覚える程の愛嬌が彼女にはあった。

 目の上で切り揃え、腰まで伸ばした黒い髪。少しだけ垂れ下がった瞳は優しさと思慮深さをたたえ、白地に黒の着物を身にまとっている。一見地味だが絹の一本一本にまで意匠が尽くされた贅を凝らした一品である。その見事な調和たるや天下の大都市・洛陽においてでさえ比するものが見つからない。慎ましき美、たおやかな智、清冽な気、誰もが恋に落ちてしまう愛らしさ――『漢の八俊』と謳われる名士の一角であり、騎都尉として曹操と共に洛陽を守護した同僚でもあった。

 

 ――姓は張。名は貘(バク)。字は孟卓。真名の京香は友である曹操と袁紹を含め、未だ五指の者にしか許してはいない。※

 

「京香さん、そんなちんちくりんに申し訳なさそうにせずとも良いのですよ!」

「あら」

「むしろわたくしたちを(もてな)す栄誉を光栄に思うべきなのですわ!」

 袁紹はフンと曹操に向かって鼻を鳴らした。袁紹は度々こうして曹操を小ばかにしたような態度に出るが、それは曹操が宦官の家系であるということを卑しいものとして見下しているからだった。

 曹操は常なら相手にしないが、虫の居所が悪い時などは我慢の限界に至ることもある。今日は大人しい方ではない。はっきりとした怒りが胸のうちでとぐろを巻くのを感じたが――

「――私、そういうこと言う人好きじゃないわ」

 にこりと、小首を傾げて張貘は微笑んだ。袁紹の顔から笑みが消えて怯えたような表情になる。笑いながら怒る者ほど恐ろしい者はない。張貘はその類の人間だった。

 貧しい者には躊躇うことなく施し、不正には断固として便乗しない。清流派と呼ばれる新進気鋭の名士の中でも殊に見事な魂魄の持ち主であると囁かれる張貘だが、その怒りが人並み以上に冷酷なることを知るものは少ない。誰もが口ごもるからである。

 もごもごと袁紹が言い訳をこぼしているが、張貘はお茶を口にしながら嫌な間を置いている。

「わ、私は別に京香さんに言ったわけじゃないんですのよ?」

「あら、とっても美味しいお茶ね。華琳、これはどちらのかしら?」

「江陵よ」

「素敵」

「きょ、京香さん!」

 まるで袁紹をいない者のように扱い始めた張貘に向かって、とうとう袁紹は涙目になっていた。やれやれ、と張貘は袁紹の手のひらをそっと握ると、羽衣のように滑らかな髪さらりと流しながら言った。

「麗羽、私と貴女は友達よね」

「もちろんですわ!」

「私は友達が好き。私の大切な親友である貴女が侮辱されたら何をもってしても相手を滅ぼすわ」

 滅ぼす、という単語の価値を下げないままこんなに気軽に使う者がいるだろうか。張貘は嘘はつかない。やるといったらやる。物腰柔らかく静かで、深窓の令嬢という風な見た目ではあっても、その性は時として峻烈であった。

「私だって、貴女が誰かに馬鹿にされたら許しませんわ!」

「ありがとう……嬉しいわ」

「京香さん……」

「けどね、麗羽。私は華琳とも友達なの」

 張貘の手は左手を伸ばして曹操の手を握った。どきりとするような冷たい手であった。長くか細い指……その爪の感触が自らの心に食い込んでくるような錯覚を曹操は覚えた。

「麗羽。私は貴女が好き。そして華琳のことも大好き。私たちは友達。ずっとなかよしの三人組。そうよね?」

 張貘の手が動き、曹操の手と袁紹の手を導いて合わせた。普段決して触れ合うことのない手が触れ合い、それを張獏の手が包み込む。

 妙な気分だ、と曹操は思った。袁紹も同感だろう。二人は毛嫌いしあっており、犬猿の仲とも言えたが、こうして張貘の手に包まれれば嫌悪感が薄まり、しっくりと落ち着いた心持ちになる。

 袁紹はやがていつもの哄笑を響かせた後、意を決したように言った。

「……ふん! 大・親・友の京香さんに免じて今日のところはこの袁本初が自らの未熟さを認めて引き下がってあげるのもやぶさかではありませんわね!」

「素直にごめんなさいって言いなさいよ」

「含意を読み取りなさい、含意を!」

「うふふ――なかよしね、本当に」

 誰がこんなやつと! いつものようにきっと袁紹もそう思っていることを曹操は察した。だが全てを包み込むかのような張貘の笑顔が意地のぶつかり合いをぼやけた、よくわからないものに変えてしまう。

(京香……貴女が私の覇道を助けてくれるのなら、こんなにも心強いことはないというのに……そして……)

 臣下として仕えてほしいという想い。同時に、彼女の存在すべてを我が物としたい――自らの内にある強い、抗いがたい程強い欲求を、しかし曹操は未だに告げる事が出来ずにいた。悶々とした思いを何とか御してこらえながら、曹操は席について自らの分の茶を口にした。

 元より曹操に用があったのだろう、袁紹が口火を切って西園軍の閲兵式について切り出し始めた。皇帝直卒の軍勢、その部隊の指揮を預かることになるのだ。名門の頭領として張り切るところがあるに違いない。袁紹の質問や提案はいつになく真剣で熱を帯びたものだった。その話をしたいがために袁紹は張貘を誘ったのだ、と曹操は勘付いた。つまらない意地のために張貘が誘ったと言わせて、あるいは張貘自らがそう言い出したのか。

 

 ――閲兵式。

 総勢二万あまりゆえ一校尉あたりおよそ二千の兵を統率することになる。宮城前の広場を練り歩き洛陽の街を行進する。戦闘ばかりではなく、そういった儀礼の訓練も十分に積ませているので曹操に不安はなかったが、袁紹は武具の映えや装飾の揃いにしか考えが及ばぬらしく、やれ金色の武者備え、やれ流行りの色のひたひれで、などとばかり言っている。少しは行軍の訓練もしなくてはもしもの時に名門としての立つ瀬がない、と張貘に諭されてようやく

「盲点を突かれましたわ!」

「そういう考え方もありますわね!」

 などと精一杯の譲歩でもって考えを改めていた。

 打ち合わせが一段落すると、そういえば、と前置きしてから張貘が言った。

「丁建陽殿に特赦が下りるようね」

「特赦? なんですのそれは」

 丁原の現在の状況について説明しようとすると、袁紹はふてくされたようにぷいっと顔を背けた。

「そんなことはとっくのとうに先刻承知してますわ! あまり侮らないでくださいまし! わたくしが言いたいのはどうして今頃になって特赦が出るのか、ということですわ」

 なるほど、袁本初といえども世情には(さと)いか、と考えた時、ふと意表を突かれたような気になった。

 丁原の釈放は曹操とて何日も前にすでに耳にしている。特に気にはしていなかったが、言われてみればおかしな話だった。半年間獄中にいた。涼州の董卓がその身柄をあずかり軟禁しているという話だったが、本来ならば打ち首になってもおかしくない。

「何か取引があったのかもしれないわね」

 張貘の言葉に曹操は疑問を呈した。

「まさか董卓が動いたというの? おかしな話ね」

「麗羽は今頃といったけれど、ようやく、という方が正しいのかもしれないわ。ようやく段取りがついた。取引や裏工作は半年間ずっと続いていた……」

「そんなに精一杯頑張る必要がどこにあるというんですの? 丁原さんなんて朝廷からぽぽいのぽい、とされちゃった人じゃありませんの。いまさら自由にしたところで」

 曹操の脳裏に一つの予測が立つ。予測は推理という車に乗り、雷光の如く結論という極地へと至る。

「……待ちなさい。董卓は確か今度并州牧に任じられるはずよね」

「そうですわね」

「并州は長く丁原が治めてきた。そして功を立てたというのに弾劾され投獄された」

 なるほど、と理解したように張貘が言葉を継いだ。

「治められていた民や配下の者たちは面白くないわね。蔑ろにされた、馬鹿にされていると捉えかねないわ」

「そんなところに赴任しなきゃいけないだなんて、董卓さんも可愛そうな人ですわね」

「だから取引したのよ」

 そこまで言うとようやく袁紹も理解したと縦巻きの髪を盛大に揺らせて頷いた。

「丁原釈放に尽力する。そうすれば并州は黙って董卓の言葉につき従う。兵力供出も譲歩したのかもしれないわね」

「華琳の言うとおりね、董卓は涼州の手勢を手放すつもりもないでしょう。そうすればこの洛陽において最大勢力を誇ることになる。丁原の兵力は二万そこそこだったけれど、それはあくまで刺史としてのもの。牧の董卓ならさらなる増派が可能」

 曹操の脳裏に一人の男の名が浮かんだ。董卓に条件を提示でき、丁原のために動く者――考えるまでもない、李岳という男が裏で動いたのだ。

「心当たりがあるのね、華琳」

「十中八九間違いないわ、京香。李岳が動いたのよ」

「李岳? 大昔大将軍にまで上り詰めたあの飛将軍の末裔ですの?」

 名門名家の情報にはやはり詳しいようだ、袁紹は李岳、李岳と何度か呟いた。

「けれど何だかヘラヘラして、そんなキレ者には見えませんでしたわ。丁原さんの手柄も自分独り占めだったじゃありませんの。助けるつもりならすぐに声を上げるんじゃなくて?」

 袁紹と張貘の疑問ももっともだ、と曹操は思った。だが他に回答の選択肢がない場合、どれほど歪で不自然な答えであってもそれが正答なのである。

「丁原と董卓は近かった。『涼州の乱』では并州から援軍が出ていると聞いたわ。その伝手を李岳は使ったのよ。洛陽に来てからも両者は近すぎず遠すぎず距離を保っていたのはそれを悟られまいとしたからね。あんまり距離を置きすぎても、周囲からは不自然に映る」

「李岳さん自身が声を上げないのはなんと説明つけますの?」

「私たちの知らない理由がある、としか今は言えないわね。目立ってはいけない理由、密かに動かなければいけない理由がある――」

 何者かと戦っているのかもしれない、と曹操は思った。宦官か、外戚か、あるいは自分が知りえない何者かと戦っている。二十にもならぬ少年が洛陽にて庇護者を失いながらも校尉としてどの勢力にも組み込まれずに奇妙な空白状態の三角州にいる――あるいはそれは戦慄すべきことなのかもしれない。曹操は李岳の面影を思い浮かべて眉を潜めた。

(……とことん不愉快な男ね)

 やがて張貘が呆れたような声で沈黙を破った。

「あらあら。陰謀論も結構だけれど、董卓の勢力を把握する方が先じゃないかしら。涼州の手勢が三万、并州からおそらく五万。執金吾の軍勢三万も今は李岳の掌中にあると考えていいから、その全てが一個人に帰することになるのよ」

「単独で十万以上になるではありませんか!? そんなの、そんなのずるいですわ!」

「董卓李岳による涼并州連合――考えもしなかったわね」

 陳留に帰らなくては――曹操はかねてより決めていたことを実行に移そうと考えた。今はまだ洛陽に片足を置いているが、その全てを陳留に移そう。

 このまま漢が続くのならば洛陽に居た方がいい。出世や栄達はその方が近いだろう。だがこの曹操、治世がいつまでも続くとは考えておらぬ。乱は続発し宦官の専横は大波の如く、税は上昇し民の不満は潜めど確かに盛り上がる一途である。董卓のような地方豪族がそのような強大な武力を単独で保持する軋轢はいずれ顕著になるだろう。宦官と外戚、豪族と名士――勢力争いは血みどろの様相を呈するはずだ。このまま都に身を置いていればいずれはその消耗戦に巻き込まれることになる。自領に戻って力を蓄え嵐に備えることこそが今は求められている。西園軍の運用とて本格化するにはまだ遠い。今度の閲兵式が済めば直ちに司隷を離れるが賢明だろう。

 

 ――奸雄は乱世においてこそ跳梁する。荒れるがよいわ、と曹操は思った。暴風が荒れ狂えば荒れる程、天高く舞い上がる推進力となるだろう。

 

 董卓の勢力拡大に憤懣やるかたない、と気炎を上げる袁紹。彼女を宥める張貘。考えにふける曹操――議論と意見交換はやがて煮詰まり、飽和した空気に疲れたように曹操は遅い昼食を提案した。冬が本番の気配をのぞかせている。暖かい汁物を作るようにと曹操は厨房に申し渡した。

 やがて揃えられた食卓。一口一口美味しそうに食べながらも搾り出すようにケチを付ける袁紹。張貘はそれをたしなめては曹操の料理人を褒める。

 一廉(ひとかど)の勢力者達が一室に集まり世の行く末を占いながら、昼餉を一緒に取りつつ時に他愛のない話を交わらせる、その空間に曹操はわずかな錯覚を覚えた。現実味に乏しい、何か不思議な時間だった。どこか懐かしいような、心細いような――思えばもう長い付き合いになる、ともに学び、ともに育ったと言える。こんな時があるいはいつまでも続くのかもしれない、いや、そんな惰弱な考え方は……

「嬉しそうね、華琳」

「え?」

「笑っているわよ。ね、友達っていいものでしょう?」

 黒い瞳が曹操の内心を見抜いたかのように細められた。暖かい料理でわずかに火照った頬、白い肌に咲いた赤い花のようだった。

 やれやれ、と曹操は思った。困った親友を持ってしまった。頂点を、覇王を目指す己に対してこんなに簡単に優位に立つ人間がいるだなんて。曹操は恋煩っているかのような胸の高鳴りを、どこか誤魔化すように肩をすくめた。

 

 ――遠くない未来。この可憐な乙女を悲しみの業火の中、自らの手で焼き殺すことになるとは、曹操はまだ知るよしもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 賈駆から便りが届いた。特赦は西園軍の閲兵式において成されるとのことだ。

 とうに陽は落ちて冬らしい早足の夜の帳の中、李岳は燭台の明かりもつけずに竹簡を握りしめたまま座り込んでいた。

 暗闇を見つめていれば何か見えてくるのではないかと思った。だが反対に何かがこちらを見つめているような気にしかならなかった。先の見えない、確信のない戦いに身を投じている。推理と疑念の境目さえ曖昧になり、疑わしき者すべてを殺し尽くすことが出来たならどれほど楽だろう。

(……殺し尽くす? 殺し尽くすか……馬鹿だな。洛陽の毒に俺も冒されたか。落ち着け、焦るな。母さんの釈放はほとんど確かだ。廖化の手下が裏も取っている。間違いない……董卓と賈駆は黒幕じゃあない、自分の保身しか考えていない。だからあんな取引を持ち出してきたんだ。今のところ、俺の敵はあいつらじゃあない……)

 岳は膝を抱えて黙念と思考の海に沈んでいた。考えなければならないことが多すぎるというのに、決断をするにはもどかしいまでに不自由である。

 匈奴を誘引しようとした敵の正体を見破る。そのためにはどうしても段珪と畢嵐の身柄がいるが、このまま事が順調に進めばその機会は訪れるだろう。だが心の中にある不安だけが一向に晴れていかない。それはやはり、母・丁原のことがあるからだった。この不安は丁原が自由の身になるまできっと晴れないに違いない。

 洛陽に来て半年、即日逮捕された丁原を獄中から救い出すためにあらゆる手段を講じてきた。賄賂、取引、勧誘、手引き――しかしそのどれもが問題を孕んでおり、真逆、こちらを釣り上げるための罠なのではないかと思えることもしばしばであった。迂闊に手を出せば丁原ごと引きずり上げられくびり殺されてしまうような凄惨な罠である。そしてその罠は匈奴の反乱を画策した者が裏で糸を引いているに違いないという確信が李岳にはあった。

 駄目で元々、董卓に話を持ち込んだ際に賈駆の提案が全てを決した。案の定兵力を欲してきたが、そのお陰で丁原の当面の身の安全を確保することが出来たし、遠からず釈放することも出来る。些細な譲歩だ、兵力など後でどうとでもなる。

(母さん捕縛の非を声高に非難してもらえたのも大きい。そのお陰で俺に目が向かなかった)

 だが、一番助かったことは、董卓がかなり親身になって丁原の世話を買ってでたことだった。自らの名義で牢獄より出し、軟禁という名目で一つの家を与えてくれた。董卓以外には面会は許されないが物品の持ち込みは武器以外許された。李岳自身、そのことでかなり気が休まった。

(本当に感謝してる。恩は返さないと。だが……かなしいかな、油断は出来ない……なんせあの『董卓』だからな。少女だからどうした。人は変わる。賈駆の智謀も侮れない……自覚のないままに操られている可能性だってあるんだ)

 誰が動いているのか、何が目的なのか、宦官か、武官か、あるいはその他の諸侯か――茫洋とした疑問がここ最近になりようやくある種の形を表し始めている。今はまだその輪郭さえ朧げだが、全容が浮き彫りになる前兆を岳は肌で感じ取っていた。

 はじめは雲を掴むような話であった。もがき苦しんだ半年だった。黒山の賊にわたりをつけ、細作を雇い、賄賂の金は全てそこに注いだ。情報を集めることに躍起になり、本心を隠して笑顔を浮かべることが常態化した。一歩一歩、間違いを踏めばすぐさま奈落の底に転落してしまうような危うい登攀を繰り返し、とうとう雲の間近にまで迫ったのである。

 時が近づいている、全ての者の行く末を決める時が。そして、その時が確実に到来することを李岳だけが知っていた。天下を揺るがす青天の霹靂は激動の時代の到来を告げる早鐘となってこの洛陽を動揺させるだろう。その時こそ動く機。鳴り響く豪雷が全ての光と影を塗り潰す時、この手は敵の喉元に伸びてその姿を暗幕の奥から引きずりだすのだ!

 どれほどそうして考えていたか、やがて心配して恐る恐るやってきた陳宮が、暗闇で一人俯いている李岳を見つけて小言をまくし立てながら明かりを灯すまで、思考に耽溺したままずっと座りこんでいた。

「一体何をしているのですか、冬至殿!」

「……ねね」

「こんな暗がりで膝を抱えて、まるで迷子の仔犬のようではありませんか! ねねにあまり心配をかけさせて欲しくないのです!」

「……うん、ごめん」

「謝って済めば校尉はいらないのです!」

 参ったなあ、と李岳は頭を掻いた。昼行灯で通し、任務においては冷血校尉の異名を持ち、鴈門では於夫羅を討ち取った誉れも高き今飛将軍。脱落者続出の過酷な練兵も笑顔で指示する中塁校尉がこの少女の前では形無しだった。

 

 ――洛陽に来てしばらく、自分を押し殺すかのような日々に耐えかねて李岳は一人黒狐と共に夜営に出たことがある。食料と水だけを持って野の山の中で孤独に浸っていた。

 多くの人に囲まれて我が心を打ち明ける友も少なく、先の見えない暗い戦いに身を投じたがために疲れはてていたのだ。一人になることで得られる癒しもある、李岳は久しぶりに焚き火を熾してこっそり買い揃えた種々の材料でもって、得意の天竺鍋を作っていたのだが――それに釣られて現れたのがこの少女と一匹の犬だった。

 姓は陳。名は宮。字は公台。一緒にいるのは犬の張々。

 瞳をきらめかせながらよだれを垂らし、腹の虫で合唱を奏でる一人と一匹を無視することは李岳には出来なかった。郷里を離れて身寄りもなく、このまま飢えて死ぬかもしれない所に不可思議な匂いが流れてきた。嗅いだことのない香りを不審に思いつつも、それが食べ物の匂いに違いないということだけははっきりと理解でき、誘われるがままに現れたとのこと。

 ひとしきり貪った後に満腹の顔で少女は自らの名を名乗り、借りた恩義は必ず返すと元気よく口上を述べたのだった。このままではどのみち餓死する他ない。李岳は哀れに思って連れて帰ることにしたのだが、内心は複雑な思いでいた。

 陳宮と言えば史実において呂布と同腹一心のごとく運命を共にした参謀である。敗残にまみれたとはいえ世に名を残した軍師の一人――試しにいくつか言葉を交わせばなるほどと思える頭の冴えを見せ、自らの知る陳宮に間違いないと思えた。陳宮も李岳を命の恩人として慕い、二人はやがて真名を交わした。音々音といった。その後、陳宮はいくつかの事柄において李岳のよき相談相手になっている――

 

「もうっ! 聞いておられるのですか、冬至殿!」

 上の空であったことが陳宮の怒りにさらに油を注いだようだった。

「聞いてるよ」

「オウム返しだけで済むなら司空はいらないのです!」

「確かに」

 小言にも全くこたえていない李岳に苛立ちを募らせたのか、ぷんぷんと音が聞こえてきそうなくらいのわかりやすい怒りを表現しながら、陳宮は地団駄を踏んでいる。微笑ましい少女だった。戦乱に巻き込むわけにはいくまい、内政や後暗くない計画の相談以外には携わらせないようにしていた。

 史実通りに事が運んだ場合であっても、きっと呂布とも気があっただろう。なにせどちらも動物が好きだ。意気投合するさまが目に浮かぶようだった。いずれ引きあわせてやりたい。史実においての悲劇も事前に知っていれば回避させる事ができるし、なにより極力『紛れ』を起こさないように振舞ってきた。

 

 ――『紛れ』

 

 この先起こる三つの事件が李岳の企みの根幹を成していた。史実は参考程度にしか当てにならないということを李岳は骨の髄から思い知っている。生半可なことを信じるわけには行かないが、人為の及ばぬ歴史的事実というのもある。それを頼みにすることこそが李岳の計画の根本だった。

 皇帝の死。宦官による何進暗殺。そして袁紹による宦官虐殺の三つがそれである。李岳はそれに賭けた。乾坤一擲の賭けを。

 李岳の読みでは年明け早々か、あるいは春。それまでに出来ることは全て行わなければならない。軍事力のほとんどを董卓に譲り渡したが、正式に認可されている三千の兵力がまだ李岳には残っていた。虎の子の軍勢である。この先しばらくは寡兵で全てを成し遂げなければならない。

 ぷりぷりした怒声の合間を縫うように李岳は言った。

「赫昭はいるかな?」

「……今も一緒に孫子を読んでましたけど」

「呼んでくれるかな」

 陳宮は再び小言を重ねようとしたが、李岳の表情が真剣なものに変わったことを察するとため息を一つ、そしてくるりと背を向けて駆け出していった。二つに結んだ髪の毛が呆れたように揺れ動いている。

 やがてやってきた赫昭に対して李岳は言った。

「緊急出動。機動部隊集合」

 赫昭は顔を強張らせて直立、復唱した。そして全速力で駈け出していく。赫昭が屋敷を飛び出していくのを待って李岳も自室に戻った。具足はいつでも着ることが出来るように控えさせてある。それらを身に纏うと陳宮に留守を頼んで厩へ向かい、李岳は黒狐の背にまたがって兵舎へと走った。到着した頃には既に洛陽城内に駐留することを許された一千の部隊が暗闇の中で整然と並んでいた。

「これは訓練である」

 応、と腹の底から絞り出された声が和する。李岳は無言で宮中に真っ直ぐ伸びる洛陽の大通りを疾駆した。後に一千の騎馬隊が続く。まるで宮城に攻め入るのではないかと思える程の迫力だった――いや、まさに宮中に攻め入るための訓練なのである。袁紹による宦官虐殺に便乗するための、混乱に乗じるための極秘の訓練なのだった。

 やがて西に馬首を巡らせると城門から郊外へ飛び出した。そのまま二刻、隊列を小刻みに入れ替える騎馬隊の訓練を繰り返した。

 騎馬隊は日々当直を入れ替えてはいるが、必ず誰もがこうした緊急出動の訓練を行わせている。遅れる者がたまに出るが、二度の失態で騎馬隊からは除名にした。容赦はない。李岳は機動力を何にも増して重要視しており、部隊訓練を責任持っている赫昭もそこに重点を置いて指揮を執った。

 朝日が上るまで李岳は部隊を引き連れて駆け通した。黒狐が嬉しそうに嘶きを上げて河北の平原を威かせる。黒狐もすっかりこのあたりの風土に馴染んでいる。特に朝靄の中を泳ぐように駆けるのが大のお気に入りのようであった。だが馬上の主の心はいまだ曇ったままで、立ち込める暗雲の濃度に窒息するかのようであった。

 閲兵式は二日後に迫っていた。まずは一つ目の賭けである。仕込みは済んでいる。後は脚本をなぞるだけだ。

 蒼天は見事なまでの快晴であった。




※『貘』は機種依存文字回避のための当て字です。

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