真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第三十一話 新たな御代、思いは交叉せり

 皇帝が崩御した。重たい雪の日、見渡す限り積雪するほどの寒い日のことだった。その知らせを聞いたとき、李岳は誰にも聞こえない小さな声で、一つ目、と呟いていた。

 三国志のようで三国志ではない歪な世界。そこで戦い続けるのであれば、歴史の知識はどうしたって活用しなくてはならない。けれど微妙な齟齬を無視して決断を下せば、自分だけではなく多くの人の死を呼び込むことになるであろうということも、李岳は雁門の戦いにおいて学んでいた。

 重要なのは何が起きて何が起こらないのか、その判別であった。歴史の確度、と李岳は呼ぶ。確度の高い歴史に基づいて行動を起こすのが肝要なのである。すべての事象を把握している、などという傲慢は捨て去るべきだった。大体『三国志』というもの自体、数十年後の人物が聞き取りなどによって得た情報を編纂したに過ぎないのである。過信はあまりにも危うい。

 その中でも特に確度の高い史実を李岳は選り分けていた。拠り所は一つ。皇帝にまつわる歴史である。

 皇帝の生死に関する情報は国の根幹を左右する。どこそこの乱、どこそこの戦いなどに比べて格段に情報の価値が違う。『三国志』を編纂した陳寿も、また他の歴史家も絶対に間違えてはならない個所として考えていただろう。

 史実通りの時期に死んだのか、李岳にはわからない。だが重要なのはその後だ。

 皇帝が死ねば、即位がある。皇太子劉弁である。史実ではそこから劉弁の血筋に依拠した外戚派閥と、旧態依然とした体制派である宦官との間で熾烈な闘争が繰り広げられていくことになる。

 その末路もまた、李岳は知っていた。宦官による大将軍何進の暗殺、それに逆上した袁紹による宦官の虐殺……残りの二つの事件ももう遠くはないだろう。

 この三つの史実こそ、李岳は最も確度の高い歴史だと判断した。もちろん知っているのは間違いなく李岳だけ。なればこそ間隙もあろう、その時こそ動く機なのだ。ただ、どこまでも浅ましい。卑劣なのは自らも決して変わるところはない、と李岳は自嘲した。人の死を願望し、期待している己の卑劣さを、李岳は降り積もった雪のために白く白く塗りつぶされた洛陽の街を眺めながら、苦く苦く噛み締めた。

 

 ――即位式まで間もなく。薄暗い日であった。李岳は声を上げた。

 

「儀礼兵、整列」

 艶やかな色彩の鎧をまとった執金吾麾下一万の部隊が隊伍を整える。練度は高いとは言えない。だが儀礼程度なら勤まるだろう。隊列の指示を下して、李岳は天空を仰ぎ見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曇天。厚い雲は日差しのほとんどを遮っている。昼だというのに薄暗い。吉日である。だが天は人の世の吉を笑顔で迎え入れはしなかった。

 空を仰ぎ見ていた視線を地へと戻した。祭礼を司る官たちが口々に祝詞を謳っている。寒さに震えながら懸命に口と舌を動かしているが、何を言っているのかいまいちよく理解できない。風が強いのである。人々の熱を奪い去る程の強い風である。降り積もった雪をまるでチリのように吹き飛ばしては視界を眩ませる強い風……

 母もこの冷たい風に耐えていたのだろうか、と思うと、どうにもいたたまれない気持ちになる。祖母も、そのまた先代も、偉大な高祖に至るまで全ての(すめらぎ)が! ――順番が回ってきた、ただそれだけの話なのかもしれなかった。

 だが歴代の皇帝の中でも己はことに惨めである。突如崩御したがために急ぎ即位が叶ったが、先帝の遺勅には己ではなく妹を継がせよと記されており、まずはそれを隠蔽するための暗闘をせねばならない――このような哀れで、惨めで、寒く、孤独な席をあのように可愛い妹に押し付けられるはずもない――この席は私のものなのだ!

 気づいた時、祭事(まつりごと)はすでに終わりにさしかかりつつあった。朝廷を支える数千人が一同に居並び祝辞を合唱している。周囲を守るは万を超える禁軍である。少女は玉座に着き、その名を宣言しなければならない。なんという宿業、宿痾(しゅくあ)だ。祝いの言葉は呪いの言葉にしか聞こえない。

 言葉通り、まさに今一人の人間が神に準じるものとして祭り上げられている。この病を、このおぞましき絶望を、一体他の誰に味わわせられるというのだろうか。誰にも譲ることなど出来はしない。ましてや愛しき我が妹などには決して……ああ! この椅子のなんと冷たいこと!

「朕が、新たな皇帝――劉弁である」

 万雷の呪いが世界を覆い尽くした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――同刻。離宮にて。

 

 劉岱は式に参列することすらなく、自室にて黙考に耽っていた。

 予想外の事態が起こった。まさか皇帝がこんなにも早く身罷(みまか)ることになろうとは。五年生きることはなかろうと思いつつ、少なくとも二年は時間があると踏んでいた。見積もりが甘かったと悔いるところがある。

「ま、悩んでも仕方ないんじゃないかな」

 弟の劉遙が枇杷(びわ)を齧りながら興味なさそうに呟いた。あっけらかんとした性格は劉岱以上で、何かに思い悩んでいる節は数えるほどしか見たことがない。

「はぁ、紗紅。お前のそういうところが時折羨ましい」

「ま、僕は先帝とはあまり関わりなかったからね、他人事だもん。しかしまぁさくっと死んじゃったね。兄様の責めが厳しすぎたんじゃないかな」

「どうだろうな」

 夜のことを思った。先帝……諡号を孝霊皇帝とされた劉宏は、劉岱の手管により籠絡された。不憫な女だった、自らの夫は次代の争いに腐心するばかりで宦官の好奇な視線から身を守る術も知らず、少し手を出すだけでボロボロと崩れ落ちる程の弱さだった。責めるだけ責め尽くした後に、優しく語りかけてやれば何とでも言うことを聞いた。詔勅の一つや二つ意のままにできたのである。

 潔癖な心を保とうとする様もまた劉岱の嗜虐心をくすぐった。特にあの李岳という男と勝手に謁見を持ってからの夜の営みは激しさを、残虐さを増した。直接的な死因というわけではないだろうが、短命に拍車をかけた可能性は否めまい。

「くよくよしても仕方ないよ、前向きに行こう」

「いいこと言うな、紗紅」

「瑠晴兄様に褒められた!」

 嬉しさ余って、劉遙は枇杷を握りつぶしてしまった。飛び散った汁を舐めとりながら嬉しそうに笑い声をあげる。赤い舌がチロチロと掌を這った。

 さて、と劉岱は考えた。とにかく動かねばなるまい。本来ならば先帝の遺児である劉弁、劉協の二名の心に食い込んでから死んでもらわなければならなかった。だがそれを待たずして劉宏は死んでしまった。

(最後の親心のつもりか? フン!)

 もう一度皇帝……今即位したばかりの劉弁の心に食い込むのにはかなりの時間を費やすだろう。となれば田疇の持ち込んできた策を用いる他ない。段取りも何も行ってはいないが、現実的な方向ではあるだろう。

「陳留王の手札を切るかな」

「お。(エン)州刺史」

 陳留は(エン)州にある。今上皇帝の妹であり、英邁と名高い劉協。なるほど、籠絡するのならばこれほど面白い相手もいまい。

 劉岱は再び黙考した。陳留王をかどわかし、手に入れ……そう、そうなれば今の帝は廃し新たな皇帝として据え置くことになるだろう。即位式のその日に廃位のことを考えるとは、なんという不義か! 劉岱は思わず腹を抱えてしまった。陳留王を即位させるべしという動きは蹇碩を使えばよい。仕込みはとっくに済んでいる、劉岱の言うがままに書かれた霊帝の遺勅を馬鹿みたいに忠実に実行しようとするだろう。

「愛とは悲しいな、紗紅」

 そう、あまりに悲しい。それはいつでも無残に打ち砕かれてしまうものだから。

 劉遙は興味なさそうに二つ目の枇杷を剥き始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 即位式より五日後。

 世知辛いことに、死は仕事をもたらす。洛陽中に散らばった絵師、彫刻師、金細工師が呼び集められ霊帝の功績を称える作品を(こしら)える。厳粛で哀切な雰囲気に包まれながらも、それに不釣り合いな押し殺したような活気が往来していた。

 新帝即位の祝い事を催すことになるのだからもう少しはっきりと明るくなってもよいのであるが、時宜の情勢というものもある。街は人の目を窺うようなどこか窮屈な活気さで包まれた。

 官軍とて同様である。陰鬱な空気は犯罪や暴動を誘発しかねない。執金吾以下実働部隊として李岳の幕僚もまた多忙な日々を送っていた。

 張遼、赫昭ともに執金吾直属の副官である丞に抜擢された。それぞれ一千石の扶持を賜る立派な高官である。二人ともとんとん拍子の出世に現実感が湧かないらしく、目をぱちくりさせていた。だが嬉しいことばかりではなく、幕僚の選抜から面通し、配属の手配に至るまでの手続きで皆きりきり舞いになった。令、侯、都尉をはじめそれぞれに副官がつく。それをいちいち選抜するのは多大な労力を用いるが、洛陽の現状を見るに適当な人員を放り込むことも厳しいものがある。

 仕事は山積している。が、その全てが事務仕事であるが故に、并州からやってきた実力集団は途端無力化し、何もなせぬ烏合の衆と化してしまった。

(予想以上の脳筋集団であった……)

 そもそも書類仕事をやる気のない張遼、やる気はあっても一枚の書面を読みほどくのに半日かかってしまう赫昭……彼女たちに官吏としての能力を求めるという方が酷なことであり、不適材不適所でしかないということを早々と察した李岳は、単身まさに忙殺としか言い様のない日々を送っていた。

 二人には兵の訓練に没頭してもらう方がよい、と李岳は判断した。霊帝の葬儀、続いて行われる新帝の即位式においても執金吾は儀仗兵の役割を兼ねたが、いかにも警備兵どまり、というものであった。この兵たちを従えて戦に臨む勇気は李岳にも張遼にも赫昭にもなかった。

 だが事態は切迫している。黄巾賊の跋扈は日に日にその酷さを増し、李岳に出撃命令が届く日も遠くないのである。だが就任早々部隊編成は遅々として進まず、李岳軍は発足して間もなくにして既に戦線崩壊の危機に直面していた。

 董卓と賈駆に頼み込んで何とか数人の文官を派遣してもらいはしたが、彼、彼女らはあくまで李岳の命令を聞くだけであって判断を下したり提案を寄越したりすることはしない。裁可に立案、その全てを李岳が行わねばならず、食事の時間さえままならない。

 丁原にも頼ることはできない。解任された人を頼る現職など笑い話にもならない。権威は失墜し部下は言うことを聞かなくなるだろう。

 そのあたりの事情などとっくにわきまえているのか、丁原自身も全てを岳に委ねたようで手伝うつもりもないようだ。今もちょうど庭で剣を構えている。もう二刻も一つの型のまま微動だにしていない。冬の冷気の中でただ一つもうもうと湯気を立てている存在が丁原の肉体だった。

(……母さん、釈放されてからずっとあんな感じだな。一武芸者に戻ったというか)

 わずらわしさから解放されたのならそれにこしたことはない、と李岳は束の間頬杖を突いた――丁原の様子に覚えたわずかな違和感、それをしっかりと考察しなかったことを、この後李岳は一生後悔することになる。

 閑話休題。李岳に攻勢をかける敵の攻めは怒涛の勢いであり、今もまた新たな増援が襲来していた。

「李岳将軍、兵糧の手配なのですが」

 束の間の考え事さえ許されない。山と積んだ竹簡は増殖の一途であり、事実先程から全く減ってはいない。未決済の案件を持ち込む文官はすでに長蛇の列と化している。

 武官の真似事のようなことをここ数ヶ月はしてきたとはいえ、実際に差配する立場になったのは今回が初めて。執金吾などという高官にもなると手配しなければいけない要件は山とあり、なおかつ時間も足りない。敗戦も間近なのではないかと、天を仰いだ李岳であった。

 

 ――少女が単身李岳の執務室に突撃してきたのは、そんな窮地においてであった。

 

 ドカンと扉を蹴破り、ノッシノッシと大股で先頭の文官に歩み寄ると、竹簡を強奪。フンフンと鼻息を荒くしながら数秒読み込み、そしてキリリと面を上げると李岳に向かって怒鳴り散らした。

「兵糧の備蓄は少々割高でも市場から買い集めるのが手っ取り早いと愚考しますが冬至殿はいかにお考えでありますか!」

「……えっ、え、あ、ああ」

「了解を得た! すぐさま取り掛かるべしなのです!」

 答えを聞いた文官は少女の勢いにのまれ、何一つ悪いことはしていないというのに頭を下げて詫びを入れる。まずは敵の増援を食い止めた。だが劣勢なのは変わらない。少女――陳宮の勢いは止まらない。敵陣を打ち破る好機は今まさにここであるとばかり。

 山積した書類を目につく端から拾い上げると、陳宮は案件という案件を千切っては投げ千切っては投げた。

「急務は騎馬隊の充実であります、厩舎の設立は兵舎のそれより急がせるよう現場のものに伝えるべきだと考えますです! 執金吾就任祝いは陛下が身罷られた由を考え却下、武装は宙ぶらりんになった西園軍の余剰を回してもらうよう手筈を整えるべし、そのためにも秩石二千石の支給をとっとと急ぐように董卓殿に使いを出すのです。何より李岳軍の幕僚を揃えるのが目下最優先事項、即刻布告を出せなのです!」

 まるで単騎で戦陣を突破する一騎当千のもののふのように、陳宮は山と積まれた書類と案件を抱えた官吏の群れを一掃してしまった。最後の一つを鋭利な刃物で切り捨てるように決済し、背丈を超えんばかりの竹簡を抱えた文官を蹴りだすと、再び李岳に向き直って絶叫した。

「一体、何をしているのでありますかーーーーー!」

 その声は六軒隣の屋敷にまでとどろいたという。過去に相対した匈奴の王以上の迫力である。迸る気炎、吹きすさぶ風圧に李岳は思わずのけぞった。

「ねねにあまり心配をかけさせて欲しくない、といつも言っておるではありませんか!」

「面目ない……」

 陳宮は一度周りを見回した。ここで書類を片付けたとしてもまた再び重なるだろう、そして目の前の男はきっと音を上げまいと一人で頑張るだろうが、最後は致命的な事態になって倒れるに違いない。この男は誰かが見張っていなくちゃいけないのである――陳宮は己と李岳との初めての出会いの日を反芻した。

 

 ――瀕死であった、自分も、友である犬の張々も。偶然であれ気まぐれであり、友と合わせて命を救ってくれたのが李岳なのである。

 出会ったきっかけは運以外の何物でもなかったが、李岳という男が確かに自分を救ってくれたという事実は揺り動かしようがない。陳宮のそれまでの暮らしは惨憺を極めた。放浪に次ぐ放浪だった。安住の地などどこにもないかと思えた。飢えと渇き、そして孤独……ひもじさに耐えかねて、よからぬことを考えたことも一度や二度ではない。

 廃屋で横になり、この世の終わりか、これが死か、と覚悟を決めかけたその時、不可思議な匂いが陳宮の鼻を突いたのである―のちに聞くところによると、天竺鍋という料理であるらしい。

 無我夢中で平らげ、鼻水と涙でよくわからないことにさえなっていたが、確かに美味しいと思い、こんなに美味しいものを食べることができるなんてきっと自分は死んでしまいあの世に行ってしまったのだ、とさえ思った。

 食べると、気を失うように眠ってしまい、次に意識を取り戻した時には洛陽の邸宅であった。飛将軍李岳。その時はじめて自分を助けてくれた男の名前を知った。

 暖かな寝台には自分だけではなく、穏やかな顔で眠っている張々も一緒であった。それを見たとき、ああ、一生を賭そう、と陳宮は心に決めた。一生を賭すに値する恩である、と。真名の交換も何一つ迷いはしなかった。

 だが李岳は陳宮の助力したいという思いを拒み続けた。他愛のない人生を過ごすことを陳宮に強い、自らは過酷な道を歩まんとしているというのにその後を付いて歩くことを頑なに拒否し続けるのである。

 危険だ、他によりよい生き方がある、無理する必要はない――何度耳にしたことだろう!

 あの救いを、あの時の自分の気持ちを、この男は侮っている。その恩を返そうとすることを拒みただ安寧を頂戴することの何と辛く苦しいことか! 大したことをしていないと言うのは構うまいが、それが過ぎたるはこの感謝と誇り、そして友である張々の命を軽んじることにまでなるのである!

 

 ――もはやこの期に及んで一刻の猶予もない。不退転の決意を胸に、陳宮は李岳の前に敢然と立ち、跪き、手を合わせた。

 

「姓は陳、名は宮! 字は公台! 真名は音々音! 心の友である張々と合わせて命を救って頂いた恩義を返す時は今ここと心得ましたなのです!」

「ねね……」

「冬至殿のお気遣いは重々ありがたいのですが、ねねだけみそっかすにされるのは我慢の限界なのです! この陳宮の覚悟をお疑いなのであれば、冬至殿にはこの先何かを成す器量はないと断じさせていただくのであります。ていうかまずそんなことより、これ以上まだごちゃごちゃおっしゃるのであれば天下にその名を轟かせる『ちんきゅうとびひざげり』が火を吹くのですよ!」

 顔を真っ赤にして涙目、唇を噛んで陳宮はじっと李岳の瞳を見据えている。覚悟の瞳だった。李岳は心から反省した。この少女の力と誇りを見誤り、侮辱した。自分はこの少女をもっと信頼すべきだったのだ……

「ちんきゅうとびひざげりか……そいつは痛そうだ」

「とっても痛いのです!」

「――じゃあ仕方ない。助けてくれるかい、ねね」

「御意のままに!」

 立ち上がると、陳宮は今一度ガバっと勢い激しく頭を下げ、そして部屋を出ていった。大声で文官に指示を出しながら、執金吾の職務を支えるのは我であると。

 

 ――これより後、陳宮は李岳率いる軍勢の兵糧や武具などの兵站をはじめ、軍事行動に不可欠な事務や内政を一手に引き受けることになる。彼女がいなければ李岳のその後の活躍はありえなかったとまで言われ、李岳自身も後に太祖劉邦を支え続けた王佐の才、稀代の名宰相に喩え「我が蕭何(ショウカ)」とまで評することになる。司空の地位にまで上り詰めるのはまだ大分先の話ではあるが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 庭先で剣を握ったままの丁原は、その様子を眺めてかすかに笑顔を浮かべた。子には友がいる。それを知ることができる喜びよ。

 構えを解く。全身を気力が這いずり回り、飛び出さんとするほどに充実していた。

 獄に投じられ、日々を座して瞑目し、ひたすら剣技のことばかり考えた。李岳の働きかけと董卓の手引きにより、獄より出でて董卓の屋敷にて謹慎することになってもその日々はさして変わらなかった。目を瞑って考えを締め出し、剣を握ってただ立ち尽くす。

 師から伝えられた撃剣の技はすべて修めた。師は丁原に向かって言った。後は自らを充実させるのみである、と。并州刺史となり軍権を戴くことになっても、日々の修練を欠かしたことはない。

 汗を拭いて丁原は上着を着替えた。熱気は雪さえも溶かすのではないかと思えた――約束の時間となっていた。

 堂々と正門から出て、真っ直ぐ目当ての屋敷に向かった。飯店であり、流行っているのか流行っていないのかよくわからない店だが、味は悪くはない。扉を潜った丁原に向かって店の主が愛想なく言った。

「何が食べたいんだい」

「白い饅頭と赤い饅頭」

「数は」

「四つと二つ」

「時間がかかる。奥の部屋で待っててくれ」

 通された部屋でしばし待った。出された茶は相当に高価なものと思えるほどの華やかな香りであった。

 待ち人は四半刻と経たずにやってきた。丁原は立ち上がると剣を床に置き、跪いた。

「よい。面を上げよ」

「はっ。ですが」

「よいのだ。今ここにいるのは豪商の娘だ。世間知らずの箱入り娘で、ことさら畏まる必要はない」

「……はっ」

 丁原は顔を上げたが、やはり直視することにはいささかの抵抗があった。華奢な体、陳宮より少し高い程度の背丈だろうか、おそらくもっとも地味な着物をまとってきたのであろうが、布地の質などには疎い丁原であっても目を瞠るばかりの逸品だった。

 火竜の如き赤い瞳、艶やかな黒い髪は腰にまで流れ世の穢れなど何一つ知らないかのよう。

 先ごろ即位したばかりの漢朝皇帝、劉弁その人であった。

「よう来た」

「はっ」

「座れ」

 いわれるがままに丁原は椅子に腰かけた。帝も同じように座っているが、背丈が足りずに足が浮いている。微笑ましい姿ではあるが、背に汗が滲む程の迫力を漂わせており歴戦の丁原さえあわや圧倒しかけた。覚悟を持つ者にしか宿らない気迫である。

「既に知らせは届いておるな」

 丁原は首肯し、帝の背後に佇む少女に目を向けた。

 皇帝が皇女であった頃から陰日向に侍り、その孤独や悲しみを癒してきた少女。先ごろ内密の手紙を丁原にまで届け、此度の極秘裏の謁見もこの少女が整えた。

 少女は相反する葛藤に苛まれていることを隠し切れていない。その目は見る者を否応なく悲しませる、昏い昏い輝きがあった。丁原はその侍女をよく知っていた。誰一人として傷つけたくはないという優しい心を持っていることも知っていた。丁原を危険にさらすことに戸惑いがあるのだろう、このような武骨な己を慮ってくれるその優しさ……丁原の胸の内を温かいものが満たした。

「先帝を侮り、辱めた輩どもの手が朕……私にも伸びつつある。だがそれすら待てずに私を廃し妹を立てようという動きも……先帝を、我が母様を愚弄し、遺勅を作らせた。帝にふさわしきは私ではなく、異父妹の劉協であると!」

 カッ、と喉を熱いものが駆け抜けた。何という不遜か、皇族をまるで物のように右に左に()げ替えようとは! 丁原は震えんばかりの怒気を何とか収めることに成功したが、織のように燃え燻る怒りは変わらずに内心に蠢いた。

「丁建陽。勅じゃ。我が帝位を脅かす者を討て」

「必ずや」

「母様の遺勅は……宦官の蹇碩のもとにある」

 動揺が丁原の心を揺さぶった。日々修練を積んでよかった、と丁原は思った。この動揺が体の表に出ることはなかったから。

 丁原は頭を垂れて、その勅を戴いた。恭しく受け取った丁原を見て、帝は踵を返して部屋を後にした。即位して間もなく仕事も山積しているであろう、長居できる余裕などどこにもないに違いない。それでもこうして自ら足労して直接顔を合わせて勅を下した。丁原が思っている以上に今の皇帝は孤立しているのかも知れない。

 天からの指示である。もはや否やはない。取り残された丁原はしばらく部屋で冷めた茶を楽しんで飯店を辞した。代金はすでに払われていた。

 通りを行く。かすかな緊張と興奮が丁原の胸を熱く焼いた。肩で風を切るようにして歩き、やがて角を曲がったところで丁原は足を止めた。

「丁建陽さま……」

 帝に侍ることも擲って少女は戻ってきた。思わず苦笑して丁原は歩調を合わせた。

 涼州の豪族の長として祭り上げられ、幾多の戦いに担ぎだされた。その様に同情し、柄にもなくお節介を焼いたこともある。今では中央で一定の戦力を保持する大御所とさえ言え、執金吾を解任された己より遙かな有力の諸侯の一人として数えられている。

「このようなところで何をしている」

「……あの」

「陛下に侍らずよいのか」

「あの……お許しは得ました……」

「なら、よい」

 上手く言葉にならないのか、少女は黙って丁原を見上げてくる。責めているような、同情しているような、よくわからない目だ。憂いていることだけははっきりしているだろう。

「そなたはそなたの務めを果たせ。私も私の務めを果たす」

「……蹇碩様は剣の達人と聞きました……」

「知っている。誰よりもな」

 私の言葉に少女は小首を傾げた。だが聞いてはこなかった。覚悟が伝わったのだろう、と丁原は思った。

「李岳くんには……」

「言わん。そなたも言うな」

「け、けど」

「あの者は私を守ろうと動くだろう。それは私の本意ではない」

 自分と李岳との関係を少女に伝えたことはない。だがどこかで察するものはあるのかもしれない。ある種の絆、情、思いといったものは自分の予期せぬところで零れてしまう。まだまだ修行が足りない。この未熟な己が木鶏たり得ることはあるのだろうか。

「私は蹇碩を討つ。その知らせをお待ちください、と陛下にお伝えせよ」

 そう述べて、丁原は歩幅を戻して通りを歩き始めた。少女――董卓はもはやついてこようとはせず、ただ背中を立ち尽くし背中を見送るだけであった。


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