悪夢で目覚めた。
夢の中身はさっぱり覚えてはいない。だというのに李岳は言いようのない悪寒に苛まれ、まだまだ寒さの厳しい朝だというのに汗だくで飛び起きた。
(……今日は模擬戦だってのに)
ここしばらく、張遼と赫昭によって鍛えあげられてきた新兵たち。その訓練の総仕上げとして紅白戦が予定されている。総大将として李岳も参観するのだが、寝ぼけ眼をこするのは当然不味い。
しかしもう一度寝ようと横になっても、どうにも寝苦しく落ち着かない。夜明けまでまだしばらくありそうだが、部屋着のまま李岳は水を求めて外へ出た。戸の外は暗く、月明かりも届かない。
洛陽の町も暗闇に没している。宮殿にほど近い屋敷をあてがわれているので市場からも遠く、喧騒からはほとんど隔絶されてしまっている。静かだった。山の方がいくらも騒がしく活気に満ちている。李岳は瞳を閉じて雁門の山を思い浮かべようとしてみたが、うまくいかなかった。洛陽にやってきて半年以上経っているが、心の底から安心して暮らすには後どれくらいの時が必要なのだろうか。
「誰だ!」
不意の誰何に李岳は振り向いた。明かりを持った兵士が隙なくこちらに近づいてくる――赫昭であった。
「――李岳様でしたか」
失礼いたしました、と赫昭は頭を下げた。左手に明かりを持ち、剣の柄にかかっていた右手を放した。
「赫昭もこんな時間に何を」
「何をとおっしゃいましても。警備ですが」
確かに他に何をするという格好でもないだろう。具足姿に明かりである、宵闇の散歩にしては備えがいかめしすぎた。
「……いやそれはわかってるんだ。じゃなくてさ、君は警備される側だと思うんだけど」
仮にも執金吾の副将である。それなりの高位に就くものが直々に夜の歩哨に立つなどと聞いたことがない。
「御味方を守るのが自分の仕事です。これは自分の責務であります」
「もしかして、毎晩君が?」
「……いけませんでしたか?」
いけないことはない、いけないことはないのだけれど――シュン、としおらしくなってしまった赫昭に途端李岳は何も言えなくなってしまった。あー、と誤魔化すようにあさっての方向を向きながら答える。
「暗殺の守りは廖化が担当してくれてるはずだけど」
話のずらし方がうまくなかったか、と李岳は赫昭の顔を見て思った。途端に赫昭はブスッと顔をしかめてそっぽを向いている。無表情のようでその実誰よりも感情豊かでわかりやすい。思わず笑ってしまうほどの素直さだった。
「な、何がおかしいのですか」
「い、いや……なんでもない……」
贔屓目なしに考えた時、李岳がこの洛陽において最も頼りにしている者は廖化であった。黒山賊の選りすぐりを率いて情報収集、工作活動、警備などを担ってくれている。
并州の豪商、永恭という架空の人物を作り上げ、その主人の信頼厚き男として廖化は堂々と洛陽を出入りしているのだ。李岳の使う影の者たちの呼び名も自然と『永家の者』と呼ばれるようになった。報酬は銭と情報。黒山賊にとっても洛陽の情報は喉から手が出る程欲しいのだ、李岳という楔は利用価値が高いのである。
実際に商売も行い李岳とも物品のやりとりを交わしているので疑われることはまずない。どういう技か、彼の顔に刻まれた傷も余人を交えるときには綺麗に消え去ってしまっている。
「盗賊の助力を得るなど」
潔癖だった。美点だろう、武人でなければ。頑ななのだ、この娘は。
(赫昭は黒山賊をよく思ってないのか。当然と言えば当然だけど……仲間内に含むところがあるのはよくないな)
岳は縁側に赫昭を誘った。汗も引いて冷気が心地よいくらいであった。酒が欲しくなったがきっと彼女は顔をしかめるだろう。
はじめは躊躇っていたが、李岳が何度か頼むと赫昭は静々と隣に座った。照れているのか、表情は前髪の奥に隠れて見えない。
「赫昭は廖化が嫌いかい」
「……命令であれば従います」
横顔には不本意と書いてあった。
「そうか……ところで、洛陽暮らしには慣れた?」
「別段、不便はありません」
「俺は、一向に慣れないんだ」
赫昭が意外そうな目で李岳を見つめてきた。次に不本意な表情をするのはこちららしい。
「なに、なんでも上手にこなすと思ってた?」
「は、はい」
「気が気じゃなかったよ。少し痩せたくらいだ」
「……」
「赫昭がいなければ、耐えられたかな」
「そんな」
雁門の戦いからこちら、洛陽で共に辛酸を舐めた仲間たち。張遼と二人、李岳の後押しを躊躇いもせず日々盛りたててくれている。
軍とは名もなき将兵からなる。その中で名実ともに英雄といえる張遼が文句の一つも言わず従い、階級などない兵卒一人一人にまで声をかける赫昭の献身があったからこそ、李岳たちは一塊に結束できている。李岳一人では、いくら飛将軍の末裔と吹いたところで若造と舐められ相手にされないのが関の山なのだ。
今では陳宮が雑多な事務を手伝ってくれ、時によき相談相手にもなってくれる。それに洛陽における身の振り方も廖化がいなければどうなっていたかわからない、有象無象相手に言い様にあしらわれてしまっていただろう。
「本当だよ。それにもちろん霞、ねね、廖化殿……みんなのおかげだ、本当にそう思うよ。みんながいたから、丁原様もお救いできた」
「違います、李岳様がいたからです。自分たちだけでは何も出来ません……張遼殿もそう言ってました! 自分も、廖化殿に思う所もありません!」
「なら、よかった」
「はい! ですので、元気出してください!」
「……はい」
――元気だせ。
慰めているはずがなぜか勢いに負けて慰められてしまった。しかもそれが元気出せ――いけない、と思ってもどうにもツボで、岳はじわじわと腹の底がくすぐられるのを感じた。やがてその疼きは耐え難いほどになり、とうとう爆笑に至った。
夜中であることを思い出して我慢しようと必死に口元を抑えるが、どうにも笑いは止まらない。赫昭は顔を真っ赤にして怒っている。
「な、なにが面白いのですか!」
「く、くくく……くはは! 元気! 元気って!」
「そ、そんな、ふ、笑わなくても……ふふふ」
釣られたように赫昭も笑いをこぼし始め、とうとう二人してみっともなく腹を抱えた。ホーホー、と梟の夜泣きを背景に、縁側に転がって『飛将軍』と『雁門の盾』が幼子のように転げまわる。ひとしきり騒いでから、二人は息も絶え絶えに体を起こした。
「はぁ……笑わせてくれるよほんと。はーもう、だめだ、笑った」
「わ、笑わせたのは李岳様じゃないですか……あーもーやだ、私、涙が出てきちゃって……」
「――私!?」
すわ一大事、とばかりに李岳はその場に立ち上がった。私、私! 何度か呟きながら天与の機会に感謝したように拳を握りしめる。
「な、なんですか」
「いま、私って言った! いつも自分、っていうからいつでもそうだと思ってたんだけど、やっぱり普段は違うんだな」
「あっ! やだ! ち、違うんです。や、やめてください! 自分はそんなんじゃないんです」
「いいじゃないか、私。変じゃないよ」
「……いいえ、自分は軍人ですから。日々是戦場なのです――今は油断しました。不意打ちです。笑殺の計です。武士の風上にも置けません。最低です」
「……ひどくない?」
「仕返しです!」
べーっ! と舌を出して赫昭は立ち上がった。
李岳は内心ほっとしている自分に気づいていた。どこか無理をしている、無理をさせてしまっている――赫昭を見る度にそんな自責の念にかられていたのだが、こうして年相応の乙女の表情も出来るのだ。
宵々、東の空が白み始めていた。わずかに眠る時間はあるだろう、李岳は少し軽くなった腰を上げた――なんだ、自分も慰められてるじゃないか、元気づけられてるじゃないか――赫昭の表情もまた、どこかすっきりした様子。
「さあ、じゃあもう寝ようか」
「はい、もう宿直が回る時間です。自分も一休みします」
「うん、おやすみ」
そう言って踵を返そうとしたとき、赫昭がひときわはっきりとした声で告げた。
「李岳様。明日の紅白戦、自分が勝った時は、一つだけお願いを聞いていただきたいのです」
「なに、急に改まって」
「――お願いを、聞いていただきたいのです」
真摯な瞳だった。羞恥に耐えているような、それでいて怯えているような――それらを飲み込んでの決意の声。
李岳もまたしっかりと彼女に向きあって、うん、と頷いた。
「わかった。勝てば聞こう」
「ありがとうございます――明日は、勝ちます」
力強い声だった。五分五分の条件での野戦である。普通に考えれば分があるのは張遼だろう。だが赫昭の意気込みは並々ならぬ。ひょっとすると番狂わせもあるのではないか、と李岳は自室に戻りながら考えた。
眼下、二つの軍が猛然と砂埃を上げて移動している。向かって右が張遼、左が赫昭率いる部隊である。それぞれ五千、うち騎馬が五百である。二人がここしばらく心血を注いで鍛えあげてきた兵たち、その訓練の総仕上げとも言うべき模擬戦であった。
兵数も兵科も揃えており、両者の指揮官としての質が問われる一戦でもあった。攻めの張遼に守りの赫昭。開戦を伝える銅鑼の後、当然のように陣から突出したのは張遼であり、一方の赫昭はその進軍を見てから陣形を柔軟に変化させ受けようとする。
「これはこれは、特等席で見応えがありますな」
李岳の隣に座している廖化が絶景絶景、と感嘆の声を上げた。戦場を見下ろす小高い丘の上、日よけの陣幕を張って李岳以下、丁原、董卓、賈駆、陳宮、廖化が居並んでいる。董卓と賈駆は丁原が招いたのであるが、董卓はいいとして賈駆などは廖化を訝しく眺めている。并州の富豪の永家の人、という説明など毛頭信じていないという風である。まるで手品のような真似をして一日にして執金吾の地位を掠め取った李岳――賈駆の警戒心はとうとう頂点に至っている。
李岳としては丁原の釈放にかなりの尽力を頂戴していたので、二人に対する不信はかなり拭い去られている。そのように邪険にせずともよいのであるが、いやはや三枚目はつらい、と頭をかく以外にない。
知ってか知らずか――いや、そんな皆の思惑などとうに知っているだろう。だからこそ面白いのだ、と言わんばかりに廖化は手を叩いて模擬戦を喜んでみている。逐一ガンを飛ばす賈駆に李岳はため息をこぼさずにはいられない。
「お人が悪い」
「何の話で」
「煽るのやめてくださいよ、後で収拾つけるの私なんですからね」
「責任者ってのはつらい仕事ですな……お、張遼将軍が突っ掛けましたぞ」
他人事だと思って全く――李岳はため息を飲み込んで戦場に目を戻した。
張遼は五百の騎馬隊だけを率いて、赫昭の方陣の角を抉りとるように突っ込んでいった。先頭に立つはもちろん張遼自身。刃引きをしたとはいえ武器である、迫力は十分であり迂闊にうければ大怪我をする。両軍からは盛んに声が発せられていた。
張遼の突撃に対して赫昭は柔軟に陣を変化させた。方陣から円陣に形を変えて突撃の威力をうまく殺している。深入りをすればさらにそこから鶴翼に移る構えを見せているので攻め手も大胆な攻撃に移れない。
「ふふん、流石の赫昭なのです!」
まるで自分の手柄だとでも言うように陳宮は胸を張った。
赫昭と陳宮は二人で夜ごとに『孫子』の読み解きを行なっていた。李岳も時間を見つけてはなるべく参加しているのだが、どうにも二人は馬が合ったらしく、読み解きの会は途切れる気配もなく続いている。既に孫子に限らず何冊もの書が読破されたとのこと。
「ふん! 張遼の攻めはあんなものじゃないんだから! あれで凌ぎ切ったと思っているのなら甘いという他ないわね」
賈駆がそれに張り合うように張遼を推す。『涼州の乱』において董卓軍の助力に駆けつけた張遼――賈駆とは長征の辛苦を共に分かち合った仲だ、恩や貸し借りとは別に情もあるのだろう。賈駆の後ろでは董卓までもが控えめにコクコクと頷いている。
その言葉にカチンときた陳宮が席から立ち上がると賈駆に向かって詰め寄った。
「だ、誰が甘いというのですか!」
「今まさに大声上げてる誰かさんね」
「むっ! むっ! むううう!」
いがみ合う二人とは裏腹に、干戈を交えている両将は冷静そのものであるらしい。騎馬隊のみの攻撃では総攻撃の端緒を得られないと判断した張遼は颯爽と後退した。赫昭からすれば深追いしたくなるような憎らしい機の見極めだったろう。だがその誘惑に耐え、赫昭は陣を整え直した。
歩兵の本陣と合流した張遼は今度は本陣を前に押し出し、騎馬隊を左に置いた。赫昭もまた鏡写しのように同じ陣を敷く。両軍はそのまま前進した。正面衝突――練兵の精度を確かめてみようというような展開である。
「むっ!」
「おおお」
いがみ合っていたはずの賈駆と陳宮も、正面から激突している軍勢の迫力に思わずつかみ合ったまま呻きを上げた。確かに目を奪われてしまう程に両軍歩兵の攻撃は統制がとれており迫力も十分であった。
并州兵のように猛烈な騎馬隊の威力は持っていない。だが戦を決めるのはほとんどの場合歩兵なのだ。騎馬隊は維持も運用も難しい、堅固な城壁に対しても無力である。戦の正道はやはり歩兵なのだ。
(并州兵とこの歩兵が合わされば……)
そう考えているのは李岳ばかりではあるまい。陳宮と取っ組み合った姿勢のままの賈駆、その瞳に炯々とした輝きが灯っているのは李岳は見逃さなかった――食えないやつだ、いっそ清々しいまでに!
「お。騎馬隊が動き出すようですな」
赫昭右翼側の騎馬隊が側面を突こうと動き始めた。それを牽制するように張遼の左翼が突出し始める――が、それは罠だ。岡目八目、高みにいればその動きの真意がよく見て取れる。赫昭は張遼を含む騎馬隊を戦場から離して無力化しようとしているのだ。
今しがたは切り崩せなかったとはいえ、張遼が先頭に立った騎馬隊の攻撃力は半端ではない。逆説、張遼のいない歩兵同士ならば勝機があると赫昭は考えた。騎馬隊の動きさえ止めれば歩兵では圧倒できるだろうと見込んでいる。敵の強力な戦力を無力化し、此方の強みである歩兵を活かそうとしている。まことに孫子に忠実な戦術と言えるだろう。
対して張遼は敵の騎馬隊を粉砕すれば一気に包囲できる好機でもある。が、歩兵の救援に向かおうと背を見せれば追撃を喰らうが故に騎馬隊同士の決戦に固執せざるを得なくなった。既に泥仕合に突っ込んだと見ていい。
――赫昭は時間稼ぎさえ出来ればいいと考えている。その前提が生きた。両者の騎馬隊が徐々に戦場の中心地から逸れていく。勝敗の決定は歩兵の戦力の趨勢にかかったように一目判断できそうであった。
「赫昭! 素晴らしい戦術なのです! ねねの教えの賜物!」
「な、なにしてんのよ張遼! あんな見え見えの陽動に引っかかるなんて!」
掌をつかみ合ったまま、陳宮がグググッと賈駆を押し返している。賈駆はあわや押し切られんばかりになっているが、プルプルと震えながらもまだ耐えていた。一体何の争いだろう、とはもちろん当の二人を除いた全員が感想を一致させている。
「見え見え、というのはここから見てるからだな。実際に戦う身であれば、あれは、嵌るよ」
「緻密な用兵ですな」
「……考え抜いたんだろうな」
勝ちます、という赫昭の声が再び耳朶を打った気がした。
「さて、これで決まりですかな」
廖化があご髭を撫でながら呟いた。李岳もそれに同調するように頷きを返す。
「ええ、決まりました」
「では李岳殿も赫昭殿の勝ちだと?」
「……いいえ、張遼の勝ちです」
「ほう?」
意外そうな廖化である。
「騎馬隊は戦場を離れつつありますが……では張遼殿が瞬時に相手を粉砕して舞い戻ってくると?」
「それは難しいでしょう。同数の騎馬隊で練度も同じです。無理ですね」
「では」
「歩兵だけで、張遼は赫昭を圧倒するでしょう」
廖化は解説しろ、と目が訴えかけた。李岳は肩をすくめるだけにとどめた。
「ま、ご覧になっていればわかります」
「そうですか。それでは、お手並み拝見」
一体誰のお手並みを見るのやら、廖化は李岳の予想が当たるかどうかの方に興味を移したようだった。
本陣の方はがっぷり四つ、真正面から打ち合う堂々たる戦いの様相を呈してる。若干赫昭が押しているように見えるのは思惑通りに運んだという意気込みの表れか。騎馬隊は既に戦場の中心地から離れてしまっており、攻防は一進一退というところであった。
もう十分に離れてしまったと赫昭は判断したのだろう、歩兵の布陣を一気に左右へと展開した。包囲してしまおうという目論見である、基本に忠実でありながら隙はない。戦線を維持したままじわじわと陣形を変えていく手際は見事という他なかった。
「決まったのです!」
陳宮が勝利の凱歌を上げ、そのまま賈駆を押し倒してしまうほどにのしかかったその時――歩兵の戦線の均衡は突如として崩壊した。
張遼側の歩兵がまるで獣の群れのように前線を打ち破ると赫昭の部隊へ雪崩れ込んだ。その様は食い破った、としか言い様のない激しさで今までの接戦は何だったのかと思うほどに一方的であった。左右に広がった瞬間を見極めての突撃、機の見極め見事という他ない。
「やったわ張遼!」
「な、なぜ!」
今にも地に膝を突くのではないかと言うほどに押されていた賈駆が、今度は陳宮を完全に押し切っていた。趨勢はまさにその二人が表すままであり、張遼部隊は結局そのまま赫昭部隊を押し切り戦場を完全に制圧してしまった。ぎゅむぅ、と声を上げて地に沈んだ陳宮こそ哀れ。
「終了の銅鑼を」
李岳の合図に銅鑼が打ち鳴らされた。その音が原野に響き渡るや否や全軍は整然と列を成して撤退を始めた。負傷者の確認と治療、そして帰投までが訓練である。
「……ご説明いただけるのでしょうな」
「何がでしょう」
「焦らすたぁお人が悪い」
李岳は何のことはない、と肩をすくめて笑った。
「難しいことなどありませんよ。赫昭は騎馬隊を戦場から離して無力化しようとした。ですがそれは張遼の思う壺だった、というだけのことです」
「お待ちくだされ。張遼殿の攻めは騎馬隊頼りじゃあないんですかい?」
「そうですね。それを逆手に取ったのです」
うん? と廖化は束の間考えたが、やがて合点がいったように手を打っては笑い声を上げた。
「こいつぁ、してやられた」
「お分かりになりましたか」
「張りぼての騎馬隊だったとはね」
廖化の理解に李岳は満足そうに頷いた。張りぼての騎馬隊。上手いことをいうものだ。
――真相は単純明快。張遼は騎馬隊を率いていなかったのだ。
張遼はまず自分の騎馬隊の攻撃力を見せるために先頭に立って突っ掛けた。陣を変えて対抗してきた赫昭を見て、騎馬隊をかなり警戒していることを把握する。そして本隊と合流したあとはこっそり歩兵に隠れ、騎馬隊は他の者に任せる。赫昭が騎馬隊を離してくる、あるいは真っ先に潰してくることまでを読み、あとは相手が攻めに転じた隙を突くまで潜んでいたのだ。
自分の実力を正当に測り、相手もまた同じく測ってくるだろうとまで読んだ張遼の用兵が一枚上手だった、と評していいだろう。
見れば折よく張遼と赫昭もやってきていた。上機嫌の張遼に口惜しいとばかりに唇を噛んでいる赫昭の好対照が何よりの象徴だろう。二人へのまとめは李岳の仕事である。
「霞、お見事」
「いやーっはっはっは! せやろ! もうほんま……せやろ! もっとゆうて!」
「騎馬隊で突撃しておいて、後でこっそり歩兵の方に隠れるなんてよく思いついたなあ」
「ま、一筋縄でいかへんのはわかっとったからな。どうにかして騙くらかさなあかんと、これでも頭ひねったんやで?」
花を持たせている、というわけではないだろう。張遼もまた赫昭の力量を正確に推し量っていた。騎馬隊を離れさせずにただの力押しできていたのであれば際どい勝負になっていたはずだ。張遼もまた賭けていたのだ。
「赫昭、惜しかった」
「……はっ」
慰めの言葉は逆に辱めとなろう。李岳は昨夜の約束を頭の奥にそっと仕舞って背を向けた。
李岳が歩き出すと、張遼と赫昭、続いて廖化と陳宮が付いてくる。丁原と董卓、賈駆は天幕の中で座ったままだ。
李岳は全軍の前に立った。息を荒げているもの、肩を貸されてようやく立っているもの、無傷なものは誰もいない。それほど厳しく鍛えぬいた。李岳の指示した訓練の内容は張遼すら唖然とするほどのものであったのだ、脱走するものも少なくなかった。
だが新兵だからこそ鍛えぬかなければならない。実力も自信も曖昧なまま戦場に放り出せば死が待ち受けるのみなのだ。
「厳しい訓練、よく耐え抜いた」
応、と威勢のいい声が返ってきた。その声までもが初めの頃より野太くなったように思える。男女を問わず多くの戦士がここにいる。この中から少なくないものが死ぬだろう。殺すのは自分なのだ、と李岳は言い聞かせた。一人ひとりの顔を自分の胸に刻みこむようにゆっくりと全軍を見回した――仲間の顔を。
「陛下からお預かりしたものを授ける」
張遼が声を上げると、先頭のものが一人出てきた。李岳は陳宮に声をかけ一枚の布地を受け取る。
蒼天に溶け込む、青地に黒の李の牙旗。
「鬨を上げろ」
李岳軍発足。その産声は原野を震わせた。
一万人に酒を行き渡らせるのは大変な出費になる。執金吾といえど扶持に余裕はなく、一人一杯が精々であった。それでも兵士は皆嬉しそうに乾杯し、次いで飲んだ水でさえも酒精が宿っていると思い込んでは酔いに酔い、歌って踊った。
首班の酒席は流石にもう少し豪勢であり、洛陽に戻った後李岳の屋敷でうわばみが何匹いても持ちこたえられる程度には酒を用意している。
先頭を駆けて騒ぐのは当然張遼、それに引きずられるように陳宮が騒ぎ、なぜか居合わせている賈駆が後に続いた。そんな気分じゃない、という赫昭に対してはとうとう張遼の口移しによって強引に飲ませるという暴挙。
全くもってひどい乱痴気騒ぎで、誰も彼もが笑っていた。董卓も飲酒はしなかったが楽しそうにコロコロと笑っている。廖化もまた楽しそうにやんやと
李岳軍発足の日なのである。しかも憎いことに総大将は下賜された旗を最後の最後まで隠し通していた――なんて性悪! 張遼が無理やり口を開かせて酒を飲ませるのもやむを得ないと言えるだろう。
「し、霞、勘弁!」
「何が勘弁やドアホ! とっとと飲まんかーい! にゃーっはっは!」
「……げふ」
「ええ飲みっぷりやなあ! さあ、今日は逃がさへんで! うぇっへっへ……っていうてるそばから逃げようとすんなよ賈駆っち!」
「げっ」
「今日ここにおる奴らは誰一人逃さへんでー!」
こんなに楽しい場所はない、こんなに心安らげる場所もない――皆、そう思ってくれればどれほど良いことだろうか。丁原は茶を傾けながら、いつぶりかと思えるほどに無邪気に笑っている自分に気づいていた。
「董仲穎、楽しんでいるか」
「建陽様……」
「楽しんでいるか、と聞いている」
丁原の言葉を聞いた瞬間、董卓の表情は翳った。否応なく丁原のこれからを考えてしまうからである。
お忍びでの謁見から数日、董卓は二度丁原に考え直すように伝えていた。恐れ多くも帝に対してさえ言上している。別に一対一でなくてもいい、武人の誇りよりも生きて帰る方が……だがその度に丁原は一対一の決闘以外に選択肢はないと答え、帝もまた丁原が決めるだろうとしか返さない。
その三度目の訴えを董卓は投げかけようとしたのだが、機先を制したのは丁原だった。
「蹇碩の居場所の目星は付いている。今日、これより向かう」
「……建陽様!」
「李岳が今日、本当の意味で独立した。もう私の助力は必要ないだろう――もちろん死ぬつもりはないがな」
「ですが……」
「――何も負けると決まったわけではない。勝てばよいのだ。それに決闘は私の望みだ。今更勅命が撤回されたところで、私は行くぞ」
「け、けど……ですけど……」
丁原の言うことは最もだ。だがどうしようもない悪い予感が董卓の胸の内にへばりついて離れないのである。ひょっとしたら一生後悔することになるのでは、どうしようもない悲惨な事態になるのではないか……確信に近いほどの悪寒!
「もう言うな」
そのとき、席に倒れこむように李岳が隣にやってきた。どうやらかなり酔っているらしく、顔は酒気で赤い。
「お恥ずかしくも酔ってしまいました……」
「情けないな」
「霞が悪いのですよ、無理やり飲ませるから……」
丁原の声はいつものように無骨であったが、どこかいつも以上に優しかった。その声音に錯覚し、失言をしてしまった李岳を一体誰が責められるというのだろう?
「まったくもってお恥ずかしいです、母上」
――母。
董卓の愕然とした表情を、李岳は単に驚いているだけのものとして捉えた。だがその心中は既に嵐である。丁原は心優しい表情で李岳の姿を眺めている。この二人は親子――! だからあんなにも懸命に丁原の助命を嘆願し、あらゆる方策を使って助け出そうとしたのだ。
董卓の中で不可思議だったものが答えを伴って鮮やかに映し出された。二人は親子……しかし、真実が鮮やかであればあるほど董卓の脳裏は絶望の暗黒で染まった。その暗黒を振り払うにはたった一つの方策しかないように思えた。
言ってしまおう――!
董卓は衝動に任せて口を開きかけたが、董卓にだけ伝わるように丁原は淀みのない殺気を放った。金縛りのように居竦んでしまった董卓は、まともに声を発することすら出来ない。
「隠しておこうと言ったのにな、自分から言う奴があるか」
自分に対しての言葉ではなかった。丁原は李岳に向かって話していた。だがその真意は当然董卓に向かっている。
「いえ、よいのです。董卓殿は、母上を……助けてくれました。私は誤解していました。董卓殿は、良い方です」
いっそ死んでしまいたい、この世から消え去ってしまいたい。
李岳がなぜか自分を嫌っていることは知っていた。避けていることも知っていた。何かの誤解があるのだと思い、それを解きたいと願っていた。丁原には世話になったしその恩も返したい。親友であり自分の生きがいでもある賈駆とも仲良くして欲しい。いや、それより何より、賈駆と李岳が協力すれば不可能はないように思える。この二人が手を取り合ったのなら、きっと多くの民を救う事ができるし、多くの偉大な事業を成せると思った――
丁原を危険にさらすことは、李岳のためにもならない。今からでも勅命は撤回できるに違いない。蹇碩を討つにしてもたった独りに任せる理由なんてどこにもないのだから。
「……どうされました、董卓殿」
「実は」
「体を少し冷やしたらしい。董仲穎は私が送ろう」
さっと抱きかかえられ、やはり董卓は言葉を喉の奥から出しそびれてしまった。痛くはないが、抵抗を許さない力強さで丁原が二の腕を掴んでいる。
「大丈夫ですか」
「大事ではないようだ。幸い私も用がある。ついでだ」
「すぐお戻りになりますか?」
他愛無い、他意のない言葉であった。だが丁原は立ち止まり、はっきり言い切るようにして答えた。
「ああ、必ず戻る」
董卓は袖口で自分の顔を覆った。涙がとめどなく溢れてくる。
そのすすり泣きの声さえ、宴の喧騒にかき消されて李岳の耳には届かなかった。丁原は歩き出した。辻を一つ曲がってから董卓を下ろした。やがて心配して追いかけてきた賈駆に声をかけられるまで、董卓は壁にもたれ涙を流し続けるしかなかった。