真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

33 / 184
第三十三話 もののふは愛に死す 死命剣・虎穴通し

 蹇碩は肉を買った。

 国の頂上とも言える十常侍の筆頭が自ら食事の準備をすることなどあり得ることではない。だが数日前、自らに仕えていた侍女たちには全て暇を出したので、それきり三食は自分自身で賄っている。店の者も宦官でありながら西園八校尉を束ねるまでに至った先帝の信頼厚き男だなどと気づくはずもない。どこぞの下級官吏が来た、という程度しか考えなかった。

 蒸し豚に甘辛いタレをかけたもので、一塊を薄く切ってもらった。笹の葉の包みに入れて食べながら歩いた。ここ十年、宮廷ぐらしが染み付いており、こうして他愛のないだらしなさを発揮することなど一切してこなかった。皇帝の隣にいるため、皇帝の側で仕えるために己の全生命をかけ、それのみに邁進していた。人に弱みをつけこまれないようたった一つの落ち度もないように暮らしてきたはずが、結局何も得ぬまま全てを失いこうして歩いている。だが同時にある種の清々しさを蹇碩は感じてもいた。

 肉は美味かった。諸国放浪していた時代が懐かしい。昔はよく野豚を狩り丸々焼いたりもしていた。遠い日々である。そして全て失われてしまった。今ではもう昇進に血道を上げる必要もなくなった。

 蹇碩はあてどもなく道を進んでいたが、やがてふと思い立ったように脇道に入ると真っ直ぐ郊外を目指した。洛陽城外への出入りは日没までと定められている。昼を過ぎたあたりなのでまだまだ人の出入りは多い。盗賊の跋扈と官軍の不振により治安は悪化していたが、たくましい民の動きはそれにめげようともしない。

 北への街道をしばらく進み、小川に沿って西に折れた。未だに残雪はほのかに積もっているが、ちらほらと色づき始めた梅の蕾が春の訪れを予感させる。香り立つにはまだ温もりが足りないだろう。あとひと月もすれば目がさめるような爽快な香りを放つに違いない。

 蹇碩はしばらく梅の木の下で立ち尽くしていた。痩せた小川がかすかな音を立てて流れる他には何の気配もないように思える――だが。

「隠れずともよい」

 振り返りもせずに蹇碩は言った。背後の草むらから、突然湧き上がったという風に一人の人間が姿を現した。蹇碩は意外そうな顔すら見せずに静かに首肯した。

「久しいな」

「はい。師父」

 拝礼する丁原を、蹇碩は遠い目をして見つめた――二十年は経つまい。蹇碩が未だ一介の剣士であった頃、并州で未だ若かりし丁原と出会った。女だてらに腕っ節が強く、近所の男どもを束ねては馬を乗り回し暴れまわっていた。しかし不義理はせずに、逆に盗賊を追い散らすような勇ましさを発揮していることもあって評判は悪くなく、蹇碩はらしくなく興味を駆り立てられたのだった。

 初めて会った時の丁原の瞳を蹇碩はよく覚えている。その力で何人もの取り巻きを従えてはいたが、孤独で、寂しく、何かに満たされたことなどないと訴えかけるような暗い瞳であった。軽い挑発ですぐに怒りを剥き出しにしてくるあたり、まるで獣のようでもあった。

 一度目は素手で、二度目は木剣で叩きのめした。三度目は真剣であったが、前髪だけを綺麗に切り落としてしまったところで丁原はその場で跪き師事を乞うた。

 それからほとんど毎日手ほどきをするようになった。荒くれ者に過ぎなかった丁原は見る間に(ことわり)を修め、一人前の撃剣の使い手として形を成していった。綿が水を吸うように教えを修め、そのほとんどを伝えきったと思った時、蹇碩は并州を去った。

 その後、蹇碩は宦官となり洛陽で栄達に励むのであるが、風の噂で時折丁原の名を聞いた。その武力は他の将軍の追随を許さずついには并州刺史にまでなったという。近頃などは匈奴の大軍相手に並々ならぬ武功を上げたと聞いた。そしてそれが暗躍する陰謀の阻止に繋がり、疎まれ、投獄に至ったのだということも。

 丁原は蹇碩の隣に並んだ。二人で川面を見つめる静かな時。奇妙な静寂だった。その空気がより不得手だったのは丁原であったのだろう、もどかしさに耐え難くなったように口を開いた。

「勅を受けました」

「内容は」

「逆賊、蹇碩を討てと」

「そうか」

 丁原は二歩離れ、腰に下げていた光り物を抜いた。透明な輝きを放つ一振りであった。見事な逸品と見える。

 蹇碩も向き合い、半身となった。未だ柄に手はかけず。

「貴様に討てるのか?」

 途端、袍のみで具足すら纏っていないが、丁原の全身からむせ返る程の剣気が立ち上り、爆ぜた。袈裟斬りは雷光のように迸り蹇碩に迫った。幾度と無く受け、打ち払ってきた剣筋である。だがその切れ味は当然いつかの比ではない。躱したが、振り抜かれた先では切り払われた葦の葉が風に舞い散っている。そのまま下段に構えた姿勢で、丁原は油断なく切り上げを狙っていた。

 蹇碩も剣を抜いた。水平に構えた。丁原の瞳に炎のような輝きが灯るのが見えた――刹那、交叉した剣閃は二十合を超えた。馳せ違い、振り向きざまに首めがけて技を放つが、見越しているとばかりに丁原は半歩奥へ引いている。

「腕を上げたな」

「光栄です」

 蹇碩は鞘を帯から抜き放り投げた。両手でしっかりと、感触を何度も確かめて柄を握りしめた。空っぽになったと思っていた自分の中に、まだこうして熱く滾るものがある――剣に生き、それに全てを費やした一生だった。最早自分自身さえ一振りの剣となるほどに。打ち鍛えた一本を捧げた主は死に、さりとて他の誰かに握られる気もなく後はただ錆びつくのみ。

 勝っても負けても、自分自身を保ったままの戦いはこれが最後だろう、と蹇碩は確信した。

「俺の全てを超えてみよ、丁原」

 呟き、蹇碩は腰を落とした。自らの内奥に火が灯る――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 必殺。そう思えたはずの攻めが全て空を切る。そして網目のような死線がこの首を刈り取らんと迫るのだ。感嘆するほどの――いや、仰ぎ見るほどの技倆だった。

 白刃をかいくぐるように避け、丁原は距離を取った。三十合を超えるほどに打ち合わせたが、既にいくつもの浅傷を負っている。肩に二の腕、そして首筋である。あわや死。(きっさき)をこちらに向けて構えている蹇碩の構えは盤石。丁原は大きく深呼吸をして剣を下げた。切り上げから手首を狙う構えであるが、そのような目論見は師である男には筒抜けであろう。

 相手は蹇碩。自らを鍛えぬいた師であり、諸国十三州にその名を轟かせた天下無双の撃剣の使い手なのだ。容易く勝てるとは思っていない。されど、この蹇碩を討つのであればこの自分を差し置いて他に誰が任されるべきだというのか――師を倒すのは、いつだって弟子の役目なのだ。

 蹇碩は大上段に構えている。地を断つ、とまで言われた振り下ろしの威力は誰よりもこの身体が覚えている。丁原は一足一足にじりよった。知らずに流れていた汗が顎先から柄の根に一滴落ちる――

 昇龍が如き切り上げと、霹靂が如き振り下ろしであった。二撃の邂逅は操る両者の体ごと根こそぎ弾き飛ばし、明確な火花となって足元の乾いたすすきに火をつけた。微かな燎原の中で二人は再び向かい合う。両手の痺れは尋常の域を超えており、おくびにも出さないが、丁原は師の一撃に明確な恐れを抱いた。

「よい剣だな。銘はあるのか」

 パチリパチリとくすぶる足元の火。それを一払いで消してしまいながら、なぜか嬉しそうな蹇碩の言葉であった。

「未盲剣」

 李弁から手渡された一振りであった。水晶を打ち鍛えたかのような刀身。白く、まるで銀細工のような剣で、日光に照らせば燦然と輝きを返し、夜闇の中でも星々の煌きを映した。

 はじめ頼んだとき、李弁は丁原に自らが打ち鍛えた武器を渡そうとはしなかった。しかしそれでも打ってくれた。それから戦場に臨むことを非難することもなかったが、どこかで歓迎しない気持ちもあったのだろう。重責と、自ら定めて生き様に従い続ける丁原を弁は一度も詰ることはなかったとはいえ、応援するようなこともなかった。

 李弁は一体どういう想いで未盲剣と名付けたのだろう。丁原は自らの伴侶の視力が衰えゆくことを聞かされずとも知っていたが、彼に問いただしたことは一度もなかった。未だ盲ず。ならば、己が道に迷うこともないだろう――

 ふと、ならば蹇碩はどの道を進んでいるのだろう、という疑問が丁原の内に沸いた。

「なぜ今の帝を廃そうなどと」

「遺勅ゆえに」

「ですが、それが捏造されたものではないとどこで言い切れるのです」

「捏造ではない。だが事実、真に帝のご意志というわけでもない」

 言い募ろうとする丁原を蹇碩は手で制した。

「丁原、貴様の言わんとするところもわかる。陛下は晩年、確かに正気を度々失しておられた。だがそれでもなお、陛下の言葉は陛下の言葉なのだ。私にとってはそれだけなのだ。操られ、本意ではないとしても陛下は遺勅を残された。それがどのように歪なものであっても、陛下の最後の声なのだ。それに従うことこそが、我が使命よ」

 丁原の中にはっきりとした違和感が形を成していた。根本的な疑問と言ってもいい。

「そもそも、なぜ宦官などになったのですか」

 丁原の問いに、蹇碩はわずかな躊躇いを見せた後に答えた。

「帝のお側に侍るため」

 権力を得るためには宦官の身になることが最も手っ取り早い。宦官には男しかいない――女の子宮は取り除くことができないからだ。宦官に至るためには男根を切除する必要があり、そのため子供を残せず、権力を継承しないがために彼らの権力は基本的に一代限りのものとなる。漢朝の絶大な権力を扱うためには、そこまでの覚悟と犠牲が必要なのである。後世のことを考えれば宦官に権力を委ねた方が安泰な一面もあるのだ。

 だが、それにしても丁原の心中には肯んじがたいものがあった。権力など、以前の蹇碩とは最も縁遠いもののように思える。修羅が如く剣の技のみを鍛え続けてきたこの男が、何をもって権力に固執し栄達に腐心するようになったのか。交えた剣にも曇りはない。蹇碩は蹇碩のまま、自らの男性としてのものを切り落とし、宮中に身を置くようになったのだ。

「不服そうだな」

「はい」

「御尊顔を拝したことがあるか?」

 丁原が首を傾げると、言葉が足りなかったな、と言って蹇碩は付け足した。

「先帝陛下の御尊顔だ」

「いえ」

「普通の御方であった」

 無礼に過ぎる言葉であったが、蹇碩の瞳は憂いており、その口元はわずかに綻んでいる――それはすなわち敬意を含んだ表情であった。

「御巡幸に際したのはもう十五年程前か。僭越の極みではある。だが、私はあの御方にお会いした際、御側に仕えたいと思った」

「だから遺勅を守ると。今上皇帝を害することであるとしても。つまり、動機は忠義なのですか」

「私はな、陛下に恋をしたのだ」

 しばらくの沈黙の後、丁原が小さな笑みをこぼしたのは決して侮辱の意図ではない。険しい表情しか記憶にない師が、どこか照れくさそうな顔を見せるのがたまらなくおかしいからだった。丁原の笑いに蹇碩も興をかきたてられ、決闘中だというのに二人とも剣を下ろして笑いあった。

「くだらない理由であろう」

「いえ。なぜかそうは思いません」

「惚れた女のために生き、死ぬ。それが理由だ」

 それが、理由――皇帝を廃位させるという臣にあるまじき大逆を犯そうとする理由が、ただの恋心。

 剣に生き、剣に死すはずの男が、たまさか出会い恋をした。その相手は雲上人である世の皇帝――その想いを告げることは叶わず、当然触れることも、抱くことも出来ない。ただ側にいることしか出来ない。だが蹇碩はそれを良しとした。汚辱に塗れた出世争いも厭わず、自らの身体の一分を切り落とすという苦痛にも躊躇うことなく――愛した。だから側にいたいと思った。まさに、理由は他になかった。

「うむ。気恥ずかしい限りだ」

 言葉とは裏腹に、一切の恥も、恐れもなく、蹇碩の顔は疲れており、晴れていた。

「師父。貴方は既に死んでいるのですね」

 蹇碩は躊躇いなく頷いた。

「惚れた女の最後の言葉、それを形にしたいのだ。どんなに汚れていても、どんなに邪まであっても。遺勅を叶えればもはや思い残すことはない。私は陛下の後を追うだろう」

 次は己が問う番だ、とばかりに蹇碩は丁原の目を見た。

「丁原、貴様はなぜ戦う」

 

 ――いいえ、私が笑います。お前は本当に誇り高き母から生まれたのか、と。

 

「知れたこと。帝が廃されるなど、臣として黙って見ていることは出来ませぬ」

「それだけが理由か?」

 

 ――すぐに、戻ってこられますか?

 

「帝を守護するは執金吾の役目。みすみすその廃位を許したのならば、罪科は万死に値します。連座して責を負うが明白」

「貴様は任を解かれたであろう」

 

 ――母さん。

 

「時の執金吾……我が子李岳のため、私は貴方を討つのです」

 わずかに目を見開き、蹇碩は束の間沈黙した。そうか、と一言呟くまでにどれほどの時間がたっただろう。蹇碩は再び半身になり、足を広く取って剣を振り上げた。対する丁原は地を這うように低く姿勢を保ち、剣は懐に寝かせて奇襲を狙う。

「お互い、負けられぬな」

「はい」

 沈黙が過ぎ去った。静かであった。二人の脇を流れる小川のせせらぎは、まるで永久(とわ)仮初(かりそめ)の二つを同時に表しているかのように、切ない響きであった。

 対峙は数刻に及んだのではないかと思えるほどだった。汗が止めどなく流れではぐっしょりと衣を濡らす。

 見れば見るほど隙がない。針金のように痩せた蹇碩の体は、その実、無駄の一切ない鋼の如く鍛え上げた筋肉なのだ。泰然自若のように揺るぎのないその表情――土壇場に立っているというのに、丁原は己の未熟さと師の偉大さを同時に味わってはかすかな感動を覚えていた。

 構えを変える。奇襲は効くまい。様子見や牽制などではない、乾坤一擲の一撃を蹇碩も丁原も打ち込もうとしている。丁原は刃を寝かせて腰を落とした。蹇碩もまた突きを控えた構えとなる。剣気が漲って視認できるのではないかと思えるほどだ。

 自分の中の充実を待った。機を見た――両者の踏み込みは、定められていたかのごとく同時であった。

 丁原の一撃は世の誰にも見極められない程の速さに至っていた。剣閃が交叉する。二人の立ち位置が入れ替わり、血飛沫が舞った――丁原の顔が鮮やかな朱に染まった。

 蹇碩の剣速は丁原のそれをさらに上回った。地を這いずりまわった刀剣は返す刀で丁原の顔面を深々と切り裂いていた。切り上げられた鋒は頬からはすに額へと流れている。吹き出した流血が丁原の視界を赤く染める。間欠的に溢れ出る血により丁原は左目の視野を失った。距離を取り、剣の柄を強く握った。未盲剣。大丈夫、まだ見える――丁原は自分に言い聞かせた。

「生きようとしているな」

 聞き返す余裕が丁原にはなかった。深手である。額が割られている。脳の髄にまで達していれば死ぬ傷だろう。

「生きて帰る場所を持つ貴様が、死に場所を求める俺に勝てるのか?」

「死人の剣には、負けませぬ」

「言うようになった」

 蹇碩の追撃が迫るが、右目だけの視界で何とか防いではたたらを踏んだ。口の中を血の味が支配している。二度三度と吐き出したが、一向に血は追い出されてはいかない。頬が完全に破れているのかもしれない。だとすれば最早この味と付き合い生きていくほかないのだろうか。いや、生きて帰ることが出来るのか? 蹇碩は強い、死さえ恐れぬ捨て身の剣なのだ――

(いかんな。この考え方はよくない)

 呼吸を戻せ、と念じた。呼吸が乱れれば全てが乱れる。どれだけ血が流れていても呼吸さえ落ち着いていれば容易く死にはしないものだ。

 今度は自分から踏み込んでは突きを放った。ゆらりと軌道を変える波打ちの突きである。柄の握りの指を狙ってはいるが、それを嫌い下手に受けるのであればそのまま腹まで貫き通す目論見の攻撃である。

 蹇碩は受けず、さらに一歩踏み込んできた。丁原は突きから打ち払いへと軌道を変える。甲高い音が響き渡り、手首から肩までが強い衝撃に痺れた。馳せ違い、再び向き合う。蹇碩の呼吸に乱れはない。

 生きようとしているな、という蹇碩の言葉が再び聞こえてきた気がした。生きようとしている――命ある剣だ、と蹇碩は言った。あのまま打ち払わずに踏み込んでいれば丁原の剣も蹇碩の剣も、双方の心の臓を貫き通していただろう。それを丁原は拒んだが、それでも構わないと蹇碩は踏み込んできた。それは、死の剣。死を覚悟した剣。ならば自分も、捨て身とならなければ打ち勝つことは出来ないのであろうか。

(耳鳴りがする)

 致命傷かも知れぬ、と丁原は考えた。額は完全に破れてしまっているのではないだろうか。こんなにもはっきりとした幻聴が――どこかで聞いたような幻聴がするのだから――どこかで聞いたような――赤子の泣き声――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――李岳を産んだのは冷えゆく秋口の晋陽でのことだった。

 初めてのお産に不安がなかったとは言わない。ひどい難産で、死とは言わないまでも軍務に就くことを諦めざるを得ないのではないかと丁原は考えていた。産婆の自宅にて丁原は出産に臨んだ。李弁は夜っぴて側にいた。最初の陣痛から五刻ののちに李岳は生まれた。小さくか弱い生命。キュウ、と一声上げてから盛大に泣き始めた岳の声は今でもすぐに耳に甦る。

 あの声を聞いた時、全ての不安はガラガラと崩れ去り、全身に力が漲ったのを覚えている。軍務などいつでも戻ることが出来るし、どのような戦いでも死ぬ気がしない。この者を守るためならばいかような敵とて打ち崩すことが出来るだろう、と。

 この子のためならば……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「冬至……」

 自分の声で丁原は我に帰った。気を失っていたのはどれほどの時間だったのか。きっと瞬きするよりも短い時間だろう、でなければ蹇碩がその隙を見逃すはずがないからだ。

 丁原は未盲剣の柄をそっと優しく掴んだ。これほど自然な気持ちで戦いに臨むのは生まれて初めてかもしれない。

 蹇碩は愛ゆえに戦っていると言った。ならば、自分も愛を背負い戦おう、と思った。帰る場所がある、素晴らしいことではないか! 今頃李岳は宴の只中でまだかまだかと自分を待っているだろう。その期待に応えずして母と言えるのだろうか。

 帰ると約束した、それも必ず、と。その他愛ない約束を守ることが、この丁原の気高さだ。それに(したが)うことこそが親の務めだ――そうだろう、枝鶴!

 丁原は未盲剣を腰だめに構えた。蹇碩は丁原の放とうとする技を瞬時に見抜き、驚愕に呻いた。

 虎穴通し――その構えから解き放たれるたった一つの技の名である。吶喊のみを念頭に置いた技、捨て身の一撃。

「死ぬ気か」

「いいえ、生きます」

 丁原の返答に蹇碩もまた覚悟を決めた。同じく腰だめになり深く息を吐いた。虎穴通しの構え。

 時にしてみれば短い決闘であった。だが万言を尽くすよりも双方は多くの想いを交わしていた。最後の一撃、もはや駄弁を挟む余地はない。

 じわり、じわりと両者は歩を進めた。距離が縮まる度に重苦しいものが圧していく。蹇碩はこのとき初めて汗をかいた。丁原の澄んだ右目の見事なこと――恐らく、今まで見たこともないような一撃が襲ってくるであろう。それを全力で迎え撃つことこそ師の務めに相違ない。

 二歩の距離になると、とうとう風さえ止んだ。草むらはしんと静まり返り、天さえ息を呑んだ。

 

 ――虎穴通し。

 

 丁原の一歩は恐ろしいまでの伸びを見せた。その秘技の神髄は手首の返しを十全に用いた絶渦の突きである。下半身の運用が何より肝要となる。が、その速度に蹇碩は半歩で並ぶ。万全の姿勢で先を打った。大木の幹さえ抉り飛ばす渾身の突きである。

 しかし、速度で後手に回った丁原の突きは、同じ技かと思えないほどに静かであった。渦巻く螺旋の軌道が両者の動きに完全に符合した。鋒が衝突し、青白い光を放つ。蹇碩の掌に頼りない衝撃が走った。未盲剣が蹇碩の得物に(ひび)を刻み、そして真ん中から完全に寸断したのだ。

 勢いは止まらない。相手の力までもを飲み込んだ丁原の技は、蹇碩の体を真芯から捉え、その胸を穿ち抜いた。

「見事」

 背を向けたまま蹇碩はそう言った。心の臓が脈打つはずの胸の中心に穴が開いており、嘘のような空洞となっていた。一歩、二歩。蹇碩は致命傷のまま歩き、遙かな蒼天を見上げ、逝った。倒れこんだ草むらには沼地と見紛うほどの血溜まりができている。

 勝った。だが丁原には勝利の喜びなどどこにもなかった。それより、寒かった。次に、帰らなければ、と思った。剣を鞘に仕舞い歩き出そうとした。だが不思議なことに足が出ない。それよりも、何か生温かいものが全身を包んでいる。

 自分が倒れているということに丁原はようやく気づいた。温かいものは、血だろうか。両腕を突っ張って、まずは仰向けになった。そして起き上がろうとするのだが、そこからどうしても体が動いてくれない。血が流れすぎている、と丁原は他人事のように思った。試しに触れた脇腹には、あるはずの肉がないように思えた。打ち砕いたはずの蹇碩の一撃だったが、だが丁原の身体に届いていたのだ。

 立ち上がろうとした。帰らねばならない、子と約束したから。なぜか丁原の脳裏に浮かんだのは、四歳かそこらのまるで幼い李岳の姿だった。頭を撫でてやらなければ、と思った。隣にはきっと夫の李弁もいるに違いない。二人の声を聞きたいと思った。だが脳裏に届いた声は求めていた声とはまるで違う呼び声であった。誰の呼び声なのか、なんと言っているのかもわからない。放っておいて欲しかった、いま聞きたいのは家族の声だけなのだ。

 

 ――微動だにしない蒼天を見上げたまま、丁原は朧げになっていく意識の淵で、垣間見えた家族の幻に手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後世のどのような書物にも丁建陽という人物の伝はない。その記述は『董卓伝』や『英雄記』などに散見されるばかりである。それによれば貧しい武人の家に生まれ、政治への才覚は乏しく、専ら武人として名を上げたとのこと。敵に対しては常に先頭に立ち、騎射に秀で武勇に優れた。騎都尉、刺史を歴任し執金吾にまで上っている。

 後年、宦官排斥を目論む陰謀に巻き込まれ、腹心であった李岳の裏切りに遭い命を落としたというが、真実は定かではない。いずれにせよ、霊帝亡き後ほどなく丁原という人物は落命したとされ、歴史からその名を消している。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。