真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第三十六話 血の階

 何進の死体を見下ろしながら、段珪は袖で顔を拭った。べっとりと粘度のある血が袖を真っ赤にする。周囲の誰もが同じように返り血を浴びてはいたが、正面から剣を突き刺した段珪が最も多くの鮮血を被った。

 串刺しにされた何進の体は己が元の生業である屠殺、その商品のような有様であった。だが此度の手際はお世辞にも良いとは言えないだろう。中常侍が皆、何の統制もなく思い思いに刃を突き刺したのだ。死体の無残さは鼻を刺し貫く異臭によって嫌というほどに思い知らされる。

「これでよい……」

 誰の呟きであったか。その言葉を己に染み渡らせるように何人かがしきりに頷く。

「皆、よくやった。これで我が漢朝の秩序は回復される」

 趙忠の言葉に居並ぶ皆は内心の不安さをかき消すように、血生臭さにはそぐわぬ笑顔を見せた。

 劉弁の即位後、外戚の長といえる大将軍何進の増長はあまりにも目に余った。自らの血族に繋がる者が皇帝に上ったのだ、我が世の春とばかりにその権限を謳歌していた。先帝の御代に受けた屈辱……大将軍の上位に西園軍の統率者として宦官の蹇碩を据えるという屈辱も、蹇碩の失脚という形で(そそ)いだのである。天下は我のものとその威勢を隠す気もないようであった。

 だがその権勢はまさしく油断と紙一重のものであった――火急の用。ただその一文だけで何進は無防備にも伴を連れず単身にてやってきたのである。

 宮殿に潜むは既に抜剣した中常侍十余名。佩剣すらせずに悠々と歩いてやってきた何進を見咎がめた瞬間、発狂したように最初に走りだしたのは誰であったろう。皇帝の外戚であることも、大将軍の地位を戴いていることも、権力に固執しとうとう狂ってしまった宦官の怒りから守ってはくれなかった。十を超える刃の突きにより何進は容易く絶命したのである。

「これで、良かったのじゃ」

 今また同じような言葉を呟く趙忠であるが、その響きはまるで自分に言い聞かすかのようであった。やがて皆思い思いに言葉を走らせはじめる。

「簡単であったな、存外に」

「むしろ遅きに失した。さっさと片付ければよかったのだ」

「だが何事にも名目がいるのだ。此度、蹇碩殿の失脚がなければこの義挙にはおよべなんだ」

「……首を切らねばな。そして帝に突きつけてくれる。無思慮な行いは血の贖いをもって報われるのだ、ということをしっかり覚えていただかねばな」

 残酷な行いだ、とは誰も思わなかった。血で血を洗う権力闘争なのである。勝つためであれば義など吐き捨てる。

「であるのなら、仕事はまだ半分であろう。帝をそそのかしたと思しきはもう一人いるのだ」

「董卓か」

(ふみ)は既に届けてある。間もなくやってくるだろう……」

「来るかな? 何進とは違うのだ、何ぞ察することもあろう」

「手は打ってある」

 不気味に笑ったのは畢嵐であった。その言葉の真意を段珪は正確に把握していたが言葉にはしなかった。劉岱より預かった暗殺部隊が既に向かっているはずだ。宮廷に真っ直ぐ向かえば良し、何かを察して逃走すれば彼らがその手を汚すことになっている。腕は確かだ、策は万全といえるだろう。

 そこまで考えて、段珪は手を上げて意見を述べた。

「ところで、よいかな」

「なにかな、段珪殿」

「ちと、私は一度帰らせていただく。この有り様ではまずかろう、血の匂いを察して踵を返すやもしれぬ」

 中常侍の視線が集中した。確かに段珪の全身は隠すことの出来ないほどに血なまぐさい。

「そうじゃの、我々は着替えればよいとしても、段珪殿は一度湯浴みもせねばなるまい」

 その言葉に段珪は頭を下げて場を辞した。畢嵐が不安そうな目で見てくるが、内心舌打ちしつつ決して目を合わせなかった。段珪はそのまま人目を避けて自らの車まで急いだ。御者は目も耳もないような女である。どんなことがあろうと決して口外することはない。

 日も没してしばらく経った、誰に目撃されることもなかったろう。段珪は自らの広大な屋敷に戻ると、入り口で大声を出した。

「誰かおらぬか」

 間もなく一人の女が急ぎ足でやってきた。つい先日雇ったばかりの下女で、素性は念入りに洗ったが怪しいところはなかった。戦乱の憂き目に遭い上洛してきた流れ者で、屋敷の出入りの業者の一人であったのだが、段珪はなぜか初めて見た瞬間この女を雇おう、と思った。丁度元々雇っていた者が無礼を働き手打ちにしたがゆえに昨今家事がままならなくなっていたのだ。雇い主に無理を言って仕事をやめさせ、今はこの家に仕えさせている。

「これは、旦那様!」

「騒ぐな、返り血だ。湯を浴びる」

 話す度に、凝り固まった血液の欠片が自らの顔からひび割れ、パラパラとこぼれ落ちていくのがわかった。

 女はこくりと頷くと、駆け足で湯を用意しに向かった。

 この洛陽において、常に湯を備えている贅を許されている者はどれほどいるであろう。その中の数少ない者の一人が段珪であった。数える程の時間で女中は段珪を呼びに戻ってきた。頷いて湯浴みの広間へと足を向けた。

「さ、お召し物を脱いでください」

 驚き逃げていくと思った女中であったが、意外な積極さを見せた。段珪はわずかにたじろいで聞き返した。

「聞かぬのか、誰の血か」

「聞きません」

「なぜ聞かん」

「なぜって、この国を統べる中常侍の段珪様なのですから、血にまみれるくらいのことはあるでしょう。さ、お脱ぎになって」

 たかが女中がきいた風なことを言うと思ったが、段珪は不快ではなかった。黙ってその女の手に体を任せると一糸纏わぬ姿になった。

 女は湯で段珪の体を流すと、その上から布で体を拭った。布は一度使えば真っ赤になり、その度に代わりの布を取り出して段珪の体を拭く。あらかた血が流れ落ちると、何か香りの立つ油で段珪の体を拭き始めた。

「椿か?」

「さすが旦那様でございます。椿の油でございます」

「血の臭みがこれで消えるのか?」

「さあ、ですがよい香りですよ」

 女は臆さなかった。段珪の股間にあるべきものがないことにも、おぞましい傷跡にも臆さなかった。段珪は奇妙な心地よさを感じていた。それは湯のせいだろう、と思うことにした。あるいは政敵が消えたことによるものにした。懸命に天下国家のことを考えた。女の手が六十にさしかかろうとする段珪の老いた体を丁寧に拭い続ける……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――中常侍からの招集命令。それは拒めぬ絶対的な命令である。

 

 宮殿に上がるためには正装が求められる。二人とも夕飯さえそこそこに身繕いにいそしんでいた。華雄は馬車を用意しに馬小屋へと向かっている。部屋には二人きりだ、既に明かりの乏しい深夜と言えるが、豪傑として名高い華雄が御者を務める馬車ならば何の問題もなく宮廷にたどり着けるだろう。二十人の衛兵で固めるよりも華雄一人の方がより信頼できる兵力である。

「こんな夜更けに、一体何の呼び出しかしら」

 董卓の髪を梳かしながら賈駆は呟いた。董卓は曖昧に頷くだけで答えようとはしない。その度に美しく白い髪がさらさらと流れた。

 二人の間でこのような居心地の悪いぎこちなさが何度となくまとわりつくようになったのは、思えば今年に入ってからである。

 生まれ育った涼州で、誰よりも長い時間を過ごしてきた二人。権力争いの壇上に上がることになってしまい、安寧を手に入れるためには否応なく権力闘争の泥沼に身を浸さなくてはならなくなったが、その代償として友情を差し出さねばならないなどとは、まさか賈駆は考えたこともなかった。董卓の安全、董卓の幸福。そのためにはどれだけ身を粉にしようが構わないという覚悟はある。だが、だからといって二人の関係を生贄にすることなど受け入れがたい。

 宦官とのやり合いに自軍の管理、新たに管轄することになった并州とのやり取り。それら全ての決裁に報告。賈駆の繁忙さは洛陽で間違いなく随一であった――忙殺の極みも、全ては董卓のためだったというのに。

(ボクは、一体どこで間違えたんだろう……)

 思いは口に出すことが出来ないままもやもやと広がり、賈駆の脳内を黒い霧で覆ってしまう。

 董卓の髪を整え終えると、今度は賈駆の髪を董卓が整え始めた。下ろしていた賈駆の髪を丁寧に三つ編みにし始める。いつもなら手慣れた様子でさっと編みこんでしまうはずが、董卓の手は震えていた。普通の様子ではない、賈駆は後ろを振り向くことさえできない。

「詠ちゃん……」

「うん」

「私、怖いの……」

「怖い?」

 董卓は震えていた。冠が小刻みに揺れている。

「みんな、死んでいくんじゃないかって……えらくなっても安全になんかならなくって、周りには誰もいなくて……一人ぼっちなんじゃないかって……」

「そんなことないよ」

「そんなこと……あるの……」

 三つ編みを編んでいた手が離れた。後ろを振り向くと、董卓は自らの肩を抱きその場にうずくまるように背中を丸めていた。賈駆はその隣に寄り添いその肩を抱くことしか出来なかった。

 

 ――権力闘争の真只中に放り込まれ、董卓は孤立を味わい、未来への暗い予感に怖気を感じていた。

 

 霊帝の御代、外戚の肝とも言える何一族の皇女に近づくべし、というのは賈駆の提案だった。外戚と宦官の間で、いずれ熾烈な権力闘争が起こるであろう。その時にどちらに付くか、当時は未だ明確にすることはできなかった。より厳しい判断を迫られる宦官には賈駆が、信頼を得るために皇女に近づくのは董卓が担う――涼州軍閥を纏めあげた二人。洛陽に進出した後に取った作戦はそれぞれが権力の両端に接近する、というものだった。

 間もなく先帝は崩御し、董卓は皇女ではなく皇帝に侍ることとなった。その仕事は重要さをいや増した。幼帝に取り入り、その存在に一歩でも近い位置にいることが肝要。二人は何度も話し合い、その度に賈駆は懇願するように提案してきた。

 

 ――皇帝は幼く宦官にも外戚にも抵抗できない、その無力感を癒す存在だけでよい。後の実務は全て自らが担うから、董卓にはその一点だけを担って欲しい、と。

 

 言葉通り、董卓は皇帝に近づくことを成した。同じく涼州と并州の軍団をまとめ上げ最大兵力を確保、維持成し得た賈駆と同じように。

 賈駆は自らが下したその判断が戦略面で間違っているとは思わない。しかし、仮に正しかったとしても董卓への負担が多すぎたのではないかという疑念は常に胸のうちにあった。そしてその疑念は、今明確な形となって目の前にいる守るべき少女の心を侵してしまっている。

「……ごめん、ごめんね月。ボクが一人にさせたから」

 振り向き、賈駆は董卓の白い肌をそっと両手で包み込んだ。温かく、やわらかい肌は微かに濡れている。董卓は泣いていた。

「違う、違うの……私、私が悪いの……私のせいで……!」

「月、悪いだなんて」

「悪いの……私が、私が余計なことを……」

「余計なこと? 余計なことって、なに?」

「……」

 途端、董卓は黙りこくってしまった。

 近頃、董卓が懸命に何か動いていることを賈駆は気づいていた。

 皇帝に仕えればいいとはいえ、洛陽に来てからというもの鬱々と日々を過ごすばかりで毎日黄昏てばかりいた少女。だがそれがここ最近は笑ったり悩んだり落ち込んだり、表情が増えたのだ。賈駆は日々権謀術数の綱渡りを繰り返しているのだ、人の心の機微には敏感になる。董卓はきっと何かをしている、という漠然とした気づきは当初よりあった。

(そしてそれがうまくいかなかったということも)

 慰めの言葉を見つけようとして、賈駆は自分がその手の言葉をかける資格がないことに気づき唇を噛んだ。知恵も知識もある。だがここでかけるべき言葉も見つけることの出来ない自分は、最も根本的な優しさのかけ方さえわからない――

「詠ちゃん、私、詠ちゃんに言わなきゃいけないことがあるの……」

 心配するな、なんでも受け止めてやる――そう言うよりも行動で表したかった。賈駆は董卓の手を自らの手でそっと握った。董卓の目に再び涙が浮かび、喉も震えている。ここまで彼女を苦しめる苦悩とは一体……

「あのね」

「うん。言って。ボクは月の味方だから。絶対に守るから」

「あのね、私!」

 

 ――決死の言葉。だが、董卓の告白は途中で寸断された。彼女たちの部屋に居るはずのない者たちが闖入してきたからだった。

 

「こんな夜更けに出かける準備ですか。いったいどちらへ?」

 声は驚くほど近くから発せられた。風に舞い踊る窓辺の布。音もなくやってきた李岳。片手に下げた天狼剣が不気味な光を放っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝廷へ出向くための馬車の用意をし、手綱を持って二人を待っていた華雄。彼女に飛来した天啓のような異変への察知は、迷わず己の得物である金剛爆斧を握らせた。七十斤をゆうに超える超重量の大斧は人体を破壊するには過剰な造形と言えた。それを軽々と担いで華雄は鬼の形相で走った。全速力で屋敷に駆け戻ると普段開け閉めしている扉を勢い任せに蹴破る。

 常は暖かい空気に包まれているはずの見慣れた部屋が、そのような団欒など雲散霧消した修羅場と化していた。何人もの狼藉者が光り物をきらめかせ、董卓と賈駆の二人を取り囲んでいる。華雄の怒りは一挙に沸点へと到達し、白熱した脳裏の内を殺意が渦を巻かせた。

 領袖と思しき人間には見覚えがあった――李信達!

「動かないで頂きたい、華雄将軍。貴方が今この場で飛びかかってくるよりも、私の刃がお二人の首を刎ねる方が早い」

「貴様っ!」

「大声も厳禁ですよ」

 怒りと悔しさでへし折れるのではないかと思うほどの握力で得物を握りしめた華雄。その背後から近づき鋭い大刀を突きつけるものがいた。

「そういうこっちゃ。じっとしといてもらおか」

「張遼!」

「賈駆っち、おひさ~」

 冗談めかしてひらひらと手を振る張遼ではあるが、右手に掲げられた偃月刀は油断なく華雄の喉元に切っ先を向けている。龍の(あぎと)のような残忍さを想像させる刃紋である。

「恥ずかしくないのか……張文遠!」

「せやから、静かにしろっちゅーに」

 ほれ、と促した張遼に従って華雄は砕けんばかりに歯を食いしばって武器を放った。ズシン、と床に沈み込みかねないような音を立てて金剛爆斧はその手を離れた。

 頼みの綱であった華雄までも拘束されてしまい、賈駆は苦虫を噛み潰したような顔で李岳を睨みつける。

「いったい、何の真似……?」

 もう抵抗はないだろう、と考えて李岳は武器をしまった。不自然なまでの愛想のよい笑顔で賈駆に小さく会釈する。

「いくつか聞きたいことがあって参った次第です。お手間は取らせません」

「こんな真似して、抜け抜けと……!」

「ご容赦ください」

 まるで暖簾に腕押しのような手応えのない笑顔であった。対応も抵抗も交渉も、まずは相手の目的を知らねばならない。賈駆は脳内で複数の推理を疾走させた。交渉の余地はあるだろう、なければとうに死んでいるのだ。

「聞きたいことって、なによ!」

「まず、こんな夜更けにどこへ向かおうとしてたのか答えていただきましょうか」

 知らない、と言いかけた賈駆だったが、李岳の瞳だけが笑っておらず鈍く冷たい光を放っていることに気づき後ずさりした。人の命など蚊ほども重要と思っていない目だ、これは――瞬間、己が怖気づいたことに賈駆はかすかな敗北感を覚えたが、李岳の瞳はそれほどまでに暗く、恐怖で人を呑まんばかりの色をしていた。

 

 ――何がこの男をそんなにも怒らせたのか。双方、共に友好的と言えたはずだったというのに。

 

 大陸有数の聡明な頭脳が全力で回転しても、明確な答えは賈駆の脳裏に湧いて出ることはなかった。丁原は助けた、李岳は出世した、一体何が不満だというのだろう……思い当たる節がないのだ!

 だがとにかくも答えなくてはならない。刃は納めたが、肝心なものを収めた顔ではない。半端な答えを与えれば、この男は笑顔で自らの首ばかりでなく、董卓の首さえ容易く刎ねるだろう。

「……これよ」

 賈駆は懐から先ほど華雄より受け取った手紙を見せた。李岳はそれを受け取るとふむ、と顎に手をやって考える。数える程の時間だったが、李岳は再び人の神経を逆撫でるような笑顔を浮かべて手紙を賈駆へと返した。

「なるほど、間一髪、というところですか」

「……何が、なるほどなのよ。何が間一髪だというのよ」

「まぁ、良いではないですが。さておき招集は蹇碩殿の件ですね」

 文面には集まれということしか記されておらず、内容は当て推量となるほかないが、李岳は賈駆と同じ答えに辿り着いた。だがそのくらいは知っていて当然だろう、何せ宮中の護衛を司る執金吾なのだ。行方不明になっていた蹇碩の消息は目下最重要事項である。深夜に呼び出すのであればその件について以外ないであろう。

 賈駆に書面を返すと、李岳は再び意味深な笑みを浮かべて歩き始めた。人差し指を眉間に当てて、賈駆の周りをクルクルと回る。ふむ、なるほど、と呟いたかと思うと、また殊更に朗らかな笑みを浮かべてその人差し指を賈駆に突き付けた。

「のこのこ殺されに出向くところだった、というわけですか」

 唖然として、賈駆は思わず拳を握った――ふざけたことを!

「なにを、馬鹿な!」

「意外とおめでたいのですね、お二人とも」

 

 ――なんという増上慢! なんという厚顔無恥!

 

 仮にも執金吾の位にありながら、并州牧の地位を戴く董卓の屋敷に押し入り刃傷沙汰に及ばんとしている狼藉、しかも丁原の釈放に尽力したという恩さえ無視してこの放言!

 怒りに打ち震え、まともに言葉を紡ぐことさえできない賈駆に向かって、李岳はさあご覧あれ、とばかりに一枚の懐紙を広げて見せた。

 半分がどす黒く染まり完全には解読できない――それは血である、と賈駆はすぐに察した。おぞましき代物であるが、したためられたその一枚の価値はやんごとなきものであった。最初の一文字目は見紛う事なき『朕』の字が記されていたのである。

「勅命……」

 勅文はところどころ読めないが、それでも大意は把握することが出来た。曰く、次代の皇帝に相応しきは弁皇女ではなく、協皇女である、と。

「……これは、先帝の勅?」

「さすが、御明察です賈駆殿」

「なぜこれを貴方が」

「これは、亡くなられた蹇碩殿の持ち物でした」

 亡くなった――蹇碩が死んだ!

「そんな、まさか」

「死んだのです。そしてこの勅文こそが蹇碩殿が死なねばならなかった理由なのです」

 勅文を取り戻すと、李岳は講釈するように朗々と話し始めた。

「この勅の存在をどうやって知ったか、陛下は焦ったでしょうね。せっかく手に入れた帝位がいきなり危うい。禅譲や簒奪に怯えなければならないし、何より自らの権威に傷がつく」

 皇帝の苦悩はいかばかりか、その心中は容易に察しが付く。

 大々的に摘発しても不味い。何せ蹇碩の行いは正しく忠臣と言え、落ち度はなく、また全力で抵抗するのは明らかだった。帝は雲上人とはいえまだ幼く周囲の協力者も心許ない、誰が忠臣であり誰が翻心を抱いているか定かではない。宦官に政治力で対抗できる地盤もまだない。際どい勝負となる――あるいは皇帝自身の意志ではなく、外戚の何進が勅を出せと命じたのかもしれない。

「先帝の勅が開示されれば、即位して間もないというのに途端に周囲から侮られてしまう。協皇女を実際に担ぎ出して廃位を狙う、という動きさえ出かねない。宦官、宮中の有力者、地方の諸侯……それら全てに偽帝として見限られれば、いくら外戚が味方したとて玉座にて安寧というわけにはいきません。しかも託された相手は蹇碩……厄介な相手だ。取引に応じそうもないし、何より中常侍の一人です。皇帝さえ脅かしかねない力を持っている。安易に取引を持ちかければ新たな不安材料を相手に渡すことになりかねません」

「……つまり、暗殺?」

 言葉を継いだ賈駆に、そう! と李岳は柏手を打ち喜んだ。流石は賈文和殿、と称賛さえ惜しみない。

 興が乗ってきた、とばかりの李岳はまるで小躍りせん程の調子であった。それが何より不気味であり、恐ろしく、陣営を同じくする張遼でさえ顔から色を失っている。

「しかしこれもまた怖い。中途半端な仕掛け人を立てても返り討ちが関の山だ。蹇碩殿は世に知られた凄腕です。上軍校尉でもあった。よほど腕の立つものでなければならないし、上位のものであってもならない。事を成した後に功績を誇れば軍閥化に繋がれば面倒この上ない。新たな不安要素として火種を抱えることになりかねないからです」

 李岳は右手の指を一本ずつ広げながら言った。

「腕が立ち、出世に興味がなく、世から注目を浴びてもいず、そして弱みを握ってさえいる武人……」

 そこまで言うと、李岳は再び指を折ってぎゅっと拳を握りしめた。その顔に既に笑顔はない。能面のような無表情のまま、李岳は予想外の方向に言葉を発した。

「董卓殿、顔色が優れないようですが」

「あ……」

 賈駆ははっとして董卓の顔を見た。陽の光を知らないような白い顔は、その白さを通りこして真っ青になっていた。

「董卓殿。我が母、丁原を皇帝に差し出しましたな?」

 

 ――賈駆と董卓が悲鳴のような呻き声を上げたのは、全く同時のことであった。

 

 驚愕に、董卓に駆け寄りその肩を掴んだ賈駆を李岳は怪訝な表情で眺める。

「おや、賈文和殿は本当に知らなかった?」

 しかしその言葉も賈駆の耳には届かない。脳内で幾筋も同時に走っていた推理、脚本が一度に破綻してしまった。陰謀、工作、策動――そういった物は全て自分の役割だったはずだ、まさか董卓までもがその一端に関わっていようとは……しかも、この自分に知らせることもなく!

「丁建陽はね、刺客となったんですよ。董卓殿の指図によってね。そして、死んだ」

「月……?」

 李岳の言葉にも、賈駆の言葉にも董卓は答えない。ただ俯き、何かを拒むように沈黙を守るだけである。

 主犯の苦悩など知ったことではないと、李岳は罵倒が如き言葉を浴びせ続けた。

「貴女は利用したんですよ、丁原様を。丁原様は断れなかった。なにせ、自らの釈放に尽力してくれた貴女の頼みなのですから。それに、みすみす今の皇帝が廃位になれば、その身を守るはずの官位にある者の多くが責を問われ、連座して罪に服すことになるのは明白だからです」

 一歩、董卓に近づきながら李岳は聞いた。

「その筆頭は誰だと思います?」

 一歩、董卓は後退りする。だが彼女の歩みはあまりに覚束ない小ささで、二人の間の距離は否応なく狭まっていた。

「執金吾ですよ。つまり、私です」

 再び一歩李岳は近づいた。董卓は動けない。とうとうその場にしゃがみ込むのではないかと思える程に縮こまってしまっている。その肩が震えているのは誰の目にも明らかだった。

「そこまで読み切っていたかどうかはわかりませんが……現実は一つです。貴方は、私を人質にとって我が母を暗殺者に仕立てあげたのですよ」

 李岳は哄笑した。乾いた、悲しい笑い声だった。息が切れるほどの笑いである。その異常さは容易く人を傷つけかねないほどの不安定さだった。その笑いの攻撃力の全ては董卓の小さな身体に直撃している。

「油断していましたよ、本当に恐ろしい。丁原様を助けて下さったとき、私は心の中で心底感謝しましたよ。ですがそんな気持ちまでも嘲笑っていたのですね。貴女は……やはり魔王だ」

 

 ――そう囁いた言葉を最後に、李岳は一度は納めた剣を抜いた。

 

 天狼剣の肉厚は、小枝のような董卓の体を傷つけるにはあまりに過剰な殺傷力を予感させる。董卓は面を上げ、初めて李岳の瞳を直視した。涙はポロポロとこぼれ続けているが、その瞳の色はある種の覚悟を感じさせる。

「そう、私のせいです……」

「認めるのですか?」

「私が、私が丁原様のお名前を出さなければ、あのようなことを思いつかれるはずはありませんでした……けど、帝は一生懸命だっただけです。悪いのは、この董卓です……」

 李岳が刀を突き付けた。燭台の輝きさえ飲み込んだ天狼剣の刀身が真っ直ぐ董卓の体に相対する。させまい、と華雄が飛び込みかけるが張遼が床に組み伏せ遮った。復讐が成されようとしていた。彼我を遮る盾はもはやなかった――両手を広げた賈駆の体以外は。

「させない!」

「……二人まとめて冥府へ行きますか?」

 李岳の言葉に、董卓が小さな体の全てを使って賈駆を押しのけようとした。

「やめて、やめて! こ、殺すなら私だけにして下さい! 詠ちゃんは関係ないの!」

「月!」

「悪いのは私……悪いのは……私!」

 不意に、別れの瞬間が今この場に迫ったということが明確に察せられた賈駆は涙をこぼした。人生最後の時とはこうも呆気無く訪れるのか。李岳の突きつけている刃が異様な輝きを放っている。この黒い刀身は董卓のか細い首など糸の束を断ち切る程度の容易さで刎ね飛ばしてしまうだろう。そしてそれは己も例外ではない。

 賈駆は縋ってくるような董卓を抱きしめて、李岳の前に立ちはだかった。

「月を殺すなら、ボクも一緒だ! 月のいない人生なんて意味なんてない!」

「だめ、だめ、やめて……お願い、死ぬのは私だけ!」

「月だけは見逃せ、李信達!」

「だめぇ!」

 二人の言葉が重なりあい、宵闇の中で木霊しては部屋の中を何度も往復した。李岳、張遼、華雄、そして影に潜んでいるのは黒山賊の廖化とその郎党――誰もがその悲痛な叫びに胸を痛め、鼻の奥を痺れさせた。

 董卓と賈駆は答えた。次は李岳の番である。周囲の蝋燭に包まれて、己の分身のような影に四方を囲まれた李信達は、一際盛大なため息をこぼした。

「殺しませんよ。なぜなら、放っておけば貴方たちは勝手に死んでしまうからです」

「何を言ってる」

 李岳は再び書面を掴み、ひらひら見せつけた。

「先ほど申したじゃありませんか。のこのこ死ににいくのか、と。これは、貴女方を亡き者にするための暗殺計画です。貴女たちは宮中まで自らの首を差し出しにいくところだったのですよ」

 色も声も失った賈駆に向けて李岳は言葉を続ける。

「私ごときでさえ、董卓陣営と皇帝が繋がり蹇碩殿を討ったことを察せたのです。この国の頂点にまで上り詰めた海千山千がこの程度の推理をできないとは思えません。完全に読み切ってるはずだ。好機と捉えたはずです。貴女方は今やこの洛陽の最大勢力なのですよ。涼州、并州の兵力を併呑しているんです。そんな実力兵団の統率者が皇帝と正面から接続することを認めるはずがないでしょう――外戚派を一掃する好機でもある」

 外戚派――李岳の言葉の真意を賈駆は即座に理解した。

「――まずいわ。大将軍も呼ばれているのよ!」

「まぁ手遅れでしょうね」

 事も無げに述べる李岳であったが、周囲の者全ては驚愕に呻いていた。

「何進が、死んだ? そんな」

「上軍校尉であり、先帝の勅命を携えていた蹇碩殿が何者かに暗殺された……外戚派の画策ととらえるには十分です。粛清する理由が出来た、中常侍の面々は笑みをかみ殺していたに違いない。一石二鳥とはこのことだ、とね」

 李岳は抜き放ったままでいた天狼剣を鞘に納めた。先ほどまで発散していたむせ返るほどの殺気は既に消えている。

「助けてやる」

「助ける、ですって」

「貴女方を救って差し上げてもよろしい」

 耳打ちするような声音であった。

「宦官を敵に回し、もはや中央では立つ瀬がない。涼州に戻ったところで多少の金で売られてしまうのが関の山だ」

 賈駆はゴクリと唾を飲んだ。過去例にない緊張が彼女の臓腑を締めあげていた。人生の瀬戸際とは、今ここで違いないのだと確信できた。

「私は、貴女たちが憎い。今の皇帝もまた憎い……母は、丁原はこの国に尽くしてきた。戦い抜いてきた武人だ。それが、権力闘争の駒にされて死んだ……無念に過ぎる」

 言葉の哀しみとは別に、李岳の瞳は微動だにしない。だがその黒い(まなこ)の内奥から立ち昇る闘気が、悲しみと無念さで動揺しているのが、張遼と華雄の目にだけ見えた。

「だが……ここで貴女方をなで斬りにしたところで意味はない……母の本意でもない……気高きことでもない」

 李岳は目を閉じ、大きく息を吸って吐いた。はあ、と吐き出した息の中にどれほどの気持ちがこもっていたのか、傍目にはわからない。怒り、悲しみ、八つ当たりしたくなるようなやり場のないもどかしさ……そういったものを全て排泄してしまったかのように、再び顔を上げた李岳の表情からは暗い陰が立ち消えていた。

「董卓殿、一つ質問に答えていただきたい」

 李岳はその場で片膝を突き、董卓にずいっと顔を寄せた。心の奥の真実を覗こうとするその目――董卓は逃げ出したい気持ちをこらえて、正面から相対した。

「今の皇帝は何を考えているのか、です。なぜ、帝位に固執するのか。なぜ権力を欲するのか……私の母は死なねばならなかったのか」

 董卓は答えた――わかりきった答えを口にした。

「陳留王殿下――妹君であらせられる劉協様の平安のために」

 天を仰ぐ李岳。劉弁は劉協のために帝位を欲し、固執している。自らの予測の一つが当てはまった喜びなどどこにもなかった。

 

 ――誰も帝位など望んでいなかった。そう望んだのは周囲だけ。劉弁は外戚の横暴にも宦官との対立にも辟易していた。自らの母が正気を失っていく様をつぶさに見てきたのだ。毛ほどの価値も感じなかったに違いない。

 

 しかし、その椅子を自分が蹴れば、次にすえられるのは妹の劉協である。まさか押し付けられるはずもない――誰よりも玉座のおぞましさを知っているが故に、誰よりもその玉座を欲せざるを得なかったのだ。

 そして同じように賈駆は董卓の平安のためには勝つしかないと思い込み、董卓もまた賈駆を戦いから解き放つには皇帝の次席にまで上るほかないと考えている。

「帝は妹君殿下のために……そして董卓殿は賈駆殿のため、賈駆殿は董卓殿のため、ですか……」

 やり場のない怒りに李岳は呻き歴史と政治の戦犯なき暴虐性に気が遠くなる思いだった。権力闘争はかくも虚しく愚かで、いみじくも人の命運を翻弄させるには打ってつけの舞台だ。そして間違いなく、その全てを眺めて笑みを浮かべている黒幕が潜んでいることを、李岳は知っているのであった。

 李岳はあらためて董卓と賈駆の顔を見つめた。親友を助けるために才知を磨き、たった一人で戦争に勝ち、たった一人で権力闘争を凌いできた少女。そしてその主であり、戦いには不向きであるくせに孤立した帝を見捨てることが出来ず、憂き目に苦しみながらも耐え忍ぶ少女――二人共、一度は自分の母を助けてくれた人でもあった。

「……あらためて聞く。行くところがあるのか? もはや朝廷は董卓という人間を不穏分子としか思っていない。大将軍何進を殺したんだ、外戚は悉く排除されるだろう。宮中は宦官の独占となり能吏は逃げる。皇帝は孤立し傀儡となるほかないだろう。もはや進退は窮まっている……条件さえ飲めば助けてやる」

 沈黙は答えとは言えない。李岳は宣言した。返答もまた、宣言であるべきだった。

 董卓と賈駆は束の間その視線を交わし合った後、静かに右手と左手をつないだ。固く指を絡ませた両手は、どのような怪力であれ再び離すことは出来ないように思われた。

 それを、李岳は宣言だと受け取った。

「君臨しろ」

 

 ――君臨。

 

 その言葉に二人は怯まず、董卓はうなずきもせず静かに見つめ、賈駆は冴え渡る智謀をその眼鏡に輝かせた。

「この国を支配するんだ。皇帝には権威を残せ、だが除く他の全ての実権を手中にしろ。全てを差配し決定しろ。そして天下を再び泰平に導く……」

「天下を泰平に……それが、貴方の目的なんですか?」

 董卓の言葉には力がこもっていた。

「そうだ」

「争いのない、世が?」

 こくりと頷いた李岳の瞳――董卓はその目を信じた。

「そのために、私が必要なんですね」

「犠牲になってもらう。裏切りは許さん」

「わかりました」

「月!」

「いいの、詠ちゃん。だって、私たちがしてきたことの続きなんだから……それを、手伝ってくれるっていうんだから……李岳様は私たちを許してくれている。それに応えなくちゃいけない。そうですよね」

「……知らん」

「ただ、一つだけ条件があります」

 董卓はそっと手を伸ばし、李岳の左手の裾をつまんだ。それは何かにすがるような仕草であった。わずかに俯いたまま数秒、やがてはっとする程の可憐な笑みを浮かべるや董卓は言った 

「いつか、私を殺して下さい」

 

 ――風が吹く。燭台がゆらめき、董卓の表情に複雑な陰影を示した。

 

「私は私が怖い……権力は、本当に怖いんだと思います。私は自信がありません……先ほど言った魔王という言葉……そう、自分の中に魔王がいるのではないか、という恐怖です……」

「怖い、と?」

「はい。いつ手遅れになるやも。そのとき、私を止める人はいません。だから」

「わかった。お前は、俺が殺す」

「約束です」

 だが、と李岳は言葉を続けた。裾をつまんでいた董卓の手を取ると、真正面から握り返す。

「易々と死ねるとも思うな。それが罰だ。あるいは死ぬよりもつらい。脱落を許されぬ、天上まで続く血塗れの(きざはし)を上り詰めてもらう」

「それを、貴方は一緒に上ってくれるんですね」

「ああ」

「そこまで言ったんだ、嫌だといっても引きずりあげるわよ」

 董卓と李岳が組み合わさった手に、賈駆も手を乗せた。董卓が目を瞠るような強さを発揮している。それにたじろいでばかりいるのならば、親友の資格などどこにあろう!

「それでいい。俺はお前たちを利用する。お前たちも俺を利用しろ。主従ではない、戦友でもない……だが、俺はいつも隣にいるだろう」

 董卓は頷き、先ほど震えて後退りばかりしていた足で……嘘のような力強さで一歩詰めた。賈駆もそれに続く。二つの小さな体からどこから湧いてくるのか、李岳こそ後退りせんほどの迫力だった。が、退けるはずもない。李岳は空気が圧縮されたような圧力に抗しきった。

 董卓が言う。

「血の階を」

 李岳は答えた。

「共に」

 

 ――どちらからであったろう。見つめあっていた二人は自然と己の真名を口にした。契約である。国を賭し、命を賭した死の契約であった。


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