真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第三十八話 落ちてみよ、天の雷撃

 三百を声に出さず数えた。廖化が御者を務めた馬車の音は既に遠くなり聞こえない。静けさの中、しんと冷えた冬の終わりの冷気が夜に染みている。

「さ、行こう」

 李岳は明かりのない部屋の中、立ち上がると出口へ向かった。その後ろをぞろぞろと皆が続く。既に明かりは消したので手探りだ。

「だ、大丈夫なの……? 他にも手の者がいるかもしれないじゃない」

「そんときゃそんときやで、賈駆っち」

「そんな、出たとこ任せな……」

「実際そうだよ。まぁなんとかなる、と思う他ない」

 張遼と李岳の返答に、賈駆は呆れたように頭を抱えた。并州から来たやつらはどうしてこうも大胆というか、後先考えないのだろう? 

 賈駆の心配をよそに、李岳はこれから成すことについて考えていた。

(史実のように皇帝を拉致させるわけにはいかない。董卓がこの場にいるんだ、訳のわからないやつに保護されでもしたらとんでもないことになる。そして中常侍に……劉岱。やつらは必ず捕まえなきゃな。イレギュラーだらけの中で厳しい条件だけど、とにかくやるしかない)

 一刻を争う切羽詰まった状況である。だが岳の内心に焦りや動揺といったようなものはあまり湧いてこなかった。雁門での戦いが、偶発的な出来事への耐性を李岳に植えつけていた。状況は刻一刻と変わるだろうが、その全てを予想することなど出来やしない。ならば心構えだけをしておけばよいのだ。多少未来を知っているからといって自分を万能だと過信することこそ最も愚かなこと、と戒める。

 屋敷の戸を静かに開け、そのまま腰をかがめて大通りを走り抜ける。廖化の手の者があたりを警戒しながら、なるべく人の目のつかないような道を選んでくれた。斥候としても動いている。どうやら追っ手はいないようだ。廖化があのまま全ての敵を引き連れ撃退してくれることも期待できる。

(廖化……手筈通りいけば今頃敵を片付けて宮殿へ先回りしているはずだ)

 張遼や赫昭、陳宮にすら相談できないことを、李岳は廖化にだけは話せた。厳しい状況を任せっぱなしということについての罪悪感もあるが、他に頼れる者もいない。張遼や赫昭はあくまで陽の人材だ。陰の人材といえば廖化の他は自分しかいない、と岳は考えていた。劉虞の存在に宦官の暗躍。そういったことについて意見を求めたことも一度ではない。

 そうこうしているうちに李岳の屋敷に無事到着することができた。庭には既に五百の騎馬隊が臨戦態勢で居並んでいる。李岳の姿を認めると騎馬隊は直立で彼を迎えた。李岳、張遼、董卓、賈駆、華雄の順番で前に並んだ。李岳は整列した全部隊員に向けて言った。

「宮中へ向かう――これは訓練ではない」

 途端、異様な緊張感が五百人の肩から立ち上った。冷えた洛陽の空を白く煙らせる程の気炎である。

 実戦……幾度となく訓練と称して宮中へ至る道を駆け抜けてきた。怪訝な思いをした隊員も少なくなかったに違いない。

 外敵の到来などあり得ない洛陽で、このような深夜に出撃する……ましてや指揮官は宮中の安寧を任務とする執金吾である。ただならぬ事態であるのは間違いない。

 一千余りの瞳の注視の中、李岳は告げた。

「繰り返す、これは訓練ではない。我らはこれよりただちに宮に討ち入る。敵は中常侍、および彼奴らに従う者全てだ。悉くを捕縛せよ、抵抗すればその場で斬れ。作戦目標は皇帝陛下、そして妹君であらせられる陳留王殿下の救出である」

 前代未聞の命令を受けうめき声さえ出ない。寒さに震えて息を荒げる軍馬の声がわずらわしく感じる程の静謐――政変、という言葉が多くの者たちの脳裏に浮かんだ。

「臆する者はただちに去れ。罪には問わない」

 李岳の言葉に誰も動く者はいない――この場に居並ぶ精兵五百は、賈駆の手練手管により一時は奪われた并州兵である。監視の目を出し抜いて巧妙に選抜し引き抜いた精兵中の精兵……

 丁原に付き従い北の国境を死守し続けた彼と彼女らにとって、雁門での雄姿を見るに李岳は第二の大将として文句がなかった。実は、丁原の実子であるということは公然の秘密として分かち合ってもいた。自らの将を放り捨てて逃げ出す弱卒などこの場には一人としていない。

 誰一人その場を辞さないことを確認して、李岳はうなずき言葉を続けた。

「宮での刃傷沙汰は天罰を食らうという。だが大義あらばその限りではないはずだ……初めの一人はこの李岳が斬る。正義が我にあるならば、決して天の雷撃は落ちぬだろう。見届けよ。この俺の生死が天の御意志だ、決して見逃すな――総員騎乗!」

 自らもまた黒狐にまたがり、李岳は手を差し伸べた。おずおずとその手を握った董卓を軽々と持ち上げ膝の間に座らせた。賈駆は張遼の膝の間である。

 門を出て通りに面した。大通りはしんと静まり返っているが、夜明けまでは二刻を切った。朝になれば大騒ぎどころの話ではない、洛陽をひっくり返す争乱になってしまう。そうなる前にケリをつけなければならなかった。

「天子様の御宸衷をお守りする……この李岳に続け、全速力で突破する」

 一瞬棹立ちになり、黒狐が夜の溶けてしまわんばかりの速さで駆け出した。振り落とされかけた董卓を片腕でしっかりと抱きしめ李岳は前方を見据えた。張遼と華雄がピタリとついてくる。騎馬隊も隊列を崩していない。

「いいんですか、冬至さん……」

 懐の中で、申し訳なさそうな声で董卓が言った。

「何が?」

「天罰を賭けてご自分が先陣を切るなんて」

「でなければ、誰もついてこないさ」

「けど……」

 まるで幼子だ――実際、李岳の中では董卓に対してのわだかまりは消え去っていない。完全に拭い去ることなどどうしても出来はしない。頭ではわかっていても、心の中にささった釘は容易く抜けはしないのだ――それでも、李岳は安心させるように小さく微笑んだ。

「ご心配なく。さ、もう話すな。舌噛むぞ」

「きゃっ」

 騎馬隊は直進する――宮を目指し、北へ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同刻。宮中。

 段珪は湯浴みを済ませ服を着ると女中を伴にして宮中へ戻った。女はもちろん殿上付近に近づくことは許されないが、控えの間に待たせるくらいのならば問題はない。

「あの、アタシなどがこのような場所で」

「よい、待て。荷もある」

「はぁ」

 要領を得ない女に、段珪はいくつかにまとめた荷物の面倒を見させる名目で控えさせた。見た目よりも力の強い女だった。もしもの備えのために持ってきた荷を一人で抱えている。

 議場へ戻ると中常侍の面々が先ほどと同じように、落ち着かない様子で待機していた。ひと目で董卓が未だやってきていないのがわかる。未だ放置されたままの何進の死体が妙に滑稽なもののように見える。

「お戻りか」

「はい」

 趙忠に小さな頭を下げて席に戻った。老人の細い目が意味深な光を放っているのを段珪は見逃さなかったが、いつもの仕草で腰を下ろした。

 董卓死す、の知らせは夜半を過ぎてももたらされていない。微妙な時間である。今宵の董卓に所用があったのなら到着が遅れるということもあるだろう。しかし何らかの異変を察知したのならば当然ここには顔を出すはずもない。

 二つの可能性の狭間で中常侍の面々は葛藤と懊悩で揺れ動いているのである。ひたすら待つ、ということがこれほどの苦痛だとは。何進を殺したことさえ後悔し始めている者もいるだろう。

 焦りから、怒鳴り散らす畢嵐を段珪が強い言葉で諌めた。焦燥しているのは畢嵐だけではない。董卓が異変を察したとなれば兵を挙げてこの洛陽を攻めこんできかねない。なにせ奴らは并州と涼州の兵力を併せ持った最大兵力の一角だ。まともな形で洛陽を出してしまえば尋常な騒ぎではなくなってしまう。

 段珪は、董卓は異変を察知したのだ、と確信していた。宮中からの招集である、一も二もなく飛んでくるのが原則。それに配下の賈駆は多忙を極めるであろうが、董卓自身は何かに急かされて生きているわけではないように思える。時折こちらを眼差してくる趙忠も、同じような考えであろう。

(だが……)

 だが、そうであるのならば『二龍』より借り受けた暗部の者が人知れずその命を断つはずである。心配ない、大陸随一の暗部の業だ、董卓はまともな形では死ねぬ。

 ふと、趙忠の瞳が未だしつこく段珪に向けられていることに気づいた。段珪は厠へ行くふりをして席を辞し、廊下を一つ曲がったところで待ち受けた。趙忠は程なくやってきた。その傍らには予想していた通り、劉岱と劉遙の姿があった。

「これは、劉公山様、劉正礼様」

「うん、楽にして。董卓の件だろう?」

「は」

 いつもの謎めいた余裕が劉岱から感じられなかった。劉遙の表情にもどこか緊迫した趣が感じられる。この少年に見紛う男たちもまた際どい勝負をしている。なにせ、趙忠を裏で操っているのはこの者たちに他ならないからだ。大将軍暗殺もこの男の指示なのである。

「さて、察したかのう」

 やがて告げられた趙忠の言葉に段珪も同意を示すように頷いた。流石に中常侍の中の領袖と思われる老人は見極めも早い。

「どう思う?」

 水を向けられた段珪は思案するまでもない、と答えた。

「やつはもう詰んでいます。暗部は盤石だと聞いております」

「それがさあ、連絡が途絶えたんだよね」

「……は?」

 劉岱の言葉に段珪はすぐに返事が出来なかった。董卓を囲んでいた暗部の者は数十に至る。一度その技を見たことがあるが、真昼間に洛陽の大通りで人を拉致することすら容易く行う連中だ。その者たちが夜に集団で、綿密に練り上げた計画の元で動いているのである。

「まことに?」

「しくじっちゃったんだって! 全滅だよ、全滅。げっそりするね」

 劉遙は巫山戯た仕草で肩をすくめたが、隠しきれぬ怒気が滲んでいる。

 連絡が途絶えた……それを杞憂と笑うことなど出来はしない。そのような甘い考え方はこの地位に至るまでに既に段珪の中からこそげ落ちてしまっていた。

「……逃れましたか」

「ありうるね。というか間違い無いだろう」

「二龍のお二人は、どうされるおつもりで」

「いや、まだ何にも考えてないんだよねこれが」

 糞餓鬼どもが、と内心の怒りを趙忠も段珪も完全に隠蔽した。

「戦になるかのう」

 既に先のことを考えている趙忠に対して段珪も思考を続けた。立ち止まっている時間が何より惜しい。すでに大将軍は始末したのである、外戚悉くを排除し官僚の力を強化して天下を再び平静に導く、という企みは走りはじめたのだ。このような序幕で(つまづ)くことは許されない。

 

 ――本来なら、匈奴の暴動によってとっくにこの洛陽の支配を盤石にできていたはずである。

 

 昨年、漢に援助にくると見せかけて、餓えた狼の如く匈奴軍が洛陽に殺到するはずだった……そのどさくさの中で反対勢力を押し並べて抹殺し、全土に手配していた救援軍により匈奴を包囲殲滅する。その結果、宦官への軍事権の付与、全土に蔓延った諸侯を基盤とした政治制度の改革、匈奴という外敵の恐ろしさを全土に再認識させ再び洛陽に漢帝国全土の力を結集するはずであった。

 だがその計画は匈奴誘引という端緒において瓦解し、結局外戚勢力の排除も段珪はじめ中常侍が直々に手を汚さなくてはならなくなった。諸侯の力を削ぐことも出来ず、董卓一人の始末に手間取ってさえいる。

 段珪は内心のもどかしさをひとまず脇に置いて、懸命にこれからのことを考えた。

「董卓との戦……一旦城外に逃げてから挙兵し、押し寄せてくる……現実的ではないでしょうな」

「来ぬか?」

「大義を失する、地の利もない。帝に刃を向けるということにもなります」

「さて、どうかのう。捨ておいてもよいとは思えぬが」

「当然です。この地より出してはまずい。やつは并州牧。北を抑えられては甚だやりにくい。涼州も呼応すれば西北同時に相手をせねばならなくなります。最悪の場合、韓遂や馬騰をも糾合しかねませんぞ」

「どうする?」

 段珪の頭脳が恐ろしい早さで思考を紡いでいく。だが答えは出ない。董卓を逃がさないことこそがこの計画の要諦であった。直接的な武力を持たない宦官であるからこそ、強大な軍権を持つ者の排除が急務だったのだ。

「軍権……そう、我らが軍権を行使する他ありますまい」

「勅でも出させるのか? だが帝はうんとは言うまい」

「勅とさえ書いておればそれで良いでしょう」

 勅令を捏造すること――段珪は明言しなかったがもはや趙忠はその本意を疑わなかった。

 偽の勅書を作り、軍権を全て掌握する。疑わしきものの首は全て刎ね、一度この洛陽を政治的に更地にしてしまうのだ。そして一丸となって董卓に対峙する。皇甫嵩や朱儁、盧植などといった歴戦の勇将は(がえ)んじまい、真っ先に始末してしまえばよい。

 大将軍を排除したのだ、もはや怖いものなどない。段珪の考えは誰もが腹に溜め込んでいたがついに口に出せないままでいたものである。同意は容易く得られるはずであった。

「甘いんじゃないかなあ?」

 劉遙が着崩れた袍の裾を、ひらひらと漂わせながら言った。

「甘い、と申しますと」

「ご説明いたします」

 声は予想外の方から発せられた。闇から声がした、と思う程に気配がなかった。劉岱の声ではないが、彼の背後からの声であった。

 顔を伏せ、現れたのはやけに痩せた男であった。男は田疇(デンチュウ)と名乗った。劉岱腹心の部下だという。疲れたような、憂鬱そうなため息を何度もこぼしている。目の下にはひどい(くま)があった。

「どうも、事態は予想より逼迫しておりますれば……」

「どういうことだ」

「董卓が自力で逃れたとは考えにくいのです」

 田疇の言葉は段珪の意表を突いた。確かに、考えてもみなかったことだがあの董卓が自力で包囲網を突破できたとは考えにくい。決して武断の者とは言えない非力な少女なのだ。

「誰かが助力した……と? だが、誰だというのだ」

「李岳」

 意外な名前が田疇から出てきた。時の執金吾である。并州で丁原に見いだされ、対匈奴の戦において名を上げた。

「証拠はあるのか?」

「ありません。勘です」

「勘だと?」

 笑おうとしたが、田疇の真に迫った表情に冗談や滑稽さは皆無であった。

「此方の計画を見破り、その裏を突く……李岳という男は既に数度に及んで我らを妨げました。此度の齟齬も何やら嫌な予感がいたします」

「我らの動きを読み切ったと? まさか、董卓への知らせは今日誰にも知られることなく渡したのだぞ。それを読み切るなどと、天より見下ろす以外に術があろうか。たかが一人の武辺者でしかない男にそのような才など」

「そうして侮り、首だけになった匈奴の王がおりました」

 匈奴の王――於夫羅は雁門にて死んだ。并州を死守せんとした丁原の方針のもと、李岳の手により射殺されたと聞く。

「……李岳、それほどの男か?」

「丁原を動かし、於夫羅を仕留めんとして策を練ったのは彼です。その結果、主であった丁原は獄に捕えられ、死にました」

「死んだ?」

「蹇碩殿と同じくして、丁原もまた行方知れずとなっていたのです」

 田疇の言葉の真意を限りなく正確に理解した――蹇碩暗殺の下手人は、丁原だったのである。

 丁原など、とうに失脚したものとして眼中から消え去っていた。なるほど、丁原もまた相当な腕前を誇る武人である。蹇碩と相討ちになったという話はある程度の説得力があった。

 しかし、これほどの情報――李岳の身辺を相当に洗っていなければ知り得ないはずだ。田疇という男は李岳を相当に警戒している。

「彼はあの匈奴の陰謀に携わった者たちを恨んでいます。獄に繋がれることさえなければ丁原は死ぬことはなかったと……」

「なれば、恨む筋は董卓にあるのではないか? あの者が実質的には暗殺指令を出したのだぞ」

「彼の恨みは匈奴誘引に端を発しております。恐らく此度の一件に関しても、帝や董卓ではなく、先帝に一筆(したた)めさせた我々の企てに対してその怒りを結実させているはずです」

「……どう動く?」

 田疇は一際大きなため息をついては答えた。

「おっしゃる通り、李岳は武辺者です。彼が動くとなれば、我らが最も困るものとなりましょう。すなわち、間髪入れずただちに武力による宮中の制圧」

「馬鹿な」

「してきます。彼は執金吾なのです。権限はある」

 執金吾……確かに正当性は主張できなくもない。なにせ大将軍を謀り暗殺したのは我ら中常侍である。それを宮中擾乱の罪で咎める、とすれば多くの者が耳を傾けることもありうる。面倒だ、と段珪は眉をひそめた。趙忠の表情など既に沈痛とさえ言える。

 田疇は天を仰ぎ見てはとどめの一言を口にした。

「……あるいは、このような状況になることを想定して執金吾を担うように動いていたのやもしれません」

「――馬鹿な!」

 段珪は田疇の言葉に気色ばんだ。いくらなんでも考えすぎだ、この男の中には怯えに近いものすらある。まともな判断とは言えないだろう。田疇の想像力が正しかったのならば、李岳は中常侍が大将軍を暗殺することを明確に予期していたことになる。あの男が執金吾を担うようになったのは昨年末に遡る。その頃から既にこの情勢を読み切っていたなどと――

「お疑いはごもっとも……ですが考えすぎということはないのです。考えても考えても、足りぬのです」

 もはや呪いがごとき何かに苛まれているような田疇の様子である。常より青いであろうその顔色は、既に土気色に近い。

「ま、いいじゃないか。備えて悪いということもないだろう」

「左様」

 劉岱と趙忠の合いの手に段珪はしぶしぶ頷いた。自身もまた、侍女に脱出の荷物を用意させて参内している、最悪の事態を常に想定する性質(たち)である。田疇の気持ちもわからなくはなかった。

 

 ――その時、鳥の鳴き声のような悲鳴が響き渡った。

 

「……来ました」

「ちっ」

 まさか本当にやってくるとは、と段珪は足元の現実が崩れていくかのような錯覚を覚えた。それにいくらなんでも早すぎる、数百とはいえ軍勢を整えるにはこの深夜であれば足並みを揃えるだけでも二刻はかかるはずだ――段珪の中で、田疇の言葉の節々が急速に真実味を帯びてきた。

「外戚を排し、いざこれから、という直後になんたること……相手は并州からやってきたばかりの男と涼州の豪族上がり……このような暴挙、なぜ天は見過ごしているのか!」

 趙忠の嘆きさえもはや虚しくさえある。段珪は内心の葛藤を力任せに抑えこむと、次の事態を考え始めた。

「捕まれば終わりです。すぐに脱出を。重装歩兵を盾にすればしばらくの時間は稼げるでしょう。我々にとっては皇帝こそがまさに手中の玉。すぐに連れださねば」

「陳留王も、でございますな」

 田疇の言葉を次いだのは劉岱であった。

「陛下と殿下は僕と紗紅がお迎えに上がる。趙忠、中常侍を皆大議場に集めてよ。脱出路を確保してから迎えをよこす」

「おお。これは、痛み入りまする」

「潁川から汝南へ落ち延びる。揚州まで逃げることになるが、やむを得まい」

 劉岱の言葉に劉遙は、うん、うんと覚束ない仕草で頷いた。寝ぼけ眼をこすってはいるが、眼前の劉遙は揚州刺史である。確かにその地まで逃げ延びればやりようはある。名士の袁術が割拠する地でもある、天子の価値をよく理解し冷遇することもないだろう。

 会議は解散と相成った。趙忠は議場へ向かい、他の者たちに知らせに向かった。段珪は侍女を迎えに遠回りをした。

 女は断続的に聞こえてくる、深夜の宮にそぐわぬ騒音に怯えた様子であったが、健気にも逃げ出さずに待っていた。手持ち無沙汰でやきもきしていたのだろう、段珪を見つけるとはっきりとわかる程に安心していた。

「……旦那様!」

「異変が起きた。洛陽を脱さねばならん」

「えっ!?」

「李岳という名を知っているか。飛将軍と謳われて自惚れたか、武力で宮中を制圧せんと迫ってきおった……一度落ち延び再起を図る。伴をせよ」

 ここで嫌がれば切り捨てることになるが、女はどこか嬉しそうな表情で頷いた。

「……アタシ、旦那様について参ります」

「よし」

 中常侍の重鎮、段珪ともあろうものが、下女の追随に胸を撫で下ろすとはどういう有様だ――自嘲するように段珪は笑ったが、どこか悪くないという気持ちでもあった。こんな短時間の間に誰かに心を許すとは信じられない気持ちでもある。

 段珪は振り向き、議場へ向かって足を踏み出した。数歩進んで気持ちを切り替えた瞬間、不意の一撃が段珪の意識を虚空の彼方へと弾き飛ばした――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 李岳は進軍した。

 先頭を切り、執金吾の鎧を身に纏って堂々と闊歩した。張遼、華雄、そして董卓と賈駆が先頭の彼に続く。彼と彼女らに付き従うは五百の兵卒に過ぎぬ。しかしその威風に対抗し、立ちはだかる者は誰もいなかった。宮中の官僚、女官、衛兵……異変を察知して駆けつけた誰もが何も出来ずに道を空けた。

 彼らは無人の野を行くかの如く進んだ。涼州、并州、そして匈奴……辺境に生き、あるいは侮蔑され屈辱に甘んじることさえあった土地の者たちが、神聖なる大漢の中枢を敵なしの堂々さで進軍する。一歩一歩が歴史を塗り替え、一歩一歩が沈鬱さを吹き払った。宮殿に堆積した澱みの海を、清冽なる大平原の風が一掃していく。

(さしずめ、田舎の荒くれ者がとち狂って増長した、ってところだろうな。けど……)

 李岳は思う、これは改革なのだ、と。儒により抑圧されていた人々の解放の戦いの序幕がこの夜なのだ――『三国志』の歴史において、董卓が風穴を空け、曹操が突破した実力主義の黎明……陰惨な権力闘争に終止符を打ち、その背後に蠢くよりおぞましき陰謀の真相を暴くための狼煙――匈奴の運命を弄ぼうとしたやつらの傲慢を、母の命を奪うに至った陰謀を、そしてこの李岳の運命を弄んだ罪を思い知らせる時がきた。

 そのためなら飛将軍の勇名も、先祖の伝説も全て使い尽くしてやる。汚名も誹りも全てこの李信達が引き受けてくれる!

 

 ――とうとう、李岳は佩剣を許されぬ聖域にまで歩を進めた。

 

 李岳の乱心として知らせが行っていたのであろう、前方に立ちはだかるは八百は下らぬであろう一団であった。

 一団は執金吾の配下ではない。中常侍子飼いの私兵である。軍権を戴いてはいないというのに彼らは少数ではあれ半ば自由に軍兵を組織し、この宮中にて自らを守らせていた。鍛えぬかれた重装歩兵が李岳たちの前方を分厚い城壁のごとく阻む。

「執金吾殿。これ以上進むは許されませぬが」

 先頭の者が前に出て言った。女であった。野太い声には歴戦の力強さを感じる。

「帝の危機を耳にしました。この李信達、行かねばなりません」

「ならば得物を預けられよ。配下の方にはお待ちいただく」

「何も置きません。そして皆で行きます」

「ふざけたことを」

 執金吾に対してでさえこの態度。なるほど、中常侍の直属するということはまさに天下国家の頂点に与するということになる。彼らが黒といえば白も淀むのである。もはや国家の秩序、枠組みさえ自由に私するほどの権勢と言えた。それは傲慢を通り越し、とうに病魔である。

 李岳は黙って腰の柄を握った。重装歩兵の女は李岳の仕草を脅しだと思い、鼻で笑った。

「抜剣してみろ、貴様はその瞬間この国を形作る儒の教えに反することになる。天罰からは免れ得ぬぞ!」

 背後の兵卒がじっと自分の一挙手一投足を見つめていることを李岳は背中で感じる。

 李岳の命令に、天を救うという気勢に飲まれてここまで来たが、確かに田舎に生まれ育った身からすればここは天のお膝元、いかな飛将軍といえど天の理に逆らうのならば、ひょっとすればその瞬間に稲妻に打たれてしまうのではないか――その疑念からは払拭されていない。

(そうだよな、怖いよな。仕方ない。俺だって、怖いんだから)

 歴史を知る者としての恐怖、匈奴として育った場違いさ、そしてこの身体に流れる漢人の血が李岳を責め立てた。今なら引き返せる……袁紹の決起を待てばよい……汚名を受けずともやりようはある……漢人としてあるまじき行動……三つの力は非道にも共に合わさり、竜巻のように李岳の心を(さいな)んだが――李岳を突き動かしているのはその竜巻さえ踏み潰すほどの灼熱の怒りである。

「……天罰、ね」

 李岳は、とうとう耐えかねたように笑い始めた。くっくっく、と声を押し殺していたが、やがてそれは哄笑に至る。背後に控えた張遼の背筋に怖気が走った。そう、この男は笑うのだ。対匈奴の戦でもそうであった。洛陽でも時折見せた。真に怒りがこみ上げた時、この男は残忍なまでの痛快さで笑う。そしてその直後、誰もが目を瞠るほどの恐ろしい暴挙に出るのだ!

「なにがおかしいのだ」

 怒りや不愉快さではなく、心の底から不思議に思った問いであった。かつて宮中に足を踏み入れ、このように大口を開けて笑ったものなどいなかった。この男は頭がいかれたのか? 女の脳内ではその推理が最も合理的に思われ、ついには李岳を気の毒に思う程であった。

「なにがおかしい、だって? 全てが、ですよ――笑わせてくれる。儒の教え? 天の罰? 税を増やし、贅を極め、賊を放置し、あまつさえさらなる戦乱を呼び起こそうとした宦官の使い走りが何を言うかと思えば、聞いた風なことを」

 やがて李岳ははぁ、とため息をつくと怒りの炎に燃える暗い瞳を向けた。黒い炎の宿った瞳はただそれだけで重装歩兵の一団の肝を射抜いた。だがその直後の行動に、敵の一団はさらなる驚愕を強いられた。

 

 ――ついに、李岳は抜剣したのである。

 

 黒い刀身が宮中を照らす燭台の光を飲み込んで黒く黒く輝く。ありえないことが起きている、重装歩兵の全員が目を剥いた。味方の兵卒でさえ息を呑んでいる。許可もなく宮中で剣を抜く――それだけで死罪に値する大罪だ、この男は狂ってしまっている!

「どうするつもりだ、それを。今なら見逃してやる。とっとと失せろ!」

「おや、使い方を知らない?」

「何を、お前何を言っている?」

「――教えてやる」

 重装歩兵の喉笛は、天狼剣が引いた黒い箒星の尾に巻き付かれて鮮やかに切り裂かれた。天狼星より舞い降りた怒りの一撃は赤い飛沫(しぶき)を迸らせる。血煙は反逆への狼煙であり、権威への挑戦であり、李信達の魂の咆哮であった。

 宮中で剣を抜くとは……刃傷沙汰に及ぶとは……中常侍の直臣を殺すとは! 重装歩兵の混乱は恐慌に至らんばかりであった。誰かが逆らったこともない、誰かに立ち向かったこともない衛兵をしてはりぼてと呼ばずに何と呼ぼう。

 人一人が死んだというのに嘘のような沈黙であった。天の答えを聞くような、落ちてくるはずの稲妻を今か今かと待つような――しかし音沙汰はない。天は静かで、異変はなく、李岳は静かに見下ろしていた死体より目を離すと、その無機質な瞳を怯えて後退りする残りの歩兵に向け、天狼剣を突きつけた。

「稲妻は落ちぬ……天はお認めになった!」

 沈黙に倍する喚声が上がった――天が認めた! 稲妻は落ちない! 正義は飛将軍にあり!

「この期に及んで遮るものは皆謀反者だ。陛下をお救いするため押し通る! 武器を捨てて投降すれば助けてやる。抵抗すれば反逆と断じて斬る」

 重装歩兵の一団が、完全に追い詰められたように抜剣した。中常侍の命に背けば死のほかはない。彼らが生き延びる道はこの場において李岳を葬るほかないのである。

「……ええい、執金吾乱心! であえ! であえ! この者たちを残らず討ち取れ!」

「霞」

「応」

「かかれ――!」

 

 

 

 

 

 

 ――かくして両軍は激突した。後に『血の間』と呼ばれることになる狭き広間で、篝火の微かな明かりを頼りに剣戟が奏でられる。『洛陽の最も長き夜』はされど未明にて。


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