真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第四十二話 桃色の薫風

 整列、と声が響いた。

 城門の外、六千の軍が整然と隊列を組んでいた。騎馬と歩兵が同数という大胆な軍勢――はためく『公』の旗! 幽州にその名を轟かせる公孫賛の軍勢が、出撃を今か今かと待っていた。

 騎馬の色は白で統一されている。白馬義従と名高き公孫の虎の子である。城門から顔を出して見物に来る領民も少なくなかった。幽州の雄――公孫賛は近頃負け知らず。三郡の経営は安定し、領民の支持は高く、異民族とも関係は良好、賊は許さず不正は糺し、その名声はまさに飛ぶ鳥を落とさんばかりの勢いであるが、その原動力と象徴こそが『白馬義従』であった。

「全員揃ったな」

 部隊の先頭で報告を受けたのは趙子龍。『常山の神槍』として知らぬ者のいない猛将であった。青い髪が蒼空に映え、鎧を一切纏わずに着流しで戦場に挑むその姿は底知れぬ自信を垣間見せる。

「準備万端にて」

 その頂点――三郡をまとめ、護烏桓校尉も兼任する白馬長史、公孫賛が趙雲の報告を受けた。結んだ赤みがかった髪がさらさらと風に揺れる。整然と居並んだ部隊を前に、彼女は堂々と宣言した。

「賊が現れた! 私たちはただちに出撃し民を守る! 方向は南東、恐らく冀州方面から流れてきたやつらだろう。速やかに撃破したのち周辺の警邏といびゅを」

 

 ――はぁ、とため息があちこちから漏れた。

 

 あちゃあ、と兵士の誰かが言う。また噛んじゃったよ、と。

「しまりませんなあ」

「ま、間違いなら誰にでもある!」

「出陣前の演説で間違うというあたりが、何とも情けなくて白蓮殿らしい」

 意地の悪い趙雲の慰めに、ちくしょー、と公孫賛は悔しがる他ない。君臣というより友のようなあり方だった。

 二人のやり取りに、隊伍のあちこちから笑いがおこっていた。公孫賛が顔を真っ赤にしてうるさいうるさい! もう行くぞ! と城門を開かせて逃げるように走りだす。しょうがない、と趙雲を先頭に部隊員が続く。緊張感に欠けるが、これがいつもの公孫賛軍の空気であった。

 しょうがない君主様だなあ、姫様だなあ、俺達が守ってやらなきゃなぁ――公孫賛軍、近年無敗の理由はあるいはこういうところにあるのかもしれない。

 

 ――街道をまっすぐに突き進んだ。春の穏やかな空気の中を泳ぐように疾走する。邪魔するものは誰もいない。

 

 白馬義従の三千に、歩兵が同数。進軍は限りなく速やかだった。中山郡との境にまで近づくと、程なく敵陣が見えてきた。こちらの接近を既に察知していたのだろう。数は五千を超すが、円陣を組んで迎え撃つ構えを見せている。昨今ではかなりの規模だった。正面から戦って勝つ、という気概が見える。

 公孫賛はその敵陣を見て、フン、と鼻で笑った。趙雲が馬を並べて問う。

「さて、白蓮殿。どのように攻める?」

「趙子龍がまた変なことを聞く」

 趙雲はニヤリと笑った。公孫賛の顔には自信が漲っていた。数がどうした、この幽州を席巻している白馬長史の敵にはあまりにも不足であろう、と。何よりこちらにはさらなる切り札もいる。

「我らが故郷を荒らそうとする不逞の輩ども! この公孫賛の目の黒いうちは、決して狼藉を許しはしないぞ! かかれ!」

 公孫賛の手が上がり、勢い良く下ろされた。それを合図に白馬義従がいななきを上げて走り始める。先頭は趙子龍。泣く子も黙る白馬義従の隊長である。部隊の様はまるで原野を突き進む白い槍、生い茂る青々とした草を蹴立てて敵陣へと迫った。

 

 ――だが、自信に溢れているのは公孫賛だけではない。一方の賊もまた備えを怠っていなかった。

 

「うろたえるな!」

 賊を指揮する頭目が声を上げる。人数はほとんど変わらない、騎馬隊とて無敵ではない、備えは十分にしている――頭目は声を張り上げて下知した。

「作戦通りだ、盾を出せ!」

 言うやいなや、隠し持っていた盾をずらりと前面に押し出した。対騎馬隊用の頑丈なもので、丈も十分にあり上からの攻撃にも耐えられる。最初の突撃にさえ持ちこたえすかさず馬の足を刈り、馬上の者共をたたき落としてくれる!

 頭目の目論見は甚だ正鵠と言えるだろう。対騎馬戦法としては定石でもあり、最も脅威でもあった。機動力を削がれた騎馬隊は容易く脆さを露呈する。頭目は舌なめずりをして矢継ぎ早に指示を出した。盾が敵を止めたのならすかさず長槍を突き出せ、根こそぎ討ち滅ぼせば幽州の半分が我らのものだ、と。

 頭目の言葉に賊の面々は底知れぬ欲望をくすぐられ、火事場の馬鹿力ともいうべき力をさらけだした。勝てば全てが手に入る! これだけの人数で戦うのが初めてばかりの寄せ集めだからこそ、普段にはない勇気が滲み出ては感染していく。勝てる、勝てる――!

 

 ――だが、彼らのなけなしの勇気は間もなく根本からへし折られることとなる。

 

 前方から突き進んでくる白馬の群れに、ふと奇妙な変化が見えたのである。速度は変わらない。馬鹿正直に突っ込んでくるのも変わらない。だが、部隊はわずかに横に膨らみ、その中心がぽっかりと口を開けたのだ――誰かが飛び出てくるのを邪魔するまいとして。

 

 ――白い槍の穂先に、流血の宿命を予言したかのような真紅が現れた。

 

 ぼんやりした瞳、鮮烈な赤い髪、またがるは見事な体躯の汗血馬。手には、ひと目でわかる異様な戟が握られている。過剰なまでの重量に、研ぎ澄まされたいくつもの刃――その銘は『方天画戟』といい、馬上の主人以外にはまともに扱えぬ、あまりにも巨大な兵器であった。

 誰が初めに呟いたろう、その声はさざなみのように広がっていった。

「呂布だ……」

 恐怖は容易く蔓延した、先ほど流行った仮初の勇気の何倍もの速度で!

 

 ――呂布だ、呂奉先だ、人中の呂布が来た!

 

 白い騎馬隊の中央から、目にも眩しい真紅が一歩ずつ加速していく。立ちはだかる陣営も、そこに備えられた盾もまるで見えないかのように、呂布は一欠片の怯えさえ見せずに駆動する。

 前衛はまるで祈るように盾にしがみついた。子供がこねる駄々のような矢が飛来するが、それで呂布を止められるなど両軍のうち一人として信じるものはいなかったろう。たった一人の少女の肉薄が、数千の人間の肝を引きぬいてしまったのである。

 

 ――接触。間を置かずに拡散する真紅。

 

 それは木っ端微塵という言葉でしか表すことが出来ないものであった。呂布の向かう先に立ちはだかれるものは誰一人としていない。呂布は蹴散らした。人体が野花の綿毛のように空中に舞う。振るわれる方天画戟はまるで地獄の顕現かの如く。たった一人で数千の賊を圧倒し、たった一人で陣営を崩壊させた。

 矢も盾もたまらず敵兵は逃げ惑う、頭目は既に腰を抜かして立つことができない。呂布は止まらない、遅れてやってきた白馬義従が陣営を押し包む、潰走していく賊の中央で旗がはためくは、誉れも高き真紅の呂旗。 

 

 ――幽州の人々は謳う。白馬義従に紅一点。万夫不当の呂奉先、と!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「恋は強いな」

 趙雲の言葉に、公孫賛は杯にちびりと口をつけながら頷いた。賊は見事に蹴散らし領地に平穏を取り戻した。雑務をなんとか切り上げればもう夜中、今は趙雲と二人きりで遅い晩酌を済ませている。戦の後はこうして二人で酒を飲むのが恒例になっていた。

「強い」

 圧倒的と言えた。ここしばらくの戦で武功は並々ならぬものがある。ほとんど単騎で敵勢を圧倒しているのだ、尋常の沙汰ではない。

「もっと欲張ってもよいものを」

「そうだな、恋なら……もっと有力な諸侯のもとでも名を上げることができるだろうなぁ、私なんかのところじゃあなぁ、地味だもんなぁ」

 うぐぅ、と自虐に耽るのは最近の彼女の癖である。色々と悩むところがあるらしい。

 呂布――実際その武力は群を抜いている。兵の士気統率に関しては心もとないが、あれほどの武力を備えている将が先頭に立てばそれだけで作戦は十二分だ。どうとでもなる。そこそこの副将をつければ全く問題ない。

 だが、それは趙雲の聞きたい言葉ではなかった。ピッ、と箸を突きつけながら言う。

「恋のことではござりません。欲張っていないのは貴女ですよ、白蓮殿」

「わ、私か?」

「貴方は既に有力な諸侯の一人だ。勢力拡大を睨むことはしないのですかな? 万夫不当の呂奉先に、そして才色兼備の槍使いで中華が生んだ絶世の美女でまさに天がもたらした奇跡の武人であるこの趙子龍がいるというのに」

「お前のその軽口は確かに空前絶後だよ……」

「ひがむなひがむな」

 大口を開けて笑った後、趙雲はメンマを口に運んでは杯を手にとった。公孫賛もくつくつと笑いに付き合ったが、やがて一転難しそうな表情になる。

「必要に迫られれば、やるさ」

「必要?」

「あんまり私を試すなよ……わかっているさ、ここ最近賊の侵入が増えていることを偶然だとは思わない」

 賊が頻発している――領内の治安はかなりの度合いで保たれているはずだ。だがそれでも領域を侵犯して略奪を図ろうという者たちが絶え間なく現れる。そのことの意味に公孫賛は気づいていた。

「ふむ」

「誰かが賊を操っている……私たちの防衛体制を調べているんだろうな。一度だって同じ所に現れていない。周到なことだ! 今日のやつらなんて賊にしては武装が整いすぎている、疑わない方が難しい」

 屈辱であり、悔しいのだろう。現れる賊はことごとく撃退しているが被害が皆無というわけではないのだ。捕えた賊の首領を問いただそうとしたことも一度ではないが、それは未だ叶わぬままである。なぜなら捕縛しようとしたときには既に頭目は息絶えているからだ――背中を刺されて。

「今回も生け捕りには出来なかった……」

「利用され、監視され、口封じに殺される……」

「やつらも不憫だ……もっと違う生き方もできただろうに」

 慰めるように、趙雲は公孫賛の杯を満たした。ふぅ、と漏らしたため息と入れ替えるように口を付ける――小言が届いたのはその時であった。

「あまり勧めないでいただきたいものですな」

 戸口から現れたのは程緒であった。内政官としては既に公孫賛に次ぐ第二位の席を与っている。長い眉をいからせて、小言の達人はしかつめらしい表情でコホンと咳払いした。

「深酒して明日の政務が支障が出ては困ります」

「これはこれは」

「程緒……いいじゃないか、これでも戦勝祝いなんだ」

「それにしては暗い酒になっておりますぞ……どれ、さっさと無くすお手伝いをさせていただきましょうかの」

 趙雲は笑って三つ目の杯に酒を満たした。こう見えて程緒はいける口だった。交じりたい夜なのであろう。

「よろしいですかな?」

 堅物らしく、自らの主である公孫賛に伺いを立てて程緒は杯を掲げた。三人の手が上がり、チンと音を立てる。

「ふむ、苦味のある酒ですな」

「節制は君主から! って口癖の厳しい官吏がいるからな。安酒で我慢してるんだよ」

「できる部下がいて羨ましい限りですなぁ」

 チェッ! と公孫賛は唇を尖らせた。程緒の座右の銘が『質素倹約』であることは既に城内の誰もが知るところである。こってり絞られているのも、やはり誰もが知るところ。

 一杯目の酒をすっかり飲み干すと、さて、と呟いて程緒は席を詰めた。表情には厳しいものがある。

「先程の話の続きなのですが」

「ふむ」

「不穏な動きがあります」

 程緒はそう言うと一つの表を持ちだした。それは人口の出入りと金銭の出入りを示したものであるが、かなり専門的な数値に見える。その一つ一つを指さしながら程緒は解説し始めた。

「人の出入りは城門で記録を付けさせております。これが例年の入りで、これが出です。そしてこちらがここしばらくの入りであり、出となります」

「入りが多いな……とはいえ百や二百だろう」

「悪いことではないのでは? 程緒殿」

 程緒は目を伏せ首を振った。

「時期というものがあります。冬ならばわかります、出稼ぎに来る者もあるでしょう。しかし間もなく春。そのような時期に人が増えるのは稀です。こういってはなんですが、移住してくるほど魅力のあるところでもない。我らが治める街の主な収入はあくまで米。領内の民は皆開墾と種まきに忙しいのです、うろうろと移動する暇などないのです」

「ふむ……じゃあ程緒はどう思うんだ?」

「わかりかねます……が、何らかの工作ということは考えられませんか? わたくしはあまり軍事やそういう、作戦などについては素人でよくわからないのですが……」

「……星、どう思う」

 十ほどの間、趙雲は思案してから答えた。

「内応のために人を送り込んでいる、ということはありえるかも知れませんな。いつか籠城戦になった時に内側から門をこじ開けるための人員です。あるいはそれに限らず、流言に拉致、果ては暗殺まで行う者たちやも」

 公孫賛の背筋を冷たいものが走った。

「盗賊の頻出と関係がありますかな?」

「ない、と思うのは馬鹿だけだ。我らは既に一挙手一投足を見られているといっても過言ではなかろう。出撃の迅速さや兵糧の管理の仕方など、逐一監視されていると考えたほうが良い」

 自然と言葉が途切れ、燭台のゆらめきが嫌な気配を増幅させた。公孫賛は振り向いて背後の戸を眺めてみた。かすかに開いているが、その奥には中庭に通じる廊下が広がっている。暗闇で見えないその奥に、ひょっとすれば静かにこちらを見定める眼があるかもしれない――

「……いよいよ、嫌な感じだ」

「時代です」

「嫌な時代でございますな」

 何かを清めるように三人は再び杯を酒で満たした。それを一息に飲み干して、わずかに紅潮した頬で公孫賛は言った。

「星。さっき欲張ってもよい、と言ったな。けど領土欲ってやつ、私にはないんだ、本当に……領主がそれぞれ、それぞれの土地でいい政治をやればそれでいいと思う」

「だが、それで済む時代ではござらんぞ」

 欲張る、とはつまり守りばかりではなく攻めの姿勢を持てということだ。名声、土地、兵力……それらを多く勝ち取り、この地域に平安をもたらす、それは決して私利私欲などではない。

「わかってる」

 趙雲は先制攻撃を訴えている、それは公孫賛にも痛いほどわかった。標的はもちろん――劉虞。李岳との出会い以来、おびただしいほどの工作がこの地へ巡らされているということは把握した。だが決定的なしっぽを出さないのだ。動機を得て武力によって先制攻撃を加える。戦略としては一理あるだろう。

 彼奴を倒し、幽州を統一し、異民族を慰撫し、南部より侵犯あれば団結して立ち向かう――それが故郷を守る一つの最適解、ということは理解できる。けれど、どうしても公孫賛はその踏ん切りがつかなかった。

「戦乱になる……長い戦いだ。賊なら討てばいい、侵入してくれば守ればいい……けど、自分から攻めこむのはどうしても気が引けるんだ」

「お優しいことで」

「情けない君主だろ」

「いや。情けだらけの君主だな」

 公孫賛は自分が責められているのだと思い、恥ずかしそうに俯いた後にポリポリと頭をかいた。趙雲は誤解を正さなかった。程緒は自分の眉をいじるだけでとどめた。

 いよいよ暗い酒になり始めていた。気を取り直すように公孫賛はやけに明るい声で告げた。

「星。明日、旧知の友がここへ来る。引きあわせてやりたいんだ、時間あるかな?」

 程緒が珍しく大きな笑い声を上げた。

「もちろん、趙雲殿は時間をひねり出すのが大変得意でありますからな。いつもいつもお願いした仕事を放り出して抜け出してしまうのですから」

「程緒殿、そのように褒めてもらっては困るではないか」

「全くもって一言足りとも褒めてはござらん」

 バチバチとその目から火花を散らせて程緒は睨むが、趙雲はオホホと笑うだけで取り合いもしない。

「ま、なんだ。色々と見聞を広めるのもいいだろう。星はあくまでまだ客将なんだしな。欲張る云々って話があったけど……それはお前もだぞ。私よりいい君主がいたら、その、そっちを選んでもらっても全然構わないんだ……本音を言えば、是が非でもいてほしい! けど、星には星の道がある。私はそれを邪魔したくない」

 公孫賛の言葉に目を細めて、趙雲は左様か、と呟いた。

「そうですな、私はただの客将ですし」

「うん」

「考えさせていただく」

 それじゃ、と公孫賛は最後の酒を注いだ。綺麗に三杯分が瓶に残っていた。名残惜しそうに傾けた口から、最後の一滴がポチョンと音を立てる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 呂布は騎馬隊の中でいつも最後まで厩舎から出ず、今も馬糞の処理をしていた。呂布は馬の世話が好きだった。餌をやるのも、毛繕いをしてやるのも好きだった。ワラにまみれて一緒に寝ることも好きだった。

 呂布は普段は寡黙であるというのに、厩舎で仕事をするときは何をするにもいつも話しかけながら。今日は楽しかった? 速かったね? 明日はきっといい天気――いつまでも話し続けることができる。心を通じ合わせることができれば、言葉など大した障害ではない。

 今の呂布の身分は仮にも幽州にその名を轟かせる騎馬集団『白馬義従』の第二位を預かる副隊長である。部下は誰もが気を使って、馬の世話など自分が代わると申し出たが、その度に呂布は迷惑そうに追い返した。好きでやっていることだ。どうして自分の楽しみを奪おうとするのだろう?

 餌を与え、水も替え、さあ一段落したというところで現れたのは趙雲であった。

「今日もここか?」

「星」

 趙雲は相変わらず人より動物に親しい呂布に苦笑しながら、彼女の愛馬の首筋を撫でた。

 赤兎馬、という名だという。だが呂布は二号と言っていた。いつも連れ添っている犬に同名を付けてしまっているからだという。二号、と呼ばれても赤兎馬は嫌がらなかった。普段は驚くほど大人しい馬だった。だがその真っ赤な体で、激しく汗をかきながら駆け抜ける速度は並ではない。趙雲の愛馬である白龍さえ凌ぐかもしれなかった。呂布が『人中の呂布』であるのなら、この馬は『馬中の赤兎』と呼ばれてしかるべきであった。

「何か用」

「そう邪険にするな」

「出撃?」

「いや」

 そう、と呂布はうつむいた。内心ほっとしたのは秘密である。この地に赴いて、戦は何度も経験している。敵を倒すことに躊躇はない。けれどその度に傷つき倒れていく馬たちがいて、呂布は悲しくなるのだ。

 先般の討伐戦でも傷つく馬たちがいた。矢傷に倒れて、その場で呂布は五頭の馬たちを看取っている。戦なんだ、と割り切ることなど出来はしない。例え自分が敵の人間や馬を倒している側だとしても、それはそれ、悲しいことには変わりなかった。

「実はな、白蓮殿の親しいご友人とやらが来られるらしい……ま、約束の時間には遅れているようだが。恋、同席しないか?」

 束の間考えたあと、呂布は答えた。

「やめておく」

「そうか」

 趙雲も無理強いはしなかった。ま、いずれ顔合わせの機会くらいはあるだろう、と思っただけであった。

 呂布はまた一人になったが、なぜかもう馬たちの世話をする気にはならなかった。一人一人の頬を撫でて出ていく。二号が物欲しそうに擦り寄ってきたが、いつまでも一号をないがしろにするわけにはいかない、と思って後ろ髪引かれる思いで呂布は表へと出た。

「セキト」

 愛犬の――親友の名を呼ぶ。いつもならすぐに飛び込んでくる愛くるしい姿が、しかししばらく待ってみても出て来なかった。

 ふと呂布の背筋に嫌な汗が流れる。最近はともに用事も増え一緒に過ごす時間が減っていた。拗ねて遠くまで散歩に行ったのかもしれない。それだけなら、いい。だがこのあたりの森や山はまだ開けているとはいえず、危険もある。

「セキト? セキト」

 呂布は何度も呼んだが、セキトは現れない。いつもなら呼べばすぐ出てきてしっぽを振るというのに、その気配さえない。

 どこかで寝ているのかもしれない。餌を食べているのかも。バッタやトンボを相手に格闘している可能性だってある――呂布は自分を安心させるようにいくつかの可能性を思い描いたが、その全てを足してあわせても彼女の不安を消してしまうことは出来なかった。

 探さなくてはならない――その思いが呂布の背中をグン、と押した。武器さえ持たずに営舎を飛び越し、歩哨の問いかけにも答えずに呂布は山野に足を踏み込んだ。

「セキト!」

 大きな声を上げながら名を呼びつづけるが、返事はない。声を上げ、返事はないかと耳を澄まし、再び走り続けるという一連の行いを何度となく繰り返した。全身に汗をかき焦りで異様に喉が乾く。

 初めての友達、初めての仲間――セキト。いつも側にいてくれると甘えていた……この前もそれで失敗したというのに、自分はなんて馬鹿なんだろう……全然強くなんてなれない!

 呂布はとうとう目に涙を浮かべて、しかし歯を食いしばって耐えながらかけ続けた。声を出し、耳を済ませる――そのとき、彼女の耳が確かな声を捉えた。

 

 ――だめ!

 

 声は人間のものであったが、気づいた時にはもう呂布は駆け出していた。

 

 ――だめなんだから!

 

 斜面を駆け上がり、木々をなぎ倒し、最短経路で呂布は向かった。ひたすら声の聞こえる方へ。

 

 ――この子を食べちゃ、だめなんだから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 虎がいた――今まで見たこと見たこともないような巨躯の猛虎は、口を開けるだけで人間を丸呑みできそうな程の迫力を見せている。呂布はその牙と爪が突き立てられそうになってる先にセキトがいるのを見つけた――セキトと、セキトを庇うように立つ一人の人間を。

 乙女は、虎に立ちはだかっていた。震える足で、震える声で、怯えた瞳を決してそらさず。

 刹那、呂布は火の玉になった。呂布は走った、真っ直ぐに駆け抜けた!

 猛虎は乙女の抵抗など意にも介さず、目の前の獲物に今にもむしゃぶりつこうとしていたが、尋常ならざる殺気に野性が敏感に反応した。無類の殺気がその後頭部を撃ちぬく――たまらず猛虎は飛び退いた。まさか! という表情がその顔に浮かんでいた。まさかこの自分を怯えさせる存在がこの森にいるとは!

「離れろ……」

 猛虎の驚きは絶えない。なぜなら自分を気配だけで脅迫したのがか弱いはずの人間であったからだ。撫でれば裂ける柔らかい肌、押せば折れるか細い体、しかも雌――猛虎の驚きは三度を迎える。彼の本能は、明確に自らの敗北を訴えていたからだった。

「行け……」

 虎は後ずさりを始めた。目の前の人間に炎の気配が見える。背後から揺らぐ力の模様は彼の人生の中で見たことすらない――齢二十と三。それだけの年月を生きてきた虎は、自らの本能に忠実に生きてきたがゆえにこの山に君臨することになったのであるが、今回もそれを信じた。

 自分では勝てない……容易く殺されるだろうという予感に従い、虎は呂布の前から立ち去った。

 

 ――虎が立ち去ったのを見て、呂布はホッと安堵の息を吐いた。よかった、殺さずに済んで、と。

 

 途端にセキトがしっぽを振って飛び込んできた。セキト、と呂布は何度も声を上げた。助かってよかった、間に合ってよかった! セキトもまたうれしさを全身で表現し、何度も呂布の頬を舐めた――その一人と一匹の様子を微笑ましそうに眺める優しげな瞳を、呂布はようやく思い出した。

「……お前」

 乙女は、舞い散る春の花のような笑顔で笑った。

「よかったぁ」

 呂布が戸惑う程の柔和な笑みであった。戦場と山野を渡り歩いてきた呂布にはあまりにも馴染みのない笑顔である。少女は安心したのか、笑顔をフッと途切らせると、そのまま気を失ってしまった。呂布は慌てて手を伸ばし、彼女の体を抱きとめた。

 ふくよかで、柔らかく、けれど妙に懐かしい温かみのある体だった。一陣の風が吹く。木々の枝を揺らし、葉にそよぎ、桜の花びらを舞い散らせ、そして少女の髪を揺らした。

 かぐわしい桃色の薫風が、呂布の鼻をくすぐった。




新章。

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