真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第四十三話 長江の熱風

 風が強い。どこからか甘い薫りが届いた気がした。しかし辺りに花はない。気のせいだろう、と孫策は思った。

 長江が見える。岸が一望できる小高い丘、そこに植わった杉の枝に孫策は腰掛けていた。見慣れた景色であるが、中原から来る者たちは感嘆を覚えずにはいられないらしい。江に隔てられて南北に違う土地がある。考えてみれば当たり前の話ではあるが、雄大な流れは人の意など介さない。時に荒れ、流すことはしばしばだった。

「それでも孫呉はここにあり、か」

 春の陽気が孫策を酔いと眠りの間を漂流させた。二つの間をどちらにも漂着しないまま、孫策はもう一献傾けた。はっきりしないままの方がいいことも多い。夢と現の間にあるのが酔なんだろう、となんとなく思った。

 そのとき、ふとたおやかな音楽が流れてきた。一層の小舟が見え、源はそこからであった。舟の上で琴を奏でているのはまだ年若い少女だった。齢は孫権と同じくらいだろうか。白一色の服はこのあたりではあまり見ない装いだ。どこか天女を模した様な風情である。川面の上を流れる風に乗り、歌声が耳に届いた。

 

 ――天に星が在り、地乱るるとき流星落ちる。光輝は(あまね)きを照らし人は皆争いをやめる。

 

 聞いたことの無い歌だったが、即興というわけではなさそうだった。たどたどしい箇所もあるが豊かな音色だ。孫策は杯を傾けた。少し強めの風が吹いて、長江の水面を波立たせる。それを眺めながら、孫策は少女の歌った詩について考え続けた。奇妙な歌詞ね、と思った。風情がないというのに切実さがある。世を騒がせている黄巾の教えとも違った。

 わからないことや、困ったことがあった時にはさっさと親友に相談するに限る――孫策は酒を片付けると愛馬にまたがり一路居宅に戻った。思惑通り、周瑜は執務室で書類と格闘していた。

「天の御遣いね」

 周瑜は手元の書類から目を離すこともなく孫策の質問に答えた。

「天の御遣い?」

「占い師が吹いたらしい。流星にまたがり天より落ちて、地の混乱を鎮めるとのことだ」

 ハッ、と周喩は鼻で笑った読み終えた書をどさりと積み上げながら孫策に目もくれない。元より検証する必要さえない与太話と決めつけているようだった。そういう根拠のない話は彼女が最も毛嫌いする類である。

 

 ――姓は周、名は瑜。字は公瑾。中原さえ飲み込まんとする大軍略を虎視眈々と練り上げる、江南の土地が育てた天下の叡智。褐色の肌、艶やかな黒髪が光を反射する眼鏡の上をサラサラと流れる。

 

「ふーん。天の御遣いね。降りてくるならとっとと降りてきて欲しいもんだわ」

「まさか、孫伯符ともあろうものが天に救って欲しいとでも?」

「ん? いや、今まで何してた、とぶん殴ってやろうかと」

 あちち、と孫策は茶を口に含んで言った。天が救う気でいるのならばこの地上はとっくに救われているはずで、本当にそんな御遣いなどという存在がいるのならば感謝すべきではなく、今まで手をこまねいて見殺しにしてきた罪を糾弾されるべきなのだ。

「そんなことだろうと思ったよ。で、噂は捨ておいていいのか?」

「無邪気な希望を取り締まろうとは思わないわよ」

 人々にかすかな希望を与えるただの与太話なら可愛いものだ。ただ根拠のない風聞を撒いて人々を先導する者が現れるのならば取り締まるべき邪教の種となるだろうが。

「しかしあの子の出で立ち、あまり見ないものだったわ……あ、舟で琴を弾いてた子なんだけどね」

「それは策、貴方が女だからさ」

「どういうこと?」

「そういう類の客商売があるだろう」

 初めてこちらに視線を向けた周瑜の顔を見て孫策は合点がいった。周瑜は白い服の少女が、いわゆる芸妓であるといっているのだ。客を誘い、舟の上で酒を飲み、音で楽しませ、時には一夜相手をする。あの年齢であの腕前だ、まだまだ見習いというところなのだろうが、本当に客を取ることになる日はそう遠くはないだろう。

「ふうん、なるほど」

 そういう職業、そういう生き方を孫策は否定しない。戦っているのだ、彼女たちもまた。それを一様に憐れむのは彼女たちの人生にたいしての傲慢であるし、流れる音楽への冒涜だ。例え君主といえども唾棄すべき罪悪だろう。

 周瑜もあの音楽を聞いてみればいい、と孫策は思った。たどたどしかったが豊かさがある音色だ。周瑜は朴念仁に見えて音に造詣が深い。気に入る方に一口握ってもいいくらいだ――孫策がそう考えた時、周瑜は山と積まれていた書類の最後の一冊を片付けてしまった。横顔には夕陽が当たり赤々としている。

「……さて、終わった」

「お疲れ様、冥琳」

 孫策の言葉に周瑜は白々しい笑顔を浮かべた。誰のせいでこんなに時間がかかった? とでも言いたいようである。

「あちゃちゃ、怒らないでよ」

「怒ってなどいない。呆れているだけさ」

「ごーめん!」

 フン、と拗ねてそっぽを向いた周瑜に孫策はぺろりと舌を出して詫びたが、どれほどの効果があるやら。確かに孫策が日がな一日本営を後にして一人で酒盛りに興じてなどいなければ、昼までに終わっていた仕事なのである。

「すーねーなーいーでーよー」

「埋め合わせはしてもらうからな、必ず」

「……おぉこわっ」

 背を向けて逃げようとしたとき、おとないが入った。周瑜が対応したが、彼女が全土に放っている草の者ということは孫策にもすぐにわかった。受け取った竹簡に目を通す周瑜の眉間には、文章を追うごとにしわが深まっていく。

「少し、よくない報告」

「言って?」

「洛陽で変」

 竹簡を渡しながら、周瑜はふう、とため息を吐いた。

「涼州の雄、董卓乱心。執金吾李岳に命じ、十常侍はじめ宦官数千人を抹殺。宮中を血の海に変えたとのこと。抵抗勢力はことごとく排除し、乱のために洛陽は炎に飲まれた。大火は三日三晩燃え続け、市中の大半を焼き尽くしたとのこと」

「天子の安否は?」

「ご無事。ただ陳留王が消息不明ね。董卓はその後司空の地位を襲った、なぜか李岳は執金吾の位を返上しているが、恐らく名目上の話だろう」

 ふうん、と孫策は無感情に相槌を打った。中央の政治の腐敗や政変は、この江南で生きている限り遠い話でしかない。誰が権力を握り誰が失脚しようが関係がない。

 孫策の興味は他のところにあった。

「李岳って、どんなやつ? 戦は? 強いの?」

 

 ――宮中を血の海に変えた。

 

 その一言が孫策の心の琴線に触れた。面白い、と思ってしまった。皇帝の安否よりもそちらがより興味をそそった。

 どのような思いで李岳という人間は宮中で剣を抜いたのだろう――想像するだけで孫策は、滾った。叶うのならばその興奮を自分も味わってみたいと思う程であった。

 孫策の問いに、珍しく周瑜は口ごもる。

「……前執金吾の丁原の部下だった男で、丁原失脚後に并州兵をまとめあげたらしい。直後に董卓と癒着しているな。地位を目当てに丁原をはめたのではないか、という噂もある。まぁ董卓子飼いの男と考えて間違いない……并州で音に聞こえた丁原の腹心だったのだ、戦下手ということはないだろうが……評価が定まらない」

「珍しいわね、冥琳が悩むなんて」

「ま、今は捨ておいていいだろう」

 そうかしら、と孫策は疑問に思った。洛陽の中心、天下の中枢で権力の頂点とも言える宦官を無造作に殺戮した。名門の出でもなく、圧倒的な政治力を背景にしているわけでもないというのに――あるいはそれは恐るべきことではないのか、と孫策は思った。しかも大した抵抗もなく高官の地位を手放している。

 孫策の勘が、ひどくささやかな声で李岳という名を孫策に耳打ちしていた。気になるが、確かに周瑜の言うとおり今確かめる術はない。だがいずれ相まみえてやる、と思った。いつか必ず矛を交えてやる、と。

「楽しそうね、雪蓮」

「わくわくするわね。戦ってみたくてたまんない」

「……そんなに遠い日ではないかもしれんな」

 ん? と孫策が首をかしげると、周瑜は壁にかかった地図を指さした。

「袁紹、袁術、曹操、公孫賛、馬騰に韓遂。益州には劉焉、荊州の劉表……世に権力者は多い。彼らが董卓や李岳といった無名の者達の台頭を許すとは思えないな」

「乱が起こると?」

「これまでにないものが」

 乱――周瑜の言を信じるならば時はあまり残されていない。戦力の増強は急務だろう。散り散りになった仲間を何とかして集めなければなるまい。今はまだ袁術子飼いで力量も少なく、一万二万の兵力を整えるのがやっとだが、そんな甘えはもう許されないに違いない。

「しかし、ま、さすがは冥琳。よくそんなに事情通になれるわね。舌を巻くわ」

「情報は軍略の基本だからな」

「けれど軍師様、お一つお間違いのようでございます」

「なに?」

 周瑜の眼鏡がキラリと夕陽を反射した。フフフ、と孫策は笑いをこぼす。

「よくない報告といったわね……いいえ違うわ。これは間違いなく、朗報よ」

 風雲の気配がする。そろそろと流れる風……だが、吹き荒れるには瞬きする程の時間で十分なのだ。

 手元で温まってしまった茶。最後の一滴を孫策は舐めとった。苦味が心地よい。孫策の口の端が、自分の意図とは関係なく釣り上がっていく。獰猛な戦意が……自分でも押さえつけることが難しいほどの戦意が内心から沸き上がってきていた。天下が乱れる。ならばそこには無数の間隙が出てくるはずだ。袁術という軛から逃れ、孫呉の独立という夢を成し遂げるという道を敷くには絶好の間隙が。

「……なるほど、確かに朗報だった」

「忙しくなるわね、冥琳」

「いよいよ、怠けてられては困るぞ、伯符」

 望むところだ、と孫策は思った。江東で磨いた虎の牙、見事天下の中枢に突き刺してくれようではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 袁術からの呼び出しが届いたのは、周瑜が洛陽で起きた乱を掴んでから四日後のことであった。四日。それが袁術と自分との間の情報伝達の速度の差なのだ、と孫策は考えた。

 会談の中身は洛陽で起きた事件の報告、というものでしかなかった。ものの半刻で済んでしまう程度の打ち合わせのために、往復都合二日かけている。告げられた内容もお粗末なもので、それら全てが孫策を苛立たせた。

 南陽からの岐路は南へ陸路をたどれば途中から水路となる。川面の風でばたついてしまう髪の毛を手で抑えながら孫策は肩をすくめた。

「愚鈍ね」

「悪いことではない」

 周瑜の相槌には含み笑いが混じっていた。

「敵の弱さを喜びたくはないわね。いらついちゃうわ、ほんと……ああ! さっさと独立したい!」

「声が大きいですぞ、策殿」

 やんわりと諌める黄蓋に孫策は口をすぼめた。

「だってええ」

「油断はなりませぬ。愚鈍に見せかけてこちらを試す……袁術はどうかはわかりませんが、隣に侍る張勲という女……その程度のペテンは鼻歌混じりでやってくるでしょう」

 黄蓋殿のご指摘ごもっとも、と周瑜が便乗して頷いた。

 

 ――姓は黄、名は蓋。先代孫堅の頃より孫に仕える歴戦の宿将と言えた。孫堅の死後、雲散霧消しかけた孫家の勢力を何とか千切れさせずに繋ぎ止めることができたのは彼女の力によるところが大きい、と孫策は心より思っていた。韓当、程普といった古強者と、周喩や甘寧といった若者との間も上手く取り持ってくれた上で、好き勝手にやらせてくれている。

 

「祭。私は何も油断したわけじゃないのよ。こう、思いの丈をね、たまにはぶちまけたいわけじゃない」

「実際、策殿はよく耐えておられます。部下も皆それは重々承知しておりますぞ。私ならあの糞ガキ、三日でぶち殺しておるよ」

 ハッハッハ、と黄蓋は笑ったが目は笑っていなかった。孫策は満足気に頷きながら黄蓋の肩を抱く。

「でしょ、もっと言ってよ。孫伯符は頑張ってよく耐えてる、たまの息抜きくらい仕方ない、ってさ! ほら、あそこの眼鏡に」

「すぐに調子に乗る! 黄蓋殿、ここで手を緩めずに一度こてんぱんに凹ませてしまった方がいい気がするのですが?」

「一理あるのぅ」

「こら! 私! 主君! 敬え!」

 ハッハッハ、と笑いが船上に満ちた。どいつもこいつも、この孫策への敬愛の心が足りないようだ。

 そのようにして、束の間の船旅は平穏無事に済むものと思われたが、孫策は虫の知らせが鳴るのを感じた。直後見張りに立っていた兵士から報告が入る。

「御大将! 前方に不審な様子が……」

 しまった、と周瑜が唇を噛んでいるのが見えた。手勢は二十ほどである。仮にも袁術のお膝元だ、道中は安全だと目論んでいたがそれが外れた。周瑜は自分の見込み違いを悔いているのだろう。

 賊は五十を大きく超えているようだ。中型船が二隻。小型船が五隻。孫策の勢力下では仕事ができなくなりこのあたりにまで足を伸ばし始めた、といったところか――しかも被害に遇っている舟にも孫策は見覚えがあった。数日前、天の御遣いの歌を奏でていたあの小舟が含まれているのである。

「策殿、ここは多勢に無勢じゃ! 援軍を近くの屯営に求めよう。口惜しいが、ここは堪えなければならん」

「雪蓮。私の見立てが甘かった。この責は後ほど必ず。今は身を潜めて……」

「え? なにいってんの?」

 首をかしげた瞬間、周瑜の顔が青ざめるのを見て、ああ、と孫策は理解した。そうか、この二人は今すぐにでも自分が駈け出していってしまうのではないかと心配しているのか、と。

 

 ――何をいまさら。

 

「待て、雪蓮!」

「イヤよ」

 孫策は南海覇王を抜き放った。その時、突如として自分の目の前に幻が現れた。馬を駆り、舟にまたがり――大地を、長江を――中華を疾走した赤い頭巾が見えた。

 

 ――姓は孫。名は堅。字は文台。南海を股にかけ、赤い旋風を巻き起こした偉大なる母。

 

 孫策は笑った。確か、母の孫堅も寡兵で賊の略奪を防いだと聞いている。威風堂々と立ち向かったその出で立ちに、敵は背後に大群の幻想を見て遁走したという。

「どうする気だ?」

 周瑜の言葉に、あはは、と再び孫策は声を上げる。気づけば、頭の中の冷静さが選択肢を描き出してる間に自分の足はとうに動いていたのである。いつでもそうだった、頭より先に体が動いてしまうのだ。そう、目の前にちらつく赤い巾――追いかけずにはいられないその真紅がはためいたとき、孫策はいつでも全速力だった。

 孫策は振り向くことさえせずに言った。

「ここはどこ?」

「……ここは」

「ここは、呉よ」

 他国他州の支配者ならば、冷静さが告げた選択で間違いないだろう。だが、私は違う、と孫策は思った。我々は違う、ここは違う――悠久たる長江を産湯につかり、南風に髪を乾かした人々の住まう土地――太古より連綿と受け継いできた、この体に染みついた孫の血が、母より受け継いだ魂が、そこに宿った呉の涙が叫んで痛い。

「接舷しろ」

「し、しかし」

「死にたいの?」

 渋った船員が顔面を真っ白にして慌てて手を動かした。ギシギシといやな音を出して舟は急速に進路を変えて争いの場を目指していく。舳先に立って孫策は剣の柄を握った。その隣に、黙って周瑜と黄蓋の二人が並ぶ。

「ったく……無鉄砲は堅殿以上じゃ。単騎で行く気か? 無茶にも程がある、この腕白が!」

「祭殿。やはり我々は手をとりあって、この君主を今一度しつけ直さねばならないようです」

 それぞれの得物をぶら下げた黄蓋と周喩。孫策は愉快であった。全く、君のせいにする臣がどこにいるというのだろう。とんでもない不忠ものぞろいだ、この孫の旗印のもとに集う馬鹿たちは。

「さて、軍師殿。策を申していただけぬかの?」

「正面から。不意打ちで頭を討ち取り後は一目散」

 お、と孫策は目をむいた。

「あれ、包囲殲滅とか火計で全滅とかじゃないの?」

「この兵力でどうしろと! ご不満なら解任賜りたく!」

「あらやだイヤよ。こんな最高の軍師、他にいるもんですか」

 舳先に立ち、剣を輝かせる。少し、自分でも戸惑うほどの高揚だった。黄蓋が矢をつがえ、放った。剛弓は狙い通り敵船の帆を断ち切った。敵に動揺が走る。孫の旗を大上段に上げる。接舷。孫策は誰よりも先に敵船に飛び乗った。

「何者だ!」

 狼藉を働こうとしていた男たちが、口々に怒鳴り散らした。

「孫伯符」

 返答に、先頭の男は面白い冗談だという風に笑った。孫策は男の喉を見ていた。大きなほくろがあった。目立つしるしだ、突くならあそこだろうと思い、無造作に近づいて南海覇王をふるった。男の断末魔は孫策の耳には届かなかった。もったいながる必要はない。悲鳴なら、これからたっぷり聞くのだから。

 血糊をぬぐいながら、孫策は一歩進んだ。

「あの世で自慢なさい。覇王の剣にて果てたことを」

 男たちは未だに状況が理解できず、呻き声さえ上げない。奇妙な沈黙の中で、孫策は一人一人、突き殺す箇所を決めて、走った。情熱が血管を巡って体を突き動かす。激情はいつでも孫策を自由にする。血を吐きそうなほどの怒りで、孫策は殺戮の中央でまたも笑うのだった。

 

 ――長江に、血なまぐさい熱い風が吹く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黄巾賊の相手をしている部隊の戦績が思わしくない、という報告を受けた張勲は、ふう、と小さくため息を吐いた。全く、計画が思う通りに行く事など少ない。稀と言ってもいいだろう。たまには痛快な勝利というものを得てみたいものだ、と張勲は己の非才を嘆いた。

「どうしたのじゃ、七乃。ため息など吐いてからに、悩み事かや?」

 袁術の声にはっと我に帰ると、張勲はええそうなんです、と言ってさらにことさら大きなため息を吐いた。

「はぁ……美羽さま。なんと蜂蜜の不作が続いてとんでもない高値になるとの報告が……」

「な、なななな! なんじゃと!?」

「このままでは、次に美羽さまが蜂蜜水をお口に出来るのは半年後になるかもしれません……」

 張勲の言葉に、袁術はわきゃー! と悲鳴を上げた。

「ゆ、由々しき事態じゃ! そんなことは断じて許さぬぞ! ええい、七乃! どうすればよいのじゃ!」

「そうですね……値上がりはまだ先の話です。この情報はとある筋より得た極秘のもの。この中華広しといえど知り得た者はまだ少ないでしょう。今のうちにありったけの予算をつぎ込んで買い占めるが上策と心得ますわ」

「うむ、うむ! 七乃、今すぐとりかかるのじゃ!」

「でわー……ご予算頂戴しちゃっても?」

「じゃんじゃん使うのじゃ! 金に糸目はつけぬのじゃ!」

 はーいと軽い返事をして、張勲はどこに隠していたのか、分厚い書類を取り出すとその表紙の一点を指さした。うむ、うむ、と上機嫌の袁術は書面の中身など読みすらせずに印綬を用いた。判を押したことにより蜂蜜が確保された、という程度の認識しか持たず、しかもそれが彼女に最大限の満足感を与える。

「ありがとうございまーす! それでは早速とりかかります」

「うむ! 頼んだぞ、七乃」

 座を辞した張勲は一路自らの執務室に向かった。表向きではなく裏の居室である。彼女は袁術の広大な宮殿に二つの部屋を構えていた。一つは表向き用であり、二つ目は地下に密かに作らせたものである。そしてその部屋へ至る道には常に手のものをそれとなく歩哨として立たせていた。

 張勲がその入口へ立つと、兵士が槍を動かして行く道を遮った。袁術親衛隊として選抜し、鍛えに鍛えた精兵である。張勲自身でさえ例外とせず、必ず確認を求めるよう徹底していた。

「スズメバチ」

 張勲が合言葉を告げると、ようやく兵士は槍をどけた。薄暗い階段を降りて張勲は部屋に向かった。既に張勲以外の者はそこに揃っていた。

「はいはーい。お待たせしました」

 居並ぶ者たちが順番に頷いた。軍事を一手に担う紀霊が真っ先に声を上げた。豪胆を絵に描いたような見事な体躯、そこから発せられる声は狭い部屋を叩くように響いた。

「張勲殿! この場に我らを集めた理由をお聞きしたい!」

 その大声に閻象(エンショウ)が耳を抑えつつ控えめに頷いた。のっぽ、としか言い様がない女性である。主簿を務めている。線の細い女性だが弁論に長けており計算も早く、袁術軍の経理は彼女に依るところが大きい。

「あーはい。洛陽で変があったのはみなさんご存知の通りです。その続報ですね」

「ふむ」

 楊弘が興味深げに身を乗り出してきた。御年七十になる老婆である。耳が遠いのを擬態するのが悪い癖。人の名前を覚えるのが得意で情報戦を担う。

 

 ――紀霊。閻象。楊弘。そして、張勲。この四人が袁術軍の軍事、経済、政治を担っている実体であった。袁術の意を最大限に実現するための四将軍である。

 

「陳留王殿下はやはり脱出されたようですねー」

「重畳である!」

 どかーん、という音が聞こえてきそうな声だった。残りの三人が一斉に指で耳を塞ぐ。秘密会合の場所をわざわざ地下に設けたのは紀霊の大声のせいで機密が簡単に漏れてしまうのを防ぐため、というのは張勲だけの秘密である。

 耳鳴りが静まるのを待って、楊弘が聞いた。

「で、どこに向かったのじゃ?」

「えーと、一緒に脱出したのが劉(エン)州、劉揚州のお二人とのことです」

「劉岱と劉遙か……まぁた厄介な二人が拾ったもんじゃわい」

 閻象が言葉を継いだ。

「全くに。さて、如何ともしがたき事態。我々の立ち位置や如何様に」

「ええ、そろそろ本拠地を移動させねばならないようです」

 張勲の言葉に非難は上がらなかった。現実問題、それしかないというのはわかっている――袁術軍は苦境に立たされていた。袁家の名声を御旗に全土から人を募ってはいるものの、未だ領有するのは荊州の南陽郡のみ。劉岱の直轄地に隣接し、荊州全域を盤石の態勢で支配する巨人・劉表の影響力も無視できない。

「やはり、お嬢様が生き残るためには手段を選んでいられる場合ではないのう」

「とりあえず予算は頂戴してきました」

 じゃじゃーん、張勲は先ほど袁術から印綬をもらった書類を見せた。蜂蜜補充計画と題された軍備増強計画である。整えられた軍備をどこへ振り分けるのか、それを知るものはやはりここにいる四人だけだった。もはや文書ですら残せない極秘計画は、その証拠となるものは全て焼き払ってしまってさえいる。

 

 ――その名も、揚州侵攻計画。

 

 楊弘が頬に刻まれた深いしわをなぞりながら微笑んだ。

「中々、神経すり減らさなけりゃできん仕事じゃのぅ」

「あら、私はこの上なく楽しんでますけど?」

「お主は根っからの悪人じゃからな。老い先短い婆は今からでも善行積んであの世で楽したいのじゃよ……が、それも無駄な夢か。そんなに嬉々として騙せと言われるとのぅ」

「まぁ! 人聞きが悪い。私はお嬢様の安寧と喜びのためなら粉骨砕身火の中水の中!」

「それは誰も疑っておりゃせん。あのお嬢様をお慕いしておるからこそ、残った最後の四人なのじゃからな」

 

 ――袁術には人望がなかった。正直に言えば才覚もない。名門袁家の名声を当てにして人は集まってくるとはいえ、名門というだけで集うものに使える人材は少なく、目端の利くものはすぐに鞍替えしてしまう。

 入れ替わり立ち替わり人材は流動し、最後に残ったのがこの四人であった。何があろうとお仕えしようと決めた四人。袁術に希望も未来も抱いてはいない、極論すれば忠でさえ持っていない。

 まるで孫に見えるから――まるで娘のようであるから――まるで妹のようであるから――もはや例えることすら出来ない何か――それぞれが、それぞれの形で主君を愛した。

 はりぼてで着飾った袁術軍。その中核は、しかしどこに出しても恥ずかしくない結束で固く一塊となっていたのである。

 

「ま、何とかなると信じるほかあるまいて」

「そのとおりである!」

「同意」

 三人の仲間を見て、張勲はニコリと笑顔を浮かべた。

 その後、実務についての検討、今後の戦略におけるいくつかの重要な会議をこなした。袁術軍の中枢を担う四人が一同に会すのは中々難しいのが現状である。会えるときにとことん詰めてしまうのがいつものやり方だった。急務はやはり軍備の増強、賊の退治、孫策軍をどのように利用していくか、などであった。

 会議を終えたあと場は解散、張勲は自室に戻った。なるべく普段通りの歩き方を心がけ、そしていつもどおりの様子で部屋の戸をくぐる。慎重に鍵をかけ、周囲に人がいないかを何度も確かめた。

 袁術がいつ入ってくるかわからないので、張勲は急いで所用を済ませようと手を走らせた。それは、地下の会議ですら打ち明けていない、本当に自分一人だけの秘中の秘である。所用は文書。(したた)められた二通の手紙。劉遙。そして李岳――二通の密書が、白く細い指で厳封された。




美羽様がエンジェルすぎて

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